未来の過去、過去の未来

6話 ポートレート







「碇、ワイを殴れ」
翌日、鈴原トウジに校舎裏へ呼び出された少女。 少女が振り返るなり、彼はそう言った。
「どうしてさ?」
尋ねた少女に、トウジは歯切れ悪く答える。
「こ、この前はすまんかった、その…殴ってしもうて。 だからワイの事も殴れや、それで貸し借り無しや」
トウジと共に校舎裏に来ていた眼鏡を掛けた少年、相田ケンスケが言う。
「悪いな、碇。 こう言う恥ずかしい奴なんだよ、こいつは」

30秒程だっただろうか。 その間俯いて、少年二人に気を揉ませた少女は、突然顔を上げると笑い出した。
「いや、止めとくよ…くっ、あははは」
その笑顔はどこまでも明るく、透き通って。
―悩む必要なんて無かったじゃないか―
少女は思った。 目の前にいる少年は自分の知っている“彼”と同じなのだ。 “彼”は自分の所為で消えてしまったけれど、今昼食を摂っている半身には、きっと彼の真直さが必要だから。

“彼”を傷付けたあの時。 自分はあの時以来、大切なモノを壊していってしまった。
青い少女に恐怖し、紅い少女を避け、銀の少年は救えなかった。 それは苦く、消せない記憶。
己の移し身と言える少年には未来こそが必要なのだ。 ならば、自分はこう答えよう。
「殴るのは止めとく。 その代わり、お兄ちゃんと仲良くして。 これで貸し借り無しだよ」

少女の煌く微笑。 それを正面から見てしまった彼は、少女の深く透き通った黒に赤面しながら答える。
「お、おう、分かっとるわい! あいつにも借りがあるしの…」
「それじゃあ、よろしく」
少女の方から差し出された右手に、意味を理解した少年が自分のジャージのズボンで手を拭う。
そして交わされる握手。 冷たく乾いた少女の手は、ほんの少しの温もり―人はそれを“希望”と言う―を今の“彼”から受け取った。



その光景を見ていた人間が居た。 お下げの少女、洞木ヒカリ。
「鈴原…」
彼女は昼休みの前、鈴原トウジを見た。 そして聞いてしまったのだ、彼がロボットのパイロットの内の一人、碇シヲリを呼び出しているのを。
仄かな恋心を持つ少年が己以外の少女と連れ立って出かけて行く。 罪悪感に駆られながらも、二人を追って動く両の脚。 人一倍色恋沙汰に疎い彼の事だ、自分が心配している様な事にはならない筈だが、だとしたら何故呼び出すのか。

そして彼女は見た、顔を紅くさせながら少女と握手する彼を。 二人の話が聞こえればまた持つ印象も変わったのであろうが、クラス委員長としての自身が邪魔をしたのか、窓ガラス一枚隔てた向こうで彼女は始終を見てしまった。
その形の良い、やや小振りな胸の奥に鈍い痛みが走る。 彼女自身、己の感情に確信を持って居る訳では無かったが、その痛みは嫉妬と呼ばれる感情だった。 それはほんの僅か、見えない程小さい火をヒカリに灯す。





少年、相田ケンスケは体育の授業が嫌いであった。 だが、彼は別に運動が不得意な訳では無い。 むしろその風貌に因らず、得意であると言っても良い程の運動神経位は持ち合わせている。
体育の授業が嫌いな理由は他の所、つまり、カメラを授業に持っていけない事にあった。

彼の趣味は写真である。 実はビデオカメラも彼は持っているのだが、むしろ好んで使うのは、父親から貰った年代物の一眼レフの方だ。
彼はそのカメラで、クラスメイトが一瞬見せる鮮やかな表情を切り取るのが好きだった。 しかし、男女問わずに撮影する彼は、思春期只中の女子生徒にとっては自然、嫌悪の対象となる。
それは同じクラスからだけで無く、学校全体の女子生徒から“盗撮魔”なる渾名を付けられる程であった。 いや、それには彼自身にも多大な原因が有るのだが。

と言うのも、彼は撮影した写真を校内で密かに販売していたのだ。 それを買うのは目当ての女子生徒が居る男子生徒が主であったが、時には彼を嫌悪している筈の女子生徒が、男子生徒の写真を求めに来る事もあった。 また、常連には「サービスショット」と称した、女子生徒の水着写真―これは少し値段が高い―を売る事もままあった。
それ故彼は女子生徒たちに忌まれるのであろうが、売った本人は、疚しい気持ちで被写体に接した事はこれまで無かった。 彼に言わせれば、「サービスショット」とは言ってもあくまで日常のワンシーンを切り取っているだけであったし、今の彼には景色を撮影するより動きのある人物を撮る方が面白かった、ただそれだけの理由しか無かったから、だ。


そして彼は今、その嫌いな体育の授業に出ていた。
男子がバスケットボール、女子が水泳。 彼にとっては趣味と実益を兼ねたシャッターチャンスが満載であった。 なにせ、このクラスには例のロボットのパイロットが三人も居るのだ―彼にとって、いやクラス全員にとって、綾波レイがパイロットだったと言うのは予想外の事実でしか無かったが―。
しかし、相田少年にとって、そうでなくとも彼の写真の売り上げの三割を占める程人気が有る綾波レイの存在は重要だった。
そして、最近2週間程急激な勢いで売り上げを伸ばしている二人もまた、このクラスに居た。 そう、残りのパイロット、碇シンジ、シヲリの兄妹である。 特に、シヲリの売り上げは凄まじかった。
もう一人の女性パイロット、綾波レイ程では無いが整った顔立ち。 そして、写真からでも伝わって来る、同世代の少女からは到底望め得ない“女”の表情や憂い。
綾波レイの写真が彼女と接したことの無い上級生や下級生に売れているのとは対照的に、碇シヲリの写真は彼女と同じ学年の生徒達に売れている。 その事実が、少女の魅力が見た目だけでは量れない事を印象付けていた。

その三人が近くに居ると言うのに撮影できないもどかしさ。 何か他に楽しそうな事を探していた彼の耳に、音が飛び込んで来た。
「センセ、何熱心な眼で見とんのや」
鈴原トウジ、彼の親友の声だ。 そして、その標的にされているのは碇シンジ。
―シンジをからかうのも面白いな―
そう思った相田少年もシンジに声を掛ける。
「ひょっとして綾な…」
しかし、その声は最後まで発せられることは無かった。 彼は見てしまったのだ。

碇シンジの妹、シヲリを、その姿を。



授業は見学しているのだろう、少女は校庭が見える位置に膝を抱えながら座って、此方を見ている。
薄い紺色の水着に包まれたしなやかな少女の身体。 30度を超える気温からだろう、少女の背中の水着に汗が染み出している。 そしてうなじに、首筋に伝う汗。 それは若い処女の、未だ固い蕾の碧い香りが匂って来る様な透明な液体。
少女の薄く開いた口から、赤く濡れた舌が覗いている。 そして少女の眼。 快楽中枢に直接訴えかけて来る様な、それで居て直に見るのも憚られる様な漆黒の瞳が、心の中まで抉って来る。

眼鏡を掛けても人並み程度の視力しか持たない相田少年には、少女の表情がそこまで判る筈は無い。 だが、彼にははっきりと見えたのだ。 そう、それは少年があたかもカメラのファインダーを覗いている時の様に鮮明に。
残念ながらその視線は、相田少年では無く隣に居る彼女の兄、碇シンジに向けられていたのだが。 それでも少女の瞳に込められた淫靡な毒が瞬時にケンスケの脳髄の中を駆け巡って仕舞ったのだろう、授業中だと言うのに彼の陰茎に身体中の血液が濁流となって注ぎ込み、体操服の下からとは言え、鼓動に合わせて脈動する一物を人目に晒す事になってしまった。

彼は思った。 もしあんな眼に真正面から見つめられたら、もうそれだけで射精してしまうだろう。 だが、一回で良い、ただ一回で良いから見つめられてみたい。 14歳にしては比較的常識的な人間であると言える相田少年にさえ、その様な狂想を抱かせる黒。


少女の肢体に我を忘れて十数秒程見入ってしまっただろうか。 しかし、それでも彼の意識が還ったのは最も早かったのだ。 膨張してしまった男根を気取られない様、そそくさとその場に座り込んだ彼の目に入ったものは、ほんの少し前まで騒いでいた全員が惚けて居る、そして一様に体操服のズボンの前が張り出して居る姿だった。







「レイに更新されたIDカード渡すのを忘れちゃったの。 だからこれ、シンジ君に預けて置くから、明日レイに渡しておいて」
夜、双子の住む部屋を訪れた赤木リツコは、玄関先でそれだけ言うとシンジにカードを渡し、去って行こうとした。 が、女は数歩行った所で足を止め、振り返る。 そして少年に二の句を継ぐ。
「あ、そうそう。 私は今からミサトの家に行くんだけど、あなた達もどう?」



汚い、と少年は思い、予想外に綺麗だ、と少女は驚く。 一般的な基準に照らせば、葛城ミサトの部屋は少年の印象の方が正しいことになるだろう。 だが少女にとっては、この程度の汚さは予想通りだった。 いや、酒瓶やビールの空き缶は散乱しているものの、生ゴミが無い事には少女は軽い感嘆さえ覚えた程だ。 少女にはその理由が、ミサトが己の職務に忙殺され、家で食事を摂る暇すら無いからだとは知る由も無かったが。
とは言え、今すぐに食事が出来る状況では無い。 なら、と少女。
「ボク達の部屋でご飯にしませんか? ちょうど今作ってたところだったし」
「あら、良いじゃない。 リツコもそれで良い?」
ミサトの言葉にリツコも頷く。
「まあ、私もこんな所でご飯食べたくないしね。 シヲリちゃんの所にお邪魔しましょ」
リツコの言葉に、少ないとは言え女としての矜持が反応したのであろう。 ミサトが言う。
「こんなところって何よ! あなたねえ、人の家に呼ばれといて―」
「シヲリちゃん、今日のご飯は何?」
ミサトの言を意に介した風も無く、リツコは少女に問う。 少女は苦笑しながら答える。
「今日はシチューですよ。 ほら、ミサトさんも、早くボクの家に行って晩御飯食べましょう」
「は、はぁい…」
己の年齢の半分にも満たない子供に宥められ、ミサトはばつが悪そうに首肯く。
「あら、まるでシヲリちゃんがミサトのお母さんみたいね」
玄関に響く皆の笑い声。 雲一つ無い夜空には、鈍い銀色をした星達が瞬いている。空を見上げた少女の頬を撫でる、暖かい夏の夜風。 いつもなら鬱陶しい筈の湿った空気も、今の少女には気にならない。
―楽しいな―
少女は、そう、思った。






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