※警告※



このお話はLASではありません。

積極的にLASを否定する内容ではありませんが、肯定するものでもありません。

ふとした着想をただ書き連ねた、お話ともいえないようなものです。

脈絡なく始まって、脈絡なく終わります。

本編に準ずる世界のお話です。

主要な登場人物は碇シンジと渚カヲルであり、ほぼこの二人のやり取りから成り立ちます。

惣流・アスカ・ラングレーや綾波レイも出てきません。

以上のことから、ご覧になるかどうかを各々ご判断願います。


念のため、注意書きです。






































たなごころの星、足裏には月あばた


rinker





 お風呂に行こうか、と灰色の髪をした少年が立ち上がって手を差し伸べた。
 膝を抱えて三角座りしていた碇シンジは、数拍の間、呆けたように少年の手を見つめてから、慌てて返事とも何とも判然としない声を出し、自分も立ち 上がるために抱えていた脚を崩した。

「ほら、掴まって」

 もたもたするシンジの手をこだわりもなく掴んだ少年の手は、意外なほど力強かった。歳のころは同じ、シンジと比べても取り立てて大柄ということもなく、 この少年もむしろ華奢な部類だ。
 心持ちがこんな何気ない瞬間に握力の違いとなって現れる。その証左のようだ、という苦い思いがかすかにシンジの心をかすめた。

「ん?」

 しかし、シンジを引っ張って立たせた少年の笑顔は屈託ない。いっそ汚れを知らない幼児のようで、こうも無邪気に笑える存在を他に知らないシンジには、こ とのほか眩しく映った。

「気持ちいいよ、お風呂は。ここには職員用の大浴場があるんだってね。ぼくたちだって一応職員といってもいい立場なのだから、これを利用しない手はない。 お風呂が大好きなんだ、ぼく。広いお風呂を使い放題なんて、何てぜいたくなんだろう」

 そうやって本当にうっとり言うものだから、ついにはシンジは吹き出してしまった。

「いいよ。一緒に行こう」

 シンジが言うと、少年も嬉しそうに節をつけて答えた。

「行こう、行こう」





 シンジを風呂に誘った少年の名は、渚カヲルという。
 髪はくすんだ灰色で、肌の色素もほとんどない。強い太陽の下ではそのまま溶けて消え去ってしまうのではないかという儚げな容貌の中で、唯一両の瞳 だけがどこまでも赤い。鮮烈な血の赤。
 同じような瞳を持つ少女を一人、シンジは知っていたが、受ける印象は月明かりと陽光ほども違う。少女の瞳には美しく も冷やりとした氷の芯のようなものがあったが、カヲルの瞳は南国の明るい陽光を浴びて瑞々しく実った赤い果実を思わせる。
 実のところ、シンジはカヲルをよく知らない。何しろ出会ったばかりなのだから。しかし彼は、傷つき孤独に打ちのめされていたシンジに優しく笑いか けてくれた。優しい言葉をかけてくれた。今のシンジにはそれだけで充分だったのだ。
 驚いたことに偶然は二人の出会いだけに働いたのではない。カヲルはシンジと同じネルフという組織の人間で、使徒と呼ばれる敵性体を迎撃するエヴァンゲリ オンという巨大兵器のパイロット だった。
 自分を理解してくれるかもしれない、同情してくれるかもしれない、慰めてくれるかもしれない――この人こそは。
 カヲルの素性を知ったシンジの胸にそんな思いがよぎったのは事実だ。実際、カヲルは優しい。一人でいたくないというシンジの気持ちを察したように、彼の 宿舎へ理由も聞かずについて来てくれた。
 信じられる人間は誰もいない。優しくしてくれる人間もいない。父親も、同居していた保護者も、同じパイロットをしている少女たちも、皆シンジのことが嫌 いな のだ。でも、この人は、この人こそは。
 並んで歩く少年の端正な笑顔を眺めながら、シンジはそんなことを考える。

「ところでシンジくん、大浴場の場所を知っているかい?」

 突然のカヲルの問いかけに、シンジは一瞬呆気に取られ、それから笑った。

「なんだ、カヲルくん知っているんじゃなかったの」

 本当に久しぶりに笑った気がした。口の端に押されたほおの肉が強張っている。皮ふがひび割れ、表面から欠けらが剥がれ落ちる感触さえするほどだ。一体、 最後に笑ったのはいつだっただろう。誰の前でだったろう。それを思い出すことが、シンジにはできない。

「ぼくも知らないんだ。ジオフロントは広いけど、いつも決まった場所にしか行かないから」

「そうか。じゃあこれが役に立つね」

 と、カヲルは手に持った着替えの間からA4サイズのパンフレットのようなものを取り出した。開いたそれを横から覗き込んでみたところ、ネルフ本部の簡略 な案内図だ。どのランクの職員でも立ち入れる場所しか記載されていないが、大浴場はその中に入っていた。

「そんなものを持っているなら、最初から出してよ」

「ごめんごめん」

 二人は顔を見合わせて笑い合った。

「ああ、こっちだ」

 カヲルが指差すのは進んできた方向と百八十度逆だ。二人はまた笑って、回れ右して歩いて行く。
 ジオフロントに築かれたネルフ本部は広く複雑に入り組んだ構造をしている。そういえば最初にここを案内された時も、案内役自身が道に迷っていたな、と歩 きながらシンジは思い出した。
 大浴場はシンジが想像していたよりずっと立派な作りをしていた。しかし、人の姿はない。時間は午後九時を回っていたが、この時間ならネルフ本部には職員 がたくさんいる。真夜中から翌朝にかけても百人以上の職員が常時残るのだから、誰も利用しないということはないが、たまたまシンジたちが足を運んだ 時間は利用者があまりいない時間帯だったのだ。カヲルはひたすら笑顔を浮かべるのみだが、シンジは他の人間がいないことに少なからず安堵した。
 広々とした清潔な脱衣所。カヲルが選んだロッカーから二つ隣を選び、シンジは自分の着替えをロッカーの中に入れた。カヲルの着替えはシンジが貸したもの だ。体格はほとんど変わらないから着るには問題ない。下着は当然未使用品だが、一度穿いたものを返してもらうわけにはいかないので、あげたというほうが正 し い。こんな当たり前の厚意を誰かに施したことが最近あっただろうか。それも、思い出すことができなかった。
 他人と一緒に風呂に入るのが苦手なシンジにとって、ここで衣服を脱ぐのには抵抗があったが、連れのカヲルはといえば一切の躊躇も見せず、あっという間に すっぱだかになってしまう。その上「脱がないの?」などと邪気もなく訊ねてくるので、シンジも覚悟を決めるほかなかった。まさか服を着たまま風呂に入るわ けにもいかないし、今さらやっぱりやめたなどと言えるわけがない。すべて脱いだあとに腰にタオルを巻くか否か迷ったが、前も後ろも何も隠さず、鼻歌を歌い ながら浴場の扉をくぐるカヲルの尻を見て、自身はタオルを持つ手で股間を押さえて隠すにとどめることにした。





 身体と髪を洗い、肩を並べて湯の中に身を沈める。シンジがずっと感じていた、他人の前で裸身をさらすことへの羞恥ともいえないあいまいな躊躇いは、すで にかなり薄まっていた。しょせん人間とは慣れる生き物なのだ。
 とはいえ、シンジの態度はまだ、相手の出方を窺いながら恐々とすり寄っているといったところだ。媚を売る捨て犬のような卑屈な態度にシンジ自身気付いて いない。ところがカヲルはというと、そんなシンジを見て嫌な顔をするどころか、いっそう好ましげに微笑みかけるのだった。

「気持ちいいねぇ」

「うん……」

「こんな風に広いお風呂はさぞ素敵だろうと、ずっと考えていたんだ」

「こういうところは初めて?」

 シンジが問うと、カヲルは手のひらで湯をひと掬いして、また湯船の中にこぼした。

「初めてだよ。これまで個室の小さなバスルームしか使ったことがない」

「へえ……」

 個室のバスルーム、という表現にシンジはひっかかりを覚えた。でも、なぜだろう、と考えて思い至る。それは例えばホテルの一室を想起するように、家庭の 気配がまるで感じられない。一体この少年はこれまでどんな風に過ごしてきたのだろう。エヴァパイロットにはわざわざ変わった境遇の子どもを選んでいるのだ ろうか? そんなことまで考える。

「生まれて初めてお風呂に入った時、何て素敵なものなのだろうと思ったよ。皮ふの表面を湯が流れていく柔らかな感触。きめ細かな石けんの泡。その香り。湯 に浸かった 時の芯まで温まる心地よさ。この世にこんな素晴らしいものがあるなんて、と感動した。あまりに夢中になって、半日ほど浴室にこもっていたこともあるくらい だよ」

 人間が初めて入浴するのはそれこそ赤ん坊のころのはずだが、カヲルの口ぶりではどうも最近の出来事を語っているように聞こえて、シンジは妙な顔をした。 立ち居振る舞いに品位さえ感じさせるこの少年が、入浴できない非文明的な生活を長い年月送っていたとは、シンジにはとても想像できない。そこで、きっとこ う いった浴槽に湯を張って浸かるような入浴法をしたことがなかったという意味だろう、と考えて納得することにした。
 欧州出身である元同居人の少女も、あちらでは湯船に肩まで浸かるようなことはしないと言っていたことを思いだす。彼女自身は日本式の入浴法がいたく気に 入ったらしいが、厳冬の欧州でこんな熱い湯に入ったら心臓麻痺を起こす、と真顔で言っていたくらいだから、住む地域によっては、こんな風に入浴するこ とは考えられないのだろう。
 今、その少女は入院し、好きだったお風呂に入ることもできずにいる。湯をかき回し、シンジはそのことを思う。むろん男の自分が彼女と一緒に湯に浸かるこ となどできるはずはないが、こんな大きな浴槽を見て、彼女はどんな風に顔を輝かせるだろうか。想像の中で彼女の青い瞳が明るく輝くほどに、いっそう物悲し さが募 る。
 そういえば、とシンジはカヲルの横顔を窺う。どうやら色素欠乏症であるようなので、もとより色彩での区別はつけようもないが、それでもカヲルの顔立ちは 東洋的とも西洋的ともつかない、捉えど ころのない不思議な印象がある。渚カヲルと名乗るく らいだから、日本人の血は入っているのだろうが、とても純粋なそれとは思えない。とすると、シンジの想像どおり、彼はずっと外国で暮らしていたのかもしれ ない。

「カヲルくんって、どこから来たの? つまり、元々この街の人じゃなくて、余所から来たんだよねっていう意味だけど」

 訊ねると、カヲルは大浴場の天井を見上げ、うーん、と唸った。

「実はぼくにもよく分からないんだ」

「え」

 そんな馬鹿な、とシンジは目をまたたいた。

「一度も外へ出してもらえなかったから。初めて外へ出たのはこの街に向かう飛行機に乗るためだったよ。だから、たぶんEUのどこかだろうとは思うけど、詳 し い場所は知らないんだ」

 唖然としてシンジは言葉もなかった。これではまるで囚人の扱いだ。
 しかし、シンジの表情を見たカヲルは、軽く微笑んで言った。

「そんな顔をすることはないよ。確かに外へ出ないよう命じられていたけど、言うとおりにすると決めたのはぼくの意思だ。出て行こうと思えば、いつでも自由 に出て行かれた。それをしなかったのは、果たさなければならないことのためには留まっていたほうが役立つと思ったからだよ」

 分からない、とシンジは困惑した。
 カヲルが嘘をついている気配はないが、何とも捉えどころのない話だ。エヴァのパイロットが時に人間並みの扱いをされないことはこれまでの経験から分かっ ていた。ネルフにとって、その長である父にとって、パイロットは道具に過ぎないのだと。目的のためなら父やネルフの他の人間たちは何でもする。だが、それ にしてもこの温和な少年 を幽閉するほどの理由が存在するとは考えられなかった。
 これ以上詮索するのがはばかられて、シンジは押し黙った。カヲルも説明を続ける必要を感じないらしく、口をつぐんでただ湯を楽しんでいる。
 その沈黙がシンジには気づまりだ。頼むべき人間が一人もいない今の彼にとって、カヲルは唯一見出した心を許せるかもしれない存在だ。しかし、シンジは出 会ったばかりの人間とすぐさま気の置けない関係になれるほど大らかな性質の持ち主ではない。
 その沈黙に水音だけが波紋を広げる。かすかな身じろぎ、湯をかき回す手、髪の先から滴る水滴。現れては消え、消えては現れる波紋。それが沈黙を際立たせ て、いっそうシンジをさいなむ。

「緊張しているね」

 ずいぶんと経ってから、カヲルがささやいた。
 急に話しかけられて、シンジは動揺しながら答えようとした。

「そ、そんなこと」

 ない、と続けようとしたが、その言葉はかき乱された湯の中に溶けて音にならなかった。
 くすりとカヲルは笑う。シンジは羞恥に顔を赤く染めて俯いた。

「シンジくん」

 名を呼びながら、カヲルはシンジの肩に手をかけた。その手を振り払うまではしないものの、思わずシンジは身を引いてしまう。その様子を見て、カヲルは目 を細めて穏やかな笑みを浮かべた。

「触れられるのがいや? 他人との一時的接触が怖いのかい?」

 問われたシンジは頼りなくかぶりを振ったが、カヲルが距離を縮めようとすると、やはりそのぶんだけ身を引いて逃れた。

「な、なんだかおかしいよ」

「おかしい?」

 カヲルが小首をかしげて訊き返す。

「こんな風にベタベタするなんて、へ、変だよ。男同士だし……」

 もちろん、これは言い訳に過ぎなかった。男であれ女であれ、シンジは他人というものが怖いのだ。だが、カヲルはシンジの言葉尻を捉えたような答えを返し た。

「つまらないことにこだわるんだね。性別がそんなに大事なことかい?」

 カヲルの謎めいた表情にシンジは眉をひそめた。

「では、もしぼくが女になれば、きみにもっと近づけるかな」

「カヲルくん、何を……」

 言い差したシンジを触れるか触れないかの指先で遮り、謎めいた表情のままカヲルは言った。

「本来ぼくにはどちらでもいいことだ。きみが望むならそれも構わない。男女が対応するのがリリンの習いだというなら。シンジくんがあくまでそれにこだわる というのなら」

「どういう……こと?」

「分からないかい?」

「だって……無理だよ、そんな」

「なぜ」

「なぜって」

 混乱するシンジをよそに、カヲルは言葉を続ける。

「ATフィールドとは自我境界を示すもの。どこからが自己で、どこからがそうでないのか。その境界面の内側に自己はある。言ってみれば器のようなもの、そ して自己とは このお湯のようなものさ」

 と、手のひらで湯を掬ってみせる。

「器の形に応じて、外側から見える姿はさまざま。でも内側は、自己の本質は変わらない」

 カヲルは掬った湯をこぼした手のひらを顔の前にかかげて、その形をじっと見つめた。

「人間は、人間に限らず生き物は、自らの望む姿になることができる。そもそも進化とはそのようなものだ。多くの場合、それは長い年月をかけて行われる。で も、時には一瞬にして起こることもある。進化というほどじゃなくても、こうなりたいと願う心がATフィールドに作用する。自らを規定する器を自らの意思で 望むまま造り替える……、本当は誰にだってできるはずのことだよ」

 自らの手のひらから視線を外し、カヲルはシンジへ顔を向けた。その眼差しをシンジは言葉もなく受け止める。瑞々しい果実のような真紅の瞳、それがまっす ぐ にシンジへ向けられている。

「ぼくはきみと触れ合いたい……」

 彼の言葉が終わるか終らぬかといううちに突然視界がぼやけたのは、最初湯気のせいだとシンジは思った。しかしどうも妙だ。よく見るとぼやけているのはカ ヲルの身体のみで、周囲のものは変わらず はっきりと見える。
 驚愕にシンジは息を呑んだ。カヲルの身体が溶けたように曖昧になり、今やはっきりした形を失っていた。その中で瞳の赤さだけが鮮明だ。シンジの視線はそ こに繋ぎとめられて動くことができなかった。
 曖昧な輪郭がわずかに距離を縮め、手を伸ばしてくる。驚愕に囚われたシンジは身じろぎすることも声を上げることさえもままならず、その手が――手のよう な何かが自らの肩に触れるのを許した。
 見た目とは裏腹に感触は明瞭だった。手のひらと五本の指が、その体温がはっきりと肩の皮ふに感じられる。でも、とシンジは考える。彼の手はこれほど小さ かったか? 指先はこれほど細く頼りなかったか?
 溶けた輪郭が次第に形を取り戻しつつあった。瞳だけが明瞭であったものが、周りの顔かたちまではっきりと分かるようになる。
 再び現れたカヲルの顔を息をするのも忘れてシンジは見つめた。一見して変化はないように思われた。彼は相変わらず微笑みを浮かべ、シンジの視線を穏やか に受け止めている。
 だが、違和感を覚え、シンジは友の顔を凝視した。しばらくして違和感の正体に気付く。顔の部品ひとつひとつの造作が小さくなり、柔らかな丸みを帯びてい るのだ。 まるで本当に女の子になったかのように。
 熱い湯に胸元まで浸かっているにもかかわらず、シンジの身体は悪寒に襲われた。
 恐怖に強張る眼球をむりやりに動かし、カヲルの顔から下へ視線を移す。そして今度こそ、シンジは湯を撥ねてのけぞり後退した。少年の薄いが確かに男 のものであった胸板は、丸い膨らみに取って代わられていた。湯の中にたゆたうそれは、決して大きくはない、しかし疑いようもなく、少女の乳房だった。

「どうかした?」

 細くなった喉を通って出てきたのは、少女らしい高音だ。カヲルに似た、あるいはカヲルであった少女は裸身を隠そうともせず正面から向かい合い、シンジが 逃げた分の距離を縮めた。

「そんなに驚くようなことかな? その気になればきみだってできるんだよ、シンジくん」

「き、き、き、きみは……」

 言葉がつかえて上手く出てこない。シンジがまた尻ひとつ後ずさると、少女の身体がそれを追いかけた。

「ぼくはぼくだよ。きみと友達になって、一緒にお風呂に入りに来た、渚カヲル。外見が男でも女でも、ぼくの本質は変わらない」

 少女のきれいな高音がカヲルそのままの口調で言葉を紡ぐ。シンジは狂いそうになる頭を抱えてうめいた。だが、頭を抱えるシンジの腕をそっと取り、あごの 下に指をかけて持ち上げ、優美な微笑みのまま少女は言った。

「ぼくを見て、シンジくん」

 言われるままシンジは少女の顔を見た。「彼女」は美しいとさえいえた。少年の時も端正な顔立ちだったが、少女形にあってそれは際立って映えた。
 しかしシンジの心を打ったのは、彼女の微笑みだ。どこまでも純粋で穏やかな、混じりけのない笑顔。
 この笑顔があったから、自分は彼についてきたのだ、と 強く思った。信じる者も頼る者もなく、世界すべてが自分の敵に思えた時、まるで天啓のように彼は微笑みを携えて現れた。この微笑みなら信じられる……信じ たい。その思いは「彼」が「彼女」になっても変わらない。男でも女でも、この異常な現象を棚上げにしてでも、この人を信じたい。たとえそれが狂気の淵へ 一歩を踏み出す行為だとしても。

「カヲルくん……」

 呟かれた名は湯の中に落ちて、水音とともに波紋を広げた。
 カヲルがATフィールドを変成させて少女へと姿を変えたまさにその時、ネルフ本部発令所のコンピュータが使徒探知の警報を発したことを、シンジは知らな かった。





 前触れもなく浴場の扉が叩き開けられ、数人の男たちが中へ押し入ってきた。シンジは湯の中で飛び跳ねて驚き、乱入者たちを見た。彼らは皆一様に防弾ジャ ケットのようなものを着込み、手の中には銃が握られている。彼らは浴場全体へ注意を巡らせると同時に、驚いて硬直しているシンジと、カヲルのほうへ銃を向 けた。
 シンジと向かい合うカヲルは、ちょうど乱入してきた男たちには背を向ける格好になっている。シンジが視線を送ると、彼女はくちびるの前に人差し指を立 て、こっそりと片目を瞑った。それからゆっくりと振り返って男たちを眺め、よく通る声で言い放った。

「服を着たままでお風呂に入ろうとするなんて無粋な人たちだなぁ」

 驚いたことにその声は紛れもなく少年のものだった。まじまじとシンジが見れば、身体つきが明らかに変わっているのが分かる。正面に回って乳房の有無を確 認するまでもない。振り返る一瞬のうちに彼女はもとの少年に戻っていた。

「湯に浸かりたいなら、まずその大げさな服を脱いだらどうですか。それとも何か別の御用でも?」

 突きつけられた銃にひるみもせず、カヲルの声はあくまでのん気だ。人をくったその言葉に応えるかのように、男たちの背後から赤いジャケットを着込んだ女 性が姿を現した。

「ここにいるのはあなたたち二人だけ?」

 長い黒髪の女性は葛城ミサトといい、シンジと同居していた保護者だった。彼女はネルフでシンジたちエヴァンゲリオンパイロットを指揮する立場にもある。
 ミサトはシンジが見たこともないような冷たい目で湯の中の二人を見据えていた。気安いところのある女性だとシンジは思っていた。決して悪い人間ではない し、優しいところもある。しかし、シンジには窺い知れないような感情を腹の中に隠しているのも事実だ。最近になって、それを嫌というほど思い知らされた。 だからこそ、シンジは彼女と同居する家を出たのだ。
 あの目が怖い、とシンジは思う。憎しみと敵意で凝り固まった冷たい石のような目。
 男たちの先頭にミサトは立った。その手にも銃がある。シンジたちのほうへ向けてこそいないが、いつでも構えられるよう銃口を下げて両手で握っている。

「ここで何か変わったことは?」

 険しい声でミサトは質問した。
 シンジはなぜ彼女たちがここへ押し入って来たのか、その理由を知らない。わけも分からず、剣呑な雰囲気に口ごもる。変わったことといえば極めつけの出来 事があるにはあったが、言い出せなかった。先ほどカヲルの様子からして秘密にしようとしているのは明らかだし、言ったところで信じてはもらえまい。仮に信 じ てもらえたとしても、そうするとカヲルが害される恐れがある。何しろ彼は、とシンジは友の身の上を考える。長い間幽閉されていたのだ。その理由は、これ だったのかもしれない。

「答えなさい、サードチルドレン」

「な、何もありません」

 ミサトの冷たい視線を受け止められず、シンジは俯いて返事をした。名を呼ばれなかったことにも内心で衝撃を受けていた。それほどに彼女との心の距離は離 れてしまった。それを改めて突きつけられた気がした。
 シンジの返事は消え入るようだったが、それ以上難詰することもなく、ミサトはカヲルへ視線を移した。

「フィフスチルドレンね。セカンドの代わりに送られてきた」

「よろしく。あなたは?」

 愛想のいい声でカヲルは訊いたが、ミサトはそれに答えず、さらに質問をかぶせた。

「ここでサードと何をしているの」

「友人と一緒にお湯を楽しんでいるだけですよ」

「友人?」

 カヲルの言葉を繰り返すその声が嘲笑を含んでいるように感じられ、シンジは身を固くした。

「信じていない、という顔ですね」

 ミサトは答えず、相変わらず冷たい目で二人を睨みつけている。

「あ、あの、何があったんですか? どうしてここに……?」

 場の雰囲気に委縮してつかえながらもシンジが訊ねると、ミサトはしらばくしてから息を吐き、硬い声で言った。

「あなたが知る必要はない。本当に何もなかったというなら」

 それがシンジの言葉を封じた。どうすることもできず、彼は湯面に目を落とし、奥歯を強く噛んだ。

「三佐……」

 銃を構える男の一人が促すようにミサトに呼びかける。ミサトは目線でそれに応えると、シンジたちに向かって命令した。

「今からこの大浴場を閉鎖します。あなたたちはただちに出て行きなさい」

「閉鎖? 今すぐですか? そんな無茶なこと……」

 思わず声を上げたシンジだったが、ミサトに睨みつけられて黙り込んだ。

「命令よ。さっさとして」

 ミサトはあくまで硬い態度を押し通すつもりのようだった。シンジは彼女と言い合う気力もなくして、助けを求めるようにカヲルに視線を送った。

「仕方がない。言われたとおりにしよう」

 肩を竦めるカヲルには別段憤っている様子はない。それが彼なりの処世なのだろうか、とシンジは考え、少しがっかりした。とはいえ、本当に不満があるなら 彼が自分で言えばいいの だ。それを友人に肩代わりさせようとして、叶えられなかったからといって失望する。そんなのは身勝手な感情だ、とシンジは自嘲する。
 沈んだ表情になったシンジにカヲルは微笑みかけ、ミサトたちに向かって言った。

「ぼくたちが湯から上がって着替えるまで、外で待っていてもらえませんか。せめてそれくらいの配慮はしてもらえるでしょう?」

 ミサトは忌々しげな表情をしたが、しばらくして息をつくと、低い声で一言だけ答えた。

「……三分待つわ」

「五分ください」

 にこやかに、間髪入れず、カヲルは要求した。ミサトと男たちが目に見えて怒気を漂わせる。従順かと思えばこういう厚かましさも見せる友の態度をシンジは ハラハラしながら見守っていたが、結局ミサトが譲歩することにしたようだった。

「いいでしょう。五分、脱衣所の外で待ちます」

「三佐、しかし……」

「確証がない。まずは調査よ。責任はわたしが取る」

 ミサトたちが立ち去ると、シンジはようやく緊張を解いて、長いため息を吐き出した。何が起こったのか分からないが、とにかくこの大浴場を出ていけばそれ 以上咎めだてされるものではないらしい。

「一体なんだったんだろうね、カヲルくん」

「さあ……ごめんね、シンジくん」

 カヲルは首だけでシンジを振り返り、なぜか謝った。口元は相変わらず微笑んでいたが、それがどこか苦笑めいているようにシンジには感じられた。

「何で謝るの。別にカヲルくんが悪いわけじゃないのに」

「そうだね。何でかな」

 珍しく物思わしげに返事をして、カヲルは少し俯いた。
 何となく、シンジは先ほどのミサトの様子を思い返した。その目が向けられていた対象、敵意の先は、この友ではなかったか? 仮にもエヴァパイロットであ る彼を歓迎こそすれ、敵視する理由などどこにもないはずなのに、なぜ?
 何か自分の知らないことが起こっている。本当に何も起こらなかったのなら、あなたが知る必要はない、とミサトは言った。では、あの時本当にことを話して いたら、彼女は何か教えてくれたのだろうか。だが、それは友を売る行為でもある。これまで幽閉されていたらしいカヲル。それにミサトのあの暗く冷たい目。 自分が裏切ることで友の身に最悪の事態が起こることも考えられる。
 自分は何を信じ、どう振る舞えばいいのだろう。ぼくのすべきことは何なのだ? 自問するシンジの迷いは深い。

「まあ、温まる時間はあったからよしとしよう。上がろうか、シンジくん」

 言葉とともにカヲルは湯の中から立ち上がった。相変わらずどこを隠す様子もなく、湯を落としながらまっすぐに身体を伸ばしている。決して均整の取れた身 体というわけではない。十四、五歳という年齢に特有の、華奢で長いばかりの手足と胴体との釣り合いが取れず、まるで蜘蛛のような印象を与える肢体。しか し、そ れでもカヲルの立ち姿にはどこか目を引く潔さのようなものがあった。

「どうしたの、シンジくん? 早くしないと五分過ぎてしまうよ」

「あっ……」

 振り返ったカヲルの外見がまた変化していた。薄い胸板であった場所に控えめな乳房が膨らみ、骨の張り出した腰からは角が取れて柔らかな曲線を描いてい る。下腹部にあるべき男性の象徴もなくなり、代わりに淡い翳りの下に一筋の亀裂が走っている。
 全体のバランスがどこかちぐはぐな風なのは少年の身体と同じ だが、本来乳白色をしていたものが湯で温まって薄紅色に染まった彼女の裸形は、この上なく純粋で美しく、そして妖しい。
 シンジは自分の一部分が硬く張り詰めるのを感じた。その反応はあまりにも一瞬で、またあまりにも当たり前のように起きたので、彼は隠すことも忘れて いた。
 ぽかんと口を開けて自分を見上げているシンジを、カヲルは変わらぬ微笑みを浮かべて見下ろしていた。屹立した男性器からことさらに目を逸らすでも、逆に 凝視するでもなく、ごく自然に視界におさめている。
 むろんシンジもその手のことに関して年齢相応の健全な興味を持ち合わせている。女性――というよりこれは同僚の二人の少女のことだが、彼女たちの裸を偶 然見てしまったことはある。その時も彼の身体は同じように反応した。だから、今の彼の反応も当然といえるかもしれない。
 しかし、目の前に立つ少女はシンジの知るどんな女性とも少女とも異質な存在だ。彼女は美しい少女であると同時に少年でもあり、シンジの友でもあり、唯一 の味方で もある。シンジはそのことをよく分かっている。本来欲望を抱く相手ではない。にもかかわらず、彼の性器は痛いほど勃起している。身体の中央に突き出し反り 返るそれの目指すのは、つまるところ、 彼女と触れ合うことだ。本能としてシンジにはそれが分かったし、理性の上でも認識できた。
 本当に自分は彼女と触れ合いたいのだろうか。彼女の指摘したとおり、シンジは他人との接触が怖い。それでも他人を求めている。怯えながら距離を窺い、相 手の出方を測り、こちらの出方を思案する。畢竟他人とはシンジを傷つける存在だ。どんなに友好的な顔をしていても次の瞬間には牙を剥くものだし、そもそも 友好 的であること自体少ない。ごく何でもないことのように、平気な顔でシンジを傷つける。彼には他人の反応が予測できず、それゆえ怖い。委縮するから上手く対 応できない。それでも他人に近づきたい。この葛藤を乗り 越えられないことがいつもシンジを卑屈にさせる原因だ。
 しかし、カヲルが他のどんな人間とも違うところは、他人という垣根を感じさせないということだ。それくらいカヲルの心はシンジに向かって開かれ ていた。ほとんど無防備と言っていいほどに。シンジの醜いところも何もかも受け入れてくれる。この風変わりな友の微笑みにはそう思わせてくれるものがあ る。姿かたちが少年でも少女でも、これだけは変わらない。あくまでその本質は揺らがないのだ。
 開かれているのは身体についても同様だ。同じ少年として裸体を隠そうとしないのはまだ理解できる。中学校の同級生の中にもそうした種類の少年はいるから だ。羞恥心の(あるいは自意識の)強いシンジなどには真似できないことだが、確かにそういった少年はいる。しかし、カヲルの場合、姿が少女になってもまっ たく態度が変わらない。どころか、むしろ進んで接触を求めて来さえする。同性としてもそれはいささか怯 むところがあったが、異性となった今ではシンジを動揺させるに余りあった。

「さ、行こう」

 少し屈んだカヲルは、薄紅に染まった手を差し伸べた。華奢で長い手は、シンジの身体へ触れるわずか手前に留まり、りきむところのない手のひらが上を向い て、彼に取られるのを待っている。
 シンジは湯から出した手を持ち上げ、伸ばしかけ、しかしふとその手を止めた。
 小さくて優美なカヲルの手を見つめ、性別が変わるだけでこんなにも印象が変わるものなのか、とシンジは頭の隅で思う。
 この大浴場へシンジを連れてきた手。外見の印象はまったく違うようで、その本質は今も変わらない。先に彼女が、彼が言ったとおりに。
 あの時は一方的に掴まれるに任せていた。今度は差し出された手を自分から取る。そうすれば、自分の寂しさを埋めてもらえるのだろうか。このどうしようも ない孤独を埋めてくれるだろうか。熱い湯に浸かっていてさえ凍えそうなこの心と身体に温もりを与えてくれるだろうか。
 しかし、シンジは動けなかった。
 少女の細い指と小さな手のひら。折れそうな手首と華奢だが柔らかそうな腕。その先にけぶるような微笑をたたえて待っているカヲルの顔と、匂いやかな異性 の肉 体がある。
 本当にこれでいいのだろうか?
 シンジは自らに問いかけた。逡巡が恐怖を伴って彼の手を凍りつかせている。
 たとえばもし元同居人の少女が相手であったなら、おそらくシンジは逡巡を振り払っていただろう。エリートパイロットを自負する彼女は、その性情 は 刺々しくとも、魅力的であることにかけては誰よりも勝っていた。これが女なのだ、という強烈な存在感。ほとんど痛みすら伴うそのまばゆさ。
 少年であるシン ジにとって、いまだ少女の域を出ないとはいえ、女とは彼女のことだっ た。もしも身を差し出されたなら、たとえそれによって傷つこうとも、むしろシンジは進んで彼女をかき抱いたに違いない。
 だが、カヲルは一体何なのか。
 おそらく彼女はシンジが欲望を露わにぶつけたとしても、抵抗もせず受け入れるに違いない。微笑みを浮かべたまま、優しい言葉さえかけてくれるだろう。そ れはどんなにかシンジを慰めてくれるか知れない。気をそそられるのは当然のことで、胸の内に焦がれるような期待がある。
 しかし一方で、シンジには予感があった。この美しい少女の手を取ったとしたら、彼女が連れて行ってくれるのは、きっと欲情を超えたところにある。
 もはやこの先にある「触れ合い」が手を握ったり肩を寄せ合ったりするだけで終 わるものではないことは漠然と分かる。カヲルの言った「リリン」とかいう言葉の意味はシンジには分からなかったが、男女が対応するという言葉どおり、彼女 が 女性の姿を取るのは、つまり結局は一つのところに行き着くのだ。
 それを分かった上で、なおシンジは思う。カヲルにとって本当は少年の姿でも少女の姿でも同じことなのだ。ただこちらからそれなりの態度を引き出すため、 都合のいい外見を選んだに過ぎない。おそらくそこに悪意などない、と彼には信じられた。けれど、代わりにうすら寒い不気味さを感じてならない。
 シンジは不意に確信した。
 姿かたちも、それに応じた行為も、カヲルにとっては問題ではない。
 彼女にとって本当に重要なのは、もっと別の、今のシンジには想像もつかないような何かなのだ。
 それを悟った時、目の前の少女の姿に底知れないものを感じて、シンジはぎくりと身を竦ませた。
 まるで天地も左右もない宇宙へ放り出されたかのようだった。ただただ認識の及ばない、その果てしない広がりを前に身動きさえままならない感覚。
 目に映るたおやかな少女の肉体。その内側に宿るカヲルの本質をシンジは見定められない。
 理解し合えるような気がしていた。カヲルはシンジのことを分かってくれ、シンジもカヲルのことを分かってあげられるのだと。……だが、本当にそうなの か?
 そもそもカヲルは人間ですらないのかもしれない。初めてそのことに思い至ったというより、のっぴきならないところまで来てやっと直視する気になった、と い うほうが正しい。この街へ父に呼びつけられて以来鈍麻する一方だったシンジの感覚が、今じわじわと恐怖を感じて悲鳴を上げ始めている。
 カヲルは友だ。信じる者も頼る者もなく、誰もがシンジを傷つける敵のように感じられる中で、唯一心を許せる存在だ。外見が男でも女でも、たとえ人間でな いのだとしても、関係ない。それでもカヲルを信じたい。手を取りたい。
 外見がどうでも本質は変わらない、とカヲルは言った。性別がどちらでも、人間でないのだとしても、カヲルはカヲルだ。シンジだってそう思う。……真実思 いた い。
 だが、怖い。今こそ本当に、恐ろしい。
 この手を取れば、自分はどうなってしまうのか。どこへ連れて行かれるのか。この先に何が待つのか。
 時が滞ったかようにシンジの硬直は解けない。
 額からあごへ流れ落ちた水滴が湯面に撥ねて音を立てる。波紋が生じる。
 屈託ない微笑を浮かべていたカヲルは、そんなシンジの心のうちを見て取ったかのように目を細め、雫のような囁きをしたたらせた。

「だからきみは好意に値すると言う」

「え……?」

 青褪めた問いかけに応えて、少女は顔を寄せ、果実を思わせる赤い瞳でじっと見つめ返す。

「好きってことだよ」

 鈴のような高音が柔らかな波紋を立て、シンジの耳朶を撫でた。
 微笑みが甘く深みを増す様は、果実が熟して落ちるのにも似ている。
 そして、たなごころは震えるほおを柔らかく包み込んだ。








very short stories.

 

 










 
あとがきに代えてカヲル考

 最後までお付き合い下さり、ありがとうございます。
 どうしてこんなのを書いたのか、と問われれば、何か思いついちゃったから、としか答えようがないのですが、大して意味はないお話なので軽く読み流してく ださい。


 さて。
 この先はたわ言なので、ご覧になりたい方だけどうぞ。
 そもそもの最初からたわ言だらけというのは言いっこなしです。
 特に、カヲルのキャラクターを非常に愛してらっしゃるという方は、おやめになられたほうがよろしいかと思います。
 
 カヲル考といっても別に真面目なものではありませんし、知識の持ち合わせもありません。
 異論反論あるでしょうし、書籍やネットですでに言及されたり否定されたり、何だりかんだりしている ところかもしれませんが、くれぐれも本気にしないでください、と前置き致しまして。
 

 渚カヲルには恋愛感情がない、と思います。
 文字通り、その概念そのものが彼の中には存在しないという意味です。
 なぜなら彼が「人間の姿をした人間ではないもの」だから。
 物語におけるカヲルの意味や、そのキャラクター性はこのさい脇におくとして、人間ではないというのが面白い点です。いわば生物学的な意味で。
 
 人間でないなら何か、というと、物語中ではそれは使徒だということになるのですが、そもそも使徒とは何かがはっきりしません。少なくとも、私は知りませ ん。
 だからこれは想像というか、こんなのだったらどうかなぁという程度のことに過ぎないのですが。
 使徒は体内に永久機関を持つというので、カヲルも同様に持っている、と仮定します。
 永久機関に生命活動のすべてを支えられている、と仮に考えた場合、その機能をきちんと働かせれば、食事で栄養を補給する必要はありません。排泄も当然し ない。呼吸もしないのかもしれません。彼らにとって、外界の環境は生存を左右する要素ではない。
 さらには傷を受けても外からの補給なし に自己修復するし、状況に合わ せて自己進化もする。
 使徒は一個体で一つの種と言えます。十何体か存在しますが、あれらは同じ起源を持ちながらそれぞれ種として独立しているのではないでしょうか。たとえば ヒトと 犬、魚と蠅のように。
 一個体で系として循環が完結していて、おそらく寿命もない。
 当然、繁殖もしない。必要もない。種の保存は個が存在し続けることで達成される。
 カヲルも同じ閉鎖系で、渚カヲルという一つの種です。
 そのように考えてみた場合、人間の姿をしていても、彼は人間ではない、ということになります。

 生殖の必要がなければ、機能も欲もないのは道理です。
 彼の生殖器はただの飾りに等しく、性的機能はまったく果たさない。これは 綾波レイについても「血を流さない 女」という表現があったように思います。その表現が実際どういう意図かは分かりませんけど。
 プラトン的愛という言葉もありますが、結局恋愛と性愛は切り離せないものです。人間は番いを作って生殖を行い、家族を、群れを作る。本能としてそれを行 い、 それができない状態を孤 独だと苦しみ、他人と寄り添うことを同じく本能として求める。
 しかし、カヲルには生殖の必要も機能も欲求もない。その本能自体がない。
 もし仮に彼がシンジと触れ合いたいと望むのだとしたら、あえて言えばそれはプラト ニッ クなものに近い気 がしますが、そもそも カヲルとシンジは種が違うわけです。
 人間の姿をしているから、彼の行動に人間の感情を当てはめて考えてしまいがちですが、彼の精神構造は人間とはかなり異なっているはずです。
 意思の疎通はできても、まったくの異質な存在としての渚カヲル。
 シンジへの好意はあるのでしょう。愛情もあるかもしれません。
 動物が好きという人はたくさんいます。草花が好きだという人も。しかしそこに抱く気持ちは、普通恋ではあり得ません。
 カヲルの言う好意も、それに近いものと言えるかもしれません。
 あるいはまったく別の、彼という種独自の価値基準に基づいた好意。
 彼はシンジに、ひいては人間に好意を抱いている、と言う。
 けれど、彼は人間に憧れているわけでも、人間になりたいと願っているわけでもない、という気がします。
 あくまで別種の生き物としての視線がそこにはあ る。
 カヲルには孤独という概念もないのではないでしょうか。彼一人で種が完結しているのですから。単独で存在するのが基底の状態であって、彼の本能はそれを 支持す るは ずで す。
 つまり、彼はシンジと、あるいはシンジ以外の誰とでも、寄り添いたいと求めているわけではないのだと思います。知りたい、理解したい、というのはあるか もしれま せん。しかしそれは生殖に結びつくものではないし、彼自身の生存に直接利するものでもない。あえて言えば自己進化の役には立つのかもしれませんけど。
 
 よって、渚カヲルには恋愛感情が存在しない。誰が相手でもそのような関係は成立し得ない。
 それは、彼という種そのものの特性と言ってもいい。恋愛という本能を種の保存に利用するのが、人間の特性であるのと同じように。

 ところで、これまで性別をまるで無視して恋愛や生殖と述べているのですが。
 カヲルがこれまで述べたような存在であるという仮定の上では、たまたま少年の器を持っているだけで、本来性別のない存在であろうと考えられます。
 通常、性別があるというのは、生殖機能を分化させているということですから。単体で種を構成し、生殖もしない彼にとっては、性別など何の意味もなく、そ こに拘る感 情も生じない。
 しかし、本当にその気になれば、彼は後天的に生殖機能を獲得することができるかもしれません。そのように自分を進化させて、必要なら人間と交配可能な遺 伝子を自 らの中に作り出し、繁殖能力を得る。人間をよりよく知ることで、あるいは知りたいという願望の力が、彼をそのような進化に促す。
 生殖機能を得れば、彼は人間という種に一歩近づくことになります。閉じていた系が生殖という一点において解放される。
 そうなった時、カヲルの中に新たな本能、新たな感情が芽生えることになるのでしょうか。

 
 といったようなことが何となく漠然と頭の中にあって、その上で今回のお話がぽっと浮かんだのです。
 とはいえ、繰り返しになりますが、これはこう考えたら興味深いという程度の、私個人の勝手な想像で、今回はそういう一つのカヲル像に基づいたお話であっ た、というだけ のことですのであしからず。
 

 「たなごころの星、足裏には月あばた」という題名には大して意味はなく、単に何となく浮かんだフレーズというだけなのですが。
 最初は「浴場奇譚」という題名 でした。浴場と欲情を掛けてます。……洒落です。
 こじつけるなら、「たなごころの星、足裏には月あばた」ではカヲルの中にシンジが感じた宇宙というか、未知との遭遇が表現されているとでも申しま しょうか。
 普通の気安い友人だと思っていたら、実は得体の知れない、正体不明の何かだった、という。
 月を踏みつけにして宇宙を飛び、手の中に星をもてあそ ぶような、途方もない何か。
 カヲル的にはシンジもまた星々の一つなのかもしれません。結局元はみんな星なんですし。形が違うだけで。
 
 そんな感じです。
 蛇足もいいところですが、以上説明でした。
 お話の内容もご覧のとおりで。もうちょっと上手く書ければ、と思ったのですけど。

 これを面白いと感じて下さる奇特な方は、きっとすごく少ないのではないか、というより、そもそも読んで下さる方自体ほとんどいらっしゃらないと考えるの です が、たまにはこんなお話を、ということで。

 それでは皆様。掲載して下さった霧島愛様。そしてこめどころ様。
 ありがとうございました。


 rinker/リンカ
 

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