夢を見ていた。


僕は、蒼く煙ったように見えるほどの巨木の間を走っている。
不思議な見たこともない大木の大森林。その一本の根元。
そこに、自分の巣穴がある。一日が終わると戻っていく所。

金色に輝く美しい狐が僕を待っている。その娘のために僕は帰る。
巣穴に飛び込み、ひとしきりお互いの顔を舐めあい、毛皮に鼻先を突っ込んで愛撫しあう。
甘く甘く、互いの手を、尻尾を首筋を甘く噛む。
恋人の可愛い牙が僕の首筋を刺激するたびに幸せに気が遠くなりそう。
誰にも言わない、この幸せ。
風に震えているウコギの葉にも、甘ずっぱい木苺にも誰にも教えない。
この娘と互いの尻尾にくるまれて眠る幸せを。

僕の全てと引き換えにしても、いつも僕の側にいるこの金色の娘を、守りたい。
月の晩は、二人でどこまでも歩いていく。恋をしてる夜は眠れないから。
銀色の細い三日月が美しい。恐ろしい鷹も、人間もいない夜。
明け方の星にやっと眠気が差してくる。
柔らかい落ち葉の積もった大きな葉っぱの下で、まるく巴字になって眠る。



またふたりで。



目を醒ましたら、まだ日が高いのに、明日香と手を繋いで眠っていた。
明日香のしっぽを枕にし 、腕枕をしている僕の脇の下に、彼女の顔が埋もれている。
安らかな寝顔。優しい香りが匂い立つ。


恋人といる時間は
どうしてこんなに
幸せに眠いのだろう


ぼくは、ずっと君と、こうしたかったんだ。




うねり立つ銀の波

written by こめどころ
painted by penpen





妖狐 惣流金毛明日香 16歳

県立名賀尾高校2年A組 31番

所属:飼育委員会/女子剣道部

名賀尾市麗沢2-7-328

父:天狐 群雲乃越早風白銀乃滴
(テンコムラクモノコシノハヤカゼ
シロガネノシズク)

通名:天狐 惣流白銀毛早風

母:妖狐 惣流白毛今日子

弟:風狐 惣流青銀毛小丸









現在、碇家次期当主碇 慎二の組役として護衛、青葉繁、麻耶と人間界に逗留中。
つい先日慎二と婚約したという未確認の情報がある。




このあたりには夜間の照明は殆どない。人工の照明が稲の生育にいい影響を与えないからだ。
夜の明かりは各家の門灯だけ。それも都会のように夜遅くまで出歩く習慣のない所であるから、家人が皆
帰ってくればふっつりと消されてしまう。街は午後9時ともなれば、闇に包まれて眠りに就いてしまったかの
ように静かになってしまう。
そして12時過ぎには盛り場までもが灯を落とし駅も国道も町全体がすっかり人気がなくなる。


碇慎二は転勤に振り回されて少年時代を送った。訳の分からない職業の父は、やたらと転勤が多かった。
東京に落ち着いたのは小学校に行きだしてからだ。そこは四谷の駅のすぐ近くだったから都市のリズムが
そのまま彼の生活リズムだった。東京が眠らない都市なのは今も昔もこの1000年来変わらない事だった。
半ば化石化した海の底に沈んだ無数のビル群が地上に林立していたころから、地殻変動を繰り返した後、
今の地勢に落ち着くまでの間、東京はずっと不夜城でありつづけた。そしてこれからもそうであろう事を
だれもが疑ったことはない。いや、この灯が消えない限り、日本というこの国、そこに住まう人間は、無事に
明日を生き抜いていける事を保証されていると信じていたのかもしれない。そこでは何もかも、学校さえもが
24時間開いており、自然の時間を拒む、自然とは無関係な純然たる人間のみのコロニーとして成立して
いる世界であった。東京とその思念とは、人間がすべてを支配し管理しコントロールする思念。
そうである事が、脆弱な人間がこの地球上に生存を許される唯一の道であると信じている思念であった。

全ての都会人がそうであるように、碇慎二も、もはやこの科学と文明の世界から、混沌とした下水道の中に
生まれた雑多な文化と利便性の高い生活から離れていくことは、もはやできないだろうと固く信じていた。

だが、彼は再び彼の父親によって11回目の引越しを経験することになる。
そこで彼は生まれて初めて、この日本という国には、人間以外にも独自の文明と文化を持つ、人間以外の
存在があることを知ることになった。



心奪われた、金毛碧眼の美しい少女。その少女は人間ではなかった。それでも慎二は、その娘を愛した。

まるでそのことが、遥か以前から決められていたことであったかのように、その少女を愛した。








少女は、月光の中を、白銀に輝くススキの穂が一斉に波打つ高原を、素晴らしいスピードで走っていた。
跳躍を繰り返すたびに、その金色の体毛がまるで光の尾を引くように輝く。

そこに横合いから、赤鉄の毛を持った若い狐が体をぶつける。
少女はとっさにその赤鉄の狐の頭を踏みつけ高く飛び上がった。長い高い跳躍。目の下に、彼女を取り囲
んで走っていた精悍な若者狐達が、呆気に取られたように目をみはっているのが見えた。
薄い囲みを突き破って、彼女はまたススキの穂の中に突っ込んで走り始める。若者達は必死で後を追う。
少女のスピードについてこれる狐は殆どいない。ここに集まっている
若者達はそれでも、奥山の彼らの集落からこのススキ野までを、遅れずについてこれた猛者ばかりである。
その若者達が、まるで手玉に取られているほどに、少女の脚力と跳躍力と身軽さは群を抜いていた。

そして、月光に輝くその優美な金毛の輝き、その美しさ。

若者達は、まるで夢と共に走っているかのように魅了され、少女をどこまでも追い続けた。

黒い影が飛び上がって、少女を押さえ付けた。先回りをしてチャンスを伺っていたのだ。
少女は鋭いうなり声をあげ黒い影を後足で蹴り上げながら身体を捻る。牙が黒狐の前足に食い込んでいる。
たまらず力を抜いて怯んだ瞬間に、金毛の妖狐はやすやすと彼の身体の下から抜け出して跳んだ。

ぐんぐんと素晴らしい速度で、走っていく少女。黒毛の狐はあきれたようにそれを見送った。
赤毛銀毛の他の仲間達が、後を追うが、こうなってしまってはもうだれも彼女に追いつけはしないだろう。
月に明るいススキ野原に、高い少女の笑い声がこだまして消えていった。


「やれやれ、またも明日香の一人勝ちか。」


少女の走り去った後をぼんやりと見送っていた黒い狐はつぶやいた。いつかは手に入れたいと願った金毛。
それは、いつも手に入れたと思った瞬間に、手ひどい反撃を彼に残し、笑いながら走り去っていく。
だがまだあきらめんぞ、と彼は思った。そして彼女の走り去ったのとは違う方向に向かって再び走り始めた。
狐の狩りは、いくつかの方法がある。いつかはあの少女を屈服させてやろう、と彼はその日を楽しみにして、
風の匂いをかぎ、少女の動きの方向を手繰った。



空には月。銀の星。その下に波打つ白銀色のすすきの穂波。ここは妖狐達の住まう国、白銀乃滴。









夜半に目を醒ますと、隣の布団に眠っていたはずの明日香の姿がなかった。
彼女のパジャマ(僕のスクールシャツだ)と、お気に入りの小さな下着が、そこに残されていた。


「こんな時間にお風呂? まさかね。」


そうつぶやきながら、僕は廊下に出て、向かい側の4帖半の襖をそっと開けた。
襖に直接、「小丸のへや」と、稚拙な字で書かれている。中を覗くと、小さな弟の姿もない。


「夜のお散歩か。しょうがないなあ。」


外は、こうこうと輝く白い月が輝いている。
人ならぬ身にはきっと素晴らしく魅力的な夜なんだろうな。もし、僕も彼女と同じ存在であったなら、
どこまでも走っていくのだろうか、明日香と。



東の空がほんの僅かに白み、朝の空気に変わりつつある頃。僕は二人を待って、コーヒーを飲みながら、
小さなスタンドの灯りで本を読んでいた。コトン、微かな音がした。高窓から外を覗くと、すらりとした美しい
金色の狐と、蒼銀のまだ子供の狐があたりをはばかるように、こっそりと勝手口の床下に潜り込んで行った
のが見えた。笑いをこらえながら、脱衣場の方に向かって足音を忍ばせて歩いていく。


「ほら、音を立てないようにしなさいよ。お風呂にゆっくり沈んで。」

「つめたいよう・・・。」

「仕方ないじゃない。派手に温泉を開けたら慎二が起きちゃうもの。あんただって怒られたくないでしょ。」

「いいよ、僕入らなくても。」

「そんな泥だらけのままで人間のかたちに戻ったら、部屋にあげないわよ。布団がたまんないわ。」

「だって、姉ちゃん達がおいてっちゃうから・・・・。」

「だからまだ風狐のくせに、私とくっついてこようとするのは無理だって言ったじゃないの。」

「だって、子供同士で遊んでてもつまんないんだもの。お姉は男の人に囲まれて気分いいだろうけどさ。」

「変なこと言わないでよ!まるで私が男遊びしてるみたいじゃないの。慎二に聞かれたらどうすんのよ!」


お風呂場の中で声を潜めて話しているのが丸きこえだ。笑いをかみ殺すのが大変だ。


「お風呂で騒いでいるのはだれだ〜。」


低い声で言ってみる。びくっと中にいる二人が固まったのが手に取るように分かる。


「明日香。かまわないからお湯を出してゆっくり浸かっておいで。誰も怒ったりしやしないよ。」

「あ、あ、あの。ごめんなさいっ。がまんできなくって。あんまり月がきれいで。」

「わかるよ。僕もさっきそう思っていたくらいだもの。さ、小丸をよく洗ってやるんだよ。」

「うんっ!」


僕が怒っていないのが分かって、明日香は明るく返事をした。すぐにどどど・・とお湯を入れる音がし始めた。
中では、あいかわらず小丸と明日香の掛け合い漫才が続いている。頭は洗いたくないとかシャンプーだけは
勘弁して欲しいとか。逃げ回る小丸を押さえ付けてごしごし洗っている様子とか。
程なくがらがらと引き戸の開く音がして、もうもうとした湯気がこちらのダイニングにまで押し寄せてきた。
その湯気と一緒に小丸が裸で飛び出して来た。真っ赤になって茹っている。それをしっかり捕まえ、用意して
おいたバスタオルでごしごしと頭を拭く。ぽたぽたとお湯を垂らしている尻尾も。小丸の毛色は珍しい蒼銀。
本来は銀狐なのだろうが半透明の部分の蒼が強いのだ。独特の美しい毛である。


「に、兄ちゃん痛いよ。」

「まだまだあ!がしがし、こうか!こうか!ほら、尻尾と耳も出して!」

「ひいい〜〜〜。あうあう。」


僕は一人っ子である。だから弟と言うものに昔から憧れていた。なんとも、この小丸が可愛くて仕方がない
気分になっている。小丸は小丸で兄と言う物に憧れていたから、僕ら二人は最近ひどく仲がいい。


「よ〜しっ、おわりっ。」


頭と尻尾が爆発したようになるが、よく拭かれて水気がすっかり取れて気持ちがいい。この後扇風機の前で
涼むのが最高に気持ちいいのだ。小丸はさっそく扇風機の置いてあるリビングへ走っていった。

そのとき、濡れた腕が僕の首に回された。背中に柔らかくて丸い物がふたつ、押し付けられてつぶれている。
腕には弾かれた水滴が、朝露のように玉になり、煌いている。


「慎二・・・。」


かぷ、と後ろの首筋を噛まれる。愛情表現だと分かってはいるが、総毛立つような感触が全身を震わせる。
あむあむあむ、と首や肩を次々と噛んでいくと、やっと満足したのか、明日香は僕の肩に頭を乗せ、満足気に
荒いため息をついた。濡れた髪から水が僕のシャツに染み込んでくる。
金毛から水滴がぽた、ぽた、と垂れてくる。


「慎二、話しておくことがあるの。」

「なに。明日香。」


何故だか心臓がざわざわとした。
明日香の様子が急に変わって、何かひどく大切なことを話そうと決意したのがわかったからだ。


「私達妖狐は、普通の狐たちと同じように、ある一定の齢になると夏には子供を産むの。」


明日香は消え入りそうに小さな声で、僕の首筋に顔を押し付けたままで話し始めた。


「そのために春の終わりから夏の半ばにかけて、発情期があるの。
夜のお散歩はその時のために、相手を絞って行くために必要な本能に基づく行動なのよ。
私は今年17齢だし、きっと今度の満月には、発情すると思うの。その時には・・・。」


明日香は僕の耳の後ろに鼻をぐりぐりと押し付けた。
思ったより強い力で押され、僕と明日香は床に重なって倒れた。床が冷たい。
そして、僕の背中にうつ伏せに重なったままの明日香の身体も。


「私を捕まえて・・・。」


首にくっついている明日香の頬が、あっという間に火のように熱くなったのを僕は感じた。
きっと僕の頬も同じように明日香に感じられたに違いない。だが、僕は心とは別の事を口にしていた。


「で、でも僕たちまだ高校生だよ、結婚するには早すぎると思わない?」


明日香はそれを聞いて僕の顔の前に身体ごと回り込んだ。真っ赤な顔をしたままだった。


「人間の習慣は知らないわっ。でも妖狐は17齢で子供を産むの。あなたが捕まえてくれなければ、私は。」


明日香の声は必死だった。


「きっと、他の妖狐の子供を産むわ。それでもいいのっ!?」


真剣な目で僕を睨み付けるようにした後、急に目の光が弱くなり、不安気な目になった。
明日香は身を翻し、2階に駆け上がっていってしまった。
でも、僕にどうしろって言うんだよ。僕はまだ高校生で、働きもない。
今決めろといわれても。でも明日香が他の妖狐の子供を産むなんて考えただけでも、どうしてもいやだ。
それって、他の男に彼女が抱かれてしまうってことだろ?そんなのは絶対いやだ。
でも、第一、妖狐と人間て交雑可能なの?いや、きっと可能なんだろうな。
昔から、葛の葉とか人間と添い遂げた狐だっていっぱいいるわけだし。でも、どうなんだろう。
人間と妖狐は、お話しではともかく、一緒になれるんだろうか。
もしそうじゃないんだったら。頭の中で色々な考えがまるで嵐のようにぐるぐると渦を巻いた。

明日香の本当の幸せは、やはり同じ種族同士で結婚することにあるんじゃないんだろうか。
例え僕がどんなに明日香のことを好きだとしても。明日香がどんなに僕のことを好きになってくれたとしても。
僕の考えはそこで堂々巡りを繰り返していた。







僕らがそんな言い争いをしていた頃、天濃川の上水所から水道を配水されている地区では、大きな騒ぎが
起こり始めていた。それは、最初は小さな火事からはじまった。だがその火が鎮火しないうちに次の火災が
おこった。その次は中心部の商店街から火が出た。市内の交通が麻痺し、近郊の消防隊の支援が出尽くし
たところで、ガソリンスタンドが爆発した。ここに至って警察は何らかの人為的な攻撃が仕掛けられている事
に気付いた。全域の交番が巡邏に走り回り、非番の署員に総動員がかけられた。放火をしようとしていた所
を逮捕された人間が20人以上に及んだ。背景に全く組織はなかった。


「個々人が、それぞれに放火を行っているのか。それが20人以上だと!」

「考えられないことですが事実です。鎮火した自分の家に、再度火を付けた者もいます。ガソリンスタンドの
ケースでは、所長自らが、ガソリンを大量に流したあと、火を付けたそうです。」

「多発同時の精神異常などということがありえるか。これはもう我々の仕事ではないな。」

「すでにメンバーズに対して情報を送信始めております。メンバーズの方でも独自に行動を開始しております。」

「発火件数47件に達しました。対応が追いつきません。各町内の消防団に非常呼集がかけられました。」


誰かが気がついた。


「どうしてこの光が丘地区だけ火災の発生がないのだ?光が丘に特殊な事情が何か考えられるか?」

「ここは市内でも最も古い住宅街です。高級住宅街ですね。しかし下水道はつい最近完備されたばかり。」

「これはあまり関係ないようです。」

「いやまて!下水じゃない、それを家に持ち込むのは上水道だ。」

「市内全域の上水道配管データをここに転送しろ!」

「上水道のない町はもうありませんよ。」

「いや待て、そうか、水系だ。それをたどってみろ。」

「でたぞ!これだ!全ての類焼ポイントはこれですべて当てはまるじゃないか。
この・・天濃川の最後の取水口だ。その水系から火事が出ている。清音橋以下からの取水をすぐに停止しろ。」


失禁をしてしまいなほどの恐怖が襲いかかってくる。全ての事象がここに収束していく。


「これは、例の名賀尾高校のすぐ下流じゃないか。あの時の山椒魚がまた関わっているんじゃないか。」

「メンバーズの特殊部隊が水質解析と川の上流部調査を開始しました。」







「ぐす・・・。それでね、私が・・・っていったのにね、シンジッたら・・・ぐす。」

「そうなの、そりゃあ、明日香だって女としての立場があるわよねえ。」


例の夫婦狐から室内電話がかかってきた。明日香は一旦2階に行って、その後マヤの所に潜り込んで、
ぶつぶつと愚痴り始めたらしい。青葉狐が、僕が心配してるんじゃないかとこっそり電話して来てくれた
のだ。彼の後ろの方で、明日香が「ああ!」とか、「不幸!」とか言っているのが聞こえる。


「いま、うちでインスタント狐蕎麦食べてますから。まあ、あれだけ食欲あれば、大丈夫ですよ。」

「そうですか、ほんとにごめんなさい。」


電話を切って、ふと気がつくと、目の前に小丸がちょこんと立っていた。


「小丸ぅ。」

「人間て、いろいろ難しいのな。兄ちゃんみたいに大きくなってもまだ嫁さんもらえないのか?」

「人間は、女の子は16歳、男は18歳以上じゃないと結婚できないんだ。法律で・・掟で決まってるんだよ。」

「好き同士でも?」

「好き同士でも!」

「なぜ?」

「なぜって言われても・・・・・。」

「俺は反対しないよ。兄ちゃんと姉ちゃんて、俺がみててもお似合いと思うもの。」


そうだよな。好きだから一緒になりたいって思う気持ちのどこがいけないんだろう。
食っていけないから?じゃあお金があれば結婚していいの?
明日香みたいな自然と暮らしてきた子にはその方がよほど不潔に思えるだろうな。


「なあ、小丸。人間と狐の女の子ってけっこう結婚することってあるのかなあ。」

「前、凄く珍しいって話、したじゃないか。でもね、雌狐と結婚するとは限らないよ。むしろ僕にとっては
雄狐が結婚した方の話が身近だけどね。」

「ええっ。人間の女の子と雄狐が?」

「うん、ちゃんと子供もできて、幸せに暮らしてるよ。」

「そうなんだ・・・。」







「慎二さん、シンジさん!!」


その時、階段から青葉狐が叫んだ。


「火事です! 物凄い数の火事が、市の中心部を包んでいます。数十個所で同時に燃えています!!」

「なんだって!」


僕は2階にかけあがった。青葉狐の言う通り、全市にわたって火災に包まれている。時々爆発音が聞こえる
のは、自動車か、ガソリンスタンドだろうか。電話が鳴った。受話器をあげると父さんが怒鳴った。


「慎二、何をしている。早く明日香君と共に白銀乃滴神社へ急げ。そこに全ての準備が配置してある。」


電話は尋ね返す暇もなく切れた。


「アスカッ!行くよっ。」

「はいっ!」


いつのまにか後ろに来ていた明日香が、短く返事をし、濃紺の戦闘服を身につけて先に外に走り出した。
半袖の和服に赤い帯。手甲帯を両手に巻き、いつも持っている短刀を右の腰裏に差している。玄関に走り
出すと、手を合わせた明日香が何か呪文を唱えている。
天空の一角から、まばゆい光が射し込んで僕を照らす。目が開けていられない。


「慎二、宮に戻る前に偵察をかけていくわよっ。」


目を開けると僕と明日香は手を繋いで宙を駆けている。黒煙を上げて燃える火事の中央部分に降り立つ。
そこには、いまだ流れるガソリンの給油ポンプを握ったまま黒くこげていく店主らしき人がいた。
明日香がその人の手を握るとするすると薄い影のようなものがその人から立ち上がった。


「一体どうしたって言うの。あなたが自分で火を付けたのね。」

「そうだ。もうこんな仕事はいやだ。同じ事を繰り返すだけで年老いていくのはいやだ。俺には夢があった。
その夢を奪ったのがこの仕事だ。だからこの仕事が憎い。俺から時間を奪ったこの仕事が・・。この仕事が
何もかもを壊す。子供たちを生み出せなくする。愛し合う時を永遠に失わせる・・・。」


その向うにも人が倒れている。まだ30くらいの若い人だ。所長の怨念に巻きこまれたのだろうか。
明日香が先ほどと同様に手を引くと、その人も立ち上がった。


「しっかりなさい。なぜここにいるの。」

「何もかも破壊してやる。僕をここに縛り付けるものを。まるで、押し込められた鳩みたいに閉じ込められ
て暮らしているんだ。友達だものな、笑って手を振ってくれれば、振りかえして帰るしかない。僕の想いは
行き場がない。告白することもできない、ここを離れることもできない。」


その人の魂は「ああ、ああ」と泣きながら歩き出した。


「どういうこと。」

「この人には、想う人がいたみたいね。だけどその人は友人と結婚してしまったみたい。この人はそれを
ずっと押し殺して生きてきたんだわ。その想いが胸の中に固まっている・・。」

「あ!さっきの所長さんも!」

「そう、彼の中にも学生の頃の恋人の影があったわ。あの仕事を得たことで彼は親兄弟を養わなければ
ならなかった。だから、彼女を抱き留めに行くことはできなかった・・。」


僕らは、次々と現場を跳ねた。皆、胸に持っている日常への不満と、愛への渇望が原因となって暴走して
しまったのだ。でも、なぜ突然に、一斉に暴走がはじまったのか。


「明日香、想像はついた。宮へ戻ろう。」

「でも、私には分からないな・・・。なぜ人間は思ったように生きようとしないの。そのくせその不幸を他人に
押し付けようと思うの。なぜ自分を取り巻く世界と戦おうとしないの。私達なら・・・。」





再び光が僕らを包み、宮へと導いた。そこには厳重な武装をした人間達が集まり、黒い背広に身を包んだ
狐たちが、屋根の上や、梢、ありとあらゆる所に気配を消して立っていた。
僕と明日香が現れると、重武装部隊の隊長と思しき人が進み出た。その人は加持と呼んでくれと言った。


「さて、君たちの調査のおかげで、我々の方の天濃川取水口に何か毒物が投げ入れられた可能性の線が
確実になったな。今の時点で上流下流とも異常な行動を市民がとってはいない。つまり、ここの水系だけに
短時間作用型毒物が混入したんだ。さて、これについて思い当たる件は。」


僕は応えた。明日香はこの人が苦手らしい。退いて大きな杉の樹の根本に手をついて寄りかかっている。


「先日の、もう今はいない山椒魚、ですか。生まれることなく死んだ想い。」

「そうだ。」

「殺すのっ!!」


明日香が挑むように叫んだ。狐たちが身体を起こしていく。戦闘体制だ。


「我々は、その為に、いる・・・。」


加持さんは応えた。


「人間は、生物はこうやって生き延びてきたんだ。弱いものの想いを踏みにじって進化し、強くなっていく。
その結果として強い物が「生命の樹」を絶やさず守り続ける。我々は生命の樹そのものなんだ。妖狐達、
君たち自然発生の精たちとは、根本的に生き方が違うんだよ。」

「元はそうだったかもしれない。だけど今私達は木石として生きてはいない。人間だけの為に全ての生命を
犠牲にはさせない。精も生も最早この世界に存在する以上、互いを浄化して、なお生きていくなどと言う事
は許されないのよっ。まして今度のことでも分かったでしょう。今の生き方を続けることは人間の為にだって
なりはしないのよっ。」



「その事は、人間も少しずつ分かってきてはいる。ただ物事は少しずつしか変わらん。なまじ日本は最後の
インパクトの後が、うまく行きすぎたのかもしれない、上代の科学文明をそのまま維持していられた国は、
地球中を捜したところでホンの少ししか残っていないのだからな。とっくに人間自体が滅び去った大陸すら
あるのだから。だが、我々は生きている。生きている物がそうでないものに場所を譲ることはできんのだ。
今すぐにこの国の生き方を変えれば、この国の科学に依存してやっと生存している膨大な人間は死と直面
する事になる。それができると思うのか、妖狐達よ。」


色々な行きがかりがあるようで、かなり緊迫した状況で話し合いが行われている。だがこのままでは延焼は
止まらず、さらに被害が広がるのは明らかだった。僕は、明日香に向かって一歩を踏み出した。


「明日香。僕の知らないことが限りなくあるんだと思う。僕らがどういう行きがかりで付き合うようになったの
かも、それなりの理由があるんだと思う。そうじゃなくちゃ、78代にも渡って付き合ってはいないと思うんだ。
明日香は、僕と主従の関係を結んでくれた。きっとこんな時に、誰かが命令しなくちゃ物事が進まないから
だと思う。でも、狐たち聞いて欲しい。僕は人間だけど明日香のことを好きだし、明日香も僕のことを好いて
くれてる。今はまだ只の恋人同士だけど、いつかは夫婦にだってなるかもしれない。ホンの少し一緒にいる
だけでも、妖狐と人間はきっと分かり合えるんだと思う。分かり合わなくちゃ、いけないんだと思う。僕はまだ
何もわからないけど必ずこういったつらい選択のときに両方が満足できるような・・そんな風にしたいと思う。
だから、今日はお願いです。明日香が信じてくれている僕を信じてくれる妖狐は、僕に力を、人間に力を貸し
て欲しい。こうしてる間にも焼けていく人がいるんです。だから、おなじ場所に住んでいる者として、力を貸し
てください。命令じゃなくて、自分の心で行くべきだと声がする方、人間を助けてください。」


「明日香の名前を出されちゃしょうがないよなあ。」


神社の屋根に座っていた若者が姿を、ぼうっと現した。この間の黒狐だ。


「今日のとこは手伝うさ。」

「ありがとう、黒狐。」

「なんだ、お見通しかい、末恐ろしいご当主さんだね。普通は1年はばれないもんだが。」


気のせいか、苦笑したみたいだ。サングラスを取ると、金色の目がぎらぎらと光って、口元に牙が見える。


「俺も行こう。」


松の大木の根元に、またダークスーツの青年が姿を現した。真っ赤な髪をしている。


「俺もお見通しかい、ご当主さん。」

「ありがとう、赤狐さん。」

「赤い狐、と言ってくれ。こう見えても笑いを取るのが好きなんだ。」


こうして、次々と狐たちがその姿を現し始めた。加持さんはこんなに多くの妖狐が結集しているとは思って
いなかったようで、少し慌てているようだ。


「おどろいたな。今迄長いことこの仕事をやってきたが、我々の見ている前で、こんなに多くの妖狐が姿を
現したのは初めてだよ。せいぜいいつも直接術を施す2,3匹しか現れなかったのに。しかもあんなに喋って
いるところなんか、はじめて見た。」

「すごい・・・ざっとみても 、4,50匹はいますよ。」

「慎二・・・あんたって・・・。」


明日香が僕の手を握った。その目が潤んでいた。


「ずるいぞ、私の名前使うなんて。」

「あ・・・ごめん。」

「ばぁか、いいのよ。あんたが本気で思ってるのがみんな分かったのよ。あんなに妖狐に向かって、まともに
語り掛けてくれた人間なんて、今までいなかったの。みんな、あんたのことが嬉しかったんだわ。」


黒狐たち、大人の妖狐が現場の指揮を執っている。


「じゃあ、山椒魚の大将がどこにいるのか、先ずそれからだ。水狐は川に入れ。ただし、くれぐれも水を飲み
込まないように気を付けろ。おまえらの箍が外れると洪水になっちまうからな。」


人間で言えば高校生くらいなんだろうか、「水狐」ランクの少年達が姿を消したまま何十人も川の中に森から
駆け込んで来て次々と飛び込んでいった。川の水がまるで生き物のように逆巻き立ち上がり、流れの裏側
をさらけ出す。まるで一匹の蛇が川の中でのたうっているように河床が見える。


「あそこだ。あったぞ、名賀尾高校の側面から下流300m、清音橋(きよねばし)下だ。」

「なんてこった、殆ど移動していやがらなかったのか。」

「清音橋下には、湧出量が毎分2t余りの泉がある。あそこでは中流域なのにあゆの稚魚がいるくらいだ。」

「なるほどミヤマサンショウウオには、有り難い隠れ家と言うことか。かなり深い穴を掘ってやがるな。」

「奥行きがわからんと攻撃点が絞れないな。」


すぐに爆発振動計が数箇所に取り付けられた。振動の走り具合の誤差で地下の形状を知るためだ。


「川の真下から、川の堤にそって数十メートルトンネル。地下10mほどの所に空洞を形成しています。しかし
その上は河床から続く粘土層と岩盤です。

「直接攻撃は無理かな。」

「深度を調整したプラスチック爆弾を小型モータ−に引かせて流し込んでみましょう。」


数回に渡って、激しく爆発が起こった。穴の入り口からは赤い血が溢れ出してきたが、山椒魚は姿を現さ
ない。これだけの攻撃をかけられたら普通ならもう脱出を考えるはずだ。
その時、狐たちにざわめきがおこった。攻撃の合間を縫って水狐の数人が穴の中を偵察して来たのだ。


「まったく若えやつらは、考えなしに無茶しやがる。」


クロは怒ったが何となく嬉しそうだった。さっそくたいして怒られることもなく少年達は情報を報告した。


「現在、山椒魚は右手を吹き飛ばされ、かなりの重傷を負っています。だがあそこからは動くつもりは
ないでしょう。山椒魚は残った左手で、必死に水を掻き寄せています。新しい水の循環が必要だからです。
山椒魚は、大量の卵をあの穴の中に産みつけています。」


おおおお!と狐に声が上がった。野性動物はこういう場合絶対にあきらめないのを知り抜いているからだ。
しかし人間は、卵を守るため反撃に出てこれないなら幸いと、大量の有線誘導ミサイルを本部に請求した。
だが明日香が収まらない。


「何考えてるのよあんた達人間は!こういう時はこっちが引くべきでしょう。人間の力があれば、ここで孵化
させてから、別の場所に移動させる事だってできるじゃない。暫く給水車を出すとか。」

「あれらは、すでに人間を食うことが判明している。人間を食うものと混住はできない。決定だ。」

「好きで人間を食ったわけじゃないわ。もう妖気は去りつつある。数十年もすれば普通の山椒魚に戻るわ。
それまで深山で暮らさせてやればいいじゃないの。」

「その責任を誰が負うのだ。もしまた人を襲ったらどうする。数十年の間、誰が奴等を管理すると言うんだ。
少しは考えて物を言えってことだな。」


鼻で笑い、加持さんはすぐに次の工事の指示を出した。上流に堤を作って川を干しあげ追いつめるのだ。
・・・・私達だって、こんな事ばかり繰り返すなら人を襲うわよ!!
明日香は歯をぎりぎりとならしながらこぶしを握っていた。明日香にもこれが、かなり無理なことは分かって
いる。ただ、先に決めておいて省みず、不都合なら殺せばいいという態度は、いつ自分達にも降りかかって
来るかわからない人間の論理だから腹が立つのだ。
人間にとって都合が悪ければ白銀乃滴社だって・・・。髪が逆立っていくのを意識する。

ぐあしっ!!

唇をかんでいた狐たちがはっとして目を上げると、普段おとなしい僕がが真っ赤になって加持さんを殴りつけた
所だった。だが、次の瞬間、僕は加持さんの手に持った銃で殴り倒されていた。妖狐達は慌てて、僕を支え、
だだだだーっと後ろに引いた。加持さんは、べっ!と赤いタンを吐いた。唇が切れて腫れ上がっている。
この時僕はこめかみから血を流し気を失っていたと後から聞いた。


「ふん。しろうとにしちゃあ、いいパンチだったよ。だが、夢を見るだけなら誰にでもできる。俺達はもう絶対
ただの一人も人間を殺させはしない。気がついたらそう言っておけ!」


ホンの少しの時間で、有線誘導弾は到着し、次々と装弾されていく。僕ははまだ気がつかないままだ。
かなり大きな破壊力を持つ誘導弾が届いたためメンバーズは約300m後退した。妖狐達は橋に続く丘に
引いた。せっかく差し伸べた手はメンバーズによって払いのけられた。


「やれやれ、これで私は完全に悪役だ。高くつきますよ。」

「これでいいのだ。今は慎二が妖狐の主導権を握ることの方が優先課題だ。」


ごく平均的なメンバーズの制服に身を固めて、黒いバイザーを降ろしたまま加持さんとと話している者がいた。
僕はこのあたりで目を醒まして、皆に状況をたずねていた。だからこの場面も良く憶えている。
それは父、碇玄道であった。彼には、ここまでの展開は完全に予想通りだった。激昂するアスカとそれを
肩代わりする僕。初めての繁殖期を迎えて不安定な明日香を使い完全に妖狐を掌握すること。それが
父の今回の目論見であったのだ。明日香の動きは全く予定通り。僕への求愛行動も計算の内だった。
計算外だったのは、僕の予想以上の克己心であったらしい。
自分の息子がこんなに誘惑に強いとは思わなかったようだ。


「しかしこれで最後よ。なに、本気になった妖狐の誘惑に勝てる人間など、この世の中におるものか・・・。」


僅か2時間で上流に仮堤防が築かれ栖由川の全ての水は放水用水路を経て直接天濃川に落ち始めた。
きっかり2時間30分後、準備が全て整った。大量の塩が大型トラック5台分ほど、水の残る河床の洞窟に
投入された。これで山椒魚には逃げ道はない。ごば、ごば、と水面が揺れたかと思うと、山椒魚が水から
姿を現した。見ると、口一杯に卵を加えている。
追いつめられた母親は何とか卵を救おうとできる限りを口にくわえ、包囲を突破しようとしているのだ。


「第一群、脇腹を狙え。発射せよ。」


人間の陣地を取り囲む数十台のジープのうち5台から有線誘導弾が発射された。もしかしたら、まだ卵隗を
持っているかもしれない。だから先ず腹を破っておく、という加持の考えだった。こうして足止めしている間に
太陽が塩分をすった山椒魚に致命的なダメージを加える。塩が母親の体水を、その皮膚に吸い出していく。
10発の誘導弾は吸い込まれるように全弾が赤い腹部に命中した。ちぎれた右手でそこから零れようとする
卵を押さえ付ける。口も開こうとしない。ただ真っ直ぐに仮堤みの向うの水を目指して突き進む。


「第2群、前足を狙え、第3群もう一度腹を撃て。」


先ほどの倍、10発の誘導弾が、地を這う様にして山椒魚に迫り、爆発した。誰もがバラバラの肉片となった
山椒魚を想像したが実際には赤い障壁がそのほとんどを受け止めていた。山椒魚の正面に青い武道服の
少女が立ちはだかり、両手を前に突き出してスクリーンを張っていた。


「人間っ、こいつを殺らせはしないわっ!わたしが守ってみせるっ!!」

「明日香っ!!無茶だっ、殺されるぞっ!!」


妖狐達は一斉にその少女のいるところに殺到しようとした。だがその足元を大型20mm機関銃が掃射した。


「動くんじゃない、動けばこの20mmの銀の弾丸が君らをぶち抜くぞっ!!こいつは、強い念を込めて練った
純銀で高いんだ。使わせないで欲しいもんだな。」

「加持、きさまあ・・・。」

「どうした、続けて発射しろ。狐の少女にはかまわんでいい!」


第4,5群が発射された。再び障壁が張られるが、それを避けるように上空や、地面すれすれから誘導弾が
山椒魚に数発づつ命中する。山椒魚は腹を割かれ背中を割られてもゆっくりと堤に近づいていく。
滝のように流れ落ちる血と粘液が、明日香の頭から足先までを包むように流れていく。
その心に幻覚を見せると言われる成分が明日香の心にも働きかけてくる。明日香は奮闘した。黄金の髪が
逆立ち、周囲に時たま炎が吹き出た。真紅の障壁が誘導弾を打ち砕き、激しく浴びせ掛けられる機関銃弾を寄せ付けない。。



自分の一番大事な者を守りたい、子供を守りたい、もっと増えたい。可愛い子孫をこの世に残したい。
この子達がたった独りにならないように。最後の一人にならないように。自分の命が失われても愛した者達
をこの愛おしい者たちを残したい。その為なら何も要らない。自分の命も、安逸も、全てと引き換えにしても。

その強烈な本能的意思が、明日香の心身に芽吹いている、子孫を残したい心、愛したい心と共鳴する。
山椒魚の記憶と、明日香の記憶がお互いに入り交じり一体の物となっていく。

鮮烈な泉のほとりに生まれた。多くの兄弟、心地よく新しい水を流しつづけてくれた親達。転げまわって遊
んだ日々。光の輝き、流れる水の泡立ち、初めて水の外の世界を見た日の驚き。親達と走っていった草原
の風のささやき。空はどこまでもどこまでも高い。濡れた岩の上の苔に必死で掴まってよじ登ると、初めて
吸い込んだ大気の心地よさ。青い空を見て、この上に更に水の世界が、もうひとつあるのかと驚いたこと。
腹の中に初めて抱えた卵の愛おしさ、生命がここにあることを感じながら、ただ盲目的にこの子達を守らな
ければとしか考えなかった。産み出せなかった生命、それだけが心残りだった。なぜ自分は産み出せない
まま死ぬのか、その事をずっとずっと、気の遠くなるほどの年月考えていた。ふと気がつくと自分は再び生
を受けていた、白銀乃滴の奇跡がこの身に起こったのなら、死にたくない、今度こそ、今度こそ私は残す。

だがもう私は動けない。また死ぬのか、私を守ろうとしてくれた者と一緒に。卵が、私の卵が死んでいく。
口の中で、腹の中で、子供たちが死んでいく。ならば残そう、この娘をこの想いと一緒に。
山椒魚は、明日香をかき寄せると、中の卵が流れ出るのもかまわず口に含んだ。激しい爆発が周囲に立て
続けに起こった。もう立っていることができず、その場の泥の中にうずくまった。

・・・・あと少しだったのにな。それが、彼女の最後の想いだった。水面が誘うように、きらきらと輝いた。


「射撃止めーーーっ。焼却の準備にかかれ粘着焼夷弾を準備せよ。」

「化け物に、爆砕のTNTを仕掛けろ。木っ端微塵になるように。卵は特に念入りに止めを刺せ。爆砕の際は
防水シートで念入りにシートですべてを覆え。細胞のかけらでも危険である可能性がある!!」


「明日香ーーーっ!!」


叫びながら次々に転移してくる妖狐たち。僕も必死に探していた。最後に明日香が張った障壁の位置から
考えると、この山椒魚の口のあたりにいたはず。思い切り口を押し上げる、そのとたん薄く口が開き死んだ
卵と一緒に明日香がどろりと流れ出てきた。


「明日香!アスカッ!!」


僕は、かまわず明日香の唇に指をこじ入れ、無理やりこじ開けると、自分の口を押し付け、中の粘液と山椒
魚の血を吸い出した。何回もその行為が続く。そしてその間にも妖狐達がその周囲を取り巻き手のひらから
精を放射し続けてくれている。自らの生命を削る行為を皆が惜しげもなく行っていた。僕が何回目かの吸い
出しを行った後、息を吹き入れると、そのとたん、明日香が激しく咳き込んだ。歓声が上がった。


「妨害行為については問わんよ。気がついたならそのセンチな姫さんを連れて帰ってくれ。
奴には今夜、2400を持って、焼却爆砕の命令が下ってきた。」


振り返って、僕はジープの上の加持さんを睨み付けた。その途端荷台が粉々に崩壊し、彼は転げ落ちた。


「な、なんだぁ?」


加持さんが起き上がった時、僕も含めて狐たちはそこにもう只の一匹も残ってはいなかった。
長い一日が終わり、夕日が地平に沈んでいった。


僕は、家の前に集まっていた麻耶さん以外の、全ての妖狐たちに、社(やしろ)に戻るように命じた。
どろどろになった衣服を捨て、たった一人きりで明日香を清め、一緒に湯に入って髪を洗ってやった。麻耶さんと
二人で、気を失ったままのアスカの身体を拭き、寝間着に着せかえた。麻耶さんが柔らかく髪を結い新しい布団
を出し、そこに明日香を寝かせた。そして麻耶さんにも社に帰ように言った。僕はきちんとした服装に着替えると
枕元に座した。

僕には自分の役割が、全く分からなくなっていた。人間と妖狐達の間は、余りにも遠い。それなのに何故
ともにあらねばならないのか。その狭間に同じようにいる明日香は、はっきりと、今はいないものの側に立っ
た。自分はどうするのか。

明日香はいつまでたっても目覚めなかった。長い、長い時間が流れていった。

柱時計が、何時かを打った。もうすっかり部屋の中は真っ暗で、この通りで立った一本だけの街路灯の灯かりが
部屋の中に弱々しく光を投げかけていた。





「慎二。」


彼女の声。


「気がついたかい。明日香。」

「あいつは?」

「死んだ。いま、・・・・爆砕と焼却の準備が進んでいる。」

「私、あいつと一つになってた。生きたいって。子供を産んで、その子が独りぼっちにならないように、また
生んで、この世界にいとおしい子供たちが幸せに暮らせるように、その為には全てを捨てていくって。でも、
あいつは最後にどうしようもなくなって、私を助けていってくれた。私なんか何の役にも立てなかったのに。
それで、後は頼むって、私の替わりに子供を増やせって、命を育み、愛する者を守れって・・・。」


僕は、明日香の言葉を聞いていた。明日香の心がいま、あの行ってしまった奴と一つになっている。それは
命を伝える、女性としての共鳴かもしれなかったが、僕の心はその言葉に感動して揺れ動こうとしていた。
でも!ここで、明日香が囚われている死や、心残りを引き継いで明日香と一緒に感動してはいけないような
気がした。いとおしいと思う心、僕がアスカを愛する心はそういった、何かに対抗するための物ではないと、
僕は思った。


「わたし、慎二がいて、愛する人がいて、本当に幸せだと思う。」

(ちがうよ。)

「わたしは、死の恐怖もなく、滅びの恐れもなく、あなたと一緒になれるんだもの。」

(明日香、そんな事を言っちゃいけない。君はそんな人じゃないはずだよ。)

「慎二。」


明日香は布団から起き上がってそこに座り直すと、震える手で、寝間着に手をかけた。


「わたしと、ひとつになって。・・・わたしを・・・抱いて。」


それから、明日香は俯くと、寝間着のボタンを外し始めた。その襟の間から彼女の白い胸が
見える。明日香は僕の顔を見上げ、僕に笑い掛けようとして失敗し泣き出しそうな顔になって
また俯いてしまった。


「明日香、きみ・・・。」


アスカは何も言わなかった。次に顔を上げた時にはその蒼い目の中に、黄色い光が輝いていた。
さら、さらと、寝間着を脱ぎ、下着をひとつひとつ外していく音だけが、部屋の中にあった。


「慎二・・・。」


唇からこぼれたのは僕の名前だけ。

尻尾がフワッと立ちあがった。僕の膝に頭を乗せ猫のように喉をゴロゴロと鳴らしながら、自分の身体を
見せびらかすかのように、僕の身体に明日香の身体がこすりつけられる。
一糸まとわぬ身体の線が、背中から細い腰を経、豊かな円いお尻までが僕の目の前に逆さに曝け出され
明日香の、甘い甘い匂いが僕を包み込んで、もうこらえようもなく、目眩がするほど強烈に僕を誘惑する。
その腰の一番上から豊かな黄金色の長い3本の尻尾がゆったりと左右に振られ、硬く握って、膝の上に
おいて耐えている僕の手を、小さな赤い舌がぺろぺろと舐める。

その舌はこぶしから腕へと登って来て、彼女の細い指が僕のシャツのボタンをはずしていく。熱い荒い息。
明日香の顔が僕のシャツの中に押し込まれ、僕の脇腹の匂いをかいでいる。そしてそのくすぐったい感触に
よって湧き上がる衝動をこらえる間もなく、再び彼女の舌は脇腹から脇の方までを舐めあげていく。
さらにシャツの中では僕の二の腕に軽く歯が立てられる。とうとう明日香は僕を押し倒しその白い胸や花弁
よりも柔らかい腹部を僕の身体に伸び上がるようにこすり付けてくる。
ベルトが抜き取られ僕の下腹部にまで彼女の鼻先と舌と指が及んでくる。

僕の淫らな心は膨れ上がり、明日香を思いきり、無茶苦茶にしてしまうほど抱きしめたがっていた。
押し倒し腰を持ち上げ荒々しく愛撫し尽くしている様が何度も僕の脳裏を幻影となって走り抜けていく。
明日香の脚を持ち上げ、彼女が壊れてしまうほど見境なく愛している、そんな幻影が纏いつく乳白色の身体。
どんなに固く目をつぶっても、その幻影を僕は振り払えない。
僕は、思いきり膨れ上がり、痛みさえ覚えるほどだった。
そこに明日香は情け容赦なく、ぬらぬらと下腹部をこすり付けてくる。その淫猥な行為が僕に暴走を迫る。
それは僕の心の本当の願いだから。抱きたい!甘い、甘い明日香の匂い。なぜ駄目なんだと僕を責める。
明日香の内腿に触れた僕の手が粘液に濡れそぼり、その真剣な想いを僕の身体に直接伝えてくる。


「抱いて・・・。」


胸の上で熱い息を吐きながら僕の乳首を舐め、首筋を甘噛みしている明日香に、必死で声を絞り出した。



「明日香、だめだよ。・・・こんな形じゃ駄目なんだ。」

「え?」


明日香は僕を見上げて言った。


「どうして?」


薄暗がりで俯いている彼女から消え入りそうな声が僕に届く。


「わたしじゃ、駄目、なの?」


泣き出しそうな声が微かに聞こえる。


「そうじゃない!そうじゃないけど。」

「わたし、いいのに。こんなに慎二のことが欲しいのに・・・・。」


僕は歯を食いしばった。絶対に駄目だ。こんな形で明日香と結ばれるのは絶対にいやだ。
こんな、もう今は生きてはいない者たちと奪い合うような形で、今はいない者たちから与えられるようにして
明日香を抱くのは絶対にいやだ。
こんな、本能からの衝動に突き動かされて、僕は僕の恋人を抱きたくない。
僕は、もっと純粋な喜びと一緒に、明日香を抱きたいんだ。こんな暗くて、悲しい夜ではなくて、太陽が燦燦
と照る、高原の草むらや、木漏れ日が僕らを優しく包んでくれる、幸せな午後に君を抱きたいんだ。

僕は、突き上がってくる衝動に必死に耐えながら、明日香にそういう事を切れ切れに言った、と思う。
次の瞬間、こらえきれなかった僕は、明日香を激しく抱きしめていた。甲高い明日香の叫び声が聞こえた。


頭の中が真っ白になる程の快感が僕の身体の中を突き抜けていった。




どどどどどーーーーーんん・・・・・・。




遠くから、深夜の闇の中を低く鈍い音が地響きと共に伝わって来た・・・・・。爆砕が終わったのだ。
僕は、明日香の顔を見た。
透き通った青い瞳から、次々と大きな涙の粒が湧き出て、頬を伝わり、ぽたぽたと流れ落ちていた。




明日香のその涙が、固く握り締めあった僕らの手を、いつまでも濡らしていた。









彼女は魔物?(5)
〜うねり立つ銀の波〜




次の日の朝、僕はどかっと腹の上に衝撃を感じて慌てて飛び起きた。
小丸がころころと掛け布団から転がり落ちた。


「なんだよう、今日から子供会のラジオ体操があるから一緒に行ってくれるって言ったじゃんか。」

「え?そんな約束したっけ。」

「してたわよ。」


明日香が後ろで言った。そうだっけな?振り返るとまた僕のスクールワイシャツを着て、彼女が笑っている。


「ああ、また僕のシャツを着て。女の子臭いって皆に笑われるからやめてくれよう。」

「だって、あんなのただのリンスの匂いじゃないの。」

「リンスじゃないってば。女の子の匂いって男にしかわかんないのかな。大体、素肌の上に着るなよなっ。」

「ちゃんと今日は、はいてるもン。フランス製だよっ!」


肩まで裾をめくって、淡いブルーのレースのパンティーと半分透けたみたいなブラを見せる。
こんな田舎で、一体どこからこんな物を買ってくるんだ。


「わ、わああ!見せなくていいのっ!隠して隠してっ!!」

「へんなの、裸のときは此の頃平気になったのに。」

「か、返って心臓に悪いかな・・・。ぜいぜい。」


朝っぱらから汗だくになってしまった。」


「兄ちゃん姉ちゃん、俺、先に行くよ・・・。ゆっくりやって・・・・。」

「あ、まてよ!小丸!一緒に行くってば!!」


僕はがにまたになって後を追った。
今日も夏らしい、真っ青な空が広がっている。熱い一日になりそうだった。


そうだ、明日香を誘って海に行こう!



名案に我ながら満足して、ラジオ体操会場に向かって僕は駆け出した。








彼女は魔物?(5)〜うねり立つ銀の波〜 ・・・終


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