午前3時、本牧埠頭。
 既にほとんどの走り屋たちは遅い眠りにつき、埠頭には静かな波の音だけが漂っている。
 
 惣流は1人、桟橋の先に立っていた。

 海の向こうを見つめて…………


「変わったものね、ここから見える景色も……」

 10年前、幼少期を過ごしたドイツから日本へ来たとき。
 当時の第3新東京市……横浜は、復興の名の下に急速な成長、拡大を続けていた。

 次々と新たなビルが建設されていくその様は……

 大地から、空を目指して伸びていく……太陽を目指して伸びていく、植物達のようだった。
 
 鉄と石でできた木々…………それは今や枯れ果て、この街の空気を淀ませている。

「アタシは変わったのかしら…………
……10年、って……長いようで、いつの間にか過ぎてしまうものよね…………」

 医者の家に生まれ、医者になることが当たり前だと思っていた。
 ドイツで英才教育を受け、現在在籍している医大ではトップの実力を誇る。ゆくゆくは、父方の一族が経営する大病院への配属も決まっている。

 周囲の期待は十分、それに応える自信もある。

 だが、どこか満たされなかった。


 その理由は分かってる。

「どうなの……?アタシは間違ってないよね…………
……ね……ママ…………」

 青い瞳に映るのは、永遠に変わることのない星空。
 変わったとしてもそれに気づくことのない、乾いた砂の海…………











新世紀最速伝説
The Fastest Legend of Neon Genesis
エヴァンゲリオンLAGOON

第9話 瞬間、心、重ねて












「なんやとぉ〜っ!?それは初耳やでっ!」

 未だ入院中の鈴原。
 惣流から横浜GP開催決定の知らせを受け、読んでいた本を思わず放り投げる。

「ちょ、ちょっと……病院なんだからもう少し静かにしなさい。
……ったく……あら?アンタ、まだこういうもん読んでんの?相変わらずねえ」

「……じゃ、じゃかしいわい」

 鈴原は顔を赤くさせつつも惣流が拾ってきた文庫本を受け取った。
 ……表紙では分からないが、中身は恋愛小説である。
 文学派だったんだ……

 …………鈴原……意外な趣味だな…………

「形式は予選と決勝をそれぞれ1戦ずつ。出場選手は各チームごとに1名。期日は追って発表されるそうよ」

「チームからは1人かいな?ほんなら惣流で決まりやの」

「まあね。ただ……石川の奴が最近うるさくてね。
いちおう形だけでも、チーム内予選を開くつもりよ。
ほとんどのチームはそういう形をとるらしいし」

 石川。その名前を耳にした瞬間、鈴原の表情が険しくなる。

「あいつ……まだ懲りてないんか?これはホンマに潰しといた方がええんちゃうか」

「そうしたいのはやまやまなんだけどね。……ただ、この大事な時期にコトを荒立てたくないのよ。
いざとなればやりようはいくらでもあるけど、こっちから大々的に仕掛けるのはまずいわ」

 綾波先輩もそうだけど、やっぱり人を動かすってのは難しいみたいだ。
 極論を言えば、自分の下にいる数十人、数百人の命、人生をその手に握っているってことなんだから。

 特にこういう世界にいると……一瞬の選択が、自分はおろか他人の人生を狂わせてしまうことだってままある。

 惣流もそれは十分承知している……


「…………そういや、フレディが帰ってきたんやてな?ヒカリがゆうとったで」

 話題を切り替える鈴原。

「ん?……ああ、昨日ね。さっそく走りに行ってみたけど、あのスープラ……また一段と速くなってるわ」

「ニトロつけたそうやの」

「ええ。瞬発力はダントツよ。……っていうか、ヒカリのやつ見舞いに来てるの?」

 とっさに視線を外す鈴原。
 硬派を気取っててもこういうとこは……
 ま、いいことだ。

「ま、まあの……」

 僕にはないもの……
 僕は異常なのか……
 ……このあたたかいもの…………





 感情が薄い、それ自体はずっと前から薄々と自覚はしていた。
 だが、それで別に困ることはなかった。

 だけど今になって……
 気付いたんだ。それは僕が、綾波先輩に守られていたからだって。

 他の人間と関わり合って生きる中では……

 不便、というか不利にはなる。
 霧島と暮らすことでそれを実感した。
 いや、まだ頭で理解しただけだ。
 直感では納得していない。

 僕の精神構造なのか……
 それとも単に、社会不適合ってだけか…………










 MAGIにて。

 ちょうど昼休みが終わる頃……フレディのスープラがやってきた。
 僕は事務所にいたから、駐車スペースにタイヤを鳴かせて滑り込むスープラの姿がよく見えた。


 しばらくして、チーフメカの平本さんが綾波先輩を呼びに来た。
 ちなみに彼は32R乗りで、主に湾岸を走っているらしい。
 チームには入らずに1人で走っているそうだ。

「社長、お客さんです。80スープラの……外国人の方で」

「分かった。すぐ行くわ。中に通しておいて」

「分かりました」

 作業に戻る平本さんを見送る綾波先輩。
 スープラがアフターアイドルを終え、エンジン音が止むと急に静かになった。

「……フレディだね」

「ええ。……とりあえずは話してからね。どのみち、今夜は彼と走るんでしょう?」

「ああ……惣流と3人でね」

「…………」

 1階のショールームに降りる。
 綾波先輩がフレディと向かい合ってテーブルにつき、僕は仕事に戻る。

「やあレイ、久しぶりだネ」

「ええ。それにしても、真っ昼間からそのスープラで乗り付けとはね」

 陽気に挨拶するフレディに対し、皮肉混じりで返す綾波先輩。

「話はSimpleだ。ボクのSUPRA、こいつをハイウェイ仕様にリセッティングして欲しいんだ。それと、ナイトロボンベの予備もたくさん欲しいね」

「ずいぶん急な話ね。リセッティングするといってもピンキリよ。車高調いじってツジツマ合わせするか、エンジンまで全部見るか選択肢はあるけど?
ナイトロはすぐには無理ね。取り寄せになるから、だいたい1週間ぐらいかしら」

「今出来る限りで頼むヨ。ちょっと急いでてね」

 ウインクするフレディ。

「……それは、あのZとやるためかしら?あのZには、半端なセッティングのマシンでは通用しないわ。
どうしても、って言うのなら止めないけど」

 鋭い視線を浴びせる綾波先輩。
 僕が立ち聞きしていたのはここまでだけど……





 フレディはどうやら本気のようだ。

 やはりZを最終目標にしている……
 湾岸でZに勝つ。普通のスープラやZでならべつになんでもない話だ。
 だけど、相手はDiablo-Zeta。伝説が語り継がれ、半ば神格化されているマシンだ。
 乗っていてもたしかに……そう思わせる何かが、あのクルマにはある。


 今夜、出撃する。

 首都高という国内最大の戦場に。





 しばらくしてフレディが帰り、僕は綾波先輩に話の結果を聞いてみることにした。

「彼のスープラには基本的にノータッチよ。素性はたしかなのだし、自分なりのセッティングでやってみると言っていたわ」

「そうなの……?やるからにはちゃんとしたマシンを作ってやった方が……」

「それはそうだけどね。ただ……そろそろ次の仕事が入りそうだから。
私としてはそっちに力を入れたいわ」

「次の仕事……?」

 たしかに横浜GPの開催が発表されたことで、大会用のマシンを作ってくれという依頼は多くのショップに出されているらしい。
 その一環かな…………










 深夜1時、湾岸市川PA。
 僕と惣流が先に着き、フレディは少し遅れて来た。

 PAに入ってくるときの動きを見ると、少し足を柔らかめにしたようだ。


「コースは湾岸神奈川エリアを使わず大井でUターン、横羽を上って環状内回りへ。今日あたりなら他のクルマも少ないしね。
環状を1周して決着がつかなかったら箱崎から湾岸へ出て、東行きでココに戻ってくる。それでどうかしら?」

 惣流がルートを決める。

「OK、それでいこう」

「僕もそれでいいよ」

「おっし、そうと決まればさっそく行きましょう」

 Z、FD、スープラ。
 3台がコースインする。












METROPOLITAN HIGHWAY


Entry list
Shinji Ikari(MNA) GCZ32 FAIRLADY Z
Asuka L.Sohryu(NR) FD3S RX-7
Freddie P.Lorentz(VR) JZA80 SUPRA


10年来の因縁
固く閉ざされた心の扉
切り裂くのは、私のエキゾースト
解き放つのは、彼女の魂













 海の向こう、摩天楼の中にひときわ目立つTOKYO Disneylandのイルミネーション。
 僕らにとっては首都高のランドマーク……
 そう、ディズニーコーナー。湾岸千葉エリアの重要ポイントだ。


「……分かるんだね」

 明らかに調子を上げているZ。
 初めて乗った頃よりも速い気がする。

 最初の加速で、FDをぐいぐいと引き離していく。

 スープラがZの右につける。
 FDはZの左後方へ。

「僕も……いけるよ」

 280km/hを優に越える最高速度を叩き出し、そこからいっきにフルブレーキング。
 血圧で脳味噌が砕けそうなほどの減速Gに耐えつつ、右へ鋭くターン。

 ボディが大気の力で路面に押さえつけられているのが分かる。

 格好だけのエアロじゃない。極限のスピードレンジでのバトルを想定した設計。
 Diablo-Zeta……その姿。

「つう……やるじゃんシンジ!」

 FDのタイヤが悲鳴をあげる。半車線ほどアウトに流れつつも、すぐさま追撃位置に戻るFD。
 スープラはコーナーでは抑え、直線で追い上げてくる。

「(確信したわ……こいつは『あの』Z……)」

 じりじりと、FDをZのテールに寄せる惣流。

「(ママが言ってた……あのZなのね…………!)」

 オールクリアが続く。おそらく辰巳まではこのままクリア状態だろう。

 さえぎるものがなにもない僕らの走り。
 力の勝負。

 僕を先頭に、惣流、フレディが追いかけてくる。
 僕が切り開いた風の道を……後ろの惣流とフレディはたどってくる。
 少しでもそのラインから外れれば……

 強大な大気の壁に押し戻され、たちまち引き離されてしまうだろう。

 寄り添うように……
 他人の通った跡をたどりながら……

 そうしなければ、ひとりぼっちだから……


 そしてZ、君は……










 MAGIのピット内。
 リフトに乗せられているのは、綾波先輩のRS。
 片側10cm近いワイドボディと大型のリヤウイングは、往年のシルエットフォーミュラを思わせるエクステリアだ。

 RSを見つめる綾波先輩。
 ひとりきりのガレージで、思いを馳せるのは……

「アスカ……あなたは今頃、気付いているでしょうね。あのZの正体に」

 呟くように。
 離れた場所にいても、思いはシンクロする。










 辰巳JCT直進、湾岸西行き。
 僕は相変わらず先頭をキープしている。惣流のFDは20メートルほど離れ、フレディのスープラも同じ位置に。

 ときおりボディを振ってクリアを確認するのは、ナイトロ噴射のタイミングを計っているのだろうか。

 合流車線が迫る。
 降りてくるクルマが2、3……4台。そのうち1台は大型トラックだ。

 それに合わせて、前方の一般車が動く。

 一瞬の軌道の交差。

 ほんの数十cmで、生と死がすれ違う。

「真ん中だっ!」

 合流車をよけて第1車線に移る一般車、そこへ入ってくる合流車。
 そのわずかなタイムラグを僕らは貫く。

 衝撃波を残して通過する僕たち。
 ほんのコンマ3秒、時間が停止する。

「追いつかれたか……」

 このレーンチェンジでFDが差を詰めてきた。すぐにテールトゥノーズに迫る。
 2km先で再び分岐。有明JCTだ。
 ここは直進する。第1車線をキープ。










「街に流れる噂がどれだけ本当なのか……走ってみれば、それはすぐ分かる」

 いったんクルマに乗ってしまえば、一緒に走っている相手の言葉は聞こえない。

 でも、何を考えているのかは分かる、いや感じる。
 それは言葉ではなく……クルマの動き、姿から。
 その中に意思を感じるのか……

 それが伝わっているのか、それともただの思いこみなのか……

 だがどちらにせよ、並んで走るってことは少なからず意思の疎通があるってこと。

「Diablo-Zeta……そう、アレはDiabloの1番機……
Diablo-Zeta初号機。後に造られたどのDiabloマシンよりも速く……そして、魔力を持ったマシン……」

 RSのボンネットに触れる綾波先輩。
 その手のひら越しに感じるのはなんだろう?

 RSは何かを知っているのか……そして、綾波先輩は…………










 13号地コーナーが迫る。
 通過速度280km/h。

 ここでスープラがくる。

 強力無比。ナイトロの強烈な加速でいっきにFDとZをパス。
 噴射を終える瞬間、1メートル近くも伸びる大きなアフターファイヤーを吹いた。

「フレディ、たしかにアンタの速さは認める……
だけどね……湾岸はパワーだけじゃ勝てないわよ」

 FDが動く。

「くっ……鋭いな、さすがに」

 あっけなくインを差された。ターンインのわずかなタイミングの違いで差はいっきに数メートル開く。

 先頭はスープラ、30メートルほど離れてFD、そして最後尾にZ。

 コーナーを抜けた先には東京港の海底トンネルが見えてくる。
 下り。
 灯りが眩しい。

 トンネルの壁に反響するエキゾースト。
 狂おしく絶叫するZのエンジン。
 トンネル全体を、巨大な管楽器へと変える。

 はるか先、浮島料金所までその音色は届いていた。

 それはどこか哀しげな……
 自ら破滅を求めるような、そんな音色。最速の世界を見続けてきた者の声。

 最速の彼方にこのZが何を見たのか、僕はまだ知らない。
 母さんなら……知っているのかな。
 このZで横浜最速と云われた……『10年前の最速の走り屋』碇ユイなら…………










 第3新東京市といえど、そう毎晩チューンドカーが走り回っているわけではない。
 MAGIの周辺は住宅地が近いこともあり、深夜にはほとんどクルマ通りが無くなる。

 静けさの中……

「10年前……あのZを造り上げたのは、他でもないユイ博士…………
NERV初のオリジナルブランドとして……Diabloを造った……
……たとえそれが見せかけだけのものだったとしても…………
その完成度は当時、群を抜いていた……」

 10年前といえば、惣流は13歳、綾波先輩は15歳だ。
 惣流でいえば……中学2年の時だから、ちょうど日本に来たか来ないかのあたりだね。
 ちなみに僕は8歳……そのころのことはなぜか覚えていない。

 小さい頃の記憶ってのははっきりしないものだけど、それにしたって物心つく前、せいぜい1歳か2歳あたりまでだろう。
 8歳といえば小学2年生……いくらなんでもそのころの記憶がないってのはなんだろう。
 何か大事故にでも遭ったのだろうか。そんな話は……聞いたことがないな。
 記憶を失うほどの大きな事故なら……傷跡の一つや二つ、残っていそうなものだけど……そんなものは見あたらない。

 ともかく……このZを造ったのは母さん自身。
 博士号を取るくらいだから、チューナーとしての腕もかなりのものだったのだろう。

「私は博士に連れられて……初めて、走りの世界を知った……
それは……中学生の私にはまさしく、異次元の世界……力と狂気の支配する領域…………
私は……その味を知ってしまった」

 母さん……つまりユイ博士には、よきライバルとも言うべき親友がいた。
 その名は惣流キョウコ・ツェッペリン……惣流の母親だ。

「やはり、血は受け継がれるものなのですね……ユイおばさま」

 ユイ博士とキョウコ博士は大学の同期で、ともに走り屋。
 娘である惣流が走りの道に進むのも、ある意味当然だったのかもしれない。

「そして……碇くん……」

 僕もそうなのか?
 僕の中で沸き起こるこの思いは……母さんから受け継いだものなのか?

 ……そんなことは、どうでもいい。

 これは僕の思い……そして、僕だけの思いだから。

 きっと……










 大井でUターンし、横羽線を上る。
 こちらは湾岸と違い2車線で路肩もほとんど無く、ギャップも激しい。
 コーナーも多いため攻めるのは難しいコースだ。
 オービスにも気をつけなきゃね……

「Shit!こういうコースはこのSUPRAにはきついネ」

 先頭をキープし続けるフレディのスープラだが、さすがに元ドラッグ仕様では悪路には対応しきれないようだ。

 FDが迫る。続いて僕のZも。

「シンジィ!こんなトコで遅れるんじゃないわよ!!」

 後ろで見てて怖くなるくらいだ。
 ポンポンと、まるでトランポリンにでも乗っているかのように跳ねるFD。

 断続的に流れるタイヤスモークは、グリップ限界を超える瞬間が何度もあることを示している。

「このZでならいけるよ……」

 サスだけで路面にしがみつくワケじゃない。こいつは空力を最大限に利用している。
 スピードレンジが上がれば上がるほど、その力は引き出される。
 ギャップを踏もうが、大気の力で路面に押さえつけられたZのボディは安定感を損なわない。

 加速するFD、Z。

「ここまでだネ……」

 ハザードを出し減速するスープラ。
 それを確認し、僕らはスープラをパスする。

 フレディはおりた。後は、僕と惣流の一騎打ち。

 FDが、いっきにペースを上げる。

 速い。
 冗談抜きで速い。

 NR惣流の、本気の走り……

 果たして僕についていけるのか?
 いけるところまで、いくしかない。





 僕の母さんは、既にこの世にいない。
 先生から聞いた話では、10年前……事故で死んだそうだ。

 10年前……「横浜最速伝説」が生まれた年。

 西暦2005年……享年、38歳。
 当時の新聞記事の切り抜きを見せてもらったことがある。

 それはほんの小さなベタ記事。
 目に留まることもなく消えていった小さな出来事。
 人々にとってはそんな……僕にとっては、すべてを変える出来事。

 「13日未明、湾岸線で乗用車の事故
 運転の女性(38)死亡」


 たった、それだけ。人々にとってはたったそれだけのこと。

 だけど僕にとっては……
 そしてその夜のすべてを、今もなおその身体に刻みつけているであろうこのZにとっては…………!!





「ママはよく話してた……あの頃のアタシには分からなかった、それはあのZ……」

 旧東京エリアに入る。
 曲がりくねった道は次第に直線が長くなってくる。

 狂おしく加速するFD。

 つかめない記憶、吐き出せない思いを振り回しながら……
 惣流、君も何かを見つけようとしているのか……?

「アタシは知ってた……でも、忘れようとしてた……
……呼び覚ましたのは、あのZ……
アタシを見てるの……アイツは……」

 惣流の脳裏にフラッシュバックする、10年前の光景。
 それは彼女自身が見てきたものなのか、それともFDが彼女に見せているものなのか。





『ユイぃ──っ!!!』

 悲痛な叫びを上げるキョウコ。
 彼女の目の前には、コクピット側を激しくヒットしたZがいる。
 500メートル以上にも達するブラックマークを残し、Zは沈黙していた。

 見た目には、クルマの損傷は軽い。
 しかしそれに乗っているユイの命が既にないことを、キョウコは直感していた。

『もしもし、ゲンドウさんですか……
じつは、ユイが湾岸でやっちゃって……今、横浜国際病院です』

 キョウコは恐ろしく冷静だった。自分でも驚くくらいに。
 親友の死を、目の当たりにした衝撃……それは計り知れない。

『ユイはっ!ユイは無事なのかっ!?どうなんだ、一緒に走ってたんだろう!?
なんとか言ってくれ、キョウコくんっ!!』

 キョウコは何も答えることが出来なかった。

 心に残ったのは、ただ果てしない後悔、それだけだった。





 FDのバックミラーに映るZの光。
 見る者の心を射抜く、鋭く冷たい光。

 コーナーの壁を照らす、FDとZのヘッドライト。

 視線の先にあるものはひとつ。

「シンジ……アンタは分かってんの?……そのZが何物なのか…………」





 ユイが死ぬ3日前……
 開発途中のプロトタイプマシンを公道に持ち込んで走るユイに、キョウコは言った。

『ユイ、アンタまだそのZに乗り続けるつもり?
……ホントにいつか死ぬわよ、そんな走り方してちゃ……』

『なによぉキョウコ、あなたまでそんなこと言うの?
このコが悪魔だなんて……』

 屈託のない、明るい笑顔でユイは笑った。
 しかし二度と、その笑顔を見ることは出来なかった。





「そうよ……そいつは悪魔よ」

 ギリギリと、ペダルがしなるほどにアクセルを踏みつける惣流。
 FDが彼女の思いを数千倍にも増幅させて路面を蹴り飛ばす。
 大気を切り裂くエキゾーストを叫び、FDは疾走する。





 ユイが死んだ後のキョウコは、何かに取り憑かれたかのようにDiabloの開発に没頭し……
 1ヶ月後、Diabloの完成を目前に自ら命を絶った。

 そうして世に送り出された「DiabloTUNE」は、まさにその名の如く、悪魔的な速さを見せつけることとなる。


 14歳というもっとも不安定な時期に、母親を失った惣流。
 とっくに消えたと思っていた傷跡が、今再び疼きだした。

 そのきっかけはそう……
 僕が今、乗っているこのマシン。
 Diablo-Zeta…………

「アンタのママを殺した……アタシのママを狂わせた……
悪魔のZっ!Diablo-Zetaなのよっ!!!」

 コーナーを立ち上がり、目の前に現れる長いストレート。
 すかさず、惣流はステアリングに付けた赤いスイッチを押した。

 スクランブルブースト。一時的に過給圧を上昇させ、限界を超えたパワーを引き出す。

 エンジンが悲鳴をあげ、それでも力を振り絞る。
 ここでいっきに引き離す……!!

「嘘……そんな!?」

 バックミラーに猛烈な勢いで接近するZの姿が映る。
 FDは既に限界を超え、もうこれ以上加速できない。
 Zはいままで見てきた中で一番、速い。

 そう……今夜のZは、なぜか、いつもと違った。

 その理由は僕にも分からない……

「やった!?」

 目前に接近したFDが、突然姿勢を乱した。
 つんのめるようにテールを巻き込む。

 喀血のようなアフターファイヤーが飛び散った。

「ちぃい!」

 駆動力を失った状態では立て直すことは不可能だ。
 惣流は一瞬の判断でFDをスピンモードに持ち込み、速度を殺していく。

 Zも制動に入る。
 FDの車体がコースに対して平行になる、その瞬間を見逃さずFDの脇をすり抜ける。
 Zはハーフスピンに陥るが、パワーをかけて強引に振り返して立て直す。

 やがて、停止。


「はぁ……、はぁ……、……っ、畜生っ……」

 肩で息をしながら、ステアリングを叩く惣流。
 ボンネットから白煙が上がり、焼けたオイルの臭いが漂う。

 僕は路肩にZを停め、後ろのFDを振り返った。

「惣流っ!?」

 惣流はすぐにFDを再起動させた。
 セルモーターが苦しそうに唸っている。

 FDはどうにか自走できるようだが、エンジンからガラガラと異音を発している。

 とりあえずこのまま高速を降りるが、すぐに修理が必要だ。
 僕は綾波先輩に電話し詳細を伝え、FDをMAGIに入庫させることにした。





 旧首都、東京の煤けた空気が鼻をつく。

 ……早く、帰ろう。










 翌日、さっそくFDのエンジンを降ろし、中を開けてみた。

 予想通り、高ブーストによってアペックスシールがやられていた。
 高熱で黒焦げになってしまったローターとハウジング、シールの破片で掻き毟られたエンジン内壁が、ブローの凄まじさを物語っている。溶けた心臓……内臓を素手で抉られるような鈍い痛々しさを感じる。

 絞り出していたパワーがパワーなだけに、修復は難しいようだ。だが綾波先輩はここで、思いもよらない選択肢を惣流に示した。

「ママが……設計したエンジン……?」

「ええ。正確には13B-Tをベースに、ユイ博士と惣流博士がチューニングを施したスペシャルエンジン。
それは現在NERVのワークスカーに搭載されているわ」

「それを、アタシのFDに積むっていうの?」

「そうよ」

 惣流は即決した。
 エンジン換装にかかる費用はかなりのものだが、それでも惣流はやると言った。

 かけがえのないもの。
 文字通り、世界に二つとない特別なエンジン。
 自分のすべてを賭けてもいいと、思えるもの。

「タービンはT78のシングル。出力は500馬力オーバーを狙えるわ」

 FDとしてはトップクラスの戦闘力を手に入れることになる。
 僕たちはさっそく、必要なパーツの発注作業にかかった。
 なにせ大がかりな仕事だ。デモカーを1台造るのと同じくらいの手間をかける。

 それは同時に、綾波先輩が惣流を認めたってことだ。

 自分と同じ領域にいる……
 自分と、同じ匂いのする人間。

 スピードに取り憑かれた者同士……通じ合うものが、ある。










 その日の夜。
 普段は走りに行ったり、集会に顔を出したりして遅くまで起きている惣流だが、今夜はいつもより早くベッドに入った。

 昼間は大学、夜は走りと、ろくに寝ない生活が続いていた。
 部屋が妙に小ぎれいなのは、そこで生活していないから。
 まるで何年も前からそうだったように……時間が、凍り付いていた。

「…………」

 走りの世界に身を置いて、いったいどれくらいになるだろう。
 スピードに取り憑かれ……抗争に明け暮れた日々。

 それなりの時が来れば、いつか降りるものだと思っていた。
 事実、自分はもう23歳。自由になる時間はもう、終わりに近い。

 ……だけどそんなのは理由にはならない。

「アタシはもう引き返せない……
同じなのね、結局……」

 毛布にくるまり、身体を丸める惣流。

 STREETでの活躍からは考えられないほど、その姿はか弱い。

「……ママ……
……どうして、死んじゃったの……?」

 しずくが、こぼれた。










 4日後、エンジン換装のために件のワークスカーがMAGIに持ち込まれた。

 それは白いユーノスコスモだった。
 もともと積まれていた20Bは降ろされ、代わって13Bエンジンが積まれている。
 それが、キョウコ博士がチューンしたという13B-T。NERVのメーカーとしての強みを生かし、市販されているエンジンではなくMAZDAとの共同開発といえるスペシャルエンジンだ。

 いったんエンジンを降ろした後、改めて綾波先輩の手でリフレッシュチューンが施された上でFDに搭載される。

 FDの方は既に補機類取り外し等の準備を終え、後はエンジンを待つのみとなっている。





 終業時間が過ぎても、エンジン室には明かりが灯っていた。

 僕もいつもなら走りに行ってる時間だけど……今日は、まだ店に残っていた。
 あれから、綾波先輩はほとんど休むことなくエンジンと格闘している。
 超高精度で組み上げられたエンジンだ。単なるオーバーホールでも、メカニックに求められるスキルははるかに高い。

 邪魔するのは、まずいよな……










 本牧埠頭、NRの集会場。

 惣流、鈴原の大幹部2人が前線を退いているため、実質的なトップは石川ケイスケということになる。
 彼は最近ますます態度を大きくしているらしい。

 鈴原もまだ復帰は出来ないため、現在は直属のメンバーを通じて指揮を執っているということだ。


 心配なのは惣流の方だ……
 あれからまったくチームの方に顔を出していないらしいけど、大丈夫なのかな……










「アスカ、久しぶり」

「……あ、相原先輩!?」

 その日、惣流が住んでいる寮にやってきたのは12使徒の相原カオリだった。
 帰宅してきた惣流は思わぬところで会った先輩に驚いたようだ。

「ど……どうしたんですか、こんなところで……」

「ちょっとね。いろいろ、噂を聞いたもんだから」

「…………」

 うつむく惣流。
 彼女の心に真っ先に浮かんだのは、最近チームをほったらかしにしているということだ。

 石川という問題を抱えているというのに……これでは、責任放棄と言われても仕方がないだろう。

「まあ乗って。少しドライブにでも行かない?」

「は……はい」

 惣流はためらいがちにテスタロッサに歩み寄り、そっとナビシートのドアを開けて乗り込んだ。
 相原さんはテスタを発進させると、首都高へ進路を取った。

 向かうのは、レインボーブリッジ。










 平日なので人は少ない。
 デートスポットとして人気のポイントだから……この場所にフェラーリ、っていうのはそれなりに画になる、と思う。

「…………すっかり変わったわね、この辺も」

 懐かしそうにレインボーブリッジを見つめる相原さん。

「私が走り始めた頃は……まさか夜の台場が、カップルでいっぱいになるなんて思いもしなかったわ」

 惣流は後ろの方で……ずっと黙ったままだ。

「ほらあそこ、覚えてる?単車乗ってた頃よく走った……あそこも、あんな大きなマンションが建っちゃって……」

「…………」

「……なんて、昔話は御免かしら?」

 うつむいて、惣流の表情は見えない。
 壁が、見える。距離を、感じる。

 これほどまでにくじけてしまうこと……

「……アスカ。あのZの彼……シンジくん、だっけ?
いい子よね。あの人と同じ目をしているわ……」

 そよ風が吹く。
 街の銀河を背景に、たたずむ相原さんと惣流の姿を……白いテスタロッサが、見つめている。

「いいんです、もう…………
……今は、思い出したくありません……」

 絞り出すような声で惣流は言った。

「…………アスカ」

「あのZと走ってから……自分のすべてが、壊された気がして……
もう一度、走るのが……怖いんです、正気を保っていられないような気がして……」

「アスカ。心を開かなきゃ……FDは応えてくれないわ。
あなたがそんなじゃ、せっかくキョウコさんが組んだエンジンも、宝の持ち腐れよ?
……FDを信じて。あなたはずっとこだわってきたはずでしょ?
RX-7に……そして、ロータリーエンジンに……」

「RX-7……ロータリーエンジン……
アタシの、FD3S……」

 惣流の、RX-7への思い入れ。
 それは身体に刻み込まれたREの波長。


『……アスカも、もう5年もすれば免許取れるのね……
そしたら、私と同じように……走りはじめる』

 愛機FC3Sに向かい、そっと語りかけるように呟くキョウコ。
 その背中を遠くから見つめていた惣流。

 なにげない日常の中に紛れた、風のようなひとコマ。それがずっと後まで、人生を左右することがある。

 母キョウコが乗っていたマシン、FC3S RX-7。
 そして今自分が乗っているマシン、FD3S RX-7。
 同じ魂を、スピリットを持ったマシン。

 惣流にとって、RX-7……ロータリーエンジンの鼓動は、母のまなざし。ずっと見守っていてくれる……だから、シンクロする。
 REのフィールがいちばん、自分に合う。

 単純に速さを求めるなら、RX-7より速いクルマはいくらでもある。
 スープラの2JZ……そして、GT-RのRB26……もっとラクに、パワーを手に入れられる。

 だけど違う。
 命を乗せて走るんだ。
 自分の好きなクルマでなきゃ、……自分が好きと思えるクルマでなきゃ、100%踏み切れない。

 だから……18歳でこのFDを買ったときから、ずっと乗り続けてきた。
 一度たりとも手放そうなんて思ったことはない。

 そう……自分はとっくに気付いていたはずなんだ。

「アタシは……もう、過去を引きずらない…………」

 力強く。
 潮風に撫でられる前髪を拭い、しっかりと前を見据える。
 眼前に横たわる首都高速の高架……そこが、自分の戦場。試練の場だ。

 もう一度。今度こそ……











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