悪夢のような一夜が明けて……


 街は何事もなかったかのように、朝の目覚めを待っていた。
 うっすらと白い靄をまとったビルたちは静かに佇み……人々の微睡みを包み込んでいる。



 朝靄の立ち込めるベイラグーン埠頭に、数台の物々しい車両が乗り込んできていた。
 中央に陣取ったワンボックス、その側面には無花果のマーク。

 NERV技術部。

 赤木リツコ博士が陣頭指揮を執り、クラッシュしたRSの車体回収と実況検分を行っている。
 赤木博士直属のNERVスタッフが、慎重にRSの遺留品をサンプルケースに入れていく。
 車体は大きくひしゃげ、エンジンルームは爆発で黒焦げになっている。RSが解き放ったパワー……Diablo-TUNEの力が、まざまざと見せ付けられている。

 エンジン周りを調べていた赤木博士が、ふとあるものを見つけて手を止めた。

 驚きから目元をきっと引き締め、慎重にそのパーツを手に取る。
 表面は炭化して煤に覆われてしまっているが、明らかに『それ』は生きていた。

「本件はA2級機密<プライオリティ>に指定。回収済みサンプルを保管後、ただちに全物証の処分を急いで」

 そう厳しく言いつけ、赤木博士はパーツをジュラルミンケースにしまいこむ。


 装甲の切断面に潮風の結晶がきらめいている。
 半分が溶けて焦げた『TEAM MidnightANGELS』のエンブレムステッカー。それはRSと最期を共にしようとするかのようにリヤウィンドウにこびりついていた。熾天使セラフィムはエヴァを、罪深きこの鋼鉄の獣を、自らも共に天国へ導いていこうというのか。

 Diablo-RS『零号機』。
 チューンドカーとしての命を燃やし尽くした彼女はただ朝風に吹かれ、静かな、永遠の眠りについた。











新世紀最速伝説
The Fastest Legend Of Neon Genesis
エヴァンゲリオンLAGOON

第19話 終わらない悪夢












 …………【声】はあれっきり、黙ってしまった…………



 ……孤独。でも、不思議と怖くはない。孤独が恐怖ではない。
 1人きり。この虚無の宇宙に僕は1人きりだ。

 そして、僕の傍らにはZがいる。

 いつでも僕と共に……この鋼鉄の身体と心臓を持つ、最凶の獣。人間が作り出した最も純粋で、無垢で、獰猛な力。


 ……Diablo-TUNED Zeta / Fairlady Z……


 鋼鉄の淑女……フェアレディZ。

 それは今や僕にとって、人間の魂を喰い物にする魔女の如きだ。





 今のところ、僕の意識ははっきりしてる……

 ただ……時間の感覚がおかしくなっていた。


 今が何時なのかもよくわからない…………


 ……僕の中で聞こえる【声】の正体……

 渚さんや綾波先輩にも聞こえていた【声】……


 僕はこいつの正体を突き止めるまでは……みんなの前に戻ることはできない。
 これ以上……みんなを巻き込むことはできない。

 狂ってしまった僕のために……



 店の方は、一日臨時休業をとった後、赤木博士が業務を引き継いで営業は続けている。

 だけど……
 マナをはじめ、みんなの胸中には途轍もない不安しかない。

 何よりもマナ……あれから僕は、COMFORT17には帰っていない。
 独りぼっちになってしまったマナ……
 だけど、僕にはどうすることもできない。


 あてどもなく街をさまよう……

 この街……第3新東京市……

 ここからすべてが始まったんだ……


 見慣れたはずの街並み……

 僕がよく知ってるはずの街並み……


 ……だけど、今は見知らぬ街角……


 行き交う人と車……
 夜をかき割る幾千の意思……
 誰とも交わることなく淀み続ける……


 誰の声も僕には届きはしない……

 僕は他の人間とは違う……

 ……揺らいで偏向する星空の下……

 雑踏のラビリンスに迷い込んで僕は……

 誰の声も僕の心には届きはしない……


 対流する大気が魂を吸い上げる……

 走りに飢えたハイエナ……



 ……そうさ……


 ……それが、僕……





 …………本当の僕なんだ…………










 北横浜、Queen's Aques。

 ショッピングモールの駐車場に、青いS30と赤い32Rが停まっている。
 12使徒、ブルースティンガー……そして、ブラッディR。椎名姉弟だ。

「姉貴、こんなに買い込んでどうすんだよ……っとと」

「ええやろ、こっち来ることなんてめったにナイんやから」

 たくさんの荷物を抱え、よろけ気味に歩いてくるアズサ。GT-Rのトランクにそれを詰め込む。

「……んなことよか、聞いたか?MNA綾波の事故」

 真剣な表情に切り換えて言う。

「うん。NERVの方は大慌てらしいやん。
それに昨日今日て、第3新東京エリア外の走り屋たちもぎょうさん乗り込んできとるみたいやで」

「もちろん……わかってるさ。綾波の存在はこの街の守護神みたいなもんだったからな。
それが倒れたとなれば……」

「第3もいよいよ危なくなるってことやな」

「だな。あとは……MNA碇、NR惣流……あいつらの戦いぶりにかかってるってことか」

 わずかの沈黙。

「せや、トモヤくんとこ行ってみる?彼も最近出てきとるんやろ」

「ん、ああ……そうだな。あいつもDiablo-Zetaには当然、狙いをつけてるだろうからな……」

 迅帝。
 12使徒最強と言われる彼が……Zを狙っている。

 それは避けられない戦い……

 そしてZも、それを求めている。










 東京湾を睨んでそびえ立つバビロンの塔。

 横浜ベイラグーン・タワー……


 対岸の埋立地に、天に向けたイルミネーションを纏って佇むランドマークタワーを静かに見つめ……この幻想の塔は、今夜も眠り続けている……



「……会いたかったぜ?第3新東京……MNAの碇」

 不敵な笑みを湛えつつ僕に寄ってくる男。
 彼の背後で僕を見据えているのは……Cカーエアロで身を固めたR33GT-R……

 そうだ……横浜GPに出ていた。

 C1-ROADSTARS、楠木ガモウ……
 旧東京、首都高環状線をテリトリーとする……

 第3新東京市エリア外からやってきた走り屋……

 ……この街に……
 次々と、流れ込んでくる外界からの侵入者……

 こいつも、その一人なのか…………

「横浜GP総合1位……
……綾波亡き後……第3新東京最速の走り屋」

「…………!?
亡き後……だって…………?」

 綾波先輩。その名を……言うな!僕はもうその名を聞きたくない……

 脳裏にフラッシュバックする、爆炎に包まれるRSの姿。追い抜きざまに見えた、綾波先輩の穏やかな笑顔。すべてが……壊れていく。僕の目の前で。

「一度事故っちまった走り屋は、もう以前のようには走れない……死んだも同然だ。
二度とSTREETには戻れない……それが、走り屋淘汰の……『自然界の法則』ってやつさ」

「…………!!」

 ギリッ、と奥歯が軋む。

 食い下がるように僕は楠木を睨みつける……奴はそんな僕を嘲笑うかのように言葉を続ける。

「自己紹介はお互い要らねえな」

 GT-Rが、楠木の薄笑いに同調するようにアイドリングを上げる。
 震えるサウンドが僕を、Zをむずがゆい痺れに誘う。鋭敏になった皮膚から、神経にオーラが満ちていく。

「……横浜GP……あんなお祭りRACE程度でうぬぼれるなよ。
祭りで踊れるのは、所詮MONKEY DANCE……」

 楠木はGT-Rのフェンダーからボンネット、Aピラーを、愛撫するようになで上げていった。

「オレたちはチームの枠にとらわれない、最強の走り屋軍団を結成する。
『関東最速UNIT』……
興味があるなら、今夜、湾岸の大黒PAに来てみろ」

「…………」

「お前もメンバー候補の一人だ。
わかってるな……?速さを求める奴は、その血の導きから逃れることはできねえ……」

 GT-Rのコクピットに乗り込み、アクセルをあおる楠木。エキゾーストの音圧が衝撃波を作り、僕の身体と心を揺さぶる。

「碇シンジ……横浜最速の男。10年前の伝説を受け継ぐ走り屋……
お前も伝説の呪いからは逃げられねえぞ」

「何が……言いたい…………?」

「くくく……まあいい。楽しみに待ってるぜ……碇…………」

「……!」

 鋭く発進したGT-Rが僕とZを掠め、南横浜の街へ消えていく。

 僕はじっとその後姿を見据え……道の向こうに見えなくなっても、ずっと立ち尽くしていた。


 『関東最速UNIT』……楠木が企んでいる、最強の走り屋軍団結成プラン……

 その目的はなんだ?
 彼の背後にはWON-TECがいる。そう綾波先輩は言ってた。

 もしその最速チームを作ることが、WON-TECの狙いだとするなら……

 僕は、放っておくわけにはいかない。

 NERV……WON-TEC……
 アンダーグラウンドで争うこの二大企業……

 NERV会長、六分儀ゲンドウ……
 WON-TEC総帥、ウォン=リー=ストラスバーグ……

 彼らにとって僕は、どれだけの利用価値……が、あるのだろうか。



 海から吹き付ける潮風には、もう既に……冬の冷たい香りが混じりはじめていた。










 旧東京エリア、厚木市に店を構えるTUNE SHOP『S.S.R.』。

 今夜、このSHOPのガレージから……1台のクルマが首都高へ向け、出撃しようとしていた。

 カルソニックブルーのBNR34スカイラインGT-R……
 他のどんなチューンドRとも違う、強烈なオーラと存在感を纏ったこのマシン……

 限界までフルチューンされたRB26DETTは常用700馬力、リミッター解除の最大出力はじつに1200馬力にも達する。
 これまでの常識を打ち破る、まさに最強の名に相応しいモンスターマシンだ。

「トモヤ、そろそろ出るのか」

「ええ……今夜は、会えそうな気がします。
……あの伝説のZに」

 そう答えてコクピットにつく男は、意外にも若い。ぱっと見には20歳そこそこだ。

 岩崎トモヤ……彼こそが、12使徒最年少にして最速、【迅帝】の名を受け継ぐ首都高最速の走り屋だ。

「ま、わかってるとは思うがくれぐれも気をつけてな。ヤバイと思ったら無理はすんなよ」

「はい」

 彼が出発しようとした時、ちょうど、表の駐車場にS30と32Rが入ってきた。

「おっと、客じゃなさそうだな……
アズサ君にメグミちゃんか」

 トモヤもいったん34Rを降り、彼らの元に向かう。

「よう、トモヤ。今から出るとこだったか」

「久しぶり、トモヤくん。元気しとった?」

「こちらこそ、久しぶり。アズサ、メグミさん。
今ちょうど、首都高に行こうと思ってたとこですよ」

「そらちょうどええな。うちらもちょっと走りにいこか思てたんや」

「いいですね。なんなら3人でつるんで走りましょうか」

「ん、それもいいな」

 作業場の片付けを終えたS.S.R.社長も彼らの輪に加わる。

「ようアズサ君。メグミちゃんも。調子はどうだい?」

「ええ、ぼちぼち。それよりも……この34R、また出してきたんですね」

 アズサがちらっと34Rを見やる。
 一度は封印されようとしていたこいつが、今、再び目覚めた。

「まあな。やっぱ、横浜GPとかいろいろあって、新しい勢力も増えてきたしな。
うちもさすがに黙ってられないってわけさ」

「一時期は首都高で敵無しと言われたほどでしたからね」

「昔の話さ」

「昔といえば、ハルさんは最近来てます?」

「いーや……ハルキ君も最近はあまり。彼もそろそろ引退するって話だ」

「そうですか……」

 世代交代は確実に進む。いかな12使徒といえども、その速さは不変のものではない。

 かつて【迅帝】の座についていた男、林原ハルキ……彼も今は、その座を弟子である岩崎トモヤに譲り、自らは一線を退いている。

 横浜GP予選に観戦に来ていた銀のZ32……彼が、そうだった。



 僕のことを知っている風だった……

 あのZ32の男……
 僕と……Diablo-Zetaと同じ型式……Z32フェアレディZ……

 きっと、いずれ会うことになる。

 それが運命であるかのように……



「……じゃ、社長、僕らはそろそろ行きます」

「ああ。気をつけてな。アズサ君もメグミちゃんも、トモヤを頼むぜ」

「はい」

 3人はそれぞれのクルマに乗り込み、順番に発進していく。

 首都高へ……戦場の最前線へ。
 狙うは、Diablo-Zeta。










 ベイラグーンを出発した僕は、給油のためにまずMILAGEに寄った。
 渚さんがいなくなってから、ここも……ずいぶん寂れた雰囲気になった。

 いや、一般の客にとっては、変わらず繁盛しているように見える。だけど僕たちにとっては……大切なものが失われてしまった、輝きを失った、涸れてしまったオアシス。

「ハイオク満タン、現金で……
……店長、久しぶりですね。……ん?あの子は?」

 MILAGEの店長と顔を合わせるのもしばらくぶりだ。

 と、見かけない従業員の姿がある。新しいバイトか?

「ああ、やっぱりカヲル君がいなくなってからさすがにきつくなってね。新しい子入れる事にしたんだ。
紹介するよ、彼女の名前は山岸マユミちゃん。横浜商業高校の3年生だよ。先週から、バイトで入ってもらってるんだ」

「そうですか……」

 山岸マユミ……
 背中にかかるロングの、艶のある黒髪。おとなしそうな顔立ちに眼鏡、そんな彼女は、一見こんな油くさい職場には不似合いな雰囲気だ。

 高校3年といえば、僕と同い年か……

「、……」

 一瞬目が合う。
 彼女はすぐに視線を外し、気づかない振りを装って仕事を続ける。

 もともと引っ込み思案なのか、人見知りが激しいのか……

 今の僕にとってはどうでもいい。
 だけど、だから、僕も気づかない振りをする……

 ハイオクガソリンを黙々と飲みこみ続けるZのレーシング・フュエルタンクが満腹感に揺れる。
 容量120リッターをきっちり満たし、給油機は自動停止した。





 僕はZを駐車場に寄せ、店内のロビーへ向かった。

 駐車場に停まっているクルマはZの他に……FD、180SX、ハチロク。
 マナたちも来てたんだ……

「……あっ、シンジ……」

 マナが真っ先に声をあげる。ケンスケと惣流も遅れて僕を見やる。

 ……どうして、来たんだろう。
 今更僕は、みんなに何を話せばいい?
 僕の事……話して、わかってもらえるのだろうか。

 いや……そもそも僕はここにいていい人間なのか?

 Zも……

「心配したぜ、碇……今までどこ行ってたんだよ?店にも出てなかったし……」

「シンジ、つっ立ってないで座りなさい。言いたくなきゃ無理に喋る事もないわ」

 惣流に促されて僕は椅子に座る。

 マナとケンスケの心配そうな目が僕を取り囲む……

「…………」

「…………」

「…………」

「…………」

 居たたまれない。
 僕は何でここにいるんだ?

 僕がここにいる理由……僕はみんなに何をした?わからない……心が封じられた。

「シンジ……綾波さんのこと」

 マナが堪えきれなくなったように口を開く。

「噂……嘘、だよね」

「……噂?」

「あの夜……綾波さんと走ってたって……
携帯もずっとつながらなかったし……次の日もその次も、店に来なかったし……」

 ……もう知れ渡っているのか……当然のことだろうな。

 TEAM MidNightANGELS綾波レイ、Diablo-RS、ベイラグーン埠頭シーサイドコーナーにてクラッシュ。マシンは大破炎上、ドライバーの生死は…………。

 2年間の長きにわたってこの街、第3新東京市を統べてきた女王の玉座転落……
 羽をもがれ、地に堕ちた最速の天使。

「心配だったんだよ、シンジのこと……」

 嘘だ。

 恐れていたんだ、僕を。

 僕は何だ?僕が乗るZはなんだ?

 今、この街を埋め尽くしている噂……
 MNAの碇は悪魔の走り屋。あのZは10年前の伝説のマシン。
 10年前の最速の走り屋……その再来。

 僕は呪われた存在……そうなんだろ。

 僕と走ると事故る……地獄に魂を連れて行かれる。
 そんな噂があるから、街で出会う走り屋たちも僕を避けている。Zがヘッドライトを向けると、みんな僕を恐れて逃げ出していく。

 Diablo-Zeta……

 それに乗る僕自身も、いや、僕が乗るからこいつはそう呼ばれるんだ。
 Diabloとは人間のチューニング……Zは単なる器に過ぎない。
 Diablo-TUNE……
 そうなった時、僕は永遠に孤独だ。

 僕はもはや……ヒトの心さえ理解できない。

 僕は何だ?
 僕の意識はどこにある?ここにある。

 僕が見ているのは僕の世界……マナ、惣流。目の前にいる。

 意識がねじれる。思考が傾き、重力に引きずり込まれる。

「なにがあったの?第2東京に行ってきてから……
シンジ、変わっちゃった気がするよ」

 縋るようなマナの瞳が、僕の眼球に飛び込んできそうなくらい近くに見える。

 やめろ……【オレ】の中に入ってくるな……

「変わったって……言うの?僕が?
わかりもしないのに勝手なこと言わないでくれよ……」

 そうさ。僕はずっとこうだった。

 変わったなんて、それは違う。
 それは本当の僕が見えなかっただけだ。

 隠されていた僕の本性が見えてきたから……そう感じるだけだ。

 顔を上げる。
 正面のマナ、右のケンスケ、左の惣流。順番に瞳を射抜く。

 ……どうなんだ……僕は変わったのか?
 どうなんだよケンスケ。僕の顔に、どこかおかしいところはあるのか?
 僕はいったいなんなんだ……教えてくれよ、惣流……

 マナ……

 …………綾波先輩…………!!!

「……だって、シンジなにも言ってくれないじゃない!!」

 最後に視線を戻した先のマナが叫ぶ。
 悲痛な声がウィンドウガラスを震わせる。

「ひとりで悩まないで……私たちがいるじゃない。
話を聞いてあげること、いっしょに悩むこと、そばにいてあげることだって…………」

「……ダメなんだ」

 揺らぐ。それは涙。

「そんなんじゃダメなんだ……
僕は……もうみんなとは違う」

 そうだ。違うんだ。

 もう認めるしかない……僕の中に巣食った悪魔。それは僕自身。
 Diablo-TUNE……

 冬月先生が僕に言った言葉……

 僕の母さん……彼らが僕に遺したもの……
 僕の中に植えつけたもの……それはたしかにある。










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 まだ、完全には思い出せない。

 僕は君を知っているさ……
 ずっと僕の中にいたんだ。いや、僕が君の中にいた……違う、僕が君を抑えこんでいた……

 懐かしいとさえ思うじゃないか。
 10年前……昨日のことのように思い出せる。

 惣流……いや、アスカ。
 綾波先輩……ううん、綾波。

 僕といっしょにいた二人……ずっと僕のそばにいた。

「シンジ、いなくならないで」

 その声も知ってる。マナ……僕はずっと前から君を知っていたよ。

「みんな、いなくなっちゃう気がして……怖いのよ」

「碇、こんな言い方、あんまりしたくないけど……お前には俺たちがいるじゃないか。
噂なんて気にすんなよ。俺たちはお前のこと、信じてるぜ」

 遠い距離。

 信じたからってなんになる?
 事実は変わらない。

「俺……一時は、チームやめようかなって思ったよ。
だけど……こんなことで俺たちがばらばらになってたら、MNAが無くなったら……綾波さんだって悲しむじゃないか」

「ね、シンジ。私たちだけでもがんばろ。ね?」

 なんになるっていうんだ。

 僕を、この僕を……そばに置いて、君たちはやっていけるっていうのか?
 狂ってしまった僕を……悪魔<Diablo>をその身に内包した僕を……

 マナ。

 惣流。

 君たちは僕と同じなのか…?マナ……君の中にも、僕と同じ【モノ】があるのか?

 見たい。この目で見たい。
 その胸に秘めた君のすべてを……僕は見たい。Diablo。マナ、君もそうなんだね。

 そして惣流……君はきっと、わかってる。

「命、賭けられるのかよ……
仲間のためなら死んでもいいって言うのか!?」

 吐き出される言葉は僕のものか?

 僕が言っているのか?

「ケンスケ……頼む。もう僕のことは気にするのやめてくれ……
僕なんかに構っていたって君のためにならない。君は僕とは違う……違うんだ。真っ当な人生を歩むべきなんだよ」

「碇……」

 わかってない。ケンスケはわかってない。
 Diabloのことも、何もかも……仕方ないさ。君は僕『たち』とは違う……何も知らないふつうの人間なんだから。

「シンジ……」

「シンジ。アンタ……」

 マナは?惣流は?
 君たちはきっとわかってる……僕と同じ人間だから。
 だけど、それを言うことはできない……

「アンタがここで何を言おうが事実は変わらないわ。だけどね、アンタは事実を事実として受け止めるべきよ。
……あの夜……アンタが何をして、何を思い、何を覚えているのか」

「…………」

「忘れるなんて許されないわよ。
それは何よりもアンタ自身が許さないはず……わかってるわね。アタシたちはただ、見守ることしかできない。
アンタの中に抱えた【もうひとりのアンタ】……
……きっちり片は付けなさい」

 惣流……。

 それが、ここで言える、今言える、今の僕に言える、精一杯の言葉かもしれないね。
 もう知ってるんだ。僕のことを……もしかしたら僕自身も知らない僕のことを。

 惣流、君はきっと僕よりもずっと先、ずっと深くにいる。

 綾波先輩がたどり着けずに志半ばで倒れた、その最速の彼方に……
 惣流、君はもしかしたら、既に到達しているのかもしれない。
 【僕のいるところ】へ……君はきっと、近づいてる。

「ああ……わかってる。
……だけど、今は僕だけでやらせてくれ」

 事実は何を言っても変わらない……

 そうさ、僕はあの夜、綾波先輩と走ってた……
 綾波先輩は僕の目の前で事故ったんだ……

 ……だけど、その後……僕はどうした?

 どこへ向かい、何をしていた?

 事故の後だけじゃない……その前、僕は何をしていたんだ……?
 覚えてる記憶に、確かなものは何一つない。

 僕は何故綾波先輩と走っていたんだ……?

 僕はどこから来てどこへ向かう?
 僕はどこにいた?何故ここに来た?どうやってここに来た?
 僕は何故ここにいる?

 ほんの数時間前の記憶ですら、みるみるうちに溶けて消えていく。
 覚えてるのは断片に過ぎない。

 そうだ……鈴原の時も、渚さんの時も……

 僕は断片の記憶しか覚えてない。
 確かめられない……みんなは僕を見ていた?僕のことを覚えている?
 記憶の連鎖は絡み捩れ、僕は一人取り残されて。

 虚無と混沌の狭間に意識が落ち込む。

 僕は……自分自身さえも確かめられずにいる……





「……シンジ、待って」

 MILAGEを出ようとした僕をマナが呼び止める。
 だけど僕は構わずにZへ向かう……

 僕はこれからどこへ行く?あてもない。ただひたすら、どこかを目指して走り続けるしかないのか。

 Z、あるいは君が僕をどこかへ導くのか……

 だめだ。考えれば考えるだけ、意識が苦しくなる。

「帰るなら、いっしょに……」

「ほっといてくれ」

 縋ってくるマナの言葉を振り払う。
 これ以上僕に付きまとわないでくれ……

「僕はもう誰ともいっしょにいたくない。一人にさせてくれよ……」

 ポケットからキーを取り出し、Zへ向ける。
 肩に、背中に覆いかぶさる違和感を僕は振り払う……!

「シンジ、嫌!私はひとりじゃやだよう!」

「やめろって、いい加減に……っ!」

「もう何日帰らないつもりなのよ!シンジの部屋、シンジがいつ帰ってきてもいいようにきれいにしてあるのに……私を一人ぼっちにしないでよ!」

「だからなんでそう僕にこだわる!?どうしてだよっ……僕がなにかしたのか?
わからないよ……僕だって……」

 踵を返す。視界から外れたその瞬間を倒された。

「シンジっ、だって私たち……んっ!私たち……」

 掴みかかってきたマナに足がもつれ、僕とマナはコンクリートの床に倒れこんだ。取り落としたキーがZの足元に、チャリンと音を立てて転がっていく。

 マナは僕を放そうとしない。しがみついたまま、僕は起き上がれない。
 ふるふると身体を震わせて……泣いてるのか。
 まるで子供みたいだ……マナ。もう来年は20歳になるんだろ。いい歳した大人のすることかよ、これが……

 僕はどこまでも冷めてた。同時に、湧き上がる熱さは汚れていた。

「私たち……恋人じゃない。寂しがってる彼女を放ってあなたは行っちゃうの?
お願いシンジ……私の前からいなくならないで」

「わからないよ……いつ恋人になったんだよ、僕たち。ただ同じとこに住んでるってだけだろ……」

「なんでっ……!なんで、どうしてそんなこと言えるの!シンジは私のこと、なんとも思わないの?想い、何度も交わしたのに。身体だって、何度も合わせたのに……
こんなに、悲しくて、不安で押しつぶされそうなのに……」

「悲しいのはわかるよ……不安なのもよくわかる。だけどさ、そんな時に僕に縋ってなんになる?前に進めるのか?」

「縋るなんて!悲しいから、心の傷癒したいから、そうじゃないの?
どうして、前に進まなきゃならないの……?」

 思ってもないこと言ってるのは僕の方だ……

 マナを僕から引き離したくて、もっともらしい言葉をただ並べてるだけだ。
 何よりも不安に包まれ、恐れているのは僕の方だ……

 Z。そして僕自身。僕はみんなと関わって生きていく自信がない。関わった人間を不幸にしてしまうのが怖い。

 それはきっと、今の僕に残ったただひとつの理性……そして、ただひとつの弱さ。

「マナ。これはお願いだよ……僕はもう、今までの僕じゃない。
君が好きだった僕は……そう、遠いところに行っちゃった……今ここにいる僕は、君の知ってる碇シンジじゃないんだよ」

 見つめ、瞳を見通す。
 じわじわと瞼に満ちていく涙が哀しい。その悲しみは僕のもの……だがそれすらも、どこか僕の知らない場所へ無情にも持っていかれてしまう。僕は感情さえ奪われてる。悲しみを悲しみとして感じることすら、今の僕にはできない。

「だからさ……僕なんかに囚われて、君が壊れていくのは悲しいよ。
目の前だけ見てちゃダメなんだ……マナ、君には君の未来があるだろ。
辛くてもそれは今だけだ。だから、僕を振り切っていくんだよ」

「シンジ……嫌よ……私はどこまでも、あなたについてくよ。
たとえあなたが世界中を敵に回しても、私だけはあなたといっしょにいたい。私だけはあなたの味方でいたいの」

 本気……なんだろうな。
 ためらいもなくそれを言える、それが女の強さであると同時に愚かさ。……いや、それこそ男の勝手か。マナにとってはどんな道義よりも倫理よりも、僕の方が大事。ただそれだけのことだ……

 そこまで僕を想ってくれてるっていうのに、僕は何をやってる?
 応えてやるのが男の務め?だけど、心が納得しない。マナ、僕の君への思いは何だ?僕がマナに対して抱く思いはなんなんだ?

 僕はマナのこと、本当に好きだったのかな。愛してる、その言葉は何度も口にしたはずだ。だけど、思い出せない。僕はどんな感情を抱いていたのか?

「あ……、あの、大丈夫……ですか?」

 おずおずとした声に振り向くと、さっきのバイトの少女……山岸マユミが、心配そうに僕たちを見ていた。
 振り向けば惣流とケンスケもやってくる。

 僕はマナを促して身体を起こす。

「えっと、その……あ、こ、これ、お車の鍵……」

「ああ……ごめん。ありがとう」

 山岸さんは僕が落としたZのキーを拾ってくれた。手渡される時に一瞬、指が触れた。

「ほらマナ、しっかりしなさい。浸るのはここじゃなくて家でやんなさいよ」

 惣流に手を引かれ、マナはふらつきながら立ち上がる。
 恨めしそうに……僕を見てる。僕はどうしたらいい?

「アンタ、マジで大丈夫?ここんとこいろいろあったし疲れてるんでしょ。
ともかく今日はもう家帰って休みなさい。なんだったら明日も無理することないわ。リツコにはアタシから言っておくから」

「…………すみません」

 僕はマナたちを見届け、今度こそZに乗り込んだ。
 95デシベルのアイドリングサウンドは、僕に近づく者たちを拒むように吼える。

 と、マナも後を追うように180SXを起動させた。

「…………」

 惣流たちを見やる。
 返されたのは、あきらめ気味なアイコンタクト。マナの好きにさせろ、と。

 構わずZを発進させる。

 やや離れて、180SXも追ってくる。バトルモード、ってわけでも……ないけど。










 バックミラーには180SXのヘッドライト。コクピットにつくマナの顔が、逆光にわずかに浮かび上がってる。
 何処まで追ってくる。

 僕はあえて飛ばさず、法定速度で走る。

 今更、COMFORT17に戻るのか。戻ってどうする。
 僕の帰るべき場所はそこか?

 わからない。

 なにもかもに現実感を喪失してる。

 走る。
 それだけだ。

 右手にはランドマークタワーの均整の取れた姿。その手前にはみなとみらいの大観覧車。そこからさらに手前、視界を外れたすぐそこに、ベイラグーンタワーの巨体が横たわっている。
 ランドマークタワーの軽く倍はあろうかという基礎部は、あたかもピラミッドの底のように大地に根を下ろしていた。
 もしこのタワーが完成していたなら、それはおそらく横浜の、第3新東京市の、いや、日本の復興のシンボルとして、世界に名を轟かせていただろう。それだけの威容をこいつは持ちながら、今はその身体を腐らせて眠っている。

 ……まるで。僕、みたいだ。

 Diablo-Zeta。Diablo-TUNE。
 夜の闇を切り開く人工の灯りに吸い寄せられるように僕は走ってた。





 やがてたどり着いたのは、今は使われなくなった旧港。

 Zを停め、桟橋に降り立つ。
 やがて180SXも追いついてきた。



 潮風に乗せたアイドリングサウンドが、僕とマナの間の空隙を満たしていた。











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