− マチコ −


第一部



第八章   「約束」






南雲マチコはその日から5日間寝込んでしまった。
寒風の中あのような姿で長い時間いたのだから、熱を出して当然だろう。
もちろん、その間男とは音信普通であり、マチコもまたそれでいいと思っている。
高熱の中、自分の青春というものが終わったことを承知していたのだ。
しかし、それは若者独特の自己憐憫というもので、実際にはもちろん彼女の青春は終わりなど告げていない。
男との恋についても終わっていなかったのだ。
寝床について5日目。
予想もつかない訪問者がいた。

「久しぶりね、マチコ。元気?」

「元気に見える?こんな格好で」

パジャマ姿で毒づく彼女に、アカネは苦笑した。
病人をベッドに横たわったままにさせて、二人はぎこちない会話を始める。
二人ともにおそらく友とはずっと顔も合わさず、口も聞かないのだと思っていた。
それがこうして見舞いに訪れている。
お互いに気まずい表情で相手を見つめていた。

「お母さん…って、それでいいのかな?」

「いいよ。向こうにはそう言った事ないけど」

「じゃ、あんたのお母さん、ちゃんとお母さんしてるじゃない」

「そうね」

マチコはふっと笑う。
彼女が寝込んでからというもの、義母は何も言わずに看病してくれている。

「お礼は言ってる?」

「言ってるわよ」

予想もしない返事にアカネは口笛を吹きたくなる。

「へぇ、そうなんだ」

「他人なんだからね。当たり前じゃない」

「あら、大人になったじゃない」

「だって、社会人になるんだもん。お互いね」

「でも成人は2年後よ。それまではお酒も煙草も駄目ってこと」

「アカネ…」

思わず友の名を呼んでから、マチコは軽く咳払いをした。

「アカネはお酒に煙草はするの?」

「へへ、お酒の方は3年前から親父の付き合いでちょっとだけね」

「そうなんだ」

「煙草はどうかなぁ。赤ちゃんにはよくないってことだから」

「えっ、アカネ!」

「馬鹿ね。相手もなしにできますかって」

そこで、アカネは真剣な表情になった。

「あんたじゃあるまいし、ね」

マチコはそんな友をしっかりと見つめ返し、それから苦笑する。

「失敗したわよ。惨敗。その結果がこれよ」

「結果?熱を出したのが?」

「何年か経ったら教えてあげる。まるでドラマか映画みたいなことしちゃったんだから」

アカネはふぅ〜んとわざとらしく横目で親友を眺めた。

「今すぐは駄目ってことか」

「駄目。恥ずかしいもん」

「よしよし、ではその何年後かを楽しみにしておこうか」

そして、二人は顔を見合わせ笑った。
喧嘩をする前のように。

「でも、まだ結果は出ていないかもよ」

「え?何のこと?」

アカネは「じゃじゃ〜ん!」と言いながら、ポーチから封筒を出した。
白い封筒に、南雲マチコ様と書かれている。

「アカネから?」

「何を馬鹿なこと言ってんのよ。どうして書いた本人が郵便局の代わりをしないといけないわけ?」

「だって、可愛い文字だもん」

確かに宛名は可愛い丸文字で書かれている。
様の後にハートマークをつけてもいいくらいに。

「失礼しちゃうわね。私は大人っぽい字が得意なのよ。忘れた?」

「はは、書道3段だっけよね」

「こんな字書けって言われても書けないわよ」

「じゃ、誰?」

アカネはにやりと笑った。

「横溝正史シリーズ。ずばり、蔵の中の女」

「ええっ?」

「こら、病人が騒ぐんじゃないの」

「で、でもっ」

マチコは封筒の表書きを凝視した。
どこをどう見ても女子高生が書きそうな文字にしか見えない。

「まさか、誰かに書かせて持ってきたとか?私をからかうために」

「ばぁか。だったら、達筆な私が書きますってば。その方がそれっぽいじゃない」

確かにそれはそうだ。
あの屋敷の蔵に住み、ずっと外に出ない女性が書くなら毛筆で草書というイメージだ。
寧ろ達筆すぎて解読できないという方がそれらしいと言えよう。

「開けて読んだらわかるじゃない。本当にそうかどうか」

「で、でも、どうしてアカネが?」

「あの男が持ってきた」

「えっ!」

「あんたの住所を教えて欲しいって。妻が手紙を書いたからってね」

マチコは目を丸くした。
確かに村に友人がいると言った事はあるが、アカネの名前は出していない。
ということは、男は何とか彼女を探し出したということか。
もっとも、あの村の高校生といえば数人もいなかった筈なのでそれほどの労力とは言えないが、
そういう行為を彼がしたということ自体が驚きなのだ。

「で、私は言ってやったのよ。あんたみたいな変態親父に私の親友の住所なんか教えられませんって」

「嘘っ!」

「嘘に決まってるでしょ。いくら何でもそれは言えないって」

ふふふと笑うアカネに、マチコはいぃ〜だと顔を顰めて見せた。

「まあ、直接持って行ってあげるって言ったの」

「どうして?」

「そ、それは…」

「言えないの?」

「だって、恥ずかしいもん」

「はぁ?」

視線を逸らせたアカネは布団の端を見つめながら本音を吐いた。

「これってさ、凄くいいチャンスだって思ったわけよ。顔を合わす機会がないんだし…。このままじゃ…」

ぶつぶつと喋る彼女の言葉を聞き、マチコははっとした。
そうか、そういうことだったのか。

「ありがとう、アカネ」

仲直りのきっかけだと言い難いだろうから、マチコの方から先に礼を言った。
それを聞いて、アカネは口笛を吹く真似をして壁を見ている。

「じゃ、これからも友達でいてくれるのよね」

「ぶぶっ。はずれ!」

「え…」

うろたえるマチコの方を向いたアカネは頬を染めて、にこりと笑った。

「友達じゃなくて、親友。間違えてもらっちゃ困るなぁ」

「アカネ!」

「マチコ!」

病人に敬意を表してアカネの方から抱きついていった。

「嬉しい!私、もう駄目なのかと思った」

「私だって諦めてたんだよ」

「アカネの言ってくれたこと、本当は私…」

「はいはい、もうそのことは蒸し返さない。それよりさ…」

「なぁに?」

親友の身体を抱きしめたまま、マチコは優しく訊ねた。

「マチコ、臭い」

「きゃっ!」

親友を突き飛ばすと、彼女はえへへと鼻の頭を掻く。

「し、仕方ないじゃない。お風呂入れなかったんだからっ」

「ふふ、でも我慢できない匂いだから、私は帰るね」

「ひっどぉ〜い!」

「だって、早く読みたいでしょ。その手紙」

アカネはマチコが握り締めたままの封筒を指さす。

「また、来るね。たぶん、明日来る。今度はお土産付きで来る。だから、お風呂入って身体を磨いてること」

「馬鹿!」

「はっはっは、じゃあね!」

「うん、私、待ってるから」

アカネは大きく頷いた。
そして、見送りは要らないし、おばさんには当分部屋に行かないようにと伝えておくと言って立ち上がった。

「ゆっくり手紙を楽しみなさいよ。案外、不幸の手紙だったりしてね」

マチコの返答を待たずに、アカネはさっと扉を開けて廊下に出て行った。
おそらく仲直りが照れくさかったのだろうと、マチコは嬉しげに笑う。
臥せっていた間、ずっと陰鬱な気分だったのが友のおかげでかなり気持ちが晴れた。
そして、手紙をしげしげと眺めた。
何が書かれているのだろうか。
この自分では絶対に書けそうもない可愛らしい文字で。



マチコは憤慨し、そして泣いた。
涙を零したのは怒ったからでも自分を哀れんだからでもない。
寧ろ差出人のことを思い、咽び泣いたのである。
もちろん最初は違う。
蔵の中のマチコは正直にすべてを書き記していた。
まず、南雲マチコを自分の計画に利用したことを詫び、そしてその計画というものを説明した。
穢れを知らぬ乙女の恋心を弄ばれた様に感じ、彼女は手紙を破いてしまいたいと思う。
しかし、先を読まずにはいられなかった。
そして、マチコは知ったのだ。
蔵の中の女の余命が短いことを。
愛する夫をこの世に残していくために考えた結果がこれだったということを。
“死”というものをマチコはその昔身近に経験している。
愛する母を失ったのだ。
その時、もちろん自分も悲しかったのだが、父親の落胆振りは自分の悲しみを忘れるほどだった。
その癖に娘の事を気遣い気丈に振舞おうとするから、余計に彼の失意の深さがわかったのだ。
もし娘がいなければ、父親はどうなっていたのだろうかと考える。
そのことと今現在再婚していることは別物だとマチコは思った。
母が死んですぐに再婚するというなら論外だが、逆に哀しみが癒えるまでにそれだけの時間が費やされたということだろう。
彼女の採った方法は別問題として、蔵の中のマチコの気持ちは少しわかるような気がした。
『はじめまして、南雲マチコ様』ではじまる手紙をマチコは3回読み直した。
便箋で13枚にわたって書かれていた手紙は文字こそ可愛らしいものであったが、その内容は悲痛この上ないものである。
マチコは壁に貼られたカレンダーを見た。
東京へ旅立つ日まであと4日である。
彼女は大きく息を吐いた。
そして便箋を封筒に戻し、枕の下に挟みこんだ。



「へぇ、そうなんだ。で、どうしたの、その手紙」

読ませて貰いたさ満々でアカネが尋ねる。

「燃やした」

「えっ!証拠物件を?」

「うん。だって、この手紙は燃やすなり何なり処分してくださいって書かれてたんだもん」

「馬鹿正直ねぇ、マチコも」

アカネは呆れたように言うと、ミルクティーのカップを取り上げる。

「秘密にしてくれってことか」

「あの人には絶対に言わないで頂戴って」

「あの人っていうのは私ではないから、それで私には喋ったって?」

「全部は喋ってないわよ」

「げっ、じゃ他にも何か書かれてたの?お別れパーティーに来てくれって以外に」

「いっぱい、ね」

「うわっ、聞かせてよ」

膝を進める友人に、マチコは楽しげに微笑んだ。

「そうねぇ、話してあげてもいいかな?」

「うんうん、話してみ」

「よし、じゃ15年後に全部話してあげる」

「えええっ、何それっ?」

アカネは憤慨した。

「だって、今喋ると拙い事がいっぱいあるんだもん」

「それでも15年はないでしょ、15年は」

アカネはえっとと首を傾げ暗算し、そして大袈裟に顔を歪めた。

「げっ、2016年?私たち、いくつになるのよ」

「33歳。立派なおばさんだ」

「うへぇ、想像できない。25歳くらいで時が止まってくれないかなぁ」

「今じゃないんだ。花の18歳のままじゃなくて」

「当然。だって、恋人もいないのよ。あのね、25歳なら、この私には愛しい旦那様と可愛い女の子がいるのよねぇ」

「何それ。そんな計画通りにいくわけないじゃない」

「それがいくのよ。まっ、楽しみにしといて」

「相手もいないのに、アカネったら」

「ふん、馬鹿にしないでくれる?私みたいなピチピチした女の子がお見合いしたいって一言言ったら、
それこそ山のようにお見合い写真が舞い込むわよ」

「ほとんどが髪の毛が気になる年代だったりして」

「うわっ、農村の重要課題を茶化すんじゃないわよ」

二人はげらげらと笑い合った。
これが雨降って地固まるということなのだろうか。
喧嘩をする前も仲がよかったのは確かなのだが、今は何か二人の間がしっかりとしているような気がする。

「で…?」

「うん、行く」

「そっか。よし、明日は私も家に居ることにするか」

「ふふ、何かあったら笛を吹くから飛んできてよね」

「それって…えっと、なんだっけ?アニメか特撮か何かの」

「はは、私も忘れた。とにかくよろしく!」

「心得た!」

「って、何?アカネ、時代劇じゃない!」

「えっと、、それじゃ、任せておきたまえ、中村警部」

「あ、うん、お願い」

「もう!そこは、それは明智小五郎って突っ込んでくれなきゃ。蔵の中なんだから、ここは横溝正史でしょうがって」

「そんなの無理よぉ。アカネはディープ過ぎる」

図書部といってもマチコは家にはあまり本がない。
中学からずっと吹奏楽部だったので、高校生の半ばで今さら体育会系の倶楽部に入ることもできず、
特に技量も必要とされない図書部に入部したわけだ。
そのおかげでアカネと出会えたのは良しとして、生粋の図書部員である彼女はさすがに読書が大好きである。
小学生の頃から将来は役場で働くと、自他共に認めていた彼女だから自分の好きな科目以外は勉強する気がない。
それでも赤点は取らないのだから誰も文句をつけられないのだが、それをいいことに彼女は授業中でも文庫本を開いているほどなのだ。
したがって彼女は所謂本の虫であり、その知識は到底マチコの及ぶところではない。

「仕方ないなぁ。まあ、準備はしておくからさ。大船に乗った気でいてちょうだい」

「よろしく!」

マチコとアカネはぱんと手を合わせた。
何だろう、この気の軽さは。
彼女は床に伏せっていた時の陰鬱な気分がどこやらかに散逸してしまっていることに驚いている。

「人生にリセットボタンなんかあるわけないのになぁ」

友が帰ってしまってから、少しばかりがらんとした空気の中でマチコは呟いた。
熱が完全に抜け身体が軽く感じることも手伝っているのか、横になっていた時はあんなにループ状態であったことが嘘のようだ。
今ならすっと結論が出てくる。
あの男の事が好きか?
YES。
あんな対応をされたというのに今でははっきりと言い切れる。
仕方がないことではないか。
自分はあの男が好きで、あの男は妻のことを愛していて、そしてその妻は夫を溺愛している。

「敵いっこないよ」

マチコは苦笑した。
しかし、その表情は達観したようなものではない。
寧ろ幾ばくかの楽しさを含んでいるようなものも浮かんでいる。
彼女はベッドマットに挟んでいた封筒を取り出す。
アカネには処分したと言ったが、本当は保存していたのだ。
マチコは便箋を取り出し最初から読み始める。
もう何十度目だろうか。
これまでに読んだどの本よりもその手紙には感動していた。
明日はこれを書いた人に会えるだろうか。



男は困り果てていた。
妻からは非礼を詫びた手紙だとしか聞いてなかったのだ。
それが今朝になってあの娘が来るはずだからと妻から聞き、驚愕してしまったのである。
南雲マチコは二度とこの屋敷には来ないと思い込んでいた彼はどの面を下げてと妻に嘆いてみせたが後の祭りであった。
それでもまさか誘っても来るまいと思っていたのだが、約束したという時間の10分前にインターホンの音がした。
蔵の中にいた男は、ほらごらんなさいという満足気な妻をひと睨みしてから門に向ったのだ。
そして今、彼は南雲マチコの面前にいる。
どんな顔をするべきかわからないままにそこに立ったわけだが、相手がどういう行動に出てくるかも皆目見当がつかない。
つい数日前にあろうことか彼の目の前で素っ裸になった娘なのだ。
しかもその行為を彼が拒絶し、失意のままに姿を消しているのである。
彼女のプライドなどといったものはズタズタになっている筈だ。
まさかいきなり刺されるようなことはあるまいとは思うものの、彼は恐ろしかった。
大の男の癖にマチコのことが怖かったのである。
ところがそのマチコは邪気のない顔で普通に挨拶をしてきたのだ。
男はしどろもどろに言葉を返し、戸惑いを隠せない顔となった。

「今日はこんなものを持ってきたんですよ」

マチコはバックの中からDATプレーヤーを取り出した。

「それはテープレコーダーかね?」

「いやだ。音楽をやっているのに知らないんですか?」

ほんの数ヶ月前までは自分も知らなかったことは棚上げして、彼女は男をからかった。
その言動も男を惑わす。
確かに馴れ馴れしさはでてきていたのだが、ここまで露骨にからかわれたことはない。
さてはこれが意趣返しなのかと思ったが、どうもそんな雰囲気が感じられないのだ。
どちらかというと、妻の言動に似ている。
夫をからかって楽しんでいる時の彼女に。

「これで録音させてもらおうかなって」

「録音?何を」

「先生の歌…じゃなくて、チェロ。できたら、一緒に演奏しているのも」

マチコは目を輝かせて言う。

「何故だ?」

「記念です。たった一人で東京に行くんだし、寂しさを紛らすものが欲しいじゃないですか」

男は返す言葉がなかった。
反論する余地があるとすれば、恥ずかしいということくらいか。
オーケストラにいた時のことを考えれば録音などは些細なことではあるし、
しかもそれに比べればこんなおもちゃのような録音機材だ。
溜息混じりに男は頷く他なかったのである。

お別れパーティーといっても、ご馳走がずらりと並ぶわけではない。
それでも唐揚げやサラダなどといった食べ物が平机に置かれている。

「これ、先生が?それとも買ってきたんですか?」

「いや、家内が作った」

「そうなんだ」

マチコは合わせ鏡の方を向き、蔵を見つめて一礼した。
これをお詫びとは思わなかった。
素直に餞の一環だと彼女は受け取り、男と向かい合わせに食事したのである。
そして食後に演奏をした。
まず二人で『The Summer Knows』を奏でる。
一度も間違わずに鍵盤を叩くことができ、マチコは胸を撫で下ろした。
男も神妙な顔つきで頷いている。
すると、小さく拍手が聞こえてきた。
はっとして合わせ鏡を見るが、蔵の方には何の変化も見られない。
しかし、どうもそこから聞こえてきているような気がする。

「家内だ」

男が呟いた。
ああ、そうなんだとマチコは椅子から立ち鏡に向かって頭を下げる。
そして、彼女は男を振り返った。
その表情が男には眩しい。
若い。こんな時期が自分にもあったのだろうか。
若きマチコはDATプレーヤーを手にした。

「すぐ、でいいですか?」

「ああ、私はいつでもいい」

「じゃ、お願いします」

「何を弾く?」

「もちろん、『The Summer Knows』です」

「それだけでいいのか?」

マチコは一瞬迷ったが、最初から決めていた通りにすることにした。
元より彼女は1曲だけにするつもりだったのだ。
割り切ってはいるものの、やはり長時間ここにいることができなかった。
この場所でついこの間に失恋をしたばかりなのだから、予想通りに胸の奥が痛い。
しかし、そのことに彼女は幾ばくかの誇りも持つことができた。
真実を知った今でも、自分はこの男のことを好きだという事実に。

男は弓を構えた。
その時の彼は何を思っていたのだろうか。
少なくともマチコがこれまでに聞いてきた男の演奏の中で一番心を打ったことだけは確かだ。
だが、蔵からの拍手はなかった。
拍手をしたのはマチコだけだったのである。
演奏が終わると、マチコは帰り支度を始めた。
その姿を見て、男はほっとしたような寂しいような複雑な思いにとらわれる。
彼も自分がマチコに好意を持っていることだけは自覚しているのだ。
しかし、彼の性格上誰が認めようが彼女に手を出すことは決してない。
妻が勧め、彼女が身を投げ出しても、必死に堪えた男なのだ。
だが…。
男はふと考えたこともある。
もし、妻妾を持つことに社会的な制約がなければどうだ?
愛人を複数持つことが違法でもなく、同義的にも許される世界なら?
そう仮定した時、彼はすぐに失笑したのだ。
想像した瞬間に結果が出た。
不可能だ。
二人を均等に愛することなどできるわけがないし、そもそも1/2の愛情というものがわからない。
さらに愛情をその都度切り替えるなどという芸当など想像の域を超えている。
つまり、こうだ。
彼という男は一人の女しか愛せないようにできているのだ、と。
しかし、そこで彼は迷ってしまった。
仮に…。
そんな不吉な仮定をしたのは、彼が妻の寿命について何一つ気がついていないという証明になるだろう。
仮に、もし妻がいなくなれば、その場所にあの娘を据えることができるか否か。
この答えはすぐに出てこなかった。
いや、答が見つからなかったのだ。
何よりも妻がいなくなった世界というものがわからない。
あの、劇場の通用口に彼女が立っていた時より前の時間。
憧れていた叔母が死んでから、そして妻と出会うまでの間。
一体自分は何をしていたのか。
思い出すことはできる。
だが、その記憶は途切れ途切れで、また鮮明ではない。
モノクロームで漠然とした時間の中にあった自分の世界を変えたのはマチコだ。
今は蔵から出ようとしない、そのマチコなのだ。
そんな彼女のいない世界が彼には見つからない。
だから、答が出なかったのである。
問題自体がわからないということに男は気がつき、そしてそのことを考えることをやめた。
そんな時はやってくることなどずっと先のことだから。
その問題がもう目の前に迫ってきていることを二人のマチコは知っている。

時間にすれば1時間と少ししかなかった。
短いお別れパーティーだったが、マチコは満足していた。
東京でも彼の演奏を聴くことができる。
彼女はDATプレーヤーを再生してみて、ヘッドホンでちゃんと録音できていたか確かめてみた。
その時、男の表情が微妙に変化したので、マチコは聴いてみるかと声をかけた。
男は戸惑いながらも興味があったのだろう、インナーホンを耳に当てる。
自分の演奏を聴いた感想は、「酷い」の一言だけだった。
そのしかめっ面があまりに面白く、マチコはその年頃の娘らしくけらけらと笑ってしまった。
あけっぴろげな彼女の笑い声は男にとって新鮮なものだ。
昔、病床に伏せる前の叔母がこんな笑い方をしていたような記憶があったが、確信は持てない。
もしかするとこの娘が記憶を塗り替えているのかもしれないと男は思った。
大切な記憶なのだが、何故かそれが不快ではなかった。
おそらく明るい方向へのイメージの変化だからそう思うことがないのだろうと結論づける。
今後、この娘の事を思い出として記憶していくのだから、と彼は甘く考えていた。
女たちはこの問題を簡単に終わらせてはいなかったのである。

南雲マチコは最後に挨拶をしていきたいと言い出した。
男への挨拶は既に済ませているので、その相手は蔵の中の妻以外にはいない。
当然、男は慌てて、そして蔵へと走っていった。
もちろん妻は拒否するものと思っていたのだが、驚いたことに扉の前まで連れて来てと言うのだ。
南雲マチコは彼女が絶対に挨拶を受けてくれるものと確信していたので、怪訝な顔の男を促して庭を蔵へと歩む。
マチコがこんなに蔵へ近づいたのはこれが初めてだった。
つい先日、庭の真ん中で男に縋りついたのが一番近寄った距離だったのだがそれでも10mは離れていた。
男がまず扉のところへ行き、そこで中の女と何か話している。
5mほど離れているマチコには会話の内容がわからない。
戸惑った表情の男はマチコのところまで歩いてくるとこのように言うのだった。

「家内は私に席を外せと言うのだ。片付けでもしてろと」

「大丈夫ですよ、私。ひとりで」

マチコはにっこりと微笑んだ。
それは強がりではなく、本心からの言葉だった。
蔵の中にいる女性のことは少しも怖くはない。
もし中に引きずり込まれるなどということがあるのならばそれはそれで驚くだろうが、
気が狂っているという人間そのものについてはまったく気にならない。
寧ろ顔を見てみたいと思うくらいなのだ。
それは好奇心といった類のものではなく、あの手紙を読んだためである。
男は後ろ髪を引かれるような感じで屋敷へ去っていく。
マチコは彼が母屋の中に消えたことを確認してから、扉へ近づいていった。
あと1mくらいまで歩み寄った時、中から声がした。

「そこまで。中には入らないで」

彼女の声は初めて聞く。
暗闇から聞こえてくるのは落ち着いた声音で、あの丸文字とは少しイメージが合わない様な気がした。

「はい、わかりました」

「はじめまして、マチコさん」

彼女の名前を口にした時、中の女は少し笑ったような気がする。

「こちらこそ、挨拶もしないで何度も押しかけてごめんなさい。あ、はじめまして、えっと、マチコさん」

マチコの方も少し笑ってしまった。
どうも自分と同じ名前を敬称つきで呼ぶのは変な感じがする。
お互いに似たような感情を抱いた所為か、その後の会話はスムーズに進んだ。
とはいえ、それは世間話とは縁遠いものだった。
何しろ、話題は蔵の中の女の死に関することなのだから。

「はっきりと書かれてませんでしたが、いつなんですか?」

「わからないの。でも、そうね、来年の正月にはたぶんわたくしはここにはいない」

蔵の中のマチコはすっぱりと言い切った。
蔵の外のマチコは唇を噛みしめる。
そして、震えそうな声になってしまいそうな自分を叱咤激励し、明るい調子を何とか保たせるのだった。

「それは困ったなぁ」

「まあ、困るの?もっと早いかもしれないわよ。夏を越せるかしら?」

マチコは蔵の中を見ていることができない。
怖いのではなく、中にいる女性に同情してしまいそうになってしまうからだ。
そんなことをしては失礼だ。
彼女はすべてのカードを曝け出した上で、自分に勝負を挑んできているのだから。
そしてその勝負に胸を張って立ち向かおうと決意してマチコはここにやってきたのだ。
南雲マチコは扉のすぐ傍の壁に背中を預けた。

「どれくらいがご希望?がんばってみるから」

「ええ、できれば、あと3年」

「それは無理」

「でも新入社員が1年も経たずに辞めるのはあまりに無責任じゃないですか?」

「大丈夫。あの人には後を追わせないから。わたくし、保証しましてよ」

「私を見くびらないで下さい」

マチコは明るく言う。

「奥さんを失って失意のどん底にいる、そんなあの人を誘惑しろと?勘弁してください」

「まあ、では?」

「私、あなたがいらっしゃる間にもう一度勝負したいんです」

「勝てなくってよ」

「でしょうね」

マチコは即座に応じてから、ぷっと吹き出した。
そして蔵の中でもくすくすと笑い声が聞こえる。

「でもあなたの気持ちはわかります。できるだけがんばってみることにしますね」

「よろしくお願いします」

マチコは見えないことを承知でぺこりと頭を下げた。

「お手紙、貰えるかしら?」

「はい。書きます。どんな内容になるかわかりませんけど」

「私もお返事していいかしら?」

「もちろん。で、やっぱり丸文字ですか?」

「あ…」

マチコは冬の空を見上げて、にやりと笑った。
男の愛情が目的の勝負では只今惨敗中だが、字については勝てると確信している。

「酷い方。でも、可愛い字の方がよくはないかしら?」

「歳相応って言葉がありますよね」

「まあ、あなたってそういう性格なの?わたくし、あの人が心配になってきました」

「だったら少しでも長生きするんですね」

「まったく…。死に行く人間に対して、温かみの欠片もないの?本当に酷い方ね」

温かみなんて欲しくないでしょう?
マチコは心の中で彼女に告げた。
かえってそんな言葉をかけられる方が辛いに違いない。
あの手紙を読んで彼女はそんな風に判断していた。
そして今、こうして直接言葉をかわし、マチコは自分の判断に自信を持ったのである。
もちろん、蔵の中の女性は虚勢も張っているだろう。
自分のような若輩者に弱みを見せたくはないはずだから。
死ぬのが怖くないわけがない。

「私、明日松代を出るんです」

マチコは急に話を変えた。

「その時、髪を切って行こうかなって」

「失恋の記念?」

「はい。その通り」

明るく言い、マチコは笑った。

「そういうものなんでしょう?」

「さあ?わたくしは伸ばしたことがないからわからないわ」

「自分で切ってるんですか?」

「ええ。だからバサバサ頭なの。検死のお医者様に笑われちゃう」

「検死…」

「ええ。解剖されちゃうのよ、わたくし」

「えっ!」

「病院で死んだらそういうことはないんですけどね。自宅で死んだらそうなのよ」

「いいんですか?それで」

ええ、と蔵の中の女はすかさず返してくる。

「だって、死んじゃってるんだもの。痛いも何もないわ」

「でも…、あ、ほら、あの人は?」

「そんなこと考えもしていないでしょうね。
どちらかというと、自分が死んだ後にわたくしをどうするかって考える方が先かしら?」

「そうですね…。ええ、きっとそうです」

「立派な遺言状をつくっておかないと。どうせあの人は見ていられないほど慌てふためくでしょうから」

「悲しむから、じゃないんですか?」

一拍の沈黙を挟んで、女の溜息が聞こえた。
マチコは本音をわざと言わなかったことに気がつく。

「すみません」

「いいのよ。わたくし、会話苦手だから。あなたはお喋りな方?」

「うぅ〜ん、スイッチが入ったら、でしょうか?家ではあまり喋りません」

「そう。わたくしとは、どう?」

どうだろうか、とマチコは考えてみた。
感覚的にはどうも喋りやすい相手のように感じる。
世代が違うにもかかわらずに。

「ひどいわねぇ。わたくし、まだ若い…つもりなんですのに」

若いと言い切るには相手のマチコが若すぎた。
その言い換え方があまりに悔しそうなのでマチコは笑ってしまった。

「もっと早く…」

マチコはふと呟いた。

そうねと、蔵の中の女も返す。

「今日で最後だなんて本当に残念」

「だから、帰ってくるまで死なないでいて下さい」

マチコはきっぱりと言った。

「なるべく」

「なるべくじゃなくて、きっと。
色々とお話をしたいんです、あなたと」

「まあ、気違いと?」

蔵の中の女はころころと笑った。
自分で気違いと言われてしまうと、マチコは苦笑することしかできない。
確かに世間での認識もそうである上に、本人にも自覚がある。

「そうです。あの人を愛しすぎて、それで気が狂った人と」

マチコの言葉をどんな顔で聞いているのだろうか。
暗闇の中からは返事は聞こえない。

「この前の私だって、周りから見れば狂っているとしか見えなかったんじゃないですか?
真冬に裸になって男の人に追いすがって…」

「いいえ、綺麗だった」

その返事を聞いて、マチコは頬を真っ赤に染めた。
そうだった。
世界中でただ一人、蔵の中の女性だけがマチコの狂態を見ていたのだ。

「き、綺麗だなんて…」

「綺麗だったわ。悲しいくらいに。まるで映画みたいだった」

「ありがとう…って言えばいいんでしょうか?こういう場合は」

「とんでもない。そのおかげで寝込んだんでしょう?」

「そうでした」

二人は笑った。

「それじゃ、そろそろ私は…」

「はい。いってらっしゃい。わたくし、待ってますから」

「ええ、待っていてくださいね。勝負…もそうだけど、やっぱりお話をしたい」

「わかりました。指きりでもする?」

「はい!是非!」

すると暗闇からぬっと真っ白い腕だけが出てきた。
身体や顔はやはり見せないつもりのようだ。

「次に来た時は、中に入る?」

「ええ、おじゃまします」

マチコはにやりと笑うと、突き出された女の細い小指に己の指を絡める。

「指きりげんまん。また会う日まで」

「約束。わたくし、がんばりますから」

一人の男を愛した、二人の女の小指が離れる。
マチコはそれから一度も振り返らなかった。
まっすぐに庭を突っ切って、門へと歩いていく。
その後姿を見送りながら、蔵の中のマチコは心に誓った。
それがいつかはわからないが、何としても生きのびてみせよう、と。





第八章 了






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