戦略自衛隊御殿場基地の正面ゲートは堅い鉄の垣根に守られていて、中に入ることはできない。
 見張りの隊員がさっきからこちらを気にしている。
 よく近所の子供が遊んでいるからだが、今日はあいにくと誰もいない。
 時折アフターバーナーの音が轟き、官舎の向こうで戦闘機の離陸していく姿が黒い煙の尾を引いて陽炎の中に遠ざかっていく。甲虫のような平べったい機体に菱形の翼が突き出ていて、推力偏向ノズルがせわしなく動いている。尾翼にJSSDFと、それから874と白い文字でペイントされていた。

 綾波は僕の肩を乱暴に掴んで引き寄せる。

 ムサシ。いったいどこへ行ってしまったんだ?
 よろめいて僕は地面に倒れ、見上げた空は白く濁っていた。晴れているのだが薄雲が膜を張ったように広がっていて、人間の撒き散らす汚染が空を白く埋めているんだ。いつか見上げた空は青かった、それなのに今は白い、僕は泣きたくなった。
 綾波が僕の頭を蹴って、僕は地面を転がる。砂が汗に混じって顔にまとわりついていく。

 川で泳ごうぜ。こんな暑い日は。演習場のそばにダムがあるんだ、そこへ流れ込む川だよ。
 そのまま溺れて死ぬのね。
 ねえ綾波、違うんだよ僕は、わからないけど何かが違うんだよ。息してるだろ、空気吸ってるだろ、LCLじゃないよな。だけど水を飲んだら溺れるんだぜ、生きていくのに水は必要なのに、なんでだろうね、どこにも水はないよ、みんな乾いてて砂とアスファルトばっかりだよ。そうだ砂だ、砂漠なんだよ。黄色いよな、砂と、それから乾いた赤土だぜ。赤いよ、土が赤いんだ。水も空もぜんぶが赤いんだよ。

 トラックが黒煙と砂を巻き上げながら走っていき、僕は目尻を押さえてうずくまった。綾波がそのトラックに向かって石ころを投げ、狙いがそれた石は電柱にぶつかって音を立てた。

 あの頃に戻りたいよ、綾波だってそう思うときあるだろ?
 碇くんあなた狂ってるわよ、わからないの?あの夜からよ、第7使徒を倒した日から。セカンドと何があったの?

 わからないよ覚えて無いんだ、だけど夢を見た気がするよ、何かすごく恐ろしい夢を。未来かもしれない、過去かもしれない、そこはきっと地球だよ、未来の地球の姿なんだ。アスカもいっしょにいたんだけど途中でいなくなっちゃったんだよ。僕一人だけしかそこにはいないんだ。

 空が大きく反転して僕は頭から水に突っ込んだ。
 用水路に落ちたんだと気づいた時、僕を追って綾波が飛び込んでくるのが見えた。人のこと突き落としておいて何を言うんだよ?人間は浮くようにはできていないんだ。

 川底のヘドロに服が飲み込まれる。苦くて甘い泥水を口に頬張って僕はもがく。石鹸水を口に含んで舌が溶けていく溶けていく溶けていく。歯の隙間から膿があふれ出して溶けて油になってまた歯茎に染みこんで喉の奥へ落ちていく。アルカリで溶けてしまうんだ僕の身体は、ほら、胃の中味をぜんぶ吐き出す、内臓さえ吐き出してしまう、腸が口から飛び出してくる。茶色いのは胆汁だぜ。大便の色さ。

 水は重力に引かれて流れていく。この水路をたどれば海に着く?それともどこかの浄水場に突き当たって行きどまって、そのまま人間に飲まれてしまうんだろうか。

 護岸のコンクリートブロックにかじりついて僕は震えている。寒い。身体じゅうがぶるぶると震えて止まらない。ずぶ濡れの服が太陽に煮られて湯気を上げている。だけど寒いんだ、僕の身体はどこまでも冷えて凍りつきそうなくらいに。筋肉が凍死しても身体は、動く、魂、たぶん気持ち、感情、気持ちだけが動いていけそうな気がする、どこまでも軽く、空だって飛べるさ。
 ぬるま湯が僕を包んでる、その中の汚れの一つ一つまで感じ取れる。工業排水の重金属を嫌というほど溶かし込んだ汚水が僕の顔や鼻や耳の穴、わきの下、へそ、股間、足の指の間、あらゆるところに入り込んでくる。水に洗われて磨り減ったブロックの、セメントの、砂の一粒一粒が僕の手のひら指の先を撫でて押し込んで突き刺してる。人間ってこんなにたくさんのものに包まれてるんだ、みんな気づかないだけだよ。
 気づかないだけなんだよ、汚れじゃない、人間じゃないもの、細かい粉、地球、星々、そうたくさんのガラス玉だ。
 透明な球体の中に色とりどりのガラスが埋め込まれてる、見る角度によって平面に見えたり斜めに曲がってたり横一線になって消えてしまったり。そう、それがこの世の姿さ、ガラスなんだよ、ガラスは砂から作られるんだ、だからすべては砂に還るんだよ。
 神経に探査針を打ち込まれて、エヴァの気持ちもきっとこうなのかな、針が痛いよ、違う、痛いんじゃない、なんだろう、違和感だけはあるんだ。

 民家のガラス窓が光を反射していて眩しくて、僕は地面の上を転げ回る。

 変だろ僕、なんでこうなっちゃうんだよ。素直になれないのかよ。気持ちよくなれるはずなのにどうして、僕は?
 そのまま苦しんで死ねばいいわ、きっと痛みも無い。苦しいのはあなたが自分で自分の首を絞めているのよ、わからないの?

 僕だってそこまで酷くないさ、でも腕に注射ダコができるくらいまでやりたくはないよ、アスカの見たことがあるのかい?酷いもんだぜ、皮が固まってできものみたいになっちゃってるんだよ、もう針が刺さらないくらい。

 綾波の声がエコーをかけたように分離して広がっていく、一つ一つは薄くなって。だからいずれは溶けて消えてしまうよ。

 綾波がたくさんいるよ、水に浮かんでる。たくさんいるけど君はどこにいるんだ?

 探してみなさい。

 ダメだよリツコさんとミサトさんが邪魔してる。
 この水槽にはどこから入るんだよ?

 アスカもいないし、父さんも会ってくれないんだ。

 綾波の身体から赤い光の壁が衝撃波を作って飛び出していき、その壁に当たったたくさんの綾波が砕けて飛び散って無数の肉片になって沈んでいった。長い骨が転がるのがもどかしいよ、へし折ってやる。

 邪魔者はこれでいない。

 僕はミサトさんから拳銃を奪ってリツコさんに向けた。引き金が意外と重い。筋力がすっかり無くなってしまった僕では撃てるかどうかわからない。それでも引く。狙いがそれて、弾が水槽のガラス壁に向かって飛んでいく。綾波がまた赤い壁を空中に現して、同じように赤い弾頭をした9ミリパラベラム弾はそのATフィールドに弾かれて跳弾となって部屋をぐるりと一周し、最後にリツコさんが持っていた端末に当たってプラスチックのボディと液晶のパネルを叩き割った。

 水槽の中からは笑い声の残響がまだ続いていた。

 帰ろうよ、綾波。

 床に流れ出したLCLの水位がじわじわと上がっていく。ここもじきに沈むよ。

 学校へ行かなきゃ。日曜日はもう終わりだろ。
 廊下でムサシと会った。マナもいた。ケイタもいる。よかった、みんな生きてるんだね。
 僕は笑顔を浮かべて彼らに向かった。

 スリッパの音がして振り向くとアスカがいた。ムサシは僕を見ていない、アスカをじっと見つめている。

 僕たちの輪の中で孤立しているのが見える。
 僕は君を仲間外れになんかしたりしない、今までずっと仲良しだったろ、そうだろ、違うのか?握り拳に力が入り、アスカの持っている小岩井コーヒーの紙パックがわずかにひしゃげた。

 アスカは僕とムサシとマナを順番に見てから、ゆっくりと唇の端を吊り上げた。

「なに…いつまでそうしてんのよ?わかってんでしょうが。
『ソイツ』は結局…『アタシたち』とは『違う』のよ…?」

 わずかに頭が震えて、赤い髪がなびく。

 ムサシは黙ったままアスカの姿に魅入られていた。僕はマナの手を握り締めて、そんなんじゃない、と呟いた。

 だからか、だからなのか?
 僕を連れて行ってくれてもよかったじゃないか。
 僕の何が違うんだよ!?僕は君といっしょにいちゃいけないのか?

 お前は好きって気持ちを勘違いしてるぜシンジ。

 どうしてだよ!!

 御殿場駅裏の駐輪場がいつもの待ち合わせ場所だ。
 基地内外へ比較的自由に行動できる彼にとっては、こういう仕事はまさにうってつけなんだろうな。

「なにぶつぶつしゃべくってんだよシンジ?買うのか買わねえのか」

「ああごめん、買うよちゃんと。もう慣れたもんだろ、最近はそんなに大口客いないんだろ?」

「お前の知ったことじゃねえだろが」

 コバヤシという名前の金髪の戦自隊員は、以前ムサシがUN軍に捕まった時の戦自側の担当者だったらしい。その馴染みで僕たちともよく会っている。
 どうして戦自なんかに入ったんだ、と訊いたら、オレもそこの嬢ちゃんやムサシと一緒さ、馬鹿には警察か自衛隊しかねえんだよ。それにな、戦自<ココ>ならナンだって手に入るぜ、薬も女も、銃<こーいうの>だってなあ。高校ン時の連れもほとんど、オレが世話してやってんだぜ。
 サングラスを指で上げながら僕の眉間に銃口を当てる。ベレッタM92。UN軍の基地からくすねて来たな?僕は微笑みながらバレルを手のひらで撫でた。

 白い蛾が一匹、僕たちの間を通り過ぎていった。蛾が惹き寄せられていく街灯の下で、マナはたった今取引したばかりのホワイトウィドウをパイプに詰め込んでいる。あんまり溢すなよ、もったいないし跡が残ったらやばいからな、聞いてるのか?

 何言ってるのシンジ、自然の中で緑の中でやるもんでしょこういうの、ほら見てよ、深い深い森の中、鳥や虫のさえずりが聞こえるよ、ほら見てよ。

 目を細めて天を仰ぐマナの姿は神々しかった、漂ってくる白い煙とそれを溶かし込んだマナの吐息に包まれながら僕もいっしょにそう思う。

「それはそうと、コバヤシさん、親父さんはどうしてる?たしか前、何かの病気で入院したって聞いたけど」

「しらねえな、家族とはもう疎遠だぜ、肝臓がナンだったか、忘れたけどどうせ酒だろ、あのじじいは。お前んとこはどうなんだよ」

「相変わらずさ、父さんは」

「例の記事のスクラップ見つけてきたぜ、ちょうど連れにその手の収集が趣味な奴いてよ」

「そうか」

「ンなことよりケイイチロウの奴に会ったら言っとけよ、たまにゃコッチに顔出せって。うちのバンドの連中にも慕ってる奴多いからよ」

「相模さん?あのヒト今新横須賀の『キグナス』にいるって聞いたよ」

 綾波から聞いた、半月くらい前にリツコさんに連れられて行ったホストクラブで会ったんだと。楽しむのはそれはそれでいいんだけど、ホスト買いに走るとかそういう言い方は嫌だと、自分で言うなよと、そう思い込んでる自分に酔いたいだけだろと、例によってウイスキーをラッパ飲みしながら僕に愚痴を垂れていた。

「あン?オレに連絡も無しにか」

「あっちの方が稼ぎいいんだろうな、実質今の日本でいちばん大きな街だろ、新横須賀は」

「まあいいそのうち乗り込むさ」

 風にかすかに混じる煙の香りが鼻を軽くくすぐる。

「ムサシ最近見ねえけどどうした」

「ん。さあ、わからない」

 昼間リリィさんから貰った包みを取り出す。
 開けてみると中身は鍵だった。クルマの鍵だろうか。

「Zのスペアキーか。元気にしてるんだろうな、このオレ様が丹精込めて直してやったんだぞ」

「ああ、元気だよ、変わらず」

 形見とか、そんなのは僕の趣味じゃない。
 もし僕がこのキーを使うことがあるとしたら?持ち主を失ったしもべを、僕がそのものにするってことか。

 僕を思ってくれていた?マナじゃなく、この僕にZを託すって。

 そうだよな、きっと。

 馬鹿馬鹿しい期待はやめろよ。
 都合よすぎだぜソレって。
 でもじゃあなんで、わざわざ僕宛に用意してたんだよ。

 確かめよう。

 基地へ。綾波と一緒に行ったときは、何も確かめられなかった。

 アスカが待ってるから。

「アスカか、あいつも将来有望だな。横浜方面は今まで手薄だったからよ、そっちにパイプ繋げられれば渡りに船だ」

 あごの無精ヒゲを撫でながら笑みを溢す。

「どうかな、あんまり期待しない方がいいかもよ」

「土産だとっとけ、アスカにオゴってやれよ、あいつァいい娘だかんな」

「幻覚系はあんまり好きじゃないみたいだけど」

「食わず嫌いはいけねえぜ、ソレ一枚7500だ」

「ボり過ぎだろ」

「馬鹿野郎今LSDは貴重なんだぞ」

 跨線橋の上から見下ろせば線路や架線が血管か神経の束のようにうねりながら伸びている。一定間隔で連なるATSの地上端子が道標になって何百トンもある鉄の固まりを導くんだ、僕たちはその鋼鉄の棺桶に心臓を投げ込んで、運ばれていくんだ、死ぬためにな、朝が来て太陽が昇れば人々は歩き出す。

 線路の向こうに黒い球体が浮かんでいて、そいつは地上から何かを吸い上げている。

 影。影が浮いてる。

 お前のそれは実体じゃない、光を奪われたお前の力が及ぶ範囲、そうさシュバルツシルト半径。お前はブラックホールだ。

 重力の潮汐が地平線をかすめ、境界面から連れ合いを失った陽電子が飛び出してきて、そいつが起こすエネルギーがレリエルの姿を闇夜に浮かび上がらせてる。

 僕はマナを連れて御殿場市へ向かった。
 帰ろうぜ、僕たちの家に。

 空は今日もカンカン照りだ。クルマ通りはまばらで、老婆が杖をついてヨボヨボと歩いている。開け放たれた店の中を覗き込むと民芸品の柄杓がカウンターの上に乗っていて、みやげ物がボール紙の箱に詰められて西洋紙で包装をされて積み上げられている。
 軒先に吊るされた風鈴を指でつつくと小さな音が鳴って、幼稚園児だろうか、ピンクのノースリーブシャツを着た女の子が僕を見上げて微笑んでいた。

 山の向こうに雲が沸き立ち、むくむくと成長を遂げているのが見て取れた。あの雲の中にも使徒がいる、奴らはこの地球上のどこにだって潜んでいるんだ。

 晴れ渡った空に遠雷の音が響いた。
 スーパーセルが成層圏へ向かってそびえ立ち、生温い風が家々の隙間をくぐり抜けて雲に向かって吸い寄せられていく。ひと雨来そうだ。急ごうマナ。

 ねえどうしてわかるの?使徒がいるって、どうしてわかるの?

 マナが僕のシャツの袖を引っ張って訊く。
 わかるんだ、っていうより知っているんだ、綾波が記録を残していてくれたから。小説書いてるって言ったよね前に、あれはつまりこの世の歴史の記録なんだよ、死海文書って知ってるかい?あれは人類がこの星に生まれたときから既にあったといわれる古文書なんだ、そこには僕たちがたどる運命がすべて記されてる、セカンドインパクトのことも、使徒がやってくることも、全部さ。そしてこれからのこともね。
 怖いわ、やめてよシンジ、怖い。
 エヴァを人類が、つまり父さんと、ミサトさんのお父さん、彼らが見つける事も決まってたことなんだ。綾波がそう記録していたんだよ。
 知りたくない、未来なんて、知っちゃいけないのよシンジ!あなたは何を見たの?NERV本部で何を見せられたの!?リツコさんは何を隠しているの、あなたに何のクスリを飲ませたのよ!死んじゃうのよ、みんな死んじゃうの!!

 青い空に一本のダークブルーの光条が走り、そこから丸い空が二つに割れて互い違いにずれて広がってくる。

 ほらあれだよマナ、見えるだろう?地球には環があるんだ、土星や天王星とおなじようにね、でもそれをかたちづくっているものが違うんだ、アレは人間なんだよ、人間の魂とその器の残骸が宇宙に飛び出して、それでも地球の重力を振りきれなくて漂い続けているんだ、僕は綾波といっしょにそれを見下ろしていたんだよ。

 やめてもうやめて、シンジ!戻ってきてよ、行かないで、ひとりにしないで!!

 継ぎ目だらけのアスファルトに足をとられながら僕は走った。マナの声が四方八方から聞こえてくる、追いかけてくる。
 止まらない、止められるもんか。

「ついてくるんじゃない!」

 腕を振り払うとマナはきゃっ、と短く悲鳴をあげて道路に倒れ込み、走ってきたクルマが避けようとしてタイヤを鳴かせた。

 知ってるんだ、居る場所はわかってるんだ、だからそこへ行く。
 芦ノ湖に、あの湖の底に居る。

 アスカもそれは知ってたんだろ。

 僕と『同じ』だから。

 深夜の芦ノ湖にゆっくりと身を沈めていく巨獣がいる。
 トライデント級陸上巡洋艦「震電」。
 乗っているのかムサシ、僕が見えるのか!?

「お前がやんなきゃダメなんだよ…アスカはお前がやるんだ」

「どういうことなんだ!?」

 忘れんな、明日の朝6時、夜明けと共に国連軍太平洋第7艦隊が新横須賀沖にやってくる。ヤツらの狙いはこのトライデントだ。俺たちはコイツを守るために戦わなきゃダメなんだ、UNからも、NERVからもな、だから頼む、お前はアスカを抑えていてくれ。

 ムサシ!僕は、僕はどうなるんだ、マナは、マナは一緒じゃないのか!

「知ってるかシンジ、俺の身体には日本人の血は一滴も流れていない、俺は日本人じゃないんだ、だから俺が死んでもどこの国も気にしやしないんだよ。アメリカはインパクトの被害と復興を日本に押し付けておいて、そのくせ軍事力だけはぜんぶ掻っ攫おうとするんだぜ、陽電子砲をNERVが徴発してくれたのは今になって思えば幸いだったかもな、あんなものをアメリカに渡すわけにはいかねえ。だからお前も気をつけろ、できれば葛城三佐か赤木博士にでも伝えてくれれば助かる、アメリカは信用するな、たしか第一第二支部があるんだろう?3号機と4号機を建造してるって聞いてる、そうだ、お前また親父と会う機会があったら直接言えばいい、すぐにでもその2機を引き揚げろってな、今に取り返しのつかない事態になる、俺には見えるんだよ」

 潜水タンクのベントが開き、海水を機体内へ飲みこみながらトライデントが芦ノ湖へずぶずぶと沈んでいく。

「NERVは俺たちを奪う気だ、UNはこいつらを潰す気だ。わかるか、俺たちに味方は居ないんだ。お前も同じなんだよシンジ」

 どういうことだよ…!

 わかってるだろ、お前がクスリで飛ぶたびに俺たちは何度も見てたんだ、お前はどこかずっと遠くの世界からやってきたんだってな、俺たちはそんなお前にどうしようもなく惹かれていったんだ、マナもな。だから死ぬんじゃない、絶対に死ぬんじゃないぞ、お前が死んだら俺たちも消えちまうんだわかるか、わかるのか?

 ああよくわかる、綾波が何度も言って聞かせてくれている、そう、この世界はイミテーション、模造品でしかないんだ、綾波はそれをわかってるから、せめてもの、僕たちが生きていたせめてもの証として、小説って形でこの世界を誰かの心の中に残しておきたいんだろう。

 それは僕だ、僕なんだ、僕の中にいる誰かのために残しておくんだ。

 綾波、マナ。君たちはきっとすべてをわかってて、もう二度と現実には帰れないとわかっていて、その上でこの世界で生きていくことを選んだんだね。僕といっしょにいるたった数時間の間だけ、夢を忘れていられる、そう、だから生きてるってわかる、僕の中で生きてるってわかる。

 ミサトさんのクルマが猛スピードで横滑りしながら僕の脇に止まり、僕はNERV本部へ連れられていった。

 何を話されたのかは覚えていない。
 見覚えのある少女の姿が、エヴァのモニター越しに見えた。

 山岸…?

「これは救出作戦よ」

 救出?ふざけるな!
 ミサトさん、あなたはもう僕の中では味方じゃない、いや初めから味方なんかじゃない。NERVは使徒殲滅というお題目のためなら何でもやる、いや、それこそまさにお題目に過ぎない、本当の目的は人類救済なんかじゃない。わかってるのか?

 初号機の両サイドにつけた弐号機がバズーカを、零号機がアサルトライフルを構えて先行する。芦ノ湖に投下されたソノブイからのデータが送られてきて、レーダースクリーン上にトライデントの巨大な艦影がくっきりと浮かび上がった。来る。速い。あと5秒もしないうちに有効射程に入る。

 水面隆起、やがて煙った水柱が立ち上って、鋼鉄の龍がその鎌首をにゅっともたげてきた。

 マナは自分から志願して囮になった。ムサシを止める、そのために。

 トライデントの進路を遮るように弐号機、零号機が回り込む。
 僕は…どうすればいい?決まってる。ムサシを助け出す。UNにも、NERVにも、戦自にも君は渡せない、今の僕たちには力があるだろう?エヴァ、そしてトライデント。誰とだって戦えるさ。アスカを抑えろ、そういう意味だろう!!

 初号機を走らせてトライデントの真正面へ。弐号機の射線をふさぐ。

 マナの居るコンテナまでは距離500。この間合いではギリギリ手が届かない。

「やばいぞ…」

 高空に黒い鳥の姿。違う、アレは爆撃機!戦自のじゃない。UN軍が持つ最強の戦略爆撃機、スピリット・オブ・ヴァージニア!!

 アメリカの魂なんて、ふざけた名前をつけた鳥が僕たちを狙いに定め、ウェポンベイを開いた。あの鳥だよ、あいつだ、アイツを殺すんだ。あいつを殺さなければ僕たちが死ぬ、わかるだろうムサシ、コイツらなんかに構っている暇は無い!!

「綾波ッアスカッ!!マナを守れ、二機がかりでATフィールドを展開すればあのコンテナをすっぽり包み込めるはずだ!ムサシ、聞こえるか!!奴は僕たちごとすべてを吹き飛ばすつもりだ、早く、スタンダードは積んでるんだろう!?早くしないと、投下されたら終わりだ、N2爆雷が来るぞ!!」

 ミサトさんが何か叫んでいたが聞こえない、なんてしゃべってるのかわからない。

 爆撃機を護衛するトムキャット編隊が巨大な機体を翻らせて鋭くヘルダイブしてくる。とっさにパレットガンを向けるも、拳銃で戦闘機を狙うのは無理だ。弾丸は虚しく弧を描いて空に消えていく。

 トムキャットが放ったサイドワインダーが零号機をとらえる。これだけエヴァ同士が至近距離に固まっていては、ATフィールドも相互干渉で中和されてしまって使えない。2本のミサイルが零号機の左肩に当たってウェポンラックが爆発して吹き飛んだ。爆風が周辺の木をなぎ倒し、衝撃に零号機が膝を折る。

「綾波ッ!!」

 叫ぶ間もなく、今度はトライデントの機体が突然傾いで火を噴いた。見える、弾道が見える。第7艦隊だ。戦艦から発射されたトマホークだ、すぐに第二波が来る。迎撃しきれるか。やるしかない。

「カカカ…逝けぇッ!!」

 仰角をつけて構え、弐号機がバズーカを海に向かって放つ。
 トムキャットがいったん距離をとり直すために離れたその隙をついてトライデントが前進し、マナが乗せられたコンテナを腕にしっかりと抱え込んだ。

「マナ!今から格納庫の扉を開ける、そこへ逃げ込め!居住区へ通じるハッチがあるからすぐそっちへ移るんだ、これから不思議の海のナンとやらをかますぜ」

 ムサシが外部スピーカーで叫ぶ。
 パレットライフルを空に向けて撃ち放ち、トムキャットを牽制する。爆撃機はよほどの高高度を飛んでいるのか弾が届かない。悠然とこちらに向かってくる。既に投弾体勢に入っている。

 弐号機は弾の切れたバズーカを投げ捨てると、腰に差したマゴロクを抜き放った。空へ向けて一閃し、太刀筋が剣圧となってATフィールドの刃を飛ばす。るろうに剣心この後すぐ。赤い光波ビームがスピリットオブヴァージニアを掠め、エヴァにも匹敵する巨大な機体が大きく揺らいだ。トムキャットが反撃してくる。海神の銛、ハープーン対艦ミサイルが弐号機の胸と左の太ももに突き刺さり、燃えた血が煙になって赤い装甲板の破片が弾け飛んだ。

 マナを収容したトライデントが離脱を図る。逃げ込むのは太平洋だ。海に潜ってしまえば戦闘機や地上兵器は追って来れない。あとはUNの原潜艦隊を振り切りさえすれば僕らは自由の身だ。戦略自衛隊の図るクーデターは日本を揺るがし、世界を怯えさせ、そしてアメリカを叩き潰す!!
 彼らを、よく見知った米兵たちを、僕はできれば助けたいとも思った。
 悪いのは彼らじゃないってのはわかってるから。
 トライデントの機体後部に埋め込まれた6基のプラズマジェットエンジンが吼え、すさまじい土煙が吹き上がって離陸態勢に入る。

「乗れッシンジ!!」

「アスカ、綾波、援護頼むぜ」

 僕は初号機をトライデントの背中に飛び乗らせ、ケーブルをパージする。内蔵電源が5分間ってのは、それはつまりこの拘束具を稼動させておける時間がそれだけってことだ。初号機が本当に目を覚ませば、そんな時間制限なんか関係ない。つまりあれだ、ドラえもんのポケットに入ってる人間あやつり機。あれで眠りながら動かされてるのと同じなんだよ、エヴァは。
 目覚めてくれ初号機。食事がほしいんなら、今頃たぶん海の底をノソノソ歩いてる釜蜘蛛が居るだろうからそいつを食えばいい、ついでに使徒がいればUNも手を出せないだろう。

 シンジ、待…っ!!

 アスカの声が音速の壁に取り残され、トライデントが最大加速で発進する。追いすがるミサイルに向けて後部CIWS25ミリレーザーバルカンが火を噴き、いくつもの炎輪が舞う。

 第7艦隊だ、さすがに全艦出撃は無理だったみたいだな、オーバーザレインボーはいない、戦艦もミズーリとウィスコンシンの2隻だけだ。イリノイとケンタッキーはガギエルと相討ちになって沈んでる。空母が3隻、キティホークにインディペンデンス、もう一隻はわからない。紡錘陣形をとってその後方に戦艦2隻、巡洋艦と駆逐艦が10隻近く先陣を切っている。

「アイオワとニュージャージーは二次大戦で沈んでるからな、撃沈したのは帝国海軍の最強戦艦大和と武蔵だ、知ってるか戦艦武蔵はフィリピンのレイテ湾を守るためにアメリカ機動部隊相手にたった一艦で戦ってそいつらを撃滅したんだ、浅瀬に艦を乗り上げて地上砲台と化してな、上構が破壊されつくして砲が最後の一門になるまで撃ち続けたんだ、フィリピン国民にとってはまさに戦神なのさ、だから俺のオフクロはその栄光の戦艦の名前を俺に付けたんだよ。俺はこんなところでくたばるわけにはいかねえぜ、原潜だろうが何だろうが俺は負けない、必ず生きてまた、お前たちといっしょに暮らすんだ」

「ああそうだ、このままどこへだって行ける、海はひとつだからな、世界中のどこへだって繋がってる。ミッドウェーを越えてハワイへ、真珠湾へ乗り込もうぜ」

 リメンバー・パールハーバー?

 地球自転や重力の影響もあるらしい、南極が崩壊して海面が上昇したとはいえ地域によってはさほど水位の変化の無い場所もあるんだそうだ。

 ハワイでならきっと幸せに暮らせるさ、ウィルも来るって言ってた、知り合いの黒人も多いって、あいつら面白いからな、いっしょにいると飽きないよ。みんなで歌うんだ、きっと幸せさ、酒も音楽もあるし海には魚もいるし果物だって美味しい、マリファナも上質のものが穫れる。あそこは今でも地上の楽園だぜ。

 艦列を正面から突っ切り、すれ違いざまに艦首127ミリ砲の速射を浴びせていく。
 先頭艦から最後方のキティホークまできっちり36隻、全艦の艦橋に狙いたがわず砲弾を叩きこむ。
 現代艦は艦橋のコンピュータシステムをやられたら機能しないからな。
 得意げにつぶやくムサシ、そこへマナの声が割り込んできた。コクピットまでようやく這いずって来たのか。

 ねえムサシ、ケイタは!?ケイタは無事なの?

 心配いらねえ、格納庫に潜り込む時にちょっとあってな、今は戦自病院だ。大丈夫、榛名三佐と天城一尉がうまくやってくれてる、心配するな。俺たちはただ襲いかかる敵を倒して生き延びればいいんだ、だから心配するな。

 リュ…、天城さんが。
 マナわかってる、だから気にするなよ。

「着水するぞシンジ、振り落とされんなよ!すぐに急速潜行する」

「ああっいいぜ!バッテリーを待機状態へ移行、活動停止まであと7時間28分」

 振り向きざまにパレットガンを撃つ。マグナム弾はゆるやかな弧を描いてキティホークに命中し、長大な飛行甲板が真ん中から真っ二つに折れてめくれ上がった。直後、格納庫で誘爆が起きたか、キティホークが一瞬身じろぎして瞬く間に巨大な炎の塊が噴き上がった。

 ベイビー・ゲット・マイ・ファイヤー・トゥナイト。ほとばしる爆炎も、飛び散る弾片も、海に飲み込まれていく命もすべてが模型なのさ。

 わかるか綾波、これが君の描いた世界だ!!

 僕は君の中で生きるって言ったよね、これが君の中の世界だよ!!

 海の中では視界は利かない。スクリーンをソナースイープに切り替えると3隻の影が映った。距離は5000。すぐに魚雷戦に入る。

 米原潜の放つアクティブソナーの音が何度も嫌らしく機体を叩いていく。
 トライデントの搭載魚雷は他の潜水艦と同じMk48だ。ただ最大速力はコッチが上、余裕で振りきれる。

 核魚雷とか撃たれたりしなければ…ね。

「着水音、でかい…これは!」

 落としやがったな、僕も心の中でつぶやく。
 原潜や水上艦隊まで道連れにする気か!なんでだよ、味方だろ!?

 それは僕たちの心さ、僕が抱く想いを綾波が描いてるから。

「N2爆雷、B-2に積めるタイプなら危害半径はせいぜい5キロ弱ってところだ、見ろ、最後っ屁の魚雷かまして逃げてくぜ。第7艦隊とももう10キロは離れてる、奴らはのんびり高みの見物かます魂胆だぜ!」

 初号機のソナーにも雷速最大の49ノットで接近してくる魚雷が映っていた。正面から扇形に18本、全艦全門発射している。避ける間もない。

 残された手は浮上しかない。

 初号機を動かせれば…ATフィールドを張るか?だが海中では衝撃波まで防ぎきれない、海底に叩きつけられて終わりだ。着底させる?

 頼む…守りたいとかそんな、高尚な感情なんか僕は持ってないんだよ。失いたくない、それだけだ。僕のものだから、僕の大切なものだから手放したくない。モノ扱いだよ、僕は、だからこんな僕の為にみんなを、たくさんの人間を巻き込みたくないんだ、それだって結局嘘っぱちの気持ちだよ!!

 トライデントが艦にマスカーをかけ、デコイを発射する。魚雷はこれでかわせるが、N2爆雷の爆圧だけは逃れられない。

 泣くなよシンジ、泣くな。俺たちはお前のことが好きなんだぜ、なにも気に病むことねえんだよ。

 その気持ちだって僕がそうさせてるんだろ!?君は、君たちの意思はどこへいったんだよ、僕が他人をどうこうできるっていうのか!?誰かに好きになってもらえる努力、それって人の心を操ることとどう違うんだよ、小説にそう筋書きを書けばいいだけだろ、僕には僕の気持ちしか無い、君たちの心はどこにあるんだ!!

 着水から7秒、爆発深度はおそらく海底。どこへ逃げようと、あと1分後には伊豆半島沖の海に巨大なきのこ雲が立ち上がって雲を円形に割って、また国内外の反核団体のホームページに載せられる画像がひとつ増えるんだ。

「浮上するぞ!艦をフルオートに、マナ、脱出ポッドへ急げ。艦を捨てる」

 シンジお前もだ、ここならまだ陸地までそんなに離れてない。なんとかエヴァのゲートまではたどり着けるはずだ。すまねえな、こんなことに巻き込んじまって。

 ソナーの画面が衝撃と共に消える。かわし切れなかった魚雷の1本がトライデントの艦首を直撃した。
 エヴァの機体を通して、おびただしい金属破壊音と浸水音が聞こえてくる。
 ムサシ、急いでくれ!間に合わない、もう!

 生きてたらまた、三人で歌おうぜ。

 白くなった視界の僕の目の前で、誰かが優しく微笑んでいたのを最後に僕の記憶は途切れた。

 夕暮れの芦ノ湖に僕はアスカといた。
 石ころを積んで、持って来た線香を立てる。マナが好きだったホワイトムスクのお香だ、インド製の高級なやつで、マナはよくこれを焚いて眠っていた。

 君だろアスカ。

「なんのことよ?」

 君がチクったんだろ、だからNERVが動いた!マナも、ムサシも…お前のせいで!

「はん、なに寝言ほざいてやがんのよ…?あのN2、あれでアンタは消えちゃってるはずだったのにね…ちゃっかり生き延びやがって」

「どこまで僕のことをわかってるんだ…?」

「どこまで?ふざけんじゃないわよ、『最初から』よ!あの赤い海からすべて、アンタがアタシのすべてを奪っていったこと、忘れるわけないっしょうが!!」

 打ち合う拳、アスカは泣きながら僕を殴っていた。

 忘れるわけが無いさ…
 忘れるわけが無い。
 いつだって。だってこの世のすべては僕が思い描いてるだけなんだ、あの空も、湖も、山も、星も月も、僕が思い描いたもの。
 だから言ってみればここは夢の中さ、目の前で僕の首を締め上げているアスカも僕の思いなんだ。

 あの時、デブリーフィングが終わって三人で本部を出たとき、僕たちは何を思っていたんだろう。僕たちのどんな想いがこの世界に反映されたんだろう。

 ミサトさんも誰も何も咎めやしなかった、それが僕たちを不安にさせて、僕たちは綾波の部屋でスピードを打った。注射針を突き刺した腕から血を噴き上げて、綾波は壊れた人形のように笑い転げ、アスカは呻きながら何度も壁に頭を打ちつけ、僕はどうしていたんだろう。

 ベランダの先、見下ろした先に黒い塊があった。猫だな、あの黒猫さん、久しぶりに会ったね。今から君のところへ逝くよ、綾波が引き攣った声で笑いながら叫んでいた、寝こ、ねこ、猫、転校生が来たって洞木が言っていた、たしか渚とかいう名前の、僕はそいつの隣に猫がいるのが見えた。みんなには見えなかったみたいだ。
 だけどほら、猫は今ここに居るじゃないか。猫を連れた少年がいるじゃないか。

 カヲル君、そこにいたんだね。

 I can fly.
 I need you.

 ワンモアファイナルする気にはなれない、このまま飛ぶぜ。

 足にものすごい衝撃が走って、でも痛みはなくて、ボンネットを軽くへこませた黒いスポーツカーが僕を見下ろしていた。僕はずっとソイツの鍵を握り締めていた、ムサシから渡された大切な鍵だ。地面に寝転がって見上げると綾波とアスカがベランダからこっちを見下ろしていた。

 空を飛ぶって言えば、いつだったか、ル・マンでメルセデスCLRが飛んだよなあ。あのドライバーも思ったんだろうか、死ぬ間際に、アーイキャーンフラーイって。それとも生きてたっけか?3回転して華麗に着地だ。僕は着地に失敗した。
 鳥が飛ぶ、大気の力ってのは恐ろしいんだ、エヴァだってATフィールドの力がなければ簡単に空を飛んでしまう、地球の重力から弾き飛ばされて宇宙に放り出されてしまうんだぜ、人間は大地に足をつけていなけりゃ生きられないんだ、だから鳥ってのは恐ろしい生き物なんだよ。

 殴り合いの末に、殴り愛の末に、アスカは駆けつけてきた警官隊を蹴散らしてパトカーを炎上させた。盗んできた単車をぶつけて。クルマってそんなに簡単に爆発するんだ、知らなかったぜ。
 血だらけの顔と服でアスカは僕に微笑みかけ、使徒だろうが何だろうが、『敵』がいれば振りかかる火の粉を払うのは同じでしょうが、と言った。

 そうだよな。

 同じさ。僕も、アスカも、エヴァも、使徒も、みんな同じ心を持っている限り変わらない、ぶつかり合う運命にある。ATフィールドがある限り。それが溶けたとき、争いごとは無い、だけど、存在として消えてしまう。互いに恨み辛みを残したまま。
 星がこうして空に輝いていられるのは重力があるから、重力が物質を引き寄せているからだ。重力が無かったら物質は散り散りになってしまって輝くことはできない。
 同じようにだ、僕たちはそれぞれ固有の重力を持っているから、こうして語り合い、愛し合い、そして憎みあう。

 既に日は暮れ、まばらに響くサイレンの音の波に僕は浮かんで呆然と立ち尽くしていた。燃えさかる炎の向こうに走り去っていくアスカのZ750FXを見送りながら。

 空には月が上がっていた。丸い満月だ。とてもどこまでも白い、真っ白、あれも砂の色なんだ。

 草むらに寝転がった僕のそばに猫がすり寄ってきて、もういいのかい、と言った。

 いいんだよ、これで。
 綾波の小説には無い筋書きだ、マナもムサシもケイタもね。
 だけど僕は覚えてる、僕の思い出の中にある。それでじゅうぶんだろう。

「何をしているの、碇くん」

「綾波」

 綾波は僕の隣に座って、いっしょに月を見上げた。
 きれいだね。
 ええ。知ってる、月の涙って。月がこぼす涙が地球に落ちたとき、使徒が生まれるのよ。そういう伝説があるの。だからね、いずれ槍を刺さなければならないわ、月に槍を刺すの。ロンギヌスの槍よ、知ってる?

 キリストを処刑したっていうアレか。
 そうよ、その槍は今南極にあるの、まもなく回収のための艦隊が派遣されるはずよ。UNも今回の事件で、NERVには頭が上がらなくなったでしょうからね。

「前にもこうして月を見上げたよね」

「ええ」

「今まで何人の人間が、何人の僕が、こうして空を仰いだんだろう、そう思うと僕は違う世界へ旅立てるような気がするんだ」

「今に自由に行き来できるようになるわ」

 綾波はいままででいちばん優しい声で、そっと僕の額をなでていた。

「そっか。僕にはまだ、よくわからない」

 猫と僕と綾波はいつまでも、夜風に吹かれていた。
 月がこぼす涙、それはあと何粒あるんだろう。

 僕はもう泣ける気がしない、何があっても悲しみを覚える気がしない。

 もし僕がもう一度涙を流す時があったなら、その時こそこの世界はサードインパクトを迎えて終わり、綾波の小説も最後のページを書き終えて筆を置くだろう。




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