未来の過去、過去の未来

8話 虹の薫風







少年と少女の足元には、太平洋上に浮かぶ空母。 青い大平原の上に鎮座ましまして居るその灰色の威容は、軍用ヘリでその空母に降り立った少年を吃驚させるのに十分な貫禄を備えていた。
例えそれが青いキャンバスの上、芥子粒の様に散りばめられた灰色の絵の具であったにしても、だ。



「ハロー、ミサト」
その甲板上、少年は場に似合わぬ少女の声を聞き、ヘリの乗り心地の悪い硬い椅子に辟易して凝り固まった首を上げた。
その声の主は、これも場に似合わぬ薄い黄色のワンピース―照りつけるような日差しに対応するためだろう、その生地も色と相まって、注視すればその下の下着が透けて見える程薄いのだが―を着た、紅い髪に碧い眼をした少女だった。


背は少年より若干高く、少女よりやや低い位だろう。 西洋系の血が入っているのか、整った顔立ちは、本当の年齢より2、3歳程上に少女の姿を見せていた。
軽口を交わす紅い少女とミサト。 少年の後ろから付いてきていた少女―少年の汗が染みた白いシャツを見てほんの少し欲情していた―は、これから起こることを瞬間、思い出した。 少女は少年の背後から飛び付き、彼の眼を汗ばんだ柔らかい手の平で覆う。
「うわあっ、シヲリ!?」
突然目の前が暗くなった少年は、加害者であろう少女の名前を呼ぶ。


その時、海を渡る一陣の風が吹いた。 その風は薄いワンピースを巻き上げ、紅い少女の白く細い腹と、青い匂いの籠る双肢の間、それを包んでいる白色の下着を外に曝す事となった。
「きゃっ!」
慌てて裾を押さえた彼女は、先程ミサトと会話していた時、眼の端に映った少年の頬を張ろうと歩み寄る。


―オトコってのは、本当スケベで馬鹿ばっかりなのよ―
特に自分に対しては、だ。 こう言っては何だが、容姿には自信がある。 その所為で皆に疎まれはしたが。

いや、と彼女は思う。
他人に好かれた事などそもそも無い。 自分にはさして辛くは無かったけれど。 あの日あの時、自分は独りで生きて行くと決めたから。 独りでも生きて行けるから。



だがしかし、彼女は再度目に入れた少年の姿に、膨れていた怒りが何処かに飛んでいってしまった。 と言うより、気が抜けてしまったのだ。
其処に居たのは恋人に目を押さえられている少年の情け無い格好。 風が吹いて気付いたのだろう、黒髪の少女が下着を見られない様に押さえてくれたらしい。
自分ももう少し服装に気をつければ良かったか。 そう感じた紅い少女は、黒髪の少女に礼を言う。
「サンキュ、助かったわ」
少年に丁度負われる格好で両足の浮いている少女は、その整った顔を向かいに居る少女の髪の色ほどに紅くして答える。
「う、うん! どっ、どう致しまして…」

返事を確認した紅い少女は、ミサトに向き直ると言った。
「それで、この子がサードチルドレン? 彼女連れてくるなんて中々良い度胸してるじゃない。 アンタが連れて来て良いって言ったの?」
それを聞いたミサトは疑問符を顔に貼り付けて答える。
「彼女? 違うわよ、二人は兄妹なの。 ほら、二人とも顔上げて―」
そう言ったミサトは二人の顔を上げさせる。

「こっちが碇シンジ君、サード・チルドレンでエヴァ初号機に乗ってるわ。 で、こっちが碇シヲリちゃん、初号機のサブ・チルドレンよ―」
ミサトは続けて、双子に向いて言う。
「んで、彼女がセカンド・チルドレン。 エヴァ弐号機のパイロット、惣流・アスカ・ラングレーよ」


「…よろしくね」
言いながらアスカは、判然としないものを感じていた。 人間関係を見る目には自信が有るつもりだ。 逆に、そうしなければ身寄りも無い子供の居る場所など無かったから。
その目が二人が恋人であると告げていた。

―おかしいわね、勘違いだったのかしら―
ただ、惜しむらくは彼女が其処で思考を止めてしまった事だった。 もう少し深く思索をして居れば気付けたかもしれない。 艶の有る碇シヲリの視線と、それに戸惑いながらも応じている碇シンジに。




一時間程した頃だろうか、軍艦が破壊される音と鈍い振動を伴って、使徒が現れた。
水の柱を上げながら軍艦を陵辱して行く使徒。 紅い少女、半身と共にそれを見ていた少女の胸が痛む。 船には、ヒトが乗っているのだ。 あの時は実感が湧かなかったけれど。


感傷に浸っている少女の腕が、乱暴に掴まれた。
「痛っ…」
右を向いた少女の目に映ったのは紅い少女の興奮した顔。
「アンタ、ちょっと来なさい―」
そう言って少女を引っ張って行く。 アスカは数歩歩いた所で立ち止まると、後ろを向き、不敵な笑みを見せながら少年に言う。
「あ、アンタはミサトの処に戻ってなさい。 実力、見せてあげるわ」
と。




「ほら、これ着て」
と紅い少女から放り投げられた紅いプラグスーツを見つめる少女。 アスカはそれに頓着せず、衣服を脱いでゆく。
「アンタもさっさと着替えなさいよ」
そう言って少女の方を向いたアスカの裸の上半身に、少女の視線は釘付けられる。
西洋の血が入っている人間には珍しい、そばかすや染み一つ無い身体。 少女や青い髪の少女より成長している、張りの有る乳房。 そしてその頂点には、少女よりもまだ薄い桃色の乳首が、男を誘うように妖しく存在している。
その姿は、少女が嘗て少年であった頃、自慰の対象にしてしまった姿よりも数段美しく。

少女の体内に電流が走り、性的興奮が全身を貫く。 男根を持たない少女はしかし、その代わりに与えられた膣が蠢き、粘度の有る透明な液体が身体の奥から湧き出てくるのを総身で感じていた。
「は…んんっ…」
腰から身体を折り曲げ、焦点の定まらない瞳を靴先に合わせる。


「何してんのよ? 早く着替えなさい」
プラグスーツから空気の抜ける僅かな音をさせ、紅い少女は奇妙な体勢で固まっている少女に言う。
「……う、うん! 分かった」
呆然とアスカの顔を見つめていた少女は、我に返ると急いで制服を脱ぎ始めた。 蒼い瞳を見ないように、紅い少女には背を向けていたが。


「ちょっと、アンタ…」
未だ慣れないブラジャーのホックを苦労して外していた少女の耳に、後ろから声が聞こえた。
「え?」
悪戦苦闘しながら後ろを向く少女。
「アンタってさ、そんな下着いつも着てるの…?」
蒼い視線を辿る、と、その先には少女のショーツ。 シルクだろうか、紫色をした光沢感と高級感の有るそれは、後ろを向いている少女の、尻の割れ目を透けさせる程薄い素材だった。 その両脇はレースで覆われている。 薄い少女の胸と、未発達な、幼いと言っても良い細い身体に、アンバランスなエロティックな紫の下着。 そのアンバランスさが、逆に少女の持つ娼婦の様な淫猥さを引き立てる役目をしていた。

「え、あ、そ、そんなこと無いよ! いつもはもっとちゃんとした…!」
少女はそう言いながら急いでプラグスーツを身体に通す。
そう、いつもはこのような下着を着けないのだ。 これを着けるのは、少年が休みの日の前日、と決めていた。 少年を誘惑し、狂った自慰に耽る為に。
今日はその日だったのだ。 少年が抱いてくれるかもしれないという、淡い期待と共に少女は紫に為っていた。




「ま、まあ良いわ。 行くわよ!」
それからの紅い少女は、少女の記憶と同じだった。 自分の行動でさえも。

ただ一つ違ったのは、彼女の、アスカの心の奥の悲しみを胸の奥に感じていた事だけ。
それだけ、だった。






「惣流・アスカ・ラングレーです、宜しくお願いします」
華やかな笑顔と共に転校して来た紅い少女は、瞬く間にクラスの中心となった。 それは未だ誰とも触れ合おうとしない、そして誰からも触れられない青い少女、綾波レイや、二人で閉鎖的な雰囲気を纏い、他の者を寄せ付け無い双子とは正反対に見えた。
その外面の良さが、深く抉られた心を覆っている殻で有る事に気付いていたのは、嘗て違う“アスカ”と共に暮らし、傷付け合った少女しか居なかったけれど。


毎日、下駄箱を開ける度に溢れて来るラヴ・レター達。 紅い少女は昇降口の簀の子に重なる其れを踏みつけると、鞄に仕舞おうと屈み出した。 実際、その紙の束を憎憎しく感じているのは事実だったが、蔑ろに扱う事によって、態々己のイメージを崩す事も無い。
そうして手紙を拾い集めている、下を向いたアスカの視界に手紙を掴む白い手が入って来た。

「はい」

手紙を踏み付けている所を見られたかもしれない。 心臓が僅かに跳ねる。 しかし、その心配は杞憂に終わった。
顔を上げた先には黒髪の少女、碇シヲリが居たからだ。 手紙を拾い終わったアスカは息を吐きつつ立ち上がり、言う。
「おはよ、シヲリ」
残りの数通の手紙をアスカに手渡しながら少女も答える。
「お早う。 あのさ、もうちょっと手紙は丁寧に扱ってあげた方が良いと思うんだけど…」
昇降口で出会う度に繰り返されるその会話。 アスカは、はっきりと分かるように溜息を吐いて言う。

「此処で捨てないだけマシよ、こんなの。 どうせ私の顔しか見て無いんだし」
その発言は二人が同じエヴァ・パイロットであると言う気安さから出た言葉であったが、真理を突いているのもまた、事実だった。
「あはは…」
苦笑しながら靴を履き替え、鞄を持ち直した少女はその時、先に履き替え、待って居る筈の少年の姿が無いことに気付いた。
たまたま今日は見えないところに居るのだろう、そう判断して紅い少女と共に廊下に出た少女の目が、大きく見開かれる。



その視線の先には、青い少女と並んで歩く黒い髪が有った。 横を向く少年の顔は綻んで。 それどころか、心なし青い少女の顔も柔らかに見える。 いや、そもそもつい先日までは少年と青い少女が話している所など数えるほどしか見ていない。 それも事務連絡程度の二、三言だけだ。

もしかしたらこの前自分が言った、仲良くして欲しいと言う提案を受け入れてくれたのかもしれない。
「良かった…」
呟く少女の視線はしかし、宙を彷徨する。 震える身体、蒼ざめる顔。 それに気付いた紅い少女が駆け寄る。
「ちょっとアンタ、大丈夫? 風邪引いてるんじゃない?」
力無い笑顔を見せ、少女は答える。
「ううん、大丈夫。 大丈夫だから…」



そう言った直後、少女の脳に黒い、重いヴェールが落ち、少女は気を失った。





少女は、夢を見ていた。 それは、悪夢と呼ばれる嘗ての記憶。 それは、少女が独りになってから毎日見ている夢。
揺蕩う意識の中で、黒い記憶だけが静かに足元を搦め捕り、少女を沼の底へ飲み込んで行く。 その中で聞いたのは、救え無かった、救おうとしなかった者達の呪詛。 あの赤い海の中に居る、全ての者達からの叱責。 それは少女の心の内から出で、枷となって自らを磔刑に処す。

血の涙を流しながら少女は謝罪する。 全てのモノに、全てのヒトに。 爪を剥がされ、皮膚を削られながら。
肉を抉る嘗ての戦友達。 ある者は鉈で脇腹を削ぎ取り、ある者はフォークで眼球を取り出す。 そしてまた別の者が膝を砕き、性器を引き千切り、腸を喰らう。



それは毎日続く地獄への旅路。 睡眠は凶器となり、少女の身体を蝕んで行く。
「ごめん…なさい」
「ごめんなさい」
繰り返し、繰り返し紡がれる少女の言葉。 これ程の責めを受けてなお、少女は謝罪する。 選ばなかった事に、救えなかった事に。
だが、幽鬼達は動きを止めない。 そして、墓石のごと硬く、重い黒色の塊が頭の上にゆっくりと振り下ろされる。


「…リ、シヲリ」
夢はそこで終わった。 身体を揺すられる感触に眼を開ける。 其処には己が半身。
「大丈夫? 凄いうなされてたけど」
今まで見ていた風景との隔たりに一瞬戸惑う。 目には白い天井を感じ、身体には暖かい感触を感じていたから。
そして、次の瞬間に滂沱たる涙。 暖かな流れは滝と為り、少女の頬を流れ落ちて行く。 それはひび割れた少女の心から流れ出す幸せの様で。
「え、あ、あの…」
慌てる少年の声に、重なるようにして聞こえる白いカーテンの外からの保健教師の声。
「碇君ねえ、あなたが運ばれてきてからずっと其処に居るのよ。 帰れって言っても聞かないんだから」
「せ、先生! それは言わないって…」
顔を紅く染めながら少年は言う。


―ありがとう―
少女は思う。 そしてまた、こうも思う。
―まだ、大丈夫―
と。




「ねえ、アスカ。 い、碇さんってさ、どんな人?」
同刻。 紅い髪の少女、惣流・アスカ・ラングレーと向かい合わせに昼食を摂っていた少女、洞木ヒカリは尋ねる。

あの時。 鈴原トウジと彼女が握手している現場を見た時以来、気になる少女。 同性から見ても、いや、同性から見ているからこそ分かる、“女”としての艶。 自分には到底望めない色気にヒカリは落胆し、心の重石を増やす。

新しく出来た親友はあの少女と仲が良く見える。 だが、自分は少女が居る時には近づかない。 自分が、嫌な人間になってしまいそうだから。
心の中に入りかけたヒカリの耳に、紅い少女の声が聞こえた。
「シヲリの事? どんな人って言われてもねえ…。 変な奴よ」
「変な奴?」
予想外のアスカの返答に戸惑う。
「そう。 あいつってブラコンじゃない、それも重度の。 それがまずおかしいのよね。 あんな冴えない奴の何処が良いんだろ」
アスカは、話しながら器用に食物を口に収めて行く。
やはり自分だけで無く、皆からもそう見えているらしい。 その事に少なからず安心したヒカリは意を決して、最も聞きたかった質問をする。


「碇さん、鈴原の事何か言ってなかった?」
ヒカリの言を聞き、僅かに目を見開いたアスカは、呆れた顔をヒカリに見せながら答える。
「あのジャージの事? 何も言って無いわよ、第一あのブラコンが他の男の話なんてする訳無いじゃない。 『お兄ちゃんが、お兄ちゃんが』よ―」
続けて紅い少女は、その目を薄く、口調をからかう様に変えて言う。
「―大丈夫、ヒカリの鈴原は誰も取らないわよ」
それを聞いたヒカリは雀斑の浮いた顔を紅潮させながら呟く。
「な、す、鈴原の事はそんな…」

その時、二人の耳に当の鈴原トウジの言葉が飛び込んで来た。
「シンジの奴、どうしたんや」
それに答える眼鏡の少年、相田ケンスケの言葉。
「シンジの妹が1時間目の前に倒れたんだってさ。 それで今保健室」
「ほうか、碇さん大丈夫かいな…」



―あのバカ―
紅い少女は振り返り、そしてまた正面を見る。 其処には俯いたお下げの少女。
「き、気にする事無いわよ…」

そう言ったアスカの耳に、聞き慣れた携帯電話の着信音が聞こえてくる。 この音は、緊急事態を告げる声。 同じ音が窓際に座っている蒼い少女の席からも聞こえる。




第七使徒、襲来。






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