− マチコ −


第一部



第四章   「先生」







永遠に続くものなどないのよ、あなた…。
蔵の中でその妻は頬に一筋の涙を流している。
男の気持ちはよくわかっていた。
ここでの暮らしに満足している、その気持ちは彼女も一緒だった。
だからこそ、こんな蔵の中の暮らしでさえ彼女にとってはエデンの園も同様だったのだ。
誰が自ら禁断の林檎など口にしよう。
内側から鍵の掛かる彼女の楽園を訪れる蛇などいないのだから。
愚直なチェロ弾きのアダムはイヴが唆さない限り、リンゴを手にすることすらしないのだから。
マチコが自分から外に出ない限り、楽園は二人のものだ。
おそらく赤ん坊を死産したのは、それを神様が示唆したに違いない。
そして…。
彼女は自分の身体のことを知っていた。
結婚して2年間、妊娠する気配がないので、夫には黙って検診を受けていたのだ。
そこで妊娠する可能性が低いこと、さらに受精しても無事に出産できるかどうかという宣告を受けた。
その半年後に彼女は妊娠したのだ。
だからこそ、マチコは喜び、評判のいい産婦人科を選び、万全の状態で出産に向おうとしたのだが…。
妊娠8ヶ月を過ぎた頃、夫が定期コンサートで東京を離れていた時に、彼女は自宅で倒れた。
ようやく意識を取り戻し救急車を呼んだが、もう既に手遅れだったのである。
狂気の虜となったマチコが平静を取り戻した時、彼女は悟った。
もう二度と妊娠することはないだろう、と。
最初で最後のチャンスを逃がしてしまったのだ。
完全に狂ってしまわなかったのは、夫が傍にいてくれたおかげだろう。
この時点で、彼女には夫しかなかったのである。
世間も何も要らない。
この楽園の生活さえずっと続いてくれさえすれば…。
そんな風に思い込んでいる自分をマチコは醒めた目で見ている。
蔵を楽園と見立て、外の世界との接触を断ちたいと思うこと自体が狂っている証拠ではないか、と。
だがそれでもいいと思っていた。
外に出てどうなる?
ここであろうが、都会であろうが、近所の奥様連中や訪問者たちと世間話をする毎日。
何かしらの仕事をする男の帰りを待つ毎日。
駄目だ、我慢できない。
私は狂ったままでいい。
運良く夫には一生つつしまやかになら暮らしていける不労所得がある。
だが、この自分は夫のようにしっかりとしていない。
外界と接すれば、何かしらの誘惑に負けてしまうかもしれない。
そうだ、あの屋敷には蔵があったではないか。
病室でそのことを思い出した時、マチコは歓喜の叫びを上げてしまった。
あそこを私たちの楽園にするのだ。
きっと夫もその考えに賛成してくれるに違いない。
そして、マチコの思惑通りに楽園は出来上がったのだ。
世間の人々がどう思おうが、そこは確かに楽園だった。
誰も邪魔することがない、平穏な毎日。
その毎日を維持するために、彼女は考えられることはすべて手を打ったつもりだ。
妊娠する可能性はないことを知っているのに夫の身体を求めたのは、男の身体が疼かない様にするためだ。
いくら淡白な彼でも禁欲生活が続けば、もしかすると何かの誘惑に負けてしまうかもしれない。
夫の性格を世界一理解できている彼女ならば、そんな可能性など皆無であると断言できたはずだ。
だがそれでも不安だったのだ。
だからこそ、彼女は子供が欲しいと叫び、彼の身体を要求したのだ。
妊娠しないことを察していない振りをして、それをよく知っているはずの彼を貪る。
こんなセックスなど身体は満足しても心はどうだろう。
きっとこういう行為自体を忌避したくなるに決まっている。
その考えの通りに、夫はその行為の間、硬く目を閉じているではないか。
ああ、嬉しい。
これで夫は私だけのものになる。
マチコは男に気づかれないように、精神と肉体の両方で快感に溺れた。
しかしもし目を開けられると、快感に打ち震えている姿を見られてしまうかもしれない。
その儀式を行なう時、蔵の中を真っ暗にし、自分の表情を見られないようにした。
それでも目が慣れてしまうとそれなりに表情がわかってしまうので、
快感を押し殺し無表情を装う癖をつけた。
そんなことをすれなするほど、精神状態は悪くなる一方だ。
だが、マチコはそれでもよかった。
完全に狂ってしまおうが知ったことじゃない。
夫さえ、自分の傍にいてくれるのならば。

ところが、彼女は3ヶ月ほど前に身体の変調に気がついた。
ユイが訪れてきた2週間後のことだった。
胸が苦しい。数秒だったが息ができなくなって、汗がどっと出てくる。
左胸に手を置き、鼓動を確かめてみた。
微かだが、どくんどくんと動いている。
心臓?
父方の家系がみな心臓が弱いと聞いていた。
そもそも父親自身、まだ30代の若さで亡くなっているのだ。
その遺伝が自分に?
一瞬、医者を呼ぶか、病院に行くことを考えてしまう。
しかし、それは躊躇われた。
入院すれば彼とはもう一緒にいられない。
大きな手術をした後、2年も入院した挙句、病院で死んだ父親。
看病疲れで3ヶ月も経たずにその後を追った母親。
確かにそれは自殺ではなかったが、娘の目から見ると明らかに後追い自殺のようなものだ。
食べるものも食べず、ほとんど眠ることもなかった。
もしマチコがもっと小さかったならばそういうことにもならなかったのだろうが、
その時彼女はもう大学生だったから。

マチコは自分に問いかけてみた。
わたくし、治るでしょうか?
騙し騙しで長生きできますか?
その問いかけに返事をしたのは誰だったのだろう。
神か悪魔か、それとも。
ただ、マチコは彼女の頭の中にすっと入ってきたその言葉を信じた。
お前は遠からず死ぬのだ。
意外なほどに素直に、その言葉を受け入れた彼女はすぐに次の問題を考えることにしたのだ。

夫をどうするか。
連れて行くか、それとも残していくか。

盆の時の母親の様子が心配で、9月に入り週に一度は電話をかけた。
ところがある時何日も留守番電話のままとなり、急いで帰郷すると実家はすでに死の帳に覆われていたのだ。
母親は眠るように布団の中で冷たくなっていた。
連絡を受けた警察が扉を破って中に入ったが、その時はもう死後5日経過していた。
当然変死扱いされ、司法解剖を受けた上、新聞にも載ったのである。
その上、マチコが母の遺体と対面した時はもう腐敗がはじまりかけていたのだ。
もし彼女が連絡を取っていなかったら?
あの優しい母の身体はどうなっていただろう。
そのことを思い出すと、彼女は身体が震えた。
自分は死んでも、おそらく夫がひっそりと葬儀をあげてくれる事だろう。
しかし、もし彼が自分の後を追えばどうなるか。
電車に飛び込むとかそういう行動は取らないだろう。
自殺するにしても彼ならば、この蔵で死を選ぶに違いない。
しかも扉に鍵をかけて。
あああああああ…。
彼の死体がどうなるかを考えただけで、マチコは気が動転してきた。
おのれの死体がどうなろうと気にも留めない。
しかし、愛する夫は話が別だ。
文学好きだったマチコはかつての文豪有島武郎が心中の挙句どんなかたちで発見されたのか知っていた。
蟲、蟲、蟲!
彼がそんな姿になることなど、しかもそれを他人の目に晒させることなど彼女には許せなかった。
だが、二人だけの日々を送ってきた反動が彼を死に赴かせる可能性が高い。
しかしどうしようがあるというのか。
心中するにしても、夫に残りの人生を歩んでもらうにしても、今のままでは駄目だ。
少なくとも知り合いという者が存在するならば、夫がどちらの道を選ぶにしても安心だ。
だが、今さら第三者がこの世界に乱入してくるなど考えもつかない。

そして、マチコはわけもなく感じていた。
夫は何かしないといけないことがある。
それは今すぐではなく、もっと後でのことだ。
それが何かはまったくわからなかったが、天啓といった類のものと彼女は思った。
夫は連れて行けない。

そんな時である。
マチコが夫に演奏をせがんだのは。
そして、その演奏がある少女をこの閉鎖された世界に導いたのは。

マチコがその娘の存在を知ったのは、若きマチコが初めて屋敷を訪れた日のことだった。
夫が珍しく来訪者の話を自分からしてきたのだ。
いつもならば今日は誰か来たのじゃないの?と問いかけない限りは、絶対に喋らない男が、である。

「今日は本屋の配達が来た。それがな」

男はくっくと笑う。

「お前と同じことを言ったのだ。驚いてしまったぞ」

「わたくしと?」

まさか配達の主が女性とは思わなかった。
自分がいつ言った言葉と同じなのだろうか、とマチコは男に先を促す。
こういう事も珍しい。
普段ならば、こういうもったいぶった言い回しをしない男なのだ。
もちろん芝居っ気はないので、あの台詞は淡々と喋っただけだった。
しかし、その言葉があまりに似通っていたためにマチコは驚いた。
その上、名前が同じではないか。
男はそんなマチコの表情に満足したのか、さらに言葉を継いだ。

「やけに生真面目な女の子でな、黒髪が綺麗だった」

マチコは初めて聴いた。
男が女性の容姿について喋る言葉を。

「黒髪…。長かったのですか?」

「ああ」

マチコはできるだけさりげなく言った。

「叔母様と同じくらい?」

どの叔母様とは敢えて言わなかった。
そして男の表情を見ていると、彼は少し相好を崩した。

「うむ、そうだな。元気な頃と変わらないくらいに長かった」

「顔も似てました?」

「いや、まさか。歳も違うしな」

そうか、“女の子”なのだから歳が若いのだ。
情報が少しずつしか入ってこないのは困りものである。

「雰囲気は、どうでした?」

「そうだな…」

男は懐かしそうに目を細めた。
間違いなく、配達の娘ではなく、叔母の方を思い出している。

「意外に子供っぽいところがあったような気がする」

「叔母様が?」

「ああ、あそこの縁側で足をぶらぶらさせて座っていたりしてな」

男は扉越しに屋敷の方を見つめた。
その視線を追いながら、マチコは胸に沸き起こる予感というものに胸を躍らせている。

「その子…、わたくしと同じ名前の子は、今時の娘でしょうか」

「うむ、高校生だとは思うが」

「高校生!」

さすがに高校生とは思わなかった。
大学生のアルバイトか何かだと思っていたのだ。

「制服を着ていたからな」

もっと早く言ってください、とマチコは焦れた。
普段ならばこういうなかなか先に進まない会話を楽しんでいるのだが、今日は違う。
情報を早く欲しく、まどろっこしくて仕方がない。
しかし、それを夫に気取られたくない。
茫洋としているように見えて、かなり繊細な性格をしていることはよく知っている。
マチコは優しく微笑んだ。

「まあ、羨ましい。若い女の子を見るのは何年ぶり?」

「村へ買い物に行った時に時々見かけるぞ」

投げかけた冗談に対して真面目に言葉が返される。
女性にそれほどの興味を持たない男の性格がよく出ている。
何しろこのマチコにさえ、最初は迷惑がっていたほどなのだ。
寂しがり屋の癖に。
マチコは心の中でそう呟く。

「可愛い子でした?」

「そうだな、可愛いというよりも綺麗といった感じか」

「それは目の保養になりましたこと」

男は怪訝な顔をする。
また冗談がわからなかったようだ。

「でも残念ですね。わたくしも拝見したかったわ」

「さすがに屋敷の中にはな。また来るが」

「また?また配達に来るのですか?その子が?」

男は若きマチコとの会話を伝えた。
どうも当事者はわかっていないようだが、その娘は仕事以外で配達を請け負ったようだ。
何故、そんなことをする?
この屋敷に興味がある所為か?
蔵の中に狂った女が住んでいるという、恐怖映画の様な場所に?
いや、しかし、夫が言葉すくなに語った娘のイメージとそれは異なるように感じた。
では、何のために…?
マチコの思考は飛躍した。
もしかすると…。



蔵の中にはテレビはない。
ラジオは小さなステレオセットについているのだが、マチコはCDを聴く事にしかそれを用いていないのだ。
因みに母屋にもテレビは存在していなかった。
受信料を払っているにもかかわらずである。
「テレビはない」と言いながら支払いをされ、集金に来た男が大いに戸惑ったことがある。
払うのはラジオをたまに聴くからだと聞き、その後彼は首を傾げながら帰っていった。
ラジオだけなら払わなくとも良いと説明しても男は財布から金を出したからだ。
最近の女子高校生というものはどういう感じなのか、とマチコは考えた。
テレビもなければ、雑誌の類もない。
それにこんな田舎の女子高生などイメージも沸かないのだ。
そもそも、彼女は問題の叔母さんの写真を見た事がない。
つまらぬ嫉妬心からか、それとも思い出話をしない男の所為なのか。
ともあれ、マチコはまずその噂に名高い“叔母さん”の容姿を確認したくなった。
まずは自力で何とかしようと思い、居住空間が蔵だという事を天佑と家捜しすることにしたのである。
しかし、ほとんどの家財を事前に処分してしまったようで、アルバムなどは見つからなかった。
結局、夫に訊くと散々悩んだ挙句、自分のアルバムを母屋の押入れから引っ張り出してきたのだ。
子供の時以来中は見たことがないと言いながら、男がアルバムをめくろうとするがマチコはそれを奪い取った。
こんなに面白いものを全部見ないでどうするか、と。
男はぼつりぼつりと写真の解説をした。
真っ裸の赤ちゃんの写真からはじまるのだから、まさに彼の一代記となるわけだ。
問題の叔母の顔は結構早く見ることができた。
4ページほど捲った時に、法事か何かで親戚一同が揃っている写真があったのだ。
真っ先に目に付いたのはやはり幼児である夫の姿だ。
まだ3歳ほどであろうか、余所行きの服を着てカメラを一生懸命に睨んでいる。
その子から少し離れたところに立っている女性を見た時、マチコは確信した。
この女に違いない、と。
自分はこの女と戦ってきたのだ。
マチコは黙って指をその女性に置いた。
その直感は間違っていなかった。
その数ページ後にはバストアップの写真もあったので、彼女はじっくりと恋敵の顔を検分する。
長い黒髪に、明るい笑顔。
全体的に温かみが感じられる、その姿にマチコは唇を噛みしめた。
自分に全然似ていない。
いや、似ていなかったからこそ、この女性と比べられることがなかったのだ。
比べられたなら、惨敗は必至だ。
何しろこの相手は想い出の中を生きているのだから。
自分が似ても似つかないことを幸運と思ったほうがいいのだろう。
しかし、今の問題はそれではない。
マチコはようやく本来の問題を思い出した。

「どう、あなた?その女の子は似てまして?」

「いや、似てないな」

即答だった。
あまりに返事が早かったので、マチコは戸惑ってしまった。

「顔立ちが?背格好が違うとか」

「いや、背の高さとか身体つきは案外似ているな」

「では、顔?不細工なのでしょうか?」

「そんなことはない。可愛いというよりも美人の方か」

「まあ、憎らしい」

マチコは夫を睨みつけてから、もう一度“叔母さん”の写真に眼を落とす。
彼女もまた美人系の顔立ちだ。

「でも、似てないのですね」

「ああ、似てない」

「だから、どこが?」

「わからん」

膠もない返事だった。
両方を実際に見ている当人がそれなのだから、マチコには判断しようがない。
しかし、夫のことをよく知る彼女はだいたいの見当がついた。
おそらくは、“雰囲気”なのであろう。
結婚している大人の女性と、女子高生が同じ雰囲気を醸しだせる訳がない。
夫の視点がそこにあるから、似てないと彼は断言するのだ。
マチコはしばらく様子を見ることにした。
そんなに長い時間は残されていないはずだが、まだ数ヶ月は大丈夫だろう。

この冬になって初めての積雪の日だった。
あのマチコという娘が長靴を借りて帰ったという。
夫はそのことについて何も考えてないようだが、蔵の中のマチコの方は少しばかり引っかかるものを覚えた、
この地に引っ越してきたばかりの人間ではあるまいし、足回りを考えずに外を歩くだろうか。
もしかすれば、自己アピールかもしれない。
自分はこれだけあなたのことを考えてますよと、それを訴えたいがために濡れた靴で来たのでは?
そして長靴を借りて帰ったのは、夫との接点を増やしたいため。
そうに違いない。
きっとそうだ。
となれば、明日か明後日にはお礼に現れるだろう。
そんな行動に出たならば、その娘は夫のことを…。
マチコは複雑な笑みを浮かべた。
自分以外の女が夫に好意を抱くなど許せない。
しかし、誰かにバトンを渡さないといけないのだ。
まさに千載一遇のチャンス。
神様がその娘をお遣わしになったに決まっている。
とにかく、この数日を楽しみに待とう。
彼女は哀しげに微笑んだ。



「どうする?ケーキだ」

見れば、わかる。
マチコはそう言いたかった。
しかし、ケーキの箱を両手で捧げ持つその姿があまりに滑稽で無粋な突っ込みは言えない。

「まあ、そうですの?どなたが?」

そう、こちらの方が大きな問題なのである。
十中八九、持ってきたのはマチコという名の少女だろう。

「おお、そうだった。昨日の子が長靴のお礼だと持ってきてくれたのだ」

お礼は名目。
そんなことにも気がつかないのだから、その娘も可哀相に。

「では、頂戴したのですね」

「いや、断った」

マチコは頭を抱えたくなった。
では、どうしてここにケーキの箱がある?
問い詰めると、娘が奥様にどうかと言ってきたとのこと。
これは予想外の展開だった。
蔵の中の女という存在を知っていることを自分から告白してきたのだ。
そして、その女でさえアイテムとして使おうとしている。
この娘は使える。
マチコは断定した。

「あなたは意地悪ですのね。わたくしが甘いものを好きなことを知ってて断ったなんて」

「す、すまん。では、いただこうか」

「当たり前です。置いていってくださいね」

「あ、ああ、いいのかな」

「いいに決まってるでしょう。ここまで持ってきてしまっているのに」

呆れ顔をして見せると、夫はぎこちなく頷いてそれからあたふたと外へ出て行った。
その後姿を見送り、マチコはケーキの箱を開ける。
実にオーソドックスな取り合わせのケーキが4個入っている。
ショートケーキが2個にモンブランとチーズケーキが1個ずつ。
こんな生活をしているからわざと甘いものを控えていたのだが、もう解禁してもいいだろう。
どうせそのうちに何も食べられなくなるのだから。
マチコは久しぶりのケーキを見つめ、そして思いついた。
その娘を屋敷に越させる頻度を上げる手立てを。



そして、今。
マチコは自分と同じ名前の娘を見つめている。
あの娘はわたくし。
あなたと出逢った時のわたくし。
わたくしもあんな真っ直ぐな目であなたを見ていたはず。
そして、その眼を恐れて、あなたは逃げ出してしまった。
今度はどうします?
マチコは無意識にフォークでつぶしてしまっていたケーキの残骸に気がつき、
大きな溜息を吐くとその残骸が乗った皿を脇にずらす。

「憎らしい娘。もしわたくしが…」

顔を上げたマチコは、にっこりと微笑んだ。

「人の夫に手を出そうなんて、半年前なら殺されていたわ、あなた。この、わたくしの手で」



彼女の殺気はマチコに届かなかったようだ。
何よりも実際、マチコは彼女にとって希望の星なのだから、殺害しようなどとんでもないことだ。
男の演奏を堪能したマチコは、その三十分後自分の耳を疑った。
男は大いに戸惑った顔で彼女の前に正座している。

「私に、ピアノ?」

「そうなのだ。まったく何を考えているのか、家内は」

確かに何を考えているのかわからない。
演奏が終わりしばらくすると、蔵の鉦が鳴った。
そそくさと蔵へ赴く男を見送って、マチコは少し膨れた。
好意を持つ男のそんな姿は見たくない。
何しろ呼んでいるのは奥さんなのだから。
そして、帰ってきた男は当惑した表情で楽譜を手にしていたのだ。

「君が…」

そう言われて、マチコの胸が躍った。
男に“君”と言われると、心がときめく。
もし名前で呼ばれたらどう思うのだろうか。
それを知りたい。

「君が断ってくれればそれで終わりだ。家内も無理に…」

「あ、あの!教えてください!」

「いや、私はピアノはわからん」

「技術的なことじゃなくていいんです。そ、その、つまり、雰囲気というか」

「しかしだな」

渋る男にマチコはついに言ってしまった。

「奥様のご希望なんですよね。教えてください。この曲」

恋敵にあたる蔵の中の女の力を用いるのは気が引けたが、しかしここで諦めるわけにはいかない。
これで大丈夫だ、男がしぶしぶ頷くと、マチコは思った。
しかし、それでも彼はまだ応諾しない。
マチコは焦った。

「あの、ですから、私…」

そして、彼女は思いついた。
結果として、男の琴線に触れることを。

「つまり、一緒に演奏したいんです。この曲を。チェロと、ピアノで。だから、教えてください」

その時、男がはっと息を呑む音が聞こえた。
理由はわからないが、ここだ、と彼女は思った。
だから、さらに言葉を継いで頼み込んだのである。
家のピアノは処分されてしまったので弾きたくとも弾けないから、ここでピアノに触らせて欲しい、などと。
そして、男はついに頷いてしまった。



その夜のことだ。

「まあ、調律師まで呼びますの?」

「当然だ。私にはできんからな」

「そういう意味じゃありません。随分と親身ですのね」

「お前がやれと言ったのではないか」

「わたくしが言ったのは、あの娘にピアノを弾かせてあげたらどう?ってだけ。
 何もデュエットしなさいなんて言いませんでした」

「ほう、知っていたのか」

「何がです?」

「デュエットだ。歌だけでなく、異なる楽器を重奏するのもそう言うのだ」

嬉しそうな夫を見て、マチコは盛大に溜息を吐いた。
「それは歌のことだ」などと突っ込みを入れてくれるものと期待して、わざと間違えた言葉を使ったのに案に反して正鵠だったようだ。

「楽しそうですね」

「いや、別に」

「嘘つき」

マチコは立ち上がった。
そして、照明をすべて消し去る。

「今晩は冷えるわ。温めてもらえるかしら」



「ちょっと、マチコ!それって拙いよ!」

アカネは血相を変えた。
学校を出てバス停に向かった二人だが、マチコが話があると言い出したので、
自動販売機が並んでいる小さなスーパーの脇で立ち話をはじめていた。
そこで彼女が言い出したのは、屋敷に通ってピアノの練習をするということだった。

「でも、ピアノを習いに行くだけだよ」

きっと面白がってくれるだろうと、軽い気持ちで友人に話をしたマチコだった。
しかし、今回の彼女は真剣に友を諌めようとしたのだ。

「あのね、この前のクリスマス会だって、本当は行くなって言いたかったの」

「言わなかったじゃない」

「だから、その時は逆にあんたが気持ち悪がって、もう行かないって言い出すかなって」

「気持ち悪い?どうしてよ」

マチコは少し腹が立ってきた。
その感情が表情に出ている。
それを見て、アカネは結局こうなっちゃうんだと胃の辺りが苦しくなってきた。

「だって、実際にあの蔵を見たら嫌な気分になるって思うじゃない」

「全然」

マチコは嘘を吐いた。
正直に言うと、今でも気持ちが悪い。
あのぽっかりと黒い眼のような開いた扉は確かに不気味だった。
蔵が白いから余計にそう見えるのだと、自分に言い聞かせたがその中にいる女のことを思うとなおさら気味が悪い。
しかし、彼女は強がった。

「気が狂ってるなんてもしかしたら嘘かもよ。別に変じゃなかったもん」

「会ったのっ?話したの、まさかっ」

「会ってないけどさ。でも、親切な人だよ」

「どうしてわかるのよ!」

「だから、私にピアノを弾きに来ればいいって」

「それが変なんじゃない!どうしてあんたにそんな事を言うのよ」

「そ、それは…」

確かにわからない。
あれから何度も考えたのだが、明確な答は出てこないのだ。

「きっとあんたを油断させて何かしようって魂胆よ」

「何かって何よ」

「そ、それは…」

アカネの脳裏に数々のホラー映画の映像や未成年者が見たりしてはいけないものどもがよぎる。
彼女は頬を染めて、無難な言い方を探した。

「ほ、ほら、新聞沙汰になるようなことよ。あんたを監禁したり」

「今更?」

「そうよ、今更」

鸚鵡返しに言ってから、アカネはついに言葉にしてしまった。

「絶対にあんたをあの男の慰み者にしようとしているに決まってる!」

「な…、慰み者って!」

マチコは親友を睨みつけた。

「アカネって不純」

「あんたが眼が見えてないのよ。誰が考えてもそう思うわよ」

「今までそんなこと全然なかったじゃない」

「今までは今までだし、だいたいそんなこと誰が信じてる?」

もう止まらない。
言い出してしまったのだ。
この会話を途中で止めることはできない。
アカネは唇を噛んでから、一番言ってはならないことを親友に告げた。

「私はそんなこと信じてないけど…」

「何をよ」

「あ、あんたは…、そのためにあそこに通ってるんだって」

「だから、何のためによ」

アカネは目を逸らした。
こんなことを本人を見て言える訳がない。

「あ、あいつに抱かれ…」

「アカネっ!」

マチコにはわかった。
そういう話になっているのだ。
彼女があの屋敷を訪れていることを周りの人はそういう目で見ていたわけだ。
何という卑しい考え方をするのだろう。
マチコは大きく息をして、気持ちを落ち着かせようとしたが無理な話だ。
村の人には自分がそういう目的で男に会いに行っていると決め付けている。
アカネの家に遊びに行っている時もそういう目で見られていたのだ。
村の人だけでなく、アカネの家の人にも。
まるで全裸で村を歩いていたかのように彼女は感じた。

「私、もうアカネの家、行けない」

「マチコ…」

「みんな不潔。どうしてそんな目で見るのよ」

そんな事を言いながら、マチコは自分が情けなかった。
噂をされたことは腹立たしい。
しかし、その噂の通りになっていてもいいと思う自分がいる。
それなのに、その通りになっていないが故に腹を立てている。
それが自分でわかっているのだ。
だが、一度回りだした歯車はもう止められなかった。

「ごめん。これまでありがとう。これまでだね、私たち」

「そんなこと…」

「だって、こんな私と一緒にいたら、アカネも変な目で見られちゃうじゃない」

アカネは押し黙った。
確かに親たちからそのように説教されているのだ。

「私はもうすぐこの町を出て行くけど、アカネはずっとあそこで暮らすんだものね」

マチコは背中を向けた。
そのまま数秒立ち尽くす。
目を瞑り、深呼吸し、腹立ちを抑える。
それから、彼女はつかつかと自動販売機に歩み寄った。
財布から小銭を出しボタンを押す。
その姿をアカネはぼんやりと眺めていた。
これが友情の終わりなんだと思いながら。
友達になったのは高校生の途中からだが、一生涯の友達になれそうな気がしていた。
例え就職後に住む場所が変わろうとも、友情は続くものと考えていたのだ。
思えば、マチコがあの屋敷の話をした時から嫌な予感はしていた。
あんな奴ら村に帰ってこなければよかったのに…。
マチコは缶を取り出すと、思いつめたような顔でアカネの前に立った。
そして、缶を彼女に突き出す。

「これ、これまでのお礼。いろいろ相談に乗ってもらってありがとう。本当に助かった」

作文を読むような口調だったが、必死に感情を抑えているのはよくわかる。

「ほら、もらってよ。アカネの大好きな甘いミルクティーよ」

押し付けられた紅茶の缶をアカネは手にした。
熱い。

「じゃあね、アカネ。屋敷の傍で私を見かけても声なんかかけないでよ」

素早く言い切ると、マチコは踵を返した。
鞄を持つと、彼女はそのまま振り返らずに駆け出す。
だんだん小さくなる友の後姿を見ながら、アカネは溢れてくる涙を抑えられなかった。
震える指でプルトップを外し、口をつける。

「何よ、甘くなんかないじゃない。マチコの馬鹿」

口元で涙が混じったミルクティーは複雑な味がした。
しかし、アカネは最後の一滴までその場で飲み干したのである。



親友に見捨てられた…と認識したマチコにはもう歯止めが利かなかった。
図書室に寄る事もなく、アルバイトへ行く他は足繁く屋敷に通ったのだ。
これが冬でなければ自転車で思う存分行動できるのにと、マチコは残念に思った。
家にピアノがあればもっと練習できて巧くなれるのにとも思う。
これまで自分を悲劇のヒロインのように感じることなど稀だった彼女が、折に触れて自分の境遇を嘆くようになったのだ。
我、というものがこの時点で溢れ出てきたのかもしれない。
彼女はそのように感じていた。
しかし、実際は違っていた。
結局は彼女に残された人との絆が屋敷にしか残っていなかっただけの事。
だから、マチコは毎日のように屋敷に赴いたのだ。

「どうですか、先生?」

「その先生というのはやめてくれんか?」

「どうしてですか?こうして私に演奏を教えてくださっているではありませんか?」

マチコは日増しに彼との距離を狭めてきていた。
言い換えると、馴れ馴れしくなってきたのかもしれない。
それは男の方でも実感していた。
しかし、それを何故か不快に思っていなかったのである。
その理由は妻に教えられた。
蔵の中での会話で、このことで首を捻っていると彼女に指摘されたのだ。
無意識に亡き叔母さんを彼女に重ねて見ているに違いない、と。
そのように考えてみると、なるほどと納得できた。
確かに雰囲気は違うが、ピアノを弾く時はやはり印象は似通ってくる。
しかも、彼女が次第に馴れ馴れしくなってきていることがそれに拍車をかけた。
彼女との時間が少しずつ楽しくなってきているのである。
それが妻はどのように思っているのだろうか。
今も彼らを監視するためにピアノの置いてある部屋を蔵の中から覗けるようにしているのだから。
大きな鏡を3枚も合わせ鏡にして2つの部屋を通し、双眼鏡を使い二人の姿は絶えず監視されていた。
その鏡の配置であるが、簡単にはできなかった。
何しろこの屋敷の通信機器といえば、母屋にある黒電話だけなのだ。
携帯電話などがあるわけでもないので、男は何度も蔵に戻っては鏡の位置を修正した。
村の人間に頼めばピアノの場所を移動することもできたのだろうが、屋敷うちに人間を入れることを男も妻もよしとはしなかったのだ。
ただ一人、南雲マチコが特別な存在だったのである。

蔵の中のマチコはこの時様々な矛盾を抱えている。
鏡の中のマチコを殺してやりたいほど憎く思う反面、その彼女が唯一の希望なのだ。
また一日でも長く生きていたいと思っているのに、そのために入院や往診など絶対に考えられない。
まず医者にこの身体を診せた段階で入院治療は確定されてしまう。
そのおかげで何ヶ月か生命を永らえることができるだろうが、それは夫との時間を大幅に失うことを意味する。
何よりもあの真っ白な病室。
精神を病んで入院していた頃をどうしても思い出してしまう。
そんな部屋に入れられただけで、おかしくなってしまいそうなのだ。
できることならば、死んでしまう最後の瞬間までまともな精神状態でありたい。
またあのような状態になど戻りたくないのだ。
マチコは夫に嘘をついている。
松代の屋敷に移り住んでから、彼女は一度も精神状態がおかしくはなっていないのだ。
完治したのかどうかは自分ではわからない。
しかし、あの時のように我を忘れて、暴れ狂うことはないのだ。
蔵の中で暴れ狂っている時は、わざと狂ったように見せかけているのである。
相手は医者ではない、マチコを疑うことなど考えようもない夫だ。
事実、彼は妻の精神状態が危ういままだと信じ込んでくれている。
そんな従順な夫なのに、何故彼女は騙し続けているのか。
理由はただ一つ。
夫を失いたくないのだ。
愛されている自信はある。
しかし愛され続けられる自信がなくなってしまった。
子供が産めない身体になってしまったからだ。
妊娠中に二人で交わした会話がマチコに深く覆いかぶさってきているのである。
目立ってきたお腹を撫でながら、夫が漏らした言葉。

−こうなってみると子供ができたことは嬉しい。
−自分に子供など想像もしていなかったが、こんなに気持ちが安らぐものなんだな。
−元気な子供を産んでくれ。
−女の子ならレイという名前はどうだ?男の子はまだ考えてない。
−私の両親が生きていたら大喜びしただろうな。
−エトセトラ、エトセトラ……。

あの幸福な数ヶ月間に夫がくれた喜びが、一転して彼女の重荷になってしまった。
死産させてしまった責任と、そしてもう妊娠できないという現実が彼女を狂わせたのだ。
その精神を病んだ期間が二人の間に微妙な距離を生んでしまったのである。
深く愛しあっているのに、子供という話題を意識的に避ける。
避けているからこそ、相手の気持ちを曲解してしまう。
今や男は子供はいなくてもいいと心から思っているのだが、
マチコはそれを言葉にしてくれないものだから未だに無念なのだと思い込んでいる。
もしかすると子供欲しさに他の女に手を出すかもしれない。
元々淡白な二人であったのに、結婚の2年後あたりから性的な快感を覚えるようになっていた。
それを羞恥心のためにマチコは完全に隠し、男の方もわずかにだけ表に出す程度に留めていた。
しかし、僅かに表れるその反応をマチコは敏感に察知していたのだ。
その頃は相手も自分と同じように感じてくれているのだと単純に嬉しかった。
ところが彼女の方はどうしてもそれを表現できない。
寧ろ逆に素っ気無い態度をとってしまう。
自分でも内心苦笑していたのだが、子供の頃から植えつけられてきた感覚というものはなかなか打ち破れないものだ。
当時はそれでよかった。
だが、子づくりが目的でないセックスというものがはじまってしまうと彼女は恐怖した。
夫と愛しあいたい。快感も欲しい。
だが、夫もすでに子供ができない身体だということを知っているに違いない。
医者から聞いているはずだ。

マチコは決心した。
セックスに溺れるのではなく、子供が欲しいと彼を求め続けるのだ。
もちろん、妊娠できないということをまったく知らない振りをして。
優しい夫は絶対に見抜けないだろう。
その行為を感じないようにし続け、夫にセックスを義務感と倦怠感のようなものに結び付けさせる。
そして外の女に接しさせないようにすればいいのだ。
そうすれば、夫は永遠に自分だけを愛し続けるだろう。
こんな決心をしたこと自体、精神のバランスは崩れ続けていたのかもしれない。
だが、マチコは妄執の虜となってしまっていた。
これが狂っているということならば、明らかに彼女は発狂していたのだろう。
発狂する演技により夫を繋ぎとめるという、狂った考え方に囚われていたのだから。

そして今も、彼女は自分の考えに囚われていた。
自分の亡き後、あの若い娘に夫を託す。
それが神様の意思なのだと思いつめていた。
その根拠が彼女の名前なのである。
この時期に、彼女が死を自覚したその時に、屋敷を訪れた酔狂な女性が自分と同じ名前だった。
しかもその娘は明らかに夫へ好意を抱いている。
ここまで偶然が重なるものなのか。
そんな筈はない。
だからこそ、自分はこの二人の心を繋ぐためにあらゆることを画策しないといけないのだ。
夫の愛情は自分だけのものという根本の部分ではまったく納得できていないのだが、マチコはこの計画に没頭していた。
その矛盾に今も彼女は深く傷ついている。
鏡に映る二人の姿。
夫が少年の頃に使っていたドイツ製の双眼鏡の精度は頗る高い。
合わせ鏡を通しても、二人の表情は手に取るようにわかる。
夫は気づいていない。
娘がどのように熱い眼差しを彼に向けているのかを。
そして、娘が鏡の向こう側をどれほど意識しているかも。

南雲マチコはじっと鏡を見つめた。
鏡の中に鏡が見え、さらにその中にまた鏡があり、そしてその中に見える蔵。
開いた扉の部分が虚ろな眼のように感じる。
まだ見たことのない蔵の中の女の眼、そのもののように。
マチコは知っている。
眼のように見える、その場所に女がいることを。
そして、そこからじっとここを見ていることを。
そうでなくてはどうしてこんな大きな鏡をわざわざ置くものか。
しかし、彼女はもう開き直っていた。
友を失ったことがマチコをそうさせたのだろう。
どうせあと3ヶ月ほどでこの地を去るのだ。
立つ鳥跡を濁さずというが、跡など知ったことか。
好きなようにして東京に去ってやる。
そのように彼女は思っているのだが、実際には何もできないのだ。
男に恋心を打ち明けるどころか、世間話的な会話はほとんどない。
彼女にできることは、蔵の中の女に対して虚勢を張ることだけだった。

「先生、今度先生のチェロと合わさせてください」

「まだ駄目だ」

音楽に対しては男は優柔不断なところがなかった。
マチコの問いかけに対し、即座に言い切ったのだ。

「じゃどうすればいいのか、教えてください、先生」

「だから、その先生はやめなさい」

「では名前ですか?そんなの恥ずかしいです」

本音は名前で呼びたいのである。
しかし花の18歳たるもの、そこまで図々しくはできない。

「それに喋り方が何だか先生みたいになってきてますよ」

「そうか?」

「はい」

マチコはにんまりと笑った。
双眼鏡を使っているのかどうか知らないが、鏡の向こうの女性にも見えるくらいに大きく口を開けて。



「先生?あなたが?くくくくくっ」

およそ夫を知ることにかけては世界一だと自負のあるマチコは腹を抱えた。

「うむ、そうだろ?私が先生などおかしくてたまらん」

「いえ、ぴったり」

ピアノのレッスン…というにはあまりにいい加減なものだったが、
とにかく『The Summer Knows』を幾度となく弾いていた娘が家路についたその夜。
マチコは夫に縋りつくように寄り添い、閨についている。
最近はほとんどセックスに到らず、こうやって同衾するに留めている。
その理由は二つあった。
一つは身体のことだ。
腹上死というのは男に限られるのかと、マチコは密かに思っている。
これまでのように佯狂のままに夫と交わっていると、心臓がパンクしてしまうのではないかと不安なのだ。
もちろん彼に抱かれながら死ぬのであればそれはそれで本望なのだが、今はまだ早い。
この時期にそうやって死んでしまっては、夫はあっさり首を括ってしまいかねない。
自分の死後も生きてもらうためにこうして画策しているのだ。
そしてもう一つの理由は、夫にあの娘を欲望の対象として見させるためである。
現状では女性と認識しているものの、恋愛対象としてはこれっぽっちも考えていないに決まっている。
この男はそういう男なのだ。
マチコは夫のぬくもりをもっとわけてもらおうと左手を彼の肩に置き、その力を利用してさらに密着する。
その動きに気がついた男はさりげなく訊く。

「いいのか?」

「いいんです」

「そうか」

それだけである。
セックスの頻度がかなり減ってきていることを当事者である夫はよくわかっているはずだ。
しかし、妻が求めてこない限りは彼は行動を起こさない。
彼は優しく妻の髪を撫でることくらいしかしなかった。
己の肉体に欲求を覚えることはあっても、それを晴らそうとは思わない。
だが、それは本当に妻のことを思ってのことだろうか。
彼自身はそのように固く信じている。
ところが、彼女は寧ろ夫が思うがままに自分を扱うことを夢見ていた。
乱暴に組み伏されることを望んでいたのである。
レイプという意味ではない。
彼のものとして扱われたかったのだ。
別にセックス面でなくてもよかった。
亭主関白が無理な男であることはよくわかっている。
逆にそれが彼女にとっては魅力的に映ったのかもしれない。
ぱっと見た目には自己中心的で強引な風にしか見えないのに、その内面はナイーブでそしてかなりの弱腰だ。
それでいながら自分の領域を頑固なまでに守っていて、そして愛情が深い。
深いが故に、愛するものを乱暴に扱うなど彼には到底できないことなのだろう。
行為の最中は別として、その他の場合、彼からキスをしてきたのは結婚式の時だけではないか。
優しいというよりも、嫌われたくないから自分の気持ちに忠実に動けないのだ。
マチコは夫のことをそのように解釈している。
大事に思われていることは凄く嬉しい。
しかし、人というものは贅沢にできているのだ。
相反することであっても、思い通りにしたいという気持ちが同時に存在してしまう。
一度でいいから、彼が思ったとおりに自分を扱って欲しい。
だが、マチコはそれを彼には伝えられない。
彼女もまた彼に捨てられることを何よりも恐れているのである。
まして、今となっては絶対にできないことだ。
喜びと驚愕のために、心臓が耐えられない可能性が高い。
日毎ではないが、それでも次第に身体が弱ってきていることを彼女は実感していた。
自分の身体はいつまでもつのだろう。
半年?1年?まさか、あと一ヶ月ほどしか残されていない?
マチコは少し焦ってきていた。
あの娘の方はかなり積極的になってきているというのに、その相手である筈の夫はそれをまるでわかっていない。
このままでは、彼女に愛想をつかされてしまうのではないか?
マチコは次の手を考える必要を関していた。





第四章 了






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