赤い湖が眼前に広がっていた。
ごく弱い波が、僅かな音を立てている。

 

シンジとアスカは膝を抱え込んでそこにじっとしていた。

 

 



  海辺

      こめどころ



 

 

「結局、私達のしてきた事って何だったと思う?」

「わからないよ・・。只、僕はここに戻ってくる前に夢を見ていたような気がする。」

「夢を?」

 

アスカの顔が僕の方を向いたのが分かった。

 

「そう。何もかもが一つになった時、
ありとあらゆるものが僕の中に溶け込んで来た。そんな夢だった。」

 

綾波、母さん、父さん、冬月さん、日向さん、リツコさん、マヤさん、そしてアスカ。

 

「あのままでいたかったんだ、本当は。あのまま揺られていれば何の苦しみもなかっ
たんだとすれば、帰って来ようなんてきっと思わなかった。」

 

でも・・・。

 

「既に存在していた悲しみや苦しみが消える訳じゃなかった。」

 

あの苦しみを、悲しみを、再びは繰り返さなくてもよい、というだけだった。

 

だから、味わった苦しみそのものは永遠にあの海の中でも繰り返し僕らを苦しませる。
あの一番思い出したくなかった事がやってくる時。
自分のだけじゃない、誰かの意識迄もが流れ込んで来て自分を粉々にする程苦しめる。
劣等感や、羞恥や、後悔や、憎しみが。

 

こっくりと頷くアスカ。

 

「あの時、私はもう死んだはずだったけど。
死んだら何もかもなくなると思っていたけれど。
なくなればもう何もかもから解放されると思っていたのだけど。ちがった。」

 

アスカの指が砂をなぞっていく。

 

「あの海のようなものの中でも、やっぱり同じだった。みんなと私は違う。
違うのは、私が優れているから。
私は平気だから。誰もいなくても生きていけるから。
そう言って私自身が決めつけて来た、私がこの世の中にあっていい理由。
自分がその事を意識しさえしなければ生きていけるから。
身体の形がなくなっても普通の人たちが溶け去ってしまっても、
苦しみを感ずる自分のフレームは消え去りはしなかった。
あの苦しみこそが私を形作るものなのだとすれば、私はいつになったら救われるというの。
普通に生きていいんだと言う許しを誰が与えてくれるの。」

 

アスカは結っていた髪をほどき、インターフェイスセットを外し、言った。

 

「気がつかなければもっと楽だったのにね。」

「なにを?」

「自分が寂しがっていると言う事に。自分が誰かに愛されたいと思っている事に。
誰かが自分を待っていてくれる事を願っている事に。」

 

唇を噛みながら、アスカが俯いた。

 

「こんな世界は嫌だけど、一つだけ救いがある。」

「それは・・・何。」

「あんたがいるということよ。」

「僕がいると、何が救いになるの。」

「よく聞いて。シンジ、私をあなたの手で殺して欲しいの。」

 

シンジの目が驚きと恐怖に見開かれる。

 

「あんたが私の最後の救い。私を殺して、永遠にこの苦しさを抉りとって欲しいの。」

 

死ぬ事は素敵。全てをクリアにしてくれるもの。
永遠の静寂、永遠の和解、永遠の眠り。

 

「あんたが望むこと、何でもしてあげる。その代わりに私を殺して。」

「アスカは・・・。全てをもう、無に戻してしまいたいの?」

「そうよ。もう疲れたの、生まれる前に帰りたいのよ。」

「残された僕はどうすればいいの。」

「可哀想だけど、自分で考えて。私には分からない・・・」

 

アスカの為に帰って来たのに。
一番理解し合いたかったこの子のために。
人の形は、僕と彼女を隔てるけど、
生まれてしまった悲しみを
身体の中の苦しみを、中和して、消してしまえるのは
生きてる者にしかできない事だから戻ったのに。
シンジはうっすらと微笑みを浮かべた。

 

・・・いいよ。それしか君が望まないなら。

・・・いいよ。僕はもういらないから。

・・・君は最後まで拒絶して逝ってしまうんだね。

 

ここにいる君は、君の心の形。
傷ついた眼は、無理矢理こじ開けられて貫かれた君の心。
裂けた手も、断ち割られた身体も、汚され、犯された君の心。

だから、君は死んでしまいたい。それが君の最後の誇りだから。

 

アスカはシンジの隣に静かに横たわった。

 

誰にも愛されていない人間なんて、死んでいるのと同じじゃない。
誰にも見てもらえない人間なんて、そこにいないのと同じじゃない。
誰も知らない私の姿なんか、消えてしまってもかまわないじゃない。

誰にも求められていないのなら、誰にも必要でないのなら。

生まれる前の世界に還るしかないじゃないの・・・

 

シンジもまたアスカの隣に横たわった。

 

これが、アスカにしてやれる僕の最後の・・・
息を整える。
少女を消してしまう為の心を定める。

少年は、音もたてずに身体を起こした。無防備にそこにいる少女の首に手を添えた。
親指を立て、その喉笛にあてる。そのままの姿勢で、最後にアスカの唇に自分の唇
を重ねる。そして、顔をあげる。僅かに視線をからませた後、目蓋が閉じられ、
少女は静かに待っていた。

 

息を深く吸い込んだ。
最後に少女はそのまま少年に頬笑んだ。
その愛らしい唇が動いた。『ありがとう』と。

 

「は、ふんっ、んんんっ!」

力一杯に、少女の首をへし折る為に首を絞める。少女が歯を食いしばる。
首の血管が膨れ上がり、真っ赤になった少女の顔が、どす赤黒い色に変わっていく。

「うぎぎぎぎぃぃぃっ。」

激しく抗う少女の手がシンジの顔を掻きむしり、深い傷をつける。血が頬から零れ、
彼女の身体に落ち、アスカの指から手へと伝っていく。ぽた、と少女の頬に垂れて
落ちていく。2つ、3つと。

「がはっ!ひゅっ!」

力を込め、両膝でアスカの肋骨を絞り上げるように挟んで全体重をかけ首を絞める。
アスカの口元から涎と泡が溢れ、鼻血が噴き出す。激しく波打っていた身体が全身
でシンジをはね除けようとしていた。その動きが次第に緩慢になりばたばたと単調
な動きに変わり、痙攣になっていく。背筋が弓なりにしなり、瞳が反転し、白目の
断末魔の顔になっていく。内出血のような黒い斑点が、血の気の失せた真っ白な顔
に浮き出す。びくん、びくん、と跳ねていた身体が次第に静まっていく。顔にたて
られていた爪の力が抜け、ずるずると腕がアスカの身体の横に落ちた。そのあと、
永遠に感じられるほどの時間、少年は力一杯、冷えて固くなった娘の首を絞め続け
た。シンジは自分の手がやけに大きくなった様な気がした。少女の首はシンジの回
した指がたっぷり残る程、華奢で細かった。

 

そして何もかもが終った。シンジは立ち上がり固まった自分の手を片方引き離した。
そしてもう一方のアスカの首に食い込んだ指を震える手で引き剥がした。黒くなっ
た自分の手の跡がくっきりと喉笛に残っている。人を殺した興奮にシンジの性器が
こんな時に猛々しく屹立している。許されない罪を犯した怯えから少年はおどおど
と1、2歩後ろへ下がリ尻餅をついた。

 

「はあっ、はあっ、はあっ、はあっ。」

 

身体が、少女から奪った酸素を求めていた。少年は、激しく呼吸音をたてながら
横たわったアスカの身体を眺めた。そして、身体をゆっくりと少女の口元に寄せて
片方の耳を寄せた。何の音もしない。呼吸が止まっていた。目蓋を手のひらで閉じ
ると苦悶の目線が消えた。飛び出た舌を口の中に無理に戻して、あごを押して口を
閉じさせた。眉を直し根気よく皺をこすって戻すとやっと穏やかな表情になった。
口元からピンクの泡が零れていた。鼻腔から血がふた筋、首の後ろに流れ固まりか
けている。周囲を異臭が取り巻いている。少女の腕を取りプラグスーツの解除スイ
ッチを押すと小さなはっきりした音がして、身体を締め付けていたスーツの襟首や
袖口、胸元や足首が弛んで少女の肩がむき出しになった。

シンジはアスカを抱え上げると浅瀬に進み、そこで、少女のスーツを引き剥がして裸身にした。
真夏の日本にやって来て一度も海にすら行く事ができなかった白い雪のようなアスカの身体を、
シンジは初めて見た。

海の中に正座をし、彼女の頭を膝の上にすえた。
うち寄せる波を手のひらですくい上げ、一つ一つシンジはアスカを浄めていった。
そして全てが終った時、シンジは膝から海の中にアスカの頭をゆっくりと押し出し、手を離した。
白い身体が、海の中にまっすぐに浮んだ。

美しい赤金色の髪が柔らかく波の中に広がっていく。

 

 

一筋、少年の頬を涙が伝わっていった。
続いてまた一筋、次々とシンジの頬を伝わっていく涙。
少年は、泣いた。声をあげて泣いた。今、彼の一番大事なものが失われたのだ。
もう取り返しはつかない。
シンジはまるで母の死を眼前にして泣く子供のように、大声で泣きつづけた。
涙が止めどなく流れ、止まらないまま鼻水と涎だらけになって泣き続けていた。

 

どのくらいの時間が流れたのだろう。
少年は少女と手をつないだまま呆然と浅瀬で波に洗われている自分に気付いた。

すっかり開き切った巨大な半天球から日の光が射し込み彼の背中に温かさを伝えていた。

巨大な地底湖はその形成から初めて太陽の光を迎え入れきらきらと輝いた。
美しい景色だった。

どんなに瓦礫がその周囲を取り巻いていようとも、太陽と真っ青な空とそれを受けて
輝く水面は何者にも代えがたいほど美しかった。

太陽の光。その温かさが全ての物を育み、生命を永遠に伝えていく。
この初源から暗く閉じられていた空間にもその光が降り注いだのだった。

湖(うみ)は昨夜まで確かに陰湿な赤い色に染めあげられていたのに、
既にその赤をすっかり失い、空を映し青く澄んでいた。

少年の目からいつの間にか再び涙が流れ出した。
心が堪えきれぬ程に締め付けられたのだった。

 

 

 

 

 

その時、少年は、不思議なことに気がついた。

 

アスカの透き通った青い瞳が水の中で開いている。
その頬に水面の斑紋が揺れている。
その水中の瞳は泣いているシンジを不思議そうに眺めていた。

ぽこっと口の中から白い気泡が浮んだ。
濡れた手が、ゆっくりと水面を割って伸び、シンジの頬を包んだ。

そして水の中から、アスカは身体を起こした。

眼を瞬かせ、濡れた髪を濡れた身体に張り付かせ、戸惑ったように自分の身体を、
手を、指を、確認している。

 

「やだ、何これ。何故海の中に沈んでたのあたし。」

 

シンジはそれが信じられなくて鼻水の糸を引きながらべちゃぐちゃな顔で微笑んだ。

シンジはアスカにゆっくりとにじり寄ると思わず彼女をかかえこんでて抱き締めた。
きつく、しっかりと抱き締めた。もう離しはしない。この温かい身体を2度とこの手
から離さない。アスカを放さない。

そして、アスカにしがみついたまま、アスカの小振りな頭を自分の胸に押し付けて、
再び、静かにまた彼は泣きはじめた。
感謝しながら、誰に向かってなのかわからないが、ありがとうございますと
幾度も幾度も繰り返した。

アスカは抱きつかれたまま、シンジの頭を濡れた手で優しく撫でた。

 

「気持ち悪いわねえ、何なのいったい。なにがあったの・・・」

 

シンジはアスカから身体を離し、その青い瞳を正面から見つめた。
そして、もう一度さらにきつく、きつく抱き締めた。

 

「どうしたのよ。ぐちゃぐちゃになって、みっともなくなって。
そんな顔じゃ、女の子にもてないわよ。」

「いいんだ。・・・いいんだ。めちゃくちゃでいいんだよ。僕は。」

「いったい何言ってるのよ。く、苦しいよ、シンジ。ちょっとってば。」

 

青い瞳は戸惑いを隠さない。でも不思議と離してくれと言う言葉が出なかった。

信じられない程心地よい抱擁。

何故シンジが泣いているのか、何故私を抱き締めるのか。
抱き締められている?私がシンジにこんなに求められている?
シンジの手が私の頭をいだき寄せる、自分の頭を押し付けながら、泣きながら。

 

「アスカ、アスカ、アスカ、よかった・・・ほんとうによかった。もう離さない。
絶対に離さないからね。たとえほんの一瞬でも離さないんだからねっ。」

「何言ってんのよってばっ!あんた、気がおかしくなったんじゃないの。
あたしが何処へ行くって言うのよ。何処にも行かないったら。
ほら、何処にも行かないってば!」

 

あたし、泣いてる?

この馬鹿シンジと一緒に泣いてる?

なぜ?何故こんなに涙が?

その身に一糸も纏わぬまま、アスカはシンジと抱きしめあっていた。

いだきあって泣いていた。

涙が出た分だけ、身体が温かくなるような心地よい涙だった。
浜辺で2人は、固く、固く抱締めあったまま、しだいに声を上げて泣いた。

 

なによ。なによなによ。あたし何処にも行かないからね。
あたしだって、あんたの事もう絶対離してあげないんだからね。

 

温かい泣き声だった。きっと、きっと幸せになれる。

また再び、人間の世界がやってくる。

きっと。

 

 

 

 

 

遠く近くに寄せくる波は

過去のにおいを懐かしむ

過去はいつでも鮮やかだから

空吹く風は至高を目ざしさらに舞い上がり

地の星 天の星は互いに声をかけあい

巨大な螺旋をかたちづくる

そう 自分の弱さを許せない時
いつでも君は僕より先に顔を上げる

そんな時僕は
凛として大海に向かって立つ君の青蒼の瞳に
神の座のような銀河の逆巻きを見るのだ

雲の切れ間から覗く青空が

その白い手のひらに乗っている希望を

奇跡のように僕に差し出してくれる

 

 

 

いつも

 

 

 

 

 

komedokoro/umibe/2002/01/09
Fujiwara Fanfictionより転載2008/02/05


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