二度、三度と大きくエンジンを空吹かして漆黒のフェアレディZが第壱中の駐車場中央に停まる。

 僕はサイドシートのドアを開けて降り立つと逆光を浴びる校舎を見上げた。
 教室の窓から生徒たちが顔を出して僕を見ている。それと、傍らにいる明らかにやばい雰囲気を放っている改造車も。

「んじゃムサシ、あんがとな。マナもまた後で」

 垂らした前髪を上げて僕はムサシの額に口付けた。いきなりのキスに驚いたムサシはシートの上でのけぞる。

「な、なにやってんだコラ」

「いいじゃないかよ。それより今夜、忘れないでよ」

「ふふっ。『久しぶり』だもんねぇ〜」

 後席に座ったマナは含み笑いをこぼしてる。僕も色っぽい微笑みを見せる。ムサシは気まずそうに頬を染めていた。
 走り去るS130を見送った後、僕は鞄を肩に担いで学校へ乗り込んだ。

 教室には相田と鈴原がいたが、アスカの姿は見えない。落書きだらけの僕の机にはガムの食いカスがくっついていた。笑いながらそいつを剥がし、適当な生徒の背中に向けて投げつける。
 慌てて背中に手をやるそいつの姿を眺める。
 授業を聞く気もないので僕はS-DATをはめて昼寝する。

 昼休み、購買で買ったハンバーガーを屋上で食べていると、鈴原たちと彼の妹がやってきた。鈴原の妹、たしかナツミといったか。楽しそうに鈴原にじゃれついている。
 彼女は僕の姿を認めるとあからさまに顔をしかめた。

「ナツミ、碇はわしのダチや、仲ようせえ」

「だってー」

 もしかして、まだあの時のこと根に持ってるのかい。お互い誤解も解けたんだからいいだろ。それともマナのことか?
 ほれもうこのとおりピンピンやで。
 鈴原は勢いよくもも上げをしてみせる。

「シンジの前だから気ぃ遣ってんだぜ」

 相田が僕に耳打ちした。

 僕に言ってもしょうがないよ。
 僕はフェンスに背をもたれて座り込み空を見上げた。雲が真っ白だ。

 昼休みが終わってナツミは教室に戻り、僕は給水塔に登って昼寝する。
 下で鈴原たちが話してるのが聞こえてきた。

「センセはええんや、わしも借りがあるしの。せやけど霧島はあかん」

「いきなりナイフ投げて来るんだもんなあ」

「わしはああいうちゃらちゃらした女は嫌いなんや。センセの彼女やてゆうとったけど、前はあのリーとかいう黒い奴の女やったんやて?」

「ああ、ムサシな。三人とも御殿場じゃ名の知れた中学生だ」

「センセもなんであんな連中とつるんどるんや。ぱっと見じゃ、全然ツッパリって感じせえへんのに」

「幼馴染だって聞いたぜ。朱に交われば何とやら、ってやつじゃないのか?たしかに碇は強ぇけど、だからってめったやたらに喧嘩してるワケじゃないだろ。その辺は惣流見てりゃ…な」

「惣流もやったなぁ。あいつらのせいでクスリやら何やらに手ぇ出したんやろ?責任とれやっちゅうハナシやで」

 鈴原は次第に語気を強めていった。

 アスカ…か。
 去年はそれなりに仲がよかったような気がする。
 だけど今は、はっきりいって険悪だ。敵対してると言ってもいい。

 NERV本部に禁固を喰らっていた5日間、目を覚ましていた時間の方が短いかもしれない。アスカに殴られて意識を飛ばしていた時間の方が長い。やり返してもよかったがそんな気はしなかった。
 もう今更どうにもならないだろ、アスカも僕も。そんなあきらめが満ちていた。
 何が原因で仲違いしたのか思い出せない。

 だけど、鈴原。君たちはアスカの何だったんだ?
 アスカも第壱中でのことは、僕たちにはあまり話してくれなかった。

 洞木が親友だと言っていたが、彼女も半分あきらめてるんじゃないのか。

 中一の夏。小さい頃マナたちとよく遊んだ東名高速の高架へアスカを連れていき、石積み遊びを教えた。最初は上手くできなくてすぐ崩してしまって、ケイタにさんざん笑われていた。最後には顔を真っ赤にして泣き出してしまうアスカをムサシはいつも慰めていた。
 山岸と別れてから名も知らない女たちと適当に遊んでいたムサシだけど、アスカと出会ってようやく落ち着いたようだった。

 鈴原、君たちは知ってるのか。そんなアスカを。

 ある日いきなり髪をジェルで固めてきたアスカの姿が思い浮かんだ。鶏冠みたいに尖らせて立てた前髪が風に揺れていて、ストレートに流していた後ろ髪もトップに留め、ワイルドなウェーブをかけていた。

 おおアスカ、どーしたんよ急に?生意気に髪なんざアゲちまってよう。
 バッカ、『日本人はカッコから』ってゆうでしょムサシ?見てくれがショボかったらナメられんゾぉ?

 幼さの残る顔で無理して。僕とマナは微笑ましく見ていた。
 その一年後、再会したアスカは僕の記憶から大きく変わっていた。

 ククク…ナニよシンジ、ヤバそーなツラしちゃって?

 中一の頃はいちばん低かった身長も僕より高くなり、西洋人の血が入った顔立ちは美しさと強さを同居させていた。レッドメタリックの大きな単車を軽々と操ってしまうアスカに僕は寒気を覚えた。
 明け方の強羅を駆け抜けていったアスカのFX。赤毛が風になびいて尾を引き、爆音とガソリンの匂いを残していった。

 朝と夜の狭間に紅いピアスだけが輝いていた。

 僕と、ムサシと、マナとおそろいの紅い宝石。

 このちっぽけな石ころが僕たちの絆だ…僕たちはそこへ帰っていく。人類すべてがそこへ還っていく。

 白い女神が抱える黒球に吸い込まれる紅い宝石たち。その一つ一つが僕たちだ。
 そうよシンジ、コイツがアンタよ。

 すれ違いざまにアスカは僕を指差して見せた。唇の端を歪ませた鬼のような笑みを湛え、アスカは僕を見据えていた。

 左の耳たぶがいつになく疼く。

 青い空を見上げていると吸い込まれそうになる。このまま溶けていきそうだ。溶けてしまいたい。どこか遠くへ飛んでいってしまいたい。飛行機雲が長く伸びていき、風に流されて溶けていく。

「シーンジ。どーしたの、怖い顔しちゃって」

「マナ」

 鈴原たちが訝しげにこっちを見上げている。さっきの話を聞かれたのか?
 マナの着ている御殿場中女子制服のネクタイが僕の喉元をくすぐったく撫でる。僕は手をかざしてマナの耳に触れ、顔を起こして口付ける。マナは嬉しそうに僕を抱き寄せた。

「かなわんのう、真昼間から盛りおって」

 相田くんカメラカメラー。
 マナは手を振りながら僕を抱えて降りる。相田は冷や汗を垂らして苦笑いしてた。

「こないだもたっぷり味わったでしょ、リリィさんのお店で。
シンジはほんと凄いんだから」

 鈴原に身体を寄せたマナは上目遣いで鈴原のあごをつつく。マナにすり寄られて鈴原はたじたじだ。
 僕のことか。
 よく覚えてないけど、そういえばヤった気がするな。
 相田はたしか、アスカにボコられてのびていた。ムサシと鈴原とケイタと、それからウィルもか。四人分を突っ込まれて僕もひさしぶりにおなか一杯だったよ。

「そ、そりゃのう」

 なに赤くなってんだ。
 言っとくけど僕の本命はムサシだからな。でもすこし遊ぶくらいならいいよ。

「知ってるわよー?シンジったら、いつもムサシのこと熱い目で見てるんだもん」

 ばれてたか。
 微笑むマナの後ろで、鈴原と相田が顔を青くしている。
 言ってなかったか?あのパーティーの時さんざん見せつけただろ。

「わし、あん時は冗談でやっとる思てた…酔っ払ってなんや妙な気分になってもうて、でもまさかセンセ、マジでそっちの人やったんか?」

「鈴原お前、冗談で人のマンコにチンポ突っ込むのかよ?
そっちってのがどっちだかしらないけど。そうさ僕はゲイだよ。男が好きなんだ。男とヤリたいって思うぜ。だからな、御殿場じゃあ『基地の兵隊さん』によく可愛がって貰ったもんさ」

 ますます白くなっていく二人の顔が可笑しくて僕は吹き出した。マナも笑いをこらえている。

「このクラスだとそうだな、高橋くん辺りがタイプかなぁ。最近可愛い系にも食指が動くようになってきたんだよ、普段はマッチョばっか相手にしてるから」

「た、タンマ碇、そこでストップ。ちょいと俺たちにゃ刺激が強すぎる」

 口を押さえて相田が言葉を遮った。
 大丈夫かケンスケ、袋いるか?
 鈴原が背中をさすって介抱してる。その様子を見て二人の絡みをとっさに想像してしまう。悪くないと思うぜ、輝ける男の友情って奴だ。よくわかんないけどね。

 僕の気持ちはあくまで、この身に内包した『別の人間』の想いによるもの、だと思う。

 男と女って、別の種類の生き物だと思う。

 よく言われることだけど、こんな人間になって初めてわかった気がするよ。
 どちらの島にも属せない、ただ海を放浪するしかない。あるいは自分を偽ってどちらかの島にひっそりと身を寄せるしかない。糾弾され虐げられる恐怖に怯えながら。
 僕はきっと後者だ。
 彼らは僕をあくまで男として見てる。男を食いたい趣味人なんだ。僕はそんな種類の人間ではまったくない。肉体のシンボルがどうあれ、男を求める気持ちは自然なもの。それに違和感を覚えてしまった瞬間から…死ぬまで、一生僕は苦しみ続ける。

 それでも誰かに抱かれていたい。

 だから、たまたまいちばんそばにいたマナに縋った。
 彼女を本当に好きなのか、と聞かれるとたぶん返答に困ると思う。
 僕にまだ男性の能力が残っていた頃はともかく、今は射精はおろかインサートさえおぼつかない時だってある。といって媚薬なんか使う気はしない。この身体が、何年もかかってここまでたどり着いた身体がいっきに毒に染まって壊れてしまいそうな気がするから。
 僕がマナを求める気持ちは何なんだ?
 ただ寂しさを紛らわしたいだけか。
 それでいいのかな。
 僕はこの身体を見返りに与えられている、そうだろう。

 ムサシだって渋々僕に付き合ってるんだろうな。
 あるいはクスリで理性飛ばしてからでないと、男同士のセックスなんてやってられないだろう。
 胸があるからそれでもいくらかはマシか。

 そうさ、僕は男だ。この身体はそうなんだ。
 いつからこうなった?思い出せない。
















 管理人のいないアパートはすっかり錆とゴミに埋もれて、小さな羽虫がさまようように飛んでいた。

 僕とムサシとマナは2階の部屋に入り、鈴原たちに外を見張らせる。

 マナは相田に千円札を三枚渡して食事と飲み物を買ってくるように言った。

 僕たちが服を脱いでベッドに入るのを、マナはにやけ面を浮かべてじっと見ている。そういや最近綾波とよくつるんでないか?もしかしてマナも『そっち』なのかな。すこしだけ綾波に嫉妬。
 タメどうしで気があうんだろ。
 ムサシがそう言ったら、どーせ私たちぁオバサンよ、2年坊のあなたたちにはわかんないのよ3年生の世界はねえ、なんて嫌味をたれていた。

「なんか見られてると落ち着かないな」

 マナは口元に手を当ててクスクスと笑う。

「えー、その方が燃えない?生やおいショー、なんちゃって」

「見せモンじゃないよ、それにどこで覚えてきたんだよそんな言葉」

 言いながら僕は隣に座ってるムサシの胸に身体を預けていった。
 ねえ嬉しかったよ、あの時言ってくれた言葉。俺に甘えなって、言ってくれたよね。
 普段は抑えているはずの女言葉に切り替わる。

 肩に触れる手を感じて僕は目を閉じる。

 ムサシとマナに両側から見つめられて僕は独りぼっちだ。
 どっちに来るのシンジ?私か、ムサシか。
 どっちなのよシンジ。
 どっちなんだシンジ。
 答えてよ。
 決めろよ。

「そーいえばさ、明日…『命日』だよね。シンジのお母さんの」

 抱かれるのが怖い。
 身体が震えて動けない。僕はどうすればいい?やめろ。うるさい。

「いい根性だよな、墓参りの前に男と一発やってくるなんてよ」

「『お父さん』に会えるじゃん?そしたら」

 父さんの顔。
 父さんの眼鏡。綾波の部屋にあった。また見たい。っていうか、欲しい。くれ、なんて言ったら殺されるな。

 ああ最悪だ。

 目の前の唇に吸い付く。夢中でキスした。
 苦い唾液が喉の奥に流れ込んできて僕は鳴き声を上げる。マナの笑い声が聞こえた。
 しょっぱいのは涙?僕が泣いてる。

 泣いてんじゃねえよ。

 ムサシの声が僕を揺さぶる。そんな簡単に涙を見せちゃいけない、涙は女の武器って言うけど使いすぎはダメ。でも出るものは仕方ないじゃないか、泣きたいくらいの気持ちは本当なんだから。
 ぐっしょりと濡れてしまった下半身をすり合わせる。
 僕のすすり泣く声とマナの笑い声が混じってミックスジュースになって僕たちの身体をべとべとに濡らす。オレンジを手で絞れば皮から油が飛んで目に沁みる。絞りかすになって縮れたオレンジをマナに投げつけた。糖分をたっぷり含んだ果汁で顔がぬらぬらに光ってる。マナは舌を出してオレンジの汁を舐め取った。
 唇を首筋へ移して舌を這わせる。
 味わいつくさせてくれ。
 抱きしめると父さんの顔が瞼の裏に浮かんだ。

「『叔父さん』たちぁいっぺんも墓参り行こうとしなかったじゃん?覚えてくれてるのって、シンジとお父さんだけなんじゃないの」

 どうやったら手が届くんだろう。
 歳の離れた兄貴のことなんて知ったこっちゃないってことか。そういえば父さんの親戚ってほとんど会ったことがない、っていうか居るんだろうか。
 母さんにだって…義姉なら挨拶くらいしたっていいじゃないか。

 暗闇しか見えない。
 光が当たらないから見えないんじゃなく、本当に何も無い。

 父さんの周りには何もない。
 綾波が駆け寄ってきて父さんの腕を取った。
 僕も連れてってよ、僕もそばにいたいよ。父さん、どうして。僕もいっしょにいたいんだよ。ねえ綾波、綾波からも頼んでよ、僕を連れていってって。なんでもするから、父さんのためだったらなんでもするから、だから僕を捨てないで!!

 抱きしめてるのはムサシの身体。想うのは別の男。

 最低。

 艶やかな髪が目の前にある。匂いがあふれてくる。ムサシは僕の胸に激しく吸い付いて身体を揺らしてた。唾液に濡れた乳首が勃起してキラキラと光ってる。

 相田が乗ってきた自転車の音が外から聞こえた。

 おうケンスケ、遅かったのう。なんやその顔?
 いや、途中でアスカにばったり会っちまってよ。危うくカツ上げされるとこだったぜ。
 そら災難やったな。

 ビニール袋の擦れる音が聞こえる。

 あいつらまだやってんのか?
 せやもうずっとあのままやで。ほんっと好っきゃなあ。
 霧島もいっしょの部屋にいんのか。
 ほんまわからんでアイツラの趣味は。わしらとは別モンの人間や。
 ラーメン食うか?味噌としょうゆどっちにするよ。
 とんこつは無いんかいな。

 ムサシに突かれながら見るとマナもパンツを捲って自慰をしてた。
 僕は抱きしめる力を強くする。ムサシは渡さないよ、たとえマナでも。ムサシは僕のもんだよ。
 頬を抱く手のひら、生傷の絶えない拳。厚い胸板と背中、そのどれもがたまらなく愛しい。

 天井からぶら下がった蛍光灯の笠を、小さな蛾が一匹這っていた。
















 相田から巻き上げた金でアタシはみんなにコンビニのファストフードを振舞う。いつもの小岩井コーヒーを片手に、アタシは学校帰りの『彼女』を捕まえた。

 キョウジたちにはアタシがいいと言うまで絶対に手を出すなと釘を刺し、気づかない振りをして歩を早める彼女の正面へ回りこむ。
 そばかすとお下げ髪の少女は怯えた目でアタシを見上げていた。
 なに、そんなにビクビクしてんのよ。
 一年の時ぁ鬼委員長で鳴らしたアンタが。落ちたものね。

「聞いてんわよー?最近シンジと仲いいそうじゃない」

「あ…アスカ」

 震える声が耳をくすぐり、アタシは思わず吹き出した。甘いコーヒーがヒカリのブラウスにかかって茶色い染みを作る。

 くくくっ、アスカだって!聞いたぁ?この女アタシに対等<タメ>のつもりよ。

 フラッシュバックの向こうに見えるのは暗がりに揺れるランプの明かり。両腕を持たれて力なくうなだれる自分。破られた処女、そしてアタシを見つめるたくさんの男の目。床に散った血だまりにアタシは沈んでいた。

 ねーヒカリぃ、アタシたちぁ『友達<ダチ>』なんだからさー。『仲良く』してくれないと困るよねー。

 喉を焼く『熱い煙』を吐き出す。
 カプセルに詰めた『白い粉』をひといきに飲み込む。
 アルコールの冷涼感を残しながら腕に刺す『注射針』。
 そのどれもがこれから歩んでいく道だ。たくさんの先人が通った獣道。
 大事なのは『それ』に対する思い入れ。すべての手順を噛みしめるようにこなし、それは儀式。何が入ってるんだかわからない錠剤を湯で飲んでハイ終わり、じゃない。これから自分は旅立つ、その心構えが大事なんだって。ろくな覚悟もなしにやったって、馬鹿が『事故』って死ぬだけだ。
 アタシたちは『倫理』『道徳』から外れることをやってる。
 ロクデナシと言われたって構わない。だけどだからこそ、自分たちがやってるのがどういうことなのか、どういう原理でそうなるのか、理屈は知っておいてもバチは当たらないんじゃないか。

 そうでしょ、シンジ。いつだったか二人でエクスタシーを打った時、訥々とアタシに語ってくれたこと。

 アタシはアンタのこと覚えてるわよ。

「そろそろさー、自分がどっちの『シマ』につくか決めてもいいんじゃない?
『NERV入り』が決まったアタシか…それとも、『マナの犬』のシンジか…」

 震え上がるヒカリの瞳にアタシの表情が映りこんでる。
 それはきっとすごく哀しい。
















 蒸すような部屋の熱気に携帯の無機質なベルが割り込んできた。
 ムサシは物憂げに僕の身体を離す。

「んだよ、こんな時間に…ああ、ケイタか。どーした」

 携帯を片手に、腰に毛布を被せて、言葉少なに会話してる姿を見つめる。

 僕は胸に手を当てる。心臓に杭を打ち込まれたように切なさが胸を締め付ける。縋りたい、誰かの身体に縋りたい。肉体を求めてる。それなのに、僕のペニスはピクリとも動きやしない。

「何だって…?マジか。わかった…っておいシンジ、ちょっと放せ、そんなひっつくな」

『なんだ、シンジもいるの?お楽しみ中悪かったかな』

「冗談言ってる場合か。ともかくすぐ行く。基地の第4ゲート前でいいか」

 通話を切る。
 僕はムサシの腹に胸を押し付けて見上げた。

「悪りぃ、ちょっと出なきゃなんなくなった。今夜は仕舞いだぜ」

 そんな。僕は瞳を潤ませる。

 しょーがねえだろ。足りねえんならマナにでも相手してもらえよ。
 えーそれはどうかなぁ?私も今夜はねー。

 ムサシはベッドから降りてシャツを羽織る。たくましい筋肉が隠れるのが惜しい。僕は裸のままムサシの肩を抱いた。
 お熱いね、おふたりさん。
 下なんて隠さないまま抱き合う。

 それがお前が慕われる理由かもしんねえな。馬鹿正直過ぎんだよお前は。

 ばか、ムサシ。

 僕とムサシは長い長いキスを交わす。
 マナは玄関のドアを開け放ってなにか叫んでいる。
 鉄階段を登ってくる足音がして、玄関の前にしゃがみこんでるマナの姿が見えた。

 腰から力が抜けた僕はその場にへたり込んで動けなくなった。
 ムサシは出がけに、マナにしゃぶられてる鈴原の背中をどついて降りていく。ややあってエンジンをかける音が聞こえ、タイヤをきしませて黒いZが夜の街へ飛び出していった。

「ふっふっふ、ほらートウジくん、『らぶりー☆シンジ』よー。もうすっかり出来上がってるから、お好きなように召し上がれ♪」

 言いながらマナはブラウスを脱ぎ、鈴原のジャージを下ろしていく。僕は惚けた顔で仰向けになって見上げていた。

 ダメだよ。僕にはムサシがいるんだ。

 こないでよ、僕のそばにこないでよ!
 だから僕は独りぼっちなんだ。

 僕はもういい。だから君たちで楽しめよ。

 聞いてんのぉ?ト・ウ・ジ・くん。

 マナは下着だけの姿になってベッドに腰掛け、僕の萎びたペニスを足先でいじりながら、立ち尽くしてる鈴原を見上げた。
 相田はどうした?また外で気絶中か。

「ねぇトウジくん、ヒカリちゃんって居るよねー。彼女シンジのこと気にしてるみたいよぉ。シンジってほら、見ての通り手ェ早いからぁー。どうなんだろうなぁー。ねえ、気にならない?」

 ほらほら反応してるー。

 マナは鈴原の股間を指差してケラケラと笑った。拳をブルブルと震わせていた鈴原がいきなり僕を飛び越してマナに掴みかかる。
 いい加減なこと抜かすな!そないなこと、イインチョに限ってあるはずないやろが!!

 えぇー。

 お前こそ、お前こそなぁ…わしはどうしてもお前が許せんのや霧島!言え!お前やろ、シンジや惣流をあないに染めたのは!

「あら、よくわかったわね。そうよー私よ。シンジの『お世話』は私がやってるから。もちろん『イケナイおクスリ』の手配もねー」

 アスカさん?さあ、彼女ぁよくムサシと遊んでたよ。私は知らないなー。

 鈴原に頬を張られたマナがベッドに沈んだ。それでもマナはすこしも堪えずに続ける。鈴原の後ろ姿が震え上がったのが見えた。

「うふふ…おっけーOK。それじゃー始めよっか、お楽しみを♪SMプレイも大歓迎だよー♪♪」

 戸棚からにわとりが飛び出してきて外へ駆けていった。
 外はもう真っ暗だ。雨が降ってきた。

 マナが脱ぎ捨てたブラジャーが僕の腹の上に乗っかっていて、僕はそれを手に取った。ベッドの上に放り投げる。鈴原が呻きながらヒカリ、とつぶやいたのが聞こえた。直後、マナの蹴りで腹を折られた鈴原が僕の上に落っこちてきた。

 僕はマナに引きずられて雨の街に繰り出す。

 道路端の垣根をカタツムリが這っていて、車道では轢かれたカエルが雨に溶けていた。カエルの溶けた水を飲んでるんだ僕たちは。水道の蛇口からカエルの死体が飛び出してくるぜ。カタツムリの茶色い殻を噛み潰したくなる。エスカルゴだ。こんにゃくみたいにプルプルしてるよカタツムリの肉。ナメクジ?粘液が酸っぱい。道路に飛び出した猫が車にぶつかってぺしゃんこに潰れた。あの黒猫さん?違った、ただのノラだ。ヘッドライトのビームが上下に細かく揺れながらカーブしてきて僕たちを切り裂く。
 高架のガード下からパトカーが僕たちを睨んでいた。
 大丈夫シンジは私が守るから。
 マナが手に持っているナイフの刃先から雨の滴が落ちていった。
















 その夜は綾波はずいぶん遅く、東の空が薄明るくなりはじめた頃に帰ってきた。
 部屋のドアを開けるなり、着ていた高級そうな毛皮のコートを僕に投げつけてベッドに身体を沈める。まだるっこしい毛の固まりを抱えて僕は鼻がむずむずした。きつい香水の匂いがする。いつもつけてるのとは違う匂いだ。

 ああそう、今日はユイ博士の命日だったわね。
 綾波はベッドの上でシャツを扇ぎながら言った。

 僕はクロゼットドアを開けてコートをハンガーに吊るす。

 うん、学校は半日で上がるよ。綾波は?
 私は碇司令が行くから一緒についていくわ。毎年そうしていたもの。
 あれそうなの、じゃあ去年とか僕のこと見てた?

「どうだったかしらね、いつも外で待っていたから」

 僕はあまり父さんとは話さなかったな、来る時間もわざとずらしたし。前は、こう見えてけっこうびくびくしてたから。去年は思い切って話しかけたけど、ちょっとかみ合わなかったな。
 墓標に二つの花束が供えられている。
 僕は毎年同じようにNERVの専用機で来ている父さんをずっと見送っていた。

 あなたのイメージを押しつけられても困ると思うけど?

 身体を起こした綾波は棚から安い赤ワインを取り出して飲んでいる。僕はコップに一杯貰い口をつけた。すこし日が経ってしまって苦くなっている。

「明日の父さんの予定とかわかる?できればすこし時間取れるとありがたいんだ」

「そうね。明日の夜は副司令と赤木博士とで『ルナコースト』での会食があるわ。そこでなら確実よ」

「僕、そんなトコに行くお金ないよ」

「言うと思ったわ」

 綾波はコートのポケットを指した。言われるままに中に手をやると革の札入れがあった。
 くれるの?
 冗談。後でちゃんと返しなさい。それと身なりもちゃんとして来ることね。

 僕は30枚近い紙幣が詰まった札入れを無造作に自分のポケットに押し込む。

「なんだったら今ここで、身体で払ってくれてもいいけれど?」

 それ、僕のこと判って言ってるのか?
 もちろんよ。
 綾波はコップに残った赤ぶどうの汁をひといきに飲み干して濡れた口を拭った。

 マナとレズってるくせに。

「知っていたの?霧島さん、自分でしゃべったのかしら」

「いやそんな気がしただけさ」

「そうそう、碇くんあなたそっくりの子が出てくる小説を見つけたわ」

 台所でやかんが湯気を噴いている。綾波はコンロの火を止めて、ビーカーに湯をすこしだけ注いだ。
 僕はさっきまで綾波が座っていたベッドに寝転がって天井を見上げる。
 いつの間にか入ってきていたらしい小さな羽虫が僕のそばを過ぎていった。
 綾波、蚊取り線香は無いのかい?

 答えないまま、綾波は机の引き出しからガラスパイプを取り出し先端の球になった部分に褐色をした結晶状の粉を入れた。細い透明な管が綾波の唇に吸い込まれ、赤い炎が揺らめきながら彼女の身体を焼いていく。吸い込まれる蒸気は蛇のしっぽ、ウロボロスの環。

 ビーカーの湯気が勢いを増して僕たちを包み込んだ。

「その子は自分の恋人を父親に寝取られるのよ。だけど後になって、彼女は自分と知り合うずっと前から父と関係を持っていたと知るの」

 ガラス球の中で粉が溶けてくすぶっている。水飴のようになった粉がガラスに反射して部屋中に広がって見え、僕はそれがこの世の姿なんだと思った。ちっぽけなガラスの向こうに閉じ込められて、あるひとつの力によって吸い上げられていくんだ。それが死ぬってことさ。
 綾波の胸が大きく上下し、パイプの先端の空気穴から吸いきれなかった蒸気が白く細い煙になって立ち上っていく。

「碇くん聞いてるの?」

 トリプタミンを炙って吸引する綾波の表情が次第に崩れ、溶けて見えた。
 僕は綾波に吸い込まれて、彼女の中に取り込まれてしまうんだ。

「ああ、たしかに似てるなあ。でもいつ知り合ったんだっけ、その子と?」

「少年は学校の屋上に登って、ロケットに向かって叫ぶのよ。山が割れて中から飛び出してくるのよ、ミサイルね。僕も君のように飛べるはずさ、って。でもミサイルは爆発しないの、それは作り物だから。街はにせものなのよ。学校じゅうにロケット花火を撒いて、そしたら本当に飛べるだろうってね」

 割れたガラスで僕は腕を刺す。
 ガラスがもともと嵌っていたのは駅のトイレの洗面台だ。僕は鏡に映った自分が憎くてそいつを叩き壊す。蛇口が血で濡れて、僕は風に血の匂いを乗せる。

「そして彼はヘリコプターに乗って空母に降りるのよ」

 モノクロームの写真を頭の中でめくる。
 金髪の少女と赤いエヴァンゲリオンが見える、だけど僕はそこにはいない。僕はその光景をビデオで見ているんだ。僕はパイプ椅子に座って映写機のまわる音を聞いている。ガギエルは変わらずゆったりと海を泳いでいた。

 僕は鈴原たちとゲーセンへ遊びに行った。僕にしては珍しくレースゲームの台に座り、『金持ちのシンボル』の赤い跳ね馬を走らせる。
 こいつはそんな生活には満足しないぜ。
 熱に浮かされたような『経済活動』に翻弄されながら、欲望まみれの人間たちに売り買いされながら、それでもただひたすらに速く走り続けようとするこいつは、きっと地球上のどんな人間よりも純粋で尊いんだ。
 真紅のフェラーリがイタリアの田舎町を駆け抜ける。
 マナの叩き出したコースレコードはまだ誰にも破られていない。

 綾波は首を反らして天井を仰ぎ身体を震わせていて、その姿が雪原に立つ渡り鳥のように見えた。目が白く濁り唇の端から涎が垂れて、それでも笑っている。僕もいっしょになって笑う。

「髪を金髪に染めた少年はずっと彼女のことを忘れられないのよ、だからひとりで逃げ出すの、だけど海の上で逃げ場が無いから乗組員の男に匿ってもらうしかないのね。
船室の片隅で少年は屈強な水兵に自分の身体を差し出すのよ、彼女と父親とのことを忘れるために」

 言葉の途中で息を吸い込んでときどき声が裏返っている。半開きの口から綾波の赤い舌が見えて、腹をふくらませた紅鮭が思い浮かんだ。魚の腹が切り裂かれて赤い卵がゾロゾロと流れ出してきて、パック詰めされてスーパーに並ぶ。その卵を僕たちは食べるんだ。赤い目玉が睨んでる、無数の目玉が食べ物の中に浮かんでる。

 綾波は吸い切ったパイプに新しい粉を詰めて僕に差し出す。ベッドのサイドテーブルの上でアルコールランプが燃えていて、綾波の影を壁に大きく映し出した。
 ランプの炎が揺らめいて、影が僕を見下ろして笑っている。

 んでそいつは女たちを次々手にかけていくんだろう?
 僕はパイプを咥えてターボライターで先端のガラス球を加熱し、出てくる蒸気を吸いながら言った。球状のガラスが光を曲げて、チリチリと炙られる粉が眼球一杯に張り付いている。
 空母の医務室で目を覚ますんだ、医者はごっつい黒人でな。
 ウィルも空母に乗り組むんだ、ドムもいっしょに。あいつは衛生兵の経験があるって言ってた、だから注射も上手いだろ。

「そして彼はね、空母が入港した港町で船乗り相手の商売を始めるのよ、街で引っ掛けた女を売春婦に仕立ててね。そしてある晴れた朝、堤防の先から海に飛び込んでしまうの」

 どこまでも広がる砂漠に無数の墓標が立ち並んでいる。僕はその間を歩きながら、僕もいずれ死んだらここにくるんだと思った。僕よりも先に父さんの方が来るか。でも、父さんはここに入れてもらえるのだろうか。どこか誰も知らないような場所でひっそりと死んでしまうかも知れない。誰にも知られることなく闇に葬られてしまうかも知れない。
 そしたら僕は父さんを追いかけていく。

 白い棘か針のような蒸気が僕の肺を突き破るのが見えて、僕は思わずパイプを口から離して咳き込んだ。綾波はニヤけた顔で僕を見やりながら再びコップにワインを注ぐ。コップの表面が海みたいに見えて、血の色をしたワインは海水だ。

「ねえ似てるでしょう碇くんに?私は一目見てそう思ったのよ。ああこれよ、私の中にある世界をこれはよく表しているわってね。初めて見る作家さんだったけれど、きっと碇くんも気に入ると思うわ」

「男の気持ちなんて判らないよ、僕には」

 いつになく饒舌な綾波は、今日は機嫌がいいのよ、とワインを僕に口移しで飲ませながら言った。

 明日は父さんに会うんだ、なんかドキドキするな。
 綾波は肩で笑い、コップの中の液体が揺れて波打って膝の上にこぼれた。

 仕事をしたいなら紹介してあげられるけれど?

 そういうのもな。割り切れるんならそれでいいかな、とは思うけど。
 僕は腕枕を組んで目を閉じる。綾波はシャワーを浴びにバスルームへ行った。

 父さんは去年と同じように、一人だけで墓の前に立っていた。

「なんか信じられないな、父さんがお墓参りなんて。ひょっとして毎年来てるの?」

 ああ、と力無い返事をして一度ちらとこっちを見たきり、背を向けたままで顔を合わせようとしない。
 父さんの背中に僕はじっと魅入られている。こうして近くで見ると、思ったより細い。背丈はあるけれど、たしか今年で48だったか、年齢よりもずっとくたびれているような気がする。
 ここに来る時だけはNERV司令という肩書きと鎧を捨てて、かな。亡き妻に想いを馳せる一人の男として。

 僕は一歩ずつ歩み寄る。

「母さんて──どんな人だったの?写真とかは無いのかな」

 なんとか会話を繋ぎたくて僕は話題を出そうとする。

 僕は父さんの横に並んで立ち、墓標に刻まれた名前を見る。
 YUI IKARI 1977-2004.
 風が僕たちの匂いを混ぜて運んでいった。見上げると、サングラスの横から父さんの目が見えた。寂しそうに見える、寂しいのは僕。

 シンジ、もう私を見るのはやめろ。

「え…?」

「ヒトはなぜかお互いを理解しようと努力する。しかし覚えておけ。人と人とが完全に理解しあうことは決してできぬ」

 ヒトとはそういう悲しい生き物だ。

「でも…っ、僕は!」

 喉の奥が締め付けられるように苦しい。
 僕は、僕は…。
 言ってしまっていいのか?眩暈がするくらいに空が眩しい。

 僕は、こっちに来て父さんを見て、その、気づいたと思うんだよ…自分の気持ちに。
 それすらも、ただの慰みに過ぎないさ。
 自分を嘲りながら僕は父さんの横顔を見上げる。
 僕を理解してくれる、理解できる人なんて…僕と誰かが理解しあえるなんて、僕と理解しあえる人なんてたしかにいないと思う。だけど、僕は…それでも僕は、父さんに…。

「時間だ。先に帰る」

 待って、父さん!!

 だめだ。また泣いちゃってる。ダメだ僕。言いたいことがあるならちゃんと言葉で言えよ。泣いたってどうにもならないだろ。身体を使わないと伝えられないのか?
 胸を両手で押さえて僕は顔を上げる。
 息子のこんな姿なんて見たくないか。
 どうなんだ?僕と父さんは血の繋がった親子、そのはずだ。だけど僕にとってそれは聞いた話としてしか実感が無い。父さんは?生まれたばかりの頃の僕を知っているはず。だけど、僕はその頃の父さんを知らない。つまり、想いは一方通行ってこと。

 はるか遠くでエンジンの出力を上げていくVTOLが見えた。
 キャノピーの天蓋に綾波の姿が反射している。

「今夜11時、ルナコースト27階のレストランだ。詳細はレイに伝えておく」

 はた、と涙が止まる。
 お前の気持ちとやらを私に見せてみろ。

 涙に滲んだ視界の向こうに父さんの背中が揺れていた。

 あくまで冷酷さを消さない父さんの言葉に僕は胸を打たれて、その場にヘナヘナと座り込んでしまった。腰が震えて立てない。地面に這いつくばったまま僕は父さんが砂煙の向こうに消えていき、やがてVTOLが飛び立って空に小さくなっていくのをずっと見つめていた。
 切なさが身体じゅうを満たしてる。たった数分の間に僕はすっかり心を奪われてしまっていた。最低だ。

 父さんと話していて…濡れるなんて。
















 ホテルの窓から燃えさかる街が見えた。
 最初は幻覚でも見てるのかと思ったがどうやら違うみたいだ。薄紅のネグリジェを着た綾波がバルコニーに出てじっと目を凝らしている。赤々とした炎に薄い布地が透かされて、綾波の身体のシルエットが浮き上がっている。僕はそんな綾波の姿を父さんの胸の上から見ていた。

「UN軍のVTOLが交戦しています。火線が交差しています、使徒ではありませんね」

 綾波の声は映画の吹き替えのように映像と剥離して聞こえた。
 まだ意識があやふやな身体で僕はベッドから降りる。父さんの携帯が鳴って、その直後に部屋のベルが鳴って赤木博士の声がした。

「司令、緊急です。直ちに本部へ。オモテに車を用意してあります」

「わかった。すぐに行く」

 ビルを包む熱せられた空気の向こうに黒い巨大なシルエットが見えた。大きさに比例して背丈が低い。人型ではない。

 ──トライデント!?

 ビルの谷間を縫って対空砲火が舞い上がり、蜘蛛の子を散らすようにVTOLが逃げ出していった。
 非常事態宣言は発令されず、人々はただ逃げ惑うだけだった。

「シンジ。これは今夜の分だ。とっておけ」

 父さんの声も上の空の僕には届かない。
 僕は綾波と並んでずっと、赤い陽炎に揺れるビル群を眺めていた。崩れ落ちるツインタワーが思い浮かんで僕はかぶりをふった。ビルに突っ込んで砂細工のように煙になって潰れるジェット旅客機が瞬く。

 背後でスイートルームのドアが重い音を立てて閉まった。続けてオートロックのかかる金属音。

 トライデント。
 吹き寄せる生温い熱帯夜の風が、僕の裸の肌を撫でている。

 僕はふらふらとバスルームへ向かい、浴槽に吐瀉物をぶちまけた。

 この身体が、こんな身体が憎い。
 シャワーを全開にして浴びる。いっそこのまま溶け落ちてしまったらいいのに。そう思って自分の股間に手をやっても、それは幼児並みの小ささになりながらもはっきりと存在を主張していた。
 剃刀を探したが無かった。僕は泣きながら笑ってた。
 部屋の化粧台の上に、父さんが置いて行った封筒がある。中身は幾ら入ってるんだろう。そんなのどうだっていい。あれはただの対価なんだから。そう名付けられた『コミュニケーションの方法』なんだから。
 腕に爪を立てて握り締める。肉が裂ける冷たい感触がして血の滴が落ちていった。ほんの数時間前、父さんが口付けた僕の胸を、もう立派に乳房と呼べるくらいのふくらみを血で汚す。僕の血は黒く濁ってるんだ。クスリと煙草のせいで毒を溶かし込んで、ドロドロに汚れている。今に脳ミソの血管が破れて僕は脳梗塞で死ぬんだ。
 シャンプーのボトルを押して出てきた白いクリームを口に入れようとしたら、綾波が僕の頭に飛び蹴りを喰らわして僕は気を失った。

 翌朝部屋に戻るとマナの姿は無かった。
 ムサシやケイタに電話しても繋がらない。
 昨夜現れたのが本当にトライデントだとしたら、あいつらの身に危険が迫ってるってことだ。ケイタの電話で出て行ったムサシ。基地がどうのとか言っていた。あれに乗っていたのが二人のうちどちらかなのか?
 NERVでも昨夜の移動物体が何なのかということはまだわかっていなかった。ミサトさんたちはずっと本部に詰めて情報収集に追われている。

 使徒ではないということなので僕たちはすっかり蚊帳の外だ。

 湖のボート乗り場で昼寝する。

 マナが一度乗ってみたいと言っていた白鳥のボートが数艘、ロープにつながれて風に吹かれている。君たちも紐付きなのか。自由にしてあげよう。
 白鳥たちのロープを切って僕はゴンドラに乗り、展望台へ上がった。
 芦ノ湖は鏡のように静まり返っている。
 ミサトさんの話だと昨夜の移動物体は御殿場の方角からやってきて、第3新東京市の市街地を突っ切って芦ノ湖に消えたそうだ。
 今も、この湖のどこかに潜んでいるっていうのか。

 マナ。ムサシ。ケイタ。

 いったいなにがあった?昨夜、何があったっていうんだ。

「リリィさんの店に行こうか」

 僕が店に入ると、リリィさんは水仕事の手を休めてあらシンジ君いらっしゃい、と言った。
 ムサシったらまだ帰ってないのよ、昨日またクルマ乗って出て行ったきり。
 僕は黙って席につき、氷水の入ったコップを口につける。

「あ、そうだ。ムサシから頼まれてたものがあったんだわ。これ、シンジ君が来たら渡してくれって」

 リリィさんが僕に小さな紙の包みを差し出した。
 フィリピンの民芸品を包んでいたらしい英語の文章が緑色のインクでデザインされ、へたくそな字でシンジへ、とマジックで書かれていた。
 僕はそいつをポケットに入れて、ありがとう、と言った。

 今朝から基地の人たちが慌しいのよ、昨夜来てた人たちも緊急招集をかけられてたわ。ウィル君もドム君も呼ばれて行ったの、昨夜は珍しくシェリーちゃんも来てたんだけどね。

 基地のすぐそば、目と鼻の先と言ってもいい場所で起きた事件ということで、戦自やUNも事実確認の為にさかんに活動しているようだ。
 今夜はたぶん、飲みに来るお客はほとんどいないだろう。
 戦闘機がけたたましくジェットエンジンの音を響かせながら上空を通過していった。急加速と鋭い旋回を行っているとわかる押し潰すようなドップラー音が僕の耳に届く。折り重なるソニックブームが窓ガラスをチリチリと震わせていた。
















 相田から携帯で呼び出されてミサトさんの部屋に行くと、昇進祝いとして焼肉パーティーが開かれていた。
 NERVの方はとりあえずひと段落したらしい。
 使徒ではないということで、本部に実害が無い以上今は無闇に動けない、という碇司令の判断だそうだ。

 ミサトさんは今までの使徒戦の実績により三佐に昇進するという。
 僕はおめでとうございます、と言ってからテーブルについた。鈴原と相田のほか、洞木と綾波も来ていた。アスカはいない。
 ペンペンがギャーギャーと鳴き声を上げてはしゃぎながら部屋を走り回っている。

 ほんまは試験勉強するはずやったんやけどな。
 焼肉をかじりながら鈴原が言った。
 腹をくくるのではなかったの?
 野菜サラダをボリボリと音を立ててかきこみながら綾波がはす向かいの席で鈴原にジト目をくれている。
 珍しく綾波から誘ってきた思てたら、これが狙いやったんか?

 なんのこと。
 サラダを口一杯にほおばった綾波はビールで一気に流し込んでいる。

「そういえばここんとこ加持さんの姿見ませんね」

「松代に出張とか言ってたけどねェ。おおかた女の尻追っかけて肥溜めにでも落ちてんじゃないの」

 早くもミサトさんは3缶目のビールを開けてる。

 ほどなく呼び鈴が鳴って加持さんが来た。
 よっコンバンワ、誰かのバースデイか?
 あたしの昇進祝いだけどね、だーれもあんたなんか呼んでないわよ。
 つれないなあ、せっかく松代の土産持ってきたのに。ワサビ漬けとサクラ肉。

 お久しぶりですね、加持さん。頂いてますよ。
 ははは、相変わらず健啖だなあレイちゃん。司令とはうまくいってるのかい?
 ええぼちぼちです。ただストレスにはさすがに勝てないようですがね。なんだかんだで歳ですから。

 さりげない加持さんの発言に鈴原と相田が凍りつき、洞木は顔を真っ赤にしている。ミサトさんは思い切り苦そうに顔をしかめてこめかみに手を当てている。

「ああああ綾波さん、そ、それってどういうことなの!」

「どうもこうも、そのままの意味よ」

 涼しい顔で相変わらず凄まじい勢いで綾波は食べまくっている。
 綾波は僕の顔を見てニヤリと笑うと再び洞木たちに視線を向けた。

「昨夜は碇くんも誘ったのだけれど、司令ほんとうに喜んでいたわ。知ってる、ルナコーストのスイートよ。例の移動物体事件はあそこのバルコニーから見ていたわ」

「ほんと?それは嬉しいな」

「ええ司令は不器用だからね、ああいう表現の仕方しかできないだけよ」

 ルナコーストゆうたら、第3で最高級ゆわれとるホテルやないか?
 そうなのか、高いとは思っていたけど。
 洞木は顔を俯けて不潔よ、不潔よとぶつぶつ繰り返している。

 まあほどほどにしとけな、俺からはそれくらいしか言えないや。
 加持さんは頭をかきながらホットプレートの横に土産物の包みを置いた。

 ありがとう、綾波。やっぱり父さんと話せて良かったよ。

「何を言うの急に。酔ってるわね」

 僕は綾波の手をとってしゃくりあげていた。

 そんな僕を見てミサトさんが苦笑している。空になったビール缶を転がしながら、酒臭い息を吹きかけて僕の肩を叩く。相田がいきなり叫び声を上げて床に転がった。洞木がなにかを叫んでいたが声が甲高すぎて聞き取れなかった。

「あっはっは、父親との語らいを思い出して泣いちゃうなんて、シンジ君もやっぱ『おっとこのこ』ねぇ〜」

「僕は男じゃ…って」

 あわてて口を押さえる。
 綾波は妙な顔をしてぷっと吹き出し、鈴原たちは引き攣った笑みを浮かべ、洞木と加持さんはきょとんとしていた。
 やがて酒が進むとみんなが楽しく笑い始めた。
 心地よく酩酊した僕は綾波に膝枕をしてもらっている。

 綾波、楽しかったのはほんとだよ。父さんに触れることができて…ほんとに夢みたいだった。僕はもう死んでもいいくらいだよ、だけどもう一度触れたいっても思うよ。ねえ綾波。僕はおかしくないよね、僕の気持ちはおかしくなんかないよね。
 父さんのことが好きなんだ。
 リーくんのことはどうしたの。
 ムサシも好きだよ。ケイタもマナもみんな大好きだよ、僕といっしょにいてくれるから、僕のそばにいてくれるから。変かな?
 誰かがそばに居てくれないと不安なのね。
 そうだよ、僕は寂しがりなんだ。だけどそれが普通だろ、誰もがそういう気持ちは持ってるんじゃないのかい?ただ僕は他の人間よりすこしだけ、そういう気持ちが強いってだけで、抑えが利かないってだけで。

 ええわかっているわ。だから安心して。

 綾波は優しく僕を撫で続けていた。ペンペンが気だるい鳴き声を出して僕の頬をぺしぺしと叩く。
 綾波のことが僕、羨ましいよ。

 ライフ・ゴーズ・オン、満足してた、すこしの希望だけで。待ってれば誰かが未来決めてくれていた。
 BGMにかけていたラテンミュージックが僕の気持ちを歌う。
 このユニット好きなんだよ、文化祭で僕とマナとムサシで演奏したっけ。

 ボーイ・キャン・シー、自分らしさを削って過ごしていた、代償に手に入れたのは古臭いモラル。
 そうさモラルやルールがどうした。
 だけど自分の中に引く最低限の一線、それは忘れていないはず。
 僕にとってそれは、エヴァに乗って戦う、生きる、それだけなのかもしれない。
 使徒。人類の敵。そいつとの戦いは果てしない非現実。だから僕は、今ここに存在しているということにさえ現実感を抱けない。
 綾波の瞳が僕を溶かしていく。

 ドラえもんに道具を出してもらおう。絵本入り込み靴で漫画の世界に飛び込んで、そして帰れなくなる。トリップに旅立ったまま戻って来れなくなって、そのまま死んじゃうのさ。
 だけどひとつも怖がることなんてないよ。
 綾波が居るじゃないか。
 マナが居るじゃないか。
 ムサシが居るじゃないか。

 だから僕は、父さんに抱かれることができた。自分の父親じゃないから。

 今までさんざんやってきたことだぜ。

 兄さん惣流て女しっとります?ほんまひどいんですわ、こないだも相田からカツアゲしとって。
 やめて鈴原、アスカを悪く言ってはダメよ。
 鈴原と洞木の言い合いが聞こえていた。すべての声が眠そうに、まどろんで、テープのスロー再生のように低く引き伸ばされて周波数が可聴域外へ逃げていった。


<前へ> <目次> <次へ>