− マチコ −


宇城淳史


第一部



第三章   「憧憬」







1971年 −盛夏−

「凄かったんだよ。人がいっぱいでね。あんなにたくさんの人を見たの、生まれて初めて」

「そう…。そんなに凄かったの?」

「うん!」

額に汗を浮き出した少年は眼を輝かせ、病床の女性に語った。
彼女は微笑んだ。
その微笑が少年は大好きだった。

「何度聞いても楽しそうね。叔母さんも行きたかったわ」

「また、きっと同じようなものがあるよ。その時はみんなで行こうよ」

「そうね。だったら、叔母さん、月の石が見たいな」

「月の石なんてつまらないよ。あんなに並ぶだけの価値なんて全然ないよ」

「●●ちゃんは人気のあるものは嫌いだものね。天邪鬼だから」

「叔母さんはすぐそんな事を言う。僕はどうせ天邪鬼だよ」

拗ねてみせる少年の髪を女は優しく撫でた。

「綺麗な髪ねぇ。男の子の癖に」

少年は不満そうに鼻を鳴らす。

「叔母さんの方は?また髪伸ばさないの?」

「あら?私、前の方がよかった?」

「うん、絶対!ぼ、僕、髪の毛の長い叔母さんが…」

好きだった、とまでは言えなかったが、彼女にはしっかり伝わった。

「そっかぁ。でも、入院中はあんなに長いの駄目だからね」

「じゃ、退院したら伸ばす?」

「ええ、伸ばすわ。今度は腰の辺りまで」

「うわっ」

少年は歓声を上げた。
幼い頃に見た、流れるような黒髪の彼女がピアノを弾く姿が瞼に焼き付いている。
ギリシャ神話の女神とはあんな感じなのだと、絵本を見てそう思った。
しかし、そう宣言した彼女の目が少しだけ寂しげなことに少年は気がついた。
それは入院が長引いているためだと彼は誤解した。

その時、ベッドサイドのラジオがDJの声から美しいメロディーに切り替わる。
すると、短い髪の毛の女性は少しだけ音量を上げた。

「叔母さん、好きなの?この曲」

「ええ。最近のお気に入り」

「そうなんだ」

少年は曲に耳を傾け、そして無意識に曲に合わせて腕を動かす。
目に見えないチェロを弾く少年を女は愛しげに見つめる。
結婚はしたものの子宝には恵まれず、その上こうして病に伏してしまった。

「弾ける?」

「無理だよ。楽譜がないと」

即答した少年に1年半の入院ですっかり色白となった女は微笑む。

「チェロの方は?今度大きなコンクールに出るって聞いたわよ」

「うぅ〜ん、大きいっていっても、県のジュニアだよ。たいしたことないよ」

「あら、たいしたことないんだったら優勝間違いなしね」

「だいたいチェロやってる子供自体、長野県でどれだけいると思う?出ただけで入賞しそうな数だよ」

「入賞じゃなくて、優勝。そうね、優勝したらご褒美あげようか。何がいい?」

「えっと、そうだなぁ…」

少年は恐る恐る言った。

「だったらね、あのね、叔母さんのピアノと一緒にチェロを弾きたい」

「まあ、そんなことでいいの?」

「う、うん」

少年ははっきり頷く。
病床の女は優しく微笑んで、そして少年と指切りをした。

2ヵ月後、少年はコンクールで優勝を果たした。
しかし、ご褒美はもらえなかったのである。
叔母はその翌日、神様に召されたからだ。
だが、彼女は何とか少年の希望を叶えようとしていたらしい。
ベッドサイドにはある曲の楽譜が置かれていたのだ。
それはラジオでよく流れていた曲で、彼女が気に入って楽譜を取り寄せていたのだと、
少年は叔父さんに教えられた。
そして、さらにもう一つの真実を知り、彼は大いにショックを受けた。
叔母さんの髪は、入院していた時の短い髪の毛は、実は鬘だったのである。
薬や治療の副作用で髪の毛がすっかり抜けてしまっていたのだ。
少年はあの日の言葉を後悔した。
あの時、彼女が寂しげな眼をしたのは自分の言葉に傷ついた所為だと思った。
相手のことを考えずに、言いたいことを言った所為だと。
愛する叔母さんの葬儀の後、少年はめっきり無口になった。
その頃より、彼の人生から色彩が消えた。




1991年 −春−

「ねぇ、あなた」

マチコは微笑んだ。

「その、あなた、はあまり連発しないでくれないか」

「あら、どうして?」

「恥ずかしい」

男は向い側に座る妻から目を逸らす。
しかし、その微笑が残像のように心に刻み込まれたままだ。

「いやよ。わたくしの夢だったのですから。愛する人に“あなた”と呼びかけることが」

「夢の多い人だ」

これは嫌味ではない。
新妻は何かとこれが夢だったと言い出す。
二人で食べるコロッケだとか、日曜の夕方の散歩だとか。
さすがのシニカルな彼もそんな彼女の果てしない夢を微笑ましくさえ思うようになってきた。

「あなたが少ない分、わたくしが多くなっていますの」

「悪かったな」

「いいえ。わたくしのは多いだけに叶いやすくなっています」

そう言ったきり、マチコは口をつぐんだ。
沈黙が訪れたので、何事かと男は妻の様子を窺った。
そして、また蜘蛛の巣にかかってしまったのである。
妻が微笑んでいる。
その微笑みの中に見えるものは唯一つしかなかった。
盲目的な愛。
まったく…。
男はぎこちなく笑い返した。
こんな私のどこがいいというのだ。



二人の夜は淡白なものだった。
それは愛の結晶を授かるための儀式にすぎなかったのである。
マチコは不感症ではないが、ほとんど乱れることはない。
男の方も妻が赤ちゃんが欲しいと言い出さない限りは自分から求めようとしない。
それでいて欲求不満になることもない。
世の中は巧くできているな、と男は時々思った。
自分が精力が有り余っているような男であれば、マチコはいったいどうしただろうかとも思った。
この硝子細工のような女は壊れてしまうのではないか。

そう。
硝子細工という言葉はマチコにふさわしかった。
裏も表もなく、すべてが透けて見える。
彼女が愛していると言えば、それは100%真実だった。
しかし、嘘や偽りがない分だけ、男も自分を隠せない。
もし、マチコが饒舌な女であったなら…。
そう仮定して、彼は苦笑した。
仮の話であっても、饒舌なマチコならば自分を相手にすることはなかっただろう。
男がひときわ言葉の少ない性質だからこそ、マチコはそれを見抜き彼を逃がさなかったのだ。
嘘や虚栄に飾られた男を相手にしたならば、壊れてしまう自分が見えていたに違いない。
さて、そこで男は思考に行き詰ってしまった。
硝子のように透明なマチコ自身のことはわかるのだが、その彼女が何故自分を?
選んだ、ということならわかる。
たった2日だが、短時間喫茶店で同じ時間を過ごして、男を見抜いてしまったわけだ。
では、どうやって、見つけたのか?
彼女の偽りない言葉からすると、それはコンサートでチェロを演奏しているのを見てのことだ。
それだけで、どうやって?
マチコは音痴ではないが、演奏の稚拙など細かい部分にはまるで疎い方なのだ。
その疑問はある時、簡単に解けた。
簡単なことだ。
訊けば、答えてくれたのである。

その日、マチコは夫に演奏をせがんだ。
何がいいかと訊けば、即答したのが“あの曲たち”だと。
コンサートで聴いた曲を演奏して欲しいと言ったのだ。
彼女が大切に保管していたプログラムを見て、男は一曲目から順番に弦を弾く。
もちろん大編成でないと演奏できない曲は外し、そして『As Time Goes By』を弾き終わる。
続けて『The Summer Knows』にかかろうとした時、男の視野に妻の表情が写った。
彼は思わず手を止めた。

「あら?どうされたの?」

「いや。どうした?」

「わたくし?何かありました?」

「うむ、急に物凄く、その…、優しげに見えて」

まるで西洋絵画のヴィーナスの微笑みのようになどとまでは男には言えない。
だが、あまりに深い笑みを見たもので演奏をやめてしまったのだ。

「あらまあ?いつも怒ってます?わたくし」

「いや、そんなわけではないのだが」

ぶつくさと呟く夫を見て、マチコはからかうのをやめた。
見た目と違い意外に傷つきやすい夫であることはよく知っているからだ。

「あなた、ご存知?その曲を弾く時の顔が違うこと」

「何のことだ。『The Summer Knows』のことか?」

「はい。とてもいい顔をなさってますわ」

男は周りを見渡すが、鏡の類は近くにない。

「駄目ですよ。そんなことをしても、わかりませんわ」

意識してしまえば、無意識下の表情など消えてしまうとマチコは言う。
それはもっともなことだと、男は妻に詳しく説明を求めた。
もちろん自分の表情の変化についてのことである。
マチコは演奏が終わってからと相手にしなかったが、男が楽器を片付けようとしたので微かに唇を尖らせた。

「酷い。わたくし、あなたがこのような方だとは思いませんでした。
 そもそも、わたくしがそれに気づいたのは…」

一瞬、しまったと思った男であったが、抗議の前置きをあっさりと終わらせ、すぐに説明に入ってくれたので一安心する。
彼女の話によるとこうだ。
同僚の付きあいで興味もないコンサートに行ったマチコは、暇に任せて会場内の人間観察をしていた。
だが、場内は暗く観察する相手は壇上の演者しかいない。
そして目に付いたのがチェロを弾く男だった。
真面目というわけではなく、実に面白くなさそうな顔つきで弦を動かしている。
そんなに嫌ならその仕事を辞めればいいのにと言いたくなるほどの仏頂面だった。
周りのメンバーが一生懸命に弾いてますとのアピール丸出しの表情であるだけに、男はひときわ浮いて見えた。
だからこそ、マチコは彼に注目したのだ。
しかし、もしこの時『The Summer Knows』が演奏曲目の中に入ってなければ、二人の縁はなかったかもしれない。
もちろん、運命の絆を声高に主張するマチコは全力で否定するだろうが。
ともあれ、演奏が『As Time Goes By』から『The Summer Knows』へ移った時だ。
男を見据えていたマチコの表情が微かに変わった。
最初は新しいおもちゃでも見つけたかのように楽しげなものだったが、次第に微笑みへと変化していく。
この曲だけ(それは次の曲に移ると元の仏頂面に戻ったことで証明された)、あのチェロ奏者の表情が変化する。
優しげで、愛情豊かに感じたのだ。
この曲に何があるのだろうか。
知りたい。いや、その理由を知りたい、のではなかった。
この男のことを知りたいと思ったのだ。
そして、友人にそそくさと別れを告げたマチコは通用口で彼を待ち構えたのである。

「そうなのか?この曲が…」

男は最初信じられなかった。
確かに思い入れのある曲なのだが、それが表情にまで出ていたとは信じられない。
自分ではわからないものだとマチコは言う。
ううむと腕を組んだ彼はやがてそうなのかも知れないと妻の意見を認めた。
その後は、取調べとなり、容疑者である男はベテラン刑事の如き妻によって洗いざらい告白することになった。
もっとも彼のことだから立て板に水とは喋らないので、たっぷりと時間がかかったのだが。

「これが、その楽譜なのね」

マチコが楽譜を手にする。
男が大切にしまっていた、叔母が死に際まで持っていた『The Summer Knows』の楽譜である。

「う…んと、全然わからない」

マチコは男に楽譜を返した。

「これはピアノ用だからな」

「まあ、失礼な。わたくし、他の楽器用であろうが楽譜なんてまったく読めません」

「音楽の授業で困らなかったか?」

「はい。ですから、わたくし音楽はいつも3でしたの」

音程を外さずにちゃんと歌えるのにもったいないことだ。
しかし、彼女は男のチェロに合わせて歌う事はしない。
彼も誘ったことがあるのだが、決してマチコは首を縦には振らなかった。
この時もそうである。

「英語の歌詞ならあるから歌うか?」

「いいえ、結構です」

あまりにきっぱりと言うものだから、男は少し戯れてみた。

「これは夢のひとつではないのだな」

マチコはまっすぐに男を見つめて、微かに微笑みながらこう言った。

「これは、あなたの夢ですから」





1999年 −冬− 再び

予期せぬ事態となって、マチコはすっかり困惑してしまった。
事の発端はこうだった。

久しぶりの甘いものに味を占めたのか、蔵の中の女は夫にケーキを要求したのである。
しかし、甘いものが苦手な彼はケーキの購入に難色を示した上に、物理的に不可能だと返事をした。
何しろこの近くにはミニスーパー(しかもかなりのミニだ)が村にあるだけで、ケーキとなればバスに乗って駅前まで行かねばならない。
それは妻自身が承知しないし、男もよほどのことがない限り屋敷から出たくないのだ。
慣れてしまったのだろう。
元々人ごみは嫌いな性格の上に、この数年はほとんど屋敷の周辺から外へ出ていない。
だからこその拒否だったのだが、妻は認めなかった。
最初から、夫に買いに行かせようと思っていなかったのだ。

「本当に言いにくいのだが…」

それは一目でわかる。
17歳の小娘相手に四十間近の大人がしどろもどろになっているのだから。
やっとのことで妻の要望をマチコに伝えると、男は大きく息を吐く。
そして、急いで付け加えた。

「もちろん断ってくれていい。いや、その方がいい」

妻は図に乗ってもっと…例えば月に一度欲しいと言い出すに決まっているから、と男は言う。

「強欲なわけじゃないのだ。つまり、勘だ」 

男の言葉を聞き、マチコは内心頭に来た。
それは二つの理由に因る。
まず、明らかに男が妻を庇ったこと。
そして、勘でわかるほどに二人の間に絆があること。
そんな勘など外れてしまえばいいのにと思いながら、マチコはそれでも会心の笑顔で申し出を受諾した。



男の勘は外れた。
但し、頻度のレベルで。
マチコは週に一度、ケーキの箱を捧げて屋敷に向うことになったのだ。
それがもう4回続いた、12月の半ば過ぎのことだ。

「あの…、クリスマスケーキもいるんでしょうか?」

毒を食らわば皿までというではないか。
蔵の中の女の使い走りにされてしまっている自分に呆れながらもマチコはそう申し出た。
悪いね、と妻にお伺いをたてに行った男は頭を下げた。
そして、おずおずと切り出したのだ。
マチコは即座に了解したものの、何となくもやもやとしたものが残り、屋敷の帰りにアカネの家を訪ねたのである。

「ええっ、それって、もしかして、めちゃくちゃ、拙いんじゃない!」

アカネは目を丸くして、言葉を短く切って叫んだ。
口の中にお菓子がいっぱい詰まっていたからだ。
漫画みたいに口の中のものを吹き出されないでよかったと、マチコは思う。
ようやくアカネは口の中のものを甘そうなミルクティーでゆっくりと流し込んだ。
勢いよくしたかったのだが、まだカップの中の液体が熱かったから徐々にしかできなかったのだ。
その間、マチコはぼけっと友人の顔を見ていた。
非難されるのは当然だと思う。
何しろこの友人は、まだ付き合いは2年にもならないのだが、本当に親身になって考えてくれているのだ。

「屋敷の中へご招待なんでしょう?」

友人は声を潜めた。
何しろここは屋敷に一番近い村落なのだ。
壁に耳あり、障子に目あり。
ただでさえ、マチコは屋敷に出入り、といっても門までだが、している稀有な存在なのである。
アカネの母親も屋敷の事を聞きたくてうずうずしているのがわかるほどだ。
そんな噂の種になっていることは、マチコにとってどうでもいいことだと割り切っている。
あと3ヶ月と少しで彼女は東京へ就職のために出るのだ。
それに…。

「パーティーなんかじゃないわよ。だいたい昼間よ」

「さすがにうら若き乙女を夜に呼べないからじゃない?意外に常識人よね」

「だからいつも言ってるじゃない。変な人なんかじゃないって」

「大きな屋敷に蔵の中の奥さんと二人暮し。ほとんど外にも出ない、働かずに暮らしている人よ。
 おまけにいつもぼけっとしていて、どう見ても怪しい。まあ、そんなのに…」

そこでアカネはさらに声を落とす。

「惚れてる、さらに変人もいるんだけどね」

「それを言うな」

そう、未だにマチコは男に好意を持ち続けていた。
しかし、その好意をどうしたいのかはまだ霧の中だ。
蔵の中の奥さんをどうにかして、自分が男の妻におさまりたいのか。
その答えはNOであり、YESだった。
妻になりたいとは思いもしていない。
しかし、男の愛情は。いや、愛情とまでいかずとも、彼の心が欲しい。
ところが彼は妻しか見ていない。
ということは、彼に見てもらおうと思えば、妻の座に着かないといけないのか。
マチコの思考はぐるぐる回っていた。
だから、答がはっきりしないのだ。

「で、行くんだ」

「クリスマスケーキを届けるだけよ」

「でも、中に入るんでしょう?」

「そう言ってた。家内が…、奥さんが御礼をしたいからって」

「うわっ!」

一声高く叫んでから、アカネはぺろりと舌を出し、閉ざされた襖の向こうを気にする。
大袈裟な態度の友人に苦笑しながら、マチコはそっと襖のところへ行き静かに開けるが、そこには誰もいない。

「ふふふ、そういや母さん、お寺に行くって言ってた」

「アカネぇっ」

「とりあえず襖は開けとこ。玄関が開いたらすぐわかるし」

「ご配慮に感謝します」

「いえいえ。道ならぬ恋に悩む友達を持つと、いろいろと」

「いろいろと楽しいわけね」

マチコに言われ、アカネはにっこりと笑った。
そういうことにしておこう。
真剣に非難などすれば却って態度は硬化するものだ。
と、よく本にも書かれているではないか。
アカネは程よい距離感で友人に接しようと決めている。

「そうそう。自分でできない事だからね、あんたを見てあれこれと」

「はいはい、どうぞ、ご自由に」

「じゃ、早速。で、行くのね」

マチコはうんと頷いた。

「変なことはされない、と思う」

「それはどうだか。そして少女は二度と屋敷の外には出てこなかったのでした」

「おい」

「そういうことにならないようにね」

アカネはミルクティーの残りを全部飲み干す。

「護身用に何か持っていったら?」

「日本刀?」

「ライフル」

「ミサイル」

「巨大ロボット!」

あははは、と二人は笑い合う。
微かに不安があるからこそ、笑うことが必要だったのだろう。
しかし、マチコの方は不安はわずかで好奇心や期待が圧倒的に大きい。
ようやく、屋敷の中に入ることができるのだから。
そして、その想いは彼女の表情にも出ていた。
その顔を見ているうちにアカネは決意した。
その日はあの池に釣りに行こう。
おそらく寒いと嫌がるだろう弟を引きずってでも。
雨が降らなければいいんだけどなぁと彼女は空になったカップを残念そうに見て思った。






その日は晴れた。
その前数日、雪も降らなかったので足元もしっかりしている。
これは神のご加護か、それとも悪魔の導きか。
そんなことを考えながら、アカネは屋敷を見ていた。
ぶうぶう文句を言う弟を静かにしていろと叱りつけながら。
屋敷は静かだった。

マチコは真っ先に蔵を見てしまった。
やはり、そこにいるはずの女が物凄く気になる。
しかも、その入り口はぽっかりと黒い口を開けているではないか。
そこから、自分のことを見ているのか。
いや、もしかするとそこから出て、屋敷の中に?
はっきり言って、怖かった。
蔵を目の当たりにした途端に、急に恐怖感を覚えたのだ。
護身用のものなど何一つ持ってきていない。
せめて十字架のペンダントでもして来ればよかったと彼女は後悔した。

「最近…」

「はいっ」

先を歩く男の言葉に、マチコは大声で反応してしまった。
ちらりと振り返った男は、さすがにマチコの緊張の理由がわかる。
だからこそ、言っておこうと思ったのだ。

「最近、家内は身体の調子が悪くてね。今日も布団の中だ。もちろん、蔵の中でね」

「あ、そ、そうですか」

男が嘘を言っているとは何故か思えない。
惚れた弱みかとも思うのだが、どうもそれだけには思えないのだ。
そもそもどこがいいのかと友人に追及されても、満足のいく返事ができない。
好きだという感情に理由なんかないわ、と言い返してはいるのだが自分でもあんまりだと思う。
気の狂った妻が蔵の中に住んでいる、無愛想で無口でカッコよくもない中年男なのだ。
自分は美人とはいえないと思うが、それでも不細工ではないと断言できる。
長い黒髪がよく似合って、これでも年に5人くらいは告白されるのだ。
それがバレンタイン前に集中するというのがなんとも癪だったが。
しかし、これまでマチコは誰とも付き合ったことがなかった。
よく考えてみると、年上好みだったことは確かなので、アカネの指摘は正しいのだと自覚もしている。
初恋の相手も先生だったしなぁ…と、中2の時を振り返る。
当時は告白も何もしないままに恋心は自然消滅したのだが、今回はどうなるのだろう。
どうせもうすぐこの地を去るのだ。
立つ鳥跡を濁さずとも言うけれど、どうせ飛び立つのだから後のことを考えずに告白のひとつもしてみたらどうか。
きっと自分は二度とこの地には戻ってこないのだから。

マチコが案内されたのは縁側のある和室だった。
それは妻の求めに応じてチェロを弾いた、あの部屋であることはマチコは知らない。
そして、そこを指定したのが蔵の中の女であることももちろん知る筈がない。

「実はな、家内が言うには…」

また、家内か。
自分の意思ってものがないのかしら。
でも、その素直さもいい。
マチコは訥々と喋る男を見つめた。

「ケーキの礼に、私の演奏を聴かせればいいと言うのだ。そんなものが礼になる筈がないと私は…」

「なります!」

マチコは咄嗟に口を挟んだ。
聴きたい。
ぜひ、すぐ近くで聞きたい。
どんな表情をして、男が演奏するのか。
それを見てみたい。

「そうかね?」

「ええ、ありがとうございます!」

大きくお辞儀をすると、マチコの長い黒髪が大きく揺れた。
その髪を見て、男は少年のことの淡く、そして苦しい記憶を甦らせる。
あの人との思い出を。

マチコの席は縁側だった。
今日は陽射しが暖かなので、縁側に座ると気持ちがいい。
ただし、庭の方を見ると、やはり蔵の扉が見えるためにそこだけが気になる。
ぽっかりと開いた黒い空間がその中にいる女の眼のような気がしてならなかったのだ。
彼女の直感は当たっていた。
蔵の中のマチコは、扉のすぐ近くまで来ていたのである。
そして外からは見えないような位置で留まり、そこから二人の様子を窺っていたのだ。
双眼鏡を手にして、彼女は真剣な表情をしていた。
彼女が何を思っているのか。
女子高生を相手にしている夫の様子を見て楽しんでいるわけではない。
そこには余裕など少しも感じられない。
寧ろ祈るような雰囲気すら漂っているのだ。
何に対して祈っているのか。

「寒くはないか」

「いいえ。大丈夫です」

「そうか」

言いながら、男は彼女の背中越しに何かを見つめた。
それが何かはすぐにわかった。
あの人は蔵を見ているのだ。
そしてきっと、その中の人もこちらを見ているはず。
そうに違いない。
しかし、どんな意味があるというのか。
男を試している?
それこそ何のためにだと問いたいほどだ。
彼を見てきて、この夫婦の間にはしっかりとした絆が存在していることがよくわかっている。
その絆をどうにかできるなどとは思えない。
自分は何のためにここにいるのだろう。
彼女が何度目かの問いかけをした時、男はチェロケースを運んできた。
若きマチコは姿勢を正す。
すぐに演奏が始まるとは思っていない。
吹奏楽部にいただけに準備に時間がかかるのもわかっている。
その間を楽しむのが玄人というもの。
玄人と呼ぶにはあまりにささやかなマチコだったが、それくらいの嗜みを得ることができたわけだ。
調弦しているその姿。
初めて見るような表情であった。
真剣な顔つきは見たことはあったが、今のものとはどこか違う。
そうだ…。
自分の世界に、自分だけの世界に入っていこうとしているのだ。
そのことを知ったマチコは、さらに男に惹かれていく自分を感じていた。
そして、その横顔をじっと見つめる目があった。

その目は瞬きもせずに、乙女の表情を読み取ろうとしている。
微かに鼻から息を吐く。
唇を噛みしめているので、呼吸が口からできないのだ。
そのことに彼女は気がついていない。
複雑な思いを胸に、彼女はじっと娘を見つめ続けた。
自分と同じマチコという名前の娘を。
演奏が唐突に始まった。
蔵の中の女にはそんな風に感じた。
それだけ娘の表情に夢中になっていたわけだ。
しかし、やはりこのメロディは彼女の心を癒す。
追いつめられかけていた感情がゆったりと静かになっていく。
彼女は双眼鏡を置いた。
そして、遠目にはなるが自分の眼で夫の姿を見る。
表情まで見えなくともよい。
ただ、弾いている姿が見えればいいのだ。
この曲には彼が感じられる。
他の曲にはない、彼の夢がつまっている。
それを知っているのはこの世界で自分ひとりだけ。
マチコは暗闇の中で一人頷く。
やはり、これは成し遂げないとならない。
あと3ヶ月。
自分の命はもつだろうが、あの娘は春にはこの地を離れてしまう。
急がないと…。
再び、マチコは唇を固く噛みしめるのだった。
しばし…、今だけはあのことを忘れよう。
そして、この曲を身体中で受け止めたい。
願わくは、神様に召される時に…。
その時になって、マチコはようやく笑った。
何を女々しいことを。
神様?この願いが叶うならば、悪魔に魂を売り渡してもいいと思っているのに。
いまさら、神様などとは…。
マチコは薄ぼんやりとした灯りの中で、己の胸元を見下ろした。
銀色に鈍く光る十字架の小さなペンダントがそこにある。
彼女はそっとペンダントを外し、掌で包み込んだ。
愛する者が奏でる音楽を耳にしながら、マチコはそっと祈る。
わたくしの命はあきらめています。その代わり…。

男は何も考えずに演奏をしていたわけではない。
特にこの曲を弾く時は、心が騒ぐ。
その心を押し止めながら、彼を弓を手にしている。
ともすれば力が入りすぎてしまいそうになるのだ。
少年の頃の記憶。
甘酸っぱさと悔恨が入り混じった美しい人の記憶。
妻を愛している。
しかし、その愛情と亡き叔母への感情は別物だ。
出来うる限り、彼は叔母のイメージから病室にいた頃の姿を締め出そうと無意識にしている。
そのことにより自分の罪悪感を軽くしようとしているわけではない。
思い出すのは、憧れていた姿であって欲しいからだ。
子供がいなかった所為か、叔母は結婚している風には見えなかった。
彼の家をケーキを手に訪れた時は、長い黒い髪を風に靡かせ、朗らかに笑いながら、時にピアノを弾く。
小さい頃からの憧れの女性。
縁側に座って、足をぶらぶらとさせながら、屋敷の塀越しに山や空を愛しげに眺めた。

●●ちゃん、ここはいいところよ。
都会なんか出ない方がいいわ。
だから、叔母さんもさっさと仕事を辞めてこっちで結婚したの。
まあ、住んでいるのは街中なんだけどね、ふふふ。

10歳の少年にどうしてそんなことを言ったのだろうか。
この年齢になっても叔母の真意はわからない。
相手が子供だと思い、戯れに言葉を発したのか。
それとも、それが彼女の本音だったのか。
男は後者であって欲しいと思っていた。
音楽大学に入り、オーケストラの一員になって、ただ毎日を漠然と過ごしていたあの頃。
マチコと出会うまでの、モノクロームな毎日。
確かに新婚生活は彼の心に潤いを与えた。
しかし、何かが足りなかったのだ。
結婚して3年目にマチコが死産し、心を蝕んだ。
そして、父親が死んで5年間、管理会社に委託したままで誰も住んでいなかった屋敷に戻ったのである。
寧ろそれからだった。
屍となってこの世に姿を見せた、自分の娘を抱き上げた時はさすがの彼も男泣きに泣いた。
レイという名前にしたのは、また零からやり直そうという気持ちの表れである。
しかし、妻はもう妊娠できない身体になってしまった。
その事実を知らず、精神を病んだ妻のために郷里に戻ったのだが、
不思議なことにそれからの毎日の方が心は満ち足りていた。
近所の住民の白い目を向けられても気にならない。
狂ったように妻が彼を求める時でさえ、彼女のことを疎ましいとなど微塵も思わなかった。
この安らかな日々が永遠に続けばよいと、心の底から思っていたのである。





第三章 了






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