いつも、最初に覚えるのは光だ。白くなったカーテンが光を明るいところと暗いところへ分け、揺らぎを作る。ベッドが黄色く照らされて、滑らかに曲げられた金属パイプが輝いてる。錆止めの塗料が艶を出していた。
 隣を見たが綾波はいなかった。学校か、NERVに行ったのか。
 そういえばこの部屋に時計は無い。
 僕も特に必要なかった。携帯には時計が付いているがめったに見ることはない。明るければ昼間、暗ければ夜ってくらいにしか感じていないから。

 足がぼんやりと暖かくなった。真夏の日差しはきつい。
 起き上がろうとしてベッドから足を下ろすと、やわらかいものを踏んづけた。眠気の残る目をこすって、濡れてた床が乾いてくる。

 マナが床で寝てた。

 気づいた時には僕の顔面にマナの右脚がめり込んでた。

 ひとのPCの中身勝手に見ちゃまずいんじゃない?床に散らばした服と本とCDケースの中からラッキーストライクの箱を探し当てたマナがライターをくれ、と僕のシャツを引っ張る。
 机の引き出しを開けるとオイルライターがあった。綾波、渋い趣味だなぁ。PCが起動シークエンスを終え、ログイン画面が現れた。綾波から教えてもらっていたパスワードを入力する。

 【女神へのラヴレター】

 デスクトップの隅にテキストファイルがあった。開けると、それはある売人と交わした取引の控えだった。

 一人でもけっこうやってたんだな。なんのこと?煙を吐きながらマナが訊いてきた。いや、なんでもないよ。僕はファイルを閉じた。
 埃のくっついた画面を撫でると液晶が揺らいだ。水が光を溜め込んで濁っていく。濁った水は川に流れて、海に消えて、空から雨になって降ってくる。リトマス試験紙を買いに行こうか、呟いたがマナには何のことだかわからなかったみたいだ。

 すべての源は光だ。
 汗でべとついた手の甲を撫でる。目を細めて、自分のまつげを見ようとする。これもぜんぶ光。じゃあ僕の頭の中には光があるのかな。
 太陽が見たくなってカーテンを開けた。空全体が真っ白になっていて眩しかった。次第に目が慣れてくると今日は曇りだということがわかった。太陽は見えない。代わりに、ビルの向こうに横たわるラミエルの残骸が見えた。
 タワークレーンが青い水晶を細かく切り分け、どこかへ運び出していく。
 死んだイナゴに群がるアリの大群が死骸を分解していく。あれは死骸なのだろうか、残骸なのだろうか。
 運び出された死骸は何処へ向かうんだろう。山奥に埋められるのか、海に捨てられるのか、食肉工場で缶詰にされるのか。昔映画で見た、人間の奴隷をすり潰して缶詰にするシーンが思い浮かんだ。全身の毛を抜かれて『綺麗になった』人間がベルトコンベアに乗せられて、回転ローターとプレスローラーを通り抜けて赤いバラ肉の塊になる。コンベアの下には受け皿があって、こぼれた血を回収してタンクにためておく。
 割れた体表の淵から黒い液体がこぼれて、乾いてこびりついていた。ポジトロンライフルの高エネルギーで体液が一瞬にして沸騰し、内部から爆発したんだ。あいつの中には光があったんだろうか。

「シンジっていつも、目に見えるものの向こう側を見ようとしてるよね。どうして、今そこにあるものを素直に楽しもうとしないの?いっつも、目の前と違う方を向いて、心ここにあらずって感じだよ。
あなたの言葉っていつも浮いてる感じがする。どこか遠い、別の世界を見ようとしてるみたい。
たとえばさ、今目の前に私がいるのって現実<リアリティ>だよね?だけど、シンジがなんかしゃべってるときって夢か、テレビか、映画か見てるみたいなのよ。生きた人間がしゃべってるって気がしないの。
ねえ私はどう、私はちゃんと生きてるよね?私の声聞こえるでしょ。
手を伸ばせば触れるし、目にも見えてるし、匂いだってちゃんとするよ。だけどさ、心、気持ちかな、ちゃんと今ここで向かい合ってるって感じられるかな?寝ぼけてないよね?あなたの意識はちゃんとこの世に存在してるよね」

 床に手をついて四つんばいになるマナは無駄のない体躯を持つサバンナの獣のようだった。汗でしっとりとうなじに張り付く柔らかい髪。

「うーん、そういうのってあんまり意識しないけど、マナがちゃんとここにいるってのはわかるよ」

「そこなのよ、あんまり意識しないっての。ムサシにもよく言われてるでしょ、あなた時々魂抜けたみたいになってるって」

 圧し掛かってきたマナの髪を、シーツを引っ張って拭いてやる。くしゃくしゃの茶髪が光を透かして赤く見えた。床に押し倒されながら、僕はマナのキスの雨を受けた。涎がこぼれて、喉と胸元にかかった。
 こないだ綾波にも言ったことだ、意思が希薄だってこと。
 自覚はしてるけど、なにをどうすればどうなるのかがわからない。生活を送る上で困ったことがあるかもしれないけどそもそも困っていることを認識できない、かもしれない、そう考えること自体が既に僕の中で遠くへ霞んでいく、頭の中の距離。果てしなく遠く、目を閉じればまぶたの裏が無限の闇。
 灰と汗の臭いが混ざって部屋を漂ってた。
 床にまだいくらも喫ってない煙草が燻って転がってる。じっと眺めてると、立ち上る煙が次第に細くなっていって最後には糸みたいになった。その間じゅうずっと、マナの鼓動が時を刻んでいた。

「学校、行かないとダメかなあ」

「NERVは?」

「あーそっちがあったか、うん、そっちには行かないとな。でも午後からだから平気だよ」

 つけっぱなしだったPCがオートパワーオフで切れた。起き上がり、マウスを動かしてスタンバイから復帰させる。表示された画面にはブラウザが立ち上がり、掲示板に連なる書き込みを映し出した。
 マナは洗面所へ向かい、いつものピルを飲む。水の弾ける音がすこしだけしてすぐに消え、僕はもうすこし聞いていたかったなと思いながら画面をスクロールさせた。いちばん下まで画面が降りて、僕もPCの横に置いてた小さい赤玉を噛み砕いて飲んだ。

 なんか面白い書き込みある?戻ってきたマナは床に寝転がり、背中に埃がくっついた。

 いや別に、平日だし。僕は過去ログへのリンクを押した。
 すこしのもたつきの後画面が切り替わる。

 文字の羅列を見たとたんに現実感が失われた。こいつはなんだ?僕はここにいるのか?この文章を書いてるのは僕なのか?眠りに入るときのような感覚がやってくる。かろうじて寸前で踏みとどまり、ブラウザを閉じた。肛門が身体からはみ出そうになって、僕は尻に力を入れて堪えた。

 PCをシャットダウンしてマナの方を振り返る。
 前のボタンをとじていないシャツ、胸のふくらみがのぞいてる。今ここで生きてるのは僕とマナだけなんだ、他のすべては砂だ、砂の固まりでしかないんだ。
 さらさらと崩れていく、壁もベッドも冷蔵庫もみんな、砂になって風に吹かれて飛んでいく。
 その後には何も残らない、真っ白。うん、真っ白だよ。声が聞こえた。マナの声?

「眩しいから」

 マナはベッドの上に登ってカーテンを引いた。部屋は再び薄暗くなる。
 もう一度夢を見たいな、僕は呟きながらベッドに戻った。後退ったマナの足が僕の腹を踏んづけた。別に痛みはなかった、痛みが何のことかわからなかった。眠いのかな。じゅうぶん寝たはずだけど、目を閉じると父さんの顔が浮かんだ。何で今思い出すんだよ、何か言ってる?

 荷物は佐世保を出て、今は太平洋の上だ。

 父さんが誰かに向かってそう言った。部屋は同じように薄暗くって、でも無駄に広くて、それでいつものようにガラス越しだった。
 佐世保。佐世保って何処だっけ。女の子とカッターナイフ、違った、九州の町だったな。たしかUN軍の港があったなあ。新横須賀、呉と並んでいつかは見に行きたい軍港だって、相田が言っていた。

 僕の胸の上にマナが寝そべってる。
 腕枕を片腕だけ解いて、髪を撫でた。マナの髪の匂いがした。もっと近くで感じたくなって僕はマナを抱き寄せる。やわらかい、人間の身体。抱きしめたい。

「大好きだよ、シンジ」

「うん」

「ずっとこうしてたいね。一日じゅう、あったかいお日様と甘い水とやさしい風があって」

 肩を震わせて僕は微笑んだ。いいよな、そんな夢みたいな暮らし。よく夢で見る、最近はそんなに見なくなたけど、ひとつの理想郷ではあるよなあ。丘の上に小さな家があって、井戸とにわとり小屋と風車があって。
 ヨーロッパの童話みたいだね。世界名作劇場かな。私も好きだよ、マナが僕の耳たぶをつまんではじいた。

 僕は起き上がって、対面座位の姿勢にした。
 マナの胸を目の前にして、唾をすする。堪えきれない悪笑をマナが浮かべた。

「ほんと、可愛い人だねシンジって。男としちゃあ正直どうかって思うけど」

「それはひどいな」

 僕はマナで、マナは僕で。覚めかけた眠気が再び僕を包む。

「エヴァに乗るとさ、ずっと高いところから景色を見渡せるだろ。地球がすごく小さく感じるんだ、自分が大きくなってるからね。地平線がほんとに丸く見えるんだよ。鳥だね、鳥の目線なんだ。そこで僕は思うんだ、もっと高く昇れば地球が小さくなっていって、しまいには模型みたいになるんじゃないかって。そうしたら、僕たちは世界ぜんぶをミニチュアで作ることが出来ると思うんだよ。
マナもトライデントに乗ったことあるならわかるだろ?あれはそうだなあ、兵器だから、やっぱり町が模型みたいに見えるんじゃないかな、紙かブロックで作った建物を壊しちゃうように。砂のお城かな。
そう砂なんだ、人の造った町はみんな砂に還るんだよ。小さい頃砂場で遊んだだろ?砂山にトンネル掘って、水とバケツで固めて、石っころの家を置いてさ。あんな感じさ、砂のお城はすぐ崩れちゃうだろ、夕方作って次の日の朝来るともう跡形も無くて。だから、模型を作って残しておきたいと思うんだ。
そうだ帰るときによく飴玉もらったよね、あの飴玉くれたおばさんは今どうしてるんだろう?
知ってる?綾波ってさ、小説書くんだぜ。よく聞かせてもらったよ、綾波の考えてる世界のこと。今度マナにも見せてくれるよう頼んでみるよ。
でその世界ってのが、今のこの現実世界をモデルにした奴なんだ、第3新東京も御殿場もちゃんとあるし、僕たちもいるし、マナもムサシもケイタもちゃんといるんだ、全部おんなじ世界なんだ、だからたとえこの世界が滅んでも記憶は残るって、そう思うんだよ。記録を残すってのは大変な仕事だと思うんだ。僕は綾波がうらやましいよ、僕の頭じゃそこまで考えられないからね。
ねえ、マナはどうだろう?マナもなにかそういうのって考えてたりするかな?」

 零れ落ちる涙の滴が見えた。きらめいて、砕けて消えた。
 話してるうちになぜか僕も悲しくなって、マナの胸に顔を埋めた。マナは泣いてた。綾波のことばかり話してたからかな?違うだろ。僕がここにこうしているからだよ。どうして?

 悲しいこと言わないで、私たちはずっと一緒だよ。のどを震わせて泣き声を絞り出してる。僕はマナの背中を優しく撫でてやった。

 雲の切れ目から太陽が顔を出して、カーテンが暖かくなった。

 ほらマナ、お日様が出てきたよ。お日様はいつでもどこでも、平等に僕たちを照らしてくれるんだ。

「違うよう、違うの。私は平等なんていらない…あなただけがほしいの」

 きつく抱きしめられて、僕はすこしだけ息が詰まった。LCLを肺に満たすときのように力を抜くと、僕の中がすべてマナに満たされて楽になった。
 深く息をするマナの胸がゆるやかに僕を包んでた。

「最近怖い夢みるのよ。そう、綾波さんが私たちの前に現れてから」

「怖い夢って?」

「わかんないの、ふつうにどこかの町や田舎の夢なんだけど、すごく独りぼっちで寂しい、怖いくらいに寂しいの。それで目が覚めた時ひとりだと、夢から抜け出せなくなっちゃったんじゃないかって思っちゃって」

 話しながらマナの顔が青ざめていくのがわかった。唇の色が悪くなって、乾いた唾液が唇の皮を割ってめくれ上がらせてる。僕はマナの頬を撫でた、だけどそれじゃあとても足りなそうだった。

「ねえシンジ、あなた危ないよ。見えるの、頭の中がぶよぶよの水ぶくれになって破けてぜんぶ流れていっちゃうの、あなたが水に溶けて消えちゃうのよ」

 シンジ、私もダメ、ダメなのは私だよ、私を犯してよ。泣き顔が醜くて、愛しかった。唇が割れて血が滲んでる。
 誰にでも姦られてしまいたい、うわ言を吐き続けてる。
 僕はマナをベッドに寝かせ、覆いかぶさった。シャツを広げ、ふくよかな二つの乳房をあらわにする。

「シンジ」

 犯してよ。私をレイプして殺してよ。
 胸の上下が速くなってた。抱きしめ、深くキスする。
 誰とやってももう満足できないの、寂しいのよ。
 マナの喘ぎ声は悲しげだった、僕はそんな声を潰してしまいたくなった。抱きしめて、ぺしゃんこになるくらいきつく抱きしめて、殺されてしまいたい。

「──僕が?」

「そうだよ」

「嘘だよね」

 いいや、本当。息が上がってるのは僕の方だ、苦しいのは僕のせいだ。だからそう、僕は殺されるんだよ。カラスが一羽、僕の目の前に降りた。地面をつついてミミズをほじくり返す。カラスはもがくミミズを咥えたまま僕の方を見た。
 マナ!?マナなの。真っ黒な瞳で僕を見つめるカラスの顔はマナだった。マナは無表情で首をかしげ、ピンクのミミズを丸ごと飲み込んだ。
 見上げるとたくさんのカラスの群れが電線にとまってた。
 ねえマナ、これがマナの見てる夢?
 空が黒いよ、紫色だ。雲もすごい、嵐だよこれじゃ。
 あなたの恐怖も一緒に混ざってるの、だから寂しさも二人ぶんだよ。二人でいても寂しさは紛れない、余計に酷くなる。だって二人の人間がいたら、いつかは別れなきゃならなくなるじゃない。どんなにたくさん人間がいても同じだよ、ただ別れの数が増えるってだけ。マナのカラスがしわがれた鳴き声をあげて、僕の頭に声が響いた。

 本当だ、あれは綾波?周りにいるカラスすべてに人間の顔が埋め込まれてた。
 綾波に、アスカに、ムサシにケイタ、それから鈴原に相田も。あっちのは委員長?じゃああそこを飛んでるのはミサトさん。リツコさん?父さんも、副指令も、マヤさんも、ええと、青葉さんと日向さんも。あそこで綾波と一緒にいるのはカエデさんかな。

 カラスたちの瞳がいっせいに赤く光り、眼球だけを残して肉体が粉々に砕け散った。血に包まれた骨と内臓が飛び散り、地面に血と肉の雨を降らせる。その後から羽がゆっくりと落ちてきた。赤い眼球は空中に集まって、空高く上がっていった。

 血の嵐を浴びた地面の上に猫がいた。黒猫は頭からかぶった赤い血糊を垂れ流してる。僕なのか、その黒猫は僕なんだな。

 目だ。たくさんの目が見えた。僕を見てる目。目玉が浮いてるんじゃない、空間が歪んで、そのゆがみが目玉の形を作って、僕が寝ているベッドと被っている毛布からたくさんの目玉が生えてきて空中に飛び上がり、それは残像を引くように分身して無数に増えた。その目の一つ一つが初号機の顔になって、僕を睨みつけてた。
 ひどい、こいつはきつい。こんなに派手な幻覚を見るのは久しぶりだよ、酒と一緒に入れちゃったのがまずかったのかな?いつ飲んだんだ、僕?

 いつのまにか再起動してた。画面にはまた別のテキストファイルがあった。
 細かい字が見えないはずなのに、視界がズームアップして文字が見えた。確実にクスリが効いてる。マジなんだな。ファイル名だ、だけどなんて書いてあるのかわからない、文字がわからなくなった。

 だけど増えていく、どこまでも。僕がここから消えない限りこいつは無限に増えて、やがて僕の脳味噌を食い破ってしまう。アイコンが白いモノリスになった。そいつの中央には、07の数字が刻まれてた。僕がいるのは7番目の世界なのか、第7の天使、滅びの天使が僕を呼んでるのか。
 違う、これは僕?僕が書いてる?書いてるのって綾波だよな。何を書いてるんだ?綾波が書いてるもの、僕をモデルにしてるって。小説だろ?このテキストファイルの中に僕がいるのか、これが僕の世界なのか、どうなんだよマナ!!

 飛び立ったカラスが黒い羽根を撒き散らして僕の頭上を通過していった。地面に落ちた羽根を拾うと、鋭い羽毛が指に刺さった。



 羽音が消え、ノイズがモーターの音に変わった。

「シンジッ!!」

 背後から響いた声に振り向く。見ると、アスカがプラグスーツを着てアンビリカルブリッジに立ってた。ここは初号機ケージ。そうか、シンクロテストが終わったところだったんだ。

「なんだよ?」

「弐号機がもうすぐ日本に着くのよ。ミサトと一緒にね、今から取りに行くのよ。アンタも来なさい、アタシの愛機ってやつを見せてやるわ。悪いけどテストタイプの零号機やプロトタイプの初号機なんか話になんないくらい『強い』わよ?」

 僕はNERVの大型輸送ヘリに乗せられた。ヘリポートに向かう途中でリツコさんが来て、ジェットアローンの発表式典にも呼ばれているのだけれど、とミサトさんを止めてた。まさかアスカをひとりで太平洋艦隊に行かせる訳にいかないし、あたしとあんたで分担しましょう、ミサトさんは手を打った。そんなわけで眼下には青い海が広がっている。やがて、豆粒みたいな艦隊の姿が見えてきた。近づくにつれどんどん大きくなって、艦隊の中央に空母が巨大な飛行甲板を広げていた。

「おおっ!空母が5、戦艦4、大艦隊だ!まさに持つべきものは友達だよな!」

 相田が座席を叩いてはしゃぎながらカメラを振り回している。
 2列縦隊を組んで戦艦と空母が並び、中央にひときわ大きい空母がどっしりと腰を据えている。旗艦空母の後方には大型のタンカーを改造した自走ドック艦が従っていた。その周りを巡洋艦と駆逐艦がびっしりと取り囲んでいる。

 国連軍が誇る正規空母オーバー・ザ・レインボー、相田がその名を宣言した。僕の前のシートでミサトさんは嘲笑うように空母を見下ろしている。

「よくこんな老朽艦が浮いていられるものねえ」

「いやいや、セカンドインパクト前のヴィンテージものじゃないっすか?」

「み、ミサトさん!誘っていただきどうもありがとうございます!今日のためにこの帽子とジャージ買うたんです、どうでっしゃろ!?」

 後ろで相田と鈴原がわいわいはしゃいでる。いちばん後ろの席でアスカはいつものように煙草をくゆらせ、キョウジとテルオが彼女の両側を固めていた。
 アスカがシートの背もたれに足を乗せ、鈴原の後頭部をどつく。

「アンタうるさい。ちったぁ静かにしなさいよ」

「なんや惣流」

「あぁっ!?鈴原テメェ、アスカさんに『上等』くれんのか!?おもしれえ」

 席から立ち上がろうとしたキョウジをアスカが制した。鈴原とキョウジは憮然として自分の席に座りなおす。
 アスカは弐号機のパイロットだし、鈴原たちはミサトさんが誘ったからともかく、なんでこいつらまでいっしょにくっついてきてるんだろう。アスカが無理やり認めさせたのかな。

 オーバー・ザ・レインボーの飛行甲板に降りた僕たちの一行は、見た目には不良の集団そのものだった。アスカが先頭に、その後ろにキョウジたちが控え、僕たちはいちばん後ろに小さくなって続いた。
 まずブリッジに上がり、ミサトさんが弐号機の引渡し手続きをしていた。艦長たちと何かもめていたようだが、僕はずっと壁やコンソールの計器類を眺めていた。
 ふとアスカがドアの方に目をやる。

「加持先輩、久しぶりですね」

「おっ、アスカか?ちょっと見ないうちにずいぶん逞しくなったなあ。葛城、君も相変わらず凛々しいな」

「なにそれ、皮肉ですか?──ミサト」

 艦長との言い合いに夢中で気づかなかったミサトの背中をアスカがどついた。

「あによアスカ、って、加持ぃ!?」

 ミサトさんの驚きようはアメコミみたいだった。僕はずっと後ろでその光景を眺めてる。壁に放り出された人形かぬいぐるみ。
 海は油を流したように真っ平らだった。
 色が深い青なのは、深海だからだな。

「何で!あんたがここにいるのよ!」

「弐号機のお守りでな、俺もこれから本部勤めさ」

「くっ…迂闊だわ、十分考えられる事態だったのに」

 僕たちはエレベーターに全員乗ってすし詰め状態になっていた。押すんじゃねえよ、キョウジが僕の足を踏んだ。
 アスカは隅に陣取り鈴原を足蹴にして空間を確保してる。加持さんとミサトさんは抱き合うくらいにくっついてしまい、お互いに顔を背けあっている。

 それから艦内食堂で軽食をとった。
 今付き合ってる奴いるのか?加持さんがテーブルに肘をついてミサトさんに訊き、吹き出したビールが辺りに散らばった。

「そんなこと、あんたには関係ないでしょ」

 缶ビールをテーブルに叩きつける。加持さんはわざとらしく苦笑して、僕たちに向き直った。

「シンジ君、アスカとは上手くやってくれてるかい?」

「僕の名前を?」

「そりゃ知ってるさ、この世界では君は有名人だからね。ってまあそれは建前で」

 去年俺がドイツに行く前はよくアスカから君のことを聞かされたよ、加持さんは僕の肩に手を置いて微笑んだ。アスカは君のこと、ずいぶん気にしてたみたいだぜ。笑って歯を見せた。

 僕の後ろでアスカがわめいていたがぼうっとしていたので聞こえなかった。
 キョウジとテルオは複雑な表情でアスカを横目に見ていた。

 ミサト、アタシ弐号機んとこ行ってるから。ピラフの皿を片してアスカが立ち上がった。シンジアンタも来なさい。僕の肩を引っ張って立たせ、キョウジたちにはここで待つように言った。

 僕とアスカはヘリを借りて自走ドック『オセロー』に乗り移った。
 元がタンカーのため乗り組む人員は少なく、艦内は静かなものだった。寒気がしそうなくらいに広い通路を歩く。
 アスカはポケットに手を突っ込んで、他の乗組員が見ていないのをいいことに煙草を吹かしてた。

 ドックに据え付けられた弐号機の元に着くまで、アスカは一言も口を利かなかった。

 へえ、弐号機って赤いんだ。
 うつ伏せの状態で磐木に固定された弐号機を僕は見上げた。アスカは近くのオイル缶に腰掛け、同じように弐号機を見上げてる。

「そうよ。こいつがアタシのすべて。アタシがずっと求めてたものなのよ」

 パーラメントの渋い煙が流れていく。

「シンジ、アンタにわかる?セカンドチルドレン、二番目の適格者。人類全体でまだ3人しかいないエヴァのパイロット、そしてこの初の制式型エヴァンゲリオン、こいつを操れるのは正真正銘、このアタシだけなのよ!」

 腕を震わせ、喫いかけの煙草を握りつぶす。
 アスカの目は遠いところを見ている気がした。僕と同じなのか、そう思って覗き込もうとしたらあごを蹴り上げられた。

 気安く近づくんじゃないわよ、アスカはまだ火の残った煙草をドックのプールへ投げ捨てた。水に落ちる前に火はつぶれた声を上げて消えた。

「だっから!アンタ見ててむかつくのよ、この幽霊人形みたいな男が!綾波もよ、アンタも、みんな、みんな気合の入ってない魂の入ってない、腑抜けたツラしてアタシから、すべてを奪ってく!!」

 僕の胸倉を掴んでアスカはつばを飛ばした。僕より10センチは背丈の高いアスカに掴み上げられて、つま先が床から浮いた。息が苦しくなって僕は手をばたつかせた。
 なっさけない男ね、アスカが僕の袋をひねり上げた。
 僕は声にならないうめきを上げて床に崩れ落ちた。腹を踏みつけられて胃が潰れる。アスカのスカートの下には愛液が垂れていた。

 蹴り飛ばされて僕は資材の山に突っ込んだ。パイプが崩れてきて僕の肩と背中を打ち据える。残響がかなり長い間飛び回ってた。

 アスカはゆっくりと僕に歩み向かってくる。鋼管パイプに埋もれながら僕はなぜか彼女が愛しくなって両腕を掲げた。アスカは走り出してきて僕に殴りかかった。とっさに上体をずらして交わし、アスカの拳がパイプを一本弾き飛ばしてプールに落とした。水が飛び散る音がして、しばらくしてパイプがドックの底についた鈍い音が響いた。

「それよ、その女々しい顔!っれがいちばんムカムカすんのよ!!あんたもあの頃からずっと変わっちゃいないわね、一生そうやって無気力に過ごすわけ!?アンタ将来のこととか考えたことあんのっ、あぁっ!!?」

「そう見えるか」

「アタシは『あの頃』とは違うわよ。本気で殴らないとか思ってナメてんと『即死』にしてくれんわよ?」

 心と身体がばらばらになる。自分の身体だって気がしない。この身体を動かせる気がしない。鋼鉄の塊に埋もれて僕は眠ってる。僕が眠ってる。僕の意識が眠ってる。じゃあ今目覚めているのは誰だ。この身体を動かしているのは誰だ。この身体は持ち主不明か?

「そうやって逃げる…ふざけろよシンジ!!」

 アスカの左足が僕の鳩尾に刺さった。噴き出した胃液がシャツを濡らし、ズボンの上にも落ちる。首をうなだれていると再び蹴りが横から襲い、頚椎が引き伸ばされるくらいに首がねじれた。

「立てぇ!シンジィィ!!」

「…バカヤロー」

「シンジィーーーッッ!!」

 転がっていった缶が黒いどろどろのオイルを垂れ流す。
 垂れたオイルがプールに流れ、黒い沈殿が漂う。

 ああ。僕の血は濁ってるよな。口を拭うと唾液が赤かった。

「なんでだよ」

 何でなんだよアスカ!!何が君をそこまでさせる。夢の中で僕は彼女を押し倒した。人形だ。アスカの形をした人形。首のところが破けておがくずと綿が飛び出してる。振り上げた拳にはどこまでも手応えがなかった。
 叩き据えられた肋骨が揺れ、胸膜の中で肺と心臓が飛び跳ねた。口から血の飛沫を吐く。弐号機を背にしたアスカの髪が燃え上がってた。

「アスカーァァァッ──!!」

 僕の右腕がアスカの頬を貫き、やばい勢いで彼女の首が右へ回った。
 泥と血で汚れた痣が浮かび上がる。

 もう一度殴った。残心のスキを真下から打ち上げられ、まともに胃の中身を吐き出してしまった。飛び散った胃液が僕たちの足を濡らす。
 やられてたまるか。もう一度、もう一度だ。呟きながら僕は身体を起こし、拳を握り締めた。女の顔を殴る、懐かしい感覚だった。

 やがてアスカの口が吊り上がって笑みを作り、渇いた血をこぼして塗りつけた笑顔が僕を射抜いた。

 ふふっ、バーカ。バカシンジ。ようやく『還って来た』のね。

 僕は息を切らして、呆然とアスカを見つめた。
 いったいどれだけの時を間に挟んでいたのか、しばらく振りに見るアスカの優しい顔だった。

 茹で上がりそうなくらいに暑かった夏のあの日。
 去年の夏、僕と一緒にいたアスカ、今はその彼女が目の前に帰ってきていた。

 進歩無いわね、アタシも。アスカは口から垂れた血を拭い、鼻で笑った。
 1年前に逆戻りしてどうすんのよ。

 僕はドックの床に腰を落とした。

 海中から、遠雷のような衝撃が伝わってきた。
 緩んでいたアスカの表情が再び真剣なものになる。水中衝撃波。使徒だわ。押し殺した声でアスカが呟いた。

 まだ遠い、けどすぐやってくる。
 甲板に上がると、オーバー・ザ・レインボーから飛び立ったヤコブレフがオセローに降りようとしていた。操縦席には加持さんの姿がある。

「おーいシンジ君、緊急事態だ、急いで本部に戻るぞ」

「緊急って、加持さん、今まさに使徒が来てるんじゃ」

「いや、実はリッちゃんから連絡が入ってな、公開試運転中だった民間の原子炉搭載ロボットが暴走したそうなんだ。それで、エヴァの出動要請が来たってわけさ」

 リツコさんが言っていたジェットアローンとかいうやつか。
 僕は加持さんに従ってヤコブレフの後席に乗った。飛行服はシート後ろのボックスに入ってる、ヘルメットとインカムをつけた加持さんが指差して場所を示した。

「シンジ!」

「ああ、わかってる。君もドジ踏むなよ」

「っかってーわよ!ちゃあんと『タマ取って』くんのよ。首級<しるし>の見せ合いは本部でね」

「別にやっつけに行くわけじゃないと思うけど」

 出力を上げたジェットエンジンが声をかき消した。キャノピーが閉じられ、ヤコブレフは甲板を離れる。水平線の向こうに伊豆半島の山々が見える。空中から見下ろすと、海底に旧伊東市の街並みが沈んでいた。
 海底遺跡を僕は見送って、加速Gが身体を締め付けた。

 背後で一隻めが使徒の攻撃を受け、艦体を真っ二つに両断されて沈んでいった。
 駆逐艦からのハープーンが使徒を追うが、海面の下にいる敵には届かない。魚雷も効いてないみたいだ。

 あとはアスカと葛城に任せようぜ、加持さんがインカムで僕に言った。

 同時に戦艦イリノイの主砲が咆哮し、既に数キロメートルは離れていたはずのヤコブレフの翼を衝撃波で揺さぶった。前に仮想戦記で読んだ、主砲で海面を撃って潜水艦を沈めた超戦艦を思い出した。
















 NERV本部に戻り、ウィングキャリアーに初号機を積んで飛び立った直後に太平洋艦隊から通信が入り、使徒は殲滅されたと伝えられた。

 雲海を突き抜けて旧東京上空に達すると、クレーターの中をノシノシと歩いてる寸胴のロボットが見えた。
 肩のロックが外れて初号機が降下していく。
 空を飛ぶってこんな感じかなあ、ただ落ちてるだけだろ、みるみる地面が迫ってくる。

 原子炉は放射線を撒き散らし、ジェットアローンが緑色のオーラに包まれて見えた。見えるもんなんですね、通信で加持さんを呼んだが冗談だと思われたみたいだ。

 動きの鈍いジェットアローンにはすぐ追いついた。
 取り押さえたジェットアローンの機体内部に加持さんが乗り込み、パスワードを打ち込んで原子炉を停止させた。ひっくり返った背中のタンクから攻撃用の毒液がこぼれて地面に染みこんでいった。

「起きてよシンジ」

 目を開けると元通りの綾波の部屋だった。
 マナと綾波が心配そうに僕の顔を覗き込んでる。

「あ、綾波お帰り」

「お帰りはシンジでしょー。帰ってくるなりぶっ倒れちゃって」

 何処から帰ってきたんだっけ?綾波は心底呆れたといった表情で肩を落とし、僕にデコピンを撃った。脱いだパンツをなぜか握り締めていた。

 第6使徒ガギエルは弐号機と太平洋艦隊の共同攻撃で殲滅。ジェットアローンは原子炉閉鎖によって旧東京エリアで停止、後日あらためて日重共の手により回収されるそうだ。

 眠りに落ちようとしたらマナと綾波が僕の腹の上に折り重なってきて僕はカエルみたいな呻き声を上げた。
















 翌日僕とアスカはNERV本部で弐号機の調整に立ち会った。
 二人して頬腫らしてどうしたの、リツコさんがクリップボードを抱えながら呆れ気味に訊いた。

 弐号機が収容されるケージはLCLが抜かれ、ロックボルトがむき出しになっていた。時折出たり引っ込んだりして動作チェックをしている。

 加持さんがジュラルミンケースを抱えて父さんの執務室へ向かうのを見かけた。

 ミサトさんは溜まった書類の片付けに追われている。

 することが無い僕は食堂でまたスパゲティを食べた。
 こないだは綾波に食べかけをだめにされちゃった。今日はちゃんと食べきろう。ミートソースにたっぷりとチーズをふりかけた。

 目を閉じると時計の針がものすごい勢いで進んだり戻ったりを繰り返してた。今がどんな時間か、わからなくなる。
 足元に黒猫がすり寄ってきて、隣の椅子に登った。テーブルに前足をついて食べたそうにしている。僕はフォークでひと掬いを床に落としてやった。猫はパスタをかじって食べた。

 前にもこんなことがあったよなあ。
 いや、いつものことだろう。

 去年の夏?そうだな。去年もこんなことがあったよ。猫と一緒にパスタを食べた。

 去年の君が今年の僕だ。
 時間はぐるぐる、ループを描いてる。メビウスループのように裏と表を入れ替えながら。今年の僕は来年の君、来年はすなわち去年。

 永遠にこの時を過ごせるなら幸せだよな。

 時計が一時間だけ進められた。なんだっけ、なんとかタイム制。あんまり省エネには役立たないって今朝の新聞には書いてたぞ、いつのまにか猫といっしょにパスタを食べてたペンギンが言った。君は?ミサトさんとこで飼ってる奴だったね。リツコさんと一緒に夕飯食べに行った時に会ったっけ。

 それでサマータイム、逆行のサマータイム。ずれた時間はどうやって戻せる?
 ペンギンが羽ばたくと時計の短針が一時間ぶん戻った。

 うん、コレで元通りだ。それじゃ帰ろうか、僕は皿をカウンターに戻して、猫とペンギンを連れて本部の外に出た。
 池の噴水のところには、今日は綾波は来てなかった。

 ジオフロントの天球ドームを見上げる。
 あの空を僕は覚えていたんだろうか、猫は地面に転がって背中を擦りつけ、ペンギンはぼけっと同じように空を眺めてた。
 僕の記憶ってのはこのジオフロントみたいに、ほとんどが埋もれてしまってるんだろうね。閉じ込められた砂時計だ。砂だよ、サラサラの砂。ぜんぶ下に落ちたらひっくり返して、また砂が動き始める。
 繰り返してばっかりなのさ。
 思い出した野山の風景は果てしない距離を持っていた。僕の頭の中にそれだけの距離があるのか、その距離を飛ぶ光は何処からやってくるのか。

 きっと懐かしいはずの箱根山が雲を吹き流してた。

 僕はどこかであの山を見ていた。いや別に箱根でなくてもいい、函館山でも赤城山でも飛騨連峰でも霧島連山でもいい。
 とにかく、いつか遠い昔に見た山の景色を僕は覚えてる。

 それはジオフロントのドームが映し出してくれる。
 僕は噴水に腰掛けて、足で水と戯れた。冷たい水が僕を引っぱたいていった。

 もう一度見上げた時、既に空は夕暮れになっていた。

 赤く染まった空、雲、地平線、海、大地、すべてが赤かった。
 なんだ、また戻ってきちゃったのか。僕はため息をついて立ち上がり、海へ向かって歩き出した。砂浜が波に洗われて、歩くたびに足が沈み込む。風が吹いて、雲が激しくうねり始めた。赤い空に黒い雲が広がっていく。
 ねえマナ、これがマナの見てる夢?
 空が黒いよ、紫色だ。雲もすごい、嵐だよこれじゃ。
 あなたの恐怖も一緒に混ざってるの、だから寂しさも二人ぶんだよ。二人でいても寂しさは紛れない、余計に酷くなる。だって二人の人間がいたら、いつかは別れなきゃならなくなるじゃない。どんなにたくさん人間がいても同じだよ、ただ別れの回数が増えるってだけ。

 またマナの声が聞こえた。

 黒く染まった空、雷が遠くで鳴った。
 雨が落ちてきた。雨は泥を含んだ土砂降りだった。爆発で空中に巻き上げられた塵が、雨に混ざって降ってきたんだ。

 この先の世界もマナは知ってるんだろ。

 誰もが知ってるよ。
 誰もが知ってるよ。
 誰もがこの先の世界を作ってるよ。

 誰もが知ってるよ。

 誰もが知ってるよ。

 誰もがこの先の世界を作ってるよ。

 誰もがこの先の世界を作ってるよ。

 誰もがこの先の世界を作ってるよ。

 誰もがこの先の世界を作ってるよ。

 誰もがこの先の世界を作ってるよ。

 妙なエコーがかかった時は分裂するって決まってる。
 部屋の中で香が焚かれ、煙がたなびいてる。香炉から灰がこぼれて部屋の床に散らばってた。ホワイトムスクの香りが鼻をくすぐる。

 綾波はPCを開き、起動させた。
 画面の中から猫が出てきた。いつか、この中へ消えて行った黒猫さんだ。帰ってきたんだな。

 次はあなたの番よ、綾波が僕の腕を引っ張った。

 マナ、僕はどうなるの?振り返るとマナは悲しそうに僕を見つめていた。涙が頬を濡らし、既にずいぶん涙を流したのか、乾いた涙が頬を光らせてた。
 私を助けてシンジ。私の心を助けて。マナは僕を抱きすくめてまた泣き出した。
 泣いてばっかりだよね私、シンジあなたの為に涙を流さなかった日は無いくらい。ずっとあなたに会いたかったよ、あなたを待ってたよ。
 去年の夏へ戻ろう。楽しかったあの頃へ。

 マナは僕の手を引いて、画面を覗き込んだ。液晶が渦を巻き、蛍光色にきらめいてた。僕はマナに抱かれてパステルカラーの靄の中へ飲み込まれた。

 光の階段がまた目の前に現れた。透明な床の下で、サキエルが初号機に組み伏せられて殴られていた。割れたコアが閃光を放って爆発し、だけど僕たちのところまで爆風はやってこなかった。身体中から棘を生やしたシャムシエルが光の鞭を振るっていたが、鞭は僕たちの直前で二つにちぎれて飛んでいった。ラミエルのビームは同じように捻じ曲がってどこかへ消えた。ガギエルはゆったりと空中を泳いでた。

 さあ、戻ってきたよシンジ。階段の突き当たりにドアがぽつんと浮いていて、マナは取っ手を握った。ドアのプレートには『402』とあった。
 埃だらけの鉄のドアを開けると、そこは見慣れた部屋だった。

「お帰り、碇くん」

 ああ、ただいま。

 部屋には真新しいカレンダーがかけられていた。
 2015年9月。

 戻ってきたんだな。ちゃんと。


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