―――こんなアスカを大好きだ!


こめどころ






……

8月


2週間の合宿から帰ってくると、全国一斉模試が僕らを出迎えてくれた。嬉しくって涙が出ちゃうよ。
せっかく本当に恋人同士になったのに。
二人で盛大にため息をついた。田老の漁業センターのお祭りに出て、アスカは見事に一匹の川干し鮭を引き当てた。
色々お土産を買い込んで重くなったバッグを引きずるようにしてやっと帰ってきたら模擬試験だ。
全身から汗を絞り取られるように都心の図書館公会議場に1870人の受験生が集まっていた。
いずれ劣らぬ名門高校のメンバーだ。
科目は受けたい科目のすべて。模擬試験料は高いけれど、本番さながらの公開模試を含む丁寧な試験をしてくれる。
課題に対してのオリジナルな意見を回答をするっていうことは、それなりに優秀な先生が揃っていなければ模試の意味がない。
試験は3日かけて行われ、時事問題も出題範囲内だから油断はできない。
ここ2週間の新聞やニュースもまとめて読み、論説ニュースも読んでおかなくちゃならない。
ネルフと図書館での資料を読みこんで備えた。

「どうだったのかな、模擬試験。僕らみたいに公立でのんびりやってたのとは違うのも大勢いたし。」
「この試験に関しては、ちょっと読み切れないわね。」
「MAGIの予想回答と回答を突き合わせると、まぁ88.3%くらいか。」
「そうね、オリジナルな回答って点では、比較的に有利だとは思うけれど。」
「企業体ネルフのユニークなものの考え方や判断基準は結構身についていると思うけどな。」
「まぁ育ての親がマヤと冬月さんだもんね。」
「ユニークとか独創といえばその前はリツコさんとミサトさんだから折り紙つきだけどっ。」
「単なる皮肉屋とへそ曲がりじゃないかという説もあるから。あてにならないかもよ。」
「とにかく落ち着いて論理の破たんがないかどうか考えないとな。」
「回答も一つってわけにもいかないでしょうが。」
「MAGI審査でそう言う議論は起きなかったのかな。」

何回か議論してみてもマルチプル解析にかけてみても、実際僕らの回答は点数がつけがたいところがあったらしい。
これがいいことなのか悪いことなのかはMAGI式人工頭脳では結論が出なかったらしい。

「なにこれ。正答率88.57%から91.34%って。」

マヤが呆れたように成績分析を放り投げた。

「蓋然性が云々とか言ってたけど。ようするに順位的には15位から30位くらいってことか。」
「こんなに幅があるんじゃ決定できないんじゃないかね?」
「まれに見る珍しいことらしいです。」
「最後は人間が直々に判断しないといけないってことなのかのう。」
「一番二番って順位じゃなくこの帯の学生は合格って感じになるんでしょうか。」

冬月さんもお手上げだったが、これがネルフの形而学上生化学とか生物学につながっているのかはわからなかった。

「なおのこと研究部門に進んでほしい所だな。特にアスカ君は教養課程からではなく研究室課程から上がってほしいものだ。」
「それはちょっと。シンジ君と一緒に暮らすための大学ですから、あの子にしてみると本末転倒です。」
「シンジ君は10年ばかり攫ってどこかに冷凍睡眠をかけておくというのはどうかね。」
「ご冗談を。」

本来そっちこそが本末転倒なのだけど、本人の意思が固いのではどうしようもない。
第3研究都市に来てもらえなくなれば大変な才能流失になる。全面バックアップの支援金が出ることが既に予算に挙げられている。
受けさえすればOKの大学も、すでに10校以上用意されている。多分無駄になるだろうけど。

「ねえ、8月模試も終わったし、今度の土日はどうするの?」

別に土日でも何でも関係ないんじゃない?夏休みなんだから。

「部屋でごろごろしてるってのは駄目かなあ。さすがに疲れちゃったよ。」
「軟弱と言いたいところだけど、確かに疲れたよう〜って気分ね。」
「家でプールに入っていられれば一番いいんだけど。」
「あっ、それいいアイデアじゃない。」


「なるほど、この手があったか。」

幼稚園で使われている10本ほどのパイプで抑えられた円形のゴムプールをアスカは手配してきた。
深さは60cmくらいで直径は3mほど。
僕らが浸かってのんびりするには最高だ。湯沸かし器と直結すると巨大な風呂にもなる。
カルキをつかえば3日ほどは水を入れ替えずに済む。
アスカは浮き袋に横たわり、僕はプールの中をぐるぐる回ると流れができる。
アスカはその流れに乗って楽しめる。僕はガレー船の漕ぎ手みたいに汗みどろで働く訳。
大きなビーチパラソルをプールのパイプに差し込めば影を作ることもできる。
そのわきには3つ折りのビニールベンチを置き、テーブルには飲み物を、というわけだ。

「シンジ。カルピスね。」
「シンジ、メロンとオレンジとアイスを所望じゃ。」
「食事は、バジルスパゲッティーがよいぞ。」
「食後のスイカはいかがしたのじゃ。」

希望は際限なくエスカレートするもので。いい恋人になると言ったのは、僕のほうだっけ?

「こうやって、我が儘言ってくれたなぁって、いい思い出になるんだってば。」
「勝手なこと言ってらあ。」
「ウソウソ、明日はわたしがメイドさんやってあげるから。」

その明日は、朝から曇天で午後からは土砂降りだったりする。
…あら、天気にかかわらず交代よ。明日は又あんたって…あいつが言うのは当然だよな。くそ!
いい恋人でも何でも、アスカの我田引水ぶりはすぐに変わるわけない。
プール分を家事当番に振り替えてもくれない。
朝食と昼は作ってくれた。これがサービスなのかな。でもその分雨の中を買い物に行くのは多分僕だ。
その日は意外なことに、アスカが買い物に行くと言い出した。
そう言いだされたら、重いから一緒に行くと言わないわけにはいかない。
結局散歩がてらの買い物デートだ。ご機嫌で両手に荷物を持った僕の前を歩いて行く。

「本当に付いてきただけなんだね!」
「持ってるじゃない。」

あーはいはい、自分のシャンプーと新しい歯ブラシね。

ほどなくプールわきの3つ折りソファ、パラソルセットは2つに増やされた。
これなら、プリンだとかシャーベットだとか、要望ごと交代にできるからね。
この程度のことを、アスカはずるいずるいと言う。それが可愛くて…仕方ないんだけどね。

庭の中心には真っ白なタチアオイがある。
部屋からみると、それがプールに青空と一緒に反射して、芝生に映える。この景色はどこかで見たことがある。
昔のアルバムだ。これと同じだけど小さな丸いプールに、たぶん僕らしい子が水浴びをしてる写真。
どこかお城のような日本家屋が背景にある。その中庭のような芝生の上、広い池も映っている。
そこには若い女性と痩せぎすの青年が一緒に写っていたっけ。2004年前後の写真だったろう。
これは、父さんと、多分母さんなのだろうか。

「あらぁ、これと同じような写真、私も持っているわ。」

夜になり、それを眺めていると、覗き込んだアスカが言った。ほとんど同じような構図だと。
僕と同じように、彼女も貴重な家族写真として持ち歩いてるのか。
それはまったく同じ場所だった。同じプール、同じ構図で白人夫妻とアスカが写っていた。

「これ、似てるんじゃなくて同じ場所よね。たぶん一緒に撮られたんじゃない?」
「僕ら、小さいころに会ってたんじゃないのか?」
「その可能性は高いわね。」

写真の裏には「京都にて2004」と、それぞれ英語と日本語で記されていた。これは女の人の字だ。
この前後の写真だってあるはずだ。フィルムは24枚撮りとか36枚撮りなんだから。
京都。京都に関係がある人で、僕らと接触がある人って。
京都大学は僕の両親が学生時代を送った場所だ。京都といえば冬月副司令しか思いつかなかった。

「ああ、これはずいぶん昔の写真だな。アスカ君のご両親が学会で京都国際会議場に来たときに。」

本部を訪ねると、冬月さんとマヤさんにはすぐに会う事が出来た。

「僕の両親もですか?」
「もちろんだ。ホテルが足りなかったので、ユイ君の実家に何人かをお招きしたんだよ。」
「ここ、母さんの実家なんですか。」
「これは、嵯峨野の別邸じゃなかったかな。吉田山を降りたところの屋敷は今はもう無いのだが。」
「あたしたち、昔から知り合いだったってことですか。」
「言ってなかったかな。君ら同士は直接の知り合いではなかろうが、母親同士は以前からの友人だよ。」

そんなことを一言も聞いたことはない。

「アスカ君の実家も大そうな家系で富豪だった。碇家とはそういう事でも交流があったとか聞いているよ。」

それはアスカも同じことだった。

「うちが富豪?シンジの家も?」
「ただの富豪というレベルでは遥かに語れないレベルでの大富豪、大財閥、大政商とでもいうのかしらね。」
「だからこそ、人類の先行きにかかわることを決定していく立場に関わっていたわけだ。」
「そんなこと、全然わかりません。聞かされてもいません。」

冬月さんはしばらく僕らを見ながら黙りこくっていた。マヤさんも。

「キミらの両親ははるか昔から国の根幹である大貴族や王族、大商人や宗教勢力の束ねとなる組織。
近世においては、世界政治や世界経済を実質支配している財閥組織の中枢をなす家の者だったのだ。
碇を調べた時、個人資産としては莫大過ぎるその額に肝をつぶしたよ。大国の国家予算の10年分は優に。」

そんな与太話、だれが信じる。

「その名をゼーレという。はるか古(いにしえ)から伝わる裏死海文書を解読し、人類を滅ぼさぬために
活動を続けて来た、実質的世界統合の為の裏政府といってもいい。」
「あなた達は、その正統な後継者なの。」
「そしてまた、人類で唯2人だけ、使徒と戦える才能を持った、エヴァンゲリオンの正統な搭乗者。」
「その、血の持主だったわけね。」

僕と、アスカだけが。

「レイとそして、フィフスは? トウジはっ。」
「レイは人工生命体、あるいはまた別世界の存在。カヲルは使徒そのもの。」
「トウジ君はその才能が神たるに達しなかったの。」

つまり、使い捨てられた、という事。

「だが、今はもうすべてが終わった後だ。」
「冗談じゃない。使い捨てたほうはいいでしょうけど、使い捨てられた方はっ!」
「アスカ、待っ!」

飛びかかりかけたアスカの身体を咄嗟に抑え込んでいた。

「母さんの魂は、あの躯体の中に永遠に閉じ込められていたわけだよね。」
「わたしの、ママもっ!」
「そういうことだ。我々は人たる身でそれを行った。許されることではない。」
「でも、あなた達のお母様達は自ら望んであそこに封印されたのよ。自らの責任を果たすために。」

つまり、僕と、父さんを捨てて。父さんは母さんを取り戻そうとさらに僕を捨て。
それも、血のなす技なのか。そうせねばならなかったのか。形を変え、人でなくなってなお。
僕を、僕を守るため、人類を守るため、未来を語るために。

ママが突然わたしのママを辞めた理由。Evaのコアの中でわたしを待っていた理由。
わたしはやっぱり、ある意味捨てられていたんだ。あの誠実でのんきだったパパも同じように。
だからパパはわたしを見るのがつらくて、ママを捨て、わたしを軍学校に捨てた。

ゼーレの、名の下に。

あの写真は、幸せでいられたわたしたち家族の、最後の記念写真だったのだ。


破り捨てようとして、アスカは散々ためらった挙句、ため息をついた。

「だめ、やっぱり破れない。」

そりゃあそうだ。たった一枚だけ残ったママの写真だ。例え自分を捨てて行ったとしても。
もし破こうとしたら、僕自身が身体を張って止めたことだろう。

「シンジは。平気なの。」

「そんなはず、あるわけないだろ。」

アスカは僕らのために味噌汁をつくろうとしていた。毎日、作ってくれる。
ぼくが当番の日でも、ちょっと何かにこだわっているみたいに。
出汁巻きの卵焼きと、白いご飯。味付け海苔。種類の違う焼き魚とか、夕食の残りとか。
どんなことがあっても、まず食べることだ。
ただ、当たり前のことを、当たり前に行おうと。当たり前に繰り返そうと。
女の子は、凄い。アスカのやっていることだって、その通りのことだ。

「略式でもなんでも、今日と明日の食い物の確保だ、全てはそれからだ。だろ?」

そう思ったのだった。それを繰り返せば日常の方が妥協してくる。状況も変わるんだ。
目に見えて変わる必要はない。数百日、数年かけることで、苦しさは変わる。
何時の日か、苦しみは癒される。傷は修復される。
アスカのお味噌汁が出ない事の方が、どんなことよりも大切に思えるようになる。
そして、毎日のようにアスカを抱いて、キスを交わす。
身体がなじんで行くと言う事が、互いの心の距離を小さくする。分かり合えるようになる。

夏休みが終わる頃、アスカと僕は抱き合う事になんの抵抗もなくなっていた。
まるで、何年も前からそうだったように、アスカは僕の腕の中で抱かれ、まどろみ、眠った。
日常の中で、僕らは一つのものになっていった様に思う。
一学期とは違う印象を、周囲のみんなに与えるようになった。お互い同士にも。

「もう、夏休みも終わりだし、その前に海に行っておくかい。」
「ああ、悪くないわね。もう泳ぐには遅いかもしれないけど。」

秋が近付いていた。季節の足は以前より前倒しだ。
工業生産が減り人口も減ったため自然は以前より元に戻ったと言える。
自然災害が起こるような場所は放棄され、無駄な掛かりもなくなった。
海にははるかに広い海岸が戻り、砂浜を歩く楽しみが戻っていて僕らもどこまでも歩き続けた。
靴ひもを結びあって肩にかけ、ズボンをめくり上げ、ミニスカートをはいて。
流木に腰を下ろし、冷たい水を水筒から分け合って飲んだ。おにぎりを食べ、茹で卵を食べた。

「ねえ、来てよかったね。」
「そうだね。こうやって一緒に歩く。それだけのことなのに。」
「なんだろうなあ。なんか…」

アスカの頭が、肩の上に傾いて、下に転がった。

「昔はもっと肩が低かったから、寄り掛かりやすかったのに。」
「そうかもな。」
「こんなに大きくなっちゃって。」
「ごめん。」

急にアスカが笑いだした。

「謝ることないでしょ。変なシンジっ。」
「ああ、そうかな。」
「そうよ。話し方だってホントの男の人みたいになっちゃって声も太くなったし。」
「自分じゃわからないよ。」
「シンジと、お布団の中にいるでしょ。そうすると、あなたの声が、低く太く感じるのよ。」
「ちょっと、何言い出すんだ。」
「誰もいやしないわよ。その声がね、身体に響くの。ああ、男の人になったんだなあって。」
「思うんだ。」
「ええ。」

アスカは潮風に髪をなびかせて、気持ちよさげに言う。

「でも、わたしの知っていた、小さな可愛い、一生懸命だったけど情けない頼りないシンジが。」

まっすぐ、海の彼方を見ている。

「無性に懐かしくなる。あの頃、喧嘩したり突っ張り合ったり、焦れてわめいてたころのシンジ。」
「今から考えると、アスカだって、てんで子供だったよな。」
「そう?」
「そうさ。胸なんか今の半分みたいな気がするし、腰やお尻だって。」
「シ、シンジッ。」
「誰もいやしないよ。」


夏の終わりの浜辺は、少し映画の最後のシーンみたいで、ちょっとロマンチックだった。


「じゃあ、このままキスしてよ。」
「いいよ。」

流木に腰かけたアスカ。僕は立ち上がって唇だけで触れるキスをした。














こんなアスカを大好きだ(8月)こめどころ 12−04−2009





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