未来の過去、過去の未来

12話 少女、そしてその波紋







鈍い赤色をした海の中、無粋な鼠色にその身体を染め上げた巨大な船が進んでいる。 甲板上には布に包まれた咎人の聖槍。
周囲には塩柱がさながら樹氷のように林立している。 天は藍に溢れ、蠢く雲はまるで其処に居る奇怪な生物の胎内であるかの如く。

南極。 ゲンドウと冬月は其処に居た。

「…正に死海そのものだよ」
腕を後ろに組み、冬月が呟く。
「だが、原罪の穢れ無き、浄化された世界だ」
茫洋と強化ガラスの向こうの赤を見つめつつ、ゲンドウがそれに答える。
「俺は罪に塗れても、人が生きている世界を望むよ」
前に立つ黒い男の心には僅かとも届かないだろう、そう感じても冬月は口を開かずには居られなかった。


その時、ブザーの音が響いた。
「報告します。 ネルフ本部より入電、インド洋上空、衛星軌道上に使徒、発見」
冬月の灰の眉が動く。
「本部と連絡を」
傍らに置いてあった通信機を手に取り、冬月は通信室へ連絡を取る。
「はっ! ……駄目です、繋がりません。 どうやら使徒、若しくは他の何らかの要因によってジャミングされているようです」
喜ばしく無い報告を耳にし、冬月の顔に苦いものが疾る。
「…引き続き呼び出しを繰り返すように」
そう言って冬月は通信を切断する。 続けて、
「碇、聞いたか」
と。
「ああ」
興味が無さそうに、ゲンドウが言葉を発する。
音の無い世界の中、科学の粋はゆっくりと波を掻き分けてゆく。




「今度の使徒は、落下して来る奴だったか」
冬月は言う。
「だろうな」
ゲンドウもそれに応ずる。
「初号機にはどちらが乗るのだろうな。 …私としては、君の子供であって欲しいが」
「どちらでも構わんよ、私の計画の邪魔にさえならなければ、な」
僅かに冬月へと振り返り、何気なく発した、しかしその奥に強い意志を感じさせる声で、ゲンドウは対する。
「そうか、そうだったな…」
翻弄される賢者は、諦観した眼で前方を眺めやる。

冬月は考える。 あの娘は最近、とみに碇ユイに似てきた、と。 数ヶ月前、娘に初めて会った時はゲンドウの息子と変わらぬ少年のようだった。 が、今ではその艶の有る黒髪も伸び、細く筋張っているだけだったその身体も、細いながらも女性特有の丸みを帯びた肩や、腰のラインが目立つようになってきた。 少女は、女性へと日々少しずつ変化している。
そして、老いた冬月には見える。 当時、大学での碇ユイ、その更に昔の彼女の姿が。


彼ら―マンションで共に暮らしている中学生3人の事だ―の日頃の行いは、冬月にはひどく眩しい。 最近では、ネルフ内でレイと4人で居るところを良く見かけるようになった。
その中心に居るのは、碇シヲリ。 あの娘だ。 双子の兄と、紅い、蒼い髪の少女達に囲まれ、微笑っている黒髪の少女。 だが、冬月とゲンドウ、そして赤木リツコだけが知っている。 少女が、異質な存在だという事を。 まやかし物。 どこから来たとも知れず、誰とも分からぬあの少女。 碇の名を偽るあの娘。


「碇、お前はあの娘に何を見ている」
冬月は問う。 自らが思うように、知り得ぬ旧時の碇ユイの似姿としてか、己の計画が成就する事の証明としてか、それとも、妄執を断ち切ってくれる聖剣としてか。 老人にはどれとでも見え、また、どれとでも無い様に感じた。

息を吐いたのだろうか。 二人きりの空間が僅かに震え、空気の澱みがほんの少し動いた。

たっぷり一分程経った頃、ゲンドウは呟く様に答える。
「冬月先生、あれはただの“道具”ですよ。 それ以上でも、以下でも無い」
ゲンドウの背中が、薄く笑った様に冬月には見えた。



スピーカーの導通する音が響く。
「副司令、ネルフ本部との通信が回復致しました」


通信が復活し、そして。
「良くやったな、シンジ」


その言葉が本当なのか、冬月には判らずに。
ただ、悲鳴を上げ続けている極寒の地を進むしかできず。







「アスカ、命令よ」
軽い口調でミサトの声が響く。 半クリーンルームの中、17回も己の身体を洗浄されたアスカにとっては、それが癪に障るらしかった。 尤も、その他の三人も充分に渋い顔―レイですら、だ―をしていたのだが。
「って言ってもねえ、ミサト! ものには限度ってものが―」
しかし、その言葉に答える事も無く、扉は開く。 つまり、エントリープラグに入れと言うのだ。 オートパイロットのテストのために。


脇の仕切りを軽く蹴飛ばしてから、アスカが言う。
「ちょっとアンタ、とりあえず先行きなさい」
視線の先には隣に居る碇シンジの姿。
「ええっ、何でさ」
少年はアスカの方を向き、しかし、彼女の蔑む様な視線に晒されて慌てて前に向き直る。
「アンタばかぁ? 誰がアンタに好き好んで私の裸、見せなきゃなんないのよ」
「なっ、だ、誰も惣流の裸なんか!」
少年の言葉にアスカの顔が曇る。
「なんか、ねえ。 ふーん…」
少年は慌てて弁解する。
「え、いや、そう言う訳じゃ」
しかし、それに頓着する事無く、アスカは柳眉の間に皺を寄せながら言い放つ。
「どうでも良いわよ、そんな事。 ほら、行きなさいよ」
少年は抗う術を持たず、猫背になりながら通路を歩いてゆく。 と、再びアスカの声が狭い空間の中、反響する。
「どうしたの、シヲリ? そんなに自分の身体見て」
その声に、何と言う事も無く少女が答える。
「うん。 もうちょっと胸、大きくならないかな、って…」


「…へ?」
予想外の事に面食らったアスカの声音に、少女も気付き、漠々としていた感情をアスカへと向ける。
「あ! いや、えっと、そんなんじゃ、そんなんじゃないよ! うん!」
「あ、ああ、そうよね…」
少女の否定に、アスカの視線は離れる。 そして、少女は再び己の肉体を覗き込む。 辛うじて膨らみかけた胸と、未だ疎らに生えているだけの陰毛。 少女の元々少ない皮下脂肪と相まって、脇腹に肋の形がはっきりと見える程だ。

だがしかし、その胸は既に痺れるような悦びを感じる事ができ、その秘部は男を受け入れる準備が整っている。 蒼き果実に見えるそれは、既に熟れているのだ。 それを知る者は少年と少女、カメラ越しに視ている者達、そして―
「……っ」
アスカしか居ず、に。

「どうしたの、アスカ。 体温上がってるわよ?」
何枚もの鉄扉で遮られた向こう側からミサトが発した声が、アスカへと届く。
「な、何でも無いわよ!」
そう言うとアスカはその白く、長い脚を誇示するかのように大股で向かい側に有るドアへと歩いてゆく。
「あっ、待ってよ」
少女と、そしてレイが五歩程遅れて続く。 少女はアスカの紅く、長い髪の隙間から見える華奢な背中と、レイの青白く、だが艶やかな乳房から臍にかけてのラインに見惚れ、そして嫉妬した。 それは、少女自身意識はしていないけれど、“女”としての己と比較していたから。


少女は、流れゆく河が長い年月をかけてその流れの形を変えてゆく様に、少しずつ変わってゆく。




四体並べられた模擬体の中に、少女達は居る。 いつもと違うエントリープラグの内部、そして奇妙な感覚に戸惑う子供達。


再び―少女にとっては、だが―それは、起こった。
「くっ、あああああっ!」
だが、それは蒼い髪の少女、レイにでは無く、少女に。
激烈な痛みが右腕に奔った瞬間、少女の身体は誰かしらに乗っ取られた。 自身が意識しない方向へと身体が動かされる苦痛。 肉体的でもあり、精神的でもあるその痛みに少女は、マリオネットは呻吟する。
「嫌、嫌だよ、やめてよ、苦しい、よ…」
その呻きは狼狽している大人達には届く事無く、子供達だけに聞こえる囁きとなって。
「シヲリ、どうしたの!?」

少年の声が聞こえたような気がした瞬間、模擬体の右腕は引き千切られ、少女は意識を昏い淵へと落とした。





真っ白な天井、そして無機質な灯を提供している蛍光灯。
「んっ…」
少女は目を覚まし、此処が病院で有る事を認識する。 曖昧模糊とした意識の中で、自分の身体を嬲られた事を思い出し、鳥肌を立てる。

右手を動かしてみる。 どうやら、もう大丈夫なようだ。
その時、空気音と共に病室のドアが開かれる音を少女は耳にした。 そこから入ってきたのは、綾波レイ。
「あ、綾波…」
「もう、起きたの」
度を失った少女の声にも平静さを失う事無く、レイは淡々と話す。
「う、うん。 今起きたんだ」
「そう、良かったわね。 じゃあ」
そう言って回れ右をし、すぐに病室を出て行こうとするレイに首を傾げながらも、少女はレイの制服の背中に声を掛ける。
「あ、あのさ綾波! その…、お兄ちゃんと、アスカは? どこに居るか、分かる?」
レイは振り返り、ほんの少し、そう、驚くべき事に、僅かに呆れた表情で答える。
「そこ」
レイの視線を追う少女。 其処には人間がその上に乗っている丸椅子が二つ有った。 規則正しく両肩を上下させている少年と少女。 どうやら、彼らは寝ているらしかった。
「ずっと居た、貴方が此処に運ばれてから」
涼やかな声が響く。 少女は、若草の匂いの様な感情を胸に抱える。
「そうなんだ…」
「じゃあ、私、行くから」
「あ…」
今度は振り返る事無く、レイは病室から去った。
「ははっ…」
少女は微笑む。 二人の気持ちが、嬉しかったから。


レイは真直ぐ前方だけを見つめて、視線の先に有るエレベーターへと向かって歩いている。

彼女の赤くなった右手には、冷水で絞られたタオルが有った。






<前へ> <目次> <次へ>