− マチコ −


第一部



第六章   「過去」






1999年 −聖夜−

碇ユイは汗まみれになった身体を横たえた。

「またシャワー浴びなきゃ」

そう呟くと、傍らに仰向けになっている六分儀ゲンドウの二の腕を軽く摘んだ。

「痛いではないか」

「妊娠したら責任とって貰いますよ」

「安全日だといっただろう」

「100%安全だなんて補償はありません。あ、でも、妊娠したら結婚が早くなるのよね」

女は楽しげに笑い、男はむぅと唸った。
正式な結婚は3年は待つという約束を今日したばかりだった。
本音で言うと、今すぐにでも結婚して彼女の身も心も、そして戸籍的にも自分のものにしたいところなのだが、そうもいかない。
彼には野望があるのだ。
そのためには、今の碇ユイに妻や母親という足枷を付けさせるわけにはいかない。

「だけど、本当にいいの?」

ユイは何度目かの質問をしてきた。

「くどいな」

「だって、私、碇なんて姓に何の未練もないのよ。死んだ両親も家名は考えずに嫁に行けばいいって言ってたもの」

「問題ない。俺は碇でいい」

「私、六分儀っていいと思うんだけどなぁ。六分儀ユイ。いい感じじゃない?」

男は無愛想な表情で首を横に振った。

「碇より余程ロマンチックな苗字よ。ねぇ、お嫁さんにしてよぉ」

「うるさい。六分儀などくだらん」

「ちぇっ、じゃ、子供の名前の方は私に決めさせてもらいますからね。女の子なら、レイ。これは決めてるの」

「レイ…、だと?」

男は眉を顰めた。

「たしか、その名前は…」

「ええ、マチコお姉さまの」

その先は言わないでも伝わるだろうとユイはそこで言葉を切った。
しかし、死産した子供につけられた名前を受け継ぐというのはいかなるものかと男は思う。

「不吉だな」

「酷いっ。でも、お姉さまは逆に怒るかもね。神経を逆撫でしたって」

「普通はそうだな」

「でもね、昔のお姉さまなら喜んでくれるはずなの」

「今は、昔とは違うのではないか」

男もユイの唯一の親戚のことはよく知っている。
死産した後、精神を病んで、現在は松代の片田舎で蔵の中に閉じこもっていることを。
ユイは暗い部屋の天井に微かに見える照明器具を見つめた。

「私ね、お姉さまは案外正気なんじゃないかなって思ってるの」

「どうだかな」

「私と会うとそれがばれちゃうから、それで会ってくれないんだと」

「根拠のない推理だ」

「くっ、冷たいのね、相変わらず」

「俺はそういう男だからな」

男がそう言うと、ユイはくすくす笑い出した。

「このお馬鹿さん。私には通用しないわよ。その仮面の下には何が隠れているか、この私にはお見通しなんですから」

男は黙った。
これ以上、会話をするともっとどぎまぎするようなことを彼女は言い出すだろう。
可愛いとか、情が深いとか、世間の人間が彼に対して思いもしないようなことを。
それを言われない前に、男は実力行使に出た。
彼女の身体に覆いかぶさったのだ。

「こ、こらっ。何回すれば!馬鹿っ」

そう言いながらも、ユイはキスに応え、男の背中にまわした手でしっかりと彼を抱きしめたのだ。

「私、あなたの子供を産みたい」

ああ、産ませてやるとも。
男は心の中で叫んだ。
名もない男の子供をな。
六分儀ゲンドウという名前を持つ男は、この世に産まれおちたときの名前をもう忘れかけていた。





1981年 −冬−

その男は教えられたとおりの場所にいた。

「あんたが、その六分儀か?」

「ああ、俺が六分儀ゲンドウだ」

「ゲンドウ?ゴンドウではないのか?」

懐かしい名前に似た響きを耳にし、サングラスの青年が顔を微かに綻ばせた。
だがすぐに、その顔は無表情となり、ぼそりと呟く。

「物凄い名前だな」

「そうだろう?ちょっとやそっとじゃお目にかかれない名前だ。こいつは高いぜ」

男は薄汚れた顔を歪めてニヤリと笑った。

「ふん、くだらん。約束通りの分しか払わんぞ」

「ああ、いいぜ。しかし、まあ、この俺にまだ売れるものがあったとはなぁ」

「確認するが、前科は本当にないんだろうな」

サングラスはつけているが明らかに自分よりも年下の青年に偉そうな口調で問われても、男は平気だった。
自尊心というものは遥か昔に何処かの裏通りで棄ててきていたのだ。

「そういう気概があったなら、今こうしてはいないさ」

新聞紙を詰め込んだ破れジャンバーを着た男は、醤油の瓶を振って見せた。
ゴミ箱をあさって出てきた酒の残りを集めて飲んでいるのである。

「親戚はいないか?」

「ほとんどピカで死んでるそうだ。六分儀は長崎だったからな」

「いるのか、いないのか?」

「しつこいな。俺の知ってる限りではいない。俺を育てたのは親類じゃなく、保護司だった」

「なるほど」

「で、中学の時にそいつのところの小娘を襲い損なってそのままとんずらした。
まあ、その時の水も滴るような美少年と今の俺じゃ見分けがつかないだろうて」

「ヒモで食いつないできたそうだが?」

「ああ、こいつが健在だったときはな。ヤクザの野郎につぶされっちまって、それからは廃業よ」

男は股座を指差して、げらげら笑った。
男の武器がないヒモなど確かに商売にならないだろう。
浮浪者に成り果てるのも仕方がないと、青年はそう判断した。

「へへへ、楽しみにしてるぜ。何をするんだ?タタキか?殺しか?
六分儀ゲンドウの名前がどんな場所で出てくるのか、わくわくするぜ」

「わかってるだろうが、しゃしゃり出てきたら…」

「ふん、約束なら何度でもしてやるぜ。俺はそんな馬鹿じゃねぇ。
お前は恐ろしいヤツだ。見ればわかる。すぐに殴ったりはしないだろうが、それ以上のことをするに決まってる」

社会の底辺部を生きている男は、青年の本質を見抜いていた。

「だからよ、お恐れながら俺が本物の六分儀ゲンドウだって名乗りだしやしねぇよ。
そんなことをしても一文の得にもならねぇ。それよりも、だ」

男は掌を差し出した。

「今の銭だ。出すものさえくれりゃ文句はねぇ。俺は今から名無しのゴンベェってわけだ。
ま、顔見知りの連中も俺の本名なんてしらねぇしな」

「何と呼ばれてるんだ」

六分儀ゲンドウの名前を受け継ぐ青年は、少し好奇心が沸いた。

「へへへ、聞きたいか?玉無し、ってよ、そう言われてんだ。ははは、わかりやすいだろ」

「そうか、じゃ、名無しの玉無し。約束のものだ」

青年はジャンパーのポケットから剥き出しの札を出した。
それを男はひったくるように奪い取る。
そして、震える手で何枚あるのか数えようとする。

「戸籍がよ、20万に化けるとはな。こいつぁいい商売だぜ」

「まあ、達者に暮らせよ。おい、約束の覚書をよこせ」

「おう。覚えてる限りのことは書いておいた。読めるか?」

男は破れたぼろぼろのジャンバーのポケットから紙片を何枚か取り出す。
特売のチラシの裏などに案外整った字でいろいろと書かれていた。
青年はちらりとそれを読み、何とか読めると答えた。

「へへ、これで取引完了だな、六分儀ゲンドウさんよ」

「うむ、問題ない」

そう言ったきり、彼はすっと背を向けた。
そして、歩きかけ足を止める。

「玉無しのおっさん。これもやるぞ」

彼は着ていた皮ジャンパーを脱ぎ、男に放った。

「おっ、いいのか?悪いな。で、お前さんは…じゃねぇ、六分儀さんはこの寒空を上着無しでどうするんだ?」

皮ジャンパーを抱え込んだ男に、六分儀ゲンドウという名前になった青年はニヤリと笑った。

「これから、初仕事なんだ。あばよ」

踵を返し歩き出した彼は二度と振り向かなかった。
男がバイバイと手を振っている姿も見えなかっただろう。

その夜、六分儀ゲンドウは軽犯罪違反で警察に留置された。

「ジャンパーを盗まれたから、頭に来て暴れただと?この馬鹿もんが」

警官の叱責に青年は鼻で笑って返した。
前科者になるのは困る。
しかし、ここで指紋をとられ、六分儀ゲンドウは自分だという証明をさせるつもりだったのだ。
本籍地などもすべて暗唱できるようにしていた。
“玉無し”が書いた覚書はすべて暗誦できるようにしてからライターで燃やしてしまった。
実は17歳になったばかりの彼だが、その武骨な風貌は25歳で充分通用している。

「余罪があるかもしれんからな。留置期限までたっぷり調べてやるぞ。どうもお前の面はとんでもないことを仕出かしそうな気がする」

指紋をとられた青年は、雑居房に放り込まれた。
その翌日である。
彼に殺人罪の容疑がかかったのだ。
刺されて死んだ浮浪者が着ていたジャンバーから、彼の指紋がベタベタ出てきたのである。
被害者はあの“玉無し”だ。
しかし死亡推定時間には彼は既に警察に留置されており、事情聴取されている間に犯人も捕まった。
浮浪者仲間が急に羽振りがよくなった“玉無し”から金を奪おうとしただけの事件だった。
“玉無し”は青年からジャンパーと金を盗んだ犯人にされてしまい、死んでしまってから犯罪者となったのである。
血塗れになったジャンパーは返ってこなかったが、青年の手元には残金の15万2千円余が戻ってきた。
彼は警察で“玉無し”の遺体と面通しをした時、心の中で手を合わせた彼だったが、
言葉の上では、こんな感じのヤツだったと証言しただけだ。
結局“玉無し”の言葉に嘘はなく、結局その身元はわからずじまいでに死体は無縁仏となった。

かくして、六分儀ゲンドウという名前の男が福岡の町に降って湧いたのであった。
何をするのかまだ決めていなかったが、これで名前を手に入れた。
川崎で育ったありふれた名前の、そしてその後別の名前を騙った少年は、もうこの世に存在していない。
親兄弟もなく、何の身分もない男のこれが新たな第一歩だった。
とにかく、格式のある、一風変った名前を手に入れ、それを武器にするのが彼の計画だったのだ。

その数日後、青年は、いや、ゲンドウは波間に浮かぶその異様な島影を凝視した。
確かにこの映像だ。
子供の時から夢によく見る映像が、今目の前に広がっている。
その島の姿が彼の原風景であった。





1999年 −聖夜−

「何を見てるの?」

「むぅ…」

「遠くを見ていた。きっと昔のことを思い出していたのね」

ユイは彼の胸にすがりつきながら、彼の心を決め付けた。
しかし、それはその通りだったので、ゲンドウは何も言い返さなかった。

「いいわ。それよりも、未来のことでも話しましょう」

「未来?裏死海文書の…」

「馬鹿ね。そういうのを寝物語にする?私たちの…ううん、私たち家族の未来についてよ」

「家族…か」

ユイはくすくすと笑った。

「あなた、子供が怖いんでしょう」

「馬鹿な」

否定したが嘘である。
ゲンドウは子供というもの自体が苦手だった。
そして、それが我が子とでもなれば尚更である。

「ふふ、お馬鹿さんね」

ユイは彼の嘘をまるで受け付けていない。
そのまま話を続けた。

「子供たちはみんなお父さんのことを大好きよ」

「たち?一人ではないのか」

ユイはぱっと両手の指を広げた。

「10人!…は、ちょっと無理ね。じゃ、3人で我慢してあげる」

「そんなに…」

「もうっ、これでも遠慮してあげてるのに…。あっ、そうそう!あのね、あなた」

今日のユイは思考が飛びまくっている。
彼女にわからないように、男は自分の太腿を抓り上げた。
どうしてこんな自分と結婚の約束をしただけで浮かれているのだろうか。
演技とも見えないし、自分を騙しても何のメリットもないはずだ。
そもそも自分のような独りよがりなセックスをする男になど、精神的以外に好意を持つはずがないではないか。
ゲンドウは心の中で自嘲する。
これまで肉体関係を持った女がみな口を揃えて文句を言っていたではないか。
テクニックもなければ、ムードもクソもない、と。
彼が愛のない、独りよがりのセックスをするのは理由があった。





1970年 −夏−

少年は暗い部屋で一人膝を抱えていた。
一見すると中学生かと思わんばかりに背が高かったが、よくみれば顔はまだまだ小学生である。
彼は空腹だった。
カルキ臭が強い水をがぶ飲みするだけでは腹の虫を抑え続けることはできない上に、水ばかり飲んでいては気分が悪くなってしまう。
せめて夏休みでなければ、学校で給食にありつけるのだ。
しかし今は金がなければ、何も食べることはできない。
あの男にもらった100円は4日目の夜に買ったコッペパンで使い果たしてしまった。
そのコッペパンの残りも昼に食べたひとかけらで終わりだった。
その後はもう水道水しかない。
男は一週間で帰ると言っていたが当てにはならない。
いっそ泥棒でもするかとまで思ったが、少年は何故かそういう類のことができなかったのである。
もしかっぱらいなどが平気でできる子供だったなら、男との関係ももう少しましだったかも知れない。
少年は丸い姿勢のまま横に転がった。
空腹だったが、部屋の中で眠れることだけはありがたい。
いつもは彼の居場所は押入れの中だから。
彼はその本来の寝床をぼんやりと眺めた。
灯りなどないその空間では彼は眠ることしかできない。
しかし長い夜の間をずっと眠っていられるわけがなかった。
そんな時、彼の耳にはあの物音や変な声が入ってくる。
まだ彼にはそういう分野の知識はなかった。
ただ大人の男と女がそういうことをするのだということはよく知っている。
毎晩のようにそういうものを聞かされたり、たまにはその目で見ることもあったからだ。
何故なら押入れにはトイレはないからである。
真っ暗な押入れから這い出てきた少年の目に映ったのは、夜具の中で、または裸体を晒して抱き合う男と女の姿。
男の方は悪びれもせず少年に目も向けない。
女の方は…少年はいちいち顔を覚える気がないから誰がどうとは言えないが、
恥ずかしがり顔をそむける者もいれば、男と同様に知らぬ顔でいる者もいる。
中には少年の顔を見て淫蕩に笑う女さえいた始末だ。
無論毎日のことではない。
男が帰ってくること自体3日に一度くらいなのだから。
ただその一度の時に必ず男は女を連れて帰ってくるのだ。
少年が性に目覚めていなかったのが幸いだっただろう。
しかしこの時、彼は強制的に目覚めさせられた。

どすどすと廊下を歩く音が聞こえたが、あれは男の足音ではない。
男が帰ってくれば食べ物にありつけるかもしれないと、痩せた少年はそれを期待していた。
期待が外れた少年は目を閉ざしたが、足音は意外にも部屋の前で止まったのである。

「あんたぁ、いるぅ?」

気味の悪い猫撫で声が扉が開くと共に聞こえた。
その声を聞いて、少年はがっくりきてしまった。
男が連れて帰る中で一番嫌いな女だったのだ。
金色に髪を染めて、露出度の高い服をいつも来ている女だ。
そして、あの淫蕩に笑う女でもあった。
少年はどうにもこの女の笑い顔が嫌いだったのだ。

「なんだ、ガキンチョだけか。ねぇ、あの人は?」

「仕事」

「仕事ねぇ。そういや組の仕事を請け負うとか何とか言ってたっけ」

「知らない」

それは事実だ。
男は一週間仕事に行ってくると言い残し、100円玉を少年に投げつけていったのだ。

「おい、ビールある?」

「ないよ。冷蔵庫なんかないもん」

「ふふん、そりゃそうだ。こんなに暑くっちゃ、ビールでも飲まないことにはねぇ」

女は胸の開いたシャツを手でバタバタさせる。
そして、靴を脱ぎ散らかすと、どさりと畳に上がりこんで胡坐をかいた。
短いスカートが捲れて下着が丸見えになるがまったく気にせずに彼女は財布を取り出す。

「おい、ガキンチョ。ビール買ってきな」

少年はうんざりとした顔で起き上がった。
腹が減って動けないと文句を言いたかったが、そんな真似をすれば後で言いつけられ殴られるだろう。
5歳の時に強引に引き取られてから身についた防衛本能である。

「なんだい不景気な面してさ。駄賃ならやるよ。ほれ、お釣りでお菓子でも買いな」

目の前に突き出された500円札を少年は目を見開いて見つめ、そして言葉もなくひったくるとどたばたと廊下へ走った。
全力疾走で酒屋に行って缶ビールを買い、そしてアンパンを2個買う。
それでもお釣りがまだ100円はあった。
これで男が帰ってくるまで何とかなるだろう。
少年はささやかな幸福を味わいながら、アパートへ戻っていった。
それが悪夢のはじまりになるとは知らずに。

女は文句を言った。
2本買ってくればいいのに気の利かないヤツだと。
少年は2本買ったらお釣りがなくなるとぼそりと言い返す。
返してこいと言われそうな気がして、アンパンを貪り食った。
その姿を見て、女はげらげら笑う。
そして、お金がなくてほとんど食べていないことを聞いて、さらに笑った。
笑いながら、ごくごくとビールを飲み干す。

「くそっ、今日はあいつととことんやろうって思ってたのにねぇ。この火照った身体をどうしてくれるって…」

部屋の隅に空き缶を投げつけた女は、背中を向けている少年の姿をじっとりとした目付きで見回した。

「おい、ガキンチョ。服脱げよ」

「え…」

「脱げって言ってんだ。すっぽんぽんになって、アタシの前に来なっ」

「そんなのいやだよ。いやだ」

「ふふん、脱いだらさ、あとでご馳走してやるよ。ラーメンでもカレーライスでも好きなものを奢ってやる」

女は少年の弱みを突いてきた。
アンパンを食べて腹の虫が一旦落ち着いたのだが、空腹であることには違いない。
何よりこの数日米を食べていないのだ。

「カレーを?」

「ああ、カレーだ。大盛りにするか?ほれ、さっさと脱ぎな。今すぐしないと、あたしゃ帰るよ」

女はけらけら笑った。
少年は恥じらいを捨てた。
いや、恥らう気持ちは大いにあるのだが、それよりもカレーライスという餌に食いついてしまっているのだ。
彼はランニングシャツと短パンを脱ぎ捨て、そして下着も取った。
そして、少年は女のおもちゃにされた。
精通どころか、勃起すらしたことがなかった少年だったが、女の手により小便を出す場所が形を変えることを知らされる。
それからが彼の地獄だった。
終わることがない快感とセットになっている不快感。
自分の身体の上で汗だくになりながら身体をくねらせている女が気持ち悪い。
金色の髪の毛と、黒い眉毛、そして黒い恥毛。
この時の経験が彼の強迫観念となっていくのは仕方がないところだろう。
精通できずにもだえ苦しむ少年を尻目に自分ひとりの快感を追い求めている女。
しかし、結局女は不満だった。
散々彼をおもちゃにした挙句、息も絶え絶えの少年をほったらかしにして、彼女は部屋を出て行ったのだ。
お前の身体にはこれくらいの価値しかないと毒づきながら。
後に残されたのは、100円玉が一枚だった。
少年は涙を流しながら服を着て、そしてその100円を握り締めて銭湯に走った。
身体中が気持ち悪い。
食べ物を買うよりもこの感触を何とかしたかったのだ。

悪夢は翌日も続いた。
女は昼間だというのにまた部屋に現れたのだ。
コンロも鍋もないのに、これでも食べろとインスタントラーメンの袋を持って。
今度はおもちゃに奉仕させようと思いついたらしく、少年は女の命令どおりに動かされた。
吐き気がするほどに少年は嫌悪感を持った。
これからずっとこういう目にあうのだろうかと呆然と考えながら、それでも従順に彼は動いた。
そんな地獄が1時間ほど続いただろうか。
いきなり扉が開いて、男が飛び込んできたのだ。
真っ裸の女は悲鳴を上げて飛びのき、男を慄く目で見つめた。
女に痩せた身体を押さえ込まれていた少年ものろのろと身体を起こす。
少年も女もそれぞれ殴られると思ったのだが、そうはならなかった。
男は女に「金を出せ!全部だ!」と怒鳴り、身の回りのものを鞄に詰め込みだしたのだ。
女が小銭入れしかないと言うと、店のマダムに借金して来いと男は凄んだ。
少年の存在など目に入っていないようだ。
そして、三丁目の廃工場にいるから一時間後に来いと言い残し、男は現れた時と同様に凄まじい勢いで去っていった。
女も少年も服を着ることすら忘れて呆然と男が出て行った後を見ていると、乱暴な足音が聞こえてきた。
半開きだった扉を乱暴に開いたのは、明らかにヤクザたちだった。

「おい!あの馬鹿野郎が来ただろう!」

少年は頷かなかったが、女は強張った顔で大きく何度も頷いた。

「き、来たよ。3丁目の廃工場に、か、金を持ってこいって!」

「よし!嘘だったら、てめぇ、商売できねぇ顔にしてやるからな、覚えてろ!」

頭株の男に脅され、女はひぃっと悲鳴を上げる。
そしてやっと自分の姿に気がついて、慌てて服をかき集めた。
そんな女の格好をにやついた顔で見るチンピラの頭を頭株の男が引っ叩く。

「サブだけ残れ。兄貴が来たら工場のことをお教えするんだ、いいな。おっ、それから女に手を出したら兄貴にぶっ殺されるぞ」

「へぇ!」

一瞬にやっと笑ったアロハシャツの男が背筋を伸ばして返事し、残りの連中はまたどやどやとアパートから出て行く。
アロハシャツは名残惜しそうな目付きで女をねめつけると、少年に怒鳴った。

「さっさと服着ろ、ガキっ。男の裸なんか見たくもねぇや」

言われてはじめて自分の姿に気がついた少年は慌てて服を着る。

「裸ならそっちの姉ちゃんの方がなぁ。おい、もう一度脱げや、ええっ」

「か、勘弁してくれよ。なぁ、さっきのにも手を出すなって」

「ふんっ、どうせてめぇはあいつの女なんだろ。だったら…」

上がりこもうと靴を脱ごうとしたアロハシャツの肩がいきなり掴まれる。

「おい、何してる」

ゆったりと喋りかけてきたのは、この暑さの中でびしりと白いスーツを着込んだサングラスの男だった。
その声を肩越しに聞いたアロハシャツは文字通り飛び上がった。

「あ、兄貴!や、や、ヤツは3丁目の廃工場に逃げたそうで。今、みんながそっちに」

「ほう、そうか。わかった」

スーツの男は掴んだままの肩をぐっと引き寄せアロハシャツを廊下に引き出し、代わりに自分が上がり口に腰をかけた。

「サブ。お前はそっちへ行け。俺はここに残る」

「へぇ!兄貴はお楽しみで…」

「馬鹿野郎。お前たちが下手な動きすりゃまたここに逃げ込むかもしれねぇ」

「す、すんません!」

最敬礼したアロハシャツはばたばたと駆けていった。
乱暴さはその姿から見えないのだが、逆に物凄い威圧感が身体全体から迸っている。
そのサングラスの男は部屋の中の匂いに顔を僅かにしかめた。

「おい、窓を開けろ。臭くてたまらん」

少年が立ち上がると、男はぴしりと女に言った。

「お前の匂いだ。自分で開けやがれ」

「はひっ!」

男の迫力に腰を抜かしたのか、女は這いずるように窓に近づき少しだけ開けていた窓を大きく開け放つ。
カーテンも開いたので、部屋の中は一気に明るくなり、その結果部屋の中の殺風景さが引き立つことになった。

「お前、こいつをおもちゃにしてたのか」

「お、おもちゃだなんて、そんな」

「おい、坊主。いくつになる」

「11歳」

「男になってるのか?」

その質問の意味がわからず、少年は返事ができなかった。
彼が黙っているので沈黙が怖かったのだろう。
女が横から口を出した。

「わ、わたしが昨日男にしてやったんだ」

「黙ってろ、阿婆擦れ」

ひっ!と悲鳴を上げて、女は窓際まで後ずさった。

「坊主、あそこから小便以外のものが出るか?」

やはり質問の意味がわからず、少年はおどおどとした目で黙っている。

「わからねぇということは、まだだってことだ」

男は女を睨みつけた。

「おい、阿婆擦れ。お前、無理やりやったな」

「ち、違うよ。こいつの方から…」

言い訳をしようとしてサングラスの奥の眼に睨まれ、女は嘘を吐くのを止めた。

「取引したんだ。こいつが腹を空かしていたから…」

「坊主、いくら貰った?」

「100円」

「ほう…、そりゃあ豪勢だ。で、それで何を食った」

「風呂に行った」

正直に答えた少年の言葉を聞き、サングラスの男は短く声に出して笑う。

「そりゃあそうだろうよ。こんな阿婆擦れにおもちゃにされたんだからな」

男は懐から扇子を取り出し、パタパタと顔を仰いだ。

「暑いな、ここは。扇風機もないのか」

「び、ビールでも買ってこようか」

「黙って、引っ込んでろ、阿婆擦れ。
お前たちはな、人質ってやつだ。もしあの野郎が逃げ切ったりなんかしたら…」

男はそこで言葉を切った。
少年はそこから先の想像ができなかったが、女には充分すぎるほどわかったのである。
彼女は泣きながら訴えた。

「わ、わたしゃ、アイツとは別にそれほど深い仲じゃなかったんだよ。
オンナでもないし、どっちかというとアイツに強引に…」

「問題ない。男と女のことをしてりゃ、もう関係ねぇなんて言えねぇ。
それくらいわきまえてろ、この売女が。今度喋ったらその口をきけなくしてやるぞ」

女は自分の口を押さえて、壁に背中があたるまで畳の上を摺りさがった。
脅しだけでなく、本当に実行する男だということはよくわかる。

「まあ、とりあえず安心してろ。あの野郎さえ捕またら、お前たちに用はないからな」

女はまだ口を押さえたままの格好でうんうんと無様に頷く。

「坊主はあの野郎の子供じゃねぇな、確か」

少年はうんと頷いた。

「この女から何を貰う約束だった?」

「カレーライス」

「そうか、カレーか。それを100円玉ひとつで誤魔化したわけだ」

じろりと睨まれ、女は言い訳したくてたまらないが必死でそれを抑えた。

「それが昨日だな。今日は何で釣られた」

釣られるという意味がわからないが、話の成り行きで何となく了解する。

「ラーメン」

少年が指差す先を見ると、なるほどインスタントラーメンが一つ転がっている。

「ほう、さらに値下がりしたわけだ。おい、阿婆擦れ」

返事しようとして、慌てて頷くだけに留める。

「お前、それを食え。今、ここでだ。そうすれば、坊主との件は許してやる」

「おじさん、ここ鍋も何もないよ」

「問題ないさ、坊主。この阿婆擦れはそれでも食べるわけだ、なぁ、そうだろ」

女はうんうんと頷いて、インスタントラーメンを拾いに四つん這いで進む。

「よく見な、坊主。お前をおもちゃにしてる時のこいつは女王様みたいなもんだったろうが、
今はこの有様だ。人間、強いものにはどうしようもないわけだ。わかるか?」

少年は少し首をひねりながらも頷いた。
その間に女は袋から出した乾燥麺をばりぼりと音を立てて齧る。

「味つき麺でよかったじゃないか、ふふふ」

少年は女が必死に食べている姿をぼんやりと眺めていた。
男が言うように、あの時自分の身体を貪っていた姿とは大違いだ。
しばらくすると、あのアロハシャツのチンピラが駆け込んできた。

「捕まえました!いつものところに連れて行ってやす」

「そうか。おい、女」

声にならない悲鳴を上げて、1/3ほど残った乾燥麺を手にした女が顔を上げた。

「よかったじゃねぇか、命拾いしたなぁ、ええ?」

にやりと笑ったサングラスの男はすぐに真顔になり、ぴしりと言い放った。

「今すぐ出て行け!二度と顔を見せるな、売女が!」

助かったとばかりに麺を畳に投げ出すと、男はさっと指を突きつける。

「残さず食え。食い物は粗末にするな。これだから最近の若い連中はだめなんだよ。
それから、食ったらちゃんと挨拶するんだ。なぁ、坊主。食い終わったら何て言うんだ?」

「ごちそうさま?」

白スーツの男はにやりと笑った。

「そうだ、そいつだ。わかったか、阿婆擦れ」

女は畳に落ちた麺を無理やり口の中にねじ込んだ。
口の中があちこち切れただろうが、とにかく一秒でも早くここから逃げ去りたい。
その思いだけで何とか食べ切ると、涙声で「ごちそうさまでした」と頭を下げる。
そして、行けと言わんばかりに男が顎を動かすと喜色を浮かべて部屋を飛び出していった。
そのお尻をアロハシャツが蹴り上げ、女はぎゃあと悲鳴を上げて駆け出していく。

「ふん、馬鹿者が。頭を下げろとまでは言ってねぇだろうが。
いいか、坊主。こういう時はな、胸を張って、じっと相手の目を見つめて、ごちそうさまと言えばいいんだ。
それで、問題ない。
もし相手が頭に来てこっちがやられちまっても、それはそれでしかたがねぇ。
人間卑屈になりすぎたら、もう二度と浮かび上がれねぇからな」

その言葉は少年には咀嚼できなかったが、それでもずっと心に刻み込まれていく。
そんな彼の頭をサングラスの男はぐしゃぐしゃに掻き回すと、立てと命令した。

「おい、サブ。俺は今から食事だ。上海亭に行く。
食い終わったら、例の場所に行くから…」

そこで男は声を潜めた。
囁くような、しかし冷たい声がその後に続く。

「それまでは殺すな」

その時、少年は思った。
ああ、おじさんは死んじゃうんだ、と。
そのことについて、彼は特に可哀相だとも思わない。
愛情を持つほど保護者に可愛がられたことは一度もなかったからだ。
そういう感情が触れ合う部分がまるでなかったのである。
云わば少年は保護者にとってはただの金蔓に過ぎなかったのだ。
考えたことはこれから自分はどうすればいいのかということだった。

「へえ、わかりやした」

来た時と同様に飛び出していくアロハシャツを見送り、サングラスの男は「さてと」と白いスーツの襟をなおす。

「坊主、飯を食いに行こう。カレーじゃなくて悪いがな」

にこりともせずに立ち上がった男はさっさと出て行く。

「それから、坊主。身の回りのものを持って出ろ。
なんだ、ランドセルじゃないか、それは」

少年が押入れから出してきたのはランドセルだった。
男は仕方がないなと苦笑し、ついて来いと命じた。
廊下をゆっくりと歩く男の背中を少年はついていく。
黒いランドセルを背負ったその姿は、背丈が中学生なみに高いだけかなり滑稽に見える。
夏の日差しは容赦なく降り注ぎ、少年も男もあっという間に額に汗を浮かばせる。
男の言う上海亭とやらは15分ほど歩いた先にあった。
その間、男はずっと振り返りもせずに悠然と歩を進めた。
肩で風を切る風でもないのだが、その威風は道行く者を圧倒する。
男を知る者は会釈や愛想を振り、知らない者は目を合わさないようにしている。
その中を男は誰にも声をかけずに歩き続けた。
ようやく声を出したのは、上海邸に到着した時だった。
“仕込中”の札がかかった入り口をがらりと開いた男は、照明を落とした店の奥に声をかける。

「親父、特級コースだ」

「おいおい、今は仕込だ…って、お前さんに言っても暖簾に腕押しか」

店の照明を点した店主がうんざりとした顔で姿を見せた。
サングラスの男は奥のテーブルに座ると、少年をその前に座らせる。
少年はランドセルと隣の椅子に置くと、ちらちらと店の中を見渡す。
その視線が品書きに留まりがちなのを男はしっかりと見ていた。

「問題ない。但し、喰うのはこの坊主だがな」

「ほう、慈善活動かい?お前さんにしたら珍しいな」

「がたがた言ってねぇで、さっさと作りな。俺はスープでいい」

「あいよ」

店主が奥に引っ込むと、男は内ポケットから煙草を取り出す。
マッチで火を点け、旨そうに煙を吐き出した。
その間もじんわりと汗が吹き出す。

「おい、坊主。扇風機つけて来い」

「うん」

少年は素直に立ち上がり、壁の上の方についている扇風機の紐を引きに行く。
唸りを上げて回転を始める4枚の羽根を見て、少年は満足気に戻る。

「灰皿だ」

「あ、うん」

「気の利かないヤツだな。それじゃ、よく殴られただろう」

少年はぎこちなく笑った。
愛想笑いともとれるが、その実それは自分の不甲斐なさを笑ったものだと男にはわかっていた。
男はそれを確かめようとはせず、少年が持ってきた灰皿に煙草を指で弾いて灰を落とす。

「まあ、いい。自分を変える必要はない。プライドを捨てた時、男はおしまいだからな」

少年は首を捻った。
よくわからないが、とにかく無理に自分を変える必要はないという事か。
男は咥え煙草で懐から財布を出した。
その中から彼は1万円札を出し、少年に突き出した。

「こいつであれを買って来い。鞄屋が商店街にあるのは知ってるな」

うんと頷いた少年だったが、あれの方がわからない。
目をぱちくりしていると、男は「あれだよ、あれ」と何かを背負う格好をする。

「遠足の時に背負う、あれだ」

「リュックサック?」

「それ、それだ。そいつを買って来い。お前が背負えるだけの大きさでいい」

少年は頷いて、中華料理屋を飛び出していく。
それを見送って、男はまだほとんど吸っていない煙草を灰皿で揉み消す。
その時、店主が一つ目の皿を持ってきた。

「おや、子供はどこに行ったんだ?」

「家を買いにいった」

「家だと?」

「ああ、今日からアイツがいつも一緒にいるものだからな。リュックサックとやらでなく、家でいいんだ」

「おい、家出を勧めたのか。あれはまだ小学生だよな」

店主は椅子に残されたランドセルを見て、そう言った。

「ああ、アイツはここにいない方がいい。いろいろ面倒なことになるだろうからな」

「お前さんが庇ってやればいいんじゃないのか?」

男はおかしそうに笑った。

「おいおい、それじゃあの坊主をヤクザにしろっていうのか?
日頃ヤクザなんか人間の屑だと言ってるオヤジがか?」

「それでもなぁ。なりは大きいが、まだ10歳そこらだろう」

「俺が10歳の時は…ええっと、もうかっぱらいの名人だったな。
7歳の時から浮浪児だったしな。よくあの中を生きてきたもんだ」

「そこからヤクザになったんだろう。だったらあの子も」

「それはあいつが決めることだ。今、俺があいつを庇ったら、間違いなくヤクザになるだろうな」

「その理屈は変じゃねぇか?」

「いいや、問題ない。あいつはこれから自分でそれを見つけるんだ。
まあ、結局ヤクザになるのかもしれねぇがな。ははは」

声を出して笑う男に溜息を吐き店主は厨房に戻った。
男はまだくすくすと笑い続けている。
何故、あの子供にこんなことをしているのか。
理屈ではわからないが、感情ではよくわかる。
あの坊主は俺だ。
白いスーツの男は心の中でそう呟いた。

しばらくして戻ってきた少年はお釣りを男に手渡した。
男は金額を確かめずにそれをズボンのポケットに放り込む。

「さあ、喰え。ここのオヤジの中華は旨いぞ」

男は少年の表情を楽しんでいた。
戻ってきてからずっと、テーブルの上に並べられたご馳走に目がいってしまうのだ。

「あ、い、いただきます!」

まるで給食の時間のように行儀良く少年は手を合わせた。
学校での一番楽しい時間は給食だった。
アパートでは食べられないことも多いのだ。
顰蹙を買ったり、軽蔑されていることは充分わかっていたが、ここで食べておかないと身体がおかしくなる。
プライドよりも重要なことはある。
いや、その境界線をどこにするかが問題なのだ。
少年はそれを給食の時間だけにしていたのである。
それ以外では憐憫も嘲笑も相手にしない。
鼻で笑ってやるのでたちまち喧嘩になる。
少年はクラス一背が高いが、腕力はない。
しかしそこは小学生の喧嘩なので大事になる前に仲裁が入るのだが、大抵少年が悪者となった。
そのことを少年は不条理とは思わなかった。
普通の家庭に育っている連中の方が味方が多い。
友達や、家族、そして先生さえも。
しかし同情は不要だった。
同情などという心よりも、少年は食べ物が欲しかったのだ。
だから、目の前の男は信用できた。
この男は哀れんで食べ物を恵んでいるのではない。
哀れみや、同情や、そういったものではなく、何かを自分に伝えようとしている。
それだけは感じ取って、少年は目の前のご馳走に戦闘を開始した。
まさにそれは戦いだった。

「おい、味わうのも忘れるなよ。次は何時喰えるかわからんぞ」

少年は顔を上げてうんと一度大きく頷いた。
そして、口の中のものをゆっくり咀嚼するとスープの椀を両手で持った。
すると咳払いが聞こえる。
音の元を見ると、スーツの男が悠然とお玉を使ってスープを飲んでいた。
それを見よう見まねで真似をして、少年もお玉でスープを飲んだ。
給食の先割れスプーンでシチューなどを啜るのとは違う感触がそこにあった。
お代わりのために急いで飲むというより流し込む、そんなものとは違って、
ゆっくりとお玉を使うことによってスープの味が美味しいと楽しめた。
それは彼にとって新たな発見である。
美味しく食べることを楽しむなどという余裕などこれまでの少年には得ることができなかった。
彼は少し顔を上げて、目の前の男をちらりと見る。
男は知らぬ顔でやはりスープを飲んでいた。
その様子が少年には眩しく見えたのである。
もし、この男がヤクザになれと彼を誘ったなら、それがどういうことになるかなど一つも考えずに従っていただろう。
しかし、男は一言も言わない。
言うつもりもなかった。

「おっと、シュウマイってヤツはな、辛子醤油だぜ」

「からし?」

「おう。こいつだ」

男はゲンドウの前に辛子のケースを滑らせる。

「この黄色いのがからし?」

「ああ、ぴりっっとするぜ。シュウマイはこいつじゃないとなぁ」

シュウマイというものは給食で食べたことはあったが、それは揚げシュウマイだった。
味がついたものだから醤油自体もつけて食べたことはない。
辛子という調味料自体を知らないということが少年の食生活の貧しさを示していよう。

「その小さなさじで一掬いするんだ。おう、それをそこの小さな皿に擦り付けて…、そこへ醤油を入れて…って、おい、入れすぎだ」

仕方ないなと男は辛子を大量に皿に加える。

「醤油はな、あれだ、アクセントってヤツだ。入れすぎたら辛子の風味が楽しめねぇ」

割り箸を折った男はシュウマイを辛子醤油につけ口に運ぶ。
旨ぇと言う彼に習って、少年も同様にしてシュウマイを食べるが、初めての辛子の味に目を白黒させて水を喉に流し込んだ。

「はははっ、それが大人の味ってヤツさ。まあ、食い方を見られると育ちがばれるからな、食べ方の基本は覚えておけよ」

うんと応じた少年は目に涙を浮かべながら、再度シュウマイに挑戦する。
今度はそれほど辛子をつけずに食べたが、それでも彼には刺激が強い。
そんな少年の姿を男は楽しみながら見ていた。

“支度中”の札がかかったままの店内で、二人だけの食事は続き、そして少年は生まれて初めての満腹感を味わった。
彼は手を合わせ、やはり給食の作法どおりに「ご馳走様でした」と呟く。

「おい、俺は坊主にご馳走などしないぞ」

「え、僕…」

少年は予想もしない言葉に青ざめた。
男はまた煙草に火を点け、そしてぷぅと煙を吐き出す。

「こいつは自分で支払うんだ」

「でも、僕、お金なんて」

「いいか、よく聞け。今からお前は一人で生きていくんだ。
自分の食い扶持は自分で何とかしろ。わかるか?」

「ここで仕事をすればいいの?」

「馬鹿だな。子供など邪魔になるだけで金などくれるか」

戸惑う少年の前に、男は懐から出した財布をぼんと置く。

「中にいくら入っているのか知らん。そいつは餞別だ」

「せんべつ…?」

「おっと、そうだな。つまり、お前の旅立ちにこの俺からのプレゼントってやつだ」

「僕、旅立つの?」

「そうだ、お前はこの店を出たら、二度とあのアパートに戻っちゃ行けねぇ。
この町にいるのも駄目だ。電車でも歩いてでも、とにかくここから出るんだ」

「家は…」

「お前にはこれまで家はなかったんだ。あそこは家じゃねぇ」

その発想は少年にはなかった。
あの押入れがある部屋が自分の家だと思っていたのだ。

「家っていうのはな、ここにあるんだ」

男は自分の胸をぽんぽんと叩く。
少年も釣られて同じ場所を掌で押さえた。

「いつか家族ができれば、そこがお前の家になる。
だがな、今のお前には家族なんかいねぇ。これまで一緒にいたあの野郎など家族でも何でもねぇ」

男は遠い眼をしたが、それはサングラスに隠れて少年には見えない。
彼の胸に去来していたのは、幼かったあの頃、空襲で生き別れた母親と暮らしていた長屋の風景だった。
生き別れたといっても母親はやはり死んでいたのだろう。
あの状況で、あちらこちらに転がっている黒こげた死体のどれが母親だと判別できようか。
いくら母との楽しかった日々を思い出そうとしても何故かその一場面しか思い出せない。
母親が手に入れてきたサツマイモを蒸かして、二人で分けて食べたあの時のこと。
その味と共に母親の優しい笑顔だけを覚えている。
忘れてしまいたい、空襲や焼け野原や浮浪児狩り、そして収容所の光景だけはいつまでも鮮烈に心に刻み込まれているというのに。

「お前、本当の両親はどうしたんだ」

「知らない。死んだって言ってた」

「顔は覚えてるのか?」

ううん、と少年は首を横に振る。
しかし、それは哀しげな顔ではなかった。

「ここに来る前のことは、住んでいた島を船から見てるところしか覚えてない」

「そうか。そういうことか」

男は逆に両親を知らないことが、この少年にとってはよかったのかもしれないと思い直した。
幸福な記憶があるとそれに囚われてしまう。
この自分のように。

「坊主、二つだけ教えてやる」

少年はうんと頷いた。
男は煙草を灰皿で揉み消し、両手の肘をテーブルにつけた。
そして、指を交差させて中央で組み、そこに自分の顎を乗せる。
サングラスで見えないから余計に、その奥にあるはずの目がじっと自分を見つめていることがわかる。
少年は姿勢を正した。

「不様な生き方をするな。野望とかそういったものを持つんだ。野望っていうのはわかるか?」

少年は首をかしげた。

「まあ、あれだ。世界征服とかっていうのも野望だ。ここの親父みたいにちっぽけな中華料理屋を持つっていうのもな」

「おじさんは?」

「俺にももちろんある。いや、あったのを忘れた。だからそれを探してるんだ」

「忘れたの?」

「ああ、戦争でな。きれいさっぱり忘れちまった」

顔も見た事がない戦死した父親は学校の先生をしていたと聞いていた。
幼心に大きくなったら先生というものになりたいと、母親に話し喜ばせたのがあのサツマイモを食べた時のことだ。
あの母の笑顔は今にして思うと、それだけ死んだ夫のことを愛していたのだとわかる。
先生どころか、ヤクザとなってしまった息子をもし母が生きていたらなんと思うだろうか。

「坊主、夢はあるのか?」

「あまり見ない」

「はは、そっちじゃねぇ。大人になったら何をしたい?」

「わからない」

「だと思ったぜ。まあ、問題ない。それを今から見つけに行くんだ」

「どこかにあるの?」

「ある。すぐに見つかるか、時間がかかるかは知らんがな」

少年は親指を折った。
野望とか夢を見つけること。
これが一つ目だ。

「それからな、それを叶えるための方法だ。
坊主の名前はなんだ?」

「田中シンイチ」

「ありきたりだな」

少年は悪びれもせず、こっくりと頷いた。

「俺はな、親から貰った名前は佐藤サンタっていうんだ。笑うと殺すぞ」

「サンタってサンタクロース?」

「おっと、そっちか。まあ、違うんだが、変な名前だろう?正直に言え」

シンイチ少年は思ったとおりに変だと頷く。

「だからな、俺はヤクザになる時、名前を変えた」

「名前って変えられるの?」

「おう。まあ、戸籍を買ったわけじゃないから、通称ってことになるが、俺の今の名前は。権藤リュウジっていうんだ」

少年はああそれならいいやとばかりに、うんうんと首を縦に動かす。

「だろう?白スーツの権藤といえば、この川崎じゃ知らない者はいねぇよ」

権藤はずれてもいないサングラスを指先でちょんと場所を整える。
その動きは周囲の者に与える演出であることを少年は知らない。
彼はただその動作がカッコいいなと思っただけだ。

「いいか、坊主。サングラスに白スーツ、でもって名前が権藤リュウジと揃えば、この俺だと誰もが知っている。
これがその方法だ」

まったく意味がわからずにきょとんとする少年を見て、権藤はくつくつと笑う。

「つまりこういうことだ。どんな野望を持ったにしても、周囲に認められないと何もできやしない。
ところが家柄とか金とかがない人間にはな、なかなか先に進むことができないんだ。わかるよな、坊主なら」

シンイチは大きく頷いた。
権藤の言っていることをすべて理解することは難しいが、おおよそのことはわかる。
小学校での自分の立場を考えたら簡単だ。
間違っている方は向こうなのに、喧嘩をするとほとんどの場合自分が悪者にされてしまう。
あれは相手の方がちゃんとした服を着て、ちゃんと給食費を払って、ちゃんとした家庭を持っているからに違いない。

「だからそういうものを掴むんだ。手段はいろいろある。
名前だって俺みたいに勝手につけたらいい。戸籍だって買えるんだ、裏に手をまわしゃあな。
服とか身につけるもので相手を惑わすことだってできる。
ほら、これを見てみな」

権藤はちらりとサングラスを下げ、少年に眼を見せた。
そこにはつぶらな瞳が見えた。
どちらかと言うと愛嬌のある目が少年を見つめている。

「どうだ?」

「えっと、可愛い」

「はっきり言うな、この野郎。まあ、問題ない。そういうことだ。俺の目はぱっちりとしていて、凄みがねぇ。
だからこうやってサングラスで隠してるんだ」

サングラスを元に戻すと、威圧感が急に回復する。

「お前の目はな、オドオドしてやがる。見るものが見たら、すぐに何を考えているか見抜かれてしまうだろうよ。
それに髭も欲しいな。骨と皮の癖して、案外のっぺりした顔してやがる」

権藤はじっと少年を見据えた。

「今は、問題ない。まだガキだから、髭もサングラスも無理だからな。
そんなものをつけたら逆にコメディアンになっちまうぜ」

彼はくすりと笑い、そして立ち上がった。

「オヤジ、あいそだ」

「あいよ」

すぐに店主が裏から出てきたので、権藤は彼を睨みつけた。
厨房からこちらの話を聞いていたに違いない。

「払いは坊主だ。俺の分もな」

「あいよ。全部で500円だ」

「おっ、そいつぁ安いな」

シンイチ少年は目の前に置かれた財布を見つめた。
ここから払っていいのだろうか。
権藤はそうしろと確かに言った。
彼はおずおずと財布に手を伸ばした。
ずしりと重く感じる。

「金の使い方はよく考えろ。それと誰にもその財布を見せるな。
親切そうな顔をしてくるヤツほど警戒しろ」

「権藤さんよ。財布は拙いだろ。
こんなものを持っているところを見られたら、泥棒と間違えられるぞ」

「ああ、そうだな。確かに子供が持つ財布じゃねぇ。
よし、財布はどこかに捨てちまえ。中身だけうまく隠して持っているんだ」

「返さなくていいの?」

目の前に持ち主がいるのに変なことを言うと、シンイチは素直に問い返した。

「あたぼうよ。くれてやったものを返してもらうわけねぇ」

少年は頷いた。

「さあ、立て、坊主。そして、ここから出て行きな。この町からな」

不思議に怖くなかった。
あのアパートに戻れと言われる方が恐ろしい。
まだ子供なのだが、何とか生きていけるような気がする。

「どこに行く?東京か?」

店主の問いに、少年はすかさず返事をした。
今の今まで、どこへ行くとなど考えもしていなかったのに、この瞬間にすっと答が出たのだ。

「万博」

その答を聞いて、権藤は初めて腹を抱えて大笑いをした。
心の底から面白いと思ったのだ。

「そ、そうか!人類の進歩と調和ってヤツだな。問題ない。いや、それはいい!ああ、いい選択だ。なぁ、親父」

店主は苦笑していた。
やっぱり子供なんだという思いと、そしてそんな子供がこれから歩かないといけない道を思って。

「よし!行け、坊主。その目でしっかり万博を見て来い」

「うん」

シンイチはランドセルの中身をリュックサックに詰め替えた。
ランドセルは店主が捨てておくと言ってくれたので、彼は大きなリュックサックひとつだけを背中に負ぶさる。

「おじさん、ありがとう」

少年はぺこりと頭を下げた。

「ふん、問題ない。さっさと行け。俺は忙しいんだ」

「うん。ご馳走様でした」

店主にも頭を下げると、少年は扉へ歩いていく。
そして、扉を閉める前にもう一度、権藤へ頭を下げた。
扉が閉まると、何故か急に店内ががらんとした印象を受ける。

「権藤さんよ」

店主は珍しく男のことを名前で呼ぶ。

「随分と優しいんだな。20万くらい入ってなかったか?」

「たぶんな」

「奥さんに叱られるぞ」

「あいつは追い出した」

「おい、何人目だよ。まったくアンタって人は」

仕方がねぇじゃないか、と権藤は心の中で愚痴を零した。
どの女も生身の俺を好きにはなっていないのだから。
あいつらは“白スーツの権藤”に惚れているだけなのだから。

「しかし、あの子は大丈夫かね」

「さあな。運が悪けりゃ、町を出る前にポリに捕まるだろうて。
そうすれば施設送りだ。まあ、万博見物なんかすりゃあ、おっつけ捕まるだろうがなぁ」

「だろうな。するとまたこの町に舞い戻るってことかい?」

権藤はニヤリと笑って、店主の肩を叩いた。

「いいや。あいつはもう戻ってこないさ。そんな予感がする」

「そうかね」

「ああ、違いねぇ。俺とあの坊主はもう二度と会うことはねぇだろうよ。それで、問題ない」

口癖の“問題ない”を残し、権藤も店を出た。
麻薬の取引に失敗して逃げた運び屋を始末するために。

彼の言葉通り、二人は二度と顔を合わすことはなかった。
3年後の冬。
権藤サンタと名乗って大阪の施設で暮らす痩せぎすで自称記憶喪失の中学生はその新聞記事を目にすることがなかった。
神奈川県川崎市で佐藤サンタという名前の暴力団員が、抗争相手の鉄砲玉に背中から撃たれて裏通りで死んだという記事を。
雨の日、白いスーツは血と泥に塗れていたという。




1981年 −冬−

六分儀ゲンドウという名前を得た、サングラスの青年は揺れる船上からその島をじっと見つめた。
暦の上では春なのだが、海上は冷たい風が吹きすさんでいる。
まさに冬の海と形容すべき中を漁船はゆっくりと進んでいた。
青年はその島の姿が自分の抱いていたイメージと寸分違わないことを確認すると、もう用はないとばかりに目を逸らし腰を下ろす。
漁師にもういいと告げると、無口な老漁師はうむとばかりにうなずくと舳先の方向を変えた。
島に上陸するならば早朝だと教えてくれたのも彼だったが、青年は海の上から見るだけでいいと老人を雇ったのだ。
上陸が違法行為だということが彼を止めたのではなく、青年はただ確かめたかっただけだったからだ。
自分がこの世に生まれ落ちた場所。
顔も知らぬ両親が何がしかの夢を抱いて生きていた場所。
そういうメンタルな思いとともに、折にふれて思い出してしまう船から見た島の姿。
島の内部や両親の記憶すらないのに、何故かしら島の光景だけが頭に刻み込まれていた。
その島がどこなのか、子供の頃からまったく調べようとも思わなかった彼が、通称軍艦島と呼ばれるこの島がそれであると知ったのはテレビのニュースだった。
最後の住民が退去して無人の島となり上陸は禁じられるとの報道を目にしたとき、彼は息を呑んだ。
ここだ、こんな奇怪な姿をした島が他にどこにある。
それに殺された(であろう)叔父は九州出身だとどこかで耳にしたことがあった。
となれば自分もその島に住んでいた可能性が高いのではないか。
そんな推理をしたのは数年前だ。
しかし、その場所を探そうという気持ちは彼にはなかった。
過去などどうでもいいと思っていたからである。
だが、六分儀ゲンドウとして生きることを決めた以上、彼は過去と決別したかったのだ。
島の光景を己の目で見、それまでの自分をそこに葬り去る。
それが新しい自分の誕生になるはずだと彼は考えた。
しかしながら、そういう行為自体が過去を引きずっていることに他ならないのではないかとの自覚もあった。
そんな自分を彼は笑ったのである。
波間を進む小さな漁船に腰掛けたゲンドウはくつくつと奇妙な笑い声を出していた。
エンジン音のためにその笑い声は老漁師には届いていなかったが、もし彼が耳にしていれば思わずゲンドウを見つめたに相違なかっただろう。
そしてその場合は眉を顰めたに違いない。

奇妙な笑い声を出している青年のサングラスの隙間から一筋の涙が流れていたことはこの世の誰にも見られてはいない。
その涙は過去の自分に思いをめぐらし流したものではない。
不思議なことに両親に向けたものだったのである。
これまでほとんど考えたことのない感情とともに。
特に幼少の頃、自分を残してこの世を去った両親を恨んだことはある。
しかしそれは絶えずということではない。
寧ろ顔も知らないだけに施設に入って以後は両親のことを考えることも稀なこととなったのだ。
それがこの瞬間に六分儀ゲンドウと名を変えた青年の胸に去来してきたのである。

それは単純な理由だった。
田中シンイチという名前どころか、戸籍すら捨ててしまった自分。
そんな自分にシンイチという名前をどういう思いでつけたのだろうか、顔も知らぬ両親は。
しかしその思いを自分は踏みにじった。
二人にすまないという感情が青年の心に押し寄せてきたのだ。
そしてそのために涙を流していることを彼は不思議に思った。
不思議に思いながらも、ゲンドウは涙を流し続けていた。




1999年 −聖夜−

ユイはゲンドウを見つめた。
ほの暗い豆電球の光りでいささか陰影が深くなっている、その横顔は険しさの要素が強い。
とてもではないが、そんな彼から愛情のような類のものは読み取れるはずがない。
ところが何十億もの人間の中には特別な能力を持つものがいるのだ。
碇ユイにはゲンドウの心の奥深くに隠れている感情を読み取れた。
別に彼女が超能力者であるわけがなく、何故か彼のことだけはわかるのである。
それは彼女が彼のことを愛し、そして彼もまた彼女を愛しているに他ならない。
そのようにユイは思っていた。
しかしながらそんな彼女も彼の過去までを知ろうとは考えていなかった。
それは彼が自分の過去を一切話そうとしないからだ。
話したくないものを聞こうとは思わない。
何故ならば、ユイには未来しか見えなかったからである。
過去などどうでもよい。
人類と、その中の些細な存在である、自分と彼、そしていつか二人の間に産まれるであろう子供たちの未来。
彼女の目はゲンドウの横顔を通して、愛すべき未来を見つめていた。






第六章 了





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