未来の過去、過去の未来

7話 夢と羨望







翌日の昼。 少女は今、綾波レイの部屋のドアの前に、一人で居る。 何故自分が此処に、しかも一人で居るのか、少女自身ですら良く分からないが。
今日の朝少年がふと漏らした、更新カードを持って行かなければならないと言う呟き。 それを聞いた少女の脳裏に青い少女の裸体が浮かんだその瞬間、少女は少年の手にあるカードを奪い取っていたのだ。 明らかに不審がる少年を適当な理由を付けて丸め込み、今、少女はカードを持って佇んでいる。
どうしてあの時カードを奪ったのか。 少女にも理由が分からない。 ただ奪ったその時、半身には青い髪の少女の裸を見て欲しく無い、少女はそう思ったのだ。



己の不可思議な感情に暫時頭を悩ませていた少女は、油の切れたドアの開く軋んだ音を聞いて顔を上げた。 ドアから出てきたのは、綾波レイ。 ドアの前に人間が居たことに驚いたのだろう、レイは殆ど感情を表さない紅玉を束の間大きく見開いた。 が、すぐにいつもの彼女の相貌に戻り、少女の脇を通り抜けて階段を下って行く。
「ちょ、ちょっと待ってよ綾波」
半ば予想の範囲内だったが、無視された格好になった少女は、レイの後姿を見ながら声をかけた。 レイが踊り場で振り向く。
「何」
レイの声が響く。 その冷たく聞こえる声はしかし、彼女の心根を良く知る少女を怯ませる程では無かった。
「リツコさんから綾波に新しいIDカード貰ってきたんだ。 これからネルフでしょ、一緒に行こう」


レイもまた見た。 少女の眼、自分と同じ諦念に染まる眼を。 自分と違う色をした少女の黒い瞳は、美しかった。
だから、レイはただ頷く事しか出来なかった。



「お兄ちゃんと、仲良くしてくれないかな」
地下にあるネルフ本部。 長い長い下りのエスカレーターの半ばで、それまで綾波レイの後ろに、無言で付き従ってきていた少女が言う。
青い髪が揺れ、白い顔、赤い眼が少女の前に現れた。 レイは少女の眼を暫く見つめ、気恥ずかしくなった黒い少女の頬を僅かに赤らめさせてから、その重い口を開けて問う。
「どうして、そういう事言うの」
少女は、予め用意しておいた答えを述べる。
「二人ともエヴァパイロットだし、仲良くしておいた方がこの後の使徒とかも倒し易いと思うんだ」
今の彼女にはそう言った方が効果が有るだろう、そう判断して少女は答える。
そして願わくば、少年を支えて欲しい。 後に来る、赤い髪の少女と共に。 少年の心は細く脆く、僅かの風で折れてしまうから。
しかし、青い髪の少女は向き直り、少女と顔を合わせると言った。
「違うわ。 あなたの眼は、それを望んでいないもの」
「な、何でさ? そんな事―」
有る筈無いじゃないか。


言葉が出ない。 脳、四肢の全てが納得ずくであるのに、口だけが動かない。 もう一度言おうとしてまた、少女は口を噤んだ。
冷たい汗が背中に噴き出し、制服の白いブラウスを僅かに湿らせる。 濃い灰色をした怖気が少女の口を止めさせたのだ。
少女は直感的に感じていた。 続く言葉を云ってしまったら何かが壊れてしまうと。
それは自分の心か、彼の心か、その両方かもしれないし、全く違うものであるのかもしれない。

だが、何か、とても大事なものが壊れてしまう、きっと。 少女はただ俯き、両の手の握り拳を指が真っ白になる程握り締め、眼の端から滴を一滴、二滴、靴の上に零す。


エスカレーターを降りた青い少女が、角を曲がって見えなくなった。
黒髪の少女は、己の感情に振り回されながら、ただ、立っている。





無機質な、正八面体をした生物。 少年はその業火に焼かれ、少女は己が何も出来ない事に頭を垂れる。
だが少年は再び紫に乗らなければならなかった。 妹の為に、蒼褪めた顔をして。



「シンジ君が砲手、レイが防御を担当します。 これは、シンクロ率等を考慮に入れた総合的な判断よ―」
葛城ミサトがシンジとレイ、二人のパイロットに言う。
「一度に撃てるのは五秒おきに二発まで。 二発撃ったら、砲身の冷却と再充電までに、22秒掛かります。 レイのもつ盾は、SSTOの底部の流用だけど、理論的には使徒の攻撃に30秒間は耐えられるわ。 何か質問はある?」
言葉を発しない少年と少女。 質問が無いと判断したのだろう、黒髪の女は強い眼を少年と少女に向け、言った。
「時間よ。 準備して」



少年と少女が去った後、ミサトはこの作戦の要たるポジトロン・ライフルを改造した張本人、隣に立っている赤木リツコに言った。
「あれって戦自から徴収して来て、あなたが改造してた奴でしょ? しっかし、あんなもん良く有ったわね。 御陰様でこっちとしては作戦立て易かったけど」
「まあ、ね…」
金色の髪に似合わぬ黒い眉毛を分からない程僅かに動かしながら、リツコは答える。



何も無い夜空。 灯は自分達が居る周りを除いて全て消えた。 星々の僅かな光で山の稜線が浮かび上がっている。
右隣には紫色をした巨人の顔。 そして、左隣、5メートル程離れた処には青い髪の少女。 そして更にその向こうに、一つ目が居る。
不思議と、少年の心は落ち着いていた。 その身に触れている夏の黒い夜空には、弱い心を包んでくれる優しさが有るのかもしれなかった。 湿った空気のヴェールを身に纏いながら、少年は独白を始める。


「僕は、此処に来るまで、第三新東京市に来るまで、独りだったんだ。 ううん、此処でも独りだって、きっと独りに違いないって、そう思ってた」
少年の声音に、青い少女が透き通った紅い目を向ける。

「でも、違ったんだ。 此処にはシヲリが居た、僕の妹が。 正直言うと、まだ慣れないんだけどね、妹が居るって事にさ。 でも、此処に来て、僕は初めて独りじゃなくなったような気がするんだ」
レイは無言だった。 いや、声を発する事が出来なかったのだ。
少年の夜空を見つめる瞳は、曇りの無い色をしていたから。 レイが今日、階段で見た黒い少女の瞳と違って。
其処に観たのは、何処までも続く春の草原の様な、碧い、軽やかな色彩に溢れた希望。


―彼は、前だけを見ているのだ―
レイは思う。 彼の妹や自分と違って、彼、碇シンジは未来を見ているのだ、その双眸で。
夢を見ることの出来ないレイ。 そして、それは黒髪の少女も同じだ。 諦め、そしてそれ故に美しい刹那的な彼女らの瞳。 その瞳達は何処かで欠損した欠片を求め、真直ぐで、飾らない少年の瞳を求める。


「独りは、もう嫌なんだ。 でも、それって皆同じじゃないかと思うんだ」
少年の独白は続く。
「皆、独りは寂しいんだと思う。 ただ、それを見せないだけで。 だからさ、綾波。 シヲリと友達になって欲しいんだ」
宙空を見つめていた黒が、レイに向く。
その瞳は、真直ぐ、彼女だけを見て。 その黒に彼女は、己に許されない未来を見て。



レイは、ただ頷く事しか出来なかった。





照準を合わせるための三角形のマークが目の前で二つ、動いている。 静かに、少年は明滅するカーソルを見ていた。
電子音と共に、二つのカーソルが重なる。 少年は軽く引き金を引く。

その瞬間、眩い閃光と共に陽電子が正八面体をした異形の怪物へ向かって疾った。 傍目からでも分かる、その悪意無き純粋な攻撃力を感じ、少年は確信した。
―これで、終わりだ―


しかし、青い少女の目は違う物を見ていた。 少年が閃光を放ったその数瞬後、盾と為るべく少年の前に居た少女は、遠く第三新東京市、ネルフ本部直上に居る使徒の強烈な悪意を感じる。
瞬間、心臓を鷲掴みにされた様な恐怖が全身を貫く。 巨大な壁が迫り来る様な使徒の出す圧迫感に、レイの身体中に冷たい汗が噴き出す。


「くぅっ…」
震えている、そして歯が鳴る。 恐怖しているのだ、自分は。
造られしモノ、人では無いものとして生を受けた、いや、それが“生”と呼べるのかどうかも疑わしい中で自分は年月をその身に重ねてきた。 忌まれ、疎まれ、あの灰色の四角い空間に居る時だけが自分で居られた。 そもそも恐怖など感じない筈なのだ、自分は。 例え、この肉体が無くなっても、次が。 次がなくなってもその次が有るのだから。

ならば、この震えは何だ。



それは、彼女がヒトで有る事の証左だった。 まだ、誰も、彼女自身でさえ気付いていないけれど。 人では無い、けれどヒトの彼女の存在を示す恐怖。


そして、閃光が彼女の脇を通り過ぎて行ったその瞬間、白い悪意が此方へと射ち出された。 ホワイト・アウトするレイの、零号機の視界。 使徒が放った光線は、使徒とエヴァとのちょうど中間あたりで初号機から伸びる収束されたエネルギーと絡まり、屈曲した。
鈍い地響きと共に地面が弾ける。

初弾が外れた。 それを判じた少年は急いで次弾の発射準備にかかる。


五秒が、永遠に感じる。 再び、三角が動く。
しかし、三角形が重なる前に正八面体の頂点が再度、輝いた。 その光線は熱線と為って、綾波レイの持つ盾を抉る。
「んんっ…」
溢れるエネルギーに少女の持つ盾が熱せられたバターの様に溶けてゆく。 零号機の中で、レイはフィードバックされる熱さに、無言で耐える。



―早く、早く―
青い髪の少女がどのようになっているかなど、後ろからその状況を見れば瞭然であった。 少年は、無常にも迷走するマークを見ながら思う。

そしてちょうど五秒後、重なったマークを確認した瞬間に少年はトリガーを引く。
使徒と異なった、意識を持たない純粋な暴力は一直線に硬質な物体へ向かって行き、それを貫いた。
炎上―それは奇妙に生体的に少年には感じられたが―しながら倒れてゆく使徒。 と同時に止む使徒からの砲撃。 少年は、皆を護れた事に安堵し、息を吐く。


空から、雫が落ちてきていた。 晴天だというのに降るそれは、天に御座す女神の涙。
「綾波」
辛い目に遭っていたであろう少女を気遣って、エントリープラグの外に出た少年の眼が見たものは、熱い盾に水が落ちる事で生ずる水蒸気に包まれている、これもプラグの外に出た碧い姿。


少年は、再び少女を呼ぶ事が出来なかった。 冷たい水と、熱い水蒸気に包まれながら昏い夜空を見上げている少女を。 女神の涙に濡れた少女は、美しく、まるで舞っている様で。

何を感じたのだろう。 突然少女は振り向き、こちらを向いている少年を見、そして微かに―少年の思い違いであるのかもしれなかったが―微笑む。 その笑顔は、少年の想い人、今はネルフ本部で待つ少女に瓜二つで。 どこか哀しい気分にさせる眼に、少年は惹きつけられて。




漆黒の夜空と女神の祝福が、二人を包んでいた。






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