「一体どこが見えてるんだろう。」


僕は一瞬混乱し、そして次に、ああ、水が流れているのかと思った。
天井板の上を一面にさらさらと美しい水が流れている。涼やかな美しい水が部屋
いっぱいに広がって頭のほうから足元のほうへ向かって流れていく。清らげな水音
が身体の中を通りすぎていくように心地よい。そのまま少しまどろみ再び眠り込み
そうになって、はっと目が覚めた。


「え?」


起き上がった拍子に置き時計を蹴飛ばした。壁に当たって大きな音を立てたとたんに、
その流れは浸み込む様に消えた。静かな部屋の中に雨の音が微かに聞こえてくる。
雨が水を連想させ、そんな夢を半睡の中で見たんだろうかと思い、立ち上がった。
じくん、と足が痛んだ。










彼女は魔物?

明日香、花に潜むこと

writing / komedokoro
illustration / penpen



 

 







夏休み中に負った怪我は大体直ったのだが、右足だけがいつまでも良くならなかった。
縫った後がいつまでもじくじくと化膿を繰り返す。骨のひびも画像上は何とも無いのだが
足をついて暫くすると、じわりと我慢できないような痛みが湧き上ってくるのだった。
人間の医者には、もちろん理由が分からない。静かに人と同化して暮らす狐の医師も首をひねるばかりだった。
要はここを断ち割った力がまだ留まっているという事らしい。
毎日薬を張り替えるたび、明日香は京都へ戻っていった薫たちに文句をつぶやかずにいられない。
その度にぶつぶつ頬を膨らまして何かつぶやいている。僕はまだ若いし体力もあるし、直らないという事は
考えられないけどやはり不自由な事この上ない。
明日香にしてみれば近しい人間が痛みを抱えているという事自体、苦しいのだと思う。

「焦らなくてもそのうちなおるよ。」

「松葉杖つきつきよたよたしてる人が何言ってるのよ。あんたはお人好しすぎるんだわ。」

この所の秋の長雨は松葉杖をつく身にはつらい。明日香は大きなザックに2人分の教科書を詰め背負って歩き、
その横を僕はフード付きのレインコートを着、杖をつき歩いている。
車で送りましょうと青葉さんは言うのだが、毎日送り迎えというのもカッコ悪いじゃないか。
まぁ、それで結局明日香に頼ってれば世話ないとクラスメートには言われちゃうんだけど。
僕はディバッグを自分でしょっていくつもりなんだけど明日香が…あれ、これって自慢じゃないからな。

「なーにいってんのよ。カッコつけてる場合じゃないでしょ。第一、レインコートの下にバッグ
背負ったらノートルダムのせむし男みたいになっちゃうじゃない。」

そう言われて取り上げられちゃったんだ。実際医者にも適度に歩くのはいいけど重いものは
持たないほうがいいっていわれてるのも確かなんだけど。

雨の日の校舎は壁がびしょぬれになっていて気持ちが悪い。建物として粗悪品だからという仲間もいる。
ペンキが水気をはじいてしまうからだと言う奴もいる。まあこんな狭いところに、血気盛んな年頃の人間を
ぎゅうぎゅうに詰め込んでるんだから満員の電車みたいな状態になるのも無理はないと思う。
引っ越してくる前は満員電車で通学していたから、あれよりは、ずっとマシだと思っていた。
学校に着くと大きなため息をついて明日香はザックをすのこの上に降ろす。
そして上履きを取って並べ、ズックの靴紐を解いて脱がせてくれる。

「あ、ごめん。」

「いちいちあやまらないの。」

「うん、ごめん・・・。」

明日香はちょっとあきれた顔をして僕のレインコートも脱がせる。ザックからタオルを出して
濡れた僕の前髪や顔を拭いてくれる。まるでお迎えに来たお母さんと幼稚園児だ。

「いいなあ、碇くーん。お嫁さんに送ってきてもらったのお?」

毎度、冷やかす奴が現れる。その日もかなりしつこく冷やかす隣のクラスの奴がいた。
そいつの仲間らしき奴も一斉にはやし立てる。聞くに耐えない事を言う奴もいた。
あぶないなあ。
我慢して僕に上履きを履かせていた明日香がすっと手を伸ばしてそいつのふくらはぎを掴んだ。

ずだーん!

彼は、すのこの上に派手な音を立ててひっくり返った。いわんこっちゃない。


「おいっ、どうした。」

「貧血か?真っ青になってるぞ。」

「保健室へ運べ。」


明日香が僕と目を合わせてぺロッと一瞬舌を出した。明日香に生気を吸われたんだ。
まったく。こういう事が続いていたから明日香は以前遠巻きにされてたんだろ。


「明日香、あのさ・・・。」

「いいのよっ。少しは懲りればいいんだわ。それより床がびしょびしょだから気をつけて。」


彼女はかまわず僕の右の松葉杖を取り上げると肩を組んで支えてくれた。そしてそこにいた一年に声をかけた。


「あ、ちょっとそこの1年男子っ。」

「は、はいっ。」

「悪いんだけどさ、そこのザックとレインコート2年の教室前まで持ってきてくれるかな。」

「わかりましたっ!」


ちょっと脅えたような真剣な顔をして彼は僕らの荷物を持って後を付いてきた。
僕と明日香は教室が違うのだがそんな事はお構いなしに僕の席までそのまま行き、後ろで
ザックを捧げ持つみたいにしていた1年の子から教科書を受け取って僕の机の中へ入れた。


「じゃ、私行くから。しっかり学びなさいよ。」


そういうと1年生を従えたまま教室を出ていった。もう、自分で持てばいいのに。


「あんたばかあ?!レインコートは廊下のフックに掛けとくに決まってるじゃない。」


なんて声が聞こえた。正直言って、こういう状況では同じクラスでなくて良かったなと思う。
もし彼女が同じクラスだったらむちゃくちゃ構いに来るだろうから。
明日香が、あんなに母性本能が強い子だなんて思いもしていなかったよ。


「どうしたんや、ぼうっとしてからに。」

「あ、鈴原君、おはよう。いや、明日香って母性本能強いなって。」

「あんなぁ、あれは母性本能とちゃうで。あれはもろに愛情って奴やないんか?
そのくらい気付きや。」


鈴原君が頭を振りながら言った。そ、そうなのかなやっぱり。


「そうよ。大体あなたたち恋人同士なんでしょ。そのくらい気づいてあげなきゃだめよ。」

「せや。鈍感つうのは度を越すと罪やで。」


自分だって海に行くまで何も気づかなかった癖にと思ったけれど今は委員長とうまくやって
いるので、僕は何も言い返せなかった。それに周り中のクラスメートが肯いていた。
まずいなあ。
でもだからって何て明日香に言えばいいんだろう。


「その顔はだからってどうしたらいいのか分からないって言う顔ね。」


コクコクと僕は肯いた。さすがというかなんというか。夏休み中に告白をすませ合った2人はその辺、堂々たるものだ。
そうなんだ。僕は明日香の事好きだし、明日香が僕の事を好きでいてくれるのも知っている。
けどそういうことが日常のどういう事と結びつくのか、どういう態度を取ってあげればいいのかがわからない。
あれだけ派手に明日香がモーション掛けてきてるのに何故って思うかもしれない。
だけどそうだからといって明日香が僕のことを本当に好きなのかどうか、それが僕が一番不安に思っていることだった。
つまり・・・人間と妖狐の愛情の感じ方って違うんじゃないかって事なんだ。
明日香が僕を愛してる気持ちって言うのはいわば性愛とでもいうのか、子供の旦那候補としてであって、僕個人の心は、
二の次なんじゃないかとか・・・。
ちょうど女の子が男に対してこいつはわたしの身体だけが目当てじゃないのかってちょっと疑っているような感じと
似てるかもしれない。もちろん僕自身、明日香にあれだけ迫られてしまうと、愛情とかより目の前の明日香の身体に
くらくらっときて何回も抱きかけちゃったことあるし。それってどうなんだろうただの劣情なのかな。
トウジ達はどうやってそこを乗りきったんだろう。
(ついに最後の一線を越えた次の日に僕のところに来て、夜中まで何か難しい話をしていったけど、
あの時ちゃんと聞いておけば良かったな。)

その話を相談しようかと思ったところに先生が入ってきてしまった。


雨は昼を過ぎてもやまなかった。
大体は小糠雨というのか、細かい雨がまるでカーテンのように幾重にも重なって降り続いていた。
それが少し強くなったり雨音が聞こえるほどになったりする。
何かに雨粒が当たる音や木の茂みに落ちる音が混じってくる事がある。
外の音が吸い取られたように消えてしんとしている時もある。
いつもざわめきの絶えないこの教室が、通常の空間から外れて、違う宇宙に存在しているようだ。

ふとみると足元をひたひたと水が流れている。はっと目を上げたが誰も気が付いていない。
せせらぎの音さえ聞こえてくる。水は少しづつ増し、くるぶしの2、3センチ上の辺りに流れがある。
誰も何も言わないところを見るとやはり僕一人の幻覚であるらしい。それがふっと消えた。
教室はまだ静まり返ったままだ。その静寂の中に先生の声とA組の教室でリーダーを読んでいる声が聞こえている。
その声に耳を澄ます。良く通る澄んだ声。凛として張りのある美しい声。
ああ、これは明日香の声じゃないか。こんな遠くからでもわかるんだね。
ぼんやりとその明日香の声を追っていると終業を告げるチャイムが鳴った。

帰りも明日香と一緒だ。朝と同じ格好で並んで歩く土手の上の通学路。
朝は気づかなかったけれど、明日香はかわいらしい淡いピンクの長靴を履いている。
ちょっと迷ったけれどその事を口にする。

「明日香、その長靴かわいいね。良く似合うよ。」

明日香は、意外な事に少し頬を染め、嬉しそうな目をして僕を見た。

「そう? ちょっと子供っぽいかなって思ってたんだけど。あたし、長靴って好きなのよ。水溜まりの
中も歩けるし、それに音がいいでしょ。ほら。」

明日香の足元から歩を進めるたびに、きゅ、きゅっと音が聞こえる。

「傘も同じ色なんだね。」

「一緒に買ったの。」

実際その上品なピンク色の傘をさすと、金髪と青い瞳が良く映えてとてもきれいに見えた。

「明日香の髪と目が、とてもきれいだよ。」

「そう。・・・ありがと。」

明日香の頬がもう少し赤くなった。いつもの明日香じゃないみたいに照れていた。

「うれしい。気が付いてくれて。」

明日香は一歩前に出て、先に立って歩き出した。顔を隠したつもりなんだろうな。
そんな明日香の様子を可愛いと思う。
歩いている間に雨は小降りになり、やがて雲が切れ煙るような中から山が姿を現し始めた。
澄み渡った空気がくっきりとした山の輪郭を見せてくれる。と思う間に青空が現れ日射しが差し込む。
名賀尾市の天気は急変する。山が近く周囲を囲まれている所為だろうか。
森や水田の稲がきらきらと水滴を輝かせながら揺れている。
吹き込んできた風が水田を渡って行き、見渡す稲の上に風紋となって見える。
山を越えて来た、冷たく乾いた涼やかな秋の風だった。
明日香が傘をたたみ、その風が金の髪を吹き流した。

「このまま少し歩きたいな。もう学校も終わったし暫くいいんじゃないかな。」

「そうね。」

明日香が手のひらから2、3枚の木の葉を散らすと、ザックは白い鷺に姿を変えて家の方へ飛んで
いった。同時に僕の身体がほんのわずかに浮き、足への負担が消え、松葉杖は小さく縮んで胸ポケットに飛び込んだ。

「ああ、楽になったぁ。」

僕は腕をぐるんと回した。ぽきぽきと音がするようだった。

「不自由でもああしてないと足がなまって筋肉が落ちちゃうからね。」

「全く意地っ張りなんだから。」

明日香は苦笑して僕を見た。
河辺に降りていく幅広の階段に腰を下ろしながら、

「わたしは逆に毎日重いの持ってるからムキムキ女になりそう。」

そう言って笑った。その横に腰を下ろすと明日香がちょっと身を固くする。
この道は結構この時間近所の人たちが通りぬける。狐もいれば人もいる。
僕の見る力が増すにつれ、実際には、狐だけではなくてウサギや鹿、蛇なんかも人中に時々混じっている事に気が付いた。
その事を殆どの人は自分でも気づかないまま暮らしている。
明日香とは毎日一緒に暮らしていて、きわどい事なんかもいっぱいあって、鼻血を出したり湯船でひっくり返ったり、
強引に迫られたりもしたけれど、最近急にそういう事がなくなってしまった。
そういう意味では何か明日香がよそよそしいというかそんな感じなんだ。
夏休みの終わりに父さんたちは僕らの昔風に言えば仮祝言をやるつもりで、その準備も進めてくれていたらしいんだけど、
例の関西勢とのどたばた騒ぎで流れてしまったんだ。僕自身もこんな状態だったし。
その頃からかな、明日香が妙に大人しくなっちゃったのは。

「姫さまもあれで女の子ですから。」

なんてもし明日香に聞こえたらぶっ飛ばされそうなことを言って摩耶さんはころころ笑っていたけど女の子のことって
正直言って僕は良く分からない。
それでも妙にしおらしい明日香を見てると何か胸がもやもやしてくる。
あの大騒乱の中でのひたすら明日香が恋しくて抱きしめてむちゃくちゃにしてしまいたいような荒々しい気持ちとは
たしかに少しちがうんだ。僕自身もちょっと変わったのかもしれない。

ふと気がつくと明日香が僕を見ている。


「なに?」

「え?やだ、ちょっとぼんやりしちゃった。」

「ぼんやり?」

「ううん。なんでもない。ただ、ちょっと眺めてただけ。」

「なにを?」

「だから…慎二をに決まってんじゃない。」

明日香は少し怒ったみたいにそう言った。

「え?なんでさ。」

僕は本当にどうしようもない鈍ちんだと思う。その時の僕はそんな事すら分からなかったんだ。
何か付いてるのかと慌てて顔を撫で回しりした。明日香はそんな僕を見て今度は笑い出した。

「一体何だって言うんだよっ。」

僕がむきになればなるほど明日香はおかしいって言ってくっくっと苦しそうに笑った。こうなると
明日香は止まらないんだ。

「いや、いや、慎二君。君は可愛い男だね。うん、うん。」

明日香は目にちょっと涙まで貯めて僕の背中をバンバン叩いた。痛いよ。
そして立ち上がると川縁の茂みに隠れてすうっと姿を消した。
僕は急いでその茂みに分け入って彼女を探したけれど、ソックス一つ残っていなかった。
その茂みの下から、鳩のような白い鳥が空に舞いあがった。

(注:ちなみに明日香の服は本物を着ているとき、それを砕くというか再構成して身にまとっている時、
さらに自前の毛を使っているときつまり服ごと化けているときとある。そういう時でも服を脱ぎ着したり
することはできる。つまり表面の組織を少し切り離す?のかな。毛や髪を最初から使ったりするらしい。
明日香たち妖狐はもとの形が狐という訳ではないらしい。じゃあ、人間の形を元々してるかとも思ったけど、
無防備なときの小丸なんかを見てると、どうも気が緩んでるときは人間の形に尻尾と耳が付いたような
形の物らしい。ただ妖力がまったくのゼロになると狐型になってしまうようだ。まぁ人間がぐてんぐてんに
酔っぱらうとサルみたいになるのと同じかも。)

僕は思わず、ぽかんと大口を開けたままその白い鳩のような鳥の後を目で追った。
鳥はぐるぐると頭上で何回も輪を描いた後、ぱたぱたと僕の肩に舞い下りてきた。
羽を一方づつ広げ、盛んに身繕いをしている。
川向こうの竹薮がざわざわと大きくしなって揺れた。竹の一本一本が狐の尻尾そっくりな形をしているので
まるで何十匹もの狐が潜んでいるようだ。

「明日香?」

ぐるっぽぽうー、とそいつは得意そうに鳴いた。

「明日香なんでしょ?」

「空を飛ぶと、細かいことなんかどうでも良くなっちゃうわねえ。」

頭の中に声が。

「動物の発声器官じゃ、しゃべれないのよ。」

「ふうん。」

「慎二、鬼ごっこでもしようか。」

「え、空飛んでるものなんか捕まえられないよ。」

「大丈夫、あんたの足はちゃんと固定してあるから。」

「そういうことじゃなくて。」

鳩は飛び立ったかと思うと高い空の上で旋回し、しゅーっと舞い下りて橋の向こう側の茂みに舞い下りた。

「そんな、わかる訳無いじゃないか。すぐ何かに化けちゃうんだろうし。」

そう思いながらも、僕は橋を渡るときょろきょろ辺りを見回した。がさがさとネムの茂みから何かが飛び出した。
白いウサギだ。まっしぐらに駆けたかと思うと、てーんてんと右左りに跳ねて土手の中腹に消えた。走り寄ると
小さなトンネル型の水門が隠れている。ぎりぎり僕が通れるような穴だ。向こう側に菊の茂みが揺れている。
この辺りで良く食べられているカキノモトという食用菊の畑が一面に続いているのが見えた。あっちに逃げたな。
何故だか僕はあっち側に明日香が隠れているという確信があって、そこの頭から潜り込み、匍匐前進の姿勢で、
ごそごそと進んでいった。中は雨上がりなのに不思議と乾燥していた。そこへちょろちょろと水が流れ始めた。
正面から透明なきれいな水がどんどん流れ込んでくる。急がないと。こんなところで溺れるのはごめんだ。僕は
ピッチを上げて流れに逆らって進み始めた。もう少しで出口だと思ったとたん、どっと音がして僕のちょうど足の
上にあった竪穴から大量の水が溢れて僕をすごい勢い出口から吹き出した。







ごろごろごろ・・・
僕は土手の中腹から水に押し出されるように噴き出されて菊畑に転がり落ち、花の中で悲鳴を上げた。
何でこんな目に会わなきゃいけないんだ。そう思って振り向くとそこには何も無かった。

「え?こ、ここはどこっ?」

僕は思わず跳ね上がって周りを見回した。広い広い、広大な草原に、真っ白の大きな旗のようなすすきの穂が、
一面に広がって風に吹かれて一斉に頭を上下させている。そして僕の転がっているところからは、純白や赤紫や
黄色の菊が、花畑になって絡まりあいながら広がっている。その菊の群れの中から小さな子狐がひょっこり顔を
出し、僕と目が合った。その子はびっくりしたように頭を引っ込めると、次には可愛らしい女の子の姿になって僕を
じっと見詰めた。どこかで・・・。

「お兄ちゃん、誰。ここには狐しかいないはずだけど。」

これは、忘れもしない昔の明日香じゃないか。僕の持っている記憶と比べると、いくらか大きくなっているようだ
けれど。赤い髪、青い目、白い肌の明日香は、不思議そうに僕をしげしげと見つめ花の中に再び身を伏せて2度
と出てこなかった。

「明日香、明日香なんだろ!戻ってきてよ。一体ここはどこなんだよ。どこへ行けば元に戻れるの?」」

遥か彼方で再び子狐が頭を上げた。

「そのまま真っ直ぐ大きな樹の方へ歩いていけばいいと思います!」

小学生くらいの子特有の義理堅さというか親切さというかそんな感じで明日香に良く似た子?は大きな声で応えてくれた。

「ありがとう!」

見回すと確かにずっと向こうの方に大きく枝を張った大木が一本だけぽつんと立っている。あの樹のことなんだ
ろうなと思い、僕はそちらに向かった。その樹は菊畑とすすきの原野のちょうど境目に立っていた。歩いても歩い
ても、なかなか近づくことができない。まるで近づいただけ逃げていくように思える。歩いていくうちにすっかり日
が落ち、まっくらになって、心細いことこの上ない。僕はとうとう菊とすすきの間にあった切り株にどっかりと腰を
下ろした。もうだめだぁ!

「きゃぁっ!なによ一体!」

小さな悲鳴を聞いて下を見ると、小さな明りが動いている。ほたる・・・にしてはずいぶん明るい。よく見るとどうも
人間の形をしているように見える。僕は思わずごしごしと目をこすった。これって、もしかして妖精って言う物かな。
名賀尾市に来てから、色々なことがあったからもうたいていのことでは驚かない。この時も想像以上にきれいな物
なんだなとしか思わなかった。

「ちょっと、あんたっ、あたしんちの上からその馬鹿でかい身体をさっさとどけなさいよね。」

「あ、ご、ごめんよ。」

僕は慌てて立ち上がった。妖精は鼻の先っぽまで舞いあがってくると僕を見て、どんくさいやつ、と言った。
彼女は10cmくらいの大きさで、薄い透明な羽をしていた。2枚の羽が付いているように見えるけれど、実際は
4枚羽で宙で浮くために2枚を高速で動かしていて見辛いようだ。4枚羽というとトンボの仲間?いや、こうやって
宙に止まるのはあぶだよな。でもあぶは2枚羽だし、すると蜂の仲間かな、刺す虫だったら嫌だな、なんて思わず
つぶやいてしまった。

「なんであたしが虫なのよっ。」

「だって複眼があるし。」

「これはね、丸い髪飾りでしょっ。ほら、顔はこっちよ。」

「ほんとだ。あ、明日香ぁ?」


その子はまた明日香にそっくりな顔だった。


「アスカってだれよ。あたしにはちゃんと、ルストフライム・ブロンディア−ナ・メルトマスマッハって先祖
代々の名前があるわよっ。」

「つまり・・・少なくとも刺さない訳だね、よかった。」

「あんた真面目に聞いてる?」

僕は笑いを押さえながらその子に謝った。
こんなとこまで明日香そっくりだ。彼女のミニチュアって感じだね。

「ごめんごめん。えーとルストフライムさん。」

「名前は真ん中のブロンディアーナよ。」

「ブロンディアーナさん。あの木のところまで行きたいんだけど、結構遠いみたいで困ってるんだ。
行けばいくほど遠くなる感じで。」

「ばぁか。あの木は人見知りするに決まってんじゃないの。この辺じゃ有名な話よ。」

ブロンディアーナはちゃっちゃっと手を振ってあきれたように言った。

「ええっ、そうなの。あの・・・木って動くの?」

「そりゃァ、何だって嫌なら動くでしょうよ。あったりまえじゃないの。あんた大丈夫?」

そうかな。何でも動くだろうか。わーっ、こんな事を真面目に考えるんじゃないっ。
少なくともこの世界では僕の常識は何の役にも立たないんだ。







<back><index><next>