碇家別荘のある寺泊の近くの海岸。

 僕と明日香は裏山に登って歩き出した。あの頃は随分遠くまで来たと思っていたが
今になってみればほんの1、2kmの道でしかない。僕らの秘密基地はそこだけが丸く
クレーター状に丸い輪のような痕跡を周囲に残し、すっかりなくなっていた。そして
細かく柔らかい芝が其の地をびっしりと覆っているだけだった。

その地の中心に幹の半分が真っ黒に炭化したまま樹液に埋もれて苔むし、半分は健康
な幹を持つ楠の大木が葉を茂らせていた。

ここにあの可哀想な娘と獣が今も眠っているはずだ。もしかしたらあの二人はと思う
と、何か胸の奥が掻きむしられるような気持ちが湧き出てくる。
秘密は今でもまだ僕らには知らない所に埋もれている。どんな事であれ、それを受け
入れなくてはならない時が来るかも知れない。その時はきっと明日香と二人でそれを
受け止めよう。明日香とだったら、きっと何とであっても恐ろしくはない。
あの時何か不思議な感情に突き動かされ僕の処に飛び込んだと明日香は言っていた。
それが僕らの古えの魂だとしたら、その魂も一緒に救い上げてやりたいと僕は思う。

明日香は進み出ると花を飾り、僕は2束の線香に火をともした。
香しい薫りと、細い煙りがそこら辺に流れていった。


「おやすみ、可哀想な人たちと、可哀想な『獣』。」


僕が手を合わせたのを見て明日香もそこにしゃがみ込んで手を合わせた。
蝉の声がやかましい所だったがとても静かに感じられる場所だった。


夏休みも終り頃。
親父に許された別荘で暫く暮らしていた僕らはこうして名賀尾市に引き上げた。







彼女は魔物?外伝(上巻)

夏の終わり
/白銀乃森に虹が立つ時
           

KOMEDOKORO / PENPEN










「明日香、明日香!」


日本の北東部、海に面するN県名賀尾市。ここに碇慎二と惣流明日香の二人、その弟
小丸、そして青葉茂と摩耶の夫婦が一緒に住んでいた。

彼等はごく普通の家族として、この街のはずれにある水田に囲まれた小さな住宅街に
住んでいた。だが彼等には誰も知らない大きな秘密があった。そう、アスカと小丸は
この日本に昔から住まう金毛碧眼九尾の狐の一族。青葉と摩耶はその眷属。そして、
その妖狐一族が仕え、忠誠を誓う人間の血脈たる碇家の当代が、このどこにでもいそ
うな冴えない少年碇慎二(17:県立名賀尾高校2年)なのである。碇家の長男は17の
誕生日を持って狐の主人になるなんて事を一体いつから延々と続けてきたのだろう。
その事に何かメリットでもあったのだろうか。少年が自分のごく平凡な父母を観察する限り
とてもそうとは思えなかった。

ただ一つだけ、延々と続く定めの中で今までと違ったのは、今回仕える狐は見目麗し
い美しい少女であり、二人は恋仲だと言う事だった。


「何、慎二?」


目を擦りながら起きて来たのが惣流明日香(16:県立名賀尾高校2年)である。少し
大きなワイシャツを寝間着代わりに羽織っている。すらりと伸びた健康的な太ももが
なんとも色っぽい。赤金色に流れる長い髪の上にはぴょこんと大きな狐の耳が立って
いる・・と言いたいところだが、まだ寝ぼけ眼(まなこ)なのか片方の耳は中程から
折れている。





「ああもう、また僕のスクールシャツを寝間着に使って。ダメだって言ったろ。
女の子臭くなっちゃって困るんだよ。」

「嘘、人間の嗅覚はそんなに敏感じゃないわよ。わかりっこないって。」


実はアスカの匂いがぷんぷんして辛いのは慎二自身なのだが、仲間内には本当に、
女臭いぞ、なんて言って、クンクン嗅いでくる級友も実際いるので油断はできない。
カッターシャツは2枚しか持っていない。かわるがわる洗って着ているのに、乾いた
ばかりの物を女の子が着てしまうので、結局朝それを取り上げて着るしかないのだ。


「人間は個人差が多ございますから、明日香様も少しは慎二様の事を気遣って差し上
げなくては。」


摩耶がやんわりと慎二の味方をしてたしなめる。


「わかったわよ。そうまで言うなら今すぐ返すわよっ。」


言うなりワイシャツを脱ごうと裾から一気にめくりあげる明日香。少々小柄だけれど
抜群のプロポーションだ。青みがかって見えるほど白い腹部と、丸い乳房の下半分が
むき出しになる。その上現われたショーツは一体この田舎で何処で買ってくるのだろ
う、ピンクのイタリアンレースの極上品。妖艶このうえない。とても一介の高校生に
耐えられるものではない。


「わ、わぁあああーっ、隠して隠して−っ!」


思いきり取り乱した慎二が、顔を背けながらもテーブルクロスを掴んで突進してくる。
そのままアスカに飛びかかってクロスで身体をくるむ。


「きゃあっ。」


どたどたっとアスカとシンジは襖を倒して畳の上へころがりこんだ。


「な、なにすんのよっ!」

「ア、アスカが悪いんだろ!こんな所で服脱いで!」

「何言ってんのよっ、あんたの前で裸になった事なんて何回もあるじゃないの。」


そう、その度に少年が風呂にひっくり返ったり、鼻血を吹いたり、歩けなくなったり、
あまつさえ一人で出しっちゃったりした事を、この娘は全く気付いていない。狐達に
とって子作りは神聖にして使命的なもの。恥ずべき事は何もない。ましてや明日香は
慎二の子種が欲しくて仕方がないのだ。全力を上げて、月の満ちた晩には慎二を
誘惑しに来る。今のところ慎二の強い克己心によって、成功を阻まれてはいるが、
慎二の父に言わせれば「狐の誘惑に人間が耐えられるはずがない。」と言う事だか
ら、それとて時間の問題なのかも知れない。


「頼むから、急にスカート脱いだり素っぽんぽんになったりしないでくれよぉ。」


泣きの入る慎二の日常なのであった。意気軒昂な男の子としては身が持たない。
それなのに明日香は狙いすましたように「午前7時の健康な朝の太陽」を元気一杯に
握りしめているような時に限って慎二の部屋にやって来て布団に潜り込んで来たり
豊かな胸に顔を抱え込んだり、目の前で着替えたりするのだ。
誰か何とかしてくれぇ!


「で、何か用事があったんじゃないの?」


約束をさせられるといろいろ面倒なので、明日香は強引に話を変えた。次の満月まで
7日。今度こそは交尾に成功しないと、この秋までの受胎シーズンが終わってしまう。
どうやら明日香達、金毛碧眼九尾一族の発情期は他の狐達とは違い、短くて繁殖力も
低いようだ。他の狐達の家族は大抵10匹以上の大家族なのに、明日香の家つまり天狐
群雲乃越早風白銀乃滴(てんこむらくものこしのはやかぜはくぎんのしずく)の子供
は僅か2尾、明日香と小丸だけ。

まして人間の子である慎二とでは、まともに子供が作れるとは思えなかった。

「(明日香の真の幸せってやっぱり妖狐同士で結婚する事なんじゃないか)。」

などと健気に考える慎二。彼が明日香の誘いに簡単に乗らないのはそういう愛ゆえの
悩みもあっての事なのだが。肝心の少女には欠片ほどの迷いもないのであった。


「用事があったんじゃないの?」


そう明日香に言われ慎二はやっと最初の用事を思い出した。その間にも明日香は慎二
の目線を意識しながら、ショーツとお揃いの、ピンク色のレースのブラジャーを身に
つける。見えていても見えない振り。何気ないふうで慎二は立ち上がった。


「そうだったそうだった。」


慎二は棚の上から、母から来た小包を降ろして明日香に見せた。
その箱の宛名書きは「碇明日香様  唯。」
手紙が添付されており「明日香さん。これをお父様にお届けして下さい。」との母の
伝言が入っていた。また親父が何か陰謀を企んでいるな、と慎二には思えたのだった
が、その宛名書きを見ただけで、明日香の警戒心は簡単に吹き飛んでしまった。


「きゃーっ!きゃあきゃあきゃあ、見て見て摩耶!『碇 明日香様』だってぇ〜。
でへへへへぇ。」


変だぞ明日香。真っ赤になって照れたり笑ったりしながら部屋中をごろごろ転げ回っ
ている。怪しい小包だから注意しなよ。なんて言ったら、顔中に縦横(たてよこ)に
みみず張れができかねないって言うか、確実?母さんは何を考えてこんな事を書いた
んだろう。そう思いながら慎二は言葉を続けた。


「えーとね、それを急いで白銀乃滴神社のお父さん達に届けて欲しいんだって。」

「パパ達に?一体何が入ってるのかしらね。」


明日香は中を透かしてみようと妖力を使ってみたがどうしても見えなかった。どうも
その手の力が効果をあらわさないよう裏側に御符でも貼られているらしかった。


「ぜいぜい・・・結構警戒厳重ね。だめ・・・見えないわ。」

「絶対に覗くだろうと思われてるんだと思うよ。」


慎二が苦笑する。好奇心旺盛・・・つまりは知りたがりやの明日香を最もよく知って
いる人達がやる事に抜かりはないって感じだよね。と、慎二は思った。


「慎二はどうするのよ。」

「僕はこの後にもっと大きなものが届くからそれを持って来て欲しいんだって。」

「ふうん。ねえねえ慎二。この間買ってもらった自転車で行ってもいいかなあ?」

「山道だから、かえって大変だと思うけど。」

「じゃあ、神社の下辺りにおいて行くから。ね?」





「じゃあ、いってきまーす。」


お気に入りの赤いサイクリング車にまたがり、白い夏のセーラー服を翻して明日香は
出かけて行く。見送る慎二は何となく心配そうだ。

慎二と明日香がここで出会った頃、明日香はもっと毅然としていて人間嫌いだった。
そのため、非の打ち所の無い美少女で、スポーツも万能、優等生ぶりで構内でも異彩
を放ってはいたが明日香と積極的に仲良しになろうという人間はまずいなかった。
それは当然だろう。明日香は人間という種、そのものが嫌いだったのだから。見下げ
果てた、腐った種としか見えていなかったのだから。初めてこの地を訪れた慎二に、
道案内をしたのもほんの気紛れで親切にしたに過ぎなかった。自分に人間のふりをさ
せて人間の学校に通わせる両親にも不満を感じていた。明日香の容貌に引かれて言い
寄ってくる男達が精気を吸い取られて衰弱したり死んだりしても身から出た錆としか
思わなかった。(精気を吸い取らない事も意識すればできたのだから。)

慎二と付き合いだしてからは角がとれて甘い雰囲気になり、誰にも親切で良く笑う娘
になった。そのため女生徒達も彼女を仲間として受け入れるようになったし、男子達
は今までの反動のように毎日大量のラブレターを靴箱や机の中に忍ばせるようになっ
た。明日香がここまで人間嫌いになっていたのには理由があったのだがそれはまた別
の話で語るべき事であろう。


四角い荷物は持ちにくい。明日香がぱちんと指を鳴らすと箱は赤い風船になり、ふわ
りと宙に浮かんだ。それをハンドルに結わき、つい、と走り出した。舗装道路はすぐ
に終わり、でこぼこの土の道になり、またすぐに今度は川沿いのサイクリングロード
になる。雪溶けからずっと工事していて、ついこの間完成したやつだ。しかしこの辺
では実用自転車はあってもサイクリング自転車を持っている人は少ない。雪の季節が
長過ぎるからだ。
だからもっぱらここを使うのは夜の間さまよう獣達だった。妖狐達もここを走り抜け
る。恋仲の狐が並んで月を見る。その匂いが残っており、ここで昨日起った事が次々
と明日香の脳裏に再現される。一本杉の赤太郎は、アケビ森の椎名ちゃんに振られた
事。その椎名ちゃんは川向こうのシロに振られた事。シロは隣の家の加奈に子供を五
尾も産ませた事。森のカケスが葡萄を食わえて飛んでいく。そんなニュースを声高に
叫びながらセキレイ達がおしゃべりに夢中だ。気持ちのいい風が編み込んだ髪を吹き
流す。


ものの5、6分も自転車を走らせると神社の一番下の階段と鳥居が見えて来た。そこ
に門番のように立っている太いヒバの大木、明日香が近付くと、その大きな枝が放つ
冷やりとした霊気が身体を包みはじめた。胸一杯にその薫りを吸い込む。幼い頃から
それに包まれて育って来た白銀の滴社の神々しい精気。身体の中に溜まった人間界の
澱が洗い流されていくように思える清々しい青い大気。ニコニコしながらその門前に
自転車を停めようとした明日香の表情が急にきっとなると、そのまま彼女の姿が瞬時
に揺らぎ、すっとかき消えた。


ガシャーン。


自転車がゆっくりと倒れて大きな音を立てた。


ギャ!ギャギャーーッ!


そこを寝ぐらにしている青鷺たちが一斉に大きな鳴き声を立て、次々と飛び立つ。
風の切れる音が渦を捲き、梢の小枝や先端の葉がちぎれ飛ぶ。


キ---ッ!シュッ!シュシュシュッ!


鋭い金属音が走り、真空で空を真二つに切り裂く激しい風の衝撃音が飛び交う。
明日香の姿がバラバラに陽炎となって点滅をくり返すように連続して現れ消える。
その後を追うように雑木林の木々が裂け、倒れ伏していく。真空を飛ばしてそこに
ある物を切り裂く、半月と言う技だ。


「何者!」


明日香の激しい誰何の声が飛ぶ。その気合いは声を聞いているだけで頭がくらくらと
するほど激しい。明日香の放った殺気はそのまま鋭い氷の針となり周囲に飛散した。
その瞬間、風が突然凪いだ。鳥居の横木に伏せる明日香は息を殺し相手の気を量る。
右の頬にぴりぴりとした緊張を感じる。風の流れが消えている。何の匂いも嗅ぎ取る
事はできない。苦無を握りしめたまま耐えている。これだけの使い手は初めてだ。


「なかなかに素晴らしいわね。さすがに天狐の娘だけのことはあるわ。」


出し抜けに、耳もとで声がした。


「きゃんっ!」


吃驚した明日香は飛び上がって、ヒバの木の幹に飛び移った。
風が捲き、辺りに漂っていた気配が一ケ所に集中する。その集まった気配の影から、
純白の着物を着た明日香ほどの年頃の娘がこれも樹齢の高いブナの木に寄り添うよう
に姿を現した。





「あなた、そんなとこに貼りついていないで降りてらっしゃい。」


ゆとり十分な落ち付いた声。悔しいが自分との格の違いを認めるしかない。
明日香は幹を蹴ると身体を地面に落としヒバの根元に立ち上がった。
相手を見つめる。蒼銀の透き通る髪、真白な着物には、染み一つ付いていない。それ
どころか、息ですら毛ほども乱してはいなかった。それに対して明日香はべっとりと
髪を頬に貼付かせ、肩で息をしている状態であった。一瞬に変化させた戦闘着の袖を
この相手が放った長い銀の針が3本も貫いているのに気付いた。


(手加減されても、手も足もでなかった。)


その事が、この誇り高い金の少女をひどく傷つけていた。ようやっと、明日香は噛み
締めていた歯を緩め、蒼銀の少女に対して低い声を出した。


「私は、この地を治める天狐群雲越乃早風の一女惣流明日香。あなたは誰。」

「レイ。京都黒谷光明寺に住まう天狐が一族。天狐薄野原綾波漂風が二女なり。」


明日香は驚愕した。薄野原といえば天狐の集団の中で最も格式高く、高い妖力を維持
している葛葉一族であった。その長老は今だ九尾を維持しているとの噂がある程だ。
その直系が何故にこの白銀乃滴社にやってくる必要があるのか。


「あなたに会うのを楽しみにしていたのだけど。明日香。」


蒼銀のレイは、笑うと意外と人懐っこい顔をしていた。しかし騙しは狐の十八番だ。
油断はしない。明日香は表面上笑顔を返しながらも、いつでも攻撃できるように構え
ている。足下の小砂利が微かなうなりと振動を上げる。


「・・・なぜ。」

「東国に名を轟かす群雲の一族、名門惣流家の娘が人風情の情けを受けようと必死と
聞けば興味も湧こうというもの。当然ではないか。」


その自分を蔑み切った態度に、怒りでカッとなったまま叫ぶ。


「飛礫ッ!」


叫びの瞬時、礫が飛ぶ。凄まじい唸りと激しい音をたて、明日香の後方から無数の石
つぶてがレイに向かって銃に数倍する速度で鋭く叩き込まれた。背後の大木は悲鳴を
あげてそれを受け止める。本来ならばレイは血飛沫と肉片と化しているはずだった。
だがレイはそこに冷たく微笑んだまま存る。全ての飛礫は薄煙を上げ、背にした木の
幹に空しく食い込んでいる。

レイの左手がすっと上がると、猛烈な歓喜と熱が共に明日香を押し包んだ。
一瞬のうちに全身の血液が沸き立ったような壮絶なまでの歓喜が全身を貫き通した。


「はっ、うううっ!」


顔を歪ませたままそこにしゃがみ込む明日香。身体に力が、立っていられないのだ。


「下品な。そのまま悶えておいで。うす汚いさかり狐。」

「お、おのれっ。」


脂汗を流しながら近くの木に這縋り立ち上がろうとすると、ふわりと裾を閃かせた
レイがすぐ横に降り立った。


「その様でまだ戦おうとは。東国の狐はまこと猛々しいものよ。そのような姿態で
恋しい男の前でさかってみせたのか?」

「だ、だまれっ。」

「ふふん、口もきけぬようにしてあげる。」


明日香は真っ青になった。これ以上に術に掛かれば正気でいられなくなってしまう。
刀の柄に手を伸ばそうとしただけで、全身が反り返りそうになる。筋肉が痙攣する。
レイは屈み込むと、明日香の目をじっと見た。その目が真っ赤に輝いた。


「きゃううううーーーんっ!」


ざざざざっ、森の茂みを何か小型の獣が突き破って走り去った。







慎二は自分の部屋から東山連山を望み、明日香はもう着いた頃だなあと思っていた。
何となく出かけてからと言うもの不安が拭えないでいたのだ。


「もうしっ、慎二様っ。」


小さな声が聞こえた。サイドテーブルの上に胴の長い小さな狐のようなものがいた。
狐、ではあるが狐ではないような。これがもしかしたらイズナとか管狐とかいうもの
だろうか。体毛は狐のような明るい茶。いくぶん大きな白い耳は、ゆらゆらと陽炎の
ように燃えて輪郭がはっきりしない。尻尾も体長と同じくらいある様に見えるのだが
揺らめいて確認できない。全体の大きさとして親指の付け根ほどの太さで20cm位と
いうところか。そんなものが慎二を尋ねて来たのだ。


「これは、明日香様に仕える年経た管にてヨシキリと申すもの。姫様が助けを求めて
おいでです。マヤ様らと共に即私めと御出で頂きたし。」


悪い予感ほど当たるものだ。慎二は席を蹴って飛び出していく。


「摩耶さんっ、青葉さんっ、明日香に何かあったみたいだっ!」


階段を駆け降りながら叫ぶ。二人が飛び出してくる。


「慎二様ッ、姫様は社入り口の森に潜まれておりますが強力な敵がおります。迂闊に
近よれませぬ。」

「敵?」

「社にも管が数尾むかっておりますが。委細分かりませぬ。」


外に走り出した慎二は遠方に白銀乃滴社を伺う。深い森の中何も見える訳がない。
摩耶が声をかける。


「慎二様。今まで申し上げた事もございませんでしたが、あなたには我々とは違う力
が宿っておられます。明日香様を助けて差し上げて下さい。明日香様が苦もなく倒さ
れる敵となれば我等には如何ともしがたい敵かも知れませぬ。」

「僕に宿る力?そんな事言われても。」


そう言われてもう一度目を凝らすと薄ぼんやりとした桃色掛かった靄のような、泡の
ように光るものが森全体に掛かっている様に見える気がする。


「青葉さん。あの森全体に薄い桃色の泡の様なものが漂ってるの、見えますかッ。」

「いや、そんなものは見えないですが・・・。摩耶、お前は見えるか?」

「いえ・・・私も何も。」


目を細めて眺めながら摩耶も言う。


「いやっ、あるっ。確かに見えるよ兄ちゃん!」


いつの間にかガレージの屋根に飛び上がっていた小丸が、大声で怒鳴った。


「神社の入り口と鳥居辺りは、特に輝いているみたいに見えるっ!」

「小丸様は姫様と同じ御血筋です。確かな事と思います。」


ヨシキリが肩の上で囁いた。続けて叫ぶ小丸。


「あれって、結界ってやつじゃないのかな!バリアとかスクリーンとか言う。」

「山全体に結界が?それがもし本当ならとんでもない敵です。」


青葉狐の顔色が変わっている。
その時凄い音を立てて、真っ黒なスポーツカーが僕らの家の前に横付けになった。
中から飛び出して来たのは三本松神社の黒狐だ。


「おいッ、御当主さんよっ。宮と全く連絡が取れなくなっているんだが、どうか
したのか!俺のところにも5、6尾から問い合わせが来てるぞ。」

「黒狐。あなたには見えますか、白銀の山がすっぽりと薄靄のような障壁に囲ま
れているのが。」

「なにも・・・まて、鳥居の辺りだけはほんのりなにかあるように見えるな。」

「やはりその狐の『見通すもの』としての能力に寄るようです。」


ヨシキリが再び囁くと、クロが目ざとくそれを見つけた。


「待て!あんた葦きりの爺さんじゃないか。あんたがここにいるってこたあ、
おいっ。明日香になにかあったのかっ。」

「姫様は京都の天狐薄野原綾波漂風が二女、レイと言う娘と戦って力を封じられて
いなさる状態じゃ。皆の助けを求めておられる。」

「なんですぐ駆けつけねえっ。」

「慎二様と小丸様が山全体を覆う結界を認めていなさる。闇雲に突っ込めば我等も
助け出すどころか捕らえられる者が増えるだけだ。」


噛み付くように叫ぶクロに青葉が歯がみして吐き捨てるように言う。


「人数が集まればなんとかなるのか。せっかく『見通すもの』が2人もいるんだ。
少人数で結界の隙から潜り込んじまおう。結構隙間がある物だ、結界ってのは。」


結局クロの言に従い、偵察の為にも少人数で行く事になった。青葉、クロ、小丸、
そして慎二とヨシキリ。
摩耶は残って、市街地在住の狐達を集める事となった。宮に出仕しなくなったOBが
かなりいるはずだった。その方達の助力を求めるように頼んだ。
そうしておいて僕らは川向こうから続く連山の谷筋から白銀神社の崖下に出られる
竹薮の中を分け入っていった。




 明日香はとっさに身を翻して薮の中に飛び込み必死で走ったがもう限界だった。
身体全体が異様に熱い。走れなくなって倒れた途端に足から背中にかけてガクガク
と再び痙攣が走った。

「ぐっ、ぐぐぅぅぅ。気が変になりそうっ・・・!」

 口からだらしない声が漏れそうになるのを必死になって押さえ込んだが、その分
身体の中を狂気が走り回るように思えた。全身からどっと汗が吹き出し呼気がたぎ
る。心臓の鼓動がいつまでも収まらない。明日香は燃える身体を扱えきれず両腕を
腿の間に挟み込み、丸まってじっと嵐が通り過ぎるのを耐えるしかなかった。
 明日香の身体から流れ出る匂いに引かれるかのように、周囲を野狐達が取り囲み
始めた。欲望にギラギラと燃える雄狐の目、明日香は背筋の凍るような思いをしな
がら牙を向くと、低いうなり声を上げた。人間の形はとっくに捨てていた。
その様子を太い枝に腰を降ろし見おろしている薄野原のレイ。

(「これでいい。後は時間の問題。いつまで耐えていられるかしらね。術は次第に
あなたの正気を奪っていく。その時あなたが雄たちに掴まれば、あなたはもう只の
雌の野狐になってその子供達を産み落とす事になる。そうすれば、全てはまた最初
に戻って、白銀乃滴は再び長い眠りに付く。その方があなたにとっても、ずっと幸
せな事かも知れないし。」)

 飛びかかって来た最初の雄の足に噛みつき、身体全体をバネにして投げ飛ばす。
激しい悲鳴が上がった。今日は手加減無しだ。何としても自分を守って慎二の元に
帰り付かねばならない。一匹目を投げ飛ばした瞬間、大きな2尾目が背後から飛び
かかって来た。体を捻ろうとする間もなく、首筋をくわえこまれる。反射的に腰を
持ち上げそうになった自分に吐き気を憶えながらも、思いきりそいつの脇腹を爪で
えぐった。

明日香は笹薮がわずかに開けた所に転がり出た。むっとする臭気。そこには仲間の
妖狐達の骸が山積みになっていた。「ひっ!」あまりの事に思わず悲鳴が漏れる。
頭骸をまっぷたつに断ち割られ、そこから白い脳漿が溢れている者。半身が焼け爛
れて絶命している者。数人に一度に切り裂かれたらしい傷の生々しい者。半ば衣装
を剥ぎ取られ、首筋を噛み切られている娘。全身を礫でぐしゃぐしゃにされた兵。
他にも面白半分で殺されたと思われる小さな子供達、年寄りなどが塵のように投げ
出されている。足下の泥濘と思ったのは仲間達の血漿であった。白い靴下を履いた
ような明日香の四肢の先が赤黒く染まっている。血の気が引いた顔で、再び笹薮に
飛び込んだ。走る先にも、其処此所に点々と死体が散らばっている。

相変わらず雄狐達は強い臭気を上げて執拗に襲い掛かってくる。恐怖と屈辱と沸き
上る疼きの奔流の中で明日香の理性がこそぎ落とされていく。目が、霞んでくる。
強烈な雄の匂いがいつまでも鼻腔に残り、それが彼女の腰と四肢から力を奪い取る。
雌としての身体はとっくに準備が終って、その妖艶な匂いが遥か遠方にまで振りまか
れている。5尾目を突き倒し、6匹目の喉笛に牙を立てた。上がる悲鳴。
クマ笹の茂みの中を、もう方向も何も分からないまま闇雲に走り抜けていく間にも、 
さらに何匹かの雄の目を抉り、顔を蹴り上げた。息が切れ、身体中が悲鳴をあげる。

 ふらふらになった所に、横合いから10尾目に突き倒された。必死で振り返ろうと
してそいつの顔が見えた。雄狐は、美しい雌の両肩と両脚を押さえつけ、満足気に
明日香の顔を舐め上げ、金色に白い輪のような模様の入った柔らかい毛に包まれた
うなじと首筋をを甘噛みした。信じられない程簡単に全身から力が失われ、我を忘
れる程の安らぎが雌狐を押し包んだ。

 細かく震える自分の身体が勝手に交尾の姿勢をとったのがわかった。身体中が雄
を求め、交尾を求めて潤い切っている。雄を引き寄せる薫りが濃密に立ち篭める。
生気を吸い取ってやろうと思ったがそれすらできなかった。

慎二の顔が頭の片隅に浮かんだ。

狐の掟では、いったん番(つがい)となった2尾は一生を共に生きることになる。
例えどちらかが死んでも番の残り一方は生涯をただ一人で過ごす。

もう慎二には会えない。

そう思った途端、明日香は悲し気な声を精一杯高く吐き出し叫びを上げていた。
長い遠ぼえが終わり、明日香は最後の雄が後ろからのしかかってくるのを感じた。
美しい白端の尻尾が雄を迎え入れる為、背中に巻き上がる。そのまま頭の中が白く
溶けていくのを感じると同時に、明日香は正気と視野を徐々に失っていく。

「くぃ〜ん・・・。」

雄を迎え入れる雌、特有の甘い鳴き声があがった。
同時に、山の奥深い谷間にレイの忍び笑いの声が広がった。
レイは手の中で弄んでいた光の玉を消し、立ち上がって言った。



「これでいい。これで明日香は死んだ。只の野狐となって一生をこの森で幸せに送
るがいい。それがお前の幸せ。自然の中のありのままの喜びと共に地を這いずって
生きるが良い。」


次の瞬間、レイの姿は大木の梢に現れ、かき消えた。




「! いま、姉ちゃんの声が聞こえた!」


小丸がはっと目を上げて小さく叫んだ。


「どっちの方向だ。」

「わかんないよ。何か頭の中で聞こえたみたいだ。でも、待って。こっちだっ!
姉ちゃんっ!しっかりしろっ。負けんじゃねえぞッ。」


言うなり小丸は一人で一目散に駆け出した。一斉に後を追う大人達。


「いま俺が行ってやるからっ。」

「ま、待てっ!一人で先行するんじゃねぇ!何がいるか分かんねえんだぞっ!」

「大丈夫!姉ちゃんはこっちだっ!」


木の上から10頭ほどの明らかによそ者達が飛び下りてくる。革靴にえんじのタイ。
ダークスーツを着込んでいる。いかにも都会の狐と言う感じだ。小丸の身体はまる
で薄青色の弾丸のようにそいつらを全く無視して突き抜ける。一瞬遅れて慎二たち
が宙に浮いた。


「なんじゃああっ!そこどかんかいっ!」


クロが大声で叫ぶと同時に何の躊躇もなくそいつらに飛びかかった。あっという間
に、3人を殴り倒した。青葉も得意の足技で3人ほどを叩き伏せた。残りの奴らは
こちらが手強いと知り、とっさに道を開けた。そのまま突き抜けて小丸の後を必死
で追う。


「何や、もう終わりか?意外と手応えがなかったな。みんな急げっ。進むぞ。」


余裕のクロ。苦笑する慎二。こんなに派手にやってたら忍び込んだ意味がない。
空を見上げると黒い影が時々梢から梢へ飛び交っている。


「カラスじゃ。儂も本物を見るのは初めて。」

「カラスって?」

「鴉天狗の事じゃよ。西の狐はいろいろな妖怪の類いを使役しているとは聞いて
おったが、やはりあの薄野原の葛葉一族は本物であったな。」

「西の狐?」

「そうじゃ。薄野原一族っ。」


先頭を凄まじい勢いで走り続ける小丸。とても幼い風狐の早さではない。


「さすがは越の早風と謳われた天狐の息子だけの事はあるぜ。」

もはや付き走っているのはクロと慎二だけで青葉は脱落していた。ヨシキリも慎二
の肩に必死でしがみついているのが精一杯である。小丸は汗みどろになりながら、
叫ぶ。


「姉ちゃんっ!姉ちゃん答えてっ!」


 バチッ!


火花が散るような衝撃が頭に走った。霞が瞬間晴れたように現実を認識する。


  え?


今まさに雌狐の身体に刻印を押すため、雄の熱く滾った怒張が明日香の身体を押し
広げ、無理矢理侵入してきた瞬間だった。大人しくくわえられたままになっていた
頸を身体を振るって掲げ、四肢に最後の力を込め一気に立ち上がり、挿入に夢中に
なっていた雄狐を跳ね飛ばした。狐の交尾で、ここまで来ての拒絶は普通、ない。
雄狐は誇りを傷つけられ本気で怒りの牙を剥いた。明日香は思わず気押されて数歩
引いた。元来お嬢様育ちの彼女にしてみれば、こんなにもストレートな怒りを直接
ぶつけられるのは初めてだったし、今のいままで肌を合わせ、抱かれかけていた雄
への羞恥からの引け目もあった。雄狐から思わず視線をはずした瞬間、攻撃が放た
れた。飛び退った途端、明日香は明るい所に放り出された。


 しまったっ!


とっさに手を伸ばしたが、獣形のままでは何かを握るすべもなかった。また術を使
う力とて残されてはいなかった。雄狐が唖然とした様子で見送る姿が小さくなって
いくのがコマ送りのように見えた。


「きゃうぅぅぅーん。」


悲し気な声を上げながら、崖下に落ちていく明日香。この高さで術が使えなければ
悪くすれば死ぬ。ぎゅっと目をつぶった瞬間、明日香の尻尾を誰かが掴んだ。


「小丸っ。」「姉ちゃんっ!」


その小丸の尻尾を慎二が掴み、とっさに手繰り寄せ明日香の尾を掴んだ。その慎二
の足にクロがしがみつき全員の体重を支える。ずるずるっとその鎖が崖側に傾く。


「うわあああっ。」


赤いパネル状の透明な板が明日香の目前に突然展開された。明日香は思わずそれに
手を突く。パネルはしっかりと明日香の体重を支えると斜前方に持ち上がり、皆は
其れに連れてずるずると崖の上に折り重なって倒れた。


「た、助かったああ〜〜。」

「も、もうこんな事は2度と御免だぜ。はあっ、はあっ。」


激しく息をきらしてその場に仰向けに転がるクロと慎二。その向こうで固く抱き合
う小丸と明日香。小丸の身体から流れ出す膨大なエネルギーが明日香の身体に流れ
こみ、明日香の形が人の形に戻っていく。何もないところから現れた白布が全裸に
なっていた明日香の身体を包んだ。


「あれだけ走って、まだあれだけのエネルギーが溢れているのか、化けもんだぜ、
直系の男子ってやつは。だが、良いタイミングで目覚めてくれたもんだ。」


クロは、本当にへたばったと言う感じでひっくり返ったまま、喘ぎ喘ぎ言った。


「慎二っ。」


小丸を抱きかかえたまま、明日香が激しい声で慎二を呼ぶ。約束じゃ、僕が主人
って事だったはずだけどなあ、と苦笑いしながら慎二は身体を起こした。


「よかった、助かって。明日香。」


笑いかけた途端に明日香の顔がくしゃくしゃに歪んだ。見る見るうちに青い瞳に
涙が盛り上がったかと思うと、ばらばらっと大粒の涙を撒きながら、顔を振った。


「あたし、あたしもう慎二といられなくなっちゃった。ごめん、ごめんねっ。」

「え、どうしたの。一体何の事さ。」


立ち上がった明日香はイヤイヤをするようにゆっくり顔を振りながら後ずさった。


「明日香。どうしたんだよ。一体何があったのさ。」

「西の狐達は、強い。そして何かを画策している。なり振り構わず、こちらを潰す
積もりよ。だから油断しないで。」


明日香の姿が徐々に半透明になっていく。


「明日香っ。何処行くつもりなのっ、明日香っ!」

「さようなら、慎二。あたし、あんたが好きだったんだよ、本当に。」


微かな呟きと共に、明日香の気配が消えた。


「小丸。姉ちゃんの跡を追えるか?明日香ってば訳のわかんない事ばっかり。」

「だめだよ。さっきは助けを呼ぶコールが出ていたんだ。今は何も呼んでない。
追わせまいとしてるんだ。僕には分からないよ。」

「慎二よ、そりゃあちょっとばかり、可哀想な言い方じゃないのか?」

「に、兄ちゃんっ!崖の下を見てっ!」


崖の下を流れる小さな川が真っ赤に染まっている。思わず走りよった後、すぐ横の
小高くなった場所に飛び移った。崖下には、数十匹の妖狐が胸や頸を切り裂かれて
死んでいる。よく見ると戦って死んだものだけではない。雌狐の中には自ら喉を剣
で突いた者や、抱き合って飛び下りたまま、死んでいる者もいる。雌狐のほとんど
は社殿の巫女達だ。すぐ上にある白銀の本殿は既に敵の手中に陥ちているらしい。

さすがにクロは明日香の身に何があったのか薄々気がついていた。辺りに立ち篭め
る明日香の体臭と雄狐の毛などが、もう成獣になって長いクロには何が起っていた
のかを十分想像させたのだ。そしてこの死体の様子。多くの雌狐達の切羽詰まった
死体の様子は我が身を侵入者に任せるを良しとしない者の死に方だ。あの気の強い
明日香が泣きながら慎二の元を去るのは、あの娘の身にも同じ何かが起ったと言う
事なのだろう。痛々しいとは思うし同情もするが、自分達で乗り越えられなければ
どうしようもない。今はただ、一緒に憂さ晴らしをしてやるだけだ。


「なんなんだ、これは。やられっぱなしじゃないか。術で応戦した跡がない。」

「おい。新手の御登場だぜ、当代さんよ。」

「ちょうどいい。むしゃくしゃしてるんだ。こんなひどい事ってあるかッ!」


 慎二がその辺に落ちていた小枝を拾って構えると、たちどころに周囲に現れた
障壁が、身体と小枝に纏わりつき赤い剣とボディアーマーを形成する。別にこん
な形をしている必要はないのだが、イメージを膨らませやすい方が初心者には扱
いやすいと言う事。慎二は其れを構えると、横になぎ払った。襲い掛かって来た
敵の一群10人余が、一度に吹き飛ばされた。


「こりゃすげえ。さすが当代様だ。この力は?」

「いや、以前しごかれた術が、大分使えるようになってたんだよ。」

「ああ、あの『刻の閉じた部屋』でやった練習か。そう言えばあんたはいい成績
だったな。潜在能力としては明日香といい勝負だった。こうなってくると小丸の
ほうももっと調べておくんだった。」


慎二はこの地に越して来て、初めて明日香と知り合い白銀乃滴神社を訪れた際、
約3ヶ月をその部屋で過ごした事があった。慎二自身の記憶には殆ど残っていな
いが、かなり激しい訓練を受けている。外の時間では一ヶ月だが、その部屋では
3ヶ月以上の時間をかけていろいろな訓練と狐の知識を詰め込まされていた。

巨大な球雷が落下し、最後の敵の集団は塵々に吹き飛んだ。小丸が、目を真っ赤
にして怒りに燃えている。こちらも桁外れな力だ。


「あらよっ!」


クロはそれでも飛び込んで来た敵をさばいて、首筋に手刀を打ち込んだ。敵は多分
最下層の隷属兵だ。口を割るのは容易い。大きく悲鳴を上げる。一種の降伏のアピ
ールとも言える。大っぴらに落ちれば味方の検分役に殺されかねない。こいつらに
とっては所詮無理矢理狩り出された戦いなのだから。


「ちょいと話を聞かせてもらおうか。」

「は、はいっ。」

「口をあけろ。」

「は?」


その途端にそいつの口に管狐のヨシキリが飛び込んだ。
3秒としないうちに一瞬濁っていたそいつの瞳に生気が戻った。


「やつらは昨夜遅くこの東山に入り今朝4時頃に我々の社と村を襲ったですじゃ。
社に仕えていた者は昼前には殆ど掃討を終っておるな。」


ヨシキリの説明にクロがイライラとして言う。


「それで天狐様達はどうなったんだ。」

「あの方達は、手厚く守られたまま山上の奥院に逃れたらしい。」

「明日香はそこに向かっているはずだっ。」


ヨシキリがその兵の乗っ取って話している。クロと慎二は行くべき道が分かった。
青葉もまた追い付いて来た。小丸は慎二の後ろに貼付いている。


「兄ちゃん、行ってくれるよね。」

「当たり前だろっ。僕に取ってだって親じゃないかっ。」


小丸が震えているのがしがみつかれた足から伝わってくる。


「ごめんよ、小丸。お前のほうが辛いよな。」

「兄ちゃんっ。」


小丸を抱き上げる。不思議と身体が楽になった。小丸の身体から未だ溢れている
エネルギーが流れ込んでいるのだろうか。


「行こう、山上の院に。」

「儂ゃあこのままで行きますわい。少しでも戦闘能力がありそうじゃ。」






山上の奥院の空は真っ黒だった。この辺りのフィールドは光透過性がないらしい。
その空に、鴉天狗と得体の知れない虫の群れが蠢いている。時々山上の院から放た
れる細い光はその者達にあたっても砕かれるだけだ。地鳴りがする。腹の底に応え
るような、陰鬱な旋律を持った響きが山上の院を押し包みつつあった。



「さすがは明日香だ。よくもあの包囲を突っ切って内廓に辿り着いたものだ。」

「はぁ、はぁ。どうでもいいわよそんな事。とにかく、水ッ、水頂戴っ!」


奥の院の内廓にやっと辿り着いた明日香を迎えたのは、夜遊び仲間の「赤毛」だ。
へたばり切った明日香は、荒々しく床に転がって激しい息をつく。


「はいッ、水ですっ!」


汲み上げたばかりの水が、桶ごと回されてくる。持って走って来たのはまだ小さな
子狐だ。それを受け取ると頭を突っ込むようにして、半分は水を浴びるように飲み
干した。















Kanozyo wa mamono. gaiden-1 / 27-April-2001


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