僕のZとナオコ博士のインプレッサが、東北道をひたすら北へ向けて走る。



 MAGI CASPER社長にしてNERV最高技術顧問……そして、NERV技術部長赤木リツコの母親である人物。
 かつては『東方の三賢者』に名を連ねたほどの大科学者だ。

 そして、母さん……ユイ博士や、キョウコ博士の師でもあった。

 Diabloの開発には彼女の力が大きかったと聞く……

 そのナオコ博士が、なぜ今?



 前を行くインプレッサのテールをじっと見つめる。

 2台の紫のマシンが、闇夜を割って疾走する。
 音も無く駆ける一陣の風……

 開けた窓から吹き込む風は次第に冷たく、緯度が上がっていくのを教えてくれた。

 道は山々を乗り越え、国々をうねっていく。東京から埼玉……栃木……福島……宮城……岩手……そして、終点の青森。

 既に東の空が白み、朝の車が動き出していた。
 人々の営みの中に紛れ込んだ異界からの使者。僕たちは人ごみに紛れる。

「そうさ……いつだって、僕たちはあやふやな存在だった」





 青森市内のスタンドで給油を済ませ、僕たちは北海道へ渡るフェリーにクルマを乗せた。

 船の中に降り立ち、そこで初めて僕たちは言葉を交わした。

「直接会うのは初めてだったかしらね……碇シンジ君」











新世紀最速伝説
The Fastest Legend Of Neon Genesis
エヴァンゲリオンLAGOON

第21話 狂走のバラード












「今のあなたは『どっちの碇シンジ』なのかしら?
……まあ、あなたにとってはさほど意味の無いことでしょうけど」

 ああ、そうだね。

「挨拶なんて要らないよ……僕が目指す場所は決まってる」

 射すくめる。
 年齢的には老婦に片足を突っ込んでるナオコ博士だが……それゆえに、その佇まいが放つオーラは凄まじい。

 『父さん』……よりも、さらに永くの戦いを見てきた人間。
 僕のコトだって……ずっと見てきたんだろう。

 海には雪が舞ってた。

 今までに何度か見てきた、空を舞う純粋な結晶。
 何度目かの冬……

 年はもう明けたのか。

 携帯……はあの夜、海に捨てたんだっけ……

 船室にかけられたカレンダーの年号は2016年に変わってた。

 第3新東京市を離れてから何度目の夜が過ぎたのだろう…………

 メビウスループのように同じ道を彷徨ってる錯覚……

 頬を触る……ざらついた感触……
 …………僕は生きてる…………

 熱いシャワーを身体が欲しがってる……

 今は……ただ底なしの泥のように眠りたい……

 ……なにもかも忘れて……

 カーフェリーの硬い客室座席で僕はかなわぬ夢を見てる……










 夜の闇を貫く閃光……

 Diablo-Zeta……僕を求めてる。
 突っ込んでくるZ……僕の身体を喰い破ろうと迫ってくる。鉄の牙を剥いて僕に襲い掛かる……怖くない。僕はわかってるから。

 君なんだろ。

 激突する巨大な質量に、人間の身体はかんたんに壊れてしまう。

 粉砕される骨、ばらばらに千切れてのたうつ筋肉、粘土みたいに崩れて飛び散る内臓。それら一つ一つの欠片を僕は拾い集めてもう一度形作っていく。

 小さい頃何度も遊んだよね。

 河原の石を集めてきて積み上げて遊んだ。
 いっしょに遊んだ友達はいるよ。

 いつか、僕をもう一度甦らせることができるって。

 約束したんだ。

 そうさ。

 今、その願いは叶った。



 綾波……君の想いを僕は受け取ってる……

 閃光はもう一度僕をかき消す。



 高速の路上、突っ込んでくるDiablo-Zeta。その想いは10年間ずっと変わらなかった。

 僕は握り締めた鉄パイプの感触を確かめる……
 僕の過去は僕自身で断ち切らなきゃならない。

 この無限のループを抜け出すために……

 僕は、僕を殺す。










「また……あの夢か」

 何度見たかしれない夢。

 身体が軋んで悲鳴をあげてる。
 眠気覚ましのコーヒーも、もう何の役にも立ちやしない……

 僕は甲板へ出て潮風を浴びる。
 海の果てに函館山の黒い影が見えてきた。

 あの巨大な北の島へ僕は降り立ち……そうすれば、また走り出す。

 果てない未来と、振りきれない過去を求めて。

 【声】が求めていた答えはもう手の届くところまで近づいてた。

「雪……か。
第3じゃこんなに降らないもんな……」

 雪は埃にまみれた街も……

 音も……

 なにもかも覆い隠す…………

 僕の昂ぶる想いさえも……
 だけど、僕は消えはしない。










 横浜国際病院にも、新年のお祝いムードがやってきていた。

 病院で年を越す患者たち……彼らと共に時間を共有し、共に生きているという実感をたしかめる。それはささやかな幸せ。
 誰にだって享受する権利のある……
 もちろん、それは彼女たちにも。





「霧島……さん?」

 病室を出たところでばったり出くわしたお下げ髪の女を認め、私は振り返った。

「あ……っと、ヒカリちゃん、だっけ」

 そう。元町Queen'sのメンバー、洞木ヒカリさんだ。
 NR本牧の鈴原君と結婚するコトになって、チームはもう引退したんだったね……

 彼女がバイトしてた元町Johnny's、走り屋としての活動拠点だったチャイナタウンでは、『港のヒカリ』なんて二つ名まで貰って、とっても人気者だった。走り屋たちみんなのアイドル、ね。

 もうさすがにふくらみが目立つようになった彼女のおなかにどうしても目が行く。

「屋上で話そっか」

 私はヒカリちゃんを誘って、屋上へ上がった。

 べっこりへっこんだ給水タンク、ひび割れた鳩小屋は『あの時のまま』残ってる。
 思い出すなあ……ここでアスカさんと戦ったんだっけ。って、あれからまだ1ヶ月も経ってないのにね。

 今思うと私、あんな攻撃喰らってよく生きてたなあ。
 だって、こんなにおっきな鋼鉄のタンクをへこませちゃうんだよ?このへっこみは、アスカさんに殴り飛ばされた私の身体がぶっつかって出来たんだ。この割れちゃったコンクリートも。これ、アスカさんの拳で砕かれたんだよね。どー考えても人間の身体よりコンクリートや鉄の方がカタイのに、こんなになっちゃうんだろ。ううん、人体の驚異ってやつなのかな。

 そう。人間の命、それは何よりも『強い』武器になる。

 護ろうとする想いがね。

 もっとも私も、あの時の無理がたたってずっと病院のベッドに縛り付けられてた。
 身体は意識を保ってられるのが不思議なくらいにボロボロで……普通だったら肉体の欠損に耐え切れずに発狂していてもおかしくなかったって。私の担当医になった相原先生は言ってた。

 彼女、アスカさんの先輩なんだって。

「元気そうでよかったわ。あれからずっと入院してたって聞いたから心配になって。
もうショップに行く機会も前ほどはなくなってたし……」

「ん、ありがと。私はこの通り元気だから大丈夫だよ。もうすぐにでも退院できる」

 冬の風が頬に沁みる。

 最近、そういえば胸焼けするコトが多かったかな。
 考えてみれば兆候はあったんだ。そもそも生理が来なかった時点で、ちゃんと検診を受けに来るなり自分で検査薬使うなりしてればよかったのに、どうして……なんだろな。
 あの頃となんにも変わっちゃいない。

 私は……そうなんだね。

 あの子の命を奪ったのは私なんだ……

「アスカさんから聞いたの。ほんとは秘密にしとくってコトだったんだけど、誰にも言わないならって……」

「そっか。アスカさんらしい気の遣い方」

 ヒカリちゃんの言葉を遮って私は笑顔を返した。

「3ヶ月だって。
……実際、もうダメかなって思ってたから……」

「もう……?」

「ああ。私ね、前に2回、流産やってるんだ。
17の時と、14の時。やっぱそれなりにダメージいってるだろうからね……もう3度目は無いかと思ってた」

 う。さらっと流し過ぎたかな。
 ヒカリちゃんはとっさに何を言えばいいのかわからなくなってるみたい。もう、そんなに気にすること無いのに……私が大丈夫だって言ってるんだから。

 どうなってたんだろう。
 もしあの時、そう何度も思いに耽ることがある。

 考えても仕方ないことだとはわかっていても。

 今は、シンジが帰ってくることだけを信じて待ち続ける。
 大丈夫……今度はヘマしないから。
 あなたと出逢ってちょうど1年……次の夏が終わる頃には、私はあなたの子供を抱いてる。

 それは未来かもしれない、過去かもしれない、遠い記憶。凍てつくハマの潮風を浴び続けても、私の身体はどこまでも暖かさを失わない。

 生き続ける。

「霧島さん、なにかあったら……私も相談に乗ってあげられるから……。話を聞いてあげることくらいはできるから……ね。
だから、……くじけないでいこう」

「……うん。そうだね」

 ほんとなら気遣いはいらない。私はひとりで、自分の力でやっていく……そう思ってた。
 だから施しなんて受けない……意地張ってた。
 嘘でもいいから笑顔を見せよう。それであなたが満足するなら、きっと、私も心が満たされる。

 涙を風に隠して、私は顔を上げた。この胸に風を浴びて、気持ちを洗おう。

 懐かしい戦いの日々。

 TRIDENTとともに、果てない夢を見ていたあの頃。
 第3新東京市に単身乗り込み、ストリートレースのスピードと暴力に明け暮れてたあの頃。
 綾波さんに拾われて私はNERVに入り……そしてシンジ、あなたと出会った。

 横浜GP……そして、ムサシとの再会…………

 そう、あの夜……。
 あの夜、私とシンジが初めて結ばれた夜……

 二度と忘れない……

 私が運命のループを抜け出して、シンジ、あなたとともに歩いていくことを選んだあの夜。

 あなたの身体に触れることが、たまらなく恋しい。
 わかってる……あの夜を境に、私が変わったことを。

 想い続ける……

 私の身体に宿ったDiabloの力を信じて……

 唯一、救われる場所……
 ……なんのしがらみもなく、自分が肯定される場所……

 そして数少ない、自分を理解してくれるヒトがいる場所…………

 だから、私はこんなところで倒れるわけにはいかない。

 きっと。
 私はもう一度、走り出す。










 夢。

 淡い光を振り払って、その先にあるものを確かめようとする。
 怖い。だけど、進まなきゃいけない。
 そんな強迫観念に誘われる。

 聞こえてたノイズはシャワーの音だった。

 床を叩く水音に混じって……流れ落ちる血が、排水口に吸いこまれていく。

 掻き毟る。
 皮膚に爪を立て、切り裂いていく。

 風呂場の床に何度も嘔吐する。もはや吐き出すものは何も無く、黄色い胃液だけが床を溶かし、湯に薄められて流れていく。

 吐き出す血は自分のものじゃない。

 シャワーのつまみを全開までひねる。
 吹き出す湯は床の水面をかき乱し、光を散乱させる。

 水面に映りこんだ影を見たくない。

 背後を振り返る勇気がない。

 だめだ。振り返ったらダメだ。
 音も聞いちゃダメだ。耳を塞ぐ。
 それでも、直接頭に響いてくる。

 バスルームの床にしゃがみこんで膝を抱え、凍えてる。

 背中に冷たいものが当たった。

 悲鳴はのどを絞り、声さえ出ない。

 天井からぶら下がる女の足が、アスカの背中をそっと撫でた。
 濡れたロープが軋む音が、振り子時計のように規則正しく響いてる。

「いや、……いや、嫌ぁぁっぁーーー!!!」










 絶叫してた?いや、幸い夢の中だった。
 起き上がれば周りは何事も無かったかのように普段の姿を見せてる。

 病院の仮眠室で、思い出してしまった忌まわしい記憶。

「……っ、糞ッ」

 苛立ちげに毛布を叩いてアスカは吐き捨てた。

 10年前……母キョウコを亡くした日。
 未だに夢に見る。

 少女だった自分……なにもできなかった。

 そしてその原因がDiabloにあると……そして、キョウコが情熱を注いでいた『走り屋』に……
 ぶつけようのない怒りと悔しさがアスカの心を焼いていった。

 紅いFCを駆る走り屋、惣流キョウコはアスカにとって憧れでもあった。

 いつか自分も母のようになりたい。
 かっこいいクルマを速く走らせる。スピードの魅力、それが希望だった。

 そして、それは時に恐ろしい凶器であるということも思い知らされた。

 湾岸でのDiablo-Zetaクラッシュ……親友であったユイを失ったキョウコは、その日以来まるで廃人のようになってしまった。
 ひたすらにDiabloの研究に没頭し……
 家にも帰らず、アスカは独りぼっちになってしまった。

 そしてほどなく、キョウコは自殺した。

 同じ学校での友人だった綾波レイから報せを聞いたアスカは、変わり果てた母親の姿を目の当たりにする。

 それからのことはいい記憶が無い……

 NERVが年金を支給してくれていたため、生活に困ることは幸いにしてなかった。
 だが実家であるラングレー家からは勘当同然の扱いを受け、アスカはどこまでも孤独の身となっていった。心配してくれた友人たちにも会う気はしなかった。

 シンジは……?

 ユイの息子、シンジはどうしていたんだろうか。
 同じように母親を失い……
 同じ境遇だった、かもしれない。

 だけど覚えてはいない。

 歓楽街をあてもなくぶらつき、気の赴くままに不良たちに因縁をつけ、周囲をはばからず喧嘩した。
 補導され事情を聞かれても、保護者欄に書くべき名前はもう無かった。

 もう居場所は無いんだ。

 だけど、淀んでいるはずの横浜の街はなぜかずっと居心地がよく感じられた。

 歩道橋の上からみなとみらいを眺める。
 咥えたフィリップモリスの煙が風に流されていき、心の中のわだかまりも同時に流れ去っていくような気がしていた。

 夜の横浜駅……ここでよく時間を潰した。

 こんな場所にいれば、いろんな人間に出会う。
 1週間も経つ頃には、そのスジの売人とも知り合いになった。

 別に興味があったわけじゃない。なんともなしに、ただ手元にあったから。

 初めて吸ったハッパは辛くて、すぐむせてしまった。
 それが妙に悔しかった。

 なんだかよくわからない錠剤も飲んでみた。最初はなんともなかったけど、30分くらいしたら急に興奮してきた。何も怖いものが無くなって幸福感に満たされた。
 だけど薬が切れると、途端に落ち込んでしまって不安と鬱に悩まされた。

 たまに学校に戻れば、普通の生活を送っているクラスメイトたちがどうしようもない馬鹿に見えて仕方がなかった。いったいどうして、こんなに能天気に暮らしていられるんだと。ちょっとした戯れの冗談さえ、ズキズキと癪に障った。

 きっかけは何だったか覚えていない。

 我に返ったときには血まみれになって割れた椅子が一脚、目の前に転がっていた。
 喧嘩した相手の男子生徒はぐったりとして危険な様子だった。他の女子たちや、ちょっとツッパっていただけの男子は皆、震えながらアスカを見ていた。

 ロングの髪が揺れた。赤毛が目の前を横切る。
 こんな髪だから。外人、外人と馬鹿にしていた者たちも、今はただの虫けらだ。

 アタシはこんな奴らを恐れていた?体面とか、大人とか、社会とか、学校とか……。アタシはそんなものが怖かったのか。

 可笑しくて仕方が無かった。

 椅子の足をもぎ取って、握り締める。ゆっくりと振りかざす……そうするとみんなは我先にと逃げ出していった。
 悲鳴がサラウンドで聞こえる。少女の泣き叫ぶ顔、情け無い醜態を晒す男。

 血が飛び散った。
 それらを一つ一つ、味わうように目に焼き付けていく。

 最高だ。こんなに楽しいエンターテインメントは無い。

 教室には誰も居なくなった。
 独りぼっちだった。

 その夜だった。いつものように本牧を流していた時に、『彼』に出会ったのは。

 シンジは学校にも来ないでずっとバイトして生活してた。

 彼のクルマを見せてもらった。白いZ32だった。ユイおば様が乗っていた、Diablo-Zetaを造ってからシンジにお下がりとして譲ったと聞いている。そいつの改造費を稼ぐために、先生とかいう人の店でホストとして働いてるんだと。年齢を偽ってまで。

 『走り屋になる』そうシンジは言った。
 『母さんを奪った奴を僕は許さない』こうも言っていた。

 アスカは何も答えられなかった。

 その日からアスカはシンジの店に通うようになった。シンジはさすがに心配していたが、大丈夫だから気にするなとそのたびに答えた。
 だけど、どんなに親しくしようとしてもセックスだけはさせてくれなかった。

 土地柄、走り屋に近しい者もそれなりにいる。
 シンジの先輩だという、加持リョウジという男もその一人だった。彼もまた、ユイ、キョウコたちの仲間としてDiabloに因縁があるという。店に来る客の中には、恋人をDiabloによって失ったという女もちらほらいた。

 新しい仲間が、すこしずつ集まっていくような気がしていた。

「……(そうよね……あの頃の、16歳のアンタ……アタシが想ってたのはアンタだった。今の『18歳のアンタ』には……生い立ちってものが無い。
アンタには本当に何も無い。そしてアタシたちを手に入れることは、今のアンタにはできない)」

 西暦2005年。碇シンジ、16歳。惣流アスカラングレー、14歳。

 西暦2015年。碇シンジ、18歳。惣流アスカラングレー、24歳。

 普通に生きていればシンジは26歳になっているはずだ。それなのに、彼はまだ18歳のまま。凍りついて失われた、空白の時間がある。
 それがシンジの人格を虚構のものにしている。

 過去を持たない男……。

 誰に愛される資格がある?
 誰とも、何の関わりも無い。あるのは受け売りの記憶だけ。

 たったひとつ、封印された本当の自分を繋ぎとめていたもの……

 それが、Diablo-Zetaだった。





「どうしたのアスカ、ずいぶんうなされてたみたいだけど」

「相原先輩」

 カオリはアスカの隣に座り、そっと背を撫でた。
 出会ったばかりの頃、よくそうしていたように。アスカは昔を思い出して苦笑する。

「また……例の夢を見ちゃいまして。
ここんとこいろいろありましたしね……」

「そうね……」

「もし、シンジが本当の自分を取り戻せたなら……アタシたちはどうすればいいんだろうって、ふと思ってしまうんですよ」

 今もシンジは戦っている。

 過去と未来の狭間で。

 自分たちにできることは何も無い。シンジが何をどう受け止め、どう動くかは誰にも決められない。

 アスカ、レイ、そしてマナ。
 シンジを取り巻く彼女たちの思いは……引き寄せられる重力と、抑えきれないスピードとの境界で均衡をとり、連星系のように寄り添って、しかし永遠に触れることはなく廻り続ける。

「アイツが10年間の空白を理解して、受け入れることが出来るのか……不安が無いって言えば嘘になりますよね」

 言葉に出すことで胸のつかえをとる。
 カオリはじっと聞いていた。

 彼女にとっても、シンジは無関係の人間ではない。

 共に横浜戦争を戦い抜いた仲間……もちろん、それだけではない。

 ストリートを共に生きていた仲間。そして、恋人でもあった。
 風の噂に、あのDiablo-Zetaが再び現れたと聞いた時……忘れかけていた思い出は甦った。それは当時からの仲間だった椎名アズサや八代タツヤも同じだった。

 そして、アスカに連れられてシンジと対面した時……
 そこには、思い出と変わらない姿の彼がいた。

 だけど、それ以上の想いを抱くことはなかった。

 薄れた、というわけではない。
 たとえ姿かたちが同じでも、違うものだと、そうわかっていたから。
 自分の知っている碇シンジではないから。

 アスカは、わかっていたのだろうか。

 そのシンジも、横浜戦争終結の夜を最後に自分たちの前から姿を消した。
 まるで、今と同じように。
 あの夜、アスカたちが迅帝と戦ったあの夜を最後にシンジは……再び姿を消した。

 走り続けなければ生きていけない。立ち止まっていたら腐ってしまう。
 想いはいつでもフルスピードでなきゃ、すぐに錆びついてしまう。

 だからアスカも、レイも、マナも、狂おしいまでに彼を求めていた。

 自分は違う。
 とっくに錆びきってしまい、もはや再び走り出すことはかなわない。12使徒と呼ばれ、首都高に君臨していた走り屋の自分。
 老兵はいずれ去らなければならない。

 後輩たちに思いを託し……10年前、先輩たちがそうしたように、走りを封印してこの世界を降りる。

 もうそんな時期にさしかかっているんだ、と。カオリは思う。










 雪を蹴散らして、2台のマシンが北海道の山道を駆け上っていく。

 4WDのインプレッサはもちろんだが、Diablo-ZetaもFRであることのハンデをものともせず、雪煙を巻き上げて疾走する。

 僕はこいつをずっと信じてた。
 こいつがすべてを知っていた。
 だから、こいつがすべてを思い出せる場所へ連れて行ってやる。

 そして僕も。

「何を笑ってるの?」

「いえ……ちょっとした浦島太郎気分にひたってたんですよ。
考えてもみてください。ずっと眠り続けて気が付けば、自分は何も変わってないのにみんな大人になっちゃってるんですよ。
綾波やアスカも……僕にとっては初々しい中学生だった彼女たちが、今じゃ走り屋になってチーム束ねてるんですからね。特に綾波は……なんていうか、尊敬できる人です」

「変わるものね。かつては『横浜のCRAZY DRIVER』と恐れられたあなたが」

「僕にだって人としての理性ってものはありますよ」

「ふふ。それならあんなに、彼女たちを惑わせることもなかったんじゃない?」

「まあ……あれは僕も迷ってました。彼女たちのことを考えてたからこそですよ。僕自身で選んだ仕事ですしね……見切りはつけなきゃなって思ってましたから」

「あら、16でもう反省?いよいよこれからって時期じゃない」

「や、僕もそう思ってたんですけどね。たまたま家帰った時、妹に包丁で刺されましてね。あんたみたいなクズは死ね、って。まあかすり傷で済んだからよかったんですけど」

 ははは。綾波、あれは効いたよさすがに。
 だけど僕はもう止められなかった。君もわかってたんだろうな。自分がDriverに選ばれたから、Diabloを憎む僕とは、もういっしょにいられないって。それが怖かったんだろ。

 最後に君を抱いた夜……僕は君をホテルに置き去りにして横羽線へZで出撃し、そのまま帰らなかった。

「紅の月、輝く夜……ね」

 幻視の向こうに見える光景、それは炎の記憶。

 僕がずっと抱え続けていた、大切にしてきた夜の思い出。
 僕が僕であることの証明……

 燃えさかるたくさんのDiablo-Zetaたち。
 そのドライバーたちはみんな僕だ。一歩踏み出した足が違っていたら、ここで焼け死んでいたのは僕だったかもしれない。

 僕は今こうして生きてる。

 だから、この記憶を忘れたくない。
 仲間たちとの約束の為に……

 必ず帰ってくるって約束したんだ。

 綾波とあんな形で別れてしまって……
 アスカには結局、想いを伝えられずじまいだった。
 マナは……さすがに無理があるだろ、年齢的に。

 考えてみれば不思議な話だよな……今なら、僕は26歳(肉体的には16のままなのか?)でマナは19歳。付き合うのに特段おかしなところはない。
 だけどあの頃で考えると、僕は16歳でマナは9歳。いくらなんでも一桁はまずいだろって。

 可愛いガキんちょたちの中で一人だけ、僕のZを深く見つめていた彼女。
 出会った頃から違うって感じてた。

 この歳でこんな改造車に興味持つなんて、なんて将来有望なんだ。
 アスカや綾波は、僕がロリコンなんじゃないかって疑っていたけど、それは勘違いにも程がある。まあ、そういう気持ちがまったくなかったって言えば嘘だけどね。
 マナの優しさと素直な気持ちが僕はうれしかった。

 彼女が九州の実家に帰らなきゃならない時になって……僕はどうしようもなく寂しくなって、彼女を抱きしめた。小さな身体は僕の胸にすっぽり収まった。
 次に君と会う時は、夜のストリートでだ。
 僕はマナにそう言って別れた。

 覚えていてくれたのかどうかはわからない。

 だけど、僕はうれしかったよ。君と再び出会えたあの夜。

『おっまたせ〜!
碇シンジ君ね?』

 あの無邪気な少女が、今は立派な公道の戦士となって僕の前に。

 まだ目覚めていなかった僕、だけど、記憶はちゃんと残っていた。残してくれていたんだ。僕は君がほしい。

「そうそう、これはまだ言ってなかったかしらね。そのマナちゃん、あなたの子供を身篭っているそうよ。ちゃんと生きて帰って、彼女のそばにいてあげなきゃね」

「………………はい」

 衝撃は軽くはない。
 まるっきり頭になかったワケじゃない、だけど、今更のように僕は震え上がってた。
 なんてだらしないんだ僕は。

 マナの気持ちが少しだけわかる気がする。

 今までの僕は走り、それがすべてだった。
 スピードを求めて走り続ける、それだけが生きてる実感を与えてくれた。

 だけど、他に大切なものができた時……その狂った気持ちはあっけないほどに崩れてしまう。

 走りを続けることに迷っていたマナ。
 それは僕を愛していたから、なのか。

 綾波は、アスカは、どうなんだろう。

 もしかしたら彼女たちはある意味、解脱しているのかもしれない。
 走りを続けることの意味。何も得られるものなんか無い、失うものばかりだと分かっていても走り続ける。それは抗いがたい生命の衝動。逆らうってことは理性。従うってことは混沌。そのどちらでもない、すべてをわかった上で、そして走り続ける。
 拡散していく意識の果てに綾波の微笑みを見た。

 歩き出せない。

 僕は立ち止まってしまう。それでいいのか?Zを降りてしまうのか?
 フロントウィンドウに打ち付ける雪の塊をワイパーで振り払い、僕は痛いくらいに切なくなった胸を抱きしめていた。
 この僕を人間にしてくれたんだ。

 ようやく人間になれた。確かな想いが僕の胸の中にある。

 そうさ、僕は立ち止まらない。
 Zはいつまでも、死ぬまで、僕と共に。

 大丈夫、やっていけるさ。心の中で呟く。

 大丈夫、やっていけるって。僕の声にマナの声がオーバーラップした。

「うちのダンナもね、走り屋だったのよ。初代スカイラインとか、コスモスポーツ、SR311……Zのつかないフェアレディだった時代よ。だけど、リツコが生まれるすぐ前に事故で死んだわ。
そんなだったからリツコは、ずっと走り屋を憎んでいた。ユイちゃんやキョウコちゃんのことも良くは思ってなかったみたいね。
Diabloがこんな恐ろしいものになったのは、身の程を知らずに天を目指そうとした人間への罰なのかもね。ベイラグーンタワー……それは現代のバビロン」

「だけど、だからといって羽ばたくことをやめれば……鳥は地に落ちてしまいますよ」

 黒い鳥が、灰色の空を優雅に舞っている。

 Z。

「あなたに10年前と同じ過ちを犯してほしくはない。
走りを辞めろとは言わないわ。ただ……生まれてくる子供の顔は、見れないようにはならないでね」

 雪道はさらに険しくなり、たびたびステアリングをとられるようになる。
 Zは負けない。タイヤは唸りを上げて雪原を蹴る。
 雪で埋もれたガードレールの向こうは奈落の底だ。

 いつか『綾波先輩』が言ってた。

『私たちはたくさんのものを乗せて走ってる。今このとき、心に重しを感じるなら……それが、命の重さよ』

 そうさ……重さに耐えられなかったら、あきらめるしかない。

 だけど僕は、ここで逃げ出すわけにはいかない。
 歪んだガードレールは僕の心の弱さ。

 胸に抱く思い。

 もう半月近く会っていないマナの顔が脳裏に甦る。
 アスカやケンスケたちも元気にしているんだろうか。

 実感は……まだ、できない。だからこそ、考え続けなきゃいけない。
 僕の心の鍵を解いてくれたマナと、僕の子供。思いは胸に秘め続ける。

 代わりに泣いてくれるのか、君は。
 そう、僕の代わりに生まれた君が、手にした大切な感情。大事にしてくれ。僕が忘れかけていた感情、僕は君からもらった。そして僕も君に与えることが出来る。

 【声】を恐れることはない……僕たちはいつでも一緒だからな。

 だから必ず帰るんだ。

 マナの元へ。

 終わりの無い走り、それは死ぬまで走り続けるって意味じゃない。
 死なないで、帰るべき場所へちゃんと帰ってくる。そういう意味なんだ。

 Diablo-Zetaのコクピットに、優しい想いが満ちていくのがわかった。

 哀しい優しさでも、それはあった。











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