未来の過去、過去の未来

3話 決意と共に







女―名を葛城ミサトと言う―は焦っていた。 それは自動車の運転には自信がある彼女が、珍しく額に汗をかいている事からも容易に推測できる。
「ったく、何でこんな時に来るのよ!」
女はそう言いながら、ハンドルを左に大きく切った。 進行方向とは直角の方向にベクトルを向けられた青い車体は、軋みながら方向を変える。
「ぐうっ…」
強烈な横Gが女を襲う。 いつもならばこんな余裕の無い運転はしないのだが、今はそんなことを言っている場合ではない。 思い切り運転できる陶酔感を頭のどこかで味わいつつも、女は目的地に急行していた。


使徒だ。 怪物を視認した彼女は、自分の半身だと先程まで思っていた少年に声を掛けた。
「ねえ、起きて、起きてよ」
「ん…、んん? 僕は…」
そう言った少年は、少女の顔を見た途端に今までされていた行為を思い出した。 顔を瞬間的に沸騰させた少年は、更に顔を伏せた。 それも当然だ。 見たことも無い少女に性器を愛撫されたどころか、あまつさえその少女の顔面に射精してしまったのだ。 まともに少女の顔を見られる筈が無い。
「な、何…?」
快感の残滓が残り、腰に力が入らない。 少年は、更なる行為を求めて暴れ狂おうとする陰茎を必死に宥めながら少女に問うた。 しかし少女はそんな少年の思いとは関係なく、逼迫した口調で答えた。
「早くここから離れないと、危ないんだ」

少女もまた、女と同様に焦っていた。



必死な声に顔を上げた少年は、少女の顔を初めて間近に見た。 黒髪、黒い目、黄色の肌。 今まで気付かなかったが、その面持ちは髪の長さが多少違うものの、少年自身の顔に非常に良く似ていた。 いや、似ていると言うより瓜二つと言っても良い。 その事実に少年は吃驚した。 だが、少年の表情とは決定的な違いが一つだけあった。

少女の瞳だ。
少年は思った。 自分の瞳の事は良く分からないが、少女の瞳と違うと言うことだけははっきりと分かる。 彼女の瞳は、吸い込まれそうな透明な黒色をしているのだ。 それは、深い絶望と、小さな希望とで彩られた諦念の黒。 今もまだ赤い世界にいる、かつて半身であった少年に言わせるとこのような色になるであろう。 美しく、儚い夢を見る少女の瞳はしかし、目の前にいる少年の心を掴んで、離す事は無かった。
「逃げよう、ここから」
今、少女が何を言っても盲目的に少年は従っただろう。 つまるところ少年は、少女に恋愛感情を抱いてしまったのだ。 少年にとって生まれて初めての恋。 しかしその感情は、後に辛い現実を少年に突きつける事となる。
「う、うん…。 君は…」
湿っている学生服のズボンに違和感を感じながら、少年は少女の手を借りて立ち上がる。
「その話は後。 とりあえずこっちへ」
少女はもう、半身を失うわけにはいかなかったのだ。 例えそれが偽りの半身だとしても。

少女は少年の手を握りつつ、至近でもっとも安全であろう場所―駅のトイレへと少年を連れて行った。 自分の記憶に拠れば、もう遠くに逃げていく時間的余裕など無い筈だ。 以前は彼女―その当時は“彼”であったが―の保護者の自動車が守ってくれたと思ったが、今回もうまくいく、などとと言う保障は何処にも無い。 ならば少女がその場から動こうとするのは当然の事と言えた。
「き、君は一体…?」
歩く、と言う行為は少年を多少冷静にする役目を果たした。 少年はそれでも紅潮している自分の顔面を伏せながら、少女に尋ねた。
「良いから、伏せて。 もう、来るから」
「で、でも」
少年の問いに答える術を持たない少女は、未だ動こうとしない少年の肩に勢いを付けて飛び込み、押し倒した。
「ぐっ…」
背中をしたたかに床に打ちつけた少年の呻き声が聞こえたその刹那、それは起こった。 大質量の物体が空気を切り裂く暴力的な音の一瞬後、轟音と衝撃が二人を包む。
「うわあああっ!」
突然起こった激しい振動に悲鳴を上げる少年。 それに対し少女は無言のままだ。 何故なら少女は知っているから。 あの使徒と言う怪物によって、人類の叡智の中の一つが撃墜されたことを。



「外に出よう」
轟音が収まって暫く後、少女は少年に言った。 ここにいても埒が明かなかったし、ずっと居るには危険すぎる。 自分の正体を明かさないまま少年を連れ回す―どだい、正体を明かしたところで信じて貰える訳も無いのだが―事に気が咎めたが、少女は再び少年の手を取り、駅舎の外に出た。

そこには、引き裂かれた様なVTOL機の破片と一緒に、ヒトがいた。 どうやら右半身は肩口から股間に掛けて千切れてしまった様だ。 そこから夥しい量の血液が流れ出ている。 左足は膝関節が逆に曲がり、耐え切れなくなって裂けた皮膚から肉と骨が飛び出していて、人体標本のような筋組織が所々覗いている。 そして火傷によるものだろう、全体的に激しく爛れた皮膚は捲れ、サイケデリックな模様を形作っている。 頭部に至っては半分潰れ、脳漿がそこここに飛び散っている状態だ。
が、それはまだ生きていた。 自らの失った欠片を拾い集めようとでも言うのだろうか、唯一無事だった左腕を懸命に動かし、焼けたコンクリートに皮膚をこそげ、凄絶な呻き声を上げながら地面を這っている。

「あ、ああっ…!」
昨日まで普通の中学生だった少年の精神がその凄惨な光景に耐え切れる筈も無く、少年は悲痛な叫び声を上げたと同時に、気を失ってしまった。 だが、少年をか細い腕で抱き止めた少女は、気絶するわけにはいかなかった。 内臓を撒き散らしながらのたうっているそれに吐き気を催しながらも、彼女はそれが絶命するまで見つめていなければならなかった。
気を失ってしまった方がどれだけ楽だったのだろう。 大声で泣き叫んでしまった方がどれだけ心が助かったのだろう。 しかし、彼女はそれをしなかった。 命に代えても守るべきものを抱いていたから。 生きる希望がこの腕の中にあったから。 彼女はその代わり、己の唇を痛いほど噛み締めた。 涙が零れない様に、気を失ってしまわない様に。 血が滴り、制服に紋様が描かれる。


その時、少女の耳に聞き慣れたエンジン音が聴こえて来た。 と同時に、砂煙を上げつつ疾走して来る青い影。 少女はそれを見、そして、糸の切れたマリオネットのようにくずおれた。

女は、間に合った。



「―から、――をお願い」
細かな振動と知らぬ声の中で視界に映ってきたのは、すべやかな白く、肌理細かい太腿。 意外な事に、最初に眼を覚ましたのは少年の方だった。 目に入った太腿は少女の物。 甘い匂いにこのまま埋もれていたい―だが、少年にはそのような時間的猶予は無い様だった。
「あら、起きたの? 碇シンジ君」
前方から聞こえてきた女性の声。 少年は、自分の考えが顔に出てしまっていたのではないかと赤くなりながら、慌てて身を起こす。
「あ、はい! あなたは…」
少年はバックミラー越しに女の顔を見ながら尋ねる。 年齢と人生経験に裏打ちされた仄かな色気。 その顔は美人、と言って良いだろう。 それも飛び切りの。 少年の14年の人生の中で二番目に美しい女性だと、彼は思った。 ―皮肉にも一番目の女性は、今少年の隣で眠っているのだが。

「君のお父さんからの手紙に、私の写真が入ってなかった?」
女の返答に、少年の海馬が急ぎ情報を収集し始める。
そう言えば、滅茶苦茶に破り捨てた父からの手紙の中に、その写真は入っていたような気がする。 写真からでも十分に伝わってくる熟した女の香り、そして写っている女性の爽やかな笑顔と対極にある、強調された胸の谷間の艶かしさ。 その写真を、少年は己の自慰行為に用いていた。 それも一度ならず幾度もだ。 その事を思い出した少年は、つい先程赤くした頬を再び紅潮させながら、女からの問いに答えた。 そう、彼女は確か―


「葛城ミサトさん、ですか?」
「あったりー。 覚えて貰えてたとは光栄だわ。 …で、そこに居る女の子、あなたの知り合い?」
そう言った女は、これもミラー越しに寝ている少女の方を見た。
少年は考えた。 さっきあった事を正直に話してしまうのは楽だ。 しかし、話したところで信じてもらえるとは思えないし、例え信じて貰ったにしても、その後少女がどのような目で見られるか想像が付いてしまう。
ならば、自分は少女を守る。 それは少年の卑小なエゴイズムでしか無いのかもしれないが、少年を決断させるにはそれだけで十分な理由となり得た。 しかし、少年の口は余りにも会話慣れしていなかった。
「え、あ、あの、その…」
出る言葉といえば何の役にも立たない指示代名詞ばかり。 少年は、これほどまでに自分の今までの生活を悔いたことは無かった。
「うーん、まあ良いわ。 どっちにしろここに置いて行く訳にもいかないしね。 さあ、しっかりそこら辺に掴まって、その娘も動かないようにしておいて! 飛ばすわよ」
今までは後部座席の二人が気絶していたため遠慮していたのだろう。 そう言ってからの女の運転は、少年を少々気分が悪くさせるほど過激なものだった。 少年は、抱きかかえた少女の僅かながらもはっきりとした双丘が自身の腕に触れる感触に痺れながら、進行方向を見つめていた。



静かに肩を揺らされる感触に、少女は目を開けた。
「あ、起きた?」
肩を揺すっていたのは少年。 少女は自分が気絶してしまっていたらしい事に気付き、慌てて上半身を起こした。 自然、心配そうに覗き込んでいた少年と額をぶつけることになる。
「痛っ!」
そう言って額を押さえた少年は、ばつの悪そうな顔で言葉を続けた。
「ご、ごめんね…。 あ、あのさ、僕ら気付いたらミサトさんの車、あ、ミサトさんって言うのはそこに居る女の人の事なんだけどね、そのミサトさんの車に乗せられてて。 あ! 心配しなくても良いんだ。 ミサトさんは元々僕の事を迎えに来てくれる予定の人で―」
少年が喋っている声を耳に流しながら、少女は状況を理解した。 どうやら自分はかつての保護者の車に乗せられていたらしい。 そう言えば、この車の内装には見覚えがある。 余りにも荒い運転に当時は乗りたく無かったものだが、今となっては懐かしさの方が先に立つものだ。 それはあの戦いの中で、数少ない楽しい想い出だったから。 赤い少女と青い少女、そして気の置けない仲間と共に過ごした、幸せな時間。 それは瞬く間に通り過ぎ、そしてそれ故に貴重だったあの日の記憶。 今まで心の奥底で眠っていた記憶が呼び起こされた少女の瞳に、浮かんだのは涙。
「え、あ、え? どうしたの? 何か悪い事言ったかな…」
戸惑い気味の少年の声に、彼女は涙を拭いつつ心の中で苦笑する。 結局あの頃から自分はちっとも変わっていないのだ。
「ううん、何でも無い」
精一杯の笑顔で、これから死地に赴くであろう少年に微笑いかける。
「そ、そう! 良かった…。 あ、でね、ミサトさんが車から出てきてくれって」
そう言われ窓の外を見ると、見覚えのある光景。 確か、以前ではカートレインの終点だったような気がするが。 目を覚ました少女に気付いたのだろう、女が外で手招きしている。

外に出た少女に、女は言った。
「シンジ君とそっくりのあなたが彼と無関係とは思えないけれど、こっちも今確認のしようが無いの。 一応ここって民間人には入れないってことになってるから、あそこに居る人たちに安全な場所に連れて行って貰いなさい」
と言って目線を動かした女の先には、黒いスーツを着た屈強な男が二人。 女の口調とは裏腹に、進入する事を強烈に拒む意思を感じる。 此処で何を言っても無駄だろう。 少年が何やら女に言っているようだったが、少女は大人しく男達に連れられて行った。


「此処だ」
半ば放り出されるように座らされ、扉が閉められた其処は、見覚えのある場所。 映画館をふらつき、野原で眼鏡を掛けた少年に出会い、そして連れられて来たあの場所。 これは保護、では無い。 連行だ。

暫く後、少女の頭上から鈍い振動が聞こえる。 恐らく、怪物が此処を攻撃しているのだろう。 女と共に行った少年のことを思い、少女は一人苦悩する。

その振動が1時間程で終わり、更に2時間近く経った後、少女の入れられている営倉の扉が唐突に開いた。 入り口に立っているのは、黒髪の女。
「私達の司令が会いたいそうよ、一緒に来てくれる?」
そう、ミサトは言った。


黒い部屋。 それは照明が殆ど無いせいだろうか、それとも此処にいる者の雰囲気がそうさせるのか。 ともかく、女と少女は司令室に来ていた。
「葛城一尉、君はもういい」
長大な机に座り、顎鬚を蓄えた口の前で手を組んでいる男―碇ゲンドウと言う―が、女に言った。
「し、しかし」
戦闘が終わった後、少年と一緒に居た、彼と良く似た少女の事を思い出し、同僚である赤木リツコに営倉の様子を見せただけなのだ。 それが何やら司令室に呼ばれ、しかももう帰れと言う。 納得できるわけが無かった。
「もういいと言っている。 尋問は私自らやる」
だが、今まで聞いた事が無い程強い男の声に、女は引き下がらざるを得なかった。
「はっ」
そう言い、部屋を後にする。 残されたのは、少女と男二人。

机の横に立っているもう一人の男、冬月コウゾウは気付いていた。 入ってきた少女の姿を見た瞬間に、ゲンドウの組んだ手が微妙に震えていたことを。 常人には分からない変化だが、10年以上付き合ってきたこの男には分かる。 そして、これ程動揺したのは彼の妻が消失した時以来だと言う事もまた、分かった。 少女の面持ちは、ゲンドウの妻に良く似ていたのだ。 その儚げな眼差しが特に。
その動揺を声に出さず、ゲンドウは少女に言った。
「お前は誰だ」

少女は考えた。 が、そうそう都合の良い言い訳が思いつく訳でも無い。 しかも、そもそも自分の身に起こった現実が想像の範疇を逸脱しているのだ。 少女は、全てを男に話した。 自分の事、使徒の事、青い髪や赤い髪の少女の事。 そして、サード・インパクトと呼ばれるあの日の事も。
少女の話は1時間程だっただろうか。 それが終わった後も、暫くの間ゲンドウは無言だった。 考えることを放棄していた訳では無い。 しかし、少女の言葉に脳が追い付いていないのは事実だった。


「碇…」
数分後、重い沈黙に耐え切れなくなった冬月の言葉が、ゲンドウの耳朶に触れた。 そしてゲンドウは、少女に言った。
「お前を、サード・チルドレン、碇シンジの予備のチルドレンに命ずる。 これからは
シンジの双子の妹として行動しろ。 名前は―」


少女が退出した後、冬月は言った。
「これで良かったのか、碇?」
「問題無い。 これから来る使徒の情報も使える」
ゲンドウは、常に猜疑の目で人間を見てきた。 その経験上、嘘を吐いている人間を見分けることには長けている。 その目が、嘘を吐いていないと判断したのだ。 彼には、少女は十分信ずるに値する対象に見えた。
「しかし…」
冬月が、なおも食い下がる。
「不必要になったら、消せば良いだけの話だ」
鋭い鉈を喉に押し当てられた様な気がする冷然とした声に、冬月は戦慄した。



白い天井。 どうやら病室にいるようだ。 はっきりとしない意識の中で、彼、碇シンジは目覚めた。
「ん…」
左腕が重い。 何気無く己の左を見る。
「あ……」
少女が寝ていた。 彼の恋した彼女が、頭を少年の左腕に垂れながら。 その寝顔は天使の様で、かつ娼婦の様にも見えた。 靄がかかった様な頭で少女を起こそうと思ったその瞬間、病室の扉が無粋な音を立てて開いた。
「お、シンジ君起きたみたいね」
その後に、入ってきた女―葛城ミサト―は続けた。
「でね、シンジ君の隣で寝てる女の子の事なんだけど―」




そして少年は、昏い現実を目の前に突きつけられる事となる。






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