MAGIに戻ると、ガレージのリフトには霧島の180SXが載せられていた。

 もう1台のリフトにZを載せ、僕たちは綾波先輩とともに作業にかかる。


 その前に綾波先輩は霧島を呼んで何か話をしていた。

 ……この戦いに……
 霧島の戦いに、自分自身の手で決着をつけさせる。そのつもりなんだろうか。


「時間的猶予はほとんどないわ。できることは限られてる。
……碇くんは霧島さんを手伝って。Zは私が、責任を持って仕上げるわ」

 綾波先輩の力強い言葉。

 僕は先輩に従う。
 それは単に命令を聞くってことではなく……心の底から、先輩を信頼しているからこそできること。


 僕はこのZに……綾波先輩に、命を預ける。











新世紀最速伝説
The Fastest Legend of Neon Genesis
エヴァンゲリオンLAGOON

第13話 駆け抜けてゆく、物語たち












 リフトに載せられた180SX。

 霧島はミッションまわりをチェックしていた。
 そういえば昨夜のバトル、マシントラブルで走行不能になったって聞いたけど……

「霧島、どんな具合だ?」

「うん……ほら、見てここ。ミッションマウントが割れちゃってる……
……これでエンジンとミッションがズレてギアが抜けちゃったんだ」

 ミッションを支える金具にクラックが入っている。ゴムブッシュもちぎれ、中のグリスが飛び出してしまっている。
 よほどの高負荷がかかっていたことは容易に想像できる。

「クラッチとかは容量あげてたんだけど……そのぶん弱いところに、しわ寄せがきたんだね」

 パワーを上げていけば、クルマにもよるがまず最初にクラッチが滑りはじめる。そこを強化すれば次はデフ、その次はミッションやシャフト、といった具合に弱いところからガタがくる。
 この180SXもかなりのパワーを出してるから……ノーマルブッシュではとても耐えられなかったようだ。

 対策としては強化マウントを入れるのがセオリーだろう……

「…………この機会だから、もっとパワーがほしいんだけど……」

 ぽつりと呟く霧島。

 Zに、僕に追いつきたい。それが霧島の望み。
 それをかなえるためには……今の180SXでは力が足りない。


 たとえ追い越せなくても、少なくとも、離されないくらいには。

 この180SXでZと対等に走れるだけのパワーを手に入れるには……

「……でもこれ、タービン交換済みだろ?これ以上っていうと……もっと大きいのを入れるか、エンジン本体か……」

「うん……だけど、そんなお金も時間もないよ……
……もっとなにか……」

「…………ナイトロ、とかどうだろ?……」

 ぱっと顔を上げる霧島。

 その手があったか!ってな感じだ。

「葛城のNSXに使った分の残りがあるはずだから……それでいけると思う」

「うん……そうだね!それならすぐにできるわ。さっそく綾波さんに聞いてみなくちゃ!」

 霧島の表情に明るさが戻った。
 綾波先輩にチューンの計画を伝える霧島の姿、そこにはいつもの明るい姿。

 ……同じ、仲間だから。
 クルマという機械に……走りに、魅せられた者どうし。
 この戦いを通して得られるモノがあるとするならそれは……

 ……仲間たちとの、かけがえのない絆……

 他の誰にも分からない……だけど、当事者たちにとってはなによりも深い絆……

 …………同じ夜を走る…………

 僕たちをつなぐたったひとつの絆…………





 結果としては、予備にストックしておいたNERVオリジナルのナイトロキットを卸値で買えることになった。


 このキットは専用のダイレクトポート・ナイトロインジェクターと汎用CPUがセットになっている。CPUには主要車種ごとのデータが入っているのでセッティングも簡単だ。
 ナイトロのボンベは長期戦も想定し、7kgを4本、リヤシート下にセット。
 圧力ゲージとコントロールパネルはセンターコンソールに取り付け、あわせてセッティング用に排気温計とA/F計を取り付ける。

 6個のメーターがずらりと並ぶ様はさながら戦闘機のようだ。


 動作はメインスイッチをONにし、アクセル全開時にステアリングに付けたボタンを押すことで噴射する。ボタンは2つ付けて増量噴射も可能にし、最大でおよそ100馬力のパワーアップが見込める。

 もっともエンジンの耐久度的にもかなりギリギリのため、連続での使用には耐えないが……
 ……ここぞ、というときの瞬発力は確実に得ることができた。


 本来であれば実走テストを行い微調整をするところだが、今回はその余裕はない。

 シャーシダイナモ上だけでのセッティングだが、計測では5速6600rpm時に450馬力を叩き出した。
 180SXクラスのクルマでこのパワーは驚異だ。
 速度でいえば、280km/hあたりで最大出力を発揮することになる。最高速バトル向けとしては申し分ないだろう。

 さすがにボディまわりには手が回らなかったため、このパワーを使えるシチュエーションは限られてしまう……

 だが、その一瞬こそがいちばん求めているもの。
 その一瞬のために何をひきかえにするか……その答えが、このナイトロチューンだ。


 CA18DET改ナイトロオキサイド。
 ともすれば自分の身を滅ぼしかねないこの力……
 それでも、かまわない。そう思えること。

 それが……証。



「よし……あとはオイルとLLCを換えれば完璧だ。
……ん?霧島、それは?」

 霧島は裏のガレージからGTウィングを抱えて持ってきた。
 よく見ると曲面で構成された3次元タイプのものだ。

「これさ、前々から換えようと思ってたの。今のウィングはダウンフォースはそこそこいいけど、抵抗がちょっと大きすぎるから」

「なるほど……」

 リヤのダウンフォースをつけてトラクションを上げればより効率よくパワーを使うことができる。
 さらに空気抵抗の低減も重要な要素だ。速度域が上がれば上がるほど、空力の重要性は高くなる。

「フロントとの兼ね合いでカナードもね」

 ごく小さなパーツだがその効果は侮れない。

 特に最高速の場合、超高速域で起こるフロントのリフトは致命的だ。
 下手をすればクルマが空を飛んでしまう。そうなればまず……命はない。

 アンダーパネルはもともと装着済みだった。念のため、取り付けにガタがないか、ボルトのゆるみがないか確かめる。



 180SXはすべてのセットアップが終わった。

 あらためて、離れたところから眺めてみる……


 もともと派手なエアロマシンだったが、3次元GTウィングとフロントカナードによってさらに迫力を増している。
 それは完成されたエアロフォルムにさらに手を入れたことによるものか……

 自分のフィーリングに、100%のシンクロを求めて……

 あえて崩したバランス。
 調和された完成品に手を入れることの罪深さ。

 すべて自覚している。


 ……だから、たとえこのクルマで何があったとしても……

 …………後悔は、しない。





 夕方には、Zのリセッティングも終わった。

 綾波先輩からZを受け取り、僕たちは今日の残りの仕事を片付けに行く。



 不思議なものだ……

 パーツは何も換えてないのに、Zの表情が変わった気がする。
 Zが……僕に、素顔を見せている。そんな気がする。


「……それが分かるのなら、あなたも進歩したってことね。
大丈夫。Zは……いつだって、あなた次第よ」

 まだ本気ではなかった……と。

 考えてみればそうだろうな……
 なんだかんだいって僕は素人だ。僕が乗ることを考えて……パワーを抑えていたとしても不思議はない。

 同時に綾波先輩は、僕が速さを身につけてきたことを分かってる。


 今の僕なら……より速く、Zを走らせられると。

 そしてそれが……やがて僕が、Zを完璧に乗りこなせる速さを身につけたとき。
 その時初めて、本来の、100%のパワーで走れることが……

 機械として、Zが求めていること。


 そうさ……僕もZも、まだ完全じゃない。

 欠けているものをさがして……元に戻す。
 僕はそのために走る……

 僕の中の、欠けてしまったなにかを探して…………










 西の海に太陽が落ち、暗闇が世界を蝕んでいく。

 そして同時に、目覚める者たちがいる。


 いつもと変わらない夜のはずなのに……どこか落ち着かない。
 周りが変わってしまったんではなく……変わったのは、僕たち。

 僕は予感している。そして……Zも。


 ……僕は……立ち止まれない。

「今夜は葛城部長のNSXと私のRS、それに碇くん、あなたのZとでシェイクダウンを行うわ。
横浜GP前の……最後の仕上げよ」

 綾波先輩はそう僕に告げた。

 場所はそう……首都高速、湾岸線。

 このZがすべてのパワーを解き放てる場所……


 僕ははっきりと感じていた。

 自分の中で、熱い血が騒ぎだしているのを。
 僕の心が、Zにシンクロしていくのを。





 今夜は……本気の走りだ。
 完全なコンディションで臨む。

 風呂に入っておこうと思ったら、霧島も風呂に入ると言い出した。
 考えてみれば霧島、昨日はバトルでくたくたになって、今日は半日入院してたわけだから……先に入らせてあげようか。

「僕はあとでいいから……霧島、先に入れよ」

「…………うん」

 霧島は着替えを持ってバスルームに入った。


 僕はリビングのソファに腰を降ろし、ポケットから取り出したZのマスターキーをじっと見つめる。

 使い込まれて手になじんだ……くすんだ銀色のチタンボディ。
 刻印は、「300ZX」。

 10年前は……母さんの手に握られていたんだ、このキーは。


 僕はキーを自分の部屋の机の上に置くとリビングに戻った。
 と、携帯の着メロが聞こえてきた。

 ……これは霧島のか?

「シンジ君〜、持ってきて〜」

 霧島が更衣室から呼ぶ。
 携帯は霧島の部屋に置いてあった。

 携帯の小さなスピーカーが精一杯唄っているのは……「Blazin' Beat/move」。

 ……そっち系かい。

 僕はあのアニメはあんまり好きじゃないんだけどね……このアーティスト自体は好きだけど。
 ……って、そんなのはどうでもいいか。


「…………ん?」

 背面ディスプレイに表示された発信者名……
 「ムサシ」……
 葛城に連れて行かれたはずだけど……連絡、できたのか……

 更衣室の引き戸を少しだけ開け、腕をつっこんで霧島に渡す。

「ほい」

「ありがと……!?」

 語尾が上擦った。驚いてる……


 僕がしばらく待っていると、霧島がバスタオルを巻いただけの姿で出てきた。
 おいおい……

「……うん、私の方は大丈夫だよ、気にしないで……
…………え?違う、そうじゃないって……ほんとだよ。……うん。……」

 何を話してるんだろ?
 霧島は会話を続けながら、「上がったから入って」とゼスチャーする。

 よっぽど急いでるんだろうか……?

 僕は更衣室の戸を閉めると、服を脱いで洗濯機に放り込む。

「……今7時だから……あと6時間くらいってとこか……」

 日付が変わると同時に出撃。
 環状外回りを周回しつつ待機……しかる後、湾岸下りへ移動。

 そこで今夜、1回きりのアタック。

 葛城と、綾波先輩……NERVのダブルエースが揃う。

「……つまりはそういうことなんだろうな…………」

 これは……バトルだ。
 だから僕も含めて……現時点における、NERVの最大戦力を集結させる…………

 そして、相手は…………





 ムサシからの電話。
 それは霧島を……大いに迷わせてる。

『……頼む。これで最後なんだ……
……あいつと、あのZと……バトルさせてくれ』

 懇願するムサシ。

「そんなっ、勝手なこと言わないでよ!それに……」

 突然の要求に霧島は困惑していた。
 それに第一、クルマはどうするのか?

「……どうしてなの?ヘンだよムサシ!急にそんなこと言い出すなんて……」

『…………すまねえ。だけど俺は……このままじゃ終われねえんだよ……
……後悔だけは、残したくねえんだ…………』

「!?……ちょっとそれ、どういうことなのっ!?」

 電話口を通して、ムサシの悔しさ、無念さが伝わってくる。

 NERVに連れて行かれて……何をされたのか。
 ムサシの言葉は、自分にはもう後がないと言っている。

「…………命令、なの?」

『…………』

「そうしろって言われたの?どうなのムサシ!」

 叱咤する霧島。
 ムサシにとっては、自分がNERVに屈服したというのは最大の屈辱だ。

「大体どうしてっ……どうしてこんな事になったのよ!?プロジェクトのことなら、あなたの一声でどうにでもなるでしょ!?どうして止めなかったの!?」

 結果としては仲間たちを裏切ることになってしまった。
 そして、自分の命さえも危うい状態。

 それはただひたすらに……自分の弱さ故。力ではなく、それを使えない心の弱さ。

『……言い訳はしねえ……だけど、これだけは信じてくれ!
俺は負けない。NERVは俺を解放する条件として、TRIDENTとDiablo-Zetaとのバトルを提案してきたんだ。
このバトルに勝てば、俺を自由にすると……』

「……嘘!罠よそんなの!!ムサシ、そんな話に乗っちゃダメ!!今度こそ本当に殺されちゃうわ……!」

『分かってるさ……!だけど俺も走り屋の端くれだ……目の前の敵から逃げるようなことは……したくねえんだよ…………』

「ムサシ…………」

 霧島は何も言えない。

 なにかを言ったところで、状況が好転するわけでもない。
 味わうのは、どうしようもない無力感。



『あなたの経歴については調べさせてもらったわ。
WON-TEC総帥の御曹司、ムサシ=リー=ストラスバーグ……彼とは非常に親密な関係だったそうね』

 昼間、綾波先輩から言われた言葉。

 強烈なプレッシャー……裏切ることは、許さないと。

『っ!……それは……どういう意味なんですか……』

 最後の精神力を振り絞って食い下がる霧島。

『男女関係について私からとやかく言うつもりはないわ。ただこれだけは覚えておいて。
あなたはすでに答えを見つけているはずよ。なにかを守るためには、なにかを犠牲にしなきゃならない。
他人の目ばかりを気にして、自分に嘘をついているんじゃない?
……最後にどちらにつくのか……よく考えて決めることね』

 綾波先輩はすべてを分かってる。
 自分がいくら足掻いてみたところで、この状況は変えられない。
 それが何よりも悔しい。


 霧島の思い。

 それはどうしようもない羨ましさ。
 綾波先輩の寵愛を受け、なにものにも縛られずに走り続けられる僕。

 ……そんなのは嘘だ。霧島は何も分かってない……


 僕がシャワーを浴びて戻ってきても、霧島はまだ携帯を持ってリビングにいた。

「……霧島、まだ着替えてなかったの?風邪ひくよ……?」

 着替えの服は足下に散らばったまま。
 痛いほどに続く沈黙。

 やがて、ムサシは絞り出すように告げた。

『今夜、2時……市川PAで待ってる。
……マナ……俺は信じてるからな』

 通話は切れた。
 無情に回線信号を鳴らし続ける携帯を持ったまま、霧島は立ちつくしていた。

「……霧島?」

「…………っ!!」

 さすがに不審に思った僕はおそるおそる声をかけた。
 とたん、霧島は携帯を力一杯床に叩きつけた。
 僕は思わず身を引く。

 フローリングの床にへこみを掘り、硬い音を立てて転がる霧島の携帯。


 いったい何があったんだ……?

「……シンジ……っ!!」

 振り返るが早く、僕に飛びかかってくる霧島。
 僕はどうにか受け止め、霧島を抱きかかえる。

 ……すっかり湯冷めしてしまった霧島の身体。
 肌は冷え切っていても、身体の奥から確かな熱さを感じる。

「何があったんだよ……っ!?」

 やり場のない想い。
 霧島は僕をソファに押し倒す。

 蛍光灯の逆光を浴びて……はだけたバスタオルの、向こう側。

「霧島、やめ……っ」

 僕のシャツのボタンに手をかける霧島。僕はその手を払いのける。
 目を伏せた霧島の表情は見えない。


 ……霧島はやがて、ゆっくりと僕に覆い被さると……そのまま、僕をぎゅっと抱きしめた。
 絶対に離さない。もうどこにも行かせない。

 ……そう、言っているように感じた。





「…………そう……そういうことだったんだ」

「!?そういうことって……」

「綾波先輩から呼ばれてるんだよ、今夜は。先輩と葛城と僕とで、湾岸を走りに行くって言ってたから……」

 つまり……今夜、葛城と綾波先輩が立会人となって、僕とムサシとのバトルを行う。
 それはすなわち……WON-TEC最強のマシンであるTRIDENT-SUPRAと、NERV最強のマシンであるDiablo-Zetaを戦わせ、決着を付けさせること。
 WON-TECを打ち負かすために……シナリオの邪魔をさせないために。

 綾波先輩がZの封印を解いたのはそのためだったんだ。

「ひどい……それじゃあだまし討ちじゃない!ムサシは……なんにも聞かされてないのに……」

「……どういうことだよ?信じられないの?綾波先輩のことが……」

 霧島はなにか邪推をしてるみたいだ……僕はそう思った。
 それとも僕の知らないなにかがあるのか……?

「信じられるワケないよっ!シンジ君はわかってるの!?NERVがどんな組織なのか……「!!」っ!!」

 声を荒げて吐き捨てる霧島。
 僕はその言葉を聞くや、思わず霧島の頬を叩いていた。

 自分でもどうしてそんな気持ちになったのか分からない。

 僕に叩かれた霧島は、驚きと怯えを含んだ目で僕を見つめていた。


「…………どうすれば」

 震える声の霧島。

「じゃあどうすればいいのよっ!!わかんないよっ!教えてよシンジっ!!」

 泣き叫ぶ。どうにもできない……

「霧島……」

「教えてよ……シンジぃ……」

 泣きながら僕の胸に顔を埋める霧島。
 僕に何ができる?

 僕の気持ちは……どこにある?

 綾波先輩を想う僕の気持ち……
 霧島を想う僕の気持ち……
 それは同じもの?

 ムサシを想う霧島の気持ち……
 僕を想う霧島の気持ち……
 それは同じもの?

 誰かを想う、その代償があるとするなら……
 身を裂かれそうなほどのこの苦しみ、それがきっとそう……

 この苦しみは僕を……満たしてくれるのか。

 どこかに置き忘れた僕の心を……取り戻してくれるのか。

「……霧島には力があるだろ……?」

「…………ちから、……?」

 涙に濡れた顔を寄せる霧島。

「なんのために……180SXをチューンしたんだよ?あの180SXがあれば戦うことができる。そうだろ?
別に綾波先輩だからって、気を遣う必要はないよ……あの人は、そういうこと気にしない。
……本当に欲しいモノがあるなら……力ずくで、奪ってみなよ」

「でも、私は…………」

 霧島の髪をなで、そっと抱き寄せる。

「いつか言ったよね?永遠に続くものなんてないって……
僕だって、そこまで割り切れてるわけじゃない。できることなら、ずっとこのままでいられたらいいって思うよ。
だけど、それは結局自分を去勢することでしかないんだ。
一線を越えて踏み込む覚悟がなければ……この世界で生き続けていくことはできない。
……綾波先輩はそのつもりで、Zの封印を解いた。今のZなら……たぶん、TRIDENTに勝つ」

 さっき叩いてしまった頬を優しくなでる……愛おしい、この触れあい。

「だけどそれは、常に破滅と隣り合わせの力なんだ。もしかしたら、今夜の走りでZは終わってしまうかもしれない。
……そして、僕自身もね。
でも僕はそれでもいいと思ってる……それが、僕とZの生きてる証だから…………」

「いやよそんなの……終わるなんて、そんなこと言わないで……」

 口づける霧島。夢中で僕に触れてくる。
 僕はこぼれ落ちる霧島の涙を……口で拭う。

「……もちろんだよ……僕はこんなところで終わるつもりはない」

 深く、唇を重ねる。
 ……すこししょっぱい。

 初めて味わう霧島の唇……僕の中で、もやもやしていた想いが急速に形を成していく。

 生まれて初めて、僕を対等に愛してくれたヒト。
 僕の中の、忘れていた感情を呼び起こしてくれたヒト。
 そして、大切な仲間……

「霧島……」

「……ん……マナって、呼んで」

 優しい微笑み。何もかもが、僕にとっては新鮮だ。

「……マナ、愛してるよ……」

「うん……愛してるわシンジ……」

 互いの体温を感じながら。
 僕たちは求めあう……わずかなひととき。

 それは未来のない戦いへと飛び込んでいく僕たちの……せめてもの、慰み。





「んっ……ふぅ……シンジぃ……」

 ひとしきり、キスを交わしたあと……ゆっくりと離れる。

「…………マナ?」

「……シンジ……私、欲しいよ……シンジの全部が欲しいよ…………」

 ゆがんだ笑顔をはずかしげもなく見せ、マナは僕にのしかかってくる。
 そんなマナに堪えようのない愛おしさを感じると同時に……僕の中で、心を抑えつけるなにかがある。

 綾波先輩との絆……

「シンジぃぃ……ふわぁぅっ」

 瞳を潤ませ、頬を上気させてマナは僕を求めてくる。
 僕のすべてを犯し……そして、自分のものにしようと。
 身体はマナを受け入れて……でも、心のどこかで……僕は拒んでる。マナは、それを分かってる。

「マナ……ぁあっ、マナぁ……!」

 絆にとらわれ……僕はいつからか、それを振り切りたいと思うようになっていた。
 ……マナに惹かれはじめて……僕の中に、感情がよみがえりはじめて。

 僕は今初めて……自分から他人を求め、愛そうとしてる…………

「シンジぃっ!!わたしのこと、わたしのこと好きっ!?」

「はぁぅっ……好き、好きだよマナ!マナのこと大好きだよっ……!!」

「わたしも……っ、わたしもシンジのこと大好きっ!んっ、あぁっ!!」

 これは……独占欲?
 マナを僕のものにしたい……他の誰にも、渡したくない……

 僕はマナに触れる……すべての感覚が、マナを感じてる。
 マナの匂い、マナの味……いっぱいに感じる。狂ってしまいそうだ。

 大好きなマナ……マナの身体……マナの笑顔……マナの唇……ブラックアウト……
 ふれあい……マナの身体……僕の身体……溶けあう心……
 理性が薄れ……僕の心は、マナに埋め尽くされていく…………

「……あぅっ!!んっ……シンジぃっ!!全部っ!ぜんぶ出してぇっ!!マナのなかに出してぇっ!!!」

 頭の中からすべてが消し飛ぶ……僕のすべてを、マナに捧げる……


 そして同時に……なにかが、僕の中から失われた。










 NERV本社ビルの地下深く、第3新東京市全域をカバーするジオフロント。

 厳重なセキュリティに守られたこのゲートの前で、ネイビーブルーのモンスターマシンがムサシを待っていた。
 TRIDENT-SUPRA……自分がWON-TECから奪ってきたプロトタイプマシン。

 今の自分が持てるただ一つの力……それがこのスープラ。


 さっきまで周囲を固めていたNERVの保安部員たちはもういない。
 今、ここにいるのは自分とスープラだけだ。

 今なら、ここから出ることができる。

 だけど……そのための道はひとつしかない。
 目の前に続いている、地上への道……それはNERVによって用意されたもの。
 周囲はすべて強固な壁に囲まれ……ドアは厳重にロックされている。

 自分が選ぶことのできる道は、ひとつしかない。

「だけど……俺は行かなきゃならねえ」

 逃げ出すことはできない。
 できるのは、NERVの用意したリングに上がること……

 どんな罠が待っているか分からない。
 だけど、逃げ出す理由にはならない。
 それに、逃げられるだけの力もない。

 ……ひとつだけ、叶った望み。

 それは、Diablo−Zetaとのバトル。
 ……そこをくぐり抜ければ、少なくとも生き延びられる可能性はある。


 信じるしかない。

「……頼んだぜ……相棒!」

 ムサシはTRIDENTに乗り込み、闇の中へと走り出していく。


 …………運命の回廊……旧東京、首都高速道路…………

 そこは自分の、新たな出発点となるのか……
 ……それとも、最期の墓場となるのか。










 静かなリビング。
 冷蔵庫のコンプレッサーだけが低くうなっている。

 僕の身体はソファの上に横たわり、マナが使ったバスタオルを掛けられている。
 無邪気な顔で……僕は眠ってる……


 マナは汗を拭くと、床に置いたままだった服を手に取った。
 真新しい下着を付け……白いノースリーブのブラウスに袖を通し、赤いチェックのミニスカートを穿く。
 MNAのジャケットは着ない。

 180SXに貼られたステッカーは剥がせなくても……せめて、自分だけは肩書きを捨てて。
 TEAM MidNightANGELSのメンバーとしてではなく……1人の走り屋として、戦う。


 身じたくを整え……最後にマナは僕の前に跪くと、眠る僕にそっと口づけた。

「ごめんね……許して、シンジ…………」

 その言葉だけを残し、マナは部屋を出ていった。



 晴れわたった夜の空には、赤い月が輝いている。





 COMFORT17の駐車場で待つ180SX。

 マナは180SXに乗り込むとエンジンを起動させた。

 強化されたサブフレームを通して、エンジンの鼓動がじかにボディを揺さぶる。
 ナイトロボンベのメインバルブを開き、コントロールパネルを起動。システムをスタンバイさせる。
 ボンベに詰め込まれたN2Oを使い切ってしまう5分の間だけ……この180SXは、TRIDENTにも匹敵するパワーを発揮する。

 チャンスは、一度きりしかない。



 やがて暖機が終わり、マナは180SXを発進させる。

 目指すのは、首都高速湾岸線、市川PA。


 これが最後……今度こそケリをつける。
 たとえ、これで自分が終わってしまうとしても……

 愚かな血が、もっと速くとかき立てる。スピードを見せろとかき立てる。

 果てることのない欲望……それこそが、原動力。


 それは誰にも止めることのできない、人間のはるかなる高みへの憧憬。


 そう……すべてを、命を押し潰す重力にさらされてなお……生き続けようとする、走り続けようとする僕たちの……

 止めることのできない、魂の叫び。










 同時刻、首都高外環道三郷JCT。

 非常帯に停まって待機しているのは、葛城のNSXと綾波先輩のRS。
 NSXとRSのダッシュボードにはNERVオリジナルのGPSナビゲーションシステムが取り付けられており、マーキングした車両の追跡ができる仕組みになっている。

 現在、そのディスプレイ上には3つの光点が映し出されている。

 そのうちの2つはNSXとRS……そして残る1つは、ムサシのTRIDENTだ……
 葛城たちは彼がNERV本社を出てからずっと、追跡を続けていた。

「目標は市川PAに入ったまま、未だ動かず……か」

 じれったそうに葛城が言う。

「…………シンちゃん、来るかしらね〜」

「……心配なのですか?」

 綾波先輩が言う。

 約束の時間にはまだかなり早いのだが……
 やはり葛城といえども焦りと不安を抱いてしまう。
 もっとも、それを表に出すことはないが。

「マナちゃんがどう出るかよね〜」

 その名前を聞き、綾波先輩はわずかに表情を強張らせる。

「にへ、レイちゃんもまだまだ青いわね〜。やっぱ気になっちゃう?愛しのシンちゃんが♪」

「……部長が期待しているようなことはありませんよ」

「わぁかってるって。も〜、レイちゃんたら意地っ張りなんだから♪」

 ケラケラと笑う葛城。
 綾波先輩はむっとした表情で返す。

 脳天気に笑っていても、その腕は確かだ。
 NERV作戦部長を務めているだけのことはある。
 綾波先輩をからかうことのできる人間は葛城ぐらいなものだ……





 と、その時。

「………………っ!!葛城部長、これは……」

 ナビに新たな光点が出現する。
 綾波先輩はそれを確かめると、すかさず解析を始める。

「……あっらー、ほんとに来たのねぇ〜……」

「……(霧島さん……あなたはやはり……)」

 GPSがとらえたのはマナの180SX。
 湾岸線を千葉方面へ向かっている。

 おそらくその目的地は……TRIDENTの待つ、市川PA。

「……どうします?」

 葛城は立てた指を振りながら言った。

「ふふん……せっかくの機会だから、マナちゃんも交ぜてあげましょ」

 ニヤリと、不敵な笑みを浮かべる葛城。
 綾波先輩はそんな葛城の横顔をしばし見つめ、やがて再びディスプレイに視線を戻した。

 グリッドとワイヤーフレームで表示された湾岸線上を、マーカーが点滅しながら移動していく。
 そこには、どんな思いが込められているのか…………










 僕が目を覚ましたときには、すでに時刻は午前2時を回っていた。

 ……もう出発する時間だ。
 僕は急いで服を着ると、自分の部屋にZのキーを取りに行く。


 ……そこでようやく、マナの姿が見えないことに気づいた。
 自分の部屋に戻ったのか……?

 そう思って部屋をのぞいてみるが、そこにマナの姿はない。

 玄関にも靴はなかった。ということは出かけたのか……


 今夜、マナが行くであろう場所……そこはひとつしかない。

 ……首都高速……
 おそらくすでに出撃しているであろうムサシを追って……


 …………そして僕は、綾波先輩たちとともに……TRIDENTを、追う。



「…………」

 ふと何気なく、指先で自分の唇を拭う。

 ……すこし、違和感を覚える。
 そして同時に、寂しさも。


 脳裏をよぎるのは、綾波先輩の姿。

 優しく、……そしてどこか寂しげな微笑みを僕に向ける。
 僕だけに見せていたあの表情……

「……関係ないな、今は」

 走りに意識を集中させる。


 僕は明かりを消して部屋を出る。

 もし……僕が、二度とここに戻って来られないようなことになれば……
 ……マナは、悲しみのあまり壊れてしまうかもしれない。

 そんなことには……絶対にしたくない。





 駐車場に降りる。
 Zの隣に停まっていたはずの180SXの姿はない。

 だけどかすかに残ってる……180SXの匂い。チューンドエンジン独特の排気の匂い。

「マナも……同じなんだ、僕たちと」

 惹かれあう僕たち……同じ匂いを感じてる。


 僕はZに乗り込み、イグニッションにキーを差し込む。

「…………はじまりだ」

 起動。Zはいつもより激しく、目覚めの叫びをあげた。
 ……今夜は、紅い月の夜。

 このZにはたしかに、ドライバーの心を虜にしてしまう何かがある。

 ……このクルマでなら、何があっても後悔しない。このクルマでなら死んでもいい。

 よく古いフェラーリなんかが言われているけれど……Zのそれは、明らかに異質のモノだ。
 こいつはまさしく……ドライバーの心を侵蝕していく……Diablo-Zeta、その名の通りに。

「……まるで……他の女に浮気したことを妬んでるみたいな?」

 喩えだが、まさしくそんな言葉がふさわしい。

 雑念(ノイズ)が混じった状態では、こいつはドライバーを許しちゃくれない。
 自分のことを第一に考えてくれと……走らせる以上、自分のことだけを考えていてくれと……
 そう言っているように感じる。

「そうだよね……Z。だけど僕は……もう、そこまで純な気持ちじゃいられない…………
……人間らしくなった、ってことかな……それとも、汚れてしまったってことなのかな…………」

 マナのために。……いや、自分のためか。
 マナを想う自分のために……今夜は走る。


 目指す敵は……TRIDENT-SUPRA。





 COMFORT17の駐車場からZを出すと、ちょうど惣流のFDがやってきた。

 惣流はFDをZに横付けするとサイドウィンドウを下ろし、僕に向かって叫んだ。

「シンジ!綾波から聞いたんだけど、今からTRIDENTを撃墜(オト)しに行くんだってね!?」

「ああ……それに、マ……霧島も、一足先に出てる」

 マナの名前を聞き、惣流はあからさまに顔をしかめる。

「ぬわんですってぇ!?あんの馬鹿……どこまで邪魔するつもりよ!!
……分かったわ、どうせアタシも行くつもりだったしね……シンジ、TRIDENTはアンタにやるから、マナの相手はアタシに任せなさい!
きっちり、ヤキ入れてやんからね!!」

「……ついてくるのなら勝手にしてくれ。僕がどうこう言うことじゃない」

 惣流はなぜ、こうもマナを嫌うんだろうか?
 単に反りが合わないってだけ?……本当にそれだけだろうか。

「なっ!シンジ……言うわね。いいわ、だったらアタシも好きにやらせてもらうわ。
言っとくけどね、アタシは別にマナが嫌いなワケじゃないわ。なにもかも自分で背負い込もうとしてるアイツが、見ててほっとけないだけよ。だからせめてね……いざって時には躊躇わず切り捨てる、それくらいの非情さを身に付けて欲しいのよ。今のままじゃ、アイツはこの先も走り続けていけない……それを気づいて欲しいのよ。
……そこんとこ、勘違いしないでよね」

 最後はトーンを抑えて。
 ……惣流なりの思いってやつか……

 それが正しいのかどうか、僕には分からない。

 だけど、ともに走ることで通じるなにかがあるなら……マナを、惣流を止めることはできない。
 マナに自分の走りを見せることで……惣流が伝えられるなにかがあれば。


 そして僕はマナを……たとえマナがどんな選択をしようと、それを受け入れようと思う。

 そうしたうえで僕は……マナを、マナの気持ちを……つかみとりたい。
 僕は……マナが、欲しい。

「…………優しいんだね、惣流は」

 思いをそのまま口に出す。とたん、惣流は頬を赤らめた。

「……!ばっ……馬鹿!なに言ってんのよ……
…………ほら!早くしないと間に合わないわよ!」

 惣流にせかされるようにして発進する。


 FDを従えて、Zは走る。
 惣流は……僕を、対等な仲間として見てくれてる。

 僕の領域を侵さず……そのうえで自分を見せ、なにも隠さずに近づいてきてくれる。


 ZについてくるFDの姿を見れば……それがよく分かる。





 僕たちは本牧ICから湾岸線へ乗る。
 大黒JCTから横羽線へ向かい、環状経由で箱崎から湾岸へ入る。

「綾波先輩たちもたぶんもう出てる……環状を回ってタイミングをとる」

「……同感ね。なんとなく、会いそうな気がするもの」

 長年走り続けていくうちに身に付く、流れを読む力。
 あるいは、導かれるような直感によって知ることもできる。

「マナたちも……きっと、僕を待ってる。そう思ってれば……会えるはずさ」

 ムサシ……綾波先輩……惣流……葛城……そして、マナ…………

 役者は揃った。


 あとは……互いが巡り会う、その時を待つだけ。
 一度だけ、しかし確実にやってくるその時を逃さず…………


 今、僕たちの最初で最後の走りが始まる。



 幾重にも折り重なる運命の中で出会った、二度とめぐり逢うことのない僕たちの走りが。











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