− マチコ −


宇城淳史


第一部



第二章   「接近」







1999年 −秋−

「おいおい、勘弁してくれよ」

店主が悲鳴を上げた。

「いくら送料を払うって言われてもなぁ」

ファックス用紙を手にした彼は肩を落とした。
どうしたのかと帰り支度をしていたアルバイトたちが何事かと顧みる。
店主は首を振りながら説明した。

「在庫確認の電話があったから、それならまだ返品せずに残ってるって…」

そのように返事をしたら、こうやってファックスで注文が来たそうだ。
しかしそれが街中から外れた場所だったので、つい愚痴を言ってしまったというわけだ。
わざわざ車で行くのが面倒くさいと、店主は零した。
音楽雑誌1冊のために宅配便を煩わすならば、間違いなく集配のいかついおっさんに文句をたらたら言われてしまうだろう。
以前にそういうことがあったので店主は配達に宅配便を利用するのを避けがちだったのだ。
それにもともと配達など近所の家にしかなかったのである。
こんなことならさっさと返品しておけばよかったと店主は溜息を吐く。
その配達場所を聞いて、アルバイトの一人が手を上げた。

「私、行きますよ。その近くに友達の家があるから」

明日がちょうど休みだから放課後に行ってきますと彼女は笑顔で言い、店主は即座に依頼した。
立候補した南雲マチコはファックス用紙を手にして、その素っ気無い文章を読む。
『●●を頼む。送料手数料は任せる。住所…』
そうか、あの人の名前はこうだったんだ。
あの近くでそのような屋敷はあそこだけだろう。
そのように察していた彼女は店主の愚痴の間、手を挙げるタイミングをずっと狙っていたのである。
マチコは微かに微笑んだ。

その翌日、マチコはアカネには配達のことを一言も言わなかった。
詮索されるのが嫌だったのだ。
注文の雑誌は書店の袋に入れ、折れや汚れがないように大切に鞄に入れてある。
領収書やお釣りも店主が準備してくれた。
そして今回だけですよ、との伝言も。
その言葉を本当に言うのかどうかは決めていなかったが。
マチコは部活動には顔を出さずに、そそくさと駐輪場に足を進めた。
あの人はどんな言葉で喋るのだろうか。
一見したところぶっきらぼうそうで無口なようにも見えた。
ファックスの文面から考えて、偉そうに喋るのかもしれない。
だったら嫌だな…。
マチコはわくわくする気持ちを抑えられなかった。
アルバイトをあそこの本屋にして良かったとまで思った。
彼女は東京のとある会社に就職が内定していた。
3月末からそこの寮に入るのだが、何かとお金がいるはずだ。
親には頼る気はなかった。
特にあの母親に頭を下げてまでそういうお金を出してもらおうとは。
父親はもうあの人たちのものだ。
私はもう大人になるのだから。
両親にはアルバイトの理由を告げ、学校の許可も貰った。
ただしアルバイトの場所を見つけてくれたのは父親だった。
マチコが許しを求めた次の日に、知人の本屋に話をしてきてくれていたのだ。
最初は勝手に決めてきたことで腹がたったが、それでも自分のことも考えてくれているんだと嬉しくなった。
うう、もう寒い。
明日はマフラーをつけよう。
首筋に差し込んでくる冷たい風を感じながら、それでもマチコは楽しかった。

マチコはインターホンの前に佇んだ。
押せばいいのだろうか。いや、押さねば駄目じゃないか。配達なのだから。
自問自答してから、彼女はインターホンを押した。
1秒、2秒、3秒…。
すぐに返事がなかったので、マチコはどきどきしながら言うべき言葉を反芻する。
●●書店のものです。ご注文の品をお届けに参りました。手数料も含めて800円です。お釣りも用意しています。
マチコは唇だけを動かしてその文句を二回繰り返した。
しかし、それでもインターホンは何も反応してこない。

「留守、かな…?」

もう一度ボタンを押そうと指を当てた時、いきなり声が聞こえた。

「誰だ?」

「げっ」

声がしたのは自分のすぐ前から。
つまり豪勢な門の向こう側からだ。

「あ、あ、あのっ」

落ち着け、私。
マチコはごくりと唾を飲み込んだ。
それですっかり落ち着いたつもりだったが、言葉になってでてきたのは練習したものとはまったく別物であった。

「チ、チェロを弾いてましたよね。私、南雲マチコと言います!」

大声で叫んでしまって、マチコは顔を赤らめた。
門の向こうから何の反応もないことが、彼女を余計にどぎまぎさせた。

「あの…。●●書店のものです。ご注文の品をお届けに参りました。手数料も含めて800円です。お釣りも用意しています」

蚊の鳴く様な声でマチコは名乗った。
おそらくその声は向こう側には届かなかっただろう。

「ど、どうしよう…?」

このまま自転車に乗って走り去ってしまおうか。
それではピンポンダッシュになってしまうではないか。
袋に入った雑誌だけここに置いて…。
いやいや集金して帰らないと駄目だ。
800円を立替などしては1時間以上のただ働きになってしまうではないか。
ああ、なんとみみっちい事を考えてるの、私って。
マチコがあたふたしているうちに、扉の向こうで木が軋む音がした。
どうやら閂が外しているようだ。
逃げる?ともう一度本能的な問いかけを自分にするが、もちろんもはやどうすることもできない。
マチコは引き攣った愛想笑いを浮かべながら、扉が開くのを待つしかなかった。
門の傍らにある小さな扉からのそりと出てきたのはあの長身の男に違いなかった。
彼の顔かたちがマチコの想像通りだったかどうか。
少なくともロマンチックな顔つきでないことは確かだ。
男は一見無表情のように見えたが、その目付きにマチコは息を飲んだ。
真っ直ぐに私を見ている…、どうして?
彼女には気がつく由もなかった。
慌てた彼女が男の琴線に響く言葉を喋ってしまったことなど。
彼の頭の中ではあの時の妻の顔が浮かんでいた。

『チェロの方、ですわよね。わたくし、綾波マチコと申します』

彼の生涯に彩を与えた、あの微笑み。
結果的には彼の生きかたを決めた言葉なのだ。
声音も内容も違う。
しかし、南雲マチコの言葉は男に彩り以外の別のものを与えてしまったのだ。
だが、今のところはそのことを彼は知らない。

マチコは男を見上げていた。
怖いとか気持ちが悪いとかの、この年頃の娘ならば当然浮かんできそうな感情は生じていない。
この感情は何なのだろう…?
さすがにこれが恋愛感情などとは思わない。
この気持ちが恋だの愛だのに育っていくのはこの先の話だ。
この時点では、わけのわからない感情、にすぎない。
ただ、逃げたいなどとは少しも思わなかった。
商品の取引などというものはすっかりと忘れられてしまっていたが。

男は娘を見下ろしていた。
デジャヴといったものとは違う。
あの時は夜、今は真昼。
そしてあの時立っていた娘はショートカットで微笑み、今目の前で立ちすくんでいる少女は流れるような長い黒髪だ。
後の妻は妖しく微笑み、この娘は強張った愛想笑いである。
発した言葉はよく似ていたが、相手の印象がまったく違っていたのだ。

「本屋、か?」

「は、はいっ。●●書店のものです。ご注文の品をお届けに参りました。手数料も含めて800円です。お釣りも用意しています」

準備していた台詞を息継ぎもせずに一気に喋った。
勢いがあまりに良すぎて、マチコははぁはぁと息を吸う。
そのあまりに子供っぽい仕草に男は苦笑した。
それを見たマチコは恥らうよりも先に少しばかり腹をたてた。

「800円ですっ」

「ああ、すまない。今、取ってくるよ」

背中を向けた後姿をマチコは憤然として見送った。
そして、ふぅっと息を大きく吐くとポケットからゴムを取り出し唇に咥える。
長い髪の毛を後でまとめると、慣れた手つきで赤いゴムでぎゅっと縛り上げた。

「何よ、せっかく」

そうなのだ。
マチコはわざわざポニーテールからロングヘアーに戻していたのである。
何となくその髪型で見られたかったから。
最近は髪を乾かす時と寝る時くらいしか、ポニーテールを梳かない。
そっちの方の理由はわかっている。
父親が長い髪の毛が好きだったからだ。
あの女と結婚してからは、そんなことは一度も言われたことがない。
遠慮をしているのか、もともとお世辞だったのか。
いや、きっとあの女の髪が短いから、娘の長い髪を褒めることを憚っているのだろう。
血が繋がっている娘ならば気を使うことがないからに違いない。
夫婦は所詮他人だから、そういうところは考えないといけないのだ。
そんな風に理解はしているのだが、やはり寂しいではないか。
だからこそ、マチコは父親の前でポニーテールでいることにした。
髪の毛は切りたくない。
あの女と同じ土俵には立てないのだから。
私は実の娘で、父親の妻には絶対になれない。
父親を奪い返すことは不可能なのだ。
そんなマチコがこの時に限ってポニーテールを梳いたのは何故だったのか。
褒めてもらえれば嬉しい。
まさか初対面の人間にそんなことを期待していたわけではないが、そう思ってもらえたら楽しいではないか。
そういうことか…、とマチコは自分の行動を了解した。
そして、声に出して苦笑すると、再び髪の毛を梳いた。
手櫛で髪を整えている時、男が戻ってきた。
門の前で髪の毛を触っている娘を見て、彼は少しだけ驚いた表情になる。
驚いたのは娘の方が度合いは遥かに大きい。
まるで、この流れるような黒髪を見よと言わんばかりの、化粧品かシャンプーのコマーシャルのような動作をしていたのだから。

「ご、ごめんなさい!」

「いや、その、なんだ。綺麗な髪だね」

そう言わずにはおれなかった。
お世辞の一つも言わないといけないような風景だったから。
いや…、お世辞か?
男はふと思った。
本当にお世辞だろうか。
一瞬頭に浮かんだ疑問を彼は先送りにする。

「800円でいいのか」

「はい。お釣りもありますよ」

マチコは頬を真っ赤に染めて、小さな声で返事をした。
髪を梳いた意味を自覚した途端に、褒め言葉である。
赤くならない方がおかしい。

「ではこれで。釣りはいい」

「えっ、でも」

「缶コーヒーでも買いなさい。この近くにはないが」

男は慌てて付け加えた。
屋敷の周囲には自動販売機などひとつもない。
村の中心部に行って農協の支所の前か、県道に沿って10分ほど歩いたところか。
いずれにせよ、今すぐどうにもできないことに気がついて付け加えたのだ。

「でも、領収書が」

「だから、お店には800円だけ渡しなさい。残りで…」

説明しかけて、男はようやく了解した。
この子は着服するようで嫌だと言っているのだと。

「チップだと思えばいい。時間外なのだろう、今は」

高校の制服を着てるのだから、当然そうだろう。
マチコは自分への言い訳を手に入れたが、それでもどこか後ろめたい気持ちだった。
だから、つい言ってしまったのである。

「ええっと、そんなことされたら癖になっちゃうかもしれませんよ」

「うむ、それでも構わん。定期的に配達してくれたら助かる」

「え…」

マチコは困ってしまった。
今回一回限りだと言うように店主から命じられていたではないか。
まさか今のが冗談だとわからなかったのか。
学校の連中や、アルバイト先でも冗談で通用するのに…。
そうか、この人は真面目なんだ。頭に“クソ”が付くくらいに。
仕方がない、とマチコは決意した。

「領収書は要りますか?」

「いや、いらん」

「じゃ、次からは領収書はありませんので…えっと、それでいいですか?」

接客用語の応用は言葉の途中から利かなかった。
半ばから素のマチコが出てきてしまったのである。

「ああ、問題ない」

「それじゃ、また来月のも持ってきます」

「君が?」

「はい、私が」

マチコは精一杯の笑顔を作ろうとしたが、レジでの愛想笑いのようには巧くいかない。
かなりぎこちないものになってしまったと自覚があった。
それでも男には笑顔を受け取ってもらえたようだ。

「いや、その、悪いな」

「いいえ。仕事ですから」

絶対に仕事では無理なことなのに、マチコは言い切った。
こうなれば、自分で雑誌を買ってここまで持ってくるしかない。
マチコは領収書を渡し、こう言った。

「では、缶コーヒーを帰りに買います。ありがとうございます」

マチコは一礼して、男に背を向けた。
自転車を押して門から離れ、そっと首だけ振り返る。
何を期待していたのか。
しかし、既に扉は閉められていた。
マチコはふっと笑みを漏らし、サドルに跨る。
夕陽が山稜にさしかかりつつあるというのに、マチコは首筋の寒さを忘れていた。





1999年 −初冬−

「ねぇ、マチコ」

アカネは学生食堂の自動販売機からミルクティーを取り出し、その温かみを両手で包み込んだ。

「なに?」

「あんたさ、コーヒー飲むようになったのね。苦いの苦手だったんじゃなかったっけ?」

マチコは手にした缶を誇らしげに見せ付ける。

「ふふん、しかもブラックよ、ブラック。大人の味」

「よくもまぁそんなの飲めるわね」

わざとらしくマチコはぐびっと喉を鳴らして、ブラックコーヒーを一口飲む。
そんな友を横目にアカネの方は未だプルトップはそのままに缶を両手で包み込み暖を取っている。

「だってさ、就職も決まったんだし、大人の階段を上がらないとね」

「さすがに大都会の会社に就職する人は違いますねぇ。農協の事務員と一緒にして欲しくないと」

「そんなこと言ってないでしょ。一緒に上がろうよ、大人の階段」

にこやかに言うマチコはブラックコーヒーを友人に差し出す。
苦みばしった顔をして見せたアカネは嫌そうに首を横に振る。

「私は結構。これでいいの」

彼女は掌で包んでいたミルクティーの缶を見せる。
そして、さりげなく切り出した。

「あんた、化け物屋敷に通ってんでしょ」

ここでびくりと身体を震わせるようなマチコではなかった。
そのうちに言われるのではないかと覚悟していたからだ。

「ばれたか」

「で、見た?あれ」

「全然。だっていつも門のところまでだもん」

「そっか。そりゃあそうだよね」

「でさ…」

マチコはもう一口ブラックコーヒーを飲み、それから友人に問うた。

「変な噂、ある?」

「あるよ」

「うわっ、本当?」

「マチコが綺麗になった」

「へ?」

友人の反応を楽しむように、アカネはゆっくりとプルトップを引き上げる。

「冗談じゃないわよ。ホントの噂。みんな、男ができたって言ってる」

「わ、私、いないわよ!」

「知ってる。あんたがいくら好きでも相手にされてないもんね」

「わ、私、そ、そんなこと…ないもん。
 だって、年だってあんなに離れてるのよ」

「相手が誰だなんて、私は一言も言ってないんだけどなぁ」

してやったりとばかりに、アカネはにんまりと笑ってミルクティーをごくりと飲む。
マチコは真っ赤な顔で周りを見渡した。
先ほどから同様に誰も食堂にはいない。

「大丈夫だって、私はデリカシーの塊りだから状況を見て喋ってるのよ」

「そ、そりゃあ、どうも」

「ってことで、認めるんだ」

マチコは目を伏せた。
そして、こっくりと頷く。

「ふぅ…」

アカネはお姉さんっぽく溜息を吐いた。

「まあ、あんたは元々ファザコンのロマンチストだもんね。
 惚れてしまうにはピッタリの相手なのかもしれないけど…」

言葉を切った親友の顔をマチコは怪訝な顔で見つめた。

「趣味が悪いっ」

「ひ、ひっどぉ〜いっ!」

「こらっ、コーヒーが零れる!」

「あ、ごめん」

床に落ちた数滴をマチコは上靴の裏を使ってすりすりと拭く。

「だって、蔵の中の気違い女と暮らしてる変態親父よ。いいえ、誰が見ても変態」

反論しようとしたマチコを抑えるように、アカネはそう決め付けた。
人の恋路を邪魔する者は馬に蹴られて死んでしまえ。
近くに馬がいないから、アカネは言いたいことを言ってしまおうと決めていた。

「あんなのにあんたが惚れちゃったのはね、家庭環境の所為。自覚してる?」

「ファザコン、だから?」

「そうっ。あんたとはまだ付き合いが浅いけど、それくらいわかるわよ」

アカネはまたぐびっとミルクティーを喉に注ぎ込む。

「新しいお母さんにお父さんを取られちゃったから、あんなのに魅入られちゃったの」

随分と思考経路を端折ってくれたが、友人の言わんとすることは理解できた。
小学4年の時に母親を亡くし、それ以降は父と娘の二人きりで生活してきたマチコだ。
確かに父親に対する思い入れはかなり強いと自覚していた。
だからこそ、父親があの女を紹介した時に手ひどくショックを受け、
尚且つ、その新しい母親の方が父親に発言力を持っていることを知って、戦うことをやめてしまったのだ。

「つまり、お父さんを取られたから、別の人を代替品に?」

「へぇ、いかにも本屋さんのアルバイトらしい表現ね。まっ、そういうことね」

「うぅ〜ん」

腕組みをしたいところだったが、それには缶コーヒーが邪魔だった。
マチコは一気に残りを喉に流し込み、そして軽くなった缶をゴミ箱に放り込む。
その上で、改めて腕組みをして考え込んだ。

「好きだって感情は間違ってないかもしれないけどさ」

アカネはまたもや話の途中でぐびっと一口だけミルクティーを飲む。

「それって、男として愛してるってことなのかなぁ?あんたさ、初恋してる?」

「したわよ。中2のとき」

「バージン?」

「おいっ」

「私はそうよ。残念ながらまだ相手いないし」

「私だって」

「じゃあさ、あんた、あの男に抱かれてもいいって思ってる?」

「ええっ、そ、そんなこと考えても…」

そこで、アカネはふふんと鼻で笑った。

「ほらね、つまり男として好きだってわけじゃないのよ」

「そんなことないわよ。そんな肉体的なことじゃなくて…、ほらプラトニックラブってあるじゃない?」

「あるよ」

「それよ」

「ま、それならそれでいいけどさ。じゃあ、相手に求められたらどうなのよ」

見つめるアカネの瞳をマチコは睨み返した。
まるで、その瞳に写っている自分に問うているかのように。



アカネの友情は結果としては逆効果だった。
その深夜、マチコはそっと試してみた。
おそらくは彼が父親の代替品ではないことを証明しようという、そんな意志の力だったのだろう。
はじめてあの男をイメージした自慰はこれまでにない快感を彼女に与えてしまったのだ。
そして、マチコは確信した。
自分は心の底から、彼を一人の男として愛していることを。

恋愛感情というものは理屈ではない。
だから、決まったコースをいつも辿るわけではないのだ。
こうして南雲マチコという少女は、妻のいる男に愛情を抱いてしまったのである。






1999年 −冬−

「すまないな。雪の中を」

「いえ。全然、大丈夫です」

この積雪では自転車は使えない。
マチコはわざわざバスを使って、男の屋敷を訪れていた。
ただし、この男はそういうことに気の回ることは決してない。
だから、マチコの方から自己申告するしかなかった。
憧れに似た感情を抱いている状況ならば、そんなことはなかっただろう。
だが今の彼女は違う。
男にこの自分を好きになって欲しいのだ。
まだ、それからどうしたいのかを考えてはいなかったが。

「やっぱり長靴じゃないと駄目ですね。バスを降りてからの間で、もうこんなに…」

マチコは軽く右足を上げて、びしょ濡れの靴を見せた。
ううっ、冷たい。
後ですぐ靴下替えて、鞄の中の靴に履き替えよう。
しもやけにならないようにしないとね。

「うむ、それはそうだろう。私のを履いていくか?」

「いえ、それは…」

サイズが大きすぎて歩きにくいでしょう。
そう言いかけて、マチコは慌てて言葉を変えた。

「ありがとうございます!ぜひ!」

持ってくると扉の中に入った男の背中をマチコはにこにこして見送る。
これでまたここを訪れる名目ができた。
そして拝借したぶかぶかの長靴を履き、彼女はバス停までの道を歩いた。
心は軽やかだが、慎重に歩を進めて。



翌日。
マチコは早速屋敷を訪問した。
冬場はアルバイトに入る回数が減ってしまうのだが、今回については日曜日が休みでよかったと彼女は思った。
初めて私服で彼と会う訳だから、念入りに髪にブラシをかけ、披露しようもない余所行きの服を着込んだ。
上に分厚いコートを羽織るのだから、その中身など見せようもないのが辛い。

「行ってきます!」

返事など期待もせず、マチコは家を出るときにそう叫んだ。
そうせずにはいられないほどに、心が高揚していたのだ。
彼女は空を見上げる。
天気予報でも今日は終日好天だと断言していた。
マチコは長靴の入った大きな紙袋をヨイショと持ち直し、駅前行きのバス停へ向った。
駅前のケーキ屋でお土産も買って行くつもりなのだ。

しかし、男はそのケーキを断った。

「悪いね。甘いものは駄目なんだよ」

「あ、そうなんですか。ええっと、じゃ、ご家族にどうぞ」

自分でも何という事を言ったのかと、マチコは後悔した。
ところが、意外なことに男は一瞬考えたのだ。

「うむ、その…、少し待っていてくれないか」

男は一度扉をくぐり、そしてもう一度戻ってきた。
そして、ケーキを見せたいので借りてよいかと訊ねてくる。
その表情があまりに真剣で、それに子供っぽいように感じて、マチコは笑いを堪えるのに必死だった。
ケーキの紙箱を渡すと、彼はまるで宝物かのように両手で捧げるように持ち、また身を屈めて扉をくぐっていく。
しばらくマチコはくすくす笑っていたが、やがて「馬鹿みたい」と呟き溜息を吐いた。
それはそうだろう。
彼がケーキを見せに行くのは間違いなく蔵の中にいる人、つまり彼の奥さんであり、言い換えるとマチコの恋敵である。
いわば彼女は恋敵のためにケーキを持ってきたことになるではないか。

「何やってんだろ、私って」

つまらなさそうにマチコが唇を尖らせ、門の下の小さな石段を爪先で蹴飛ばしていると、男が手ぶらで帰ってきた。

「すまん。あれは貰っていいのか」

「あの…。差し上げるために持ってきたんですけど」

できればそれは貴方に食べて欲しかったんですけど。
そんな想いを込めてマチコは言ったのだが、男にはまったく通じてなかったようだ。

「そうか。いや、ありがとう。ケーキなど思いもつかなかった。すまん」

彼の言葉を頭の中で急いで解析する。
どうやらかなり感謝されているようだ。
その理由は、ケーキを食べさせるということを思いつきもしなかったかららしい。
いくら甘いものが苦手な人間でもそれはあまりに酷すぎるのではないか?
そうは思うものの、痘痕も笑窪という言葉がある。
この男に恋愛感情を持つマチコにとっては、これでも何となく微笑ましく感じてしまった。

「奥様は甘いもの大丈夫なんですね」

言ってしまってから、マチコは臍を噛んだ。
深入りしすぎた。
彼とはその家族のことなど何も話していないのに、いきなり奥様はないだろうと。
しかし、男はそれほど不快には思わなかったようだ。

「ほう、知っているのかね。家内のことを」

家内、という呼び方は少なからずマチコにショックを与えた。
確かにこの男には似つかわしい妻の呼び方だ。
“嫁さん”や“女房”などと言われると、それは違うだろうと思ってしまう。
超然とした感じの彼だからこそ、マチコは好意を抱いたのではないかと自己分析をしている。
ただこの時ショックを受けたのは、男の口から妻のことを聞いたからだ。
姿を見せない、住民票はあるらしいが誰も見たことのない、蔵の中の女。
その彼女は確かに存在する。
何よりも、男の中に存在していることにショックを受けたのだ。
もっともそれを承知で恋をしたのだから、マチコはすぐに立ち直る。

「ええ」

ただそれだけを返した。

「ほう。それを承知で、今まで?」

「あ、あの、●●村に友達がいて、あの…それで…知ってました」

「なるほど。怖くなかったのかね?」

「全然!」

勢い込んで言ったマチコは、本当の理由は言えない。
恐怖心よりも恋心の方が勝ってましたとは本人を前に言えないではないか。
だから冗談めかして話を続ける方の道を選んだのだ。

「あの、ほら、日本刀を振り回したり、猟銃を乱射したりはしないのでしょう?」

「おやおや」

彼は微かに笑った。
その笑顔を見た時、マチコの胸がどくんと弾けた。
透きとおった、寂しげだけど綺麗な笑顔。
そうだ、少年みたいな…。
彼女は顔を赤くした。
その赤みを男は誤解する。

「いや、そういうイメージはある。何しろ蔵だからね」

「あ、で、でも」

その話題から離れたかったこともある。
しかし、マチコは男によく思われたい。
だから、彼女はあのことを持ち出した。

「わ、私、聴いたんです。チェロ!友達のところに行った帰りに。あ、あの、あなたが弾いてたんですよね」

「ほう。この前のあれを?」

この前がいつかなどわからないではないか。

「夏休みでした。終わりごろ」

「ああ、それならその時だ」

「凄く綺麗な音でした。あ、あの、ごめんなさい。私みたいな素人が」

マチコはまた顔を赤らめる。
しかし、今度は男もちゃんと理解できたようだ。

「いや、ありがとう。久しぶりに弾いたんだがね」

「素敵でした!『The Summer Knows』!」

「ほう、知っていたのかね」

「あ、いえ、後で調べました」

正直に言ったマチコは褒めて欲しいと思ったが、男はあっさりと流してしまった。

「あれはね、私も家内も好きなんだよ」

「そうなんですか」

自分から話題が離れてしまい、マチコは少し不満気になる。
しかし、男はまったく気にしていない。
自己中心的というよりも、見えてないんだとマチコは了解した。

「あの時もね、家内のリクエストだったんだ」

「じゃ、蔵の中で弾いたんですか?」

それにしては音が真っ直ぐ届いてきたような気がする。

「いや、屋敷の中でだ。家内は出てこないから…」

奥さんの話が多い。
仕方がないのだろうけども、マチコはやはりそれが悲しい。
その思いをまた男は誤解した。
どうやら、妻のことを怖がっているように思ってしまうのだろう。

「大丈夫だよ。家内は自分から閉じこもっているだけだからね。しかし、ケーキは不覚だった」

「食べたいとは仰ってなかったんですか?」

正直あまり話題にはしたくない。
だが、敵を知ることは重要なことだと、昔の中国の偉い人が言っていたはずだ。
だからマチコは会話を続ける。
こんなにこの男と話をするのは初めてなのだ。
この機会を逃すわけにはいかない。

「うむ。料理はつくるのだが、お菓子などはそういえばつくらんな」

「えっ、じゃ、料理は奥様が?」

マチコの築いてきた想像が大きく崩れていく。
彼女は座敷牢のような感じで、男が狂った妻を蔵に閉じ込めているのだと思い込んでいたのだ。
だから、男が食事を作っているものだと決め付けていた。

「そうだよ。食材は私が仕入れてくるんだがね。蔵の中に台所も風呂もあるのだから」

「そうなんですか…」

マチコは目を丸くした。

「だから先に言っただろう。家内は自分で蔵にいるんだ。鍵も内側にしかないんだよ」

危険なことはないのだと男は語る。
語りながら、彼は不思議だった。
何故、自分はこんなに饒舌なのだろうか、と。
元々彼は言葉を出し惜しみしているのではないかというくらいに無口な男だった。
妻とも会話はしているが、言葉のやり取りは非常に少ない。
結婚した当初から、まるで何十年も連れ添った夫婦のような状態だったのだ。
それが何故、こんなに喋っているのだ?
まるで、少年の日々のように。





第二章 了






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