天井から吊るされたシャンデリアがグラスの氷に映り込んで、ゆっくりと右回りに回転している。溶けていく氷がパキッ、と音を立ててヒビを走らせた。

 店内には僕たちの他、非番を楽しんでる中年の戦自隊員と若いUN軍兵士がいた。戦自の男は髪の毛が薄くなった頭が脂で輝いてる。彼らの談笑をテレビの向こう側に見ながら僕はグラスを傾けた。頬杖をつく手を組み替えると、黄色い店内の景色が残像を引いた。
 奥のソファに、小麦色の肌をした若い女たちが群れている。彼女たちの表情がガラスのついたてに浮かび上がって見えた。

「シンジー」

 カウンターの向こうから、暇を持て余してるマナが声をかけてきた。

 僕が振り向くと、さっきから目の前を飛んでる光の妖精たちもいっしょについてくる。妖精たちは海に注ぐ流れ星のようにグラスの中に入っていった。今日はいつになく瞳の中がにぎやかだ。
 僕は上着のポケットから葡萄のキャンディを取り出すとマナに投げて渡した。
 嬉しそうにキャンディをほおばるマナの熟れた唇が僕を慰めてくれる。

「お待たせマナちゃん、ごめんね、久しぶりなんで手間取っちゃって。いつも手伝ってもらって、ほんと悪いわね」

 店の奥から中年のフィリピン人女性が姿を現す。マナはいいですよ、どうせ暇ですからと笑顔で答えた。

「シンちゃんも久しぶり。いつもうちのコが世話になって」

「いえ、こちらこそ」

 彼女はムサシの母親で、このスナックを経営してる女主人だ。日本での生活は長いそうで、日本語もずいぶん板についてる。

 ムサシが遊び盛りの年頃なのは彼女もよくわかっているらしく、しょっちゅう朝帰りになることについても特に口は出さない。ただ店をあまり手伝ってくれないのが不満だとは言っていた。代わりに、僕たちがたまに店番をすることがある。

 ムサシはあれからこっちには戻ってきてないらしい。
 綾波の部屋から逃げ出して、その後どこに行ったんだろう。まだ第3新東京市にいるのかな?なんか向こうにいる彼女のこと捜すとか、そんなことをケイタが言ってたような気がする。

 僕がトイレに立つとマナも一緒についてきた。
 手洗い場の水道でピルを飲む。今朝の分忘れてた、とマナは濡れた口元を手で拭いながら言った。
 僕にもひとつくれよ、そう言ってマナからレディーE35を1箱貰う。若いうちからの心がけは大変よろしい、とマナは僕の頭を撫でた。
 こいつを飲んでるおかげで僕は男性機能をほぼ喪失している。今更やめたところで回復してくれるかどうかはわからない。だけど今の僕は僕でいいじゃないか、なんて呟いてみる。
 胸に手を当て、見知らぬ男に抱かれることを思い浮かべると腰の奥が疼いた。

「胸焼けするのが無けりゃいいんだけど」

「ふふ、飲み始めはつわり症状出るのは当然でしょ。まあ個人差あるし、私は全然平気だったけどねー」

 マナは濡れた手を伸ばして僕の胸を揉んだ。

「けっこう張ってきてるんじゃないの」

「まあね」

「私も大きくなってきたんだよ」

 そうかそれはいいや、と僕はシャツの上からマナの乳房を包んだ。やん、エッチ、マナはにやけながら僕の腕をつかんでどけた。

 僕は洗面台の鏡に映るマナを見てた。背をかがめて僕の胸に吸いつく姿が可愛かった。壁のタイルにこびりついたカビを爪で引っ掻くと、ぽろぽろと取れてきた。

 フロアに戻ると照明が目にしみた。

 大きな鉢植えの植物が、葉っぱを樹脂で光らせてた。きらめく照明が熱帯の水面のように、とろける水に浮かぶマングローブの林が見えた。泳いでみたくなって、僕はソファに身体を沈めた。女たちがはしゃぎながら僕を見てる。近くで見ると思ったより年増だった。

 ヘイ、シンジ元気か、と、僕に気づいたUN軍兵士が手を振った。僕も軽く右手を上げて応える。よく来る客とはたいてい顔馴染みになっていた。

「今度太平洋艦隊のオーバー・ザ・レインボーが新横須賀に来るんだ。そしたら俺も交代さ、来年はずっとハワイ暮らしになるんだぜ」

「ハワイか、いいですね」

「この街ともしばらくお別れさ。そこでだ、最後の思い出に可愛い子紹介してくんないかな」

 ウィルという名前のこの金髪の男はいつもこんな調子だ。知り合ったのも今日みたいに、店に来てたマナに声をかけたのが始まりだった。ただし付き合った女とは1ヶ月以上続いた話を聞いたことがない。
 僕がミカさんとはどうなったんですか、と訊くと彼はいつものように顔を赤くして照れ笑いを浮かべ、頭をかいた。
 ダメだったみたいですねやっぱり。
 そりゃあ酷いぜシンジ、俺はマジだったんだぞ、だけどなあ、携帯にメールが来たんだよ、『楽しかった、ありがとう、ごめんね…』ってなあ。泣いちまったよ俺。
 彼はますます顔を赤くして、僕の肩を抱いて泣き崩れるポーズをした。

 未成年相手の遊びは気をつけてくださいよ、ハワイに行く前に営倉行きになっちゃいますから、と僕が言うとウィルは爆笑して、ブランデーを一気に呷った。僕もつられて笑いながらウォッカを喉へ流し込んだ。

 奥のフロアにカラオケセットの据え付けを終えたマナとリリィさん(ムサシの母親、レイナ=リー=ストラスバーグ、彼女のことを皆はそう呼んでる)が僕を呼ぶ。
 既にマイクの準備を終えたマナはシンジ一緒に歌おうよ、と手招きをしてる。

 曲が始まると他の客たちも歓声をあげてリズムをとりはじめた。
 僕も立ち上がり、マナと一緒にマイクを握る。

「Oh, Ah, Hey, Hey, He-he-hey, Hey! Get Ready!!」

 イントロのシャウトを共に叫ぶ。

 歌うことでいっそう酒が体内に回り、酔いが心地よくなっていく。ちょっとしたクラブ気分で、みんなも一緒に踊る。マナが腕を振り上げながら飛び跳ね、みんなの興奮を誘っていく。めくれるシャツの下から見える筋肉が力強く躍動していた。

「Look at me follow me up and down now

Dance with me the PARA PARA! Whoa-oh! Yeah!

Watching you are really moving those hands now

You can dance the PARA PARA!」

 光の妖精たちも僕たちを取り囲むように乱舞し、共に踊ってる。

 昨夜キメすぎたせいか飛蚊症が激しい。人間たちみんな、自分を守護してくれる精霊がいる。僕の瞳を通して、みんなの頭上に舞う妖精たちが教えてた。

 久しぶりに踊るパラパラは僕に最高な浮揚感をもたらしてくれた。

 マナの英語の歌も久しぶりに聴く。輝く透明な歌声が僕の胸に響いた。

 間奏の時に、ウィルが僕たちにクリーム色の錠剤を投げてよこした。すかさず僕とマナはそれをひと飲み。このまま3時間コース決定だな。胃の中で溶けてく薬の感触を確かめながら僕は踊り続けた。

 綾波も一緒に踊れたらよかったなと、銀のブレスレットをしたパーマの女を見つめながら思った。今度誘ってこようか。目が合った。今夜はOK?もちろんさ。

 キング&クィーン、ヴァージネリー、ニコ、デイヴ・ロジャースが立て続けにかかる。男性ヴォーカルの曲でもマナが歌うとまた違った色を見せてくれる。時には僕も一緒になって歌う。スーパーユーロビートの懐かしいリズムに皆が陶酔していた。

 一見冴えない中年男だった髪の薄い戦自隊員も、オレもこう見えて若い頃はディスコ少年だったんだぜ、と、女たちを連れて慣れたステップを披露していた。

 やがて夜が更ける頃には、軍人たちは門限があるんで帰ってしまう。
 だけど僕たちに薬を渡したウィルはまだ店に残ってた。明日上官に呼び出されて絞られるんじゃないのかい。その前に別のものを絞られてるけど。
 マナはカラオケマイクを彼のペニスに持ち替えて、さかんに啜ったり舐めたりして唾液のメロディを奏でていた。僕もそんな二人を眺めながらソファに背をもたれ、さっきのパーマの女に咥えさせてる。名前はカナさんというそうだ。それ以外は知らないしどうでもいい。

 テーブルに置きっぱなしのグラスが揺れた。氷はもうすっかり解けて、結露した水滴がテーブルを濡らしてた。

 幸せそうだな。さっき綾波の名前をうっかり呟いて張り手を喰らったのが思い出される。そういえば綾波にしてもらったことはない。

 リリィさん、今何時だっけ?もうすぐ11時よ、と奥から返事が返ってきた。

 表から男たちの怒声が聞こえる。酔っ払いかチンピラか、誰かが喧嘩してるのか。
 ボケッと玄関のドアを眺めてると、どうせまた中国人よ、気にすることないって、とマナが言った。

 俺なあ、鬱病なんだよ、高校の時からな、だけど軍隊に入って男になりたかったんだなあ、俺の国は今大変でな、俺みたいな馬鹿は軍隊くらいしか働き口が無いんだよ。この街に来れてほんとに良かったぜ、シンジくんやマナちゃんみたいな素敵な人間に出会えたんだからなあ。
 恍惚の表情を浮かべた金髪の白人は蕩けた英語でそう言った。
 僕もマナも、彼の生まれた国の言葉の意味はわかってた。

 男同士なのに君が愛しい、それともこの気持ちは女のものなのか、君と同じ気持ちなのか、僕はそう思いながら彼の胸に頬を寄せるマナを見てた。

 表の喧嘩はまだ続いてた。
 僕はクーラーボックスの中の氷からアイスピックを引き抜くと、玄関に向かって投げた。ガン、と木の割れる音がしてドアに刺さった。ダーツゲームの練習でもしとこうか。ふわふわ揺れる意識をこね回しながら僕は達した。出てきた液体はたぶん透明だったと思う。物足りなさそうな表情を浮かべる女を見下ろしながら、僕はシャツの前をはだけて仄かなふくらみを寄せて見せた。そうさ、僕もあなたと同じなんです。

 誰か別の女が僕の腕を取った。二の腕をゴム紐で縛られて血が止まり感覚が薄れていく。ちくりと軽い痛みがして血が吸い取られ、冷たい液体が腕の静脈の中に注ぎ込まれた気がしたがわからなかった。たくさんの笑い声と悲鳴が頭の中にあふれて僕はたぶんソファから転げ落ちた。
 逆さまになった部屋を見上げると女たちが僕を笑いながら見下ろしてた。ほとんど裸の姿になってウィルと抱き合ってるマナが見えた。

 シャンデリアの光が僕を突き刺して目を見えなくする。熱過ぎて冷たい蝋に塗り固められた僕は床の上を転げ回った。アイスピックはドアに深く喰い込んで刺さったままだった。僕の腕に刺された注射針には血の固まりがくっついている。血があふれ出して固まって崩れて僕の口に詰め込まれる。

 笑顔、苦悶、怒り、悲しみ、マナのいろんな表情が重なって見え、綾波の凍てつく微笑みがそれを上書きする。目玉の中からムカデが這い出して飛び回り空中にミステリーサークルを描き出す。部屋のあちこちで光が沸騰しているのが見えて、僕は息が苦しくなった。酸素が吸えない。唇を撫でると乾いて冷たかった。冷たく縮んで萎びた僕の身体。唾液が濡れてない?乾いたままだ。
 苦しい、マナ助けて、息ができないよ。言葉も出ない。涙さえ絞れない。僕は両手で口を開けようとしたが指を噛んでしまった。
 蝋燭の炎とアーク灯の閃光が霧雨の中に浮いていた。
 雨の中で綾波はずぶぬれになって立っている。その背後からたくさんの手が伸びてきて彼女を嬲る。蠢く指が油色に偏光してギラギラと光り、開かれた女性器を間近に見つめる。大陰唇の内側にぶつぶつとした疣が出ている。歯茎を舌で押し、口の中にあふれる苦い膿を絞り出す。タオルを噛み締めると茶色い染みがついた。

 溶けた空気の渦に飲み込まれて僕の意識は沈んでいった。

 遠くからパトカーのサイレンが響いている。
















 『霧島』の表札が掛かった家の前にたどり着いたのは既に東の空が白み始めた頃だった。

 帰ってくるのは1週間ぶりだなあ、と、この御殿場市ではかなり大きい方に入る霧島家の邸宅を見上げながら僕は思った。
 マナの母さんって児童文学作家だけど、そんなに儲かってんのかな。知らないよそんなの、とマナはそっけなく答えた。

 上を向いてたら吐き気が襲ってきた。僕は玄関脇の芝生にしゃがみ込んで、胃の中味を吐き出した。
 大丈夫?マナが背中をさすってくれた。

 平気さ、そう答えて僕は立ち上がると玄関の鍵を開けた。義母さんはまだ起きてるみたいだ、部屋から明かりが漏れてる。でも、知らない男ものの靴があるところを見ると仕事してるわけじゃなさそうだ。

 僕は構わず自分の部屋へ向かった。

 部屋の真ん中に置かれた皿に干からびた林檎が乗ってる。そいつが甘ったるい香りを放ち、部屋の中には蝿が何匹か飛んでいた。開けたドアから一匹が出て行った。僕はセルロイドの下敷きを手に、残りの蝿を全部叩き潰した。死骸は軽い手ごたえと共にどこかへ飛んでいって見えなくなった。下敷きには蝿の体液がこびりついてた。

 明かりはつけない。つけるのがめんどくさい。スイッチがどこにあったのか忘れた。

 もう食べられなさそうな林檎を僕はゴミ箱に捨てた。ゴミ箱の中には前に捨てたパイナップルがまだあった。腐りきって紫色になってる。

 机の本棚には教科書の束がまとめて挿してある。中学2年の教科書、そういえば一度も開いたことが無いような気がする。
 床に散らかしっぱなしのアダルト雑誌を踏みつけながら部屋の中を歩き回る。

 ふと、進路相談のプリントが目に付いた。
 期日はとっくに過ぎちゃってる。まあ、どうせ義母さんは呼んでも来ないだろうけどね。僕にもその気はない。高校には行くかどうか微妙だ。どのみち、中学を終わるまでにはこの家を出たい。
 そうだ、綾波。
 NERVに行けばとりあえず生活には困らないかな。
 エヴァのことは気がかりだが、今は考えたってどうしようもない。

 綾波の家に住もうか。ああ見えて彼女は日常生活に無頓着だから、僕が面倒見てやればいいかもな。まあその僕にしたってかなり適当だけど。書留の大きな封筒をまとめてゴミ袋に入れながら考えた。封筒の差出人欄は塗り潰しておかないとな。売人さんたちだって生活がかかってるんだから。

 マナは、僕の行くとこならどこにでもついてくるだろう。
 一度くらい、お姉ちゃんって呼んでやればよかったな。

 ムサシは、知らん。奴は実家がここにあるし、わざわざ第3に行く理由もない。ケイタも同じく。第3新東京市と御殿場市は隣同士だから、会うのに特に不自由はしないだろ。それにあいつらはまだ戦自の仕事があるだろうし。
 あと、他に誰かいたかな。

 今朝学校に顔出しだけはしといた。
 担任の敷島マドカ<ヒスオンナ>がうるさかったけど無視した。
 ホームルームだけ出て、午前中ずっと屋上で昼寝して、昼飯はリリィさんの店で食べて、それからずっと店で駄弁ってて。で今、だ。

 カーテンを開けて外を見る。
 仄暗い空の下に黒いシルエットの街並みが沈み、街灯の明かりとビルのネオンだけが地上のきらめきを演出してた。風のざわめきに混じって、東名高速の方からクルマの爆音が聞こえてくる。

 そういえばムサシが前にどっかから引っ張ってきたS130Z、アレはどうなったんだっけ。ちゃんと直して走れるようになってるんだったかな。貰えるなら貰っておきたい。アシがあれば便利だし、どうせムサシは乗る気ないだろうし。明日出がけにリリィさんに聞いてみるか。

 荷物をまとめあげ、ベッドで一息ついてるとマナがやってきた。彼女の方も準備はできたみたいだ。

「すぐ出る?」

「うん、もうすこし休んでいこう」

 耳を澄ますと床下から男女の交接の喘ぎが聞こえてきた。そういえば義母さんの部屋はここの真下だった。

 僕はベッドに身体を投げ出した。マットレスのバネが弾む音がして、少しだけ嫌な声がかき消される。

「僕、第3新東京に行くよ」

 マナが目を見開いて僕を見つめた。

「ちょうどいい機会じゃないか。この家もそろそろ出なきゃなって思ってたし」

「シンジ」

「ん?」

 僕の脇に手をつき、顔を覗き込んでくる。腕枕をしながら僕は見上げた。

「わかってたよね、私の気持ち」

 僕は答えない。次の言葉を待つ。

「やっぱり綾波さんの家に行くの?」

「まあ、他に住むあてもないし」

「私も、いっしょに行っていいよね」

「義母さんのことはどうするの?」

「今更それを聞くの」

 僕たちの距離は次第に近づいてた。
 いつからだろう、こういうことをするようになったのは。中学に上がる前からだったような気がする。思い出せない。消えていく思い出は虚しさを心に残す。

 そっと右手を掲げ、マナの柔らかい頬を撫でる。しばらく風呂に入ってなかったからすこし脂っぽい。だけど、別に気にはならない。それも全部マナのものだから。マナは僕の唇めがけて唾を落とした。僕はそれを受け取り、舐めて味わいながら飲み込む。

「私も行くよ」

「うん」

 今ひとつ、心の中に引っ掛かりがあった。だけどそれは僕じゃない気がする。僕とは違う人間の意思が僕の中に混じってる。いけ好かない人間の知った風な言葉、その記憶が僕を惑わせてるんだ。

 澄み渡った箱根の山々を僕は思い出してた。

 僕は言葉がわからない、だから身体で示すしかない。

 胸が急に切なくなった。

 気の利いた言葉が言えない、だから身体で表すしかない。
 マナの気持ちが痛いくらいに理解できた。
 それは僕の気持ちでもあるから。

 真っ暗な部屋に月明かりが差し込み、光の妖精が穏やかに僕たちを取り巻いてた。

 小さい頃からずっとそばにいたよね。
 ドアに刺さったアイスピックがごとりと床に落ちる。誰も拾ってくれる人間はいない。

 マナの甘い体臭が僕を包んだ。

「………………お姉ちゃん」

 聞こえないくらいに小さく、呟いた。
 血縁上は従姉弟になるのか。血の繋がりはない、でも、大切な肉親。
 10年も会っていなかった父親、顔さえ覚えていない母親、そんな家族なんて要らない。血の繋がり、それが僕を縛りつけてた。振り切れるものなら振り切ってやる。それが無理だってわかってるから、悲しい。悲しみが愛を生み、擦り切れた愛が人を狂わせる。その狂気がエヴァの力になる。

 綾波の言葉だ。
 共に過ごした夜、僕に話して聞かせてくれた。

 なぜ悲しい?
 気持ちが、想いが縛られてるから。いろんな障害がある。
 想いがすべて叶う事なんてありえない。

 だけど、抗うことはできる。

 だから、寂しくなんかない。

 仲間がいるから。

 あんまりかっこつけたことは言いたくないけど。
 そんなもんだ。

 開けてた窓から白い蛾が入ってきた。妖精たちに混じって飛んでる。

 鳴き声が聞こえた。
 蛾が声を上げるたびに鱗粉が剥がれ落ちて部屋に舞う。命が削られていく瞬間が目の前で繰り広げられてる。ベッドのヘッドボードに止まった蛾をしばらく眺めた後、僕はそいつを指で弾いた。

 白い粉が舞って、蛾は潰れてしまった。脆い砂細工みたいに粉々に割れた羽がゆっくりと落ちていった。
 羽のもげた蛾の胴体は頭が取れて、枕元に転がってた。足がまだかすかに動いてた。

 悲しげだった。

 月の光が窓から差し込んでる。
 妖精たちは相変わらず、僕たちの周りを優雅に舞っていた。
















 踊る肉の人形たちを眺めながら、アタシはニタニタと締まらない笑みを浮かべてた。

 目の焦点がなかなか合わないが、まあ別に構わない。
 部屋を満たした空気には血の匂いがあふれてた。この空気と一緒に飲む煙草は最高に美味い。

 血しぶきがそこらじゅうに飛び散った部屋、壊れたテーブルと散らばった木椅子の間で、街に出かけて捕まえてきた女をアタシの可愛い友人たちが順番に犯してる。今日のご馳走はどう?

 下は小学校5年から上は無職の19歳まで、男たちはどいつもこいつも馬鹿みたいに輝いた目をしてる。
 まったく、いつまでもガキなんだから。ほらほらいい子ね。、アタシの胸においで。たっぷり可愛がってあげるわ。

 アタシは錆の浮いたパイプ椅子に深く背をもたれ、お気に入りのパーラメント100'sボックスを片手に、カシスリキュールの瓶をもう片手に、眼前で繰り広げられる男女の肉の宴を見物してた。
 その中でアタシが特別に侍らせる男。
 足元に跪くキョウジをアタシは微笑みながら見下ろす。

「アンタ馬鹿ぁ」

 最高の笑顔と愛情でもって吐き捨てる。白い煙をたなびかせる煙草を指先に遊び、アタシは彼の脂汗まみれの頭を踏みつけた。ドレッドヘアのごつごつした感触が足の裏に、くすぐったい。黒革のパンツスーツを身体に纏い、首から提げたプラチナのハーケンクロイツを弄くりまわす。クロムメッキのベルトとアクセサリーがチリチリと鈴の音を奏でる。

 今日引っかかった馬鹿な女の名はマユミ。山岸マユミ。第3新東京市立第壱中学校2年A組出席番号28番というのが彼女の身元。そんなのはどうでもいい記号の羅列に過ぎない。さしあたって興味があるのはコイツをどこへ売り飛ばそうかということだけ。

 第3新東京市、第壱中学校。
 第3新東京市、第壱中学校。
 第3新東京市、第壱中学校。
 第3新東京市、第壱中学校だいさんしんとうきょうしりつだいいちちゅうがっこう。

 第3新東京市。

 第壱中学校。

 2年A組。

 第3新東京市。

 第壱中学校。

 2年A組。

 第3新東京市、第壱中学校。2年A組。

 くくくっ、懐かしいったらないわ。『第壱中<イッチュー>』の女はよォ!
 アタシは下半身を裸にひん剥かれたマユミの尻めがけて火のついた煙草を投げつけた。ドンくさい眼鏡づらに白く太った尻、ついでに短足。この典型的な日本人体型。火の粉が触れるとマユミは蟇蛙のように身体を跳ね上がらせた。黄色い肌にそこだけが赤く腫れた。

 この水太りのゴム人形め。
 汗と脂でパキパキになった黒髪を掴み上げ、顔を寄せてアタシは問いかけた。

 アンタ、アタシを知ってんわね…?

 マユミは涙をあふれさせ、顔を振るわせた。まだ、『理性』は残ってるみたいね。
 1年の時C組だった。同じC組だったヒカリんとこによく遊びに行ってたから、アンタの顔も覚えてたわ。あの頃から暗い雰囲気で本ばっか読んでたわね。地味すぎて逆によく覚えてる。口元のホクロがアンタの証拠。濡れた黒い瞳に、返り血をさんざんに浴びたアタシの顔が映りこんでいる。

 アタシが身体を動かすたびに、目の前の大鏡の中でロングの赤い髪が揺れてる。この赤い髪はアタシが生まれついて持ってたもの。欧米人の金髪でもない、日本人の黒髪でもない、鬼か悪魔みたいな真っ赤な髪。赤毛のアン。ウソ。あそこまでアタシはつぶれてない。

 身体を革のベルトで縛られ、口にギャグボールをはめられたマユミが涙と鼻水と唾液を撒き散らしながら喘いでる。ずいぶんみすぼらしい犬しか連れてない主人だな、そんな犬じゃあ北極の氷原は渡れないぜ。エスキモーのオヤジが赤ら顔でアタシを嗤う。
 犬がだらしないのは主人のせい。そう、悪いのはアタシよ!!

 アタシはリキュールの瓶をラッパに呷りながら大声を上げて笑った。
 ほら何ボケッとしてんの、もっとやっちゃいな。
 甘ったるいアルコールの飛沫を散らばしてアタシは叫んでた。アタシの声に追い立てられるように少年たちが少女に群がる。まだ精通さえ来ていないであろう童顔の少年までが見よう見まねで小さなペニスを振りかざしてる姿は滑稽を通り越して愛しくさえあった。可愛い。最高よアンタたち。どこまでもアンタたちを愛してやれる。膣口から血を流して輪姦されるマユミを見下ろし、アタシは至福の時間を味わってた。

 頭の中から這い出してくるプラナリアをちぎって細切れにする。
 身体を爽快にさせる悪寒がたまらない。パイプ椅子の座面はもう既にアタシの愛液で濡れてあふれて光ってた。

 部屋の隅で、猫が喰い散らかしたネズミの死体が腐って甘酸っぱい匂いを振り撒いている。匂いをかぎつけたらしいゴキブリが壁をゆっくりと這っていた。

 悪くないモンねえ、こいつも。
 首筋の血管がチリチリと痛い。指先の感覚が痺れたように鈍くなってくる。太い血管が絞られるように血圧が上がっていくのが感じ取れる。脳ミソにまで高圧の血液が送り込まれ、沸騰するのがわかった。

 ねえキョウジぃ、アイツだけなんかずるいよねー。アタシも楽しませてくんない?
 つま先で彼の背を突く。尖らせた親指の爪が、刺青が入った背中にさらに赤い糸を刻む。このアタシがつけた傷、ありがたく思いなさい。椅子にふんぞり返り、足を組んで座ったままアタシは昇りつめてた。目の前の光景に現実感が、と言うより既に歪み始めててなにがなんだかわからない。
 キラキラと緑とピンク色のウェーブに、マユミの髪が光って見えた。

 ひゅう、と音を立てて思い切り空気を吸い込む。それでも足りない。身体が冷たい酸素をほしがってる。
 このアタシを満足させられる男は出てきなさい!
 椅子を吹っ飛ばして立ち上がるとアタシはマユミの顔を蹴り飛ばした。

 この雌豚!このバイタ!
 あとはなんだかわからないドイツ語でアタシは罵ってた。股間から汚れた欲望の粘液を撒き散らしながら、アタシは荒れ狂ってた。
 アタシの中に4分の1流れてる血の国の言葉。望むと望むまいと、脳の奥から湧き出てくる不気味な呪文。生まれ持っての言語に縛られてちゃあ未来は見えないわよ。
 そうよ、アタシはこいつらとは違う。ここの犬人間どもなんかとは違う。
 『日本人じゃあない』のよね…

 震える手はもうものを掴めない。

 身体じゅうが毒に冒されたように震えてる。それなのに、穴だけは元気。あれか、生命の危機に瀕してこそ生殖本能が燃え上がるって奴か。んなら、今中出しすりゃあ一発大当たり、逆転ビンゴってこと?ステキねえ。たしか排卵日はまだ先だったような。その体内時計さえ上書きされるほどの陶酔だ。

 音は消えた。
 さすがに心配そうな目でアタシを見つめるキョウジと、名前も忘れた男友達。何よ、それが男の目?獣みたいな少年の目?性欲にぎらついた瞳?さっきまでこの女を犯してた狼たちの瞳なの?アンタたちにとってアタシって何なのよ。

 馬鹿。柄にも無く切ない。愛しさって何よ、愛って何なのよ!アタシはアンタたちが愛しい。どうしようもなく愛しい。出来の悪い息子を抱えた母親の気持ちがよくわかる。アタシの可愛い子供たち。愛してる。どうか、罪深き母を許し給え。

「カカカ…アンタたち、アタシをやってみなさいよ!!あぁ!?ほらキョウジ!テルオ!何ビッてんのよ、『第壱中<イッチュー>の狂犬コンビ』ってゆわれるくらいのアンタたちがぁ!!」

 虚しい。どこまでも虚しい。溶けて消えていく自分だ!シンクロリミットオーバー!100パーセントを越えて警告アラームが鳴り響く。だがまだだ、まだいける!!もっと深く!抉るように深く!最大深度潜行。心の耐圧船殻を締め付ける逆流神経パルスが時空を歪ませていく。
 自分が存在できるのは観測する目があるから。自分を定義づけてくれる他者がいるから。誰も見てくれる奴がいなきゃ、そいつは存在してないも同じなのよ。

 血塗れで泣き叫ぶ赤ん坊の顔があざやかに、目の前に浮かんだ。

 誰か、アタシを見てよ…

 誰か、アタシを愛してよ…

 アタシも、精一杯あなたを愛するから…!!!

 だからアタシを見て!

 その時、光が差した。

 アスカ。

 それは懐かしくも忌まわしい声。
 玄関から差し込んだ光の道がアタシを照らし出してた。
















 重力を無視して身体を翻弄する風が轟く中で、アタシと綾波は瞳を合わせてた。

「『セカンドチルドレン』惣流アスカラングレー、本日付けをもってエヴァンゲリオン弐号機専属操縦者の任を命ずる」

 読み上げるように一息に綾波が言った。彼女の手にはアタシへの辞令、アタシにとってはただの紙切れにしか過ぎない、世界中のどんな紙切れよりも重い紙切れが握られてた。紙切れには彼女の汗が染みこんでインクが滲んでた。

 無表情を装う綾波の瞳にはアタシへの明らかな猜疑心と、見下すような嘲りそして哀れみが含まれてた。

「気に入らないのよ、アンタのその保護者ぶった態度がよォ!」

 睨みつける。今まさにアタシの体内を駆け巡ってる神経毒の刺激に翻弄されながら、目の前すぐ3センチまで迫った紅い瞳をアタシは睨みつける。
 アンタからも、アタシの蒼い瞳が見えてるでしょう。ん?綾波。

「あなたは変わってないわ、『あの頃』から」

「言ってくれんじゃないの」

 ギラリと、視線の刃を合わせる。切り裂かれる刀身が耳障りな感覚をぶつけてくる。

 握りしめた綾波の手首が音を立てて絞られていく。肉が押し潰され骨が軋む音がアタシの手のひらに伝わる。それなのに、『奴』はすこしも堪えた表情を見せない。いつだって、いつまでだって、アンタはその幽鬼のような蒼い髪と紅い瞳でアタシを嗤ってた!!
 どこまで上等くれりゃあ気が済むのよ?
 震えながらアタシは笑ってた。
 身体の震えはクスリのせいだ。別に、アタシが綾波を恐れてるからじゃない。

 心の余裕って奴。浮つく幸福感と愛情で心が満たされて、この怒りさえも余裕を持って手のひらに弄べる。綾波。アンタとだけは。

「アンタこそ何よ、瞳が『淀んでる』わよぉ?
くくくっ、さては男できたわね」

 見開かれるのがよっく見えた。
 アンタの脳細胞の一つ一つまでアタシには手に取るようにわかる!!

「っはは、図星!?傑作ねえ、アンタに男できるなんて!とんだ物好きも居たもんね。一晩いくらでハナシつけたわけ?今度アタシにも紹介しなさいよ、アンタの倍の値で買ってやるわ!!」

 振り上げられる拳がまるで予定されていた出来事のように見切れた。綾波の右手は虚しく空を切った。

 どこまでも純粋な笑い声がアタシを満たしてる!
 傑作。最高。メロディーズ・オブ・ラブ。これが愛の歌!
 こんなにきれいな愛の言葉聞いたことない。

 目の前が光った。

 薄れる意識でアタシは歌い続けてた。アンタへの愛を。

「馬鹿……シンジ…………」

 高圧のスタンガンを撃たれ、意識を失ってぐったりとした赤毛の少女を黒服の男たちが数人がかりで運んでいく光景だけが見えてた。
















 先日襲来したという第3使徒──サキエルと命名された──との戦いを終えたばかりの第3新東京市は、街のあちこちにその爪跡を深く残していた。ロビーのTVでやっていたニュースでは、市中心部にできた巨大なクレーターが映し出されキャスターが『シナリオ通り』の内容をしゃべっている。

 脊髄の辺りがまだチリチリしてる。いったい何万ボルトのやつを撃ったんだ。
 あれから何時間経った?病院の看護士に今日が何日なのかを聞いたが、そういえば気絶する前が何日だったのかも忘れた。

 トイレの洗面所でリタリンをすり潰し鼻から吸う。
 目を閉じて壁に背をもたれていると、指がピクピクと震えだして悪笑がこぼれる。鼻うがいをしたら思い切り血が出て笑い転げた。
 個室から出てきた女性職員がおびえた目でアタシを見ていた。洗面台は血だらけだ。吸いきれなかった白い粉が床に飛び散ってる。

「まさか、あなたともう一度会うことになるなんてね」

 無駄に広い作戦室のテーブル越しに、アタシを見つめる赤いジャケットの女は肩を落とした。
 葛城ミサト。所属は国連特務機関NERV、階級は一尉。かつてアタシの上司だった女。隣には彼女の補佐、日向マコト二尉の姿もあった。変わっちゃいない、何も変わっちゃいない。あの頃となんにも変わっちゃいない。

 アタシのことは忘れたんじゃなかったの?

 変にアルコールが入ったせいか頭が痛い。視界の右端が紫色に歪んでる。そこからウィル・オ・ウィスプがちぎれて浮かび上がって、目の前を漂ってから消えていく。

「弐号機がつい先日、最終艤装を完了したとドイツ支部から報告があったわ。現在は巨大自走浮きドック『オセロー』艦内にて繋留、UN大西洋第2艦隊が護衛して今日、ヴィルヘルムスハーフェンを出たわ。12日後に正規空母オーバー・ザ・レインボーを旗艦とするUN太平洋第7艦隊が護衛任務を引き継ぎ、来月20日、新横須賀軍港に到着予定よ」

 次々と懐かしい言葉が浮かんでくる。

 で?アタシに何をさせたいわけ。早いとこ帰って顔見せとかないと、今も横浜でアタシの帰りを待ってる友人たちが『心配』するわ。

 抗ったところでどうしようもないのはわかってる。そんな自分に腹が立つ。
 こんな時は煙草だ。まだ痺れがとれない手で1本を取り出し、咥えて火をつける。深く深く、煙を身体に馴染ませる。とろけそうになる意識の影で、こぼれ落ちる灰がアタシをおだやかに暖めてた。
 NERV、それはアタシが望んでた道でもあったから。

「アタシに『もう一度』弐号機に乗れ、と?」

 パーラメントを深く吸い込み、煙を吐きながらアタシは言った。

「わかってるなら話は早いわ」

 諦めの表情がミサトにはあった。アタシは拳でテーブルを叩いた。
 あぁ!?寝ぼけたこと抜かしてんじゃないわよ。なにが『わかってるなら話は早いわ』よ!?アンタら人のことなんだと思ってるわけ!!

 ミサトもマコトも何も言わない。いや、言えない。

 アタシの目が見える?アタシの瞳の色が見える?きっと、雨に濡れた捨て犬みたいな目をしてるでしょうね。アタシの瞳、4分の1だけドイツ人の血が入ったこの蒼い瞳。アタシはあの頃ときっと変わっちゃいない。どうしようもない弱虫だったあの頃ときっと変わっちゃいない!だから、だからこんなに腹が立つ!だからどうしようもなく心が燃える!焦燥が身を炙る!

 弐号機。アンタはアタシを覚えてるの?

 はるか遠い記憶の片隅にある四ツ目の巨人、エヴァンゲリオン弐号機。アタシの愛機となるべく生まれた、初の制式型エヴァンゲリオンだ。設計と部品製造はここ日本で、組み立てはドイツ支部──アタシがかつて居た場所──で行われた。

 弐号機が機体組み立てのためドイツへ向けて出発した1年前のあの日、アタシもNERV本部を去った。
 二番目の適格者<セカンドチルドレン>として、ずっと続けてきた訓練、シンクロテスト。その成績不振。原因は知らない。リツコたちは何か掴んでいたのか、どちらにしろアタシには一言も何も言ってくれはしなかった。それが元での、同僚そして戦友のはずだった一番目の適格者<ファーストチルドレン>綾波レイとの確執。

 今から思えば、どうしてこうなったのかわからない。あの頃のアタシはまだ、頑な過ぎた。今でも大して変わってないけどね。不良の遊びだけはたくさん覚えたけど、精神年齢はこれっぽっちも成長しちゃいない。

 だから弱かった。変化についていけなかった。自分だけがよければ周りなんて構わなかった。そのツケが回ってきたんだ。

 諦めにも似た不思議な空虚感を弄び、アタシは懐かしい第3新東京の街を歩いた。空にかかる雲の橋は横浜の港で見るそれと同じだった、だけどすこし霞んでた。太陽の暖かさは変わらなかった。

 ひとつだけ違うものがあった。

 雑踏の中でそいつの顔だけがくっきりと、鮮明に視界に飛び込んできた。
 そうだ、覚えてた。昨日捕まえた女──マユミの、『元』彼氏。まだこの街に居たのか。アイツもアタシも、凡庸な顔立ちの日本人の中にあっては目立ちすぎる容姿をしている。

 忘れることはない。
 静岡県立御殿場中学校2年、ムサシ=リー=ストラスバーグ!!!
















 声をかけるとアイツはすぐに気づいた。

「あ、アスカなのか?」

「くくくっ、ナぁニよそんな顔して。アタシのこと忘れたの?」

 笑顔が歪む。
 去年はアタシより背が高かったムサシだけど、今は追い越しちゃってる。アタシは紙パックの小岩井コーヒーを片手に近づいていった。
 キョウジ、テルオたちがすばやくアタシの両翼に展開しムサシを取り囲む。

「なんだよ、こいつら」

 別にぃー?友達よ。
 いぶかしげにみんなを見回すムサシを鼻で笑う。

 雑踏の中でアタシたちの周りだけが、取り残されたように静けさを満たしている。

「それよっか、どーしたのよこんなとこで?」

「お前にぁ関係ねえよ」

「あぁー?スカしてんじゃないわよムサシぃ?久しぶりに会ったんだもの、ちょっとぐらい付き合いなさいよォ」

 わざと猫撫で声を出す。この格好とのミスマッチに笑いながら。

「お前とはもう終わっただろ、構うな」

「寂しいなァ、そんなに冷たくされるとアスカちゃん悲しいよォ?」

 吹き出しそうになるのを堪えながら言う。キョウジは神妙な顔つきでアタシとムサシを交互に見ていた。

 クラクションを派手に鳴らしながらセダンが通り過ぎていく。
 排気ガスの臭いと砂の香りがアタシたちを取り巻いて、頭がボーっとしてくるのが気持ちいい。蕩けた瞳を見せてアタシはムサシに顔を寄せた。

「アタシぁ今無性にムカついてんのよ、怪我したくなかったら大人しくアタシに付き合いな」

 耳元に囁く。震える胸が触れ合った。

 んなこと、連れの男どもに頼みゃあいいじゃねえかよ、俺なんかより、お前とやれるってんなら断る奴ぁいねえだろ。
 その言葉を最後まで聞かないうちにアタシはムサシの腹に拳を打ち込んでた。
 一撃で崩れ落ちる。
 アタシはムサシの両脇に腕を入れて倒れないように支えた。

「それともォ…ここで『対人<タイマン>』ハってみせな?そしたら許してやるわ」

 突き放すとすぐさま、アタシを庇うようにキョウジが目の前に割って入った。鋭く拳を合わせ、骨のぶつかる心地いい音がアタシの耳を慰める。
 手ぇ出すんじゃないわよアンタたちは。
 他の連中を制し、信号機の柱に背をもたれてアタシはぬるくなったコーヒーをストローで飲む。噛み潰したストローは出が悪い。

 通行人たちは逃げるように足早に駆け去っていく。
 怖いの?アタシたちが怖いの。
 バッカみたい。

 ──ぁ?

「キョウジくん!」

 テルオの叫びと共に倒されるドレッド。情けないわね、3分もたなかったわよ。

 ムサシは荒い息をついてアタシを見据えてる。
 そうよ、その目。たまらなく胸が疼くわ、好きなのよ。
 紙パックを握りつぶすと噴き出したコーヒー牛乳が手と頬を濡らした。唇の端を吊り上げてアタシは笑う。
 コーヒーの糖分と汗が混ざってべとつく。

 気持ち悪い。

「っがああっっぁぁぁぁぁ!!!」

 あざやかすぎるくらいに決まった。ムサシもとっさに反応はできていたがこのアタシにはかなわない。左頬に直撃し、ムサシの身体は派手に血を吹き散らしながら道路に向かって飛んでいった。路上に転がって動かない。行き交うクルマたちが激しくタイヤを鳴かせながら避けていく。
 すぐには起き上がれないようだ。遠くの方で、急ブレーキをかける音が聞こえた後に衝突音がした。続けざまに金属のつぶれる音がして、道路の流れがせき止められた。

 クルマたちが完全に停止するのを待ってアタシは道路に歩み出るとムサシに手を差し伸べた。

 余裕って奴。
 アンタのこと、想ってるからよ。

 道路にしゃがみこんでムサシを抱き起こし、血濡れになって痣の浮いた彼の頬に口付ける。

 クックック、アタシって『優しい』っしょ?

 コンフォート17に、アタシ用にあてがわれた部屋がある。もうずいぶん長い間使ってないけれど、まだ鍵は有効だろう。そこへコイツを連れて行く。

 考えてみれば、あの部屋の鍵を未だに大事に持ってるあたり、アタシはNERVを、弐号機を捨て切れていなかったんだ、と思う。
 今となってはそんなことはどうでもいい。
 もう一度弐号機に乗れるのなら、もう一度戦えるのなら。
 望むところだ。

 部屋に着いたら、その血ぜんぶきれいに舐め取ってやるからね。

 我ながらなかなか粋な演出を思いつくもんだ。
 そう思わない、ムサシ?

 返事はなかった。

「アスカさん急がねえとやべえぞ、ポリが来ちまう」

 遠くから響くサイレンを背に受けてアタシたちは淀んだ『公道』を歩いていく。
















 NERV本部に着くと、ロビーに綾波がいた。

 昨夜は結局寝過ごしてしまった。
 朝、僕を迎えにやってきたミサトさんはパンツを下ろしたまま抱きあって眠ってた僕たちを見て逃げ出したくなったそうだ。そんなこと言って、あなただって若い頃はさんざん遊んだでしょう、僕たちなんてまだヌルい方ですよ、と気の抜けた声で言ったら至近距離から鳩尾にヘビーな一発を貰った。吐くものが無い分余計に苦しかった。
 ここ数日の連投のせいもあって体力が限界に来ていたようだ。半死半生の状態で、ミサトさんのクルマに揺られて僕はNERV本部に再びやってきた。
 マナはひとりでどこかへ遊びに行ってしまった。
 ムサシたちとは相変わらず連絡がつかない。携帯にかけても電波もしくは電源のアナウンスが流れるだけだった。

 僕は第3新東京市立第壱中学校2年A組への転入を告げられた。
 さっそく明日から行けということだ。ま、初日だけは顔出しといてあとは適当に。

 ちなみに綾波は僕よりいっこ上で、3年A組だそうだ。ってことはマナとタメか。いちおう学校に在籍はしてたんだね。そりゃそうか、義務教育だしな。

「うーん、意外だったな、綾波が年上だなんて」

「そう?」

「ねえ『綾波先輩』って呼んでいい?」

「遠慮してくれると嬉しいわ」

 綾波の手首にはなにか締め付けたような青痣が残っていた。
 気になったが訊けなかった。

 目が覚めたのは何時間後だったろう。
 ハルシオンを山ほど飲んで爆睡して、起きたらさっそくマンチって食べまくり。体力回復。

 またしても薬を勝手に持ち出したことがばれて、綾波に首絞めをくらった。食堂のテーブルについてスパゲティをかきこんでた僕の横につかつかと歩いてきて、無表情でいきなり腕を伸ばしてきたときは死ぬほど怖かった。死ななかったけど。見開かれた真っ赤な瞳が僕を飲みこもうと口を震わせてた。血のように、どこまでも赤い。ディープブラッドという、そのまんまな名前のカラコンちなみに度入り、だそうだ。綾波って目悪かったのか。眼鏡の綾波も悪くないな、そう言ったら今度は拳で殴られた。
 バンジージャンプした意識の遠くで皿の割れる音がした。ああ、僕のミートソースが。

 激突した重力は僕の視界をレッドアウトさせた。脳ミソの血流が増えすぎて、目玉が血で染まるんだ。どこまでも赤かった、綾波の瞳も僕の瞳も。

 限りなく真紅に近い瞳。

 昨夜潰した蛾が壁の染みになって残ってた。めんどくさくて掃除してないうちにいつの間にか増えてたな。手形みたいなのは、ラリって壁を叩いたときについた跡だろうか。

 あの頃のままに。

 部屋に一緒に住みたいと言ったら綾波は一言、そう、とだけ言った。

「ねえ綾波、マナもつれてきていい?」

「構わないわ。寝る場所は床だけど」

 それから綾波は僕を女子トイレに連れ込んだ。何をされるんだろう、とわくわくしていたらいきなり振り向きざまに足底の蹴りを腹にくらった。あ、縞々パンツ。
 食べたものを危うく戻しそうになった。なんだ、やけに荒れてるじゃないか、どうしたんだ綾波。抵抗らしい抵抗もできずに僕は便所の床に仰向けに倒された。芳香剤と業務用洗剤の香りが鼻をつく。綾波は僕の腹の上に馬乗りになった。意外と重いな。そうでなきゃあの腰の入った蹴りは打てないか。

「私といっしょにいてくれるの」

 トーンは低かった。

 迷ってるのか。感情を持て余して。僕はまるで映画かドラマでも眺めてるかのように、意識の外側から自分と綾波を見てた。
 以前までの僕だったらこんなこと出来なかった。蹴られた瞬間怒りが湧き上がって、やり返すことしか頭になくなっただろう。
 だけど僕はそんなこと思わない。
 ただ、どうしてだろうという疑問だけが心にあった。
 どうしたの綾波、と、相手を心配する気持ちだけが。

 『理性』は鈍くなった。
 『感情』も、一般的な部分では鈍く。

 『社会性』聞かないでください。

 『協調性』なんですかそれは。

 『人間性』知るか。

 言葉が思いつかない。心を表す言葉は無い。ただ目の前にいる人間のことが心配だ。悲しみが胸を突き刺す。悲しい哀しい悲しい哀しみ。そして切ない。

 僕は綾波の腕をそっと撫でた。
 綾波は驚いたように僕の手を振り払い、その返しで思い切り僕の頬を殴った。

 痛みは感じない。あえて感じるなら胸が痛かった。身体の胸じゃなく、心の胸が。

「寂しかった…どうして」

 震える声で綾波は言った。

「どうしてこんなに寂しいと思うの…」

 そうか。
 はじめての感情だったんだな。

 僕と出会って、僕と過ごして、僕と暮らして、僕と寝て、そうして僕が居なくなった。
 その時初めて、『寂しい』って気持ちが胸に浮かんだんだ。

 思慕でも愛でも、ましてや恋でもない。

 ただ誰かが居なくて寂しいと思う気持ち。
 そばにいる誰かがほしい、そういう気持ち。

 今はまだそれでいい。

 涙、それは僕の涙、同時に綾波の涙。
 僕が泣くのは綾波が悲しいから。僕たちの心はひとつさ。
 遠い昔にどこかで別れた、ひとつの心が。

 唇の端から血が一滴こぼれた。

 出会わなければこんなことにはならなかった。
 僕の姿を一目でも見ることがなかったら、こんな思いは抱きはしなかった。こんなに苦しむことはなかった。

 たぶん綾波はこれからずっと、この苦しみと戦っていかなきゃならないだろう。一度でも出会ってしまったなら、もうその事実は消せない。もし僕を忘れる時があったとするなら、それは今の綾波がいなくなるってこと。人間は時と共に変わってゆく、別の人間に変わってしまう。代わってしまう。替わってしまう。換わってしまう。
 そうやって人間は命と愛と悲しみと憎しみの歴史を紡いできた。

 ほんと、自分の甘さ加減が嫌になる。

 それは自分自身に対する姿勢の裏返しでもある。自分に厳しくできないから、他人を甘やかしてしまう。辛いことより楽しいことの方がいい。僕が我慢すれば誰かがいい思いをできる、その感情によってしか僕は耐えることができなかった。

 そんなんで幸せになれるのかよ。

 もともと僕はそんなに辛抱強い人間じゃない。
 だけどやることはやりたい。それが正しいかどうかは僕しか知らない。僕の欲望においてのみ正しい、ってこと。難しいことは考えずに、ただやりたいことだけやるってこと。

 綾波といっしょにいたい。そのためには何をすればいいか?僕がここにいればいい。僕がNERVにいれば、僕たちはいっしょにいられる。僕がここを逃げ出せば、たぶん僕たちはもう二度と会えなくなる。NERVが僕たちを会わせないだろう、永遠に。たしかに、墓の中からじゃ会いにはいけないよな。

 破瓜の中からじゃ愛にはいけない。

 なんのこっちゃ。

 どうでもいい。

 眠くなってきた。

 食べ過ぎたのかな。
 まあ、いつものことだ。

 世は全て、事もなし。
















 本部を出るとすっかり夜になっていた。

 ヘッドライトが行き交う大通りを僕と綾波は並んで歩く。
 第3新東京市は兵装ビルとNERVの関連施設ばかりが立ち並ぶ無機質なイメージだったが、意外に賑やかな街並みもあるんだ。

「このあたりは新歌舞伎町といってね、この街でいちばんの歓楽街よ」

 綾波、ガイドさんも向いてるんじゃないかな?
 はとバスは嫌いじゃないわ。

 でも人ごみは好きじゃない。

 ミニストップに寄って夜食を買う。僕は惣菜パンとチューハイ、綾波はフルーツゼリーを買ってた。外の自販機で煙草、僕はラッキーストライク、綾波はピースライト。
 こだわりとかあるんだ?
 別に、なんとなくよ。
 僕もそうだよ。たわいもなく話しながら歩く。

 落ちてくるビルの照準灯が流れ星に重なった。

 水に浮かんだ光が転がっていく。きらめきはそこにあるんじゃなく、見る者の心の中にある。
 でも御殿場に比べるとクルマも人も少ない。

「御殿場<あっち>は戦自やUNの基地があるから、人も自然と集まってくるんでしょう。こっちはただの名目上の首都だもの」

「そうか、言われてみればな。いろんな人がいる」

 同じ町、同じ道路、同じ建物。
 同じ人間が造ったもののはずなのに、どこかが違う。
 探りきれないなにかを見つけようと僕は、見えないものを見ようとする。その姿勢、大事だと思う。

「基地のハウスで『営業』する子も多いと聞くけれど」

 何を驚いてるの、有名よ。
 綾波はこともなげに言う。

「ハウスっていつの時代の人間だよ、綾波」

 そりゃ、UN本部が第2東京に移転してから基地も増えたし、そういうのはあったらしいけど。あそこってそういう場所だったのか?どうなんですかリリィさん。
 名前なんてどうでもいいわ。碇くん、あなたもそうなんでしょう?リーくんも浅利くんも霧島さんもみんな言っていたわ。母親を亡くし、父親に捨てられた少年はたった一人で生きていくために、女装をして自分を売るの。娼婦の息子は母親の影を求めて、自らも男娼として生きるのよ。
 ちょ、待ってくれ、勝手に話を広げるなよ。大体なんだよ、そのどっかの映画で見たような筋書きは。僕の母さんは娼婦じゃないだろ、綾波知ってるの?
 碇くんこそ、自分の親のことなのに知らないの?

「知らないよ、僕が小さい頃に死んじゃったし。覚えてることって無いや」

「でもあなたのことは事実よ」

「そりゃあね、だけど売りとかそういうんじゃないよきっと、だって僕は」

 だって何?男と寝てお金貰ってるんでしょう。立派な売春よ。

 僕は言い返せなかった。
 僕はなんでこんなことしてるんだろう?何を求めてこんなことしてるんだろう?僕を可愛がってくれた何人もの米兵たちの顔を思い浮かべる。
 誰でもよかった、そうなのかもしれない。だからといってマナたちじゃあダメだった。僕はきっと飢えていたんだと思う。何に?
 誰かを愛し、愛されること。その快感を知った僕はいっきに引き込まれてしまった。小さい頃はよくムサシやマナと遊んでいたリリィさんの店に、夜遅くに待っていれば嫌でも彼らとは顔を合わせる。もとからそっちの気もあったのかもしれない、たまたま相手が趣味人だったのかもしれない、そんなことはどうでもいい、僕は初めて大人の男を知った。

 日本人少女は食い飽きた、男もなかなかいけるな、いやむしろ男の方がいいって、なあボウズ。

 言葉はわからなかったけど、喜んでくれているということだけはわかった。今まで生きてきていちばん嬉しかった瞬間だった。
 昨夜リリィさんの店でウィルが言っていたように、UN軍の中核を占めるアメリカはセカンドインパクトの被害でとても困窮している。国民の生活は苦しく、残された強大すぎる軍事力に縋るしか生きていく道が無いような状態だ。学校で教えられる現代社会の授業なんかより、彼らの生の声の方がよっぽど心に響いてくる。
 そんな彼らが何を思って日本に来ているのか、と考えると僕は切なくなる。
 それからたくさんの米兵と付き合って、ウィルもそのひとりだった。
 その頃にはもう僕はTSの症状が出ていて、女性ホルモンを摂取するようになっていた。おかげで胸はふくらみ、肌や髪の質も女っぽくなっていた。ふくらんだといっても服を着ればわからない程度なので、普段の生活にも支障はなかった。
 自分がゲイだって気はしなかった。僕にカミングアウトしてくれた人もいたが、彼の話を聞いた限りでは僕の感覚とは違う、と思った。

 TS、トランスセクシャル。GIDすなわち性同一性障害の一種。
 僕は男として生きたいのか、それとも女になりたいのか、そしてそれはフェティシズムとどう違う?

 メイル・トゥ・フィメイル。MTF、男性から女性へ。

 今更そんなことはどうでもいい、と思う。
 ドラッグクィーンといえるほど過激ではない。ペニスはもうほとんど機能してないだろう。たまに勃起はするけれど、快感は薄い。性欲も薄れてきてる。

「綾波はさ、僕のこと本当にホモだと思うの?」

「その言葉を使うのはあまり喜ばしくは無いわね」

「まあね、だけど普通の人間にはその方がわかりやすいだろ」

 ねえ綾波、君は僕を男として見てるの?男として付き合いたいわけ?
 綾波は答えないままに僕の手を握った。

 わからない、ただ、そばにいてくれる人がいるということが嬉しかった。私は今までずっと一人暮らしをしてきたけれど、それで寂しいと感じることはなかった。だけど今は違うわ。碇くん、あなたを知ったことで私は変わった。

「僕と、同じなんだね」

 そうね。
 綾波の目は遠くを見ていた。

 こんな関係、長続きするわけがない。まさか一生を共に、なんてことはできないだろう。想像すると死にそうなほどに恐ろしい。

 友達かな?ほらなんていうかな、ルームメイトみたいな。

「友達でいたいの?」

「嫌なの?」

 そうじゃないでしょう。無理に肩書きをつけて自分を閉じ込めることはないわ。
 嘲るように笑う綾波の姿がとても愛しくて、僕は綾波の肩に頬を寄せた。僕よりひとつ上。そう思うとさらに頼もしく思えた。レイお姉さま、かな。違うか。

「女とセックスしたいという気持ちはないの?」

「わかんないな、どうだろ。身体は反応するんだよ、たしかに。だけど心とのギャップっていうのか、僕はそんなに女を欲しいと思ってるのかなって、冷めちゃうんだ」

「霧島さんとは?」

「マナか…小さい頃からずっといっしょにいるし、なんだろうな。僕がこんなことになってるのは知ってるし」

 綾波の部屋にはマナの姿はなかった。だけど荷物が増えてるとこを見ると一度来てはいたみたい。そのうち会うだろう。

 部屋に戻ってから蒸しタオルで綾波の身体を拭いてやった。まだ怪我が治ってないから、あまり風呂にも入れない。綾波の白い肌をすこしだけ羨ましく思った。
 同じベッドに肩を寄せ合って寝る。
 コンタクトを外した綾波の瞳はとても深く澄んだ灰褐色をしていた。僕はいつになく寂しく思って綾波の腕にかじりつく。毛布の下で、綾波は僕に足を絡ませてくる。綾波先輩。僕はあなたに抱かれたいです。
 これがときめきってやつだろうか。ただの変態なだけか。

 僕は綾波の胸に顔を埋めて泣いた。泣き腫らした。

 男のくせに情けないな。なんだそれ。
 男のくせに?
 男だからってどうして?
 僕はどうして生きてる?生きてるって何だよ。僕は生きていていい人間なのかよ。といって、自殺する勇気なんてない。綾波は僕の腕を取ってそっと唇を這わせる。左腕の手首、何度も刃を入れたことのある場所、綾波はそこを慈しむように舐める。身体じゅうの芯から切なさが滲み出て僕の胸を締め付ける。僕はすぐに濡れてしまって、綾波の太ももに粘っこい蜜を塗りつけた。

 涙と愛液を垂れ流して僕は震えていた。ときおり身体が痙攣するように跳ねる。

 心臓が破れそうなくらいに胸が痛い。
 明日、学校行けるかな。安定剤入れないときついなこれは。

 ていうかすぐ薬に逃げる癖なんとかしようよ。

 そんなことを思いながら僕は眠りに落ちる。


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