− はじめに −

この物語を始める前にふたつみっつ但し書きといった類のものを示しておかねばならない。
何故ならば、これはいつもの類の話ではないからだ。

まずは物語の時間について。
この長い話はテレビアニメで描かれた時系列には存在しない。
それは過去話、回想話という部分では共通するエピソードもあるが、基本的には主人公の少年が父の元を訪れるまでの話である。
それは彼が誕生する、ずっと前の時代からはじまる。

先ほど、主人公と称したがそれはテレビアニメに準じただけのことで、ここでの彼は主人公と呼べるようなことはほとんど何もしない。
そういう意味ではこの物語の主役は、あの作品で“先生”という呼び名だけが登場した、彼その人であろう。
この物語でも作品に準じて彼に名前を与えていない。
それは彼が名前を欲さなかったからだ。
その対極として、この物語では名前を欲した男が登場する。
彼らのどちらが正しいなどと説教臭いことを記す気はない。
結局は二人とも名前などただの符号に過ぎないと考えていただけのことであろう。
符号だから、一人は利用し、一人は捨てた。
ただ、そんな男たちであっても愛する者の名前は符号ではなくなってしまう。
“先生”は“マチコ”を愛した。

もしこれを読まずにいきなり本文を読み進めると、ある方の作品を頭に思い浮かべられるだろう。
このサイトに掲載されている、リンカ氏の『私雨』だ。
もちろん、この物語を書く前に私の了解は得てあり、その意味では三次小説ということになるかもしれない。
しかし、私は書かずにはいられなかった。
すべては柴犬のマチコからはじまっている。
まさかとは思うが、もし未読の方がいらっしゃるならば、先に『私雨』をお読みいただきたい。
特にこの物語と同一の世界観となっているわけではないが。

最後に、私がいつも書いているLASというカップリング小説を期待していると肩透かしを覚えるだろう。
赤金色の髪の少女(幼女)など出てこない。
少年が少女に会うのは時系列的にこの物語を語り終えた後だからだ。
ここまでは断言できる。
ただし、少年が旅立って終わるのでは、いささか未消化の部分が残ってしまう。
それらを消化するためにサードインパクトが物語の終わりに必要となるのだ。
その後はいまは知らぬ。

少なくともアニメのテレビ版及び劇場版を物語にする気はさらさらない。
あくまで BE…Before of 『新世紀エヴァンゲリオン』の長い物語と、おそらくその後(AEOE)がわずかに語られるだけであろう。

もし、ほんわかした気分をお望みならばお読みにならないほうが賢明だと思う。
これは、私なりのテレビ版&旧劇場版に対する補完である。

ジュン 改め、LASでない時は、宇城淳史
                      (註:本名にあらず)



















これが夕焼けに煌く空を背景にしていれば一幅の絵画になっていたかもしれない。
しかし、陽は天空の真上に位置し、プラットホームのうえにあるものに容赦なく照りつけている。
物言わぬ行き先表示板でさえ、もうこれ以上白く輝けるかとばかりに顔を背けたがっているように見えた。
そこかしこに立ち昇っている陽炎はまるで太陽に対してなけなしの湿気を捧げているのではないか。
そんな幻想さえ抱きたくなるほどの灼熱のプラットホームには一人の男の子がぽつねんと立ち尽くしていた。
少年と呼ぶにはまだ痛々しすぎる年頃の彼は父が戻ってくるのを待ち続けている。
暑さと喉の渇き、そして周囲に自分以外の人間がいないことで、その忍耐は容易に破られた。
大きな鞄の傍らで、彼は大声を上げて泣いた。
しばらくして足音が聞こえ、すわ父親かとぼろぼろ涙をこぼしていた目をそちらに瞬間向けたが、そこに立っていたのは見も知らぬ男だ。
泣き声はさらに悲痛さを増した。
だが男は無表情な中、僅かに戸惑いの色を浮かべ、おずおずと唇を開く。
自分の名前を呼ばれた男の子は今度はしっかりと男を見上げた。

この日からおおよそ8年。
男の子が父親と再会するまでそれだけの時間が経過する。
そして、この町から旅立つにはさらに3年の歳月を要した。
結果的にそれまでの間、そしてそれからもうしばらくの時間のほとんどを彼は駅で逢った男と過ごすことになった。
そして、少年は男のことをただ“先生”と呼んだ。




















− マチコ −


第一部





彼は一人だった。
もっともその日が特別というわけではなく、それはいつものことであった。
痩せぎすの男は大きなチェロのケースをよいしょとばかりに持ち直すと、通用口から外に出る。
これが歌手のライブか何かであれば、外にはファンが待ち構えているのだが、
当然オーケストラの演奏会などでそういうことが起こるわけもなく、だからこそ劇場側も特に警備員を立てて構えていることもない。
無愛想なこの男がそれなりに著名なオーケストラの一員になることができたのは音楽大学にいた時に師事していた講師の推薦だった。
ただしそれは彼を推したのではなく、第一第二の候補に振られたために最後の手ごまとして推薦したに過ぎない。
演奏の腕は悪くもないが、特に個性もなく艶やかさもない。
ただ、手堅い演奏をするだけが彼の特徴と言えば特徴であった。
そうして彼はこのオーケストラの一員となったのだが、人あたりの悪さや無口なところが他の団員から嫌われ、常に一人で行動することとなる。
しかしそれを彼は寂しがってはいなかった。
他人との会話に巻き込まれるよりは、一人の方が余程いい。
だから、この夜も彼は一人で楽屋を出た。
そそくさとチェロのケースを小脇に抱えて。
その時であった。
彼の人生に、20年近い歳月を越えて色彩がついたのは。

「チェロの方、ですわよね。わたくし、綾波マチコと申します」

色白の娘は僅かに頬を染め、そして微かに笑みを浮かべて、彼を真っ直ぐに見つめていた。
蒸し暑い夏の、ある一夜のことである。





第一章   「隠棲」







− 1990年 晩夏 −



「見ればわかるだろう」

彼はチェロのケースを少しだけ持ち上げた。
するとマチコという名の娘は微笑んだまま、呟くように喋りだした。

「あら、素人にチェロとコントラバスの違いがわかるとお思いですか?そもそもケースに隠れて見えませんのに」

その時、彼の頭を掠めたのは日本経済についてだった。
これがバブル経済というものか。
オーケストラの楽器もよくわからないような人種がコンサートを聴きに来ている。
おそらくは演奏の稚拙などもよくわからぬままに、ただ雰囲気を楽しむために高い入場料を払っているのだ。
だからそういう連中が聴き易い様にクラシックだけではなく、POPSも何曲か交えたプログラムになっていた。
彼はそんな聴衆を相手にわざと音を外してやろうかという欲求にさいなまれることがある。
しかし聴衆の耳は誤魔化されようが、指揮者や演者たちには確実に露見するだろう。
馬鹿な思い付きはあくまで自分の心の中に止めておいたのだが。
この娘は明らかにそういった人種の一人だろう。
ブランド物の衣服や装飾品に身をつつみ、気紛れでコンサートを聴きに来たわけだ。
彼はそう結論付けると、娘に素っ気無く言う。

「で、何か?」

「お茶、いたしませんこと?」

こいつはどこのお嬢様だ?
それともバブル成金でお嬢様ぶっているのか?
田舎の素封家の息子である彼は、それなりに嗅覚が利いた。
その直感に従えば、この娘は前者である。
旧家の出自のような雰囲気がその言動に見られたのだ。
そして、彼はまるで引きずられるようにして娘に喫茶店へ連れて行かれてしまった。
その後彼がその娘と別れる前に交わした会話はほんの少しだけだった。
元より言葉数の少ない男だったが、娘の方も寡黙なようでほとんど話しかけてこない。
考えてみれば一番長い言葉は、チョロとコントラバス云々ということではないか。
後はまるで五月雨のようにぽつりぽつりと喋るだけで、しかもそれは自分を語ることだけだ。
昨年大学を卒業し、どこかで名前を聞いたことのある民間の研究所に勤めているとのことで、
彼は何となく質問してしまった。

「何の研究を?」

すると、娘はころころと笑った。

「わたくし、研究などできません。事務職です。従姉妹の家のコネで」

そしてその従姉妹について、娘は話した。
彼女はまだ14歳だというのに既に大学に入って何の研究をするのかまで決めてしまっている。
しかも大学や師事する教授まで特定しているらしい。
それは妄想や希望といったレベルではなく、彼女の周囲もそれが当然のことの如く接しているのだ。

「神童か?」

「ふふ、そう。わたくしとは全然違う。あの子は、女神」

そう話す娘自身が女神であるかのように、一瞬男には見えた。
彼は慌てて目を逸らす。

「だけど、そんな女神様なのに、あの子は私の真似をしたがるの」

それは自然なのではないか?
男は美しい親戚の女性に憧れを抱くのは別におかしなことではないと思った。
自分が音楽を志した、そもそものきっかけは叔母さんのピアノだったことを思い出す。
幼き頃に聞いたその調べに胸をときめかせた。
しかしピアノやバイオリンではなく、チェロを弾く才能を神様が与えたのは何故だろうか。
男は娘の話に耳を傾けず、自分の世界に思考を彷徨わせる。
いささかながら、わざとそうしたこともある。
綺麗な顔をした娘だが、彼女の暇つぶしに付き合わないといけない道理は見受けられない。
自分のようなつまらぬ男をわざわざ選んで、それでからかっているに違いないのだ。
こちらはからかわれている気はないのだと意思表示するために、男は露骨な態度に出ているのだ。
もっともそれは彼の小心さを示すかのように、実にささやかなものであったが。
彼はわざと聞こえるように溜息を吐くと、窓の外に目を移した。
まるで不夜城だ…と、男は思った。
ビルの明かりやネオンサインが眩しく、人々もひっきりなしに往来している。
彼の生まれた松代の郊外ならば、この時間には人家の灯火も疎らなはずだ。

「つまらないですか?わたくし」

咎める様な声音に、男はゆっくりと視線を娘に向ける。
彼女は真剣な眼差しで彼を見つめていた。

「いや…」

こういう時、煙草でも吸えれば間がもたせられるのになぁ、と男はふと思う。

「私の方こそ、つまらんでしょう」

話を逸らしたつもりだったが、それが誤りだった。
娘は微笑みを浮かべ、そしてきっぱりと言ったのだ。

「可愛い、と思います。お話して、確信しました」

幼児の頃でも言われたことがない、そんなフレーズを口にされて、男は大いに戸惑った。
そして、彼は勘定書きを鷲掴みにすると、急いでレジに向ったのだ。
逃げ出さないといけない。
彼は商売道具を放り出したまま店を出ようとして、階段の途中でそれを思い出した。
このまま遁走したかったが、あれがないと明日のコンサートに差し支える。
いくらシニカルな態度を示す彼でも、さすがにそれは困る。
仕方無しに座っていた席に戻ると、娘はまだ座っていて窓の外を見ていた。
ああ、急に席を立たれて腹をたてたかとどこか安心して、男はケースに手をかけた。
すると、娘がゆっくりと顔を彼に向けたのだ。

「ご馳走様でした。今日は楽しかったですわ」

にっこりと笑われ、彼は何の返事もせずにケースを抱えて出口に向う。
階段の途中でケースが壁に当たって音を立てたが、それよりもこの場を早く去りたい。
通りに出たとき、彼は視線を感じた。
見られている。見送られている。あの微笑で。
なるほど、あの時窓の外を見ていたのはそういうことだったのか。
彼は絶対に振り返るなと自分を戒めて、そして足を速めた。
タクシーに乗ってからも、男は胸の中に生まれたもやもやに悩まされてしまった。
この気持ちの悪い感情は一体何なのだろうか、と。



マチコは彼につきまとった。
次の夜のコンサートも彼女は通用口で彼を待っていたのだ。
そして有無を言わさず、また同じ喫茶店へ連れて行かれる。
会話らしい会話はほとんどなく、同じように彼は逃げるように表に出る。
それがコンサートの最終日まで、3日続いた。

その3日目の夜、彼は娘を抱いてしまったのだ。

最終日だから打ち上げがあった。
だが彼はそういう類の集いが大嫌いだったのである。
しかし出席しないわけにはいかない。
そこで彼女の存在を利用することにしたのだ。
同僚の見ている前で彼女にチェロを託し、打ち上げを早めに抜ける理由付けにしたわけだ。
元より親しまれてはいない彼だから、誰もがからかいのネタにもしないし、挨拶もなしに姿を消した彼を罵ろうともしない。
会場を抜け出た彼は待ち合わせ場所である、あの喫茶店に向った。
そこでチェロを受け取り、少しの間彼女の相手をし、それでさようなら。
彼の算段ではその筈だったのだが、その計画通りにはいかなかった。
何より彼女にチェロを預けていたことが拙かったのである。
喫茶店の前で彼女はずっと待っていた。
その傍にチェロケースの姿はなく、ようやく彼は大切なものを人質に取られてしまったことを知った。
そして娘に誘導されるがままに到着したのは、とある高級シティホテルのスィートルームだった。
大人の男と女がそのような場所に二人きりになってしまえば、その結果はどうなるか。
打ち上げの乾杯で飲み干したワインで既に酔っていたのか、それとも娘に好意を感じていたのか。
誘惑されるままに彼は娘を抱き、その翌朝窓から差す朝日によって彼は真っ白なシーツに処女の証を見た。

「結婚、してくださいますわね」

まさに蜘蛛の巣にかかった虫の如く、彼は自分が逃げられないことを本能的に悟った。
だが、彼はどうしても知りたかったのである。
何故、彼女のような美しい女が自分のような男に身体を捧げ婚姻を迫るのかを。
その返事は結局彼の一生を決定付けてしまうことになった。

「だって、好きになってしまったのですもの」

「しかし、私は君のことをほとんど知らない」

「あら、わたくしなんて、あなたの名前も知らないわ。チェロ弾きの先生」

嘘や冗談ではないことは伝わってきた。
どうやらこの女はパンフレットでメンバー名を確かめようとすらしなかったらしい。
男は溜息を吐いた。
そして考えた。
この不思議な女の両親にどのように挨拶すべきなのだろうか、と。
ドラマでよくあるように、お嬢さんを私にくださいと言えばよいのか。
どう考えても自分の方がそちらのお嬢さんに貰われてしまったように感じるのですが、と付け加えたいが可能なのだろうかとも男は思った。



結果的に言うと、両親への挨拶は不要だった。
彼女の両親は既に鬼籍に入っていたのだ。
大学入学当時から従姉妹の家に下宿していたので、そのまま社会人になっても厄介になっていたのである。
碇という名の従姉妹の両親、つまりマチコの伯父と伯母は簡単に婚姻を許した。
婚約からささやかな結婚式までほんの3ヶ月。
その3ヶ月で、男は完全にマチコの虜となっていた。
三十前という年齢の男がこれまで恋の一つもしていないわけがない。
肉体関係を持った女性も3人ばかりいた。
しかし、彼はその女たちにのめりこむことがなかったのだ。
好きだ、という感情はあったが、別れ話を持ち出されても、ああそうか、で済んでしまう。
自分は恋愛に淡白な性質なのだ。
彼はそう思い込んでいた。
しかし、マチコと出会ったことで彼は知ったのだ。
まず、自分の好きだというレベルが低かったこと。
そして、それが理由だったのかもう確かめようがないのだが、これまでの相手にはそれほどの好意を抱かれていなかったことを。
マチコの彼に対する愛情は本物だった。
だが、本物すぎた、のである。




− 1999年 夏 −

「暑いですね。松代でも」

碇ユイはハンカチで額の汗を拭った。

「ええ、今年は例年よりも酷いらしいですよ」

男は毎朝の天気予報で連呼されているがままを客に伝えた。
京都は何とか現象のためにかなり暑いらしいが、いくら信州といっても真夏であることには変わりがない。
そんな言葉を付け加えたい気持ちを抑えて、男は差障りのない言葉のみに止める。

「今日も会ってくださらないのかしら。マチコさん」

「伝えてはいますよ。しかし…」

男は口を濁した。
彼としても本音で言うと、妻にこの女性を会わせたくないのだ。
妻が会いたくないという気持ちもよくわかる。
見られたくない。
見たくない。
顔立ちが似ているからこそ、余計にそう思うはずだ。
マチコの精神状態は絶えず異常なわけではない。
発作を起こすのは月に一度のあの時期だけである。
股間に流れる赤い液体を確認した時、彼女は狂う。
死産した娘を思い出し、暴れ狂う。
この世に生を受けてはいないのに、死亡証明書へ記入するだけの名前を必要とされた娘のために。
レイはどこにいると彼女は叫び、その後嵐がおさまれば人形を相手に母親を演じはじめる。
そして月のものが去った時、我に返るのだ。
今は平常な時期である。
しかし、だからこそ、愛する従姉妹に会いたくないのだろう。

「お姉さまのお気持ちは察してます。でも、遺言が…」

「その節は葬儀にも出向かず…」

男はありきたりの外交文句を口にした。
24時間、付きっ切りになっているわけではない。
しかし、妻を置いて外泊することは絶対にできないのだ。
まして彼女を連れて外出するなど言語道断である。
誰にも見られたくないというのが、マチコの希望なのだから。

「豪勢なお葬式でした。あまりに豪華なので、両親のものとは思えなかったくらい」

20歳にしてはかなり大人びた言葉である。
碇ユイは14歳の時に漏らしていた予言どおりの人生を歩んでいた。

「それは…。それだけの価値のある方々だったということでしょう」

男は言葉を選んだ。
価値があったからこそ、搭乗していた特別機が爆破されたのかもしれない。
しかしその遺体も証拠も何もかも、すべては北極海の海底に眠っている。
結局は事故なのか謀殺なのか判明されぬままに、もう半年が過ぎていた。
遺言書があったということは、もしかすると予感があったのか。
それともそういう危険を孕んだ仕事をしていたのか。
元チェロ演奏者にして、今はただの無職の男である、そんな彼にはそれ以上の想像はできない。

「お金などは…うちには不要です。恥ずかしながら相続した田畑を売って、それで充分すぎる暮らしをしてますので」

「でも、それでは…」

ユイは唇を噛みしめた。
我が親ながらもっと気の利いたものを残せなかったのか。
確かにお金などもらっても、あの従姉妹には何の意味もないだろうから。

「会いたいと妻が申せば、すぐに連絡を取ります。それでよろしいでしょうか」

提案ではなかった。
あからさまに帰れと言っているに等しい。
ユイは少しばかりの憤懣を抑えて、ぎこちない微笑を浮かべて縁側から立ち上がった。
そして、ハンドバックから一枚の名刺を取り出した。
自宅の方で連絡が取れない時はこちらにと名刺を渡し、ユイは男と、そして離れたところに見える蔵に向って頭を下げた。
そこから自分を見ているに違いない、従姉妹に向って。
彼女はしっかりとした足取りで、大きな庭から勝手口の方へと歩いていく。
その後姿が見えなくなった時、男は手にしていた名刺を握りつぶした。
くしゃくしゃになったそこには“形而上生物学教授冬月何某”と書かれていたが、もう既にそのことは男の記憶に残っていなかった。
彼は立ち上がり、ゆっくりと蔵に向って歩き出した。
夏の日差しが真っ白な漆喰に照り映えている。
おそらくは…。
妻は自分を求めてくるだろう。
美しい従姉妹を見たから。
その従姉妹と夫が至近距離で話をしていたから。
嫉妬に狂い、まだその時期ではないのに。
男はどうしても言えなかったのだ。
妻の身体はもう二度と妊娠することができないということを。
いくら性交を重ねても何も実ることがないことを。
もしその事実を伝えれば、妻は完全に狂ってしまうに違いないから。
彼は蔵の前まで達した。
がちゃりと音を立てて、南京錠が外れる音がする。
外からは開けられない、蔵の中からの錠前の音が。
ひとつ、ふたつ、みっつ…。
男はいつものように鍵の音を数えていた。
そして、九つまで数えた時、すっと扉が内側に開き、真っ白な腕が一瞬だけ陽の光に映し出される。
痩せてもなく、肥えてもいない、結婚したときと変わらぬ、白く細い腕が。
男は後ろ手で蔵の扉を閉めた。
一瞬、光に慣れた目が暗闇に支配される。
しかし、蔵の中とはいえ真っ暗ではない。
奥の方には明かりも灯っており、扉のある壁面には上の方に明りとりの小さな窓があった。
その窓は今は閉められていたが、その下には梯子が立てかけてあり、男はそれを横目で確認した。
ああ、やはり覗いていたのだ。
男は妻を見下ろした。
マチコは微かに笑みを浮かべながら夫を見上げる。
しかし、目は笑っていない。
怒りと愛情が入り混じった、出逢った頃ならば逃げ出してしまいたくなるような目付きである。
ところが、男がしたことはただ妻を抱きしめるだけだった。
抱きしめられながら、マチコは男の開襟シャツのボタンを外そうとし、巧く外れないことにいらだって一気に指で引き破った。
ぽろぽろと零れ落ちたボタンが床で跳ねる。
男の方からは何もすることがない。
何故なら、マチコはもう既にその身に何も纏っていないのだから。
真っ白な身体を晒している彼女は、壁のスイッチを切った。
奥の部屋の照明が消える。
上半身裸で突っ立っている彼の背中に妻の身体が抱きついてきた。
真っ暗な空間で饗宴がはじまる。



碇ユイは松代駅に着くと、公衆電話に向った。
電話の相手は彼女の最愛にして唯一の男である。

「ええ、会えなかった。話すらできないの。……駄目よ。遺言なんだから、ちゃんと渡さないと。後は弁護士の先生にお願いする。
 いいえ、あなたは駄目。また喧嘩になっちゃうかもしれないから。そうよ。喧嘩なんかしないでね。
 アメフト部の彼なんかに手を出してないでしょうね…。はいはい、ちゃんと気をつけてますってば。
 うかつに相手かまわず愛想なんて振り撒いてません。え、あの人?ふふ、冬月先生は大丈夫。向こうだって娘みたいに思ってるわよ。
 ああ、うん、これから東京。弁護士の先生に会わないといけないから。
 あ、まだ切らないで。言い忘れたことがあるから。ふふふ、愛してる。私の可愛いあなた……。もうっ、勝手に切らないでよ」

返却されたテレホンカードを乱暴に定期入れの中に差し込み、ユイは電話ボックスから外に出た。
彼女は青空を見上げる。
入道雲がもくもくとわき上がっていた。
いくら才媛であっても、彼女はまだ大人になりきってはいない。
学問研究という分野に対してはどんどん視野が広がっているが、人間という生き物についてはかなり視野が狭い。
初めての男である六分儀ゲンドウに身も心も浸りきっている。
そのゲンドウが今の電話の後に、その前夜にぶん殴ったアメフト部の彼の友人たちに呼び出され、警察沙汰になることなど予想もしていない。
ましてゲンドウが身元引き受け人として自分ではなく、冬月コウゾウを指名することなどさらに思いもつかなかった。
愛する男の目的がどこにあるのか、まだまったく見えてなかったのである。
いや、見ようとしなかったという方が正しいかもしれない。
彼女は改札に向う前に、もう一度山並みの方を振り返って見た。
その方角に従姉妹のいる屋敷があるはずだ。
もう、二度とマチコお姉さんには会えないのだろうか…。
あの優しい微笑みはもう見ることはできないのか。
ユイは唇を噛み、想いを振り切るかのように踵を返した。



マチコの狂騒は収まらなかった。
正常な時は寡黙な娘であったのに、こうなると言葉が洪水の様に溢れ出してくる。

「ユイのヤツっ!あいつは!あいつは赤ちゃんを産むのよ!あんなに健康そうで!きっと元気な赤ちゃんを産むに決まってる!
 あああああっ!もっと!お願い!もっとください!わたくしに赤ちゃんを授けて!あなた、後生ですから!」

男は妻の姿を見ていない。
目を瞑り、マチコの要求通りになるようにその肉体を捧げている。
目を開けてしまうと萎えてしまうからだ。
真っ暗な蔵の中であっても、何となくものは見えてくる。
至近距離にいる妻の白い身体はぼんやりと目に入った。
だが、マチコはまるで料理でも作っているかのように表情もなく身体を動かしているのだ。
性的な快感などまったく身体に覚えていない、そんな妻の姿を見てしまっては気持ちが萎えてしまう。
だから、目を瞑っているのである。
マチコはただ射精を促すためだけに己の身体を激しく動かしている。
しかしいくら夫の精子を身体に受けても受精することは不可能だ。
そのことをマチコは知らず、夫も伝えない。
その事実を知れば、マチコがどうなるか。
現在は蔵の中に居るのだが、その蔵は一つの家を為している。
トイレや風呂もあれば、台所まであるのだ。
月経の時に荒れ狂うとはいえ、彼女は自分を傷つけようとはしない。
そして夫の身体にも暴力は加えない。
ただ身の回りにある物を壊すだけだ。
しかもそのことで怪我をしたり、火事を起こすようなことは決してしない。
わかっていてしていることなのかと、男が訝ったくらいである。
だが、それはあくまで無意識にしていることだった。
死産した我が子のことを思い、神経を犯されてはいるのだが、もう一方で愛する夫との生活は崩したくない。
そんな二つの思いが危ういバランスを保っているのだろう。
だからこそ、主治医は隠棲を勧めた。
こんなことはあなたが資産家だから言えるのですよと付け加えた医師の表情には羨みの色も浮かんでいた。
それに気づいたのか、彼は話をマチコの精神状態に戻す。
あなたの奥さんは自覚しているところが困りものなのだ、と。
自分が狂っていないと主張する方がまだ治療の余地も見えるかもしれない。
しかし、奥さんはその時期になると自分を抑えられなくなると、苦笑しながら告白する。
その状況の時に赤ちゃんや妊婦を見たら…。
他人に危害を加えるかもしれないから、夫と二人だけで暮らしたいと自分から言ってきている。
その後面会したマチコは医師の言葉を肯定した。
男にとってもマチコの存在は消すことができないほどに大きいものだったから、すぐさま郷里に戻る決意をしたのだ。
留守の管理をしてくれていた業者に改装を依頼し、やがて完成した屋敷に夫婦は帰った。
マチコは自ら座敷牢に入ったのである。
夫以外の人間を見たくない。
夫には絶対に危害を加えないと確信しているが、他人には保障できない。
妻の主張に男は頷かざるを得なかった。

マチコは白く、男は黒い。
日の光を浴びずに暮らすマチコはただでさえ色白だった肌の色が病的にまで白くなっていった。
その逆に男の方は屋敷の中に設けた畑を耕したり、魚を釣りにいったりと、日の光をふんだんに浴びている。
子供の頃よりも日に焼けた肌となった。
そんな健康そうな男をマチコは羨むことはなく、むしろ嬉しそうにその赤銅色の肌を愛でた。
彼女は男の身体について本人よりも熟知していたかもしれない。
どこを愛撫すれば気持ちがいいのか、どうすれば射精してくれるのか。
だが、彼女自身は快感を得られない。
肉体上は反応しているのだが、心はまったく弾まない。
最初の頃は男も必死に彼女を愛撫していた。
しかし、表情にも何も反応がないのだ。
あるのは、肉体的な、本能的で条件反射的なものしかない。
まさにこれは儀式だった。
子供を授かるためだけの、文字通りの交尾というものにすぎなかった。
だからこそ、男はこの行為を嫌悪していた。
ところが、ある時気がついたのだ。
マチコは誰でもなく、この自分との子供を欲して、快感も何も得られない行為に勤しんでいるのである。
これもまた、愛の姿ではないか。
寧ろ快感というものを媒介にしている自分の方が汚らわしいのかもしれない。
ただ、いくら彼女が望んでも絶対に目的を果たすことはないのだが。

マチコは常に男を傍に欲してはいない。
おそらくは彼がいつも傍らにいれば、己の精神バランスが崩れてしまうことを知っていたのかもしれぬ。
ぎりぎりの場所で踏みとどまるために、彼女は日中はできるだけ男を呼ばなかった。
彼女の頭の中では男は朝勤めに出て、夜帰宅するという図式になっていたのだ。
もちろん実際には働きに出ていない男は、昼間は屋敷の方で暇をつぶしている。
畑を耕し、読書し、時にはチェロを奏でる。
何と昼用の弁当まで持たされているのである。
正常な時は台所仕事もマチコは普通にこなせるからだ。
買い物に行ったり、池に釣りに行く時だけはマチコに告げて外に出た。
しかし、その外出は短時間で済まさねばならない。
鉦が鳴るからだ。
マチコの限界は1時間ほどだった。
顔や姿を見ていなくても屋敷の中に男がいるとわかっていれば安心できる。
しかし外出している時は、不安感が体中を支配する。
その不安感が限度を越えそうになれば、彼女は紐を引くのだ。
マチコは、蔵の屋根のところに鉦を取り付けさせた。
中から紐を引っ張ると、その鉦が鳴る仕組みだ。
釣りの池は屋敷のすぐ近くだったので、鉦が鳴るまでは糸を垂れる事ができる。
そして、鉦の音がすれば男はすぐに駆けつけた。
もっとも走るわけではなく、きちんと片づけをしてから蔵に向うのである。
もし火急な用事であるならば(そんなことは有り得ないが)、鉦が何度も鳴る筈だ。
くだらない用もあれば、子供を授けて欲しいと昼日中から要求する時もたびたびあった。
その度に、男はマチコの要求に応えてきたのだった。

こうしてマチコは松代に引きこもってから、一度も蔵から出ないようになったのである。
昼間はともかく、夜になってもそうだった。
初めての夏、男は花火をしないかとマチコを誘ったこともある。
だが、彼女はやはり扉から外には出てこなかった。
しかし、浴衣を身に纏ったマチコは扉のすぐ近くで座り、夫に花火をしてみせろと要求したのだ。
仕方無しに男は一人で花火をし、妻はそれを一言も喋らずに見続けたのである。
さすがに懲りたのか、その後は花火セットを買って来る事はなかった。
ただし、線香花火だけはひと夏に何度か購ってきて、妻の前でささやかな花火大会を開催したのである。
その報酬はいつもよりは少しだけ深い微笑みだけだった。

ユイが東京へ去った日に話を戻そう。
さすがにあれだけ日中交わり続けただけに、その夜マチコは夫を求めなかった。
ただ、彼に別のものを求めたのである。
それはチェロの演奏だった。
彼女は椅子を扉の傍まで持ち出しそこに腰掛けた。
男が弾く場所は屋敷の中である。
他の部屋の照明は落とし、もちろん蔵の中は真っ暗闇である。
男が目を凝らして見ても、扉のすぐ傍にいるはずの妻の姿はまるで見えない。
しかし気配は感じた。
彼女のリクエストは「As Time Goes By」と「The Summer Knows」だった。
それはあのコンサートの時にプログラムに入っていた曲である。
真っ暗な屋敷の中で、男のいる部屋だけが煌煌と灯りがついている。
まるでスポットライトの中に彼がいるように見えた。
たった2曲だけのコンサートは7分程度で終わり、たった一人の観客は一言の感想も言わずに蔵の扉を閉めたのである。
男の耳に南京錠が閉められる音が聴こえてきた。
微かな音だが、さすがに元プロの演奏者だけに9つの鍵の音をすべて聞き取ることができ、何故かしら彼は溜息を吐く。
今日は添い寝をしなくてもいいようだ。
滅多にないことだが、一人で眠るのもたまには良い。
彼は網戸を閉め、奥の部屋へとチェロを抱えて姿を消した。
後に残ったのは、虫の音と風の音。

だが、二人とも気がつかなかった。
観客はもう一人いたのだ。
屋敷から少し離れた道で、自転車に乗った少女が男の演奏をじっと聴いていたのである。
部活動を休んだ友人にプリントを届けた帰りだった。
痴漢を恐れた友人の親が送っていくと言うのを固辞し、彼女は自転車を走らせた。
そして、県道へと進むうちに、チェロの音を耳にした。
風に乗ってくるメロディはどこかで聴いたことがあったのだが、題名までは思い出せない。
彼女は周りを見渡すが、道路を照らす街灯以外に明かりは見えなかった。
音の方角をよく確かめてみると、何やら大きな屋敷らしきものの方から聴こえてくるような気がする。
本当にそうなのかと思っているうちに、演奏は終わった。
彼女は慌てて自転車を身体で支えると、屋敷の方に向って拍手をした。
そして次の曲を楽しみにしたのだが、いくら待っても何の音も聞こえてこない。
ちぇっと小さく悪態を吐き、彼女は再びペダルを踏んだ。
ただ、心はやたらに軽く、口からはさっきのメロディが零れる。
彼女の家はここからかなり離れているのだが、そんなことは気にならない。
一日の最後に物凄くいいことに出逢えた様な気がした。

その翌日。
少女は部活動の仲間に昨晩のメロディを確かめてみたが、出てきていた図書部員の誰もが題名を知らない。
流行ではない昔の映画音楽なのだから、いくらスタンダードナンバーといっても高校生では知らなくても当然だろう。
吹奏楽部の連中に聞いてみれば答が返ってきたかもしれないが、彼女にはそれができなかった。
新しい母親にお金のかかる吹奏楽部を辞めさせられたのだから。
もっとも直接辞めろといわれたわけではなく、彼女がそんな雰囲気を受けて勝手に動いたのは事実だ。
再婚相手はまだ小さな男の子を二人連れてきた。
父親はどうやらあの女に惚れ切っているようで、彼女の味方にはなってくれない。
彼女は新生活が始まってほんの一週間で自分の未来絵図をすべて消し去った。
大学進学など夢のまた夢だ。
さっさと就職して、この地を離れよう。
そう思って、一年生の冬に退部届けを吹奏楽部に出したのだ。
しかし、授業が終わってすぐに家に帰りたくもない。
だから、彼女は図書部に入ったのだ。
放課後は本を読み、時間になったら帰宅する。
台所の後片付けは自分から手を上げた。
父親と二人のときは料理も作っていたのだから、家事など嫌だとも思わない。
寧ろ自分の分は自分で料理したいくらいなのだ。
あの女の料理は自分の口に合わない。
巧いと言って食べる父親の気が知れない。
まだ小学校にも入っていない義理の弟たちを疎ましくなど思わないが、あの家に彼女の居場所はなかった。
思い出のピアノが撤去され、大型テレビとカラオケセットがリビングに鎮座した時はもう何の言葉も出てこなかった。
確かに吹奏楽部に入ってからは稀にしか弾いてなかった上に、自分から言い出したことだったので仕方がなかったのだが。
それでも父親がはいそうですかとあっさりピアノを処分してしまったことには、悲しみの涙にくれても誰も文句は言うまい。

「あら、南雲さん。図書室?」

「あ、こんにちは、先生」

彼女は渡り廊下で出くわした教師に頭を下げた。
吹奏楽部の顧問であるこの女性は、彼女が退部届けを提出した時に本心から残念に思ってくれている。
そのことが感覚的にわかっているから、もう接することが少なくなってしまったこの教師との時間を大切に思う。
この時も挨拶を終えてから世間話のようなものをとりとめもなくしてしまった。
そしてふと思いついたのだ。
彼女なら知っているかもしれない。

「先生、このメロディわかります?」

昨夜のメロディを鼻歌で奏でる。
目を閉じて聞き入っていた教師はすぐに顔を少し上下に揺らしリズムを取り始めた。

「それ『おもいでの夏』よ。映画音楽。ジャズのスタンダードにもなってるわ」

「わぁ、さすが先生。詳しいですね」

あからさまな賞賛に教師は少し頬を染めた。

「たまたまよ。私の好きな曲の一つ。そうだ!」

教師は職員室に来てと少女を誘った。
夏休みだけに職員室にはほとんど人がいない。
教師は自分の机の引き出しの奥を探った。
そしてそこから小さな機械を取り出したのだ。
その機械を少女に手渡すと、これをあげると微笑んだ。
少女ははじめて見る機械をひっくり返してみたりして検分する。
ヘッドホンが刺さっているから音響機器のようだが見た事がない。

「ウォークマン…じゃないですよね」

「DATプレーヤーよ。画期的なものだったんだけどなぁ。もうMDに押されちゃって」

私もMDの方に買い換えちゃったの、と教師はバックから小さなMDプレーヤーを出して見せた。

「高かったし、壊れてもいないから捨てるわけにもいかないし。実は処分に困ってたの。ね、貰ってくれない?」

高価なものと聞いたので少女は辞退してはみたが、本心は欲しくて仕方がなかった。
家の中の雰囲気が変わるまでは、リビングで音楽を聴いていたので自室には音響機器がまるでなかったのである。
だから、この思いもよらないプレゼントは本当に嬉しかったのだ。
そのことを感じた教師は彼女の負担にならないように重ねてもらってくれるように頼んだ。
このまま仕舞っておいたら壊れるだけで逆にもったいないと。
そしてぎこちなく頷いた少女を見て、教師はありがとうと先に礼を言う。
慌てて少女は、ありがとうございますとぴょこんとお辞儀をした。

「それからね、ええっとこのテープに確か…」

教師は引き出しの奥からさらにテープや電源コードなどのオプションを取り出す。

「『おもいでの夏』とか『ある愛の詩』とかの映画音楽を入れてた筈。ああ、これこれ」

端麗な字で“My Favorite Movie Theme”と書かれたケースからDATテープを取り出し、機器にセットする。
反応がないので壊れていたかと少し焦った教師はバッテリ切れだと気づいてACアダプタを繋いだ。

「よかった、動いた。ゴミをあげちゃったかと焦ったわ。ええっと、6曲目ね」

少女は教師の指の動きを見ていたが、ヘッドホンをしないと音は聞こえないわよとからかわれ急いで耳に装着する。
そこから聞こえてきたのは確かに昨夜のメロディだった。

彼女は教師にもういいからと苦笑されるまで礼を言った。
職員室を出て、図書室に向う間もずっとにこにこ笑っていた彼女は図書部員たちに何かいいことがあったのかとすぐに問われる。
その中には昨日休んでいた女の子もいた。
彼女もその子も進学組ではなかったので、3年生の夏でも部に出入りしていたのである。
図書部という空間には他の部のように引退セレモニーのようなものがなかったということもあった。
事実、この高校での図書部の3年生は卒業式前日まで在籍するのが通例となっている。
あまりに目立たない部である上に、それで3年生の進路や就職に影響も与えていないので教師たちも特に何も言わないのが現実だった。
また後輩たちもしごかれるわけでも苛められることもないので、3年生が顔を見せることに全然嫌な顔を見せない。
むしろ今日のようにわいわいと一緒になって世間話に花を咲かせていたのだ。
そして彼女は昨日の夜のことを話したのだ。
同級生たちはロマンチックだと口々に言ったのだが、例の女の子だけは顔をしかめて見せた。

「そこさ、化け物屋敷よ」

「え!出るのっ?」

さては幽霊が奏でたメロディーだったのかと、少女たちは大騒ぎをした。
今日は図書室の開放日ではなかったので、大声で語り合う彼女たちを咎める人間は誰もいない。

「出るんじゃないの。いるのよ」

今回はストーリーテラーになれると、女の子は勢い込んで話をはじめた。

「あそこにはね…蔵の中に…」



「気をつけなよ、あんた、もしかしたら化け物屋敷に誘われたのかもよ」

太陽がさんさんと降り注ぐ中、二人の少女が自転車を押して歩く。
図書室では化け物屋敷の話から百物語に発展していったのだが、女の子は今は真顔で忠告している。

「幽霊じゃないんでしょ」

「まあね。でも、不気味じゃない?蔵の中に住んでる気違いと二人きりで住んでるのよ」

「はは、まるで横溝正史とか江戸川乱歩って感じね」

「そうそう!まさしくそれ!」

「アカネったら好きね。そういうの」

「きっとあんたは選ばれたのよ。蔵の中の女がもうじきこの世を去るから、次の獲物に」

「ええっ、やだぁ!そんなのパス!」

「ははは。なかなか迫真だった?こういう小説書いてみようかな」

「私、読まないからね。そんなの嫌い」

「ふふん、夢見る乙女はロマンチックがお好き?」

「当然。ホラーなんか嫌いよ」

「ロマンチックなホラーもあるんだけどなぁ」

「絶対パス!」

そう大声を上げた少女は、例の屋敷が見えてきたことに気がついた。
その視線を追ったアカネという名の女の子は屋敷の話をする。

「村の人もね、誰も女の人を見たことはないの。蔵の改造が終わったら、夜の間に引っ越してきたんだって」

「でも、いるんでしょ」

「いるわよ。ちゃんと住民票に載ってるもん」

「どうしてアカネがそんなこと知ってるのよ」

「だって、うちのおじさん町内会長だもん」

直接の理由にはなってないが、だいたい言わんとすることはわかる。
そのコネがあるのか、アカネは来春からとある場所に就職が決定している。
ただし、それは学校にもまだ秘密になっているのだが、公にできないことは地域社会にはいろいろとあるのだ。
少女の方は東京の方の会社への就職を考えている。
そちらの方はまだまだどこにするかという段階である。
とにかく蔵に発狂した女性が存在することは事実なのだ。

「ということはさ、その奥さんの面倒を見るために東京から戻ってきたって事?その旦那さん」

「まあね。庄屋の家系だったし、山をいくつも持ってたから、働かなくても食べれるのよ。いい身分ってわけ」

「そりゃあお金持ちだったらいい身分でしょうけど、奥さんがそれじゃ…」

「ふふ、あんたの好きなロマンチックなパターンじゃないの?元オーケストラのメンバーよ」

「ま、まあね。確かにそうだけど…」

友人の誘導に応じて頷いた彼女は、がははと笑われてしまった。

「ダメダメ。ロマンチックなんてとんでもないわよ」

「どうしてよ」

「だってさ、主人公がおっさんだもん。背は高いけど、カッコよくないしさ」

「見た事あるの?」

「何度もあるわよ。そこの池でよく釣りをして…」

友人の目を追うと、県道から少し奥まったところに確かに池があった。
そこの畔に一人の男が座っている。

「わっ、いた…」

「えっ、あの人?」

「聞こえちゃったかなぁ」

「大丈夫よ、これだけ離れてたら、いくらアカネの馬鹿声でも届かないって」

「馬鹿って言うなっ」

少女は足を止めて、男を見つめた。
確かにその雰囲気からはカッコいいという印象はまるで受けない。
だが、土地の人間というイメージはそこにはなかった。
昨晩のメロディと、元オーケストラの団員だったという話で余計にそう思ったのかもしれない。
その時、少女たちの立っている場所にも微かに鉦の音が聞こえた。
すると男は立ち上がり、身支度を始める。
その様子を見て、少女は怪訝な顔をしたが、友人の方は全部知っているのよとばかりに笑みを浮かべた。

「あれはね、蔵から呼ばれてるの。早く来いって」

「あの音?」

「そう。かーんかーんって、まるで教会みたい」

確かにお寺の鐘とは音色が違う。
少女たちに見られているとはまったく思っていない素振りで、男は釣りの道具を肩に屋敷へとゆっくりと歩いていく。
その背中を見送って、少女は何とはなしに心が騒ぐのを感じていた。

「あれぇ、どうしたの?あんた、顔が赤いわよ」

「えっ、嘘!」

「うわぁ、あんたが親父好みだとは知らなかった」

「ち、違うってば!」

「ははは、まっ、誘拐とか神隠しとかされないように気をつけなさいよ。じゃっ」

村の方に別れる道へ友人は自転車を漕ぎ出した。
からかわれていたと知り、少女は唇を尖らせて、それでも友人にさよならを言う。

「またね、アカネ」

「バイバイ」

自転車は県道から村への緩やかな上り坂を上っていく。
しばらくその姿を目で追った後で、少女は誰もいなくなった池を眺める。
そして、溜息を吐いた。

「神隠しとは古いわよ、アカネのやつ」

その時、友人の声が聞こえた。

「じゃあねっ、マチコ!」

手を振るアカネに、南雲マチコは「また明日」と大声で怒鳴った。
親友の姿が見えなくなると、18歳になったばかりの娘は健康的な白い脛に力を込めてペダルを漕いでいった。





第一章 了






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