初めて、太陽の光を浴びたのはいつのことだっただろう。

 空はきのこ雲が大きく広がっていって、太陽の姿を隠していた。
 葛城、と名乗っていた黒髪の女性が引っくり返ったクルマから僕を助け出す。周りはどこまでも瓦礫の山だった。はるか遠くに、煙に巻かれた黒い巨人の姿が見える。閃光が走って、近づいた戦闘機が撃墜された。

「現実逃避かな、これって」

 N2地雷の爆発で吹き飛ばされた大気が渦を巻き、風が激しく騒ぎ始める。

 空は赤く染まり、そして大地も、クレーターの中に溜まった水は赤かった。抉り取られた箱根連峰の山肌を縫って、海水が流れ込んでくる。

 クレーターは赤い海になった。

 やがて波が寄せてきて僕の足を濡らしていった。
 すこし離れたところに、僕と同じくらいの年頃の赤い髪をした少女の亡骸が横たわっている。水平線の向こうに白亜の巨大な月が浮かんでいて、よく見るとそれは人間の顔、少女の顔だった。

 黒髪の女性が首から提げていた十字架のペンダントを僕に差し出し、僕はそれを手ごろな木片に引っ掛けて地面に突き立てた。

 お墓を建てよう。みんなの墓を。
 僕は独り言のように呟いたが、女性は何も答えなかった。
 空は赤から黒い闇に変わっていて、今度は天の川が赤かった。よく見ると、それが地球を取り巻いている環なのだとわかった。

 海上にはいくつもの巨大な十字架がそびえ立っている。
 海岸には首のとれた天使像が血まみれになって建っている。血に見えたのは赤錆だった。

 僕は別にクリスチャンじゃあないんだけど。

 波は静かに寄せては引いてをくり返す。
 波のざわめきはいつしかノイズへと変わっていた。

 僕はベッドから起き上がって、首の下で絡まっていたイヤホンのコードを引っ掴んだ。枕元に置いたS-DATが回り続けて、モーターがキリキリと軋み音を立てている。バッテリーを見ると残りひと目盛りまで減っていた。

 小さな丸テーブルの上にはワインの瓶、灰皿には吸いかけの煙草が載っていて白い煙をたなびかせていた。吸い口にはまだ新しい赤い血がついている。
 フラスコのような形をした瓶にはまだ半分くらい中味が残っている。ラベルにはヨーロッパの田舎によくある一軒家が描かれていたような気がしたが、ぼやけてよく見えなかった。

「ねえ、そのバスタオル取ってくれる」

 綾波は僕に背を向けて、水の滴る制服を脱いでいた。クリームのように白い肌を、薄汚れた包帯が縦横に覆ってる。包帯に染みこんでいく水が、彼女の肉体を冒していくように僕には見えた。

「濡れてるじゃないか、どうしたの?」

「雨だったのよ」

 脱いだブラウスを投げつけて、汚れた包帯を解いていく。僕は床に落ちたブラウスを拾い上げ、ベッドの上にぶら下がっている物干しの空いたクリップへ挟んだ。

 僕は寝ている間引っ被っていた茶色いバスタオルを手に、ベッドから立ち上がった。僕より少しだけ背の高い綾波の瞳が僕を鋭く見下ろす。
 照明の落ちた部屋は薄暗く、表情は見えない。ショートシャギーの入ったボブスタイルヘアーが、葱坊主のようなシルエットを打ちっ放しの壁面に浮かび上がらせてる。

「ところで、さっきの話本当なの?」

 受け取ったタオルを首に掛け、うなじを撫でながら訊いてくる。

「ああ、明け方に強羅の138号でね、赤いFXだったよブラックテールの。他に5、6台くらい連れがいたかな」

「やっぱりね、昨日葛城一尉を通して保安諜報部に伝えてくれるよう頼んだのよ。嫌がらせなのね、作戦部への。ほんとなら彼女一人捕まえるくらいわけないもの」

「アスカもアスカでなあ…なんとかこっちで説得できないものかな?」

「それは碇くん、あなたがやってくれるならいちばん適任だわ」

 綾波はそう吐き捨ててバスルームへ向かった。ややあって湯の吹き出る音がし、水音がコンクリートの床を叩き始める。そうか、今日は雨なんだっけ。

 そう考えると妙に安心し、僕は再びベッドへ戻った。
 煙草を取り出し、火をつける。香ばしい煙が舌と喉をゆったり慰めてくれる。そういえばこっちに来てからずっと喫ってない葉っぱが恋しい。
 S-DATをかけなおすと、懐かしいユーロビートが再び僕の身体に満ちた。
 僕は音楽史なんてよく知らない、だけど、前世紀つまりセカンドインパクト前に流行ったダンスミュージックなんだ、とマナはよく言ってた。

 握り締めてるラッキーストライクの箱を見ると、彼女のことを思い出してしまった。
 この煙草もマナが大好きなやつで、彼女の真似をするうちに僕もいつの間にかこいつばかりを喫うようになってた。別に僕は洋モクファンってワケじゃない。

 灰がこぼれて床に散らばった。

 机の上に眼鏡が乗っているのが目に留まった。よく見るとフレームが曲がってレンズも割れてる。それ以上の興味はわかなかった。僕は再びベッドに横たわる。

 眠い。
 何時間寝ていたんだろう。その前に今は何時なんだろう。

 綾波はここに来てから毎日、どこかへ出かけていって夜遅くに帰ってくる。
 学校には行ってないらしい。じゃあその制服は、と聞くとほかに服を持ってないと言った。

 仕事のことはまだ聞いてない。エヴァとか、シンクロがどうとか、起動試験がどうの、とか言ってた気がするけど、僕には何のコトだかさっぱりわからない。といって、彼女の職場『NERV』までついていこうという気にはさすがになれなかった。

 ハンガーに掛けられた綾波の制服、このどことなくレトロな感じがするジャンパースカートは第壱中<イッチュー>のだ。ずっと着っぱなしだった自分の服を思い出す。僕と仲間たち、マナ、ムサシ、ケイタが通う御殿場中<テンチュー>の制服。海松色のブレザーはダサいって意見が多いけど、僕は気にならない。

 雨で湿度が高いせいか、しけった汗が蒸れて茹だった匂いを放ってる。何日も着替えていない制服に爪を立てると毛玉が取れた。

「碇くん、昨夜私の薬勝手に使ったでしょう」

 シャワーから上がった綾波が枕元に立ち、髪を拭きながら僕を見下ろす。

 ああ、たしかに2錠もらったよ、まずかったかな。
 綾波は何も言わずにじっと睨んでた。ギプスをはめた左腕が、壊れたからくり人形のように垂れ下がってる。

 灰皿の横に出しっぱなしのハルシオンのシートがある。1シート10錠のうちの2錠がちぎられて封が開いてた。

 新しい包帯とガーゼを投げてよこす。
 汚れたから替えろ、というのだ。僕は起き上がり、いつもそうしてるかのように綾波の包帯を替えはじめた。なんとなく、それが僕がここに居ていい条件のような気がしてた。

「どうしたの」

「いや。綺麗だなって」

 つい、背中の大きな傷に見とれて手を止めていた。
 抉られたように肉がただれてる。治りかけで瘡蓋がそこらじゅうに盛り上がってる。白い肌にそこだけが赤黒く、熱帯の食虫花のようだった。これを開いたら、きっともっと綺麗だろうな。思わず涎が垂れる。

 いったいどうやったらこんな怪我を負うんだろう。昔どこかの博物館で見た、傷痍軍人の写真を思い出した。

 惜しみながら僕は傷を消毒してガーゼをあて、包帯を巻いていった。綾波は裸のままじっと待ってた。肌が氷みたいに冷たくて、触れてる僕の手も冷たくなった。綾波の身体は傷口から放たれる血の臭いがしている。

 蒼い髪の生え際が黒くなり始めてた。撫でると綾波はむずがゆそうに頭を振った。

 仕事ってずいぶんハードなんだろうな。眠るのに薬に頼るくらいだから、と綾波の髪を眺めながら思った。

「あの薬ってどこから手に入れてるの?」

「赤木博士から貰ってる」

「赤木ハカセ?」

「私の世話をしてくれてる人」

「男の人?」

「いいえ」

「女、なんだ」

「私の………………母親代わりになってくれた人」

 綾波はそこで言葉を少し淀ませた。迷っているように見えた。

「身近にそういう人が居るっていいよね。恵まれてる環境だ」

「そうね」

 綾波の言葉は意外だった。ほんの一瞬だけ、気持ちが通じ合ったような気がした。
 その時僕は思ったんだ。ああ、この子も仲間なんだって。

 他人のことなんか気にしたって意味は無い。いつからだろう、ずっとそう考えるように、自分に言い聞かせるように、僕はしてきた。殻を作るっていうのか、醒めたふりをするっていうのか。その方が硬派でかっこいいような気がしてた。

 それも建前だ。

 だけどこうしてはっきりと言い合うのは、仲間であることを誓い合う儀式のような気がする。

 胃の奥から少しだけ、メタンフェタミン独特の苦みが戻ってきた。
 包帯を握る手が一瞬だけ震える。

「綾波もよくやってるんだろ」

「あなたほどではないわ」

「僕だってそんなにたいしたことはないよ。所謂レクリエーションってやつさ。…っと、これでよし。できたよ」

 包帯を巻き終わり、仕上がりを確かめるように僕は綾波の背中を撫でた。すこし感じてるみたいだった。

「ありがとう」

 綾波は裸の上にワイシャツだけを着た。スマートながらゆったりと幅広い腰をベッドに落ち着け、ピースライトに火をつけて一息喫う。
 紫煙を纏う少女。その姿はどこか頼もしく見えた。

 女ってやっぱり強いよ。同じ年頃なのに、僕なんかよりずっと強く生きてる。
 綾波のすべてがこの世でいちばん美しく見える。股間が熱くて疼いて悶々としてるのに、ヤリたいって気持ちがなぜか抑えられてる。こうして彼女を眺めて興奮してるだけで幸せになれそうな気がする。

 愛しさを届けたい、永遠の流れ星。

 僕も綾波の隣に座り、自分の煙草に火を移してもらう。ラッキーストライクの香ばしさに混じって、綾波の味がしたように感じた。

「僕を部屋に泊めて、マズくないの?その赤木ハカセってひとは何も言ってこない?」

「ええ。ガードも私生活までは干渉しないわ」

 ガードって何だろう。意味からすると護衛、監視してる人ってことかな。僕も見られてるのかと思うといい気はしない。

 僕は彼女と出会った頃を思い出していた。ほんの1週間、いや、3、4日前だったかな。
 いつになく冷たい雨が降っていた夜、何の前触れもなく僕の家にやってきた。全身を血まみれにし、顔はまるでヘロインでも打ちまくったかのように蒼く凍りつき震えていた。
 なんでもない、仕事でちょっと事故に遭っただけだ、と綾波は言った。14歳で仕事も何もあるか、と僕は思ったけど、とにかく助けてあげなければとその時は思った。怪我の手当てをしてやると、丸一日経つ頃には彼女はすっかり落ち着いたようだった。

 元気になると、仲間たちは口々にどこから来たのか、仕事って何なのとか、彼氏はいるのか、とか聞いていた。だけど綾波は何も答えなかった。

 綾波の持っていたIDカードはNERVのものだった。NERV。第3新東京市地下のジオフロントに本部を置く国連直属の特務機関。僕の父親が総司令をやっている。
 父親、といったが血が繋がっているというだけで、僕自身はなんの縁も感じていない。できれば思い出したくなかった。

 ある朝、何も言わずに隠れ家を出てバス停へ向かった綾波を僕は追いかけた。どうしたの、帰るのと僕が聞いても相変わらず答えない。ただ、僕がずっとついてきても追い返すそぶりはしなかった。
 綾波と僕を乗せたバスは峠をひとつ越え、第3新東京市で止まった。
 そうして、どこまでも彼女についてきた先がここというわけだ。

 第3新東京市の北の外れ、無骨さと埃っぽさだけが強調されたマンモス団地。
 その一角に僕たちは居る。

「アスカのことは気にしなくていいわ。どのみち弐号機が届くまでは彼女に用は無い」

 そうか、とだけ答えて僕は再びベッドに寝転がった。シーツは冷えて固まった汗の臭いがした。枕元に落ちてた髪の毛を拾い上げると綾波のだった。

「そういえば新湯本のゲーセンで相田っていう眼鏡の奴に会ったよ、綾波に僕のこと聞いてきたって。あんまり言って回られても困るよ」

 相田くんなら、アスカを探していたんでしょうね、彼いろいろと気にかけてたみたいだから。
 綾波はシャツの襟元を軽く引っ張ってジェニファーロペスのスティルを吹いた。香りの飛沫が漂ってきて僕の鼻を刺激する。

 自分とアスカはエヴァンゲリオンというロボットのパイロットなんだと綾波は言っていた。人間が乗るロボットと言われても僕にはピンとこなかった。マナたちが乗ってるトライデントと同じような奴?そう訊くと綾波はニヤリと微笑んで、そんなところよと言った。

 覚えてることは多いようで限られてる。
 僕は4歳のときに父さんの下を離れ、三鷹に住む叔父さんの家に預けられた。
 それなりに気を遣ってはいたようだったが、父さんのおかげで悪い噂を立てられ近所から軽蔑の目で見られていたことは幼い僕にもわかった。小学校に上がったばかりの頃だったか、叔父さん夫婦は離婚して御殿場市に引越し、そこで作家の女性と再婚した。僕は叔父さんについていき、新しい家族と一緒に暮らすことになった。

 あの時こっちに来なければ、マナや、綾波や、アスカやみんなに会うこともなかったんだな。
 綾波は足を組んで椅子に背をもたれたまま僕を見下ろしてた。

「碇くん、そこの棚に青いボトルがあるでしょう。取ってくれる」

 指先ほどの小さなプラスチックボトルを手に取る。ラベルにはピースサインをした人形のロゴが描かれ、青い色の液体が詰まっている。

「ん。これかい」

「そう」

「いいね。二人でいっしょにやろうか」

「そのつもりよ」

 無表情なはずの綾波の顔がとても情緒豊かに見える。

 気のせいかな。僕がひとりで幸せになってるだけかな。違う。綾波も楽しいんだ。楽しんでるんだよ。そうだよね。ただそれを表現する方法を知らないだけなんだよね。

 綾波はボトルのキャップを開けて口をつけ、中味の液体を半分だけ飲んだ。僕は綾波からボトルを受け取り、残りの半分を飲み込む。綾波の唾液も少し混じってた。溶剤の苦味が口中に広がり、膜を作ったように舌を麻痺させる。
 僕はS-DATの出力を綾波のPCにつなぎ、MAXをかけた。コンクリート打ちっ放しの薄暗い部屋にディスコソングという組み合わせは、イリーガルな地下クラブを思い出させる。哀愁系ユーロは僕がいちばん好きなジャンルでもある。

「何を見ているの」

「うん」

 綾波は僕の頬をそっと撫でた。
 アロマは効きが早い。10分もする頃には僕はぽうっとのぼせ上がってた。背中から冷ややかな爽快感が全身に伝わって、じっとり汗をかいて敏感になった触覚を味わう。皮膚がこすれあう感触が気持ちいい。前立腺の辺りがむずむずする。

 僕は綾波の前に跪いた。見上げ、祈るように縋りつく。綾波は煙草を手に弄び、わずかに唇の端をゆがめた。

「面白い人ね」

「綾波も。お母さんみたい」

「男性は誰しも、女性の中に母親の影を見るものよ」

 評論臭いその言葉に僕は腹を抱えて笑った。最高だよ綾波。でも、『母さん』にいい記憶なんてないや。だいいち覚えてることもほとんど無い。『義母さん』はといえば、マナには悪いけど、ありゃあダメだ。でも本当の子供じゃない僕には関係ない。たまに家に帰っても、もう何ヶ月言葉を交わしてないか。マナだってわかってるだろ。

 僕が『あの男』の息子だから。
 あの女にとって僕はただの金づるさ。僕を家に置いていれば、『あの男』、碇ゲンドウから養育費として多額の金を貰うことが出来る。碇ゲンドウ、父さんにしてみればはした金でしかないだろう。そんなはした金に犬みたいに群がるあの女に僕は腹が立って仕方ないんだ。

 父さんは僕を…いや、もうやめよう。思えば思うほど悪い方向へ落ちていく。

「どこまで話したんだっけ?」

 綾波は灰皿のふちに煙草を叩き、灰を落とした。

「葛城一尉が方向音痴でどうしようもないって話」

「でも来たばっかりなんだろ、仕方ないよ」

「仮にも作戦部長よ。本部の構造くらいすぐに把握できないんじゃ世話無いわ。よく言うでしょう、地図の読めない将校は粗大ゴミ、ってね」

 薬が効いている綾波の目はフラフラと泳いでた。
 僕は綾波の腕を取り、そっと頬ずりをした。綾波の匂い。いい匂い。飾らない人間の匂いだ。

 マナはたまに、夕飯はご馳走だからと僕に電話してくる。
 そして僕はわかってる。明るい声は虚勢を張ってるってことを。僕にはできない。あんな家で家族団欒なんてできるかよ。そんなとき僕は、東名高速の高架を歩き、焦げつく風とざわめく騒音に身を委ねる。時速150キロ以上の相対速度で僕をぶち抜くクルマたちは、地獄行きの鉄棺。

「顔上げて」

 まるで女を口説く男がするように、綾波は僕の顎を指で持ち上げた。

 なんだよ、その顔。強すぎる安心感で死んでしまいそうだ。どうして僕にそこまでしてくれる?僕はなにか見返りを与えられてるのか?僕は君に愛される資格が、愛されるだけの価値があるのだろうか。教えてくれよ。
 思いとは裏腹に身体は正直だ。熱すぎて冷たい血液が股間に満ちていく。僕は震えながら綾波を見上げた。

 喰いたいんだろうな。そう。きっとそう。
 綾波は性欲を僕に向けてる。
 そうだろ。でなきゃその表情は説明できないよな。僕の身体が欲しいんだろ。僕もほしいよ。綾波が。

 僕は泣いていた。

 涙が頬から落ちて、手の甲を濡らす。綾波はその雫を唇で拭った。どうしようもない切なさが胸に満ちていく。

 綾波は僕を胸に抱き、あやすように髪を撫でてくれた。冷たい肌、気持ちいい。
 少女の身体、それはとても聖なるもの。綾波の顔を見上げる。表情は相変わらず、彫像か能面のように変わらない。だけど、それがどうした?
 僕は綾波のひとつだけの表情にたくさんの感情を読むことが出来る。大事なのはココロだよ。気持ち。それを伝える方法はひとつじゃない。

「僕らしくも無いな」

「そう?」

「もっと硬派なんだよ」

「アソコも硬派なのね」

 再び笑う。僕は泣きながら綾波をベッドに押し倒した。跳ねる綾波の肉が僕を叩く。身体じゅうがさっきからビクビクと震え続けてる。

 笑顔で涙を振り撒きながら僕は綾波を抱いた。腰から下が溶けてしまったようだ。僕の身体と綾波の身体がどろどろに溶けて、液体になって一つに混ざる。キスしようと僕は唇を近づける。

 綾波は僕の頭を思い切り拳骨で殴った。星が飛んだ。

 ついでに涙も止まった。

「痛い」

「ごめんなさい」

 なんでそうされたのかわからないのに妙に納得できた。痛みはたしかに痛いけど、でも、そんなのどうだっていい。

 惚けた顔の僕を降ろし、綾波は起き上がった。
 乱れた服も直さないまま、枕元に置いてあった『ぐるぐる使い』を開いて読み始める。

 うう、すごいな。僕は目に思い切り来ちゃって、表紙の絵を追うだけで精一杯だ。よくクスリ入れて本が読めるね。感心する。
 足を組んで座る綾波のふくらはぎに青い血管が浮いてて、綺麗だった。

 僕は濡れてしまったパンツを脱ぎ捨てて、その日はもう寝ることにした。
 すぐには眠れないだろうけど、身体を休めようと思う。涼しげな浮揚感に包まれながら僕はベッドに横になった。S-DATが奏でるユーロビートが僕の心を慰めてくれる。今夜は素敵な夢が見れそうだ。

「ねえ綾波、夢ってよく見る方?」

「いいえ」

 綾波は本から目を離さずに答えた。

「でも、夢の世界に行くことはよくあるわ」

 スタンドライトの灯りをバックに、頬杖をついて本を読んでる綾波のシルエットがとても印象に残ってた。胸にキメた光はホンモノだから。だから忘れない。

 胸に秘めた光、だ。どっちでも大差ないけど。

 碇くん。

 綾波の優しい声が、聞こえた気がした。
















 ドアを開けると湿った空気が流れ込んできて、部屋の中の蒸れた腐敗臭をかき混ぜる。流しに食べかけの林檎があってそれが腐っていた。床にはいつこぼしたのか忘れたウイスキーがこびりついている。

「よぉシンジ、調子ぁどーよ?」

 ムサシがマナに肩を貸して歩かせながら部屋に上がってきた。マナはニトライトで酔った瞳を僕に向けて蕩けた笑みを浮かべる。

「止めたんだけど待ちきれねえってよ、来る途中のバスん中からずっと吸ってたんだぜ。どっかのババァがすげえ顔で俺たちのこと見ててよ、気まずいったらなかったぜ」

 二人の後からケイタが顔を出して、抱えたリュックの中から茶色いハシシを取り出して皿に載せ部屋の真ん中に置いた。キャンプ用の着火器具で火をつけると白い煙を噴き始める。マナは足をもつれさせながら冷蔵庫の前に座り込み、アムステルダム・スペシャルの小瓶を取り出して鼻に当てた。

「けっこう落ち込んでんのよーこれでも」

「なんかあったの?」

「ん、ちょっとな。今日付けでマナぁお前と同じ一般ピーポーに戻るんだ、依願退職ってやつさ」

 もういいって言ってるでしょ、いい加減にしてよ。
 ムサシは僕にパイプを渡し、自分は火皿の蓋をあけて葉っぱをスプーンですくって入れた。僕はターボライターの長い炎がムサシの咥えてるパイプに滑らかなカーブを描いて吸い込まれていくのをじっと見つめてた。

 ケイタがリュックからセブンスヘヴンのパケを取り出してマナに渡す。マナはすかさずビニール袋を破って中味の茶色いハーブを全部ワインでいっきに飲み込んだ。
 そんなマナの姿をムサシは呆れて、ケイタは苦笑いしながら見てた。しばらく放心してたマナは長いげっぷをして胃の中に溜まったガスを吐き出した。

 碇くん私は寝るわ。
 綾波はそう言ってベッドに横になった。

 僕はマナからワインの瓶を受け取って一口飲む。

「ケイタお前は喫わないのか」

 オレはいいよ、オレは煙草もダメだしさ。喉弱いのかなあ、とケイタが手を振って答える。そりゃ慣れの問題だ、言いながらムサシは煙を吐き出す。

 客たちは思い思いに遊んでるっていうのに、家主はいい気なもんで昼寝中。綾波ってほんと、マイペースというか図太いというか。よくこんな部屋で寝られるね。戯れに綾波の胸を揉む。マナが恨めしそうに睨んできたんで手を離した。

 ぬるぬるした汗が、油を絞るように噴き出る。混ざり合うみんなの体臭とマリファナの香りが太いロープのように絡まって、僕の身体のあらゆる穴にねじ込まれる。
 目の奥から頭の後ろまでがぐにゃぐにゃと歪んでく。泥だらけの手で脳味噌を揉まれてる。身体の動きが鈍くなってる。手を握って開いてをすると、指がつるぺたのマネキンに見えた。

 肉体が蠢いてる。人間のかたちをした肉の塊。

 ムサシは紙コップにウィスキーを注ぎ、取り出した小さな試薬ボトルから白い結晶状の粉を耳掻きでひと掬いぶん、計って溶かしこんだ。

「おいマナ、これでも飲んで気合入れとけ。いつまでも気にしたってしょーがねえぞ。
それと直吸いはもったいねーしピンでやっても意味ねーだろ」

 手渡されたコップの匂いを嗅ぎ、マナは苦そうに顔をしかめた。すっかり脳に回ったニトライトで紅く上気した頬がきれいだ。

「うえーなによムサシ、FOXYじゃないのよこれ。今は突っ込む気ないよ〜苦いしさあ」

「バーロ、イッキすんだよイッキ。大丈夫、こいつにも一緒に逝って貰うからな」

 そう言ってムサシは豪快に僕の背を叩いた。思わず手に持ってたパイプを取り落としてしまう。こぼれ落ちた葉っぱが床に散らばって、笑いながら霧散していった。

「シンジ、はんぶんこしよー」

 僕はFOXYリキッドの入ったコップを持ってた。
 漂う油みたいな色の液体を見てると口の中に唾液がとめどなくあふれてくる。トラウマになりそうなくらい強烈な苦味が舌をひねり上げ、嘔吐感を誘う。

 飲み込んだ直後、真下から突き上げてきた悪寒に耐え切れず僕は後ろにぶっ飛んだ。思わず放り投げたコップが床に転がり、中味がこぼれて水たまりを作る。
 綾波のひざこぞうに頭突きをくらわせ、僕はベッドに身体を沈めた。仰向けになって下半身を丸出しにした僕にマナが飛びかかってきた。鳥肌が身体じゅうに突き立てられる。胃の中でなんだかわからないぶよぶよした固まりが波打ってる。

 吐き気が酷くて僕はベッドに頭を埋めて唸った。顎が震えて歯がガチガチと音を立てる。奥歯を何度も舌で舐め、滲み出てくる歯垢の味を洗い落とそうとする。苦い唾液と膿をシーツに垂れ流しながら僕の身体はひっくり返され、マナが僕のペニスを掴んだ。

 きゃはは、なによシンジふにゃふにゃじゃないの。縮んじゃってるよ、ホルモンのやりすぎでインポになったんでしょ、そうでしょ?
 違うって、薬のせいだろ、僕はきっと立たなくなるタイプなんだよ。
 笑顔が爬虫類のように歪んで見えて僕はまた呻き声を上げた。マナはキャッキャッとはしゃぎながら僕の腹の上で跳ねてる。しゃべるたびに胃の中味がこみ上げてきて喉を焼いた。

「何言ってんだ今更隠すことないだろ、ホモは恥じゃないぜー基地でも人気だぞ?オレたちのとこまで聞こえてきてるぜ、碇はマジ凄えってな」

 やめてくれ、僕がホモなわけあるかよ。
 えーシンジ、そんなオイシイ仕事あるんだったら独り占めしないで、私にも紹介してくれたっていいのにぃ。
 だからそんなんじゃないって、あくまでも個人的な付き合いとして僕はだね。
 おいおい、じゃあ認めるのか?アメ公どもとホモって金貰ってるっての認めんだな?ムサシが肩を震わせて笑いながら僕を見た。
 アメ公ってムサシお前、やべーよそれはさすがに、あーそうだ援交だよ、そうだよな小遣い貰っちゃってるもんなー。でもあいつはほんといいやつなんだって、なあ知ってるだろ?ウィルもドムもな、シェリーさんだって。僕はマジで好きなんだよ。だから辛いんだ、わかるだろ?

 僕は腕を伸ばして酒をくれ、と言ったが誰も持ってきてくれなかった。
 マナこそ天城さんのことはどうしたんだよ、あの人は優しいからもっと付き合えばいいじゃないか。

「シンジのバカ、ヘンタイ野郎!」

 マナの拳に頬を撃ち抜かれて僕は心地いい痛みに浸った。脳みそがいつまでも頭蓋骨の中でゆらゆらと揺れてる。耳から温かい血が流れ出てるように感じて手で拭ったが何事もなかった。血液の流れが直接耳小骨を揺さぶって音を感じさせてる。
 聞こえるよ、生きてるんだ。生きてる音が聞こえるんだぜ。
 誰かがくすくすと笑っていた。
 冗談だと思ってるな、ほんとだよ。
 わかってる、わかってるから。涙の滴が落ちてきて僕はマナに抱かれた。

 生暖かい音圧の壁に僕は包まれる。羊水の中かもしれない。

 空気が波打ってる。水の音がする。腰の中にねっとりと気持ちいい液がいっぱいに満たされてる。精液っていうかもう小便かもな。どっちだろうが知らない。濡れてればどっちだって変わらない。むしろ放尿プレイがしたい。

「それにしてもよー、あのキクチって野郎、マジでむかつかねえ?アイツのせいだろ、マナがトライデント降りることになったの」

 水槽の中に声が響く。

 まーなぁ、オレもアイツにはいろいろやられてるし。でも基地に殴り込みとかは止めといた方が良いんじゃない。
 んだぁケイタ、今更ビビることかよ。俺ぁ御殿場のMPに知り合い居っからよ。

 かなり酔いが回っているらしいムサシが大げさに腕を振ってベッドを叩く。
 ムサシが前に捕まってた御殿場基地の収容所って、いろいろステキな薬打ってもらえるんだって。うらやましいなあオイ。
 その伝手で、僕らもまあいろいろと手に入れることが出来るわけなんだけど。

 あいつらぜってー許さねえからな。明日にでも潰しかけんぞ。
 そりゃ、ね。コバヤシさんだっけ?MPの知り合いって。あのヒトもどっからか知らないけど、なんでも引いてくるよね。

 ケイタの苦笑がやけに頭に響いた。

 んなことよりよ、ムサシ。お前あの彼女どうしたんだよ?ほらなんていったっけ、マユミちゃんだったか?彼女よ。
 あぁ?違えーよアイツぁそんなんじゃねーって。あんな根暗ブス。
 またまたぁ。わざわざこっちに来たの、彼女捜そうと思ってたんじゃないの?第壱中<イッチュー>はここから近いし。
 だっからよぉ!違うっつってんだろ。今の俺ぁマナひとすじなんだよ。
 あははっ、そうなんだ?いや実はオレも。
 ヨリ戻したってか?考えてみりゃ逆ハーレムだよなぁ、この女も。

 ムサシはマリファナで緩んだ笑いを浮かべながら僕たちを見下ろしてる。女王様なマナもいいかもしれない。僕たち男どもを従え侍らせるお姫様。ガキ大将にしか見えないけどな。もしくはレディースの総長とか。

 隣でうっすらとまぶたを開けた綾波と目が合った。マナと睦み合いながら、綾波と微笑み合う。嗤ってやがる。気楽なもんだ。
 僕は左腕でマナを抱き、右手で綾波と手を繋いだ。

「綾波、おなか空かない?なんか冷たいものがたべたいね」

 毛布にこすれて、飲みかけのウィダーinゼリーマルチビタミンの袋が鳴き声を上げてる。猫はネズミの脊髄を噛み砕いた。今夜はご馳走だね。猫と二人で並んでディナーだ。僕は女を、猫はネズミを、美味しく頂こう。男は悪いが勘弁だ。

 運命に紛れ込んだ分岐点、目の前を横切る黒猫。猫は言う。これが時間だ、見えるだろう。止まった時間の外から見れば、君たちなんてただの確率上の揺らぎに過ぎないんだと。幾重にもクロスする次元の平面の上で、重なり合った境界が何パターンもの波動を作ってる。それを認識した瞬間に事象が無限に増えて広がって時間が動き出す。
 僕は黒猫の言葉に耳を傾け、身体はマナを抱きしめ続けていた。
 そうしなければ僕の方が飲み込まれてしまうから。
 トリップの無限ループにはまってしまいそうになった時、僕はいつもこの黒猫を見る。漆黒の毛並みはシルクハットに変わり、太ったちょび髭の紳士がコーンパイプを燻らせながら僕を嗤ってる。あんたが世に言う宇宙神ってやつなのかい。もしくはハーメルンの笛吹きおじさん。

 マナの身体を感じて、僕は現実に戻る。目を開ければすぐそばに、マナの柔らかくていい匂いのする肌が僕を包んでる。クスリがたっぷり溶け込んだ汗は肉のとろけるような甘ったるい匂いで僕たちを酔わせてる。

 僕は孤独な雄猫。狂ってるのは女狐。狐って何科の動物だっけ?

 そんなことを考えてると、僕が抱きしめてるマナの上にさらに綾波が圧し掛かってきた。相変わらず腕と胸に包帯を巻いたままで、乳房を見ることができないのが惜しい。

「碇くん、はやく逃げて」

 マナを無理やり押しのけて綾波は僕の胸に顔を埋める。
 逃げる?どうして?どこへ?
 僕を見失ったマナは壁に頬をすりつけ、なにかうわ言を呟きながら身体を上下させてる。

「危険が迫っているの」

 綾波の瞳は焦りの表情を浮かべてる。そしてその奥には血の昂ぶりが見えた。真紅の瞳が燃えてる。目ん玉が脈打って血管がぴくぴく震えてる。

「行かなきゃ。エヴァに乗らなきゃ」

「どーした綾波ぃなんかいいモン見えてんのか」

 ベッドから降り、左足を引きずりながら綾波は部屋の外を目指す。
 ムサシたちは暢気そうに眺めてるけど、どうも飛んでるわけじゃなさそうだ。振り返ればマナはベッドに伸び、落ち着きなくゴロゴロと転がってる。枕にしがみついては何度もひっくり返してを延々と繰り返してる。こちらはすっかり飛んじゃってるみたい。

「エヴァに乗るの。戦うの」

 それは綾波がよく僕に話して聞かせてくれた、巨人兵の名前。人間の愛の力で動くんだと言ってた。そして、とてもあたたかいんだと。素晴らしいパラダイスのよう。綾波の話はいつまでも飽きなかった。
 僕の腕の中で何度も話してくれた、エヴァに乗ってる間の思い出。澄んだ、でも果ての見えない海を泳いで、ずっと手探りで、だけど楽しかったって。心の中で大切な誰かに出会えたって。それは僕だよきっと。僕がそう言うと、綾波はキスをしてくれた。

 遠い世界へ旅立つんだね、僕もいっしょに連れてってよ。
 薬臭いキスを交わす。止まらない唾液があふれ、頬から顎、胸を濡らしていく。僕は唇の端から泡を吹いて、口の中に沸いたブヨを噛み潰していく。吐き出そうと舌を動かす。舌の先に虫の羽と腹と足と触角が触れてる。虫が犬歯から飛び立ってのどの奥へ降りていく。この虫たちを早いとこなんとかしてほしい。あっという間に喰いつくされてしまう。いや、僕がこの虫を全部食べちゃえばいいのか。口からこぼれた泡を拭いて、虫ごと唾液を飲み込む。

 ちょっとでも手を離せばたちまち闇に呑み込まれる。僕も今日はやけに飛びそうな気配だ。こうやって理性にしがみついていられるのもごくわずかの間でしかない。
 床が揺らぐ。僕はタイル敷きの床に倒れ込み、顎をしたたかにぶつけた。
 痛みは感じられない。ぼやけてひっくり返った視界の向こうで、ムサシとケイタが二人がかりで綾波を押し倒してた。ああ、後は頼んだよ。僕は逝って来るから。ネガポジ反転した視界はブラックアウトし、そこで意識が落ちた。

 ねえどこにいるのシンジ、私をやってよ。
 マナの声とガラスの割れる音が聞こえる。冷蔵庫の上のビーカーが床に落ちて水がこぼれてた。

 気絶してたのはおそらく数分程度だったと思う。

 目を覚ますと僕は綾波のベッドに寝かされ、枕元にマナが腰掛けてた。天井は霞んで見えず、天の川はより派手にうねりながら僕の傍を横切ってた。

 まずは視覚、そして触覚、ついでに味覚、それから聴覚と順番に戻ってくる。嗅覚は忘れてた。
 聴覚が再起動すると、部屋の向こう側から綾波の喘ぎ声が聞こえてきた。なんだ、まだやってたのか。首だけをぐるぐる回して辺りを見回す。
 マナはパイプの蓋を開けて、僕の腹の上にまだ燃えてる葉っぱを落とした。痛いくらいの熱さに僕は腹を跳ね上げた。笑い声が妙にかすれて聞こえなかった。聴覚の周波数はまだ戻らない。綾波の嬌声、はともかくムサシたちの息遣いまでもが強烈に色っぽく聞こえる。僕にそっちの趣味は無いぞ。

 座りながら足を組み替えたマナの右脛に、泥と血に爛れた傷があるのが見えた。剥がれた皮膚が、崩れた肉にかぶさって黄色い膿を噴いてる。それか、こないだ戦自でやられた傷ってのは。痕残るぞそれは。
 ムサシが怒るのも無理はないか。僕も悲しい。

「ふふ」

 触れる。その瞬間僕の身体は強力なゴムで弾かれたように跳ね、絶頂を迎えた。股間からとめどなく液を垂れ流している。

「わぁーい、シンジいっちゃったんだ?でももう出ないんだね」

 ほっとけ、どうせもう玉無しだ僕は。
 身体に力が入らない。どうにでもしてくれ。そんな投げやりな気持ちに、なる暇さえ与えられない。次々とマナに攻め立てられ、僕の身体はまるで処女のように悶え跳ねた。身体中の穴という穴からドロドロの液体を漏らしてる。情けない姿の自分が妙にほっとした。

 かけっぱなしだったディスコユーロは艶かしい音圧で僕を愛撫し、美男美女のヴォーカルとコーラスがマナを祀り上げてる。リズムに乗って、意識が揺さぶられて身体が飛び跳ねる。

 腕をついて起き上がろうとしても力が入らない。だらしなくベッドに埋もれる。身体が動かない。もうダメだ。犯される。

「せめてっ、も、一度だけっ、っは、はぁっ」

 思考のごまかしさえキャンセル。胸が苦しいほどに切ない。

「はあっはあっ、あ、マナ、マナ、だめ、僕も、もうっ、ああ、あぁっ」

 堪えきれなくて僕は自分の胸を掻き毟った。手のひらが磨り減る。撫でてる、愛撫?感じられない。感じすぎてて自分を確かめられない。
 頼む、悪い夢であってくれ。
 夢ならまだ醒めないでくれ。

 ヤバイよ僕。何がヤバイ?ヤバイと感じる基準さえぶっ壊れる。空気がねっとりと重い。水が欲しい。唾液が乾いて固まる。

 僕はどこだ?
 僕の身体はどこだ?僕の心はどこだ?どこだ?どこだ?

 リフレイン。黒い眼球が七色に光る。
 暗黒星雲から浮かび上がる光。星の命の誕生。素晴らしい。深く立ち込める雲が晴れ上がれば君の姿が見えてくる。

 マナ。言葉がわからない。僕は言葉がわからなくなっちゃったよ。君に想いを伝えたい、でもなんて言えばいい?動物みたいな鳴き声しか出せない。

 目の前にある肉体にむしゃぶりつきたい。

 思考をバイパスして感覚と行動が直結する。そう。いけ。肉がぶつかり合う感触が身体じゅうに満ちる。いや、それしかない。他の感覚が無い。

 マナの肩越しに、ムサシとケイタに前後から突っ込まれてる綾波の姿が見える。
 僕は引き込まれるように見とれてた。喘ぐ綾波の苦悶の表情。感情移入、なぜか僕は綾波に気持ちが入り込んで、ムサシに入れられてる感覚を味わってた。入れる穴もないのに。

 その感覚を取り出したと思うと、今度はマナと貝合わせをしてる錯覚に陥った。

 僕とマナの襞ひだがこすれあってる。レズってる僕たち。どっしょもないぞ。挿入感?そんなの知らないね。ああ、やっぱり、ムサシのもいいけど、ケイタのもいいけど、ま、マナのがいちばんだよ!百合ユリに目覚めちゃいそう僕。すごい、いいってば。よすぎる。男とやるより女同士だよ。あはは、僕ってそっちの気があったのかい。そうさ僕は乙女心、碇シズナ14歳。レズ最高!

 以上の言葉をぜんぶ口に出して言ってた自分に気づく。

 音は聞こえてても言葉として理解はできないだろうな。安心すると同時に再び歪みはじめる。時間の感覚が危ない。もしかしてずっとこのままか?もう戻れないんじゃないのか?このまま身体が溶けるまでいってしまうのか?んなわけないだろ。時間がくればクスリも切れる。そしたら戻ってこれる。時間がこなかったらどうすんだ?いや大丈夫、大丈夫だって。落ち着け僕。これくらいでBADに落ちてたまるか。

 ほら、窓の外が白んできた。もうすぐ夜が明ける。太陽が昇る頃には戻ってきてるだろ。それまでもうすこしだけ楽しもう。

 明るくなる。光あれ。聖書に記された世界創生の言葉だ。

 光が、まぶしい。
 開ききった瞳孔にはちょっときつすぎる光だ。て、マジで眩しい。目がくらむ。目がやられる。網膜が焦げる!水晶体が沸騰する!!虹彩が焼き切れる!!!目をつぶってもまぶた越しの光だけで眩しくてたまらない。どうなってんだ!?

 痛い!冗談抜きでこれはまずい。どうなってる。糞。イタイ、痛い、目玉が骨ごとぶち抜かれる!

 目が痛い。視神経への入力が容量の限界を超える。脳が焼けそう──
















 病院の廊下から見える世界は不思議なくらいにモノトーンで、色がなかった。音も、古いレコードを再生してるみたいにくぐもってかすれてた。

 いつの間にか後ろに立ってた綾波が窓の外を指差した。白いピラミッドが見えた。

「碇くん、その街ではね、3台のスーパーコンピューターがすべてを支配してるのよ」

 ビルの内部にはたくさんの大砲やミサイルが仕込まれてて、攻めて来る怪物に向かって放たれる。僕の目には潜水艦から発射されるICBMの姿が見えてた。綾波はステルス爆撃機から弾道ミサイルを撃つんだと言った。空へ駆け上っていくロケットは突然煙を噴き、空中で爆発した。炎の雨が降った。

 飛び散る弾頭には人が乗ってた。
 白い破片はスペースシャトルの翼だった。

 綾波の微笑みが、墜ちていくシャトルに重なった。

 いつか僕も流れ星になるんだ。流れ星になってニューヨークを見に行きたい。
 どうせ廃墟になった汚いビルばかりで面白くもないわよ、空気も悪いし飯も不味いし。マナは不貞腐れて嗤った。

 綾波は僕の手をとって視線で示した。

「見せてあげるわ」

 僕は映写室に案内された。映写機はすでに光をスクリーンへ投げて準備を済ませていた。僕とマナは一番前の席に座って、綾波が映写機を操作するのをじっと見ていた。

 あ、マナ。君も来てたんだ。

 映し出された200インチの映像はますます現実感を無くしてくれた。
 ところどころぶれてノイズが入ってる。小さい頃に見た怪獣映画を思い出した。ビルの大きさと比較すれば、エヴァと使徒の大きさは数十メートルはあることになる。マナは一度これを見ているらしく、ほらここがこうで、と解説をしてくれた。

 綾波が言っていたエヴァに乗る、とはこれのことだったのか。

 これに僕が乗ってたんだ?
 そうよ、と綾波は答えた。僕は黙って映像の続きを見てた。

 振り返れば、司令室のいちばん天辺で碇司令は腕を組んでじっとスクリーンを睨んでた。
 白衣を着た金髪の女性と赤いジャケットを着たロングヘアの女性がコンソールから身を乗り出してなにかを叫んでた。
 マナこの人たち誰だい?

 答えてはくれなかった。周りにいる人間だと思ってたのはみんな人形だった。人形に見えたのはハンガーにかけられた服だった。

 僕はデパートの服売り場に立ってた。マネキンは明後日の方向を向いて立ってた。
 フロアの出口が明るい。僕はそっちへ向かって歩く。
 表に出ると駅前だった。空はカンカン照りで、だけど暑さは何も感じない。汗が垂れてるのはわかった。

 道路の向こうに制服姿の綾波が立っている。

 風が吹いて、白い鳩が飛んだ。

「そこで、14歳の少年は使徒と呼ばれる怪物を見るのよ」

 綾波が構想を練ってる小説の話はいつ聞いても面白い。
 14歳の少年ってのは僕のこと?
 そう、あなたがモデルよ。
 書きあがったら僕にも見せてよ、そう言ったら綾波はもちろん、と微笑んだ。

 さあ、お話に戻りましょう。
 綾波は僕の肩を押して歩き出した。

 辺りはいつの間にか薄暗くなって、僕は鉄のブリッジの上に立ってた。
 目の前に巨大な顔がある。前に見たことある御殿場基地のトライデントなみに巨大なロボットだ。
 人造人間、汎用人型決戦兵器エヴァンゲリオン、リツコさんはそう言った。

 これが綾波が言ってたエヴァ、か。

「これも父の仕事ですか」

 口をついて出た言葉は僕の思ってたこととは違った。僕の意思じゃない。まるで台本どおりに演技をしてるような、そんな気がした。

「そうだ」

 低く威厳のある声が響いた。
 浮ついてた意識がいっきに収束していく。僕は吸い込まれるようにその男の姿に釘付けになった。NERV総司令、碇ゲンドウ。父さん。この男がそう。僕をじっと見ている。僕もじっと見ている。
 シャツの下を汗が流れ落ちていった。緊張が胸から下腹へ、足を震わせて股間を緩めていく。すこしも隙を見せちゃいけない、頭の中で繰り返しながら唇を舐めた。

「気負わなくていいわよ。ポケットから手を出して」

 綾波が言ったので僕は力を抜いて楽にした。僕の斜め後ろ、絶妙の間合いにつけたミサトさんのジャケットの下で銃の撃鉄が上げられる音が聞こえた。

 目の前の巨大な顔が僕を見透かしてた。エヴァ。それが君の名。

 出撃。

 どちらが言った言葉なのかはわからなかった。僕の中から響いてきた声がそう言ってた。
 僕はリツコさんの顔を見た。見つめる。綾波が慕う彼女なら、と。ミサトさんは悪いけど信用したくないと言うかできない。

「かんたんなレクチャーを行うわ。こっちへ来て」

「待ってリツコ、彼を使うの!?レイでさえ初シンクロに7ヶ月もかかってるのよ。今来たばかりの彼には無理よ!」

「座っていればいい。それ以上は望まん」

「しかし、司令っ」

「葛城一尉。今は使徒殲滅が最優先事項よ。そのためには誰であれ、エヴァとシンクロ可能な人間を乗せるしか方法はないのよ」

 三人のやり取りが人形劇みたいに見えた。綾波は糸吊り人形を操るゼペット爺さん。僕は嘘つきだから鼻がどんどん伸びていっちゃう。
 ごめんなさい女神様、もう二度と嘘はつきません喧嘩もしませんクスリもやりません。僕って正直者。
 その言葉だって嘘だ。

 だから僕は光の槍で撃たれた。

 鼻だと思ってたのは角だった。

 エヴァンゲリオン初号機の角、頭頂部のアンテナブレードがバチバチと音を立ててスパークを飛ばす。骨の仮面を被った黒い怪物は電撃に触りたくないみたいで、恐る恐る腕を伸ばしてきて初号機の頭を掴んだ。

 いくら突き刺しても死なないよな。
 顔の肉が削ぎ落とされて、眼球が破れる感覚が伝わる。だけど血は流れない。目もちゃんと見える。
 光のパイルを僕は掴んで押し戻す。
 跳躍。壁が見える。だけど通過できる。一刀両断にできる。パイルももう見切れる。ベクトルが一瞬揺らいだ後、激突する質量が僕を突き上げてきた。
 ATフィールド?それがどうしたよ。

 僕は『みんなわかってる』んだからな。あとはどこまでキレられるか。ためらったら負けだぜ。
 怖すぎるくらいに気持ちいい。

 拳が何か硬いものに当たって砕ける。砕けたのは使徒のコア。光のシャワーを浴びるように僕の心が洗われていく。おお、やっちゃった。どこまでも延びる光の階段を昇ってく。天高くそびえる階段を駆け上がれば、光でできた透明なキノコがふわふわ浮かんで、次元の向こうへ消えていった。あれ食ったらデカくなれたり、火の玉出せたりするのかな。
 粒子が渦を巻いて僕を包んでく。そうか。こいつは粒子と波動でできてるんだね。
 光を受け渡せる粒子があるから、波動を伝えられる次元があるから、こいつは現世に存在できる。現世を飛び越えてあらゆる次元を行き来することだって。

 だけどまあ、今夜はここまでだ。またの機会に遊ぼう。

 じゃ、惜しいけど今夜はここまでだね。

 僕はもう寝るよ。疲れた。
 ジャンボジェットが轟音を上げて離陸していった。バイバイ、成田離婚。

 声が聞こえた。

「碇くん…運がいいわね。あそこで乗らないって言ってたらあなた、死んでたわよ?」

 綾波は僕を優しく抱いてた。
 女神様。

 僕はいつか本物の人間になれるのかな?紙切れの上に描かれた二次元の人間はもうたくさんだよ。
 ええなれるわ、必ず。綾波の声が聞こえた。
 うん、きっとだよ。本物の人間になれたら僕、女神様に手紙を書くよ。ありがとう、って。

「ラヴレター?」

 今時そんなの書く奴いるの。不思議そうな表情をして綾波は僕を見た。

 いやこれが意外にいるんだよ。ゴミ箱漁って破けた手紙を復元するって遊び、小学校の頃はよくやったよ。放課後の学校にマナたちと日が暮れるまで残って遊んだっけ。
 じゃあ私への手紙もそこに入れて置いてくれると助かるわ。綾波はキーボードを打ちながら言った。
 うん、綾波に手紙書くよ。約束する。

 綾波に連れられて僕は病院のロビーに降りた。
 ロビーではミサトさんが待ってた。これから先も使徒が攻めてくる可能性がある。僕はサードチルドレンとして、エヴァ初号機の専属パイロットをやってほしい、ということだった。

 本部内に個室があてがわれることになったが断っておいた。

 僕は綾波の部屋に厄介になりますから、そう言ったらあからさまに引いてた。部屋に乱入するなり銃を向けてきたような人でもいちおう常識はあるんだろうか。綾波の小説だと、戦闘機の墜落に巻き込まれそうになった僕を助けてくれるんだっけ?

 大丈夫ですよ、シンジホモですからその心配は要りません。
 マナの一言にミサトさんとリツコさんと黒服さんが凍りつき、僕は撃沈されて綾波は笑ってた。
 酷いじゃないか、何もみんなの前で言わなくても。
 ホルモンで玉潰してますから間違いを起こそうと思っても物理的に無理ですよお。
 リツコさんが興味深げな目で僕を見ていたのが怖かった。

 綾波がリツコさんにかけあってくれて、僕とマナはいったん御殿場に戻れることになった。リツコさんの部下で伊吹マヤという女性職員が僕たちを表まで案内してくれた。
 帰り際に僕を呼び止めて、後で個人的な実験に協力してくれないかとリツコさんが言った。僕は気圧されてしまって断りきれなかった。どうなるんだろう。

 地上に向かうモノレールの中で、僕とマナが一服しようとしたらマヤさんが慌てて止めた。
 中学生が煙草なんてダメよ。マヤさんは僕から煙草の箱を取り上げた。
 返してくださいよ、僕のなんですから、取り返そうと手を伸ばしたら胸に手が触れて、マナに思いきり尻をつねられた。

 僕たちとマヤさんは車両の端と端に分かれて乗った。
 マナはお気に入りのラッキーストライクを吹かしながら、別に煙草くらいでうるさく言うことないじゃないですかあー、と間延びした声で言った。マヤさんがちょっぴりかわいそうになった。
 僕の煙草はまだ返してもらってない。
 ねえマナ一本分けてよ。
 無視された。

 地上に出ると、モノレールは第3新東京駅に着いた。
 御殿場市まではちょうど12km。歩きだとさすがにきついが、クルマならじゅうぶん行き来可能な距離だ。

「シンジ、これからどうするの?」

 外の光を浴びたマナの頬はげっそりと痩せこけてる。僕も似たようなもんだろう。
 いつもならキメた後でちゃんとミネラルや栄養の補給をするんだけど、今回はできなかったから。久々に5-HTPイッキ飲みとかしてみたい。

 そういえばあっちに戻るのって何日ぶりだっけ。ずっと綾波の部屋に篭ってて外に出なかったからなあ。マナが肌ふやけて白くなってるよ、と笑いながら僕の胸を撫でた。

 この世に現実感を失いかけて、僕は空を仰いだ。雀の群れが飛んでいった。道端では黒いカラスがコンビニ弁当の残飯をつついてる。白い鳩は今日はいないみたいだ。

「そだなあ、とりあえず学校にでも顔出しとく?しばらくフケてたし、ムサシたちも心配してるだろうし。家に戻るのは後でもいいでしょ」

「うん。あ、でも今日は母さん家にいるって言ってた」

「気にすることないよ。黙って出てけばいいさ」

 僕はマナの背を押して歩き出した。

 なんだか、ずいぶん遠い過去に戻ってきたような気がする。
 空は雲ひとつない快晴だった。遠くに見える木々や山々や鳥たち、なにもかもの色が鮮やかで、命に満ちあふれてる。乾いた街並みとのコントラストが生きてるって実感をいっそう強調してる。168時間ぶりに浴びた太陽の光がまぶしく、暖かい。そして美しい。


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