− マチコ −


第一部



第五章   「聖夜」







「マチコさん、あなた、アルバイト以外にどこかへ行っているのでしょう?」

ついに来たか、とマチコは唇を噛んだ。
次に頭に浮かんだことは、この女は父親に話をしたのだろうか、ということだった。
義理の弟たちはまだ学校から戻っていない。
もちろん、平日の昼間だから父親は会社にいるはずだ。
気楽な就職組の高校3年生は午前中だけで帰宅し、今日はアルバイトに行くだけのつもりだった。
お昼御飯にカップラーメンを啜り、さあ家を出ようかという時に背中から呼び止められたのだ。
舌打ちをしたいくらいのタイミングだったが、事を荒立てたくないマチコは軽く息を吐いて心を落ち着かせてから振り返った。
そして、真顔の中年女性が言ったのが先ほどの質問だったのだ。
誰に聞いたのかはわからないが、おそらくあの村での噂話が回り回ってこの女の耳に入ったに違いないとマチコは確信した。

「いいえ。アルバイトしか行きませんけど?」

今日は、という言葉は頭につけなかった。

「でも、毎日ではないんでしょう?アルバイト」

「図書室とか、それに友達の家」

これは明らかに嘘だった。
アカネとは学校でも言葉を交わさない上に、顔を合わせたくないので図書室にも足を踏み入れていない。

「そうなの?」

「どういう意味です?それ」

ああ、いけない、とマチコは思った。
ずっと押さえつけていた、この女への反感が溢れ出しそうだ。
もしこの遠回しな問い掛けが挑発なのであったら、もうすでに自分はそれに乗ってしまっている。
何故なら初めて真っ直ぐにこの女を睨み返しているから。
義母も対抗するかのように見つめ返してきているとマチコは感じた。

「噂を聞いたから」

「噂?何です?」

もう惚けるつもりはなかった。
これ以上、私のものを奪われてなるものか。
父親と、そしてこの家の主婦の座を奪った女への憎悪をマチコは顕わにする。

「よからぬ家に通っているって」

少しだけ躊躇いがちな口調のようにマチコには思えた。
しかし、抑えてきた思いはその程度の違和感で止まるものではない
マチコはできるだけ大げさに喋るように努めた。

「ああ、なぁんだ。そのこと?ははは、馬鹿みたい」

「マチコさん」

気安く名前で呼ばないでくれる?
彼女は頭の中でそう啖呵を切ってから、雪崩の様に喋りだした。

「あれはピアノを習いに行っているだけ。
だって、ここにはもうピアノなんかないんだもの。
もうすぐ東京に行って就職するんだから、ピアノなんて全然弾けなくなってしまうでしょう。
あそこなら思う存分弾かせてくれるし、ちゃんと教えてくれるわ。
後ろめたいことなんか何もしてないのに、そんな噂を流す方がおかしいのよ」

「でも、変な人がいるんでしょう」

やっとのことで義母は口を挟んだ。
マチコは蔑む様に笑った。
この女もアカネたちと同じだ。
心が卑しいのだ。

「気違いってはっきり言ったら?テレビじゃあるまいし、ピーって音は入らないわよ。
それに気違いって何?人に危害を与えるって意味なら違うわよ。
全然違うわ。私は顔も見たことも、声を聴いたこともないけど、何もしてこないわ」

「そっちじゃないわ」

「え…」

真剣な表情の義母が発した反論にマチコは戸惑った。
蔵の中の女について言っているのだと思い込んでいたのだ。

「そんな人と一緒に暮らしている人の方。つまり…」

マチコは鼻で笑った。
なるほど、そっちの方か。
男に会いに行っているのが外聞が悪い。
そしてその男には狂った妻がいるからなおさらだ。

「そういう風に見えるんだ。世間って色眼鏡で見るんだね」

そう見て欲しいことなどおくびにも出さずにマチコは白々しく言う。
しかし、義母はちゃんと見抜いていた。

「その男の人が好きなんでしょう?」

マチコは唇を噛み締めた。
ここで黙ってしまっては肯定することになる。
しかし、否定はしたくなかった。
この女性には特に。
それがどういう感情によるものかはわからなかったが。

「どうして、そんな男の人を?わざわざ、そんな…」

「あなただって!」

マチコはついに口にした。
この女と初めて会った時から言いたくて言いたくて仕方がなかった文句を。

「どうして私のお父さんだったの?わざわざ大きな娘のいる男に?ねえ、どうしてよ」

やだ、私!
涙が溢れてきた。
マチコは拳で乱暴に涙を拭う。

「それは…」

義母は口ごもった。
そして眼を閉じて、それからたっぷり10秒ほど黙り込んでしまった。
その時間がマチコにはとんでもなく長く感じた。

「そういうことね」

ぽつりと呟き、義母は薄く笑った。
何か言おうとマチコはしたのだが、言葉が出てこない。

「行きなさい」

マチコは呆然とした。
大そうな口喧嘩になると覚悟していたのだ。
こんなにあっさりと開放してくれるとは思わなかった。
もっとも、認めてくれたのか、放任したのか、それはわからなかったが。

「いいの?」

「アルバイトなんでしょう?今日は」

「今日は、ね」

わざとらしく、義母もマチコも“今日”にアクセントをつけた。
明日はどこへ行くのか、それを暗黙の内に二人で認め合ったともいえる。

「ただ、あの人にだけは迷惑をかけないでくれる?」

「私のことなんかどうでもいいんでしょう?」

誰が、とは言わなかった。

「そんなことはないわ。
あの人は私に、私と子供たちに気を使っただけ」

「私には気を使う気がなかったってことよね」

「実の娘だからね」

その時、マチコは自分の誤解に気がついた。
自分はこの女に負けたのではないことを。
勝っていたからこそ、父親は再婚相手についたのだ。

「私はあなたのお母さんにはなれないのね」

寂しそうに義母は呟いた。
どうしてかと小さな声で尋ねると、彼女はさらに表情を歪めた。

「だって、同性として共感しては駄目でしょう?
母親なら問答無用で引っ叩くところ。息子たち相手なら殴ってる」

「叩いてくれてもよかったのに」

自分でも不思議な言葉がマチコの口から漏れた。
その言葉を聞いて、義母は一瞬喜色を浮かべたが、すぐに力なく首を横に振った。

「駄目。母親としては叩けないわ。憎しみで叩くのは愛情ではないでしょう?」

「それはまっぴら御免」

おどけた言様に二人は微かに笑いあう。

「いずれにしてもピアノのことはごめんなさい。
最近は弾いてないと聞いていたから…。
いいえ、意地悪をしたかったのかもしれない。
もしかしたら、それであの人の愛情を試したかったのかも」

「それは謝られとく。あれはかなりショックだったから。
まあ、高校に入ってからほとんど弾いてなかったのは事実だけど」

「遅れるわよ」

「うん」

いい雰囲気に水を差すように、いきなり義母が言い出した。
しかし、マチコも今の会話で充分だと考えたのだ。
だから、さっさと玄関に赴き靴を履いた。
そして彼女はくるっと振り返り、精一杯の作り笑いでこう言った。

「いってきます」

マチコはそれだけを言うと、慌てて扉を開けて外に飛び出した。
返事を聞くのを恐れたかのように。
いってらっしゃいを言わせなかった義理の娘に、まだ三十代の女は苦笑する。

「こういう時、ドラマじゃ“親子が無理なら友達になりましょう”って言うんだっけ」

彼女は鼻で笑った。

「言えるわけないわ。馬鹿みたい」

友達になどなれるわけがない。
親子でなければ意味がないことを彼女はよく知っていた。
そんな求心力が自分にないことも。
しかし、今日は二人の距離が大きく近づいたことには違いない。
彼女はあ〜あと大きな溜息を吐いた。

「不倫を唆してどうするのよ、まったく。でも、問題の多い男に惚れたものね。ここのマチコさんは」



その後、義母はこの件について何も言ってこなかった。
おそらく父親には何も告げていないだろう。
だが、マチコの心はかなり軽くなったことは事実だ。
四面楚歌の状況であると思っていたのだが、少なくとも一人の人間が共感を示してくれた。
よりによって世界で一番憎んでいたかもしれない女性にだ。
今でも憎しみの感情はある事を否定できないのだが、義母に対する感情は複雑に変化している。
屋敷に向かうバスの中で、マチコは窓の外を眺めながら苦笑した。
ちらほらと粉雪が舞っている。
クリスマスの雪はロマンチックだというのは都会の人間の考え方だとマチコは思った。
これくらいなら問題ないが、やはり積もるのは困る。
雪には慣れた土地柄だが、それでも生活に困らない程度であって欲しい。
予約していたクリスマスケーキと鳥の足をお土産に、彼女は今日も屋敷に向っていた。
今日の雪は積もらない、筈だった。

これはヤバいな、と思った時にはもう遅かった。
何しろこの屋敷にはテレビというものが存在しない。
これは帰った方がいいと挨拶もそこそこに屋敷を出たのだが、バス停への1/3まで辿りつかない間に歩行を断念した。
長靴を借りる程度でも帰宅は難しい。
携帯電話を持っていないマチコは、屋敷に戻ると黒電話を拝借した。
迎えに来てほしいなどと言うつもりはなく、単に遅くなりそうだと連絡したかっただけだ。
その結果、泊まってきなさいととんでもないことを言われてしまった。

「そ、そんな、じゃ、タクシーで」

心の準備などまったくできていない。
マチコが慌ててしまったのは明らかに本音だった。
しかし、電話の相手は実に素っ気無い。

「大雪警報だからね。気象庁もちゃんと予報しておかないと」

「で、でも」

「大丈夫よ、あの人には友達の家だって伝えておくから」

開いた口が塞がらないというのはこういう時のことか。
マチコはなんと返せばいいのか、即座に反応できなかった。

「とにかくそちらの家の方に代わって頂戴。お願いしないといけませんから」

理屈では義母が正しいことはわかる。
急な気象変化でバスやタクシーまで止まっているのだ。
南雲家には冬用タイヤの軽自動車があるが、この大雪の中ではここまで辿りつく事も不可能だろう。
となれば、訪問先で厄介になるしかないのだが…。
義母はマチコがここの主に懸想していることを承知していることが大きな問題なのだ。

「なるほど、わかりました。ご安心下さい。
私は妻と蔵の方で休みますから…」

初めて会話する人間に平気な態度で蔵で寝るなどと言う人間はそう多くはないだろう。
受話器を手に話す男の背中を見ながら、マチコはそんなことを思っていた。

「ええ、娘さんは母屋の方で。はい、了解しました」

何を了解したのか知りたかったが、三歩下がった場所にいるマチコには義母の声が聞こえない。
この後、彼女は男に受話器を返され、声を潜めて義母に問うた。

「ちょっと、何を了解させたのよ」

マチコはいささか乱暴な口調になった。
その口調が逆に親子の会話だという印象を男へ与えたことを彼女は知らない。

「一夜の宿をお願いしますって言っただけよ。何を興奮してるの?」

「興奮なんて!してないわよ」

一瞬声を荒げてしまったマチコは恐る恐る後を横目で見る。
幸か不幸か、男は既にその場を離れていた。
さすがに他人が電話をしている場所に居座るような真似は普通の人間ならしないだろう。
マチコは苦笑しながら、再び電話機に向き直った。

着替えがないので風呂の勧めには一度は遠慮しようと思った。
しかし、雪の中を動き回った時にひとしきり汗をかいていたので、本当は風呂に浸かりたい。
そこで風呂の用意をしてもらうことにした。
入浴するのは一人きりになってからである。
今夜は男は蔵でやすむという。
マチコのイヴの晩餐は、御飯に味噌汁、鳥の足を半分ほど。
1本を丸ごとは必死に断った。
何しろ自分が持ってきた上に、本数が2本とわかっているのだから当然だ。
それから食後にはクリスマスケーキを1つ。
男が甘いものが嫌いだとわかっているので、大きなケーキは買ってこなかった。
ショートケーキのつもりだったのだが、この日はケーキ屋さんの売り手市場だ。
いつものショートケーキは姿を消し、スポンジの間のクリームに小さなフルーツ片を混入し、
見た目を豪華にして価格は倍であった。
それでも大型ケーキに2500円も出して、しかも渡す相手が処理に困るようにするなど言語道断だ。
まさか蔵の中の女が丸ごと一人で食べるとは思えない。
仕方がないので、いつもと同じに2個入れてもらい、お金は倍支払った。
その豪華版ショートケーキを一つお裾分けされた。
マチコはそれらの食べ物が乗った平机を溜息混じりに見渡す。
畳一枚よりも大きく、しかもきっと高いものなのだろう。
それを一人で独占しているのだ。
勿体無い、というよりも、無駄だ、という感覚をマチコは受けた。
こういう机で独りで食べるのはよくない。
寂しさが増すだけだ。
テレビもない家だから自分の食べる音以外に何も聞こえない。
雨戸の向こうから雪が降る音がしんしんと聞こえてくるくらいに。
食べ終わった食器を洗い、水切りに置いてしまうともう何もやることはない。
となれば、お風呂に入るくらいしかすることはもう残っていなかった。
まさか五右衛門風呂かと思ったが、木づくりの浴槽でマチコはほっとした。
独特の香りが風呂場に立ちこみ、彼女は髪の毛の具合を確かめた。
ドライヤーがないので髪の毛を洗うわけにはいかない。
髪の毛をぐっと上にあげ、タオルで固定する。
とてもではないが、恋する男には見せたくない姿だ。
木の湯船に身体を沈めると、マチコは背筋をぐっと伸ばした。
背中の感触が優しい。
胸が突き出る形になって、視界に乳房が入ってきた。
大きくはないけれど、形はいいのではないかと自負している。
ここを男に触られたらどうする?
もしかして今夜男が忍んできたら?
身体を許すのか?
掌で包み込み、その時点で「馬鹿」と呟き彼女は苦笑した。
こんな場所でおかしな気分になってどうするのだ、と。
マチコは飛沫を上げて湯船から出て、さっさと身体を洗い始めた。

脱衣所に出て、元の服に着替える。
自分のではサイズが合わないから家内の夜着を用意しようかという男の提案は断固として拒否をした。
おそらくは気持ち悪がってのことだと彼に思わせただろうが、基本的にはライバルに恩を着せたくなかったのだ。
彼女は髪の毛に触ってみた。
タオルを通して少し湿っている。
もう少し上げたままにしておく方がいいかもしれない。
そう思った時だった。
黒電話が突然鳴ったのだ。
しばらくはそのまま放っておいた。
もしかしたら蔵の中にも電話があるかもしれないと思ったからだ。
しかし、10回以上コールされてもまだ呼び出し音は鳴りっ放しである。
これはもしかして緊急の何かかもしれない。
マチコは恐る恐る受話器を上げた。

「もしもし…?」

男の名前を名乗ろうかどうか迷ったが、その前に相手の方から尋ねられてしまった。

「あら?●●さんです?番号間違えたかしら?」

若い女の声だった。
張りがあって、明るい感じの声だ。

「あ、いえ、確かに●●様の家です」

珍妙な受け答えになってしまったが仕方がない。

「え、まさか、マチコお姉さまじゃないでしょうね」

「はい?」

私をお姉さまと呼ぶような人間の心当たりはまるでない。
しかもどう考えても相手の方が年上だぞ、とマチコは咄嗟に思った。

「私は、確かにマチコですけど…」

「●●マチコ、さん?」

相手もわけがわからないのだろう。
快活な調子は消えてしまっている。

「いえ、私は南雲マチコです」

咄嗟に応えてから、マチコはようやく気がついた。
この人が間違えているのはもしかして…。
蔵の中の女と自分は同じ“マチコ”なのか?
その時、扉が数度ノックされ、男が「入るぞ」と大声を上げて中に入ってきた。
マチコはほっとして立ち上がろうとしたが、黒電話は床に置かれているのでまた座り込まざるを得ない。

「あら、そうなの?ごめんなさい。お客様だったのね」

「はい、先生の生徒です」

おいおい、それでは情報は伝わらないだろうとマチコは苦笑した。

「チェロの?」

「いえ、ピアノです」

「あら、ピアノを弾けたの?●●さんは」

「あ、だから…」

ややこしい説明をしなければならないのかと思ったとき、男が廊下から声をかけてきた。

「電話だな。すまない」

「はい!」

と廊下に向かって叫んでから、マチコは受話器の向こうの女性に伝える。
襖が開く音が背中でした。

「あ、すみません。先生がいらっしゃいました。代わりますので、お待ちください」

「あ、そう?ごめんなさいね」

「いえ」

ようやく開放されると一安心し、受話器を畳に置いた。
そして立ち上がって振り返ったマチコは、こちらを凝視している男の視線にぎょっとした。
これまで見たことがない目つきなのだ。
一瞬、怖い、と思った。

「あ、あの…。あっ」

その時、彼女は気がついた。
相手の名前を聞いていなかったことに。
マチコは慌てて受話器を取った。

「すみません。どちら様でしょうか?」

相手の女性はおかしそうに笑って、「ごめんなさい」と名前を告げたのだ。

「先生。えっと、いかりゆいさんという人から電話です」

そのように伝えた時の男の顔には先ほどの異様さはどこにも見られなかったのだ。
彼はうむと頷き、受話器を受け取った。



「ユイさんからだった」

「あら、もう連絡なんかしてこないと思ったのに」

「君はあの娘の唯一の親類だろう」

「そうね。碇家の一族、最後の二人…か」

すでに碇という姓ではなくなってしまっている女は感慨深げに言った。

「まあ、ユイのヤツは健康そのものだから、きっと子孫を残すことでしょう」

「ああ、その件だった」

「あら、結婚?」

「いや、婚約だそうだ」

男は電話の内容を伝えた。
ある男と婚約をしたのでマチコお姉さまにお伝えして欲しいと。

「つまり、誰かに言いふらしたかったって事ね」

「そうなのか?」

「きっとあまり周りの人には言えない男なのよ、相手が」

「何故わかる」

さあ?とマチコは首を傾げてから、そしてにっこりと微笑んだ。

「一族の血、ということでしょうね、きっと」

「血、だと?」

「はい。血。碇の一族の女は好みが世間とずれてるんでしょう」

ようやく妻の言葉の意味がわかり、男は苦笑する。
もっとも自分がもてない男であることは承知しているので、妻の好みがおかしいという点では大いに同意できる。
しかし、彼女の従姉妹までが同様の趣味をしているとは驚きだった。

「でも、それは碇の女に限った話ではないと思うわ」

マチコは微笑みながらそう言った。
彼とこういう話を楽しみたい。
しかし、これも巧く使えば、あの娘を女として意識するかもしれない。
だが、彼女は知らなかった。
この時、男は南雲マチコのことを生身の女として意識してしまったことを。

「そうかな?」

「ええ、例えばあの子」

「ん?どの子だ?」

男がしらばくれた事をマチコは見逃さなかった。
それは照れのためだとこの時は思った。

「南雲マチコさん。あなたのことが嫌いだったら、この屋敷にほいほい来るものですか」

「ほいほい、か」

「はい、ほいほい。ケーキを持ってきてと頼めば、ほいほい。ピアノを教わってと言えば、またほいほい」

諧謔めいた喋り方を聞いて、男は注意しようとしたが妻が思いのほか真剣な表情だったので口をつぐむ。

「とにかく、あの娘は少なくともあなたを嫌ってはいないということですわね」

「それは…、そうだな」

男はつい今しがたの光景を思い出してしまった。
髪の毛を上げた、南雲マチコの白いうなじを。
それは彼の意識下における男の部分を大きく揺さぶったのだ。





1976年 −秋−

少年は本屋で会計を済ませた。
毎月購入している音楽雑誌だ。
そして出口へ向う途中だった。
立ち読みをしている男の手元がちらりと見えたのだ。
一瞬、少年は息を飲んだ。
あるグラビア写真が彼の心を射抜いたのである。
その時、少年は中学3年生になっていた。

浴衣姿の女性が片肌も露わに黒髪を梳いている写真。
その時はすぐに他のページにめくられてしまったので、じっくりと見ることはできなかった。
またその本屋は行きつけのお店だったので、そんな雑誌を手にしていることを見られるのをよしとしなかったのだ。
だから、彼はその雑誌名を記憶するだけに留めた。
そして、店の外に出たのだが、もう一度あの写真を見たくて仕方がない。
だが、街の本屋にはどうしても行けなかった。
その日は運良く土曜日だったので、チェロのレッスンもなくあと3時間あまりは自由だった。
見知った人のいるところでいかがわしげな写真が載っている雑誌を見ることは、どうしても少年にはできなかった。
思い余った彼は、長野電鉄に飛び乗ってしまったのである。
しまった、バスで長野市の中心部に行った方が良かったと思いなおしたのはもう後の祭りで、
結局彼は須坂市まで行ってしまった。
そこまで行けば知人もいないだろうと、勇を鼓して少年は駅前の本屋に突入し、3冊の本を購入した。
真っ赤な顔をして、音楽雑誌とFM情報誌の間にかの雑誌を挟みこんで、レジに向うその姿は明らかに挙動不審だった。
しかしながら、レジにいた男の店主は真ん中の雑誌をチラリと見て、さもありなんとさっさと会計を済ませてくれた。
少年は本屋を出るとわき目も振らずに駅に走り、帰りの切符を買ったのである。
180円の雑誌一冊のために、彼は1千円近くのお金を使ったのだが、そのことを後悔はしていなかった。
サンドイッチをするために選んだ雑誌も今日松代で買ったばかりのものだったのだが、そのことについても納得している。
こうしてあの写真が載っている雑誌を入手することができたことの方が嬉しかったからだ。
空席があるのに出入口の扉に張り付いた彼は、まるで爆発物が入っているかのように本を入れた袋を握り締めていた。
もし、今買った雑誌にあの写真がなかったらどうしようか。
そんな不安に胸をドキドキさせながら、彼は一生懸命に窓の外を見つめ続けていたのである。

この頃の屋敷は閑散としている。
今ここに住んでいるのは彼と父親だけだったからだ。
もし、父親に音楽の心得があったなら、今宵の彼のチェロの音が乱れていたことに気がついただろう。
しかし、少年の父親は手酌で晩酌を楽しむと、ぼんやりとテレビを眺めていただけで息子のことを気にもとめていなかった。
少年が必死に今の自分はいつもと変わりがないんだと演技していたことなど少しも知らずに。
そして、その時は来た。
父親が風呂に入ったのだ。
それから30分はまず出てこない。
自室に戻った少年は机の奥に仕舞っていた紙袋を取り出し、開けるのももどかしく袋を破り去った。
サンドイッチ用の雑誌などぽいと投げ捨て、問題の雑誌を開く。
どこにあの写真があるのか、まったくわからなかったので震える指でページを捲っていく。
あった。
和室に背中を向けて座る黒髪の女をカメラは斜めから写している。
はだけた浴衣から透きとおるような方と背中の一部、さらに片方の乳房がのぞいていた。
そして長い黒髪を首の向こう側に流しているので白いうなじが眩しい。
顔は横顔の一部しか見えなかったが、儚く寂しそうな表情のように彼には思えた。
それはエロティックな扇情的な類の写真ではなく、寧ろ芸術性の高いものであった。
しかし、少年にはそうは感じられなかったのだ。
少年はその写真を凝視し、そして…。
この時が、彼にとって生まれて初めての自慰行為だったのだ。
写真を見つめ続け、その時に到った瞬間、彼はある人の名前を叫んでしまった。
その名前が亡き叔母さんのものだと自覚したその時に、その写真の上に精液が飛び散る。
彼は呆然としていた。
快感のためではない。
叔母さんのことをそのように思っていたこと。
そして、恥じらいもなくこのような行為に及んでしまったことを。
遠くで父親が「風呂に入れ」といつものように怒鳴った声を耳にとめ、少年はようやく呪縛から解けた。
何のための涙かわからぬままに彼は溢れる涙を拭おうともせず、汚した雑誌を閉じ、また他の雑誌で挟み込む。
畳に飛び散ったものをちり紙で拭き、ゴミ箱の奥の方に押し込んだ。
手についたものが気持ち悪く、それもちり紙でごしごし拭いたのだがどうにも感触が残っている。
彼は「ごめんなさい」と呟き続けながら、後始末を続けた。

その後、その雑誌を二度と開くこともなく、やがて父親の不在の時を狙って庭で袋ごと燃やしてしまった。
憧れていた叔母さんを性欲の捌け口に使ったという罪悪感が彼を苦しめ続けたのである。
灰となった雑誌は庭の隅に穴を掘って埋めた。
そういう邪な思いも一緒に埋まってしまえばいいと念じながら。
しかし、少年は自覚していた。
燃え上がるさなか、あの問題のページ、よりによって浴衣の女性のあのグラビアが一瞬彼の瞳に飛び込んできたのだ。
慌てて瞼を閉じたのだがもう遅い。
炎の向こうに垣間見えた、その女の儚げな横顔と白いうなじは少年の脳裏に刻み込まれてしまった。
写真は灰となっても、埋められてしまっても、彼が生きている限り消すことのできない記憶となったのである。





その記憶が長い長い時を経て、若い娘の後姿と繋がった。
男は南雲マチコを女としてはっきりと認識してしまったのだ。
そのことを彼は自覚し、妻もそれを察した。
いつしか雪はやみ、母屋と蔵との間には真っ白な絨毯が敷き詰められている。
電話のために男が往復した足跡もすでに雪で消されていた。
深閑とした闇の中、若い娘は健康そうな寝息を立てて布団の中で熟睡している。
それにひきかえ、男はなかなか眠れなかった。
クリスチャンではない男は聖夜であろうが妻を抱くことにこだわりはないのだが、
信仰を捨てたと口にはしているのだが妻の心にはそれを気にするのではなかろうか。
肉体的に悶々とした気持ちを必死に抑えて、愛するものへの臆病さゆえに男は自分の本能を必死に抑えこんだ。
彼はその欲望を妻に気取られずにいたと確信していたが、実際には彼女に露見している。
しかしながら、彼女は夫にすまないと思いながらも身体を開こうとはせず、逆に早々と夜具の中におさまった。
そうなるともう男には何もできない。
真っ暗な蔵の天井を彼はぐっと睨みつけながら眠れぬ夜を迎えたのである。
男は瞬きもせずに目を見開いていた。
目を閉じたならば、あの写真の女性の横顔が南雲マチコのそれにすりかわるということがわかっていたのだ。
そして、一度すりかわってしまったならば、あの娘をそんな風に見てしまう。
自分のこころを彼はすっかりと見抜いていた。
だが、もう遅い。
記憶の写真と違って、南雲マチコは彼が手を伸ばせば触れられる存在なのだ。
愛する妻がいるというのに、自分はなんと汚らわしい心を持っているのだろうか…。

ぱさり。

どこかで雪の塊が枝からこぼれ落ち、聖夜の終わりを告げていた。






第五章 了





なかがき

次章は"先生"から離れ、ある男の過去の話となります。
冒頭はこの章と同じ聖夜からはじまりますが、そこから30年近くタイムマシンで旅行していただくことになります。
かなり思い切った設定にしていますので、ちょっと待て!となるかもしれませんがあしからず。
他の章に比べて少し長めの話となりますが、よろしくお付き合いのほどお願いいたします。

宇城淳史






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