− マチコ −



第一部



第七章   「破綻」






1999年 −聖夜−



ゲンドウは傍らで眠るユイの髪を優しく撫でた。
彼女が起きていれば到底そんな真似はできないだろう。
結局、彼は心の中で決めていたことをユイに強制することはできなかった。
いや、もし彼女が抗ったとしても無理矢理そうしていたであろう。
ところが、彼自身がそれを口にできなかったのである。
彼の野望を果たすために利用する女ができ、その女に心底惚れてしまいそうな時は、
彼女の髪を金色に染めさせようと固く決めていたのだ。
あの初体験とは思いたくない出来事は、今でも彼のトラウマになっている。
安っぽい染めた金髪を振り乱して、少年の身体の上で身体をくねらせる女の姿。
思い出したくなくても、その姿は彼の瞼の裏から離れてくれなかった。
だから、もし彼の邪魔になる女ができたなら、その髪を金色に染めさせることで彼女との距離を置こうと考えた。
しかし、碇ユイ相手にはそれができなかったのだ。
ああ、俺はこの女に心底惚れてしまったようだ。
俺のことを可愛いとなど平気で言ってのける、この悪魔とも天使とも思える女に。
その時、ユイがパッチリと目を開いた。

「もっと、撫でてくださいな」

「うっ」

「物凄く気持ちよかった。私、あなたの手、だぁい好き」

「二度と撫でん」

「わっ、この意地悪」

ユイはゲンドウの肩口にがぶりと噛み付いた。

「そうそう、思い出した」

「何がだ」

「子供の名前。レイちゃんの方しか言ってなかったですよね」

「勝手に決めるな」

ゲンドウが睨みつけるが、ユイはまったく平気な顔をして言葉を続けた。

「男の子ならね、シンイチがいいなって」

その瞬間、ゲンドウは息を飲んだ。
シンイチ。
田中シンイチは彼の一番最初の名前だった。
姓はともかく、名前の方は親が何がしかの思いを込めてつけたはずなのだ。
しかし、彼にとってその名は懐かしみなどなく、忌まわしい過去を想起させるだけのものである。

「それは駄目だ」

珍しく、頭ごなしに言われ、ユイはむっと来る。
これは彼女にとって屈辱だった。
何しろ頭ごなしに断定的な口調というものは六分儀ゲンドウの特徴なのだが、
今や自分相手だけにはそのニュアンスが大きく違うことを感じ取っているからだ。
つまり、彼にとってこの自分が特別な存在であることを暗に認めているという証明だからである。
だから、今この方程式が崩れたことでユイは腹を立てた。

「どうして?いいじゃない、シンイチ。ピッタリだと思うけど?」

実はこのシンイチという名前にはそれほどの思いはなかったのだ。
小さい頃に見ていたドラマの主人公がこの名前で格好よかったという記憶があったので、とりあえずの第一候補に過ぎなかった。
それがゲンドウの抵抗に遭い、とりあえずから断固たる第一候補へと緊急昇進してしまったのである。

「駄目だ。絶対に許さん」

「いや。絶対にいや。私、シンイチがいい」

「ふんっ」

目を逸らそうと首を捻ろうとしたゲンドウだったが、ユイはそれを許さない。
左手でしっかりとゲンドウの右頬をつかみ、そしてまた肩の辺りに噛み付くが、今度は本気である。
もはや愛情表現とは言えない乱暴な噛みかたにゲンドウは思わず呻き声を上げた。
そのことでいささかなりとも溜飲が下がったのか、今度は優しく彼に訊ねるユイだった。

「ねぇ、理由を教えてくれる?シンイチちゃんが駄目な理由」

「き、気に入らんからだ」

「私は気に入ってるの。断然、気に入ってるの」

「とにかく許さん。その名前だけは」

ゲンドウは真っ直ぐにユイを見つめて言った。
そのいつもとは違う眼差しに、彼女の心は騒いだ。
過去のことを一切話さない彼の何かに触れたような気がしたからだ。
その時点でユイはシンイチ案をあきらめた。
元よりそれほどの思いがあったわけではなかったのだ。
しかし、あっさりと引き下がるような彼女ではない。

「わかった。シンイチはあきらめてあげる」

「うむ」

「ということで、もし男の子なら、その子の名前は…」

ユイはにっこり笑った。

「シンジに決定!」

「なにっ」

「文句ないでしょう?」

ゲンドウは溜息を吐いた。
本来の彼は実に無器用な男なのだ。
目的のために何を為すべきか考える力、そしてその何かのためには手段を選ばない冷徹さも持っているのに、
普段の生活、いや、その中での人との交わりが苦手なのだ。
その相手が彼にとってどうでもいい人間なら、それこそ彼の口癖通りに“問題ない”。
彼はそうやって生きてきたのだ。



11歳の少年は、万博見物の後、大阪の駅の近くで補導された。
その時、彼は権藤の教えに従い、ほとんど手つかずの金を何とか隠し抜く。
この数年後に六分儀ゲンドウの名前を買った資金の大半がその金であった。
さらに少年は名前が権藤サンタといい九州から来たということ以外は何も覚えていないと押し通したのだ。
関西と九州の方では少年の写真付きで報道されたが、少年を知る者がいる関東地方では新聞で小さく扱われただけである。
そんな知恵を彼は大阪までの旅の中で培っていったのだ。
その一ヶ月余りの旅の間に何があったのかは、ゲンドウ一人の心の中にある。
一人で生きていくために何が必要なのか、そして何のために生きるのか。
人類の進歩と調和をスローガンにした会場で、少年は何を感じ取ったのだろう。
平和、未来、希望…。
そのようなものが溢れる会場の中で、彼は逆のことを感じていたのである。
これはまやかしだ。
平和に見せかけているだけなのだ。
いろいろな人種の人間がいて、そして様々な国があることを少年はその目で見た。
何をどうすればいいかなどとはまったくわからなかったが、彼は真の平和、真の未来を見たくなった。
具体的なものは何一つわからなかったが、彼の方向性はここで決まったのだ。
そして、同じ会場で人類の未来を思い描いていたドイツ人がいた。
この会場に溢れんばかりの人々。
そのほとんどが日本人であるにしても、その視界には必ず別個の人種の人間が入ってくる。
オリンピックとは違い、ここにいるのは特殊技能を持った者ではない。
その意味においては人類の見本市ともいえる。
そこで彼は考えた。
真の平和とは何か、もし人々の外見の違い、人種の違いがなくなってしまったらどうだ?
少年とは違い、既に大人でしかも財力も身分もあった彼は、その思いを具現化するために動き出したのであった。

もしかすると、あの万博会場で、六分儀ゲンドウとキール・ローレンツはすれ違っていたのかもしれない。

そして、もう一人。
彼は同じ年恰好のある少年と、すれ違うどころかそれ以上の出逢いを果たしている。
稀に銭湯に入るものの薄汚れた印象は否めない彼と、喋れば方言が出るもののいかにも育ちが良さそうな少年には接点がない。
大きなリュックサックを背負っているからこそ家出少年だとすぐにばれる事に後のゲンドウは気がつかなかった。
彼にとって家であり、またあのヤクザに買ってもらったものなのだから、このリュックを捨てることはできない。
警備員に声をかけられて当意即妙な答ができるのならまだしも、彼はすぐに逃亡を図ってしまうのだ。
口下手な彼に言い訳などできよう筈もない。
もっとも彼にとって幸いだったのはとんでもない人ごみのおかげで逃げ切ることができたのだ。
それでももう駄目だと思ったことが2回あった。
一度はおそらく高校生くらいの制服の少女に助けてもらい、そして今一度は…。
こちらの方はゲンドウも今やすっかり忘れてしまっている。
それに少女の場合と違い、二人の接触はほんの数秒だったからだ。
トイレに逃げ込んだ彼は個室から出てきた少年を押しのけるようにして中に飛び込む。
他に空いている場所があったのにどうしてと少年が首をかしげていると警備員が入ってきた。
同じ少年ではあるが明らかに見た目が違う。
警備員はここに家出少年が入ってこなかったかと尋ねた。
すると少年は反対側から出て行ったと嘘をついた。
自分でも不思議だった。
何故嘘をつく必要があったのか。
おそらく万博の高揚感のためであろう。
疑いの目を閉まっている唯一の個室に向けた警備員に少年はこう答えた。
そこにはお父さんが入ってる、と。
その言葉を信じた警備員は足早に反対側へ向かった。
少年は念入りに手を洗い、そして警備員が戻ってこないことを確認すると個室に向かって声をかけた。
もう大丈夫だよとの声を聞き、個室から顔を覗かせた時、そこには既に少年の姿はなかった。
面映い気持ちになった少年がそそくさとトイレから出て行ったことなどわかるわけがない。
それにどちらの少年も時間がなかったのだ。
松代から出てきた少年は少しでも多くのパビリオンを回ろうとしていた。
入院したばかりの叔母さんにスタンプ帳を見せたかったからだ。
そして、川崎からやって来た少年はつかまる前に少しでも多くのものを見たいと願っていた。
こんなに警備員が多くてはいずれ補導されてしまうだろう。
でもこの万博のパビリオンや風景などをどうしても見たい。
祭りなどには行ったことも見たこともない少年にとっては、これこそ特大の祭りのように思えたからだ。
もしこの時の少年の顔をあのヤクザが見たならば大声で笑っただろう。
子供っていうのはこうでなくっちゃいけねぇなどと嬉しそうに顔をほころばせながら。
この二人の少年がもっと密接な関係になるのは30年以上経過してからだ。
しかし、二人ともあの場所で顔を合わせているなどとは考えもつかない。
双方ともに記憶にすら残っていなかった。

ともあれ、ゲンドウは己の目的を果たすために他人には一定の距離を置いて接してきた。
例え、男と女の関係に発展してもそれは同様だ。
その女とベッドに入るのもそれはあくまで目的のためで、自分の快楽のためではない。
況して、愛情など問題外だ。
しかし、それがユイの場合はそうではなくなったのだ。
この世の中に自分の心を愛してくれる女などいる筈がない。
いる筈のない女が、なんと今自分の腕の中にいる。
その女に彼が敵う訳がなかった。

「文句は…」

「ないわよね。女の子ならレイ、男の子ならシンジ。そしてそのお父さんは、あなた。これで決定」

婚約はしたが、計画遂行のために結婚や出産はできるだけ伸ばすつもりだった。
しかし、この時ゲンドウは直感した。
2年か3年、それくらいのうちにはユイの希望通りになっているような気がする。
そして、きっと…。
ユイの髪が金色になることは永遠にないだろう、とも。





同日、同刻 松代にて



「何故だ。いつもなら…」

「ごめんなさい。今日はそういう気分じゃないの」

マチコは嘘を吐いた。
彼女の身体は男を求めている。
もしそれによって心臓が悲鳴を上げ、そしてこの世を去ってもいいと思ってしまうくらいに。
しかし、彼女はすんでにそれを思いとどまった。
そんなことをすれば、彼女の計画はすべて破綻してしまうではないか。
何よりも、今日彼が自ら身体を求めてきているのだ。
彼女の方からはまるで誘っていない。
マチコは男の心理を完全に読んでいた。
夫はあの娘に欲情してしまったのだ。
その心を鎮めるために妻の身体を利用しようとしている。
そのことについて、またもや彼女は矛盾した感情を抱いた。
夫の気持ちが揺れていることを喜び、そして揺らいだことに腹を立てている。
結婚以来一度も他の女の身体になど反応していなかったのだ。
それがあんな小娘に…。
いや、小娘に亡き叔母を重ねて夫が見ているのもマチコにはよくわかった。
そんな彼の思いがインモラルだとは思えなかった。
実際に彼と叔母が身体を重ねたわけではないのだから。
もし彼の叔母が存命だったとしても、それはただの憧れで終わっていたに違いない。
そして、それを糧にして別の女性に恋をしていた筈だ。
憧れの人に似た容姿の人か、それとも全然似ていない女性だったか。
とても興味の沸く命題だが、今はそれよりも夫が欲情している方が問題なのだ。
もちろん彼にも発情期ではないが、そういった類の時期があることは確かだ。
しかし、それは漠然としたもので、何かに誘引されたものではない。
絶えず一緒にいるのだから、その辺りは理屈ではなく、感情としてわかる。
ところが今は明らかにあの娘の何かに触発されているのである。

「そうか、すまん」

男は妻の胸に伸ばしていた手を引いた。
その時、マチコは彼の手に縋り引き戻したかった。
どうして諦めるの?わたくしのことを滅茶苦茶にして。
そう言いたかったが、ぐっと歯を噛みしめてそれを堪える。

マチコは最近、何故夫を死なせないようにしているのか不思議に思うようになっている。
もちろん、こんな計画を立てた理由は覚えている。
しかし、ここまで固執する必要があるのだろうか。
あの娘の淡い恋心をたきつけて、燃え上がる炎に二人を包ませようとしているのは何故?
天啓、という言葉がある。
だが、それが天啓であるなどとは当の本人に判るはずがない。
すべてが終わってしまってから、あれが天啓だったのだと振り返るものであろう。
これはそういった類のものではないのだろうか。
死にゆく自分が夫を道連れにせず、いつまでかわからないがともかく生きさせる。
そのことに大きな理由があったのだということに、何十年も先にわかるのかもしれない。

それをわたくしは知ることができるのだろうか。
マチコは寂しげに笑った。
もし、知ることができるのならばどれほど嬉しいことだろう。
そして、夫がその役目を終えるときには…。
できれば、わたくしの手で彼を導きたい。
もう、いいのだと。もう、わたくしのもとにいらっしゃい、と。

そして、マチコは自分と同じ名前の娘に心の中で詫びた。
もし彼女が夫に抱いている感情が恋心でないのならば、とんでもないことを彼女に押し付けているのだ。
それは恋心であると確信しているのだが、やはりもしかすればと思う時もある。
自分に人の一生を左右する権利があるわけがない。
あるわけがないのだが……、それでもマチコは思い描いた計画を進め続けざるを得なかったのであった。

「あの娘…。叔母様に似てらしたのですね」

ぼそりとマチコは隣の夫に語りかける。
娘はともかく、夫の方に男女としての愛情を抱かせねばならないのだ。

「いや、違う」

あまりに断定的な物言いに、マチコは夫の横顔に目を向けた。
彼はじっと天井を…いや、そのもっと先を見つめていた。

「どう…違いまして?」

「もう、彼女を家に呼ばない方がいいのかもしれない」

「あら、どうしてですの?」

「うむ…。やはり、世間の目というものもあるだろう」

そのあまりに常識的な理由に、マチコはころころと笑う。

「今さら何を仰ってるのです?もう世間の目とやらはそのようにしか見ていませんわ」

「何だと…」

夫がマチコの方を見た。
薄ぼんやりとした空気の向こうに、真っ白な妻の顔が浮かんでいる。
数秒、彼らはじっと見つめあった。

「あの娘は、それを承知でここに来てます。
もし、あなたが来るなと言えば、その言葉は逆に彼女を苦しめることになりますわ」

「しかし、だな」

男は背筋に冷たいものを感じた。
女という生き物はなんと恐ろしいものだろうか。
妻も、そしてあの娘も。

「あなたが大人なのでしたら、今まで通りに接しておけばいいことです。
別に世間様に後ろ指を刺されるようなことを何一つしていないではありませんか」

男は音がするくらいに大きく、そして長く息を吸った。
妻はお見通しなのだ。
世間の目を理由にしているだけで、自分が卑しい感情をあの娘に抱いたという事を。
そこまでは正しかった。
しかし、その後の読みは狂った。
だから、抱かれることを嫌がったに違いない、と。

「マチコ、すまん」

そう呟いた後、男は初めてその妻を自分の欲情が赴くままに抱いた。
計画が狂ってしまうことにマチコは抗ったものの、結局は彼を喜んで迎え入れてしまったのである。
その夜、歓喜の渦中で文字通り、彼女は死ぬかと思った。





2000年 −如月−



マチコは男の胸に飛び込んだ。
しかし、男は抱きしめてはくれない。

「先生。私じゃ駄目なんですか?」

「すまない」

男は素っ気無く言うと、南雲マチコの肩に手を置き自分の身体から押し離す。

「奥さんがいるから?」

「いや、いなくても、君は」

「親子ほど歳が違うからなのね。馬鹿みたい」

マチコは男を睨みつけた。
唇を噛んで彼を見上げる。

「私が、いつから先生を見ていたか知ってますか」

「いや…」

「惚けないで下さい。何度も言いました」

18歳になったばかりのマチコは今日こそはと覚悟を決めてきている。
あと一週間で卒業式なのだ。
それを過ぎるとすぐに東京へと旅立つことになる。
寮に入り新人研修が始まる。
しばらくは、いやもしかすると二度とここを訪れる機会がなくなってしまう。
マチコはそんな予感がしていた。
彼女はもはや自分の目的を見失っている。
こうやって彼の胸に飛び込み、それでどうしようというのか。
テレビのドラマのように男を意のままにして蔵の中の女を殺害し、自分がその後釜に座ろうとでも?
そんな妄想さえマチコは抱いていない。
ただ、彼女は自分の思いを打ち明けたかっただけなのかもしれない。
何故ならこの数ヶ月、彼女はあの夫婦の絆の深さを見せ付けられてきたのだから。
絶望感の中で、彼女は思いを打ち明け、できることなら一度だけでも彼に抱かれたかった。
そのことで自分が生まれ育った松代という町に別れを告げたかったのかもしれない。

「私は奥様をどうこうしようとなんて思っていません。ただ…、ただ、私は」

「駄目だ。帰りなさい。家内が見ている」

男が鏡を目で示した。
合わせ鏡の中に蔵が見える。
いつものようにまるで目のようにぽっかりと開いた黒い扉。
いや、いつものように開いたのはここ数ヶ月のことだ。
それまでは、9つの鍵で厳重に内側から閉ざされていた筈である。
そのことを娘は知らない。
知らないが、蔵の中から彼女が見ていようがいまいがかまわないと思っていた。
寧ろ見ていて欲しいとまで感じていたのかもしれない。

「わかってます。それに、奥様だってわかっててやってるんです。
私とあなたが…その…そういうことになったらいいって」

「何を馬鹿なことを言ってるんだね、君は」

男は失笑した。
しかし、マチコには確信があったのだ。
この2ヶ月もの間、彼女は鏡の中の蔵と睨みあってきた。
一度も声を聞いたこともない、顔も知らない相手なのだが、蔵の中の女は自分を焚きつけているのだと感じていた。
その結果を楽しんでいるのかどうか。
もし男がマチコの誘惑に屈したならば、彼女はどうする気なのか。
その時には日本刀を持って蔵から飛び出してくる?
まさかそんなことはないだろうと思いながらも否定しきれないところが苦しい。
だから、これまで躊躇ってきたのだともいえる。
しかしもう限界だった。
時間がないことにより、彼女も追い込まれてしまったのである。
さっさと彼の事など忘れて、東京に出て新しい恋を見つければいいではないか。
それも確かに考えたことはある。
だが、それでは負け犬になってしまう。
二度と帰るつもりのない故郷だからこそ、逃げ去るようにして出て行きたくなかったのだ。
それが彼女の、最後の意地だった。

「わかってなかったんですか?」

呆れたかのように笑った顔をしたものの、マチコは心の中で思っていた。
そういう人なのだ。
だからこそ、恋しい。

「まさか。それは君の勘違いだ」

「勘違いですって?ふふ、先生って…、本当に鈍感なんですね」

マチコは嬉しそうに笑った。


「とにかく」

男は半歩下がった。
本当はこんな問答もしたくない。
さっさとこの家から出て行って欲しい。
だが、無理矢理追いだす事ができない。
何故なら、そのためには彼女の身体を触らないといけないからだ。
つい今しがた、彼女に抱きつかれた時のことだ。
男は我を忘れそうになった。
「すまない」と告げる前に、どれだけの葛藤があったか。
合わせ鏡の向こうで妻が見ているのにもかかわらず、彼はそのままマチコを抱きしめそうになったのだ。
叔母の面影を映している若い娘を。
この娘は自分に抱かれたがっているのだ。
ならば彼女を抱いて悪いことはなかろう。
瞬間、とんでもないことを考えてしまった自分に男は愕然とした。
おそらく彼の人生でもっとも魔に魅入られた瞬間だったといえよう。
しかし、彼は思いとどまった。
やっとのことで思いとどまり、彼女の身体を離したのだ。
次に彼女の身体に触れようものなら、自制できる自信はない。
それほどに彼女の身体に、いや容姿に魅了されていたのである。
最初は叔母に似た姿形に心を…いや欲情を抱いているのだと思い込んでいた。
しかし、時間が経つにつれ、それが違っていることに気づいてきたのだ。
あの聖夜以来、彼は妻を抱いていない。
いや、厳密に言うと妻の方が拒否しているのだ。
彼女にとってはあの時身体を許したことで、計画に齟齬をきたしてしまったと反省している。
そしてもう一つ、今度夫とセックスすれば本当に心臓がパンクしてしまいそうな気がするのである。
だから、彼女は夫と褥を共にしていなかった。
あの夜のように彼から求めてくることはない。
いや、本音で言うと彼は妻を抱きたくてたまらなかったのだが、あの夜の自分を思い出して自制してしまうのだ。
あのように力ずくで妻を抱いたことを後悔し、そして二度とあんなことをするまいと心に誓ったわけだ。
そのことが逆に肉欲の煩悩に自分を追い込む結果となってしまった。
さすがに夢精するところまではいかないまでも、一人寝の夢に登場するのは南雲マチコその人だった。
叔母でもなく、妻でもない。
ある時はピアノを弾く彼女を抱きしめ、またある時は畳の上に押し倒して。
そこで夢が醒める。
醒めてしまうから、なおさらに南雲マチコへの欲情が積もり積もっていったに違いない。
ピアノを弾く彼女のそばにいることがどんなに辛かったか。
彼女をそういう目で見ないように必死で自分を戒めてきたのだ。
そして、だからこそ余計に彼女を意識してしまう。
このところ、ずっと男は苦しんでいたのである。

もう駄目だ、と南雲マチコは観念した。
言葉で男を動かすことはできない。
だが…。
彼女は知っていた。
男の目に別の光が宿ることがある時が何度か見受けられたのだ。
彼女と視線が合うと慌てて目を逸らしていたが、明らかに自分を女として見ていたに違いない。
そのことを察知したからこそ、彼女は決意していた。
マチコは唇を噛み、心の中で大きく頷いた。
もうこれしかない、やるのだ、と自分を奮い立たせる。
彼女はセーターを脱いだ。
最初からそのつもりで服を選んできているのだ。
ボタンを外さないといけないような服は着ていない。
男があっけに取られた数秒の間に彼女は下着だけの姿になった。

「お、おい、やめろ」

「やめません」

マチコは寒いとは思わなかった。
合わせ鏡のために窓も開け放たれているのに、少しも寒いと感じない。
寧ろ身体が火照ってきている。
彼女は下着も取り払い、産まれたままの姿でその場に立った。

「見て、ください」

その時には、男は固く目を瞑っている。
絶対に見てはならないと彼は自分に言い聞かせていた。
一瞬でも見てしまえば、もう終わりであることを彼は知っている。
間違いなく、その場で彼女を押し倒しているだろう。
鏡の向こうで妻が見ていることを承知で。

「お願いです。見てください!」

マチコの叫びに、男は身体を震えさせる。
手を伸ばせば届くところに、裸の娘が立っているのだ。
彼が手を伸ばせないようにぎこちない動きで背を向けた。

「頼む。帰ってくれんか」

「いや!帰りません!」

マチコは彼の背中にすがりついた。
背の高い彼だから首に手を回すことはできない。
だから彼の腕ごと抱きしめる形になった。
ぎゅっと強く力を込める。
素肌に男のセーターの感触がちくちくする。
しかし、これはどういうことだろうか。
さっきは寒さを感じなかったのに、男の身体に触れた途端に薄ら寒さを感じた。
嫌悪感とかの類ではない。
言うなれば、彼との物質的な距離が零となったにもかかわらず、精神的な距離感が大きく膨らんだように感じた。
そのような感覚を受けたのだ。
やっと恋しい男の身体に触れることができたのに、ここにいるのは別の人間のような気がする。
マチコはそんな思いに囚われて、男に呼びかけた。

「先生?」

男は僅かに呻いた。
早く身体を離してもらわないと我慢しきれないかもしれない。
妻のものとは明らかに違う身体が衣服越しでもわかる。
ああ、抱きしめてしまいたい。
そのような気持ちが心の奥底から湧き出てくるのが自覚できた。
このままではその思いに支配されてしまうだろう。
彼はこの状況から逃れる術を必死に考えた。
相手は若いといっても女性なのだから、無理矢理に身体を引っぺがすことは可能だろう。
しかしそのためには彼女の身体を見ないわけにはいかない。
例え目を瞑っていたとしても、取っ組み合ううちに彼女に触ってしまう。
そのままなし崩し的にセックスにもつれ込むことは明白だ。
自分が聖人君子でないことは彼はよくわかっている。
その目で見、その手で触ってしまえば、もう歯止めは利かない。

「一度だけでも、お願いです」

そうか、一度だけなら…。
まさに悪魔の囁きだった。
その囁きに危うく乗ってしまう寸前で、何とか男は思いとどまる。
絶対に一度では済まない。
彼女はおそらく処女だろう。
一度抱いてしまうとその後は…。

「駄目だ。私には妻がいる」

「いなければいいんですね」

マチコは男の揚げ足を取った。
最初に妻がいても駄目だと言われていたが、今の言葉は微妙にニュアンスが変わってきている。
その違いを彼女は利用したのだ。

「あ、いや、つまり…」

男も自分の変化に気づき口篭る。
このままでは本当に逃げ道がなくなってしまう。
元々口下手なのだから、言葉で解決しようという方が無理なのだ。
男は方針を決めた。
彼はいきなり歩き出したのだ。

「えっ!」

マチコは躊躇った。
男を離すつもりはない。
しかし、どんな反応をすればいいのだろうか。
反抗すればいいのか、それとも力を抜いて従えばいいのか。
体格の違いもあっただろうが、やはり彼女の躊躇いが男を有利に導いた。
彼は部屋を抜け、縁側に達する。

「ち、ちょっと、ええっ!」

男は彼女に構わず、縁側から庭に下りようとする。

「ま、待って!」

マチコは全裸なのだ。
しかも季節は冬。
雪は積もってないが、風は冷たく、地面は固く冷たい。

「どうだ。このまま外に出るぞ。それでもいいのか」

「ひどい!」

こんな姿で屋敷の外に出れば、もう二度と自分は…。
パニックに襲われたマチコだったが、そこで急に思いついた。
そうなったとして、困るのは自分だけではないではないか。

「いいですよ。外に出るんですね」

「何?」

「先生が望むなら、私は従います」

「待て。世間の笑いものになるぞ」

「よく考えたら、もうなってるんですもの。
 それに、こんな姿を見られたら先生に愛人にしていただくか、自殺するしかないですよね」

しまった。
男は自分の考えの浅薄さを嘆く。
確かにこれでは自分を追い込んだだけではないか。

「さあ、行きましょう」

退路をなくした男が縋る者はただ一人しかなかった。

「マチコ!助けてくれ!」

マチコは息を呑んだ。
自分ではない。
あの時知った男の妻の名前に違いない。
男は蔵に向かって歩き出した。
その時、マチコの手から力が抜けた。
自分でもその理由はわからない。
わからないのだが、もう終わりなのだと自分で決めた。
マチコはゆっくりと縁側に上がり、足の裏を掃おうともせず、服を脱ぎ散らかした部屋に向かった。
とぼとぼとした歩みの彼女はぐっと自分の胸を抱いている。
寒い。
身体中が寒い。
早く服を着たい。

男は立ち尽くしていた。
庭の真ん中で、ただ呆然と空を見上げていた。
振り返ることもできず、蔵を見ることもできない。
何故急に娘が自分から離れていったのか、まったく理解できないままに彼は透けるような青空をただ見つめていた。



3人の中でこの時点で理由がわかっていたのは、彼女だけだったかもしれない。
蔵の中のマチコはわなわなと身体を震わせていた。
双眼鏡を使わずに、その眼で鏡の中の光景を見つけている。
細かいところまでは見えないが、どういうことになっているのか見当はつく。
最初は妬心を抑え、元よりの計画通りに進みそうな展開にただじっと見ていた。
しかし、やはり夫に対する愛情が勝ってきて、彼女を使っての計画自体を断念しようという気持ちになる。
そんな時だった。
南雲マチコが裸になったのは。
彼女は息をするのも忘れて、鏡の中の白い裸身に見入った。
夫は本能的に抱きしめるのではないか。
そう思ったのだが、彼は背を向け彼女を相手にしようとしていない。
その時、彼女は愛情という部分での勝利を確信し、計画が完全に崩壊していく音を聞いた。
だが、娘はあきらめない。
彼に抱きつき、懇願している。
その様子を見ているマチコの眼から涙が零れ落ちてきた。

「あなた、抱きしめてあげて…」

マチコは鏡の中に見える夫に向かって呟いた。
矛盾するようだが、同じ女として娘が哀れでなかったのだ。
それもあくまで自分が深く愛されていることを承知したからの言葉なのであったが。
しかし、彼がそんな事をするはずもないことを彼女は重々承知している。
ここでそんなことができるのならば、こういうことにはなっていなかった筈だ。
自分はどこで間違ってしまったのだろうか。
そもそも自分の命が残り短いことで、その時が来た場合、夫に後を追わせないようにする為だった。
その方法として、彼女の想いを利用した。
しかも何と、女性に興味を持たない夫が憧れていた叔母に似た容姿の彼女に惹かれていることもわかった。
だが、巧くいかなかったのである。
それは聖夜に夫に身体を許してしまったからかと最初は考えた。
しかし、その考えが違うことにマチコは気がついた。
男と女の関係は理屈ではないのだ。
偶然が重なっていいところまで進んだのだが、結局は夫の意志の強さに負けてしまったのである。
それは、自分を愛する心に他ならない。
これではまるで夫に踏絵をさせているだけではないか。
自分の見ている前で、好意を抱いてしまっている娘に告白され、それを必死で拒絶している。
やがて、夫は何を思ったのか、裸の娘を背中に従えたまま庭に飛び出してきた。
そこまで来ると声が聞こえる。
夫の浅薄な逃げ道を娘は逆に利用しようとしているではないか。
その必死な姿に、マチコは錯乱しそうになる。
この蔵で一緒に二人で夫を愛さないか?
そんな倒錯した考えを思い描いてしまったのだ。
ところが、その考えは誰に提案することもなく終わる。
夫が叫んだのだ。
彼女の名前を。
すると、娘は彼から離れた。
そして、若く瑞々しい裸身の娘は屋敷の中に入っていく。
その後姿は裸身だから余計に侘しく、そして儚く見えた。
マチコには彼女の気持ちがよくわかった。
あんな状態で妻に助けを求められては敵わない。
まして、おそらく彼はそのまま蔵に向かうに決まっている。
彼女は自分に同情されて欲しくなかったのだ。
男は自分の意思で彼女を抱かないことはわかっている。
しかし、蔵の中に赴けば、その妻は抱いていいというだろう。
すると、彼女は男に抱かれることになる。
その“男”というのは本当に恋しい男のことか?
違う。
それは妻の言いなりで動くただのロボットだ。
だから、彼女は離れていったのだ。
彼女の求める結果が待っているのに、それは彼女の目的とは大きく異なってしまうから。
それではあまりに自分が哀れだ。
しかし、きっとそんな気持ちは自分ではわかっていないだろう。
そして、庭で佇んでいる夫も。
彼はじっと空を見つめている。
娘が離れていった理由もよくわからないままに、ただ呆然と。
そんな夫の姿にマチコはぼろぼろと涙をこぼしていた。
夫に悪い。あの娘に悪いことをした。何よりも、自分が馬鹿だった。
こんなことなら、夫によく話して聞かせればよかったのだ。
あの人ならば、約束さえしてしまえば、それを絶対に守るだろう。
わたくしは、馬鹿者だ…。
マチコは床に突っ伏して咽び泣いた。

「許して。わたくしを許してください」






第七章 了






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