未来の過去、過去の未来

13話 激情







その日、委員長、洞木ヒカリの行動はどこかおかしかった。 朝のホームルームでの号令を忘れたり、また授業が終わった後黒板を掃除することを忘れて―そもそも、これらの仕事はその日の日直がやるべきなのだが―いたり。

それを、彼女の親友だと自負しているアスカが気付かない道理はなかった。 昼休み、アスカはヒカリに尋ねる。
「ヒカリ、今日はどうしたのよ? 身体の調子でも悪いの?」
その言葉を聞き、ヒカリはその大きな黒い瞳を更に拡大させ、雀斑の浮いた頬を赤くさせながら答える。
「う、ううん! そんなんじゃないけど…」
溜息を吐く。
「そんな顔で“そんなんじゃないけど…”なんて言われたって嬉しく無いわよ。 んで、どうしたの? 言ってみなさいよ」
「え、でも、気分悪くするかもしれないから…」
「良いから! 聞かない方が気分悪いわよ」
その声に観念したのか、ヒカリは箸をつけたままになっていた卵焼きから手を離し、アスカの弁当箱に視線を乗せながら、言う。
「あのね…。 アスカ、週末に遊園地行きたくない? チケットが有るんだけど…」

ヒカリが鞄の中からチケットを出した瞬間、アスカは身を乗り出し、ヒカリの目の前、息がかかる距離まで顔を近づける。
「何それ!? 行く、行くわよ!」
「そ、そう? 良かった…」
ヒカリは胸を撫で下ろす。
「なんだ、こんな事だったらもっと早く言ってくれれば良かったのに。 チケットって二枚だけなの?」
その言葉にヒカリは動きを止め、自身の、制服のスカートで半分ほど隠れた膝頭に目線を向けて、小さな声で言葉を紡いだ。
「…う、うん、その事なんだけどね、一緒に行くのは、えーと、その、私、じゃないんだ…。 あのね、コダマお姉ちゃんの友達みたいなんだけど、あの、そのね? わ、私がお姉ちゃんにアスカの写真を見せて、で、それをその友達も見たみたいで、で、あの…デ、デートしてみたいって…。 わ、私はダメだって言ったんだよ! でもお姉ちゃん聞かなくって、で、アスカに一応聞いてみようかな、って…」
あたふたと説明するヒカリ。 アスカは、椅子の背凭れに身体を預け直し、答える。
「その友達って男なんでしょ? なら私はパス。 いくらヒカリの頼みでも聞けないわ」
「や、やっぱりそうよね…。 うん、変な事聞いちゃってごめんね?」
「良いわよ、別に。 それともお姉ちゃんに何か弱みでも握られてて、断れないとかでも有るの?」
「ううん、別にそんなんじゃないから大丈夫―」
ヒカリはそう言った後、教室を見渡し、昼食を食べている双子に目を向けると、
「―碇さんも、やっぱり無理よね…」
と誰に言うとでもなく呟いた。
「碇さん、ってシヲリ!? シヲリの事も知ってるの? そいつ」
しまった、といった表情のヒカリだったが、数瞬後、観念したのだろう、口を開く。
「う、うん…。 その見せた写真っていうのが、アスカと碇さんが写ってた奴だったから」
「そう…」
アスカはそう言って腕を組み、考えに耽る。

「あの…、アスカ?」
数十秒後、空白に耐え切れず、ヒカリがアスカに声をかける。 その瞬間、音が出る程の勢いでアスカが顔を上げた。
「行くわ」
「へ? ア、アスカ、どうしたの?」
「遊園地、行っても良いわよ―」
そしてアスカは口の端を歪め、
「―但し、シヲリも連れて行くけど」
と言った。




目の奥から頭の裏へと通り抜けて行くような鮮烈な空の青。 暑い、けれど湿度が少ない所為だろうか、それ程外に居るのも苦にならない。 それは今日が平日ではなく、そして、今居る場所が遊園地であるからなのかもしれなかったが。

「ねえ、ほんとに良かったの? あの人置いてきちゃってさ…」
少女は後ろをしばしば振り返りながら、アスカに問う。
「良いのよ、あんな奴。 大した奴じゃないし。 私達の私服が見られただけでも感謝して欲しいくらいよ。 それとも何? シヲリはアレ、気に入ったの?」
「いや、そんなんじゃないけど…。 ……後、この服さ、やっぱり変じゃない? 何か皆に見られてる気がするんだけど」
「此処まで理解力に乏しいってのも、ある意味貴重よね…」

アスカはそう言うと、呆れた顔で少女を見やる。
黒髪、黒い目、白い肌に、薄水色のワンピースが映えている。 足には銀色のアンクレット、そして麻のサンダル―全てアスカの物だが―。 深窓の令嬢の如き装いは、しかし少女の纏う雰囲気にそぐわっていた。
まあ良いか、とアスカは呟き、少女に声を掛ける。
「まさか此処にいつまでも居るわけにも行かないから、さっさと出ましょ」
少女の汗ばんだ手を取り出口へと向かう。
「え、あ…」
少女は赤面し、繋がれた手を見つめながら歩くほか無かった。




少年は立っていた。 灰色の石と空虚な空気の並ぶ墓地に。 母の顔など、覚えていないのに。 父の顔など、見たくは無いのに。 けれど、少年は父と共にそこに居た。 生有る者は少年とその父、二人だけで。 名も知らぬ死者の視線が、少年には痛い程感じられて。


「なんで、シヲリは誘わなかったの?」
少年は父へ問う。
「必要が無かったからだ」
「どうしてさ! シヲリは僕の妹でしょ?」
言い縋る少年に、ゲンドウは答える。
「あれは…、そうだな、いずれお前にも解る」
「何がさ!? 父さんは何が言いたいの?」
少年は憤る。 その行動は第三新東京市に来たばかりの頃の少年には望むべくも無い事で、それ自体が少年の成長を表しているのかもしれなかったけれども。

しかし、その成長に大人は気付く事無く。 ゲンドウは、少年に背を向け、上空より現れたVTOL機へと歩いてゆく。
「父さん!」
舞い上がる砂埃に吸い上げられたその言葉。 だがそれは、VTOLの中、分厚い窓越しに外を見ていた少女、綾波レイには届いた。


「碇君」
そう言って、レイはゲンドウと擦れ違いに外へ出る。
「レイ…!」
去って行く制服に、ゲンドウの言葉は届かずに。



「綾波…?」
近付くヒトの気配に振り向く少年。 果たして其処には、蒼髪の少女が一人佇んでいた。 VTOLの音はもうしない。
「どうして?」
少年が墓に向き直り、つまりレイに背を向けて言う。
「分からない」
珍しく―と言うよりも少年は初めてなのだが―戸惑っているレイの声に、少年は振り返り、そして、午後の快晴を見上げながら微笑う。
「母さんもきっと喜んでるよ、ありがとう」
自分自身にも分からずに此処へと来てしまったレイも、それで少し救われたのかもしれない。
「そう」
そっけなく答えるレイの顔が、僅かに柔らかみを帯びたような気が少年にはしていた。




「しかし、今日は失敗だったわね」
遊園地近くの喫茶店。 アイス・アールグレイの柑橘系の香りと、冷たい喉越しを感じながら、アスカは口を開く。
「…うーん、やっぱりあの人可哀想じゃない?」
「だからって今更戻るわけにもいかないんだから、気にしたってしょうがないじゃない」
「まあ、そうだけどさ―」
少女は白いカフェオレ・ボウルを弄びながらアスカに問う。
「―でもさ、何でボクも連れて来たの? 誘われたの、アスカでしょ?」
「教育するためよ。 いい加減ブラコン止めなさい、アンタ。 無理に好きな人を見つけろなんて言わないけどね、“お兄ちゃん”から離れないと、ヤバいわよ、ほんとに」
「そんな事言ったって…」
アスカにも、レイにも、そして“兄”にも言えない秘密が有るのだから。 少女には。


「あ…」
その時、少女は見つけた。 所在無さげに立っている一人の線の細い少年。 少女の半身を。
席を立ち、少年へと向かっていこうとする少女の腕を、アスカが掴む。
「アスカ、何で…」
「っ…! ちょっと待ちなさい! 良いから、座って」
懸命なアスカの眼に少女は吸い込まれ、だが、一度、ただ一度だけ、ガラスの向こうを覗いてしまった。


そこには、少年と、蒼髪の少女が、居た。
「あっ、ちょっと…!」
緩んだアスカの手を解き、少女は外へ出た。



それは激情、だったのだろうか。 アスカには判らず。 ただ、其処に居て、透明なスクリーンに映し出される光景を見る観客にしか、彼女はなる事が出来ずに。

少女。 その動き出す手の平。 蒼い髪、その下の赤い頬。 怒鳴る少年。 遠ざかって行く二人。


そして、其処に居るままの少女。


噛合わぬ歯車が、動き始める。






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