雪の降る日は空を飛べるかも

こめどころ










「出たわねホモ男!」

目の前にいたのは、刻みキャベツを買おうと手を伸ばしている3年生の渚カヲルだった。
買い物かごにはチルドのグラタンと崎陽軒と書かれた赤い箱が入っていた。
寂しいもの食べてるわね。男の一人暮らしなどこんなものか。
5番目のエヴァンゲリオンパイロット適格者。使徒戦役の最後の局面で現れ消え、終戦後にひょっこりまた現れた。
いわば謎の男でシンジと妙に仲がいい。同じように重傷を負って発見されたレイやわたしにとっては同じ分類だ。
最後の局面では信じられないほどの大活躍をしたらしい。どういう事なのかさっぱり分からないけどそうらしい。
(別な夢を見た気もするけど、誰の記憶も記録もMAGIのデータまで失われているのなら諦めるしかない。)
らしいというのはヘタレの私は肝心のところで精神崩壊して病院でへたばってたからよ。
そのあと一度復活し複数の量産EVAを一旦全滅させながら、返り討ちにあって病院に逆戻り。実は死体として回収されたらしい。
ずたずたに切り刻まれ本来物理的に生きているわけがないんだからレイたちと同じ分類なのよね。なんで生きてたんだろうか。
夢のようなおぼろげな記憶は結局今でもよく思い出せないままだったけれど。惜しいなあと思う。
結局元気で残ったのはシンジの奴だけ、なぜそういう巡りあわせになったのやら。別にシンジも褒められたわけじゃなかったけど。
まぁ、生き延びてたってだけじゃねぇ、褒めようもないわよね。
結局わたしたちはボロボロ同士で病院で出会い、ため息と後悔と悔しさを共有し、まぁ何となく相手を身近に知った。
別に友人てわけじゃないわよっ。1年上級だから無視はしないってだけ。誰の目もない時はシンジ以下の扱いよッ勿論。

問題は見舞いに来るシンジが必ずカヲルのところにも寄って行っていちゃいちゃ話したりしてるのが気に食わない。
シンジもシンジよっ。カヲル相手だと楽しそうににこにこしてる。
わたしの前ではいつもおどおどしてて迎合ばかりされても全然嬉しくないっ!レイですらカヲルとなら話してるしっ。
シンジもたらし込まれてカヲルくんカヲルくんって。もしかしてカヲルってホ、ホモじゃないでしょうねっ。
何よ、シンジくんシンジくんっていちゃついていやらしいっ!平気で君が好きだとか一緒にいたいとか言うし。
こっちに来た頃は、お風呂一緒に入って泊って行ったこともあるらしい。そんなにシンジって寂しがりだっけ?
まるで餌をもっらった捨て犬がどこまでも付いてくるのと一緒じゃない。捨て犬は結局まとわりつきすぎて蹴り飛ばされるのよ。
そんなことされないうちにさっさと戻ってくりゃいいのに、そういうとこが馬鹿シンジって事。。
わたしがいないのをいいことにシンジの奴、カヲルと凄く仲良かったらしい。ふたりでゾッコン同士?
アー気持ち悪いっ、大っ嫌い!

まぁ、そういう行きがかりというか因縁があるわけよ。
それでこっちに奴が気がついたのと同時に言い放っていたわけよ。
「出たわねホモ男!」って。
ここは何時もはあまり来ない商店街を抜けたところにあるリニア駅前の大型スーパーの食料品売り場。
他にも色々売っているけど少し高いらしい。といっても僅かな額だけどシンジは倹約家だから。
シンジって商店街や、その中の小さなスーパーの方が好きみたいなのよね。こっちにはめったに来ない。
だから私もこっちへは精々特に張り切る必要のない日用のブラウスとかシャツとか靴下とか買うだけで。
おしゃれの為の物は駅向こうの百貨店に行く。どういうものを買うかは秘密だ。
ああ、カヲルの奴の話しだったわね。

「いきなりそれはないだろう?たまたま行き会っただけじゃないか。」

周囲のお客が私たちの間を避けて通り過ぎていく。交通妨害よねって顔で避けられる。

「商店街やスーパーであんたが買い物してるってこと自体が不自然きまわりないのよっ! 」

「僕だって生きてる人間だよ。それより君が一人でいそいそ買い物してるってこと自体も不思議に思えるけどね。
シンジくん風邪でも引いたかい。」

向こうも言われっぱなしではいない。周囲から邪魔にされ、近くまで寄って向かい合った。

「な、何がいそいそだって言うのよ。普段通りの買い物でしょっ。」

「正月のおせちも尽きたし、味に飽きたからってところかい。」

「そうよ、まだおせちが残ってるからって言って、馬鹿シンジのやつ買い物に行こうとしないから。」

「で、君が自分で買い物してくれば料理はしてくれるって言われたとか?」

「そうよ!い、いえ、そのくらい自分でできるわよっ!」

シンジが年末におせちを作り始めてからちょいちょいつまみ食いしすぎて夕食がとれなくなったことがあった。
それが27日ごろから続いて今日はは2日。まあ普通さすがに飽きるよね、って悪いのは私かぁ。
悔しいから内緒にしよう。

「わかったよ。なんでいちいちそんなに大声を張りあげるかな。」

おせちの基本的にべったり甘い味にも飽きてきた。
お餅ものりで巻いた磯辺とか、黄な粉とか、あんこ、茹で餅砂糖、お雑煮とか バリエーションは豊かだけど所詮餅は餅だもの。
ジャムやピーナッツバターで食べるわけにはいかない。ソースやケチャップっていうのもねえ。
甘味系と言えば餡子と砂糖主体の練り切りが主で、クリーム、バター系、ジャムやスグリの味がないのも寂しい。
おせちは味が濃すぎるし、もともとちょっと引くような外道な食べ物もあるし。基本的には嫌いじゃないんだけどさ。

いい加減しゃぶしゃぶとかステーキ、肉やパンとか食べたくなったのよ。サラダとかポテトも食べたい。パンプキンスープとかも。
悔しいが結局自分で買い出しに来た。シンジをアゴでこき使ってた頃とは大違いだ。なんでこうなっちゃったんだろ。
とにかく出会ったカヲルをうまいことお供にして買い物を済ますことができた。カート押しってちょっとカッコ悪いでしょ?
さて、袋に詰めたはいいけどこれを持って帰るのが大変よね。色々買ってたらだいぶ大荷物になっている。

「そうだ、ねぇ、あんたって一人暮らしなんでしょ。」

「一人暮らしっていえば、まあそうだね。」

「じゃあさ、今夜夕食うちに食べにこない、ご馳走してあげるっ。」

「…なんでまた急に。本当に唐突な人だな、君は。」

こんなカヲルの表情は見たことがない。そんなにびっくりした?
その時は荷物持ちが欲しかったし、兼単なる気まぐれで家にいるシンジもからかってやろうと思っただけの事だった。

「ほらさっさと上がって。」

結局カヲルに荷物を持たせ、意気揚々と家に戻ってきた。大きいけど軽いほとんどお菓子の袋だけで済んだ。
これだってかさばって歩きにくいから結構大変。気を使ったのよ。シンジなら持たせてるとこね。
ドアロックを解除。圧搾空気がシュッと音を立てる。
その後重い音を立てて潜水艦の防水隔壁か銀行の金庫の様な防犯ドアが開く。

「いいのかい?ここは君ひとりだけで住んでるわけじゃないんだろ。」

「いいのよっ。馬鹿シンジは数に入らないし、ミサトはいつも遅くならないと帰ってこないし。」

「え?まだ3日なのに仕事に出てるのかい?」

「グローバルスタンダードでは一日しか休みじゃないの。ウオール街だって2日からやってるでしょ。」

「まぁ確かに特別国際公務員だからね。」

「ぶーぶー言ってはいたけど、その分給料もいいんだから我慢すべきよ。どこで30そこそこの女にあれだけの給料くれるっての!
私たちは未成年だからっておこずかい程度しかもらえないんだから。差別だと思わない?」

ミサトに生活費を下ろしておいてとか頼まれるので、私もシンジもミサトがどのくらいサラリーをもらっているか知っている。
あの女の生活態度でこの収入だ。大企業の統括部長なみの給与。まあ確かにろくに休みはないけどね。
ミサトの肩書は戦術作戦部作戦局第一課課長。ただの課長よ?今は3尉に昇格して戦術作戦部長に出世し作戦局第1課も直轄してるけど。
出世させてやったのはだれかって考えたら私たちチルドレンの扱い何よっ。ミサトの飲み代と比べてほしいわ。
あれで冬月司令、マッドリツコに次ぐネルフ本部のナンバー3なんだっていうんだからどうかしてるわよ。。
世の中これで動くんだからネルフって本当に人材が枯渇してるのね。
でもこれを知ったら全ての新聞や雑誌はパニック起こして騒ぐだろう。ネルフが出動って聞いただけでもうこの世の終わりだって。
世の中の人々、特にお父さんたちはゼネストを企むだろうし、戦略自衛隊の将官たちはクーデターを起こすかも。

「拘束時間に対してのペイとしては薄給だと僕も思うよ。24時間拘束の日もあるんだしね。
まして口座の数字だけが膨れて行っても、僕らには意味ないから。」

「そう思うでしょっ。なのに私たちは18才にならないと口座のお金は上司の管理下になんて酷過ぎるわよ。
高校出るまでなんて、いつの間にかミサトの飲み代に消えてたり使徒がきてあたしたちが死んじゃったりしたらどうすんのよ!
月のおこずかい2万円であとは永遠にタダ働きってことになんのよっ。18までに戦死したらどうなんのよ。
この年で子供がいるわけもないから相続っていってもわたしを売り飛ばした父親のところに行くだけでしょ?
国庫に収納されたって銅像が立つわけでもないって考えたらどっかの孤児院にでも寄付するって遺言しといたほうがましよ。
おこずかいはせめて5万円くらい寄越せっての。フォーナインシステム並みに死亡予見率高いんだからさ。」

あきれたことに戦闘があった日だって特殊勤務手当がエヴァ搭乗1回当たり3万円付くだけなんだよ。

「5万円かぁ、5万円あったらいろんなことができるなあ。素敵だね。君は服が買える、僕は楽譜や音源いい紅茶の葉が欲しいな。」

「そうよ!我慢してれば後でいいことがありますよなんて、封建時代の間抜けな考え方よね!
5万円手当が出たって実際にはミサトが屋台ラーメンに連れてってくれて終わり程度なんだよ。」

「僕なんか、そんな経験すらないよ。」

5万円、なんてつつましやかな要望だろう。しかーしここでシンジだったら、食費と居住費学費は別にもらってるんだからとか、
高校生に家族持ちのサラリーマンと同じようなお金はいらないとか、 アスカは無駄遣いしすぎなんだよとか
くたびれたおじさんのようなことを言うだろう。服飾費って言ってもひと山幾らのパンツやブラとか買ったら終わり程度なのよ。
わたしはレイと違うんだからねっ。3−4枚を使い回せば十分なんて到底思えない。制服だってクリーニングに頻回に出すし。
ジーンズ一本がいくらすると思ってんのよっ。 だから神に祈りなさいってそのうち言いだしそうだわっ。
冬制服半期で1回しかクリーニングに出さないなんて、トウジと変わんないわっ。不潔っ。
だけれどカヲルはたいていの場合私に考えが近かった。
若い女性には身だしなみとしても服飾費とか化粧品代とかカット代とか、色々要るんだということがガキには わからないのよ。
せめてルージュとコロンを買うくらい…だ、誰に見せるってわけじゃないわよ。贅沢だって随分我慢してるわよ。
最低限の身だしなみとしてドイツとか西欧の文明国の普通の女の子が使ってる程度はほしいって事よ。

「あんたわかってんじゃない!」

カヲルの意見はわが意を得たりって感じだった。背伸びしてポンと肩を叩いた。勤労学生に権利と報酬を!

「じゃあ、上がって上がっておいしいもん作るからね。」

結構な長話を玄関先で立たせたままでしてしまった。
でも、シンジと違ってこれだけの荷物を持っていてまるで平気なのね。あいつはすぐに重いとか自分でも持ってよとか
ヘタレタ事いうもんね。筋肉の量が違うのかしら。やっぱり根性が違うのか。

「おじゃまするよ。」

「あれ、アスカやっと帰って来たんだ。」

奥の部屋からシンジが、ぼさぼさの頭でくしゃくしゃパジャマのまま出てきた。パジャマがの裾の半分が
ズボンから出てるし、シャツの尻尾まで出てるわよ。なんなのそれ。
こいつベッドから20時間ぶりくらいで出てきたわね。どうでもいいけど何で枕なんかぶら下げてんのよ。

「シンジくん、おはよう。明けましておめでとう。」

おはようって、もう夕方5時だけどね。
年末以来だいぶこき使いすぎたって気もするけどそのくらい何だってのよ。男でしょ。
大掃除をしたり(ちゃんと邪魔にならない様どいてたし)買出しに出たり(お菓子選んであげたじゃない)
大晦日や初詣に可愛い同居人と付き合って出かけるなんてあったり前の事じゃない。(この幸せもんっ!)

「え、カヲルくん? ど、どうして?」

「商店街で見つけて私が連れて来たのよ!どうでもいいけどそのかっこ何?
さっさと着替えてきなさいよ、恥ずかしい奴〜」

「う、うんっ!」

さすがに恥ずかしかったのか飛んで奥に駆け戻って行った。寝起きの幼稚園児みたいなカッコじゃあね。
シンジってわたしみたいに長年近くにいた者でなければいいところなんてホント何にもいいとこないように見えちゃう子よね。
さしずめ出来が悪いが可愛い弟といった役どころ。
エヴァがなければ誰も省みてくれないって昔自分で喚いてたのは本当のとこよね。
要領悪いし、地味だし根暗だし、料理が趣味の引きこもりに近い。せめて前みたいに3馬鹿組んでられるような仲間がいればねえ。
高校みんな別れちゃったのがあいつの不幸よね。前のクラスメートも田舎に疎開したまま、軍との戦いで親が亡くなってそのまま
地方の親戚や施設に行ったきりの人も多いもんね。
転勤族の新ネルフメンバーだけじゃ、エヴァ効果もあまり意味はないもんなぁ。
そういう意味じゃカヲルだって貴重かもしれない。何て言っても現時点でのあいつの理解者はわたしとミサトくらいだもんね。

「シンジくんは寝正月決め込んでたわけかい?」

「松飾りとか大晦日、元旦と昨日は早くから起きていろいろ料理とか作ってたけどね。
おせち料理とか日本料理じゃ 手伝いようもないし。」

そう、基本的な味付けが全然違うんだもの。味醂や昆布やにぼしなんてどうやって使い分けるのやら。

「さすがに2日間3食おせちが続くと飽きちゃって。朝はともかく、お昼はインスタントラーメン自分で作って食べたわよ。」

「ああ、それで買い物に。」

「まあね。肉とかサラダが食べたくなっちゃってさ。でも一般の自営店はまだ開いてないのよ。
それでこんなとこまで買いに出てきたってこと。」

「おせちかあ。僕はまだ食べたことないな。」

「ええ?じゃあ正月に何食べてたのよ。社員食堂だって閉じてるんでしょ?光合成でもしてたっての?
ああ、だったらここにあるのいっぱい食べなさいよ。たぶん残っちゃうと思うのよね。
ミサトがほとんど食べてないから。肉やサラダもだすから その辺は加減しなさいよ。」

「うん、わかったよ。意外と親切なんだね君は。」

「意外とってことはないでしょ。でもまああんたもずっと一人きりの新年っていうのもさみしいでしょ。」

そう言って台所に行き、買ってきた肉やサラダなんかの食材を広げた。
別にお重を運び、小皿と箸(年賀用のきれいな袋に入った割り箸だ。)を用意。
冷えた雑煮に火をいれ 餅を一つ焼いて中にいれ三つ葉を散らしてカヲルの前に運んだ。

「ほら、食べてなさいよ。お重から直接取っていいからね。」

「雑煮っていろいろ入ってるものなんだね。」

「うーん、私もよく知らないけど地方、家庭によってずいぶん違うみたいよ。シンジに言わせると
あいつのお母さんは京都だから、丸いおもちなんだって。お父さん、つまり司令の実家では大根とにんじんの千切りと
鳥肉をいれて三つ葉を散らすらしいわ。鳥の代わりにハモ板と焼き餅だけ入れる日もあるみたい。」

「へえ。」

「ミサトは生いくらや白子を用意して、四角いお餅と野菜とかこんにゃく、シャケや八ツ頭なんかに注いで食べるんだって。
なんかミサトの田舎の川には鮭がいっぱい遡上してくるらしいわよ。蟹とかブリもいっぱい獲れるんですって。」

「きみだったら何を入れてみたい?」

「そうね、ポテトと焼いたチキンなんかどうかな。
トマトスープ仕立てにしてパセリとクレソンでも入れるか。でもお餅には合わないか。ああ、揚げたらいいかも。」

想像して思わず笑ってしまった。そんな奇妙な雑煮をカヲルやシンジは食べるだろうか。まぁミサトなら何でも食べるだろう。
タバスコをいっぱい振りかけるかも。
プーッとカヲルが噴き出したので、私も声をあげて笑ってしまった。

「何二人して笑い転げてるんだよ。」

やっと出てきたシンジが怪訝な顔で尋ね、それを見て私とカヲルはまた大笑いしちゃったのだった。

「なんだよカヲルくんまで。どこか僕の格好おかしい?」

「そ、そうじゃなくて。」

「たしかにまだ頭の毛がひと房逆立ってるけどね。惣流さん風お雑煮の話をしてたのさ。」

「アスカ風のお雑煮?」

「そう、トマト煮風ポテトクレソン汁。タバスコ入り。」

シンジは顔中クエスチョンマークだらけみたいな表情をしてカヲルの横に腰かけ、あらあら早速じゃれあい出す訳?

「ところで肉と野菜は買って来たの?」

「ああ、いい、いい。自分で料理するからノンビリ2人で遊んでいなさい。」

鷹揚に言ったのはさっき弟シンジを連想したイメージが残っていたせいかしら。

「ええー? アスカ料理なんてできるの?」

「失っつ礼しちゃうわね〜。
あんたほどじゃないけど簡単な料理位作れなくて軍人が務まるわけないでしょ。
長期野戦のときどうすんのよ。レーションだけってわけにはいかないでしょ。」

「だって包丁もうまく使えないのに。」

「和包丁はね、刃が逆なんで使いにくいのよ。でもこれなら大丈夫。」

そう言って、バッグから大きなサバイバルナイフを取り出してじゃがいもの皮をくるくると剥いて見せた。
キャベツを千切りにし、マヨネーズをオリーブ油でやや薄めに伸ばし大根を桂剥きにしてから千切りにした。
オニオンを薄切りにして水で晒して蟹缶のフレーク部分を指で混ぜ、伸ばしたマヨネーズと揉み込む。
うん、オリーブ油のいい香りが引き立つ。色添えにミズナをさっと湯がいて細かく膝み、ゆで卵を茶越しで削って振った。
その上に蟹足を奇麗に並べてっと。ほろ苦いミズナはいいけどミツバは合いそうもないわね。
平行してじゃいもをスティックに刻んだやつを揚げてポテトスティックを添え塩を振った。
刻み込んだパセリを振って完成!ふむ、なかなか奇麗じゃない? あとは買ってきた冷えたパンプキンスープを器にっと。

「あ、鮮やか…ちゃんとできるんならどうしていつも僕にやらせるのさ。」

「向いてる向いてないってこともあるけど、やってもらえるならその方が楽だし、第一あんたの方がレパートリーが広いでしょ。」

「なんだよ、ちゃっかりしてるんだから。」

「そんなに膨れないの。それになんて言ってもシンジ、あなたの料理の方がおいしいんだから。ね? あたしのは緊急用だもの。」

それだけでシンジは照れて真っ赤になった。ホーント、男の子って単純よね。これでまたしばらくはシンジに任せておけるわ。

「このお雑煮もアスカ君が作ってくれたんだよ。」

「へえー? あ、おいしいや。出汁がうまく出てるよ。」

ちょっと味見をして、シンジは感心したみたいに私を見た。

「僕にも作ってよ。とってもおいしいから。ちょっと出汁を変えたの?」

「もう少し鰹節をたっぷり入れて別にとったのを加えたの。鶏肉も皮を取らないで入れた方がいい出汁が出たわ。
あとは薄くなった分のお醤油を足して細かく刻んだ三つ葉も入れたわ。
刃物使わないで千切ったほうが香りがよくたつのよね。気に入ったんなら作ってあげるわよ。」

あれ、2人に褒められて私うまく乗せられた? 新じゃがとネギで本物のポタージュまで作ってしまった。
結局約束したつもり以上のものをシンジとカヲルにふるまってしまい、後片付けまでしてる。
こんなにサービスするつもりなかったんだけどな。
普段こき使ってるシンジはほくほくしてるし、カヲルに至っては感動の面持ちだった。
でもわたしがいつもこんな風にふるまってるんだなんて思われると心外だわ!えっと、なんで心外なんだっけ。
そうそう、女らしいなんて思われるといつでもそうしてもらえるもんだと男は期待するようになるからよ。
かといってそう振る舞わないと女らしくないとか言って不満を持つようになるからね。
男ってすぐ図に乗る馬鹿な生き物だからね。甘い顔は限定販売よ。

「さあ、サービスは終わり!シンジ、食後のお茶はあんたが入れるのよ。濃いめのアールグレー。アイスで。」

「はいはい。カヲルくんきみもそれでいいの。」

「いいねえ温かい部屋でおこたに入ってのアイスティー。アールグレーのアイスミルク、いいね。」

「僕は熱い玄米茶にしよう。」

「いつもながら渋い趣味ね。白髪が生えてきそうだわ。」

「好きなんだからしょうがないだろ。人の好みにけち付けるなよ。」

カヲルは私たちのやり取りをにこにこしながら眺めてる。変なやつ。
その次のお茶はあたしが入れた。ポットに熱湯を入れてその後それを捨てて一杯分お茶葉を入れて、あとは人数分の葉を入れる。
沸騰直前か、沸騰後冷水を一杯入れたものをポットに注ぐ。しばらく蒸らして各自のカップに茶越しを使って注ぐ。
思いの他いい香りを引き出せた。この紅茶も評判が良く、私はホクホク顔になった。

2017年1月は日曜日から始まった。正月明けは8日から。16年は12月30日まで勤務。
それでも有給を23日から25日まで祝・土日と続けて5日間取得した人が多く、2週間にわたって休暇をとった人も
結構な数に及んだようだ。2週間のバカンスとマスコミは囃し立て、年末休めない公務員や小売や流通業種の人達は
世をはかなんだがこれがもたらす利益で食っている以上仕方なかった。今は一日も大晦日もなく店を開けておく時代。
サービスが充実すれば割を食う人も出るが、年末年始は残業代が何時もより出るので独身者はこの時とばかりに稼ぎまくる人もいる。
何せ平日と比べれば3倍の時間給になるのだ。しかしネルフは違う。国際公務員は30日31日1日の3日だけが休み。
大晦日の年越しは祝うけれどクリスマスが主体で2日からは出勤が当たり前だったから。ロシア東欧くらいね正月休みは。
一般職員、下士官クラスまでは3が日はさすがに休む人が多いけれど、作戦課のみんなは皆尉官クラスだから出勤ね。
わたしは尉官といっても特務でいわばアルバイトだし、シンジともども「宿題がある」から出ないのだ。
その士官の代表みたいに、不幸を一身に背負った顔をしてミサトが帰って来たのは、食後のお茶の真っ最中だった。

「ただいま〜」

「おかえりなさいミサトさん。今日は早かったんですね。」

「当り前よ、世間はまだ3ヶ日なんですからね、少しは早く帰らせてもらわないと。と言っても、もう7時かあ。
昔は仕事はじめにはつまみと薦被り開けたりはしたもんだけど。升酒でキューっとね!」

どうやら期待に反して何も出なかったらしい。
ミサトはコートを脱ぎ棄てて冷え切った体を炬燵にもぐりこませて来た。

「シンちゃん、御屠蘇御屠蘇。」

「御屠蘇ったってうちの御屠蘇はあんたの趣味で殆ど日本酒そのものなんだからむやみと飲むんじゃないわよ。」

「んもう、アスカは煩いんだから。これを2,3杯飲んどくと悪酔いしないのよ。純金美少年最高じゃん。
あれ、なんでカヲル君がここにいるの?」

「惣流さんに招待されたんですよ。」

「そっかー、アスカあんたもいいとこあるじゃない。」

「偶然よ、偶然!」

「偶然っていえば私も一人連れて来たのよ。ほら、遠慮してないで部屋に上がりなさーい。」

「こんばんは。」

玄関で静かに待っていたらしい。部屋に入ってきたのは青銀色の髪を持つもう一人のパイロット。

「レ、レイッ!」

私は叫び、御屠蘇を注ごうとしてたシンジの手も固まった。

「あ、綾波が何でここに。」

私と同じようにシンジもレイの名を繰り返した。

「葛城さんに誘われて来たけれど、よかったの?」

「な、なに言ってるんだよ。もちろん大歓迎だよ。」

「レイまで来るなんて奇しくもパイロット全員大集合、ってことになってしまったね。」

「アスカ?ねえ、アスカ?」

「え、な、なによ。」

「どうしたの、ぼんやりしちゃって。」

「うるさいわね、あまりにも意外なキャストが出現したからよ。普段この子が誘われて出てきたことなんてなかったでしょ。」

「命令なら来るわ。」

俯いて、スカートの裾をソワソワ引っ張っている。何てわかりやすい。

「ミサト、この子に命令してついてこさせたの?」

「さぁーどうだったかしら。言ったような気がするようなしないような。」

「いいかげんなんだから。」

自分でもどうしてこだわるんだかよくわからない。来たものはしょうがないじゃないと思ってるんだけど。
来てる振り袖は信じられないけどリツコの遺品だって。一度も着たことはなかったらしいけど。」

「レイはおせち料理って食べたことないでしょ。残ってるなら出してあげて。」

「ああ、それは助かるかも。カヲルにも食べてもらってたのよ。シンジ!さっさと残りのお重出しなさい!」

「急にまた偉くなって。」

「なるほど、これがいつもの状態なんだね。」

自分の頭がカチンと音を立てたのが聞こえたように思う。

「なぁんですって、それ、どういう意味よ、シンジッ!」

「あっ、カヲルくん余計な事を…」

「怒りっぽくて我が儘だとかすぐ命令するとか言いふらしてるわけね。」

「なるほど、自分でもわかってはいるわけだ。」

カヲルがさらに言い加えたときは、シンジのほっぺたに鉄拳が食い込んでいた。

「どひゃあああっ。」

またおおげさに。最近のシンジは手加減した私のげんこつ程度はギャグネタにして平気でよけるじゃない。
だけど、カヲルのほかにもう一人がちゃちゃをいれた。2人すわりのカウチをひっくりかえして襖に。
レイがさっと回り込んで後ろからシンジを受け止めて抱きかかえたのよ。

「なにをするのよっ。」

「見たとおりよっ! 」

「碇くんを殴ったりして。殴るならカヲルのほうでしょっ。」

「レイ、ぼ、僕が殴られるのはいいのかい…」

「ちょ、ちょっと綾波…大丈夫だよ、これは殴られちゃったっていうギャグなんだ。」

「え?それってどういうこと? わからない。」

なにかはずしちゃった?と赤くなっておろおろしている。

「いいわよっ、もう。レイがそんなにむきになるくらいシンジを気に入ってたなんて知らなかった。
それに何、いつのまにカヲルとレイって名前で呼び合ってるの?」

わざと意地悪い感じで言ってやったら、意外なことにレイの頬が真っ赤に染まってしまった。
えええっ? ど、どういうことよっ。まさか2人とできてるっなんてこたぁないでしょうねっ。

「何3人でお見合い状態になってるのよ。」

腹の中で毒づいたけど無論口には出さないわよ。だってこの状態で何か言ったら皮肉屋のカヲルや 突っ込みの大好きなミサトに、

「あらあ、アスカもお年頃だからうらやましいのかしらぁ?」

とか、べったりと身体に手を回されて耳元で、

「ぼくがシンジ君の代わりに仲良くしてあげるよ。」

とか言われるに決まってるもの。(ぶるぶるっ!)
それにしたって、お重からおかずを小皿に取ってやってレイの質問にいろいろ答えてやってるシンジにはちょっと複雑な感情を抱く。

「これは数の子と言ってね、塩漬けを戻して細く削ったカツヲ節と醤油をちょっと書けて食べるんだよ。」

「同じ黄色だけどこれは金とんて言って栗の実だよ。甘いんだ。」

「同じ黄色だから同じものから作ったのかと思った。」

「こっちが黄色いのはクチナシの実で色を付けたんだ。この、のの字に見えるのが伊達巻きと昆布巻きだよ。
伊達巻きは甘いから女の子に人気があるんだ。」

「わたし、伊達巻き食べてみる。」

なによ、レイのやつカマトトぶっちゃってええええっ! とは思ったけどホントに知らないのよね。
ドイツ系の私ですらおせちの種を
腹立つけどマジなのわかってるから何も突っ込めない、やったら私が一方的に悪者にされちゃう。
あああむっかぁつくうっ! 紅白かまぼこや竹輪を10個くらい一度に小皿へ取ってやった。
口いっぱいに頬張ってかまぼこに八当たりだ。ガキかわたしは!
握ったゲンコツがぶるぶる震えて本気でシンジを殴りたがってる。

「ねえ、綾波さんはほんとにうれしそうだね。あんなに楽しそうにしてる彼女を初めて見たよ。」

「うるさいわねっ!さっきはレイって呼び捨ててたくせにっ。あんたたちもどういう関係なのよ。」

確かにあんなにうれしそうなファーストは… あたしだってあんなにシンジに大事に扱われたことない。

「ほら、君も御屠蘇飲みなよ。」

気を使ったみたいにカヲルが勧めてくれる。

「もう飲み飽きたって言うのにっ。」

そう言いながら大きな方の盃にいっぱい注がれたものを、すうっと飲み干した。突きだした盃にカヲルがもう一杯注いだ。
薬草や何かをみりんに漬けてリキュールっぽくした甘いお酒。それを日本酒で割ったやつ。飲み口が甘くてやさしい香りがする。
家族が互いの健康と幸運を願って酌み交わす盃。飲み干して、朱盃を眺め、一滴垂れそうになってたのを舌で舐め取る。

「ふーん、これが、家族の味ってことなのかなぁ。お互いに穢れを払いあうってことらしいけど。」

「そうかもね、ぼくにはよくわからないけど。最初から家族も何もなしで育ったからね。」

「私も人工受精児だったから。安定して4カ月以降はママの胎盤で育ったけどママは早くに亡くしたし。父もいなくなっちゃったし。
ずっと一人ぼっちだったから家族ってよくわからない。卵子は私のってママ言ってたから、もしかしたら精子は父のじゃなかったのかもね。」

やだ、何弱音はいてんのよ、あたし。寂しいなんていまさら言って何が変わるの。
昔やっぱりこんな寂しさを抱えきれなくなって目の前にいた子に甘えてしまったこともあったな。
あんなことしなきゃよかった。自分の弱さにさんざん後悔したわ。

「ぼくも、試験管生まれの人工胎盤育ちさ。だから、同じように家族というものを知らない。
たまに可愛がってくれる人はいたけれど、それはペットショップで子犬を抱きあげてくれるのと同じことだった。
小さい頃はそれでも嬉しかったけどね。今となってはすっかりヒネちゃって。」

え?苦笑したカヲルの紅いひとみを見上げてしまった。

「だから僕らはみんなシンジ君を好きになるのかな。家族の香りがするから。家族の記憶を思い出せたような気がするから。」

「シンジを好きになる? あいつだって家族に恵まれてたとは言えないみたいよ。」

司令に捨てられたとか、今になって呼び出すのか、とか最初はずいぶん歪んだやつだなって思ったもの。
でも今は同じような苦しみを背負ってたんだなと理解してる。判ったってだけの話よっ。でも、家族っていいよね。
だから、レイがシンジに構われているるのを見たくない…のかな? 否定した。心はそのことを思いっきり否定した。
でも、家族って言う言葉がカヲルから出た時私が思い浮かべたのは、ミサトと…
日本では皆が整備のおじさんも総務のお姉さんも、中学生の女の子のアスカとして接してくれていたのを思い出したからだろうか。
ドイツでもアメリカでも気のいい兵隊たちは結構かまってくれた記憶がある。
兄貴分を気取ったり、優しいお父さんやお爺ちゃんの一杯いた軍もここも嫌いじゃなかったのに。
ヒカリも2馬鹿も、…シンジも。
やだ、何故ここであたし泣きそうになってるのよ。

慌ててティッシュをむしり取るようにして鼻にあて、うつむいた。

「あれ、風邪っぽい?アスカ。」

「単に急にあったかい部屋に入ったからでしょ、きっと。」

「あ、今日はベッドの中に布団乾燥機入れてあるからね、きっと気持ちいいよ。」

シンジはよく気が付く。そして優しい。 その優しさが私を癒すと同時にイラつかさせる。

「あーもう。人のベッドに勝手に触らないでよね。」

なんでいちいちこういうこと言うかな、あたし。バカだよね。

「わかってるけど、暫く干せないでいたからさ、布団冷えちゃってるだろ。」

「そうよーせっかくの羽根布団なんだから空気通した方が気持ちいいわよん。」

「そりゃ毎晩酒飲んで寝たら布団も臭くなるけどさ。あたしなんかは毎日ハーブのお風呂入ってるもん。
髪だって毎日洗うし手入れしてるもん。」

ラベンダーやカミツレの花束を干してくれるのはシンジだし、ドライヤーやブラッシングもしてもらってる。
なのに素直にありがとって言えばいいだけのことができないんだから、ほんとにどうかしてる。
レイの目がちょっときつくなった気がした。一人暮らしのこの子にしたら腹が立つかもよね。
だからそちらの方からも顔をそむけた。

「惣流さん、そういう愛し方は良くない。シンジくんも君も傷つくだけだし、気持ちも伝わらない。」

「だ、誰がっ!」

他の人間に聞こえない叫び。余計なお世話よっ馬鹿っ!と目で叫ぶ。カヲルのやつ、見透かしたようなこと言うんじゃないっ。
シンジが小さくため息をついたのに気がついた。
悪態をついておいて、自分もシンジを傷つけたことを指摘されてまた傷ついてる。どうしようもないバカだ、わたしは。
悪循環の切り方なんて、誰に聞かなくたってわかっているのに。

「ごめん…」と素直につぶやければなんでもないことなのに。「いつもありがとう…シンジ。」と。


少し照れて、困った顔してるレイに、鈍感シンジは盛んに勧めている。

「綾波、お餅食べてみる?砂糖醤油と海苔をまいたのと、醤油と海苔だけのとあるよ。茹でて砂糖だけつけたのもいけるよ。」

「お餅って食べたことない…」

「あたし、ちょっとだけ砂糖入れた磯辺っ。」

会話に割り込んで叫んだ。仲直りしようのサインをシンジは何時も受け入れてくれるんだけれど。

「わたしは醤油海苔のみね。」

「ミサトさんとアスカのはわかってるよ。カヲルくんは?」

「じゃあ、僕は惣流さんと一緒でいいや。」

すぐに立ち上がったシンジは餅網ではなく、広めのフライパンに餅を並べ、小鍋に湯を張って沸かし始めた。
まずは砂糖がけと黄粉用か。 結局このやり方が一番早いとか言ってたな。レンジで作るとよく膨れるけど干からびるとか。
まあ、買ってきたお店にもよるけど、米屋さんでついてもらったこの丸いお餅は美味しいと思った。よく伸びて笑いを誘うし。
富山風にピンクと白の2種類で作ってもらった。のし餅は固くなるし黴やすいので今年は取らなかった。
しばしパクつき、ミサトはさらに竹輪やイクラ、子持ち昆布磨きニシンとかでビールをずいぶん飲んだ。
すすめられて、わたしとカヲルも1缶ずつ飲んだ。まぁドイツでは16歳で問題ないことだし保護者がいて家の中ならいいだろう。
遠くからレイとシンジの楽しげな会話がいつまでも聞こえていたような気がする。
カヲルとミサトとも延々と話し続けてーーいたのかな。

次に目を覚ましドキッとした。炬燵の横のホットカーペットの上で毛布にくるまって寝ていて、向かい側にカヲルの顔があったから。
意外とまつ毛の長い可愛い顔してんじゃない。シンジもそうだけどまだ大人の男の顔じゃない。まだ可愛い男の子の顔だ。
私の寝顔も似たようなものとすれば、幾ら突っ張ってみてもてんででお子ちゃまなんだな、まだわたしたちは。
半身を起し、部屋を見回す。制服の上半分とリボンタイは外され、ブラウスのボタンが開いていて少し慌てた。

「暑くて自分で剥いだのかな。」

ソファの上では別々の毛布にくるまったレイとシンジが丸めたカーペットが折り重なったように寝ていた。
どてらを羽織ったミサトが天板に突っ伏すように眠ってる。してみるとこの毛布はミサトがかけてくれたの?

「目が覚めた?」

「カヲル。目が覚めてたの?」

もう一度、元の場所に寝転がった。

「いや、君が動く気配で気がついた。」

そう言いながら、カヲルは出ていた私の肩に毛布を掛けてくれた。
ブラウスの3番目のボタンまで開いていた。胸のふくらみが少し見えてたかもしれない。
反対を向いて毛布の下で急いでボタンを留めた。

「あ、ありがと。」

「僕には言えるくせに。君も損な性分だね。」

「あんたね、変なこと言わないでくれる?」

もう一度寝返りを打つとさっきより顔が近かった。カヲルと向かい合う。
こんな近く、正面から見ると真っ赤なレイの目と違い明るい紅茶色の目なのだ。
まぁ公平に言ってきれいな眼よね。シンジの黒っぽい茶色の目も、レイの真っ赤な目も、私の青い目も。

「まぁ、へそ曲がりというか、そう言うとこは僕らは似てるかもね。」

「あんたに似てたって嬉しくもなんともないわよ。」

「おやおや、ずいぶんきつい言い方だね。同じようにシンジくんを好き同士なんだ、仲良くしようよ。」

「だっ誰がシンジを。」

カヲルの指先が、あたしの唇を軽く押さえた。そっと触れた程度だったのに、唇はわめき散らすのをやめた。
唇が、かすかにふるふると戦慄(おのの)いたのに気づいた。

「うそをついてる唇が、もう言いたくないとつぶやいてる。」

「か、カッコつけてんじゃないわよ。」

「そうかな。僕は彼が好きだよ。無論君のことだってね。君はどう?」

好きだ、なんて真顔で言われたのは初めてだった。

「あんな奴のこと、なんとも、」

「なんとも?」

もう一度、カヲルの指があたしの唇に触れ、軽くその曲線を伝って押さえた。

「シンジのことなんか。」

「ほんとにそうなのかい?」

「ほんとよっ!」

毛布をひっかぶった。カヲルの指を振り切って。そして毛布の中で口にした。内緒の言葉を。
そのすぐ後で取り消すように呟く。「あんな奴。」


「もう帰らないと。」

「別に泊って行ったっていいのよー、遅いんだし。」

レイとミサトが話しているのが聞こえて、毛布から顔を出した。

「泊まらせるって、ミサトの部屋なんかに寝かしたら身体にカビが生えるどこじゃ済まないでしょ。」

「だからさ、アスカの部屋に…って駄目?シンジ君の部屋ってわけに行かないしさ。」

「あったりまえでしょ。それってあたしとカヲルが一緒に寝るってことになるじゃないの。」

「僕は別にかまわないけど。惣流さん。」

「わたしがかまうのよっ!シンジッあんたもちゃんと言いなさいよっ!それともあんたまさか。」

「そ、そんなわけないじゃないか。僕とカヲルくんがここに寝て、奥の部屋にアスカと綾波が寝るしかないだろ。」

「しょうがないじゃない。この時間に一人で帰すわけにいかないし。」

あたりまえよ、どうせあんたは送って行くって言うだろうし、そのままレイの部屋に泊って行くなんてこともあるかもしれないし。
第一、カヲルが付いていったとしたら、常識無しの2人に引きずられてシンジと3人でごろ寝って可能性はもっと高くなるじゃないの!
そのくらいだったらあたしが送って行くわよ。

「そしたらアスカをだれが送るのさ。」

だからあたしとあんたでレイを送っていくってなぜ言いださないのよ。

「しょうがないわねっ。レイッ、あたしの部屋で寝なさい。」

「そうしなさい。レイ。」

「命令ならそうする。」

命令ならって、全然嫌そうな顔どころかご機嫌じゃない。いつの間にこの子こんなに人間ぽくなったのよ。

「じゃあ、僕はシンジ君の部屋だね。いいかい。」

「あ、うん。もちろん。」

な、何顔赤らめてんのよ。シンジってどこかおかしいんじゃない?
レイはレイでシンジとカヲルの2人を見比べてちょっとはにかんでる。
両天秤て訳でもないだろうし何考えてんのかしら、この子。
うーん、もしかして…まさかシンジと一緒に寝たいとか思ってんじゃないでしょうねっ!

「僕は、ほんとは惣流さんと寝たいんだけど…」

「あんたっ!」

カヲルの顔にソファをたたきつけてやった。脳震盪でも起こしたようにパッタリ倒れたのに笑ってしまう。

わ、大変なことに気がついた。そういやこいつってホモなんじゃないのよ。あやうく騙されるとこだった!
レイと寝かせるよりよっぽど危ないんじゃないの。って後で考えたらこれがまずかったのよね。

「まちなさい!シンジの部屋でカヲルが一緒に寝るのは反対よっ。」

「なんでさ、僕は構わないよ。」

「それともやっぱり惣流さんは僕と一緒がいいのかな〜」

「馬鹿言ってるんじゃないわよ!あ、あたしはシンジのこと心配して言ってやってるだけよっ!」

「僕の心配?」

この大ボケ三太郎がっ。あんた貞操の危機ってもんがわからないのっ。
ズボン脱がされてからじゃ遅、なな何考えてんのよ馬鹿アスカッ。バッと立ち上がって叫んだ。

「この部屋で、炬燵挟んでみんなで寝ることにするっ。決定だかんねッ!」

そうよこれならいつでも全員で相互監視、誰のことでも見張ってられるじゃない。
この際他のことは目をつむって。

「わたしはやーよ。寝顔見られたくないもの。アスカやレイはまだ若いからいいだろうけどっ。けっ。」

何よその「ケッ。」てのは。しょうがないわね、布団かぶって寝るしかないか。男子に寝顔見られるのはちょっと。
ミサトはごみため6畳に引っ込み、私たちはホットカーペットを最弱にして掛け布団をかぶった。
男の子2人は炬燵布団を一緒に被った。予備の毛布とわたしの夏布団をレイに貸し、私は部屋から掛け布団を持ってきた。
まくらが一つ足りないけど仕方ないか。私の枕を一つレイに貸し、座布団を一つ畳んでカヲルにくれてやった。
順番に風呂につかり、レイにドライヤーをかけてやった。
私の髪はシンジが乾かしてブラッシングし、緩く編んだ髪にいつものようにリボンをつけてくれた。

「ふーん。」

「なんだってのよカヲル。」

歯を磨いてきたらまた寄って来た。

「けっこう仲良くやってるじゃないと思って。」

「ふぁんたはむぁたっ、」

カヲルに向かい泡を飛ばして途中まで手を上げた。ストップ!今はTVも消えてるしミサトの大声もない。
シンジ達に聞かれたら恰好がつかない。じゃれあってるとも思われたくない。

「グ、グーは止めようよ、ねっ。」

すっかり怯えさせたか。冷や汗をかいて後ずさるカヲル。このくらいでいいのよこいつには。
睨みつけてやった。やっぱり油断ならない奴。ま、楽しい奴ではあるけど。

結局決めた通り炬燵をはさんで向こう側とこっちに男女分かれて寝ることにした。

「男は絶対こっち来ちゃだめよ。いいわねっ。」

「女の子は?」

「常識で考えなさいよ。男のとこ通んなきゃ、水も飲めないしトイレにも行けないでしょ。ま、自己判断で。」

襖を開けはなったので狭ければ少し向こうの部屋にずれればいいけど、まぁ何とか丁度納まった。
明かりをシンジが消すと、みんな寝床に潜った。炬燵掛けを取った後には目隠し用にシーツを掛けた。
うん、これで寝てる限りは向こうは見えない。寝顔だけはコントロールできないもんね。
カーテンの隙間から晴れた夜空の月の明りが差し込んでくる。
同時に窓で冷やされた冷たい空気がかすかに流れ込んでくる。レイは炬燵の方を向いて身じろぎもしない。
多人数で寝るなんてこの子には初めての体験だろう。結構疲れたのかもしれない。

レイとカヲルはあたしとシンジの体操ズボンと長袖のトレーナーを着た。あたしたちも少しいつもの格好と違う。
さすがにレイやカヲルの手前タンクトップと超短パンってわけにはいかない。
中学時代の薄めの綿のジャージズボンをはき、大きめのTシャツを着た。レイは細いから私のシャツを着ると少し長め。
エアコンを入れたまま、ホットカーペットの上にベッドパットと残りの掛け布団を敷く。十分温かいし柔らかだった。
夜半目を覚ます。お屠蘇の飲みすぎかしら少しお酒を飲んだせいか意外と熱がこもって汗をかいていた。
あら?レイが隣にいない。半身を起こすと、枕元に靴下が2つ丸まっていた。そしてジャージのズボンも。
暑くなって脱いだのかなと思いながら渇きより眠気に負けまた布団にもぐりこもうとした。
でも下はショーツだけってこと?ちょっとまずいんじゃないのなそんな恰好。合理的に「暑いから脱いだの」とか言うんだろうな。
まぁいいや。あの子の非常識は今に始まったことじゃないし、本人は恥ずかしがってないんだから。眠くてどうでも良くなった。
洗面台で水音がした。軍での習い性でつい警戒してしまい、目がさめちゃったじゃないの。カヲルとシンジの寝息が伝わってくる。
しばらくして静かにレイが戻ってきた。やっぱりジャージを脱いでいる。
暗がりにレイの白い足がぼんやりと長く浮かび上がって見えた。
ホントに常識ないんだから。この位置から見上げても、屈んだりしても恥ずかしいとこが丸見えじゃない。

男の子達の頭の上で立ち止まると、そこにしゃがみこんだのが見えた。
炬燵の浮こう側に背を向けているから表情は見えなかったけど 腰を下げ蹲っている。
そのままじっとしていて、動かないでいるレイは何をしているのか。誰かを見つめているのかしら。
そっと起き上ってみようかと思ったが じっとしていることしかできない。勝手に鼓動が速くなってしまう。
それほど静かだったし起きるのがはばかられるほどの静謐な雰囲気がその場を包んでいたのだ。

まさか、まさかよね。私はやっとの思いで上に伸びあがった。レイの背中と腰のむこう側が少しだけ見えた。
ぺったりと床に座り込んだままレイは上体を落として誰かの上に覆いかぶさるようにしていた。
あれは、カヲルの上? それともシンジの上なの?
腹ばいになって膝を突いている。足の裏と腿が白く緊張に縮んで張り詰めていた。
しばらくそうしていてから背中の向こうに見えていたレイの頭がさらに伏せられ背中の向こう側に消えた。
上半身ごとかがみこんで、ああレイ!あなた何してんの。男の子たちが目を開けたら見えちゃうのよっ。
心臓がはじけそうなほど打っていた。悲鳴を上げそうだった。
ずいぶん長くレイはかがみ込んだままでいたように思う。
レイはやっと半身を起した。銀髪が顔にかかってその表情は見えなかったし、私はとっさに目をつむっていた。
薄目を開けると彼女は片手で顔をぬぐって音もなく立ち上がったところだった。まさか…誘惑してたの。
あんな子ほど、いざとなると思い詰めて、私でも出来ないような事をする気がする。
寝たふりをしているわたしの枕元を、レイはそのまま洗面所の方へ去りまた水音がした。
わたしは金縛りが解けたように起き上った。

「泣いてた?」

洗面所の角から明かりを覗き込むとレイが掌に水をとり顔に押し付けるのを繰り返している。
鏡の前で青白い顔をタオルに押し当てていた。

「どうしたの、レイ。」

驚いたように振り返った眼のふちが赤く染まっていた。ほんとに泣いてたの。

「起きてたの。」

「ええ。」

そう答えると白いレイの頬が一瞬で染まった。
体操着の下からピンクストライプのショーツが僅かに見えていたのに気づいたらしい。

「あなたに名前で呼ばれるのは珍しいわ。」

「はずみよ。」

「見てたの?」

「見られてまずいことでもしてたの。」

「別に弐号機パイロットに恥じることはしてない。」

急に挑戦的になったわね。そう思いながらもレイの唇が震えているのに気がついた。
誰と唇を合わせてたのよっ!っと叫んでやろうかと思ったけど、はっきり確認したわけではない。
それに泣きやんだばかりの幼児が又泣き出すようなことができるわけない。確信犯かどうかも分からない。
知る気もないし、というのは強がりだってわかってた。気になって仕方なかった
今夜のことは貸しにしといてやるわよ。わたしには関係ないことだしと自分で決めつけた。




正月も終わりか。今日から学校が始まった。正月明けの式の後HRと午前中1時間だけ数学の授業があった。午後は休み。
要領の悪いシンジは日直だったので私は先に帰り道についた。
山の方から冷たい風が吹き、細かい雪がちらついていた。こんな天気は珍しい。
ドイツのようにきらきらとダイヤモンドダストが平地でも舞うのことは日本ではまずない。
強い風によって遠方の山で降っている雪が強い寒気に飛ばされて来たんだそうだ。
お泊まり会のあの日から大分日が過ぎた。どうしてだろう家にいつものようにシンジと二人でいることが気詰まりだ。
なぜいつものようにじゃれ合っていられないのか。一度家に戻ったがシンジが帰ってくる前に鞄を部屋に置き外に出た。
トレンチから裏毛付きの厚手のダッフルコートに着替えて正解だったわね。フードをかぶり口当てを留めた。
街の集会所の裏側の道を抜けているとシンジがレイを連れて帰って来たのに行きあった。良かったちょうど外に出てて。
彼らは正面のサザンカの生け垣の街路を抜けていったので私には気付かなかった。
相変わらず雪は風にちらほらと舞い続けている。











「風花、か…」



少し厚手の防寒コートをはおって高台の公園まで歩いて行った。さすがにこの恰好で階段を上って来ると肌が汗ばむ。
防寒コートをベンチに脱ぎ捨て、冬制服とカーディガンになった。汗がいっぺんに引く。
リボンタイと同色のマフラーだけでちょうどいい。5分もすれば震えるだろうけど。
ここはシンジと喧嘩をしたり、一人で勝手にすねては 駈け込んで来た思い出がある。子供だったんだなぁ。
そうよ、今日は別に喧嘩をしたわけじゃない。だけどなぜかここに来てしまった。風が冷たく、強く吹く場所なのに。
勝手に持ち出したシンジのSDATのイヤホンをつける。シンジのお父さんあの司令の若き日の形見とも言えるもの。
中身はクリスマスソングと聖歌、古い昔の曲も多かった。
クリスマス前に入れ替えたのか、それとも元々入っていたものか。何個かテープがあるのか。
腕を伸ばすと手のひらで受けた風花は泡の様に消えた。

「寂しいよぅ…」
    
そっと声に出してみた。その声が心の温もりと体温をもっと吹き飛ばしていったような気がした。
風花は次々とわたしに触れ、もともと無かったもののように消えていく。見上げた空から渦を巻くように雪が落ちてくる。
それを見上げ続けていると自分が空に向かって吸い上げられて行くような錯覚を覚える。
ちらちらと舞っていた雪は次第に本当の雪となってそれに連れてわたしの上昇速度は上がっていく。
わたしとあいつは別に恋人同士というわけでもなく下手すると友達というのとも違う。
馴れあいとか腐れ縁とかそういうものに 近かったんじゃないかとも。なのに私はあいつに拘り続けている。
でも男女間の好き嫌いと言うこととは全然また別に、あいつにこだわっていることもどこかで意識はしていた。
そう、カヲルの前で思わず見せてしまいそうになってしまったシンジへの特別な思いは、好きと言えば好きという感情にも近く、
肉親に近い感情かもしれない。それとももっと他の何かだったのかもしれない。
色々混濁し自分が把握している想いも、それがどういう種類のものなのか良く分からないというのが一番正直な気持ちだった。
その時S-DATの曲が変わった。ああ、Lena ParkのYou Rise Me Up だ。昔よくママが歌いながらピアノを弾いてたあの曲だ。


潤んだ瞳の奥に 変わらぬ君の姿 どこまで世界は続くの 途絶えた 君の言葉
凍える嵐の夜も まだ見ぬ君へ続く 教えて海渡る風 祈りは時を超える

霞んだ地平の向こうに 眠れる星の挿話 明けない夜はないよと あの日と海がわらう
震える君を抱き寄せ 届かぬ虚空を仰ぐ 聞こえる 闇照らす雨 君へと道は遠く 

凍えるあらしの夜も まだ見ぬ君へ続く 教えて海渡る風
凍えるあらしの夜も まだ見ぬ君へ続く 教えて海渡る風 
祈りは時を超える  祈りは時を 超える


これに入っているってことは、シンジのお父さんやお母さんも良く聴いてたってこと。世界的に流行っていたのかもしれない。
それに、シンジも何回も聞いて知っているってことよね。

「レイの感覚とは、また違うんだろうか。」

違うだろう、とは思うけど、違う故にシンジがもしかしたら自分から離れていくかもしれないという予感はつらかった。
何バカなことを。もともとそういう感情を持って同居したわけじゃない。最初はお断りだと思ってたもん。
互いに作戦運営上必要だから命じられたから一緒にいただけで、エヴァの効率的運用を図るための手段だってことは知ってたじゃない。
一緒の籠に入れられたからつがいになったなんて、それじゃ小鳥の巣引きじゃない。そう簡単に卵なんか産まないわよ。
情が移った程度のことよ。
でも、それだけだったのかなとも思う。最初の頃のきっかけはともかく初めて自分を特別視しない同い年の男の子に興味を引かれたのは本当。。
どう接すればいいのか誰も教えてくれなかったから、ともかく軽く見られないように強気に出た。そのままやって来た。
あんなに好きだった鍛冶さんへの興味も薄れていったほどに。シンジを私のものにしたいっていう気持ちって何だったんだろう。
今だったらもっと普通に接することができたかもしれない。たとえばもう少し正直に、優しくしてやれたかも…

「なんだ、また考え事かい。」

なんでこういうタイミングで出てくるかな、こいつ。カヲルが再びいなくてもいいのに現れた。

「シンジ君はどうしたの。」

「知らないわよ、どうしていようとあたしには関係ないし。」

「関係ない?そんなに気にしてるのに。」

「あんたはほんとに煩いわね。気にしたからどうだっていうのよ。あいつだって行きたい所へ行く権利があるでしょ。」

確かに自由なんて何も許したことなんかなかったけどさ。それはいつでも私のものであると信じていたから。根拠もなく。

「本当は、あいつはあたしのもんじゃなかったわけだし。」

口の中で呟いた。鎖でつないで飼っておけたらいいのに、と。
カヲルが私の背中のすぐ後ろにまるで風よけの植木のように立っているのが感じられる。やめてよ、私…

「なんでそんなとこに突っ立ってんのよ!」

そのおかげで私の身体は暖かい。吹き付ける風が無いおかげで弱々しい日の光が少しずつでも身体を温めてくれる。

「レイが、うちに遊びに来てるの。」

「だから、気を利かせて外に出ているんだね。」

「ま、お邪魔虫になりたくないしね。ミサトみたいに気の利かないおばさん扱いされたくないし。」

「こんなに頬を冷たくして? 冷えて赤くなってる。」

頬にも眉にも、風花がわずかに乗っていたかもしれない。

「北国生まれだもん。大したことないわよ、こんなの。」

カヲルは私の両肩に後ろから手をかけた。肩の雪を払う。な、何すんのよ、こいつ。なれなれしいっ。

「もう、もどってもいいんじゃない?」

「…1時間、2時間くらい経ったかな。」

「コートも髪も頬も額も冷え切ってるじゃないか。戻ろうよ。」

「あんたとお?」

「また紅茶入れてくれるかい? この間の君が入れてくれたのは美味しかったよ。」

ああ、それも悪くないかな。シンジとレイにもケーキかなんか買っていってもいいし。

「そうね。戻るにはいい理由よね。」

「風邪をひかないうちに戻ろう。」

カヲル、あんたってやっぱりちょっと変わってるわよ。 自分の背中を押してくれる彼に少しだけ感謝した。
遠くの湖は斜めに降る雪で少し霞んで見えた。
ビルの明りが減り、暗い雲と並んだビルや防御陣地の長い壁を背景に雪が降りつづけている。
少し不思議な景色だった。サーチライトが何本か空に向けて伸び、雲に乱反射して幾つかの色に分解している。




「うん、僕だよ、カヲル。今から遊びに行っていいかい?惣流さんと一緒になったんで君の顔も見たくなってさ。」

カヲルが店の隅に行って電話を入れてる。私はそれをケーキ屋のまん中で耳をそばだてて聞いていた。
凍えそうになっていた体が温まりゆっくりと溶けていくのが分かる。
携帯を終えたカヲル。そのとたんに私は視線を手元のクッキーのかごに落とした。こんな状況でまだ見栄を張ってる。
パタンと携帯をたたむ音、そしてカヲルが近寄って来た。

「いいケーキ、見つかった?」

「うん、結局モンブランとイチゴショートかな。ミサトの好きなサブランも悪くないけどね。」

時々来てるこの店のメニューなんかすっかり暗記してるわ。

「僕はミルフィーユかな。シンジ君と綾波さんには?」

「シンジはいつもモンブラン。ファーストは想像もつかないわね。あの子ケーキなんか食べたことあるのかしら。」

たぶんレイはシンジ君と一緒のでいいっていうだろう。このままだと私はモンブランをあきらめなくちゃならなくなる。

「じゃあ、もう一個モンブラン買ったらいい。」

「え、なんで。」

「君は2個食べたっていいじゃない。もう一個買えばレイの選択肢はミルフィーユとモンブランの2つになるじゃないか。」

そうか、シンジと私がいつもの好みを崩す必要はないんだもん。残ったっていいんだし何いじけてたんだろ。

「あ、そうね。」
「姫にはお気にいりましたか。」

ほほ笑んだカヲルの笑顔は昔欲しかった、お兄ちゃんという存在のように思えた。本当にへんなやつ!

「ええ!とってもっ!」

私だけが2個食べられるというのも、とってもいいわよね。ケーキを受け取るとそれを抱えて、その勢いで家に帰った。

「そんなに早く歩いたら、ケーキが崩れちゃうよっ。」

お節介なカヲル。盛んに叫んでるけど速度を上げてやった。15分くらいで家に着いた。



部屋は窓が開け放たれていて、まだ雪が降る時の独特な匂いがする。炬燵の上にあったみかんの駕篭はサイドボードの上にあった。
明るく戻ってきたのに、空気がわだかまっているように感じられて不快な気がした。 窓、こんなに開いてるのに。
これ、シンジの匂いと…もうひとつ別の匂い? まさかね。

「ほら、惣流さん、紅茶入れてよ。ケーキあるからオレンジペコのミルクティーかな。」

「あ、お皿出すよ。」

シンジが立ちあがりかけ、その時レイの手からシンジの手が離れたのが一瞬見えてしまった。
見えたものを見なかったことにする。そうすれば見た事実そのものもなかったことになる。
ヤカンとポットとキングスオヴウェールス。バラの形の角砂糖はピンクと白で可愛らしい。
自分という存在は心を否認すれば傷つくこともない。もともと無かったものなんだもの。 人工的に作られた存在。
私は赤いEVAの、パイロットという部品にすぎないんだから。マシンに心なんか要らないのよ。
湯を沸かそうとキッチンに立つと洗ったばかりの2人分の白陶器がまだ滴をたらしていた。
私の大事なロイヤルコペンハーゲンの茶器をシンジが勝手に出しているけど何も言う気にならなかった。
布巾は洗ってあったけど紅茶の香りが僅かにした。炬燵の天板の上でひっくりかえしたのね。
何があったの。想像してしまう自分に惨めさが募る。あいつ!

「惣流さん、ケーキとって、君の分。」

はっとした。ケーキ鋏みを渡された。ケーキの分配は終わっていた。シンジとレイはモンブラン。
カヲルはミルフィーユ。 そして箱の中にはイチゴショートとモンブラン。私は何故だろう、イチゴショートをとった。

「モンブランは? 一個だけでいいのかい?」

カヲルが幾度か勧め、私はなぜだかうまく状況を把握できないでいた。時間だけが経過しレイとシンジが顔を見合わせている。
大好きなモンブランを取り上げたくなかったんだもの。

「じゃあ、僕がもらっちゃおうかな。」

言った途端、モンブランはカヲルの皿に移された。

「見てたらほしくなっちゃてねー」

「へえ、カヲルくんて意外と甘党なんだ。」

「そうなんだよ。意外かい?」

レイまでが小さく声をあげて笑っていた。モンブランを持ってる3人と私。

「何よ、仲間はずれにして。私なんて。」

涙が出そうになった。何よ、あたし何でこんなに訳のわからない泣き虫になったのよ。
その時、カヲルがお皿をもってしゃがんだ。私のすぐ脇に。 だから、代わりにこれをあげる、と。
ミルフィーユとショートケーキが小皿に並んだ。 顔を傾げてカヲルを見上げた。

「何よ、余計なことしないでよ。」

そう言うつもりでカヲルを見上げたのに。唇が震えてしまった。
これは、泣いてた子がケーキを貰って泣きやんだけど、恰好ががつかなくて困っている場面だ。
涙はこぼれかけ、2筋ほどはもう頬を伝わってしまっていて、口は歪んだまま。でも笑顔に戻りかけてる。
その私の顔にカヲルはティッシュも2,3枚振り落とした。それであたしは音を立てて鼻をかみ、皆が笑った。



「さ、さっきは、ありがと。」

何よ、このところカヲルの世話になってばっかりじゃない。結局さっき私が泣きそうになったことは
カヲルの背中に隠れてシンジとレイには見えなかっただろうし、ふざけたそぶりで落してくれたティッシュで
悪態をつきながらぬぐった涙と鼻水にだけ注意が向いたようだ。こぼした涙には気がつかれないですんだ。

シンジがレイを送っていくので私たちも学校あたりまで一緒に戻ろうということになった。
短い日差しはもう終わりかけていた。
木の枝、道を横切る猫、通り過ぎる自転車。色々なものの影。屋根にとまっている小鳥の影さえ長く尾を引いていた。

「シンジ君もレイも少し気を使うべきだよ。」

「でも、結局私が自分で選んだことだから。」

「こういうことって早い者勝ちなのかい?」

「そう言うことじゃない、けどわたしなんかが今更。」

こんなことを言うなんて自分でも信じられない。カヲルの表情は影の中に沈んで何も読み取れない。

「私は時間がたっぷりあったのに結局何もしなかったし、シンジに優しくもしてなかったから。今もね。」

「君の心はガラス細工のように繊細だね。」

「馬鹿言わないでよ。私なんか対極じゃない。分厚い石臼みたいなもんよ。」

「君たちの可能性は人の数だけあるといえる。単体生物がかなわないわけだ。」

「なに言ってんの。そういうとこが気味悪がられんのよ。」

「今でも、そう思う?」

信じられない、この局面でカヲルの照れた顔が見れるなんて。

「まだ、気持ち悪いと思うかい。」

そんなことはない。カヲルはこの短い間に私の心の中にすっかり入り込んでしまってる。必要以上に。
私の表情もまたカヲルに読み取れないインク壺のような影の中に沈み込んでいるのだろうか。
私がカヲルの影の中に漬かってしまったようにカヲルも私の陰影に浸っているのか。
心も感情も肉体の拍動も委ねているように思える。一時期シンジがカヲルカヲル言ってたのはこういうこと?
カヲルと入れ替わるようにシンジはレイを受け入れたようにすら感じられる。

「ううん。」

もう、カヲルとの間に違和感はない。わたしが病院で療養してる間に配属されて来た5番目の適格者、渚カヲル。
ゆっくりと、かぶりを振った。カヲルは不思議な目をしている。そうとしか言えないような色だ。
その眼の中に、私の顔も、日没近い濃い茜色も混じっている。カヲルの目が近づいてくるのをじっと見続けていた。
このままでいていいの?カヲルが何をしようと近付いてくるのか、わかってるんでしょう。
ええ、わかってる。そう心の中で応えていた。

「あーあ。」

誰に応えてる?何を覚悟した? わたしの唇が微かに開いたのを意識した。

「あーあ。」

もう一度そう言いながら俯いて小石を蹴飛ばした。
気づいたら、私たちは口唇を交わしていた。瞳を開いたまま、自分でも信じられない思いがやっと噴き出した。
背に感じる学校の石壁。そこに手と肘をついたカヲルの身体に囲まれている。わたしは丸い石に沿って半ブリッジの姿勢。
胸に手を突いたような気がしたけど実際には何も抵抗はしていない。
唇と唇だけが触れ合っている。そのまま目蓋を閉じた。柔らかなサザンカの葉が私の頭の後ろ側を支えてくれている。
カヲルの静かな息遣い、逆にわたしの息と鼓動は次第に大きく早くなっていく。私の腕は肘から胸の両側に跳ね上がって
軽く握られていた。いまはカヲルの胸に添えられて、あいつの身体の体重を感じないまま、わたしの身体とこすれあっている。
膝と腿も下腹部も、腰もお腹も胸も、額とそして髪も。そして唇と頬。
静かに口唇が離れた。私の上唇はカヲルの唇に惹かれたように張り付き、下唇は形を変えながら残念そうに別れた。
いつの間にこんなに近づいていたのだろう。肉体だけではなく精神が。

「―――だめ―――よ」

何がダメなのか。誰が誰に言っているのか。こんなに状況が理解できないままで。擦れて音になっていない声。

「ごめんよ。」

あなたも。シンジと同じように私に謝るの?

「謝る程度のこと? その程度でキスしたの? 馬鹿にしないでよ。」

叫んだつもりだった。だが下唇は再びカヲルに覆われていた。声は何も出ず、声帯が震えただけで。
同情とか可哀想とか、守ってあげたいとかもうたくさん。わたしに何を求めるのかはっきり言ってよ。
カヲルの視線は優しくはなかった。甘くもなかった。
笑顔でも射すくめるような冷たい視線でもなかった。
だけれど、わたしにわたしが望まないものを押しつけようとする目だけでは無かったのだ。
むしろその視線は純粋にわたしを求める眼だった。 口付けた自分を訝しみ、困ってるの?欲してる自分に戸惑っている。
その目に、どうしてだろう、急に納得がいった。自然に、純粋にただ求められてることに。このわたしがこんなに。

「君が、必要なんだ。僕には。」

「いいわ。」

そう胸の内で言って、唇を離しカヲルを抱きしめてやった。腰にカヲルの腕が回り 抱き起こされたような形で立ち上がった。
足が届かないまま、顔と胸との間にカヲルの息がこもった。それが衣服に浸透し湿った暖かさが私の乳房に伝わった。
カヲルは私の前にひざまづいた姿勢になって吐息をたて、私は身体を折り曲げるようにしてカヲルの頭を抱きしめた。
そして頬に手を当てカヲルの顔を上に向けて引き上げるよう、自分の顔を首をのばすように近づけた。

もう一度口付け。今度はもっと激しく、互いの口腔を抉り合うような激しさで舌と唇を交わした。
一瞬、歯が当たってしまった。離れるとカヲルの唇にわずかに血が滲んでいた。

「――ああ。」 

その血の色があたしの心の中に浸み込んでくるようだった。カヲルの首を盆に載せ持っている私が見えたような気がした。
血の滴る生首に唇を合わせ、わたしは何を求めたのか。ヨナカーン…

「アスカ。」

カヲルに初めて名前を呼んでもらった。そう、私はアスカ。血の唇をあなたに捧げた。

「唇に血がついてるよ。」

「それって、あなたの口についてる血が付いたんじゃない。」

カヲルはあわてたように唇に手をあてた。

「本当だ。でもそっちの血のほうが多いような気がする。」

指が伸び、私の唇に触れた。チクリとするような痛みは私の唇にも傷があるということだ。
カヲルの指に微量の血液が付いているのが街路灯に照らされて見えた。その血をカヲルが舐め取った。

「鏡持ってないのかい。」

コンパクトを持ち歩く趣味はなかったけど、今日に限ってバッグの中にポーチがある。その中にあるはずだ。
開けてみると待ち針の頭程度の僅かな血の粒が唇に沿って滲んでいくところだった。

「やっぱり切れてたみたい。」

その血をわたしも舐め取り、ティッシュを口にはさんだ。

「ほらこっち来なさいよ。あーんして。」

素直に口を開いたカヲルの傷にもメンソレのリップを塗りつけた。

「スースーするね。」

男のくせにリップ無用の柔らかくて艶のある唇だ。シンジもそうだったけどこいつらほんとに男なんだろうか。
唇を合わせたら本当に柔らかかった。シンジに悪戯にキスした時も、たった今合わせたカヲルの唇も。
それに…レイの唇って、あたしよりも柔らかいのかしら。
シンジとレイも、今私が思ったような事互いに思ったんだろうか。わたしの唇はどうだったんだろう。
わ、わたしったら何奇妙なことを考えているのかしら。ええい!

「そんなこと言ってないで、もう一度くらいキスしてよ。今度は唇切れないようにそっとね。」

うわ、なんて大胆なことを言ってるんだろ。そして呟いた。

「柔らかかった?」

髪飾りの小花を落とさないような、優しい夢のようなキスを男の子から大切に受けとる。
それはヨーロッパの女の子の夢。わたしみたいなガサツな人間だってそんな夢を見る。涙がこぼれるようなキス。
長く引きずるような8mもあるようなヴェールを子供たちに持ってもらい、神の前で愛を誓う。
聖歌に包まれ教会の階段でライスシャワーを浴びる。
山のような牧草を積み上げた陰で初めての口づけを交わす。夜会の庭のバラ苑の中で彼の腕の中で幸せな愛を受ける。
そんな夢を密かに見ながら育ってきた。例え液体燃料のドラム缶の後ろでも良かったんだ。
鎖骨と喉の奥に顔を埋め、カヲルは私の匂いを吸い込んでいるようだった。

「いい香りだ。アスカの匂い。」

自分が頬を熱くしたのが良くわかった。こんなこと何で嬉しいんだろう。
まっすぐ立ちあがるとカヲルはシンジよりもずっと背が高く、優しい表情で微笑み私の髪の一番上をぽんぽんと叩いた。
さっきとは逆に顎に指が掛けられて顔を上げ、頬を長い指が包んだ。まっすぐカヲルの顔を見上げている私。

「カヲル。」

「何だい。」

「カヲル。」

「ここに、いるよ。」

もう一度しがみついた。胸に顔を押しつけて、もう泣かないから、と呟いた。

「大丈夫。そんなに決めつける必要なんかない。泣きたくなった時は泣いた方がいいよ。」

彼の胸の中に響いたカヲルの声は、いつも聴いている声より太く、さっきまで部屋で聞いていた声より頼もしく聴こえた。
周囲が影の中に沈んでいく。私たちの陰も姿も。その暗がりの中でもう一度長い時間わたしはカヲルと唇を合わせ続けた。
結局高校からマンションまでまた歩いて戻った。暗くなっちゃったから心配だってカヲルは照れたように言った。
エントランスの前で別れ、カヲルは幾度も振り返りながら走って戻って行った。最初の坂の向こうに消えるまで見送った。
考えたら駅に戻らないとカヲルの家には行けないんだ。どのくらいカヲルは遠回りしてくれたのか。
学校までわたしを連れて行ったのは、シンジとレイの二人と鉢合わせしないようにってだけの話だったんだ。
レイのマンションも駅から行かなくてはならないから。

建物を見上げた。私たちの部屋には明かりが点いていたけれど、シンジはまだ帰ってないような気がした。
あれはミサトが点けたのね。たぶんシンジはまだ帰ってない。あいつはきっとレイをマンションまで送って行っただろうと思う。
夕立ちの時も、私が遅くなった日も、エヴァの単独試験の時も、あいつはいつも迎えに来たり駅で待っていたりしてくれた。
あんな優しいシンジに、結局素直にお礼も言えず、笑顔も見せられないままで終わりを迎えてしまった。愚かだったから。
わたしたちがもしかしたらそうであったかもしれない優しい関係は、失われてしまったということなんだ。

「ごめんね、シンジ。ごめん。」

レイとシンジが仲良くなってから慌てたってもう遅かったんだ。あの二人には特別に魅かれあう何かがあるように思える。
知り合ったばかりでカヲルの優しさはすぐに受け入れられたのに。シンジより頼もしいとか美しいとかでもなかったのに。
結局使徒が来なくなってまる3年もの間、シンジとは何一つ前に進むことはできなかった。毎日の時が降り積もっただけ。
苦悩と絶望の端境、死と隣り合っている恐怖から無理やり目をそむけながら反発しあいどこかで手を伸ばしあっていた。
あの時の自分にとっての終末の記憶は、どこか途切れ途切れでぼんやりと霞がかかり、いまだにはっきりしない。
思い出したこと。気がついたとき、私はシンジに背負われ、海岸縁の荒れ地を移動していた記憶。

「アスカ、大丈夫だから。必ず助けるから、本部までもう少しだから頑張って。」

引っ切り無しに話しかけながら歩くシンジの背中がどんなに頼もしく、安心できたか。感謝し心の中で謝ったか。
血が、指先から引っ切り無しに垂れ、痛みさえ感じられないほど身体は壊れ、視界が血で染まり何も見えなかった。
その次の記憶はもう病院のベッドで。私はシンジにずっと背負われているつもりで、泣きながら目を醒ました。
廊下で先生先生と医師を呼び必死で怒鳴っていたあいつ。その後覗き込んできたあいつの口から戦いは終わったよと聞かされたんだった。
わたしは生き延びることができた。大勢が亡くなりネルフは壊滅。それでもわたしもシンジも生きてまた会うことができたんだ。

使徒はもうやってこないかと問われればまだ100%確実にではない。私たちはいつ呼び出され、別れを経験するかもしれない。
わたしたちはいまだ確定した人生を約束されたわけではない。
私たちが互いに踏み出さなかったのは、この日常がいつ失なわれるかもしれないという事が恐ろしかったのだろうか。
反面、十分人として成熟したレイは流れのままにシンジに自分の感情を伝えずにいられなかったのだろう。
いつまでもこのままの時間が流れていることを漠然と信じ怠惰に暮していた。シンジとの怠惰の繰り返しこそが幸せだったのだ。
でも、だからこそシンジを失った。失ったからそれを埋めようとカヲルに縋ってしまったということなのだろうか。
決してそうではないと今は思うけれど、その瞬間そこにいてわたしを求めてくれたのがカヲルだったから、わたしは。

「縋っただけじゃ無い。」

そう呟いて、再び幾度も頭を振った。何回か頭をぶつけた。エレベーターの壁は空っぽの音を立てただけ。
それは負け惜しみにすぎないとわかっていたから。
コンコースからエレベーターに乗った。静かにそれは上昇していく。
限られた距離だけれど空に向かって。



カヲルと別れて部屋に戻るとやっぱりいたのはミサトだけだった。

「なに、その格好。」

大きなスーツケースを持ち、品のいい黒地に細い黄色のラインが走るスキーウエアを着込んでいる。

「ちょっとね、田舎に行ってくるから。」

「田舎って?ミサトに田舎なんてあるの?」

「新潟の永尾ってとこよん。雪の多い所でスキーに行くの。留守番頼むわね。
スキーって言っても親戚の家の近くに町営スキー場が あるだけなんだけどさ。小さい頃は村のガキ大将だったのよ。
クリスマスから正月にかけての休み取ってないの私だけってのはちょっち癪じゃん?今夜とあす一日滑ってくるわ。」

「そんなこと言い出したらわたしもシンジもレイもカヲルも、チルドレンはみんなどこにも行ってないじゃないのよ。」

「あんたたちは高校生バイトじゃないの。モノホンの仕事とは厳しさが違うわよ〜」

多分その時ミサトの念頭にあったのは私たちのミスとか無理な強制徴発とかで山ほど送られてくる始末書とか請求書を
指して言ってたんだと思うけど、その時はただでさえ余裕がなかったからムキになった。

そう言うか。命がけで戦った私たちの命の重さはその程度のものなのか!頭の芯がかっと熱くなった。
その腕を押えたのは同居人の男の子の手だった。その声には私が満足できるだけの怒気を含んでいた。

「ミサトさん、今の言い方はないんじゃないですか。僕ら無しで人類を守れたというんですか。」

「え、ええ。そうよね。ごめんアスカ、口が滑ったの。ごめんね。」

口が滑ったってのは本音ではそう思ってるってことじゃん!と思ったけど、この女はただでさえ日本語が
不自由で、教養なさすぎるのがわかってるから許してやることにした。
それより驚いたのはシンジのやつで、いつから こんなに激しいことが他人に言えるようになったんだろう。
レイと付き合うようになってから?あの子は無口故に誤解を受けたり、適当に使われたりするイメージが
あるから、守ってやりたいと思うことは多いかも。
そうかさっきのミサトの軽口はレイのことも一緒に軽んじた発言だからシンジは怒ったのか。

「うらやましい、レイが。」

ミサトがバタバタとスキーを担いで出かけて行ってから私は呟いた。何がさ、とあいつは言い私は薄く笑った。

「レイのために怒ったんでしょ。」

「別に誰のために怒ったって言うより…アスカがかっと赤くなって、やばいって思って。
それに僕だって面白くは無かったから。今のことにはレイはあんまり関係ないんじゃないかな。」

そうかな、前だったら私がミサトに噛みついて喧嘩になってしまってから引き剥がしたと思うけどな。

「まあ、いいわ。どっちでも。私には…」

その愛し方はよくないよ。それじゃいつまでたっても…カヲルの声が聞こえたような気がした。

「レイはちゃんと送っていけたの。向こうでもっとゆっくりしてくるかと思ってた。」

「一人暮らしの女の子の部屋にそんなに長くいられるわけないじゃないか。なんだよ今日だってレイを連れてきた途端
アスカは出かけて帰ってこないし、ケーキ買ってきてくれてからもなんかおかしかったじゃないか。」

あら、レイだなんて呼び捨てにするようになってるんだ。でも、それは私とおなじだけどね。 でも、

「あ、あんた私とすれ違ったのに気づいてたの?」

「あたりまえじゃないか、アスカの気配があれば気がつくよ。何のためにシンクロ訓練してるのさ。」

変なことに張り合うのね、そんなことが嬉しいの馬鹿アスカ。そうよ、そうなんだから仕方ないじゃない。
泣き笑いの顔になったからシンジはますます訝しむ表情になった。やばい、早々に立ちあがった。


部屋に戻って鏡台の前に座った。リボンが抜かれて第2ボタンまで開いている。自分で外したの?
それともカヲルが抜いたの?ほの赤く、花弁のような唇の跡が首筋に残っていた。
カヲルの印を附けられたんだ。もう私はカヲルの物という事?
携帯が鳴った。番号はカヲルだ。

「今、家に帰り着いたよ。」

「そう言えば、あんたってどこに住んでるんだっけ。」

「ネルフの宿舎さ。レイもおんぼろマンション時代から住んでるそうだけど。
今は男女の独身棟と家族棟に分かれててきれいなもんだよ。独身女子棟は隣の駅になるけどね。」

「へえ、それは知らなかったわね。」

「ここは僕が生まれたところにも似てるんだよ。つまりドイツネルフの形而上生化学活性研究部にもね。
レイは日本で生まれたけれど。いずれにせよ君たちが一緒に住んでるのはミサトさんの遺志による特例なのさ。」

「ドイツ生まれだったの。ネルフの組織内で生まれたって、つまり、」

「まあ、生まれっていってもそこの人工育成装置と無菌室で育ったというだけだよ。外にはろくに出たこともない。
あの子は数十回の手術や実験に耐えた。ぼくはそのおかげで無駄な痛みや苦しみに耐えずに済んだ。
その時間に本や音楽や情緒を学び習い事もして、人間というものをいくらか学ぶ時間を得られたんだ。
人間の文化は素晴らしいよね。」

カヲルの声だけしか聞こえていないのに、今どのように彼の目が輝いているか、その色が思い浮かぶ。

「それってどういうこと。という事はレイとあなたの間にも特別な関係があるってことよね。」

無数の因子がかけ合わされ、施設内、施設外、分割され外部環境を取り換え、育成の方法を選択することで
病んだ精神の上に、幾重にも上書きがなされた。洗脳、記憶捜査、元から無いものをあった事のように錯覚させて。

「そうだな、レイと僕は同じ受精細胞を分割させたものから派生した兄妹のようなものといってもいい。
南極で拾った細胞は分化分裂させられ、僕やレイ、君やシンジくんのDNAと組み合わされ、ベース細胞やe-cellと混合された。
そこに書きこまれた遺伝子情報が僕らの行動や思考パターンが決定している。
僕らの行動はあらかじめ決定されていてそれがさらに幾つかのパターンに置換されて、個性が加えられただけなんだ。」

そこでカヲルは少しためらった。

「皆同じように、シンジ君とレイと僕も、君とシンジ君にも幾つかの因子が刷り込まれている。」

「やめて、言わないで。」

携帯が床に落ちた。そこから呪いのような言葉が吐き出されてくる。
あらかじめ巡り合うように準備された子供たち。魅かれあい、導かれあう事で進むべき方向に人類を規定する禁忌の子供たち。
その結果がさらに次の計画を進行させるように仕組まれているのだと。私たち自身の記憶も思考だって。この感情も。
全て予めプログラミングされたものだったわけなの。この感情も意志もママを愛した気持ちも。みんな嘘だったってこと?

「やめて、聞きたくない。聞きたくないのっ!」

「聞くんだ。そのことだけが君の救いになる。僕と君は血族じゃない。他人だ。
他人だからこそ、君の心を抱きとめることが許されるんだ。DNA組成的には遠いんだ。」

カヲルの顔が私の正面に広がった。カヲルは腕を大きく広げて私をを抱きしめた。
僕のところにおいで。君を心底とらえていられるのは僕だけなんだ。カヲルの幻影はそう言った。

「さあ、僕の所においで。それはとてもとても安らぎを得られることなんだよ。
いつでも僕は君のことだけを見つめ続けてあげよう。何の不安も、何の恐れもない世界が待っているんだよ。
君の感情だけは嘘じゃない、真実ここにあって揺らぎのない存在なんだ。」

「あ、ああああ。」

その幻影に囚われたわたしの心は、もう逆らえなかった。DNAの差異を匂いとして嗅ぎ取ることができる思春期青年期の
娘たち特有の嗅覚能力を直接刺激されたように、脳髄にカヲルへの愛おしさがあふれてしまう。これは刷り込まれているの?
違う。この想いは本当の私の心とは違うはず。
自分の意志の力でこの想いを捩じ曲げて見せる。支配なんか、されない。ギリと食いしばった奥歯が鳴った。

「アスカ、どうしたっ!」

急に部屋へ入ってきたシンジ。私の悲鳴を聞きつけてきたんだろう。でも私はもうあんたには甘えられないもの。
携帯を抱きすくめるようにして震えていた私から、シンジはそれをはたき落とし、床から取り上げた。

「もしもしっ、どちら様ですかっ。そっちは誰っ!」

「ああ、僕だよ。カヲル。」

「カヲル君だって?アスカに何言ったのっ。」

「別に何も。僕が惣流さんをどんなに想っているかを話しただけだよ。君とレイが話しているのと同じことさ。」

「アスカの様子が変だ。」

「レイだってそうだったんじゃないかい。僕はその話をレイから聞いているよ。」

シンジの顔にさっと赤みが差したのが見えた。
2人が話してる内容はかすかに漏れ聞こえたのでレイとシンジが愛し合った事を指して話しているに違いない。
ほらやっぱり出遅れてしまったんだ。レイが家に泊まった日にすぐにでもシンジに縋りついていれば良かったのよ。
私はあの時何が起こったのかを知っていたのにまだ素直にそれを認めきれなくて、レイに譲ってもいいと思ってた。
自分の心を裏切った報いがそこにある。その裏切りはシンジを裏切ったことでもある。

「レイと僕は、そんなんじゃないっ。」

「そうだったのかい。レイは僕にはなんでも正直に話してくれるんだけどな。というより伝わってしまうんだけど。」

「どういうこと。」

「つまり、レイの心の中での願いや日々の状況などがレイ自身の心に降り積もるのと一緒に僕の中にも降ってくるのさ。」

う、うそっ。それはもしかしたらレイが見たり感じたりした私の姿もカヲルには解ってたってこと?
逆に私がカヲルに甘えて縋った想いも、カヲルに開いた心のこともレイに伝わっていたってことじゃあ。
気がつくとあたしは何時ものようにシンジに猛然と食ってかかっていた。憎しみさえ憶えていた。

「シンジ、あんた全部知ってたわけ?レイから全部聞いてたんだ。
あたしがあんたのことあきらめてカヲルに縋ってた事、知ってたんでしょ。ああ、私の裏切りを。」

「そんなの、僕がレイの相談に乗ったりしてたのと同じことじゃないか。悪いことしたわけでもなんでもない。」

そう言うと思った。そうなのよ。
意識してたのはあたしの方で、シンジはレイのこともあたしのことも同じように同僚としか思ってないのよ。
仲間として親切にしてやらなくちゃと思ってるだけなのよ。
だから幾ら一緒に暮らしていたって何か特権めいた関係になるわけでもなんでもない。
もしレイがここに一緒に住んでいればレイがあたしの立場と入れ替わっていたというだけ。
レイは素直で無垢だからあたしよりずっとうまくシンジと付き合えたんじゃないかと思う。

「そうよね。あたしがやるよりずっといい。シンジはレイと一緒にいた方がずっと安らぎを得られたと思うもの。
レイ自身だって幸せになれたと思うし。
あたしなんかがひっかきまわしてわがまま言って嫌がらせして困らせ、居丈高に振舞うよりずっと。3年も!」

「何言ってんだよアスカッ!
そんなの比べることじゃないだろ。レイもアスカも僕にとって大事だよ、カヲルくんだってミサトさんだって。」

「あたしはっ!みんなと一緒じゃヤダだって言ってるのにどうして分かんないのよっ!
ここまで言わないと分かんないのっ、この大馬鹿っ!そんなだからカヲルに縋るしかなくなっちゃったんじゃないのよ。」

あたし、ひどいこと言ってる。なんでこうなの。シンジにもひどいと思うし、カヲルにも。
もしここにカヲルがいたらあいつだってあたしのことを見捨てるだろう。せっかくあたしにあんなに優しくしてくれたのに。
あたしがシンジのことでぐずぐず言っててわがまま言って嫉妬してるのわかってたカヲル。
わかっていて、ひどい奴だって。それでもあたしに優しくしてやろうって思ってくれたのに。
こんなにひどい裏切りってないよね。

シンジとレイが本当に愛し合ってたとしてたって、それはあの二人のこと。
あたしがカヲルを道具みたいに扱って良いってことにはならないんだから。
あたし、何考えてる?考えなんてないのよね。シンジを取られたくなくて。
そうなんだ、シンジを取られたくなかっただけなのか、あたし。
カヲルとキスだってしたのに、それだけじゃなくて心も身体も全て開いて委ねても良いとさえとおもってたのに。

自分が何を考えていたのかの記憶がおぼろではっきりしない。思い出せない。
丁度使徒戦役が終わった音のように、時間が抜け落ちている。今自分が考えていることと現実とのつながりとの脈絡がない。

自分で裏切ってたというんだろうか。
たぶん、このままカヲルにもう一度会ってたら、カヲルにもっと自分のことさらけ出して委ねてた。
身体の関係にまでだっていってたかもしれない。そうなれば自分は安らぎを得られると思って。
たぶん肌を合わせればもっともっと一体感を得られるって。なにもかもカヲルに投げ出してあいつのものになりたいと。
そう思っていたはずだった。
優しく愛せると思ってた。愛されることを望んでたんだもの。それは嘘じゃなかった。あのと時真剣にそう思ってたのよ。
決して捨て鉢になんかなっていたわけじゃないってば。え…なぜそんなに皆に申し訳ないんだろう。

シンジにごめん、カヲルにもごめん、レイにもごめん。あたしはほんとに最低のバカだ。
自分が何を求めているのかもろくにわかってなかったのよ。そう思いながら、その思い自身が粉のように砕け雲散していく。
そのくせ取り繕うことばかりして、何もかも本当に失くしちゃった馬鹿なのよ。 馬鹿…ですって?

「そんなことでも、苦しんでしまうんだね。本当に君たちは好意に値する種族だと思うよ。」

「カ、カヲル?なんでここに。」

「君の心が僕を呼んだからさ。もう一度やり直したいんだろう?」

「たとえ出来たとしたって、そんなことをカヲルに頼めない。レイは自分でシンジとの幸せを手に入れたんだもの。
それを奪うなんてこと、できるわけないじゃない。」

「それでは君の心の行き場はどうなる?君らにはいつまでも平和な未来が約束されているわけじゃないんだよ。」

「それってまさか!再び時間が戻って流れ出すという事?」

「エデンを何故人は追われたのか知っているよね。神のように考えることができるようになったからだよ。
神は人間がさらに命の実を手に入れて神のように永遠に生きるようになるかも知れないと恐れたからだ。」

「もしかして、神は計画をあきらめない…ってこと?人間が手に入れた知恵の実を自分で使いこなしたとしても?
人間は永遠には生きていてはいけない存在なの。個体だけではなく種としての滅びを内包してなければいけないの?」

「その通りだよ。新たな使徒の芽が育ち侵攻が始まる日は遠くない。黙示録の大怪獣、使徒と君らは再び戦う運命が待ち受けているんだ。」

「な、なんでそんなことがあんたに分かるのよっ。」

「わかるんだ。僕と使徒は意外と近しいものであるらしいから。元々この戦いは南極で神様を拾ったことがきっかけなんだ。
僕らの身体と魂を組成するものの中にはその神様も含まれている。だからわかるんじゃないかな。」

「つまり、あたしたちチルドレンというのは。普通の人間ではないと言うわけ? 生まれながらに。」

「すべてはそういうことさ、ねえ、不完成なイブ。神の思惑通りその手の中で計画通りしか動けない素直な女の子たち。
神の恩寵とやらが生まれつき与えられているらしいよ。アダムとリリスに続く3番目の使徒たち。
使徒は皆地球人と同じ生物なんだ。神の子としてこの世を受け継ぐ可能性なんだ。
特に君ら女の子はリリスの子とイブの子が入り混じっている。清らかでし純な乙女の姿をしたイブの娘たち。
快活で淫靡な魔物に貶められたリリスの娘たちリリン。まぁいずれにせよ神がばらまいた虚像なんだが。」

信じられない。どういう仕組みなのよ。わたし自身が使徒だというの。つまり文字通り地球と人類を代表する使徒がエヴァだと。

「そうとは限らないよ。可能性はいつでも否定できないけれど。使徒とアダムが触れ合う事さえ遮れば、僕らは生き延びることができる。
この世界が最初から崩壊し、全てがやり直せれば君たちリリスとイブの子供たちは塵にもどりなり融合し世の最初から統合される。」

カヲルの瞳の中に吸い込まれるようにわたしは急に気が遠くなり倒れこんだ。そうか、私はやっぱり一度死んだんだ。
シンジに助けられたのはやっぱり幻想で、わたしは地下の荒野でずたずたになって食い殺されたのよ。私の骨はあの場所で死んだネルフの
仲間たちと一緒に焼け焦げて、小鳥や虫が群がる血肉のこびりついた乾いた骸になっているのね。
そしてシンジは、シンジはどうなったの。結局シンジはわたしを選んだ、だから人類は崩壊したの?わたしと引き換えに赤い海になったの?

「シンジくんは僕を殺すことで僕を救い、人類を救い、君自身を救い、再びこの世界を再構築し起動させた。彼がこの世界を創造したんだ。
シンジくんはアスカとだけ共にありたいと思った。君とだけ幸せを得られると信じたんだ。そんな彼を君は再び殺すのかい。」

出し抜けにわたしは、跳んだ。いずことも知れない場所へ。
それは実際にはマンションのベランダから飛び降りたに過ぎなかったのだけれど。この高さなら十分に死ねる。
わたしは結局神の意のままに動くイブの娘だった。シンジを導くのはレイであるべきだったのよ。わたしは気づいた
弐号機にママが封じられていたように初号機にはシンジのママが封じられていたに違いない。
ママとシンジのママはともにエヴァに魂を与えるための贄(にえ)となった。エヴァ完成の過程でそれが必要だった。
ならば零号機には何が詰め込まれていたというの?レイに親はいないとすればそこにあるのはレイそのもの。まさか!

「アスカッ!」

シンジがものすごい勢いで飛びついて来た所で景色は向こう側に消えた。わたしはおそらく気を失っていた。
美しい旋律が流れる世界だった。ママは科学者への道を進む前はバイオリニストになりたくて芸大を目指ていた時期もあったという。
ママの演奏会のレコードを何回も聞いたことがあった。私はバイオリンを小さいころ習ってた。聖歌隊にいてピアノも弾いた。

――これは、フランクのバイオリン協奏曲第1楽章。美しい属9和音。そしてピアノによる第2楽章のテーマ。カノンが一瞬だけ現れる。
だがそのテーマは淡く弱弱しく儚ない。夢のような第一楽章のテーマは簡単に挫折したように悲しみへと転化していく。
この曲はママが弾いてたバイオリン曲。夕食の後でそれを聞いている。パパもおばあちゃんも、弟もパパも。
3楽章の炎の様なアリアの情熱的な展開。カノンはその姿を第4楽章で現わす。
あんなに弱弱しかった第一楽章のテーマが力強く歌いあげられる。自信にあふれた喜びの歌だ。挫折と苦しみを乗り越えた神に近付いた者の。
カノンの間隔は次第に詰まりクライマックスへ向かう。勝利者の為の賛歌だ。彼は苦しみと悲しみに打ち勝ち、すべてを手に入れた。
なのにその歓喜の歌の中に潜む悲しみと哀愁の欠片。この哀しみの根源は何なのだろう。
歓喜の頂点にいてもなお人は悲しみに暮れる一瞬を持つのは何故。こんなに平和で、怠惰で、自分勝手に全ての望みをかなえて尚。

感情の涙が流れている、溢れ上がって吹きっしている。と同時にどうしようもない悲しみに胸は潰れそうだ。
成功が何だというのだ、そんなものの為に私は生きてきたのか。血を吐くような思いをしてきたのか。
この称え声を上げてくれる友人や部下や民衆の為に私は歌おう歓喜の歌を、それがために生きてきたように。
ここ、どこなんだろう。ドイツの新型決戦兵器訓練所?今日の練習って何時からだっけ。
バイオリンを弾いているのはケヘール中尉かしら。私、今日バイオリン持ってきてたかな。

「は…」

目を開けると見えたのは不等径の細かい穴があいた白いパネル。わたしの部屋の天井パネルが並んでいた。

「何だ、私の部屋じゃないの。」一瞬思ったがそこは違う場所だった。各種の生化学測定機器が並んでいる。

周囲には点滴セットがずらりと並び、導尿パックや定置針、胸元の12誘導心電図測定機や脳波測定機が瞼のすぐ上までを覆っていた。

「ここは病院の特別看護施設。ICUの一番奥だ。きみは安全だよ、」

「安全ってここはどこなのよ。一体いつの時点に跳んだというの。」

ベッドの脇にカヲルが立っていたが、医療スタッフ身体は彼の身体を突きぬけ忙しく動き回る。

「わたしは実体のようだけれど、あんたはどうやら存在する次元が違うようね。」

「理解が速くて助かる。ここは君が回収された直後のネルフの地下野戦病院だ。君はここで死にかけている。」

「死ぬ…ですって?あたしが?」

「さぁ、現実に戻りたまえ。」

そうカヲルが言ったとたん、身体中の筋肉や組織が悲鳴を上げた。切れたとか潰れたという次元ではない。
まるで引き毟られて、傷の断面が不均等に空気にさらされ、そこに塩水を擦り込まれているような痛みだ。。
神経という神経が不連続断面となっているそこを紙やすりでこすられているようだ。その激痛の中でしだいに壊死して行く神経と肉体面。
希塩酸で乱暴に洗われているような、この世の全ての痛みがまとめて襲いかかってきた。ひとつの痛みが10倍100倍となって放散してる。
余りの痛みに声を出すことも気を失う事も出来ない。無色透明の人工血液が引っ切り無しに身体に送り込まれている。
生きていることをん呪いそうな痛みの向こうにつながっているのは人工肝臓と腎臓、調整酸素が顔にかかった小さなテントの中を満たし、
その向こうにじっと誰かが蹲っている。ベッドに投げ出された腕のほんの指先を痛まぬよう自分の掌に載せて、誰かが蹲っている。

「アスカを助けて、アスカを助けて、アスカを助けて、アスカを助けて、アスカを助けて、アスカを助けて、アスカを助けて、アスカを助けて」

微かな呟きが聞こえてくる。それが誰だかがはっきり分かった。馬鹿、多分飲まず食わずのままでそこにずっと居たに違いなかった。
あんた馬鹿よ、わたしが死んじゃうことなんかわかり切っているでしょうに。諦めるように何度も言われたでしょうに。
1目盛りも見逃すまいと計器を睨みつけ、指先から伝わる微かなぬくもりに全てを掛けて、わたしを担ぎこんだ後じっとそこにいてくれたんでしょ。
痛みをこらえ、胸半分ほどに息を吸いいれた。2度、3度。テントの向こうで立ち上がって、誰かを呼んでいる。
気がついたからって助かるわけじゃないのよ。鼓膜が抜けたのか駆けつけてきた人が処置をする騒ぎやわたしを呼ぶあんたの声はほんのかすかに
しか聞こえないかったけれど。馬鹿、あんたの前ではうめき声一つ上げないわよ。
死ぬときは今度こそ、「助けようとしてくれてありがとう」って言って、笑って死んでやるんだから。

無影灯がある臨時のオペコーナーに引き込まれた。新たな出血部位を縫いなおすのか。いまさら麻酔なんか効きはしない。針が身体を抜けても
他の痛みに紛れて針自体の痛みは感じない。新たに噴き出した切断面の出血は処置のあと縫合ジェルで覆い尽くしていく。胞水型処置は回復が長引く
代わりに傷が後遺症なくきれいに治る。リハビリ期間を考えればこの方が予後がいい。こんなときでも女の子だからと気を使ってくれたのか。
だが無影灯のミラーに映ったわたしの醜い顔はこんな時だというのに背筋を凍らせた。オペの為に髪はほとんどなくなっていて顔の半分は血を含んだ
ジェルとその隙間から流れ出るリンパでドロドロで、残りは赤黒く内出血し腫れ上げっていた。シンジはよくこれでわたしだとわかったもんね。
ほとんど裸の身体には無数の管がぎっしりと詰め込まれ、太い中空糸の束が唸っていた。腎臓も肝臓も膵臓も心臓も消化器もそこにはなかった。
わたしは、そうかあれは夢じゃなくエヴァが食われた負荷と共に全ては弾け飛んだのか。それでも生きているのはもしかしたらママが守ってくれたの。
何日もかけて移植が行われた。子供サイズの臓器がよくもまあ運よく次々手に入ったものだ。神経も運動機能を維持しながら良くも繋がったものだ。
16か月もかけて、わたしは回復した。だからシンジにはありがとうを言いそびれたまま。髪も伸びた。全身の形成もうまくいって傷一つない。
もちろん顔だって。たまにあの時の顔に戻る悪夢を見るけどそれもそのうち消えるわ。わたしに臓器をくれた可哀想な子たち。あなたの分も生きるよ
わたしの自前で残ったのは、脳と左目と声帯、片肺と肝臓の一部。小腸の一部と大腸、卵巣や子宮などの生殖器。今は拒絶反応を完全に抑えることが
できる。だから何とかこの短期間で退院までこぎつけた。大量の血小板や腎臓一個、肝臓の一部はシンジがくれたものだ。この3っつは生き延びる
ために直ぐに必要なものだった。解毒と排泄、身体中の止血。ネルフとは言え全てを無尽蔵に保有しているわけではない。わたしの場合止血と
血流促進の両方が常時必要だった。血管移植も必要だった。身体中のホルモン産生部位も、破壊された脳組織の一部も。

いまだに記憶の一部が飛んでいるのはそのせいかもしれない。生理は戻ったけど卵の排出はまだ無い。肝機能も異常だらけだ。
それでも、生きていて、たまにはシンジと手をつないで散歩に出かけたりする。わたしは、少しシンジに優しくなった。
腎臓や肝臓をもらったことも知らないことにしている。何回も輸血してもらったことも。ICUの片隅でわたしに触れていたことも。
毎日付き添っていてくれたことも。全部知らないことだ。実際あの時は正気があっても目も眼帯で覆われていたし、全身固定で動けなかったし、
薬の副作用で喉が腫れ上がって声も出なかった。聴力も回復してなかった。
手のひらにたまに「あすか」って書かれたり、「早く遊びに行けるといいね」何て書かれただけ。
シンジはそれが通じてても通じてなくても嬉しかったみたいだけど、目の包帯を初めて外した時、しばらくぶりに見たシンジの
顔はつい今顔を洗ったみたいになってて。先生にわたしまで「まだ泣いたりしちゃだめだ」って言われちゃったのよね。
30秒もしないうちに目はまた覆われてしまった。青い目の色は少し片方ずつ色が違っていたけれどそれはしょうがない。目をくれた子の色。
シンジに押されて車いすで病室に戻った。

「アスカ、よかったね。」

「何よ、あんなに泣いちゃって。みっともない。」

「しょうがないよ、最初はアスカの事生きてくれさえすればいいと思ってたんだから。」

「ふふん、あたしあんたのお祈り憶えてるもんね。」

「ええ?」

「アスカを助けて、アスカを助けて、アスカを助けて…って。」

「き、汚いぞっ!」

「しょうがないじゃん、あの時は痛みにのたうって死んだ方がまし、殺してくれって叫びそうだったんだもの。」

「そ、そうか…」

「しょうがない、生きてやるかって思ったのよ。」

「また負け惜しみを言う。」

「でなきゃ、痛みで挫けて諦めて死んでたでしょうね。」

「アスカ。頑張ったな。」

シンジはおろおろしたりせず,わたしのおでこをつついた。
この自信、一体どこから湧いて出たのよ。そのくせまた泣いてやんの。頬に触れたらべそべそなんだもん。

ずっと後になって聞いた。わたしは気を失っていた最中、微かに「シンジ」と呼んだんだって。
それで「ありがとう、ごめんね。先に死んでごめん。」って言ったんだって。

絶対助けてみせるって、馬鹿に火をつけちゃったらしい。
まぁ、この話を聞いたときは(10年くらい後だよ)わたしは身体中真っ赤にして転げまわって悪酔いしたんだからね。
皆で抱えあげて部屋まで送ってもらったらしい。それほどのショックだったの、わかるわよね。


































































komedokoro: yuki no huru hi wa sora wo toberu kamo. 12-July-2009











komedokoro LAKset.06-July-2009

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