ちょっとだけ続・愛だろ、愛。


rinker






 せっかくのクリスマスなのに仕事だなんて、と考えるのはやっぱり一緒に過ごしたい人がいるからこそで、そこのところは同僚の多くも同じ思いを抱いていた らしく、夕方の六時にはもうほとんどの人が仕事を終わらせて上がろうとしていた。もちろん、ぼくもその中の一人。上司はいつもみんなこれくらい手際よく働 いてくれたらなぁとぼやいていたけどね。そんな上司を尻目に、これからデートがあるとか合コンに行くとか子どもが待っているとか言い合っている同僚たちの 列に混ざってぼくもいそ いそ退社した。

「碇さんはどうするんですか?」

 これから彼氏とデートなの、とさっき嬉しそうに語っていた後輩の安西さんが、デート用の勝負メイクでキラキラした顔をこちらに向けて訊ねてきた。

「まっすぐ家に帰るよ」

 ぼくが当然という顔で答えると、同期の加藤くんがからかう調子で言った。

「碇には美人の奥さんが家で待っているもんな」

「そっかぁ。去年結婚されたばかりですもんね。でも、外でお食事とかされないんですか? イベントを無視すると女の子はあとが怖いですよぉ」

「確かにレストランでディナーも悪くないけど、何ていうか、やっぱり自分の家が一番落ち着くんだ。それに一応クリスマスっぽいこともするんじゃな いかな」

 ぼくの奥さんのアスカはゲルマン系と日本人の混血で、ストロベリーブロンドのすごい美人だ。スタイルも抜群。左目を過去に失っているのでその部分は眼帯 に覆われているけど、彼女の美しさの前でそれは何の瑕にもならない。
 ああ、そうだよ。自慢しているのさ。当然じゃないか。

「おれも金髪美人の嫁さんが家で待ってれば、脇目も振らず帰るんだけどなぁ。だからそんな出会いを求めておれは今日も合コンへ行くんだ。まあ、お相手の中 に金髪外国人なんていないだろうけどな」

 加藤くんのそんな言葉にぼくは笑って言った。

「家で待っているとは限らないけどね。向こうも仕事をしているから。それからぼくの奥さんは日本人でもあるんだよ。ぼくと結婚したんだから」

「ちぇ、のろけやがって。碇もアンちゃんも相手がいるからおれの気持ちなんて分からないんだ」

「ちょっと加藤さん。アンちゃんはやめて下さい」

 安西さんが不満そうに口を挟む。そうだよね、漢字が違えば『兄ちゃん』になっちゃうもんね。

「今日こそおれもいい子を見つけてやるぞ。じゃあな、おつかれ」

「おつかれさま」

 タクシーを掴まえに大股で威勢よく歩き去っていく加藤くんを見送ってから、ぼくと安西さんは何となく顔を見合わせた。

「でもクリスマスに合コンってどうなんでしょうねぇ」

 可愛い顔して毒舌な安西さんにぼくは肩を竦めてみせた。

「努力する者こそ救われるんだよ。これがきっかけで加藤くんに彼女ができれば言うことはない。さて、ぼくはこっちの駅だ。安西さんもデートを楽しんで ね」

「はい。碇さんも奥さまと素敵なクリスマスを過ごしてください。おつかれさまです」





 家に帰ると明かりがついていたので、てっきり奥さんが出迎えてくれると思ったのに、予想に反してただいまの声に反応はなかった。
 靴はあるのにおかしいなぁ。トイレかな?
 
「アスカ、帰ったよー」

 ネクタイを外しながらリビングへ入ると、クロスがかけられたテーブルに食器が並べられ、中央にはバラを挿した花瓶が置かれていた。キッチンからは何だか いい匂いも漂ってくる。今日はアスカも仕事だったはずだけど、一体何時から準備をしていたんだろう?

「ふーん。結構気合入ってるなぁ」

「んふふ、でしょ?」

 ぼくの呟きに答える声が背後から唐突に聞こえ、同時に背中から抱きつかれた。ううむ、背中に当たるこのまろやかで且つあったかく、ほやほやとしたやわい 感触……いつ味わってもたまらないものがあるなぁ。

「おかえり、あ・な・た」

「ただいま、アスカ」

 応えると、アスカは首を伸ばして後ろからぼくの頬にキスをした。

「顔がにやけてるわよ。どうしてかしらぁ?」

 ぴったり密着して身体を上下に揺すっているアスカは絶対に分かった上で言っている。ぼくの喜ぶツボをすべて分かった上で……! って、結婚しているのだ から今さらだよね。おっぱい大好きなんだもーん。
 とか何とか考えつつ、口では違うことを答えた。

「それはアスカが好きだからだよ」

「ふふ、バーカ。それで誤魔化されてあげるわ、シンジ」

「はい、誤魔化されて下さい」

 背中に引っ付いた奥さんのアスカは、ぼくの肩にあごを乗せてくすくす笑った。
 こうしてくっ付いたままでいるのも悪くはないのだけど、おなかも空いているし何より着替えたかったので、そろそろ離れてくれるよう伝えるために振り向く と、彼女の尖った鼻が頬に刺さった。それで顔を少し離そうとしたのだけど、その前に頬をぺろっと舐められた。

「アスカ」

「なあに?」

「そろそろ離れて。着替えてくるから」

「んふ」

 と彼女はほくそ笑んでまたぼくの頬にくちびるを押し付けたけど、なぜか離れてはくれなかった。

「どうしたの、アスカ?」

「そんなに離れてほしい?」

「うん、まあ……着替えたいし」

 答えたあとにぼくは少し考えて付け足した。

「着替えたあとでならまた抱っこしてあげるよ」

 この碇シンジの腕は奥さんのアスカを抱っこするためにあるのだから。……まあ、ある程度はね。かなりの程度。うん、ほとんどは。

「ふーん。ま、いいわ。じゃあ離れてあげるから、そうしたらゆっくりこっちを振り向いてね」

「うん……?」

 何だかよく分からないけれどとにかく返事をしたら、アスカがやっと背中から離れてくれた。そして彼女の言うとおりにゆっくりと振り向くと、そこには白い ファーの付いた真っ赤なチューブトップとマイクロミニ姿の奥さんがいた。左目は白いレースの眼帯で覆われ、髪留めにはクリスマスツリーの飾りみたいな ゴールドのボールがくっ付いている。

「じゃーん! ミニスカサンタちゃんよ。可愛い?」

 と、人差し指でほっぺたを押さえて満面の笑みを浮かべながらポーズを取る奥さんの姿があまりにお馬鹿で可愛らしくてくらくらきたのだけど、お腹に力を入 れて まっすぐ立つと、ぼくはにやけそうになる顔をしかつめらしく引き締めて彼女に苦言を呈した。

「そのスカート短すぎじゃないかな」

 別にお尻が見えそうなスカートを穿いているからって奥さんが風邪を引く心配をしているんじゃないよ。日本はクリスマスの時期でも汗ばむほど暖かいから ね。

「そお?」

 ぼくの苦言なんてそよ風ほどにも気にしていないという表情をしたアスカは、腰に張りついた極端に短い布切れの端っこを下に引っ張ってしわを伸ばし、くる んと回転して みせた。

「これ似合わない?」

「似合ってるよ」

「ならいいじゃない」

 その一言で議論は終わりとばかりに言って、背中を向けてお尻を突き出す扇情的なポーズを取ってこちらを見返すアスカ。

「……パンツが見えてる」

「見せてるのよ。それよりどう? あなただけのサンタちゃんよ」

 彼女がぼくだけのものだということにはまったく異存はないんだけどね。
 でも何ていうか、ここで彼女と同じノリになって浮かれるのには照れがあるのですよ。分かってもらえるかな、この気持ち。

「今度いくつになったんだっけ、アスカ?」

「教えない」

 二十六歳でしょ。ほっぺ膨らまして誤魔化すんじゃないの。二十日前に誕生日のお祝いやったばかりなのに。

「ねえ、シンジ」

 アスカはちょっと恨めし気にぼくを呼んだ。ちなみにお尻を突き出したポーズのままだ。

「何だい」

「どうして『可愛いね』って言ってくれないの?」

 拗ねて怒っているアスカの顔を見て、ぼくは大げさにため息を吐き出した。

「きみはいついかなる時も最高に可愛いし、できるなら今すぐ押し倒したいよ。でも、まずは着替えてくつろぎたいんだ。そのあとでなら何百回でも可愛いって 言ってあげるから。ね?」

「その言葉、確かに聞いたわよ」

 凍えるような声で奥さんは念を押した。
 内心しまったと思ったけど、ぼくはそれを顔に出さなかった。
 うむ、男に二言はないのである。

「じゃあ着替えてらっしゃい」

「うん」

「あ、待って」

 と、歩き出そうとしたぼくを引き止めたアスカは飛びつくようにぼくのくちびるを奪った。

「ん、いいわ。脱いだスーツはハンガーにかけて。洗濯物はかごに入れるのよ」

「はいはい」





 ミトンを着けた手でアスカがキッチンから運んできたのは、詰め物をした大きなガチョウのローストだった。ドイツのクリスマスではこれを食べるのが定番な のだそうで、 ニワトリよりもずっと大きいこの鳥を丸焼きにするために我が家には巨大オーブンが備え付けられている。去年のクリスマスには、それまで使っていたオーブン レンジではガチョウを焼くにはサイズが小さすぎるために、泣く泣く諦めて他の料理にしたのだ。ちなみに去年のメインは恵方巻きよりも太い巨大肉巻 きだった。ドイツ料理は大体品数が少ない代わりに量がどかーん、らしい。
 そんなわけで今年こそはとアスカは張り切っていた。その成果をテーブルの中央に置いて、彼女は腰に手を当てて得意げに言った。

「どお? 美味しそうでしょ」

「うん。すごくいい匂いだね。こんな丸焼きを食べるのは初めてだよ」

 こんがりと焼き色のついた、脚と翼の骨が四方に突き出す大きな鳥の姿には圧倒される。とても二人で一度に食べ切れる量ではないのだけど、アスカはどうし ても一羽丸ごとローストにしたかったらしい。
 それにしても、本当に何時から準備をしていたんだ? これを 作るにはかなり時間がかかると思うんだけど。

「ママに作り方を教えてもらった甲斐があったわね。たぶん上手くできたと思うわ」

 席に着いたアスカは赤ワインのコルクを抜き、ぼくのグラスに注いでくれた。瓶を受けとり、今度はぼくがアスカのグラスに注いであげようとすると、彼女は グラスを引いてかぶりを振った。

「あ、あたしはワインはいいわ」

「飲まないの?」

「ええ。でもシンジは飲んでね。それもママがドイツから送ってくれたのよ」

「まあ、そう言うなら。で、アスカは何を飲むんだ?」

「グレープジュース」

「ふぅん」

 確かにアスカが普段から飲むのはビールくらいで、それほどお酒に強いわけでもない。たぶん今日はあまり飲みたくない気分なのだろう。
 ぼくがアスカのグラスにグレープジュースを注ぎ、二人でグラスを打ち合わせて乾杯した。

「お肉はあたしが切り分けてあげるわ。あなた、やり方が分からないでしょ」

「ああ、お願い。このワイン美味しいよ」

「本当はそれでグリューヴァインを作ったらって言われたのよね。自分では作ったことがないんだけど、レシピは知ってるから飲みたければ言って」

「とりあえず今はこのままでいいよ」

「あとママたちに電話してあげてね。喜ぶと思うから」

「う。が、頑張るよ」

 ぼくのまずいドイツ語でどこまで話が通じるかなぁ。お義父さんは日本語が喋れるけど、お義母さんはドイツ語か英語しか駄目なんだよね。
 切り分けたガチョウのローストと付け合せのザワークラウト、ジャガイモの団子を添えてアスカが皿に盛りつけてくれる。

「本当に美味しそうだ。いただきます」

「はい。召し上がれ」

 ローストをナイフで小さく切り取って口に運ぶ。

「うん。美味しい!」

 けっこうこってりしたお味。ちなみにドイツではこれ、昼食だそうだ。

「そお? よかった」

「あと可愛いよ」

 付け加えると、アスカは一瞬ぽかんとした表情になってから、顔の中央にぎゅっとしわを寄せて、舌の先をべっと突き出した。

「こら、お行儀悪い」

「もののついでみたいな言い方するからよ」

「分かったよ。次は気を付ける」

「ええ、そうして頂けますかしら?」

 つんと顔を逸らして気取ったあと、こちらを見たアスカは右目を細めてにぃーっと笑った。

「可愛い奥さんと結婚できてシンジは幸せね」

「そうだね。時にはコスプレで驚かせてくれるから退屈しないしね」

 アスカは今もミニスカサンタちゃんの格好のままだ。というか窮屈そうなチューブトップの中に押し込められているおっぱいがさっきからぷるぷる自己主張を 激しくしていて、それが気になって仕方がないよ。

「次はちゃんと心を込めて言うのよ」

「赤い色がよく似合ってるよ」

 主におっぱい付近を眺めながら、ぼくは彼女を褒めた。もちろん、赤い色が似合っているというのは本心からの言葉だ。まだ少女のころから、赤色が彼女に一 番似合う色で、シンボルカラーでもあった。

「まあまあね。もっと頑張って」

 アスカはそっけなく言うと、切り分けたガチョウのローストを口に頬張ってもぐもぐやった。
 まあ、何百回でも言うとさっき約束したのはぼくだからね。頑張るさ。





 食事が終わると、アスカがお鍋で作ったグリューヴァインとクリストシュトレンの最後の残りを出してくれた。ドイツではクリスマスの四週間前からこの伝統 的なケーキを少しずつ食べる習慣がある。日本にはクリスマス特有の食習慣がないのだから、それならドイツの習慣に従ってもいいわよね、というのがドイツに ルーツがあるアスカの主張だ。
 彼女が自らの故郷に肯定的になったのは一体いつからだっただろう。今彼女が遠い故郷に対して抱いているものは、つらかった少女時代の思い出だけではな い。母を亡くし、並みの少女としての幸せも放棄した十年を過ごしたドイツ。さらにこの日本に来てそれまで積み上げてきたすべてがへし折れるような挫折を味 わい、心身ともに傷つき、左目を失う経験までした。それでもなお彼女の心は他人を愛し、家族を愛し、故郷を愛するしなやかさを備えるようになった。
 痛みや 苦 しみを優しさに変えて、今アスカはぼくの隣に寄り添い、ともに生きてくれている。彼女のような人のことを本当に強い人と言うのだ。

「グリューヴァイン、アスカのは?」

「あたしは牛乳」

「あんまり好きじゃないの?」

「んー。あたしも何度かしか飲んだことがないんだけど、別に嫌いじゃないわよ」

「でも、牛乳?」

「まあね。それより、そろそろまた言ってくれてもいいんじゃない?」

 食事の時と同じように向い合せになって食卓に着いたアスカは、肘をついて花のように広げた両手のひらにあごを載せて、キラキラした青い右目でこちらを見 つめた。
 ぼくは温かいグリューヴァインを一口すすり、彼女の片目をじっと見つめ返した。

「何か思いついた? それとも考えている最中?」

 アスカは面白がるように手のひらの上で顔を少し傾けた。

「うん。考えている」

「どんなことを?」

「どうしてアスカはこんなに綺麗なんだろうって」

 ぼくの言葉を聞いたアスカは、今日は一口も飲んでいないアルコールに酔ったように顔を真っ赤にさせた。
 今度はけっこう効いたみたいだ。
 といっても、別に彼女を喜ばそうとひねり出した言葉じゃない。本当に不思議なんだ。アスカは昔よりもずっと綺麗になった。結婚式の日よりも今のほうが ずっとずっと綺麗なくらいだ。そのことに時々ぼくは本当に驚かされる。
 くすぐったそうに微笑みを浮かべた彼女はうるんだ右の瞳でまっすぐに見つめてきた。

「それはあなたが愛してくれるからよ」

 物事をはっきり主張する国で育ったせいか、時々アスカはとんでもなくストレートな物言いをすることがある。ぼくがどぎまぎしていると、彼女は急に歯を見 せて笑った。

「あたしも愛してるわよ」

「うん」

 ぼくが頷くと、アスカは夢見るような表情で言った。

「素敵なクリスマスね」

「そうだね」

 フォークでシュトレンを一口に割って食べる。ドライフルーツがいっぱい入っていてとても美味しい。アスカも同じようにシュトレンを一口食べ、妙に真剣な まなざしでこちらを見つめた。

「どうかした?」

 ぼくが訊ねたら、アスカは一度視線を落とし、それからもう一度まっすぐにぼくを見つめた。

「シンジ」

「ん?」

「クリスマスプレゼントだけどさ」

「ああ。今持って来て交換する?」

 ぼくたちは毎年クリスマスプレゼントを交換している。もちろん開けてみるまではお互いに中身を知らない。去年はアスカから腕時計をもらい、ぼくからは指 輪を 贈った。ドイツでは開けるまでクリスマスツリーの足元に置いたりもするようだけど、我が家にはツリーなんてないからね。今年のプレゼントも寝室に並べて置 いてある。

「そうね。でも、先に特別なプレゼントがあるの」

「特別な?」

「ええ、喜んでもらえると嬉しいんだけど」

 ここでアスカは大きく深呼吸をした。
 一体どうしたっていうんだろう?

「ねえ、シンジ」

「ん?」

「今年もクリスマスを二人で過ごせて嬉しいわ」

「ぼくもだよ」

「それでね」

 妙に言葉を区切りながら話すアスカの様子におかしなものを感じて、ぼくは居住まいを正して相槌を打った。

「はい」

「来年のクリスマスを過ごすのはね、三人になるの」

「うん……え、それって?」

 一瞬どういうことか分からず、ぼくは思わず訊き返した。
 三人になる? それってまさか……。

「妊娠したの。実は今日、仕事休んで病院で検査してきたのよ。それで妊娠してるって確認できたの。今六週目くらい」

「あ、ああ、そうだったんだ」

 返事をしたものの、まだぼくの中ではアスカの言葉が現実味を帯びず、一旦手に取ったグラスを口に運ぶこともしないで、正面から向かい合う彼女をまじまじ と見つめることしかできなかった。

「ぼくの子どもが……」

「そうよ。喜んでもらえる?」

「ああ。もちろんだよ、アスカ。もちろん嬉しい。ぼくの子ども……そうか、ぼくは父親になるのか」

 ぼくはある種の特別な感慨をもってそう呟いた。
 アスカはそんなぼくを静かに見つめている。

「そ、それじゃ来年はクリスマスツリーを買わないとね。子どものころ、友達の家にたくさん飾りつけされてキラキラしているクリスマスツリーがあるのを見 て、すご くうらやましかったんだ。ぼくが育った家にはそんなものなかった。ぼくは……」

 しゃべり続けようとしたのだけど、そこで言葉がのどに詰まって出てこなくなった。代わってこみ上げてきたもので視界が突然歪む。ぼくは口をパクパクさせ て、何と かこの気持ちをアスカに伝えようとした。

「ぼ、ぼくは……」

 しかし、瞳に盛り上がった涙がいったん転がり落ちると、こらえ切れずに顔を手で覆ってすすり泣いた。

「やあね。泣かないでよ、シンジ」

 席を立ったアスカがテーブルを回り込んでそばへやって来た。彼女はぼくの背中に手をあてがい、俯いた頭をその豊満な胸に抱き締めてくれた。

「泣くほど喜んでくれるの?」

 アスカが小さく訊いたけど、のどから出てくるのは嗚咽だけだった。
 自分の子ども時代が決して愛情に恵まれたものではなかった、というのは今さらどうしようもないことだ。あくまでそれは過去のことなのだし、嘆いてみたと ころで仕方がない。しかし、その事実がぼくという人間の上に重くのしかかっていることもまた本当のことなのだ。
 四歳で母と死に別れ父からは捨てられ、他人に育てられながら、ぼくは常に親の愛情というものに飢えていた。だがその欲求が満たされることはなく、十四歳 の時に父が死ぬと、天 涯孤独の身となった。たぶん、アスカがいなかったらぼくはとっくに生きるのをやめていただろう。彼女は人間として、また男性としてのぼくを愛してく れた。それがぼくを救ってくれた。親の愛は結局知る機会を永遠に失ってしまったが、彼女の愛さえあれば生きていける。ずっとそう考えていた。
 そのぼくが親になる。
 ぼくと、ぼくが世界で誰よりも愛する女性との間に子どもが生まれる。
 血を分けた二人の子どもが……。

「ここにぼくの子どもがいる」

 赤い布地越しにアスカのおなかを震える手で触れ、ぼくはかすれ声で言った。

「そうよ。あなたとあたしの赤ちゃんよ」

「ぼくたちの赤ちゃん……」

 赤ん坊の存在を確かめるようにアスカの温かいおなかをさすった。彼女の内側では今確かに新しい命が息衝いている。この中で優しく育まれ、やがてこ の世へ産まれてくるぼくたちの子どもが。
 母さんのことなんてほとんど憶えていない。けれど、ぼくもまたかつて同じように母さんの胎内に宿り育まれ、この世に生を享けたのだ。父さん……やが てぼくを捨てることになる父さんは、かつてぼくが宿った母さんのおなかをさすってあげたことがあっただろうか。その父さんと母さんもまた、同じようにして 生まれてきたのだ。その事実にぼくは不思議なつながりを感じずにはいられなかった。

「ここに赤ちゃんが……」

「ええ」

 アスカのおなかを手のひらで確かめながら、彼女の胸でぼくは泣いた。手のひらの下にあるゆるやかな丸みを帯びた彼女のおなか……。

「……言っておくけど、今おなかがぽこっと出てるのは食べ過ぎたのが理由で、妊娠したからでも太ったせいでもないからね」

 それがものすごく重要なことだとでもいうように重々しい声でアスカは言った。
 彼女の言葉にぼくは泣きながらたまらず吹き出してしまった。確かに彼女のおなかは可愛くぽこんと膨れていた。

「アスカ、こんな時にそんなこと!」

「だって、シンジったらそんなに撫で回すんだもの」

 彼女の柔らかい胸に額を押し付け、ぼくは狂ったように笑い転げた。その間にも涙はとめどなく溢れ出した。
 そんなぼくの頭に手を置いて髪をかき混ぜ、アスカはぽつりとささやいた。

「ねえ、シンジ。あたしの左目、赤ちゃんに怖がられないかしら」

 その言葉にハッとして顔を上げると、アスカは最近は滅多に見せないような不安げな眼差しでこちらを見つめていた。
 帰宅した時から何度もぼくの言葉を確かめたがった彼女の真意を悟って、胸が引き裂かれるような気がした。
 彼女は強い。ぼくの知る誰よりも強い女性だ。しかし、それは何も感じないのと同義ではない。むしろ強い人間の苦しみこそ大きいということだってあり得る のだ。

「言ったろ。アスカは綺麗だ。生まれてくる子どもはきっとお母さんの優しい顔が大好きだと言ってくれるよ」

 誤魔化しでなく、本心からぼくは答えた。
 かつてぼくたちには、ばらばらに引き千切られた柔らかな心をもう一度縫い合わせて悲しみや苦しみを乗り越えた経験がある。だから、今必要なのは慰めでは なく、本物の言葉、本物の気持ちなのだ。たとえ一度は引き裂かれてつぎはぎだらけになったいびつな魂であっても美しく輝けるのだと、夫であるぼくは誰より もよく知っているのだから。生まれてくる子どもにだって、それが伝わらないはずはない。

「ありがとう、シンジ」

 アスカの瞳から涙が溢れ、頬を伝っていった。左目の痕を覆う白いレースの眼帯もまた涙でにじんでいた。

「お礼を言うのはぼくのほうだよ、アスカ。ぼくのほうだ。本当にありがとう」

 湿っぽい声でお礼を言うと、アスカはくすりと笑って、指先でぼくの涙をすくい取った。

「もうっ、泣き虫なパパなんだから。そんなことじゃ赤ちゃんに笑われちゃうぞ?」

 からかいを含んだ優しい彼女の言葉に笑いかけると、また涙がこぼれ落ちた。

「アスカ」

「なあに?」

「これって最高のクリスマスプレゼントだよ」

「あたしにとってもそうよ、シンジ」

 温かい口づけを交わしてから、ぼくたちはうるんだ眼差しで見つめ合った。
 親の愛の何たるかをぼくは知らない。家庭の温もりがどのようなものかをぼくは知らない。親が子にかけるべき言葉の一つさえぼくは知らない。
 それでもぼくは、今はまだ存在を始めたばかりの我が子を生涯愛するだろう。
 アスカと子どもを、ぼくの家族を、命を懸けて愛するだろう。

「素敵な家族になろう、アスカ」

「なれるわ。きっと世界一素敵な家族に。さ、シュトレンを食べましょう。グリューヴァインも冷めちゃうわ」

「きみの牛乳もぬるくなるね」

「そう。あたしの牛乳もね。あなた」











 四歳の息子を寝かしつけに子ども部屋に行っていた奥さんが居間に戻ってきたので、ソファからぼくは声をかけた。

「ちび助は眠った?」

「ええ、ぐっすり。何だかんだ言っても満腹で眠くてたまらなかったらしいわ」

 小さな一人息子はクリスマスイブのごちそうやケーキに大はしゃぎでおなかがぱんぱんになるまで食べていた。特に息子にせがまれてシュトレンの他にいわ ゆる 普通のスポンジとクリームのケーキを作ったアスカも、食べ過ぎを心配しつつも満足そうにその様子を眺めていた。大体我が子というものは いたずらをしている姿でさえ可愛く映るものだけど、口の周りを汚しながら食べる様子の可愛らしさといったらもう。
 息子はアスカ譲りのゲルマン的特徴も持ち合わせているけど、どちらかといえばぼくの幼いころに似ていて、アスカは彼を溺愛している。もちろん、ぼくも ね。

「それにしても考えることが面白いじゃないか。クリスマスツリーのそばに布団を敷いて寝たい、だなんて」

「そうすれば朝に目が覚めてすぐプレゼントを見つけることができるものね。それにもしかしたら夜中に目が覚めて、プレゼントを置くサンタさんに会えるかも しれないし。ね、サンタさん?」

 アスカは優しい母親の表情でそう言った。
 イブの夜中にクリスマスツリーの足元にプレゼントを置いて、翌朝に家族三人みんなで開けるのは我が家の習慣だ。でも、息子には子ども部屋からクリスマス ツリーま での距離がどうしてももどかしく感じられるらしい。

「プレゼントをくれるのはサンタさんだけじゃないけどね」

 肩を竦めるぼくの膝の上にちょこんと横向きに腰かけて、アスカは頬にちゅっとキスをしてくれた。

「パパたちも初めての孫ではりきってるのよね。あなたのおじさんもそうじゃない?」

 おじさん、というのはぼくの育ての親のことだ。父に預けられ、四歳から十四歳まで彼に育てられた。といっても血のつながりはなく、ぼくは昔は先生と呼ん でいた。アスカと結婚する少し前からまた連絡を取 り合っていて、結婚式にはぼくの父親代わりとして出席してもらった。ぼく自身は育ててもらっていたころ先生から分かりやすい愛情を与えられたと 感じたことはないが、その彼が実はあんなに子煩悩(孫煩悩?)だとは想像もしていなかった。何しろぼくらに息子が生まれた年から、誕生日にクリスマスのプ レゼント、お正月のお年玉と欠かしたことはないのだ。まったく赤ん坊にお年玉なんて!

「あまりにあれこれ与えてぜいたくをさせると教育上よくないんじゃないかな。欲しいものは何でも手に入ると勘違いするようになる」

「かといってプレゼントを贈るなとも言えないわよ。ま、締めるところはしっかり締めましょう。せっかくのクリスマスだもの。それでいいじゃない」

「そうだなぁ。アスカの言うことはもっともだけど、おじさんには今度お正月に会ったら一言いっておこうかな。こっちだって思い切り甘やかしたいのはやまや まなんだけどね。さて、あの子も寝たし、お酒でも飲むかい?」

 気を取り直してぼくは膝の上で横抱きにしたアスカに訊いた。

「悪くないわね。でも、もうちょっとこのままでお願い」

「いいとも」

 柔らかくていい匂いのするアスカの身体を抱き直してぼくは答えた。二十日ほど前に彼女の誕生日が来て今年三十一歳になったけど、ますます綺麗になってい く。ぼくはいつでも彼女に 恋をしているんだ。

「キスしていい?」

「こら、いちいち訊かないの」

 情熱的なキスにたっぷり時間をかけてから、ぼくとアスカは上気した顔で見つめ合った。

「その気になっちゃった、あなた?」

「まだちょっと時間が早いかな」

 時計をちらりと見てぼくは答えた。子どもは寝る時間でも、大人の夜はまだ始まったばかりだ。

「そうね。お酒を少し飲んで、一緒にお風呂に入って、それから……」

「プレゼントも置かないと」

「ああ、そうだった。それを忘れちゃいけないわ」

 うっかりしていたという風にアスカは笑った。

「ねえ、シンジ」

「何だい、アスカ」

 呼びかけに答えると、彼女は青い右の瞳をいらずらっぽく細めて言った。

「ちょっとお願いがあるんだけど。お願いというか、提案というか」

 彼女の言葉はなかば予想どおりだった。大体彼女はおねだりする前に甘えてくるのだ。膝の上に乗って身体を摺り寄せてくるから絶対に何かあると思っていた よ。もっとも大抵のおねだりは聞いちゃうんだけどね。巨大オーブンの時みたいに。

「どんなこと?」

 今回はどんなおねだりをされるのかなと思いながら訊き返すと、アスカはぼくの耳元に口を近づけ、そっとささやいた。

「来年のクリスマスは家族四人で過ごさない?」

「四人?」

 思わず大きな声を出してアスカの顔を覗き込むと、彼女はぼくのくちびるを指で押さえて注意した。

「しーっ。大きな声出さないの」

「ごめん」

 ぼくは謝ってから、彼女の提案を考えた。もっとも、考えるまでもなく答えは分かり切っているけどね。
 さっきはつい大声を出してしまったけど、本当は驚くようなことでもなかったんだ。ぼくもたぶん、ずっと同じことを考えていたのだから。

「まだできてはいないんだよね」

「ええ。女の子も欲しいし、どうかしら」

 ぼくたちの新しい家族。今度はどんな子が生まれてくるのかな。

「ぼくも賛成だよ」

「決まりね」

 アスカはほんのりと桜色に染まった頬に微笑みを浮かべた。

「あたし幸せよ、シンジ」

「ぼくもだよ、アスカ」

 彼女のストロベリーブロンドの髪を手でかき上げて額に口づけを落とし、次に左の眼帯の上、最後にくちびるを重ねて、ぼくはもう一度ささやいた。

「ぼくも幸せだ」










LOOOOVE!















Oが一つ増えたあとがき



 最後までお付き合い下さり、ありがとうございました。

 クリスマスのお話でした。
 うーん……、何と申しますか、まあ、こんな感じです。
 メリークリスマス。

 やっつけなのでこんなものです。
 今年は誕生日ものを書きませんでしたし、クリスマスもずっとお話を思いつかなかったのでこれは無理かなと考えていたのですが、直前になってふと思い浮 かびましたので、ちょっとだけ続編でした。

 お話の中でシリアスな文章を一つか二つ、以前書いた他のお話から引っ張ってきています。悲しい内容なのでお蔵入りしたお話からですけど。悲しいよりも ハッピーなほうがいいですものね。

 ちび助が子どもの名前ではありませんのであしからず。名前は特に考えていません。
 おじさんがくれた彼のお年玉は両親によってお年玉預金として積み立てられているのだと思います。

 皆様のクリスマスが素敵なものでありますように。
 それからちょっと早いですが、皆様がよいお年を迎えられますことをお祈りしております。

 では、皆様。掲載して下さった霧島愛様。こめどころ様。
 本当にありがとうございました。


 rinker/リンカ
 

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