ハロー、イグアナ


rinker





 二月十五日の昼過ぎに葛城ミサトさんの家を訪問することになったのは、全然特別なことではなくて、単に休日だったのと、個人的にちょっとした用が あるとい うだけの ことなのだけど、とにかくぼくとアスカは、彼女の家に向かって並んで歩いていた。
 五年前ぼくたちと一緒に暮らしていたミサトさんとの関係を説明するのは難しい。ぼくたちより十五歳年上の彼女は、家族というのも友人というのもしっくり 来ないけど、かなり近しい 存在であることは間違いない。

「ねえ、アスカ。やっぱり何か手土産になるものを買っていこうよ」

 ぼくが言うと、隣を歩く女の子は、頬にかかる長い赤毛を鬱陶しそうに手で払って、素っ気なく答えた。

「別にいらないわよ。どうしてもっていうなら、ビールでも買っていったら?」

「ミサトさんはもうお酒を飲まないんだよ。アスカも知ってるだろ」

「あら、そうだったわね。忘れてたわ。それじゃ、ミルクでいいでしょ」

 わざとらしくそう言ってぼくを横目でにらむと、アスカはつんとそっぽを向いた。
 アスカがこんな態度なのは、不機嫌だからだ。彼女は、ぼくがミサトさんの家に行くのが気に入らないのだ。
 では何故ついて来るのかというと、

「あんたが行くのにあたしが行かないわけにはいかないでしょ」

 とのことらしい。断っておくけど、ぼくたちは別に夫婦ではないし、一緒に暮らしているわけでもない。ドイツ育ちで生粋の個人主義者である彼女にしては、 なかなか妙な言い訳だと思う。彼女は自分が気に入らないことは命令されたってやらないのに。
 そもそも、エヴァに乗ることがなくなって、これ以上日本にいる必要がなくなってからも、両親のいるドイツに帰らず、もう五年も居座り続けている。その理 由を説明するアスカによれば、

「別に理由なんてないわよ。どうせドイツに帰ったってやることもないし、ただ何となくよ、な・ん・と・な・く。だから、勘違いしないでよね。あんたと一緒 にいたいか らとか、そんなんじゃないんだから」

 とのことだ。
 ま、アスカが日本に残ったわけは措いておくとして、そんなこんなで彼女は不機嫌を隠そうともせず、ぼくの隣を歩いている。

「ねえ、アスカ。気に入らないなら来なくてもいいんだよ」

 とぼくが言うと、彼女はその青い瞳でぎろりとこちらをねめつけ、怒っているというより不貞腐れたような調子で訊き返してきた。

「じゃあ、あんたも行くのやめるの?」

「いや、ぼくはやめないけど」

「ふん」

 と鼻を鳴らして、アスカは会話を打ち切った。ようするに、帰る気はないということらしい。
 彼女のために断っておくと、別にミサトさんとの仲が悪いわけでも嫌っているわけでもない。ただ、今は少しミサトさんの家に近づきたくないわけがあるの だ。ついでにいうと、アスカは自分だけでなく、ぼくがミサトさんの家に近づくのも嫌がっている。
 ところが、嫌がっているわりに、アスカはぼくがミサトさんを訪ねる時は必ずついて来る。その理由はさっき説明したとおりだけど、実際には色々と葛藤があ るみたい。

「ケーキにしなさいよ」

「え?」

「何か買っていくんでしょ、ミサトの家に。ケーキがいいわ」

 さっきはどうでもいいみたいな口ぶりだったくせに、ミサトさんへのお土産を勝手に決めてしまうと、ぼくの返事も待たず、通りに面したケーキ屋さんに向 かって、ぼくの手を引っ張って行く。

「ちょっと、そんなに引っ張らないでよ」

「あんたがとろとろしてるからよ、バカシンジ」

 ぼくの名前に不名誉な修飾語をつけて、アスカは振り返りもせず言った。
 長年のトレーニングの賜物で、一般的な女の子の基準からすれば怪力の部類に入る彼女がきつく手を掴むものだから、こちらは痛いくらいだ。
 こんなにしなくたって逃げやしないのに。
 あ、ちなみに言い忘れていたけど、最初から手は繋いで歩いていた。家を出た時からだ。一緒に暮らしているわけではないのに、なぜ家を出る時一緒だったの かといえば、昨日からアスカがうちに泊まりに来ていたからだ。チョコレート持参で。
 何というか、つまり、そういう関係なわけなのである。
 





「いらっしゃい、二人とも。上がってちょうだい。外は暑かったでしょ」

 一年前までは長かった髪をばっさり切ってショートヘアにしているミサトさんは、真夏ほどではなくとも十分に暑い外を歩いてきて汗をかいているぼくたちを 見て、笑いながら言った。

「ええ、お邪魔します。あ、ミサトさん。これ、お土産」

 と、玄関から上がりながら、ぼくは手に提げていたケーキの箱をミサトさんに見せた。

「あら、ありがとう。気を遣わなくたっていいのに。あなたたちの分もあるの?」

「ええ、まあ」

 あれだけぶーたれていたにもかかわらず、アスカはじっくりと時間をかけてケーキを選んでいた。甘いものに目がないのだ。

「じゃあ、一緒に食べましょ。飲み物は冷たいのがいい?」

「何でもいいですよ」

「あたし、アイスコーヒー」

 汗をかいているのにぼくの横にぴったりくっ付いたアスカが、あらぬ方向を見ながらぷいっと口を挟んだ。不機嫌でも要求だけはきっちりするところが彼女ら しいというか何というか。ミサトさんはそんなアスカの態度に目くじらを立てることもなく、優しく答えた。

「アスカはアイスコーヒーね。シンジくんもそれでいい?」

「あ、はい」

 何となく間抜けな返事をぼくがすると、ミサトさんは前を向いて、膝丈のハーフパンツに包まれたお尻を左右に振りながら廊下の先を 進ん でいく。
 と、突然アスカに脇腹をつねられた。

「アウッ!」

 不意打ちを食らって変な声を出してしまったぼくを前を歩くミサトさんが怪訝な顔で振り返る。

「どうしたの、シンジくん」

「い、いえ、何でも。気にしないで」

 ミサトさんは片側の眉だけ器用に持ち上げて、「ふぅん?」という感じでぼくとアスカを交互に見たあと、また前を向いた。
 ぼくはすかさず、ひそひそ声でアスカに抗議した。

「何でそんなことするの」

「別に」

 アスカは澄ました顔でこう答えた。でも、そんな風に誤魔化したって、くちびるがぴくぴく動いているから、笑うのを我慢しているのが丸わかりだ。
 このやろう、お返しにスカートめくってやろうかしら。
 物騒なことをちらりと頭に思い浮かべつつ、ひらひらしたスカートの内側に隠されたお尻に視線を落とすと、超能力者でもないのに、アスカはぼくを じろりと見て忠告した。

「今変なことしたら殺すわよ」

 まさかそんなこと考えてもいません、という風にぼくは首を横にぶんぶんと振った。もちろん本気だ。なぜって、この場で変なことをしたら三角跳びから膝で 脳天カチ割るわよ、とアスカの顔にはっきり書いてあったからだ。彼女は運動神経が抜群だから、やろうと思えば狭い廊下の壁を使って本当に曲芸みたいなこと ができるに違いない。
 仕方がない。スカートをめくるのは帰り道……いや、家に帰ってからにしよう。
 そう心の中でひそかに、固く決意していると、またアスカに脇腹をつねられた。

「トワッ!」





 リビングでは、ぼくたちを待っている人物がいた。
 まだ一歳に満たない赤ん坊だ。
 彼女は、ぼくたちの姿を認めると、じゅうたんに敷かれたタオルケットに腹ばいの姿勢から、むちむちした短い両手で身体を支え、その大きな頭をぐっともた げた。
 その姿は、ガラパゴス諸島の岩礁から海を臨むイグアナそっくりだ。

「ばー、にー」

 喜色満面の赤ん坊は、意味不明のイグアナ語で何かを主張すると、ハイハイで一歩二歩とでこちらに向かってきた。何だか動作までイグアナめいている。

「よかったねー、レイ。シンジお兄ちゃんとアスカお姉ちゃんが遊びに来てくれたわよ」

「んわっ、まんま」

「まだ立てないんですか?」

「掴まり立ちはするわよ。まだ危なっかしいけど。シンジくん、それ貸して」

 ミサトさんはぼくの手からケーキの箱を受け取ると、「すぐ用意するから」とそのまま台所へ向かった。
 レイという名の、この赤ん坊は、ミサトさんの実の娘だ。この家で母親のミサトさんと二人で暮らしている。未婚の ままシングルマザーの道を選んだことについて、彼女は周囲に何の相談もしなかった。
 アスカとともにリビングに残された格好になったぼくは、えっちらおっちらとこちらに向かってくる赤ん坊を待つまでもなく、自分からこの小さな生き物に向 かって突進した。脇の下を素早く掴むと、彼女を持ち上げて遠慮なく抱きしめる。

「会いに来たよ、レイ。元気にしてたかい? 前よりちょっと重くなったかな?」

「ぼあっ、うー」

 うむ、何を言っているのかさっぱり分からん。
 高い高いをしてやると、赤ん坊は持ち上げられるたびに嬉しげな奇声を上げて笑った。ぼくはその姿に相好を崩しながら、背後からむっつりとした視線をこち らに向けているアスカの気配を感じていた。ようするに、この子がアスカの不機嫌の原因なのだ。

「お前はいつ会ってもよく笑ういい子だね」

 レイを抱いたままソファに座り、ミニチュアの人形みたいな手を取りながら話しかける。言葉が通じないのに話しかけるというのは、慣れないとなかなかでき ない。でも、いざやってみれば、本当に通 じているかどうかは大した問題ではないし、言葉そのものではなく、言葉に込められた『何か』は案外通じているものだとも思う。もっとも、アスカはそ の辺りをあまり分かりたくないようだけども。
 あからさまに不貞腐れた様子のアスカは、それでも表面上は和やかな表情を取り繕おうとして、結果へんてこりんな顔になりながら、ぼくの隣へ背中を向け気 味に腰下ろした。

「あんば、まんわ」

「ママはすぐ戻ってくるよ。それまでぼくと一緒にいようね。それとも、アスカお姉ちゃんにだっこしてもらおうか?」

 ぼくの言葉を聞いたアスカがぎょっとして、顔をこちらに捻じ曲げた。

「どうする、レイ」

「あう……かー」

「ちょっと。あたしは嫌だからね、シンジ」

 ほとんど恐怖に憑りつかれたような顔で、アスカはこそこそと抗議した。
 彼女がこういう反応を返すことが分かっていたぼくは、特に咎めるでも、それ以上追いつめるでもなく、その言葉を聞き流して、つきたてのおもちみたいなレ イの顔に頬ずりした。

「ぷくぷくほっぺ」

 ほっぺたをくちびるでついばむと、レイがくすぐったそうにくすくす笑う。赤ん坊っていうのは、どうしてこう美味しそうなんだろう? 横からアスカに食ら わされ た肘鉄もなんのその、目を細めてそんなことを考える。

「ほかほかしてあったかいし。どうしてお前はこんなに可愛いのかなぁ」

「きゃわ、ぶ」

 しっかり抱きしめて背中をぽんぽんしてやると、レイの身体がますますぽかぽかしてくるようだった。これはひょっとしておねむなのかな?
 そっぽ向いたアスカは、時折うらめしげにこちらを窺い、またすぐそっぽを向くということを繰り返していた。
 なぜアスカがレイを、というより赤ん坊を嫌っているのか、ということを説明するには、きっと彼女の幼少期にまで話をさかのぼらなくてはいけないのだけ ど、とにかく彼女は、なるべくなら赤ん坊をはじめとする、子ども一般に係わりたくないと考えている。さらに付け加えるなら、ぼくがレイと積極的に係わ り を持とうとすることについても、かなりの戸惑いと不快感を感じているらしい。
 ぼくのことに関しては、他人の赤ん坊にでれでれしている姿に嫉妬しているのではないか、と思われるかもしれない。実際、ぼくはかなりレイにでれでれして いるんだけども、しかし、決してこれは単純な嫉妬などではない、と思う。その証拠に、以前一度だけ、レイと会ったあとの不機嫌なアスカを膝の上で赤ん坊み たいによちよちとあやしてみたら、激怒した彼女に腕ひしぎ十字固めを極められた。あれは痛かった。
 これは別に冗談で言っているのではなく、彼女が本気で怒る時は、ほとんどの場合、ぼくが彼女のこ とを誤解したり、彼女の気持ちを理解していない時なのだ。そしてあの時、彼女は本気で怒っていた。





「おーまたっせー。どのケーキが誰のとかある?」

 お皿に乗せられた四つのカットケーキと、アイスコーヒーのグラス、それからレイのリンゴジュースをお盆に乗せてリビングに戻ってきたミサトさんが、陽気 な声で言った。

「これはあたしの」

 と、アスカがいち早く自分のベイクドチーズケーキを手元に引き寄せる。どうも彼女は、レイのいるこの家に来た時には、かたくなで子どもっぽくなる傾向が ある。昔一緒に暮らしていたミサトさんが相手なので、いまさら遠慮もいらないということはあるにせよ、こんなことでいいのかな、と少し心配になってしま う。もう十九歳なのだし、他ではとても大人っぽく振る舞うこともできるのに、これではまるで赤ん坊に張り合う三歳の子どもと一緒だ。

「シンちゃんはどれ?」

 アスカの行動を眺めていたぼくは、ミサトさんに問いかけられ、はっと我に返って答えた。

「ああ、ぼくはどれでも。ミサトさんが好きなの選んでください。もともとミサトさんとレイに買ってきたんですから」

 ケーキが四つなのは、赤ん坊のレイの分もきちんと数に入っているからだ。彼女にはケーキを一つ平らげることはまだできないだろうから、結局はほとんどミ サト さんかぼくたちの誰かが食べることになる。でも、甘いものは好きなよう だし、赤ん坊といえどもちゃんと一人の人間としてカウントすべきだ。というようなことを考え、アスカはケーキを選んだのだろう。そう、実はケーキを四つ選 んで買ったのは、アスカなのだ。ぼくは別にレイの分を買えなんて彼女に言っていない。苦手ではあるけど、ないがしろにするつもりはない、かといって赤ちゃ ん専用のお菓子を別個にわざわざ買うことまではしたくない、というのが今のと ころアスカのレイに対する複雑な姿勢だ。

「あら、ありがと。じゃあ、先に選んじゃおうかしら。んふふ、どれにしよっかなー」

 テーブルに並んでいるのは、ストロベリーショートケーキ、チョコレートケーキ、モンブラン、それにアスカのベイクドチーズケーキだ。どれも定番なので、 大抵の人間はこの中のどれかに好きなものが見つかるだろう。こういう時、アスカは意外なほど冒険をしない。
 ミサトさんは大きなおっぱいを強調する感じに前かがみになり、くちびるを尖らせて、うーんと悩んだ。エヴァや使徒から解放されて、彼女からは驚くほど険 が取れた。実際、三十四歳の子持ち女性とは思えない可愛らしさだ。といっても、ぼくにはミサトさんが今まさに作り出している魅惑のおっぱい渓谷鑑賞権はな いの だけど。隣に怖いアスカがいるから。心配しなくてもぼくはアスカのおっぱいのほうが……、いや、そういう問題じゃないか。
 アスカの凝視を横顔にびしびし感じつつ、ぼくはだっこしていたレイをテーブル側に向かせて、ケーキに近づかせて言った。

「レイはどのケーキが好きかなー?」

「あーっ!」

 母と違い、彼女の決断は早かった。この小さな身体のどこから出るのかというような奇声を上げると、レイはあるケーキに向かって思い切り指を差した。とい うか、文字通り刺した。

「あっ。あーらら……」

 ずぼっ、という感じで、レイの小さな手は、ストロベリーショートケーキにめり込んでいた。これで彼女のケーキは決定。

「手ってにクリーム付いちゃったね」

「むー」

「そうそう。クリーム。拭き拭きしないと」

「んまっ」

 ミサトさんが席を立って布巾を持ってくる間、ぼくはレイがクリームまみれの手であちこち触らないように押さえながら、話しかけていた。チーズケーキのお 皿を確保しているアスカは、例によって面白くなさそうな顔で黙り込んでいる。所在なさげにしているのが多少気の毒だけど、あえて何も言わない。ここへ来な いことだってできたのに、わざわざ自ら来ることを選んだのだから、彼女なりに何とかしたいと思っているのだろう。たぶん。もしかすると、ぼくを監視したい だけなのかもしれないけれど。
 レイはクリームまみれの手をにぎにぎしながら、きゃっきゃと笑っている。ああもう、本当に可愛いなぁ。可愛過ぎるなぁ。

「ぱくっ」

「きゃーっ」

 白いクリームでデコレーションされた小さな手が美味しそうだったので、間抜けな擬音とともにぼくが口にくわえると、レイは大喜びして叫び声をあげた。隣 からのプレッシャーが増したような気がするけど、気にしない気にしない。

「ちょっと」

 脇腹を指でつつかれて振り返ると、噛み潰している苦虫が一気に二十匹増えたような、いっそう苦々しげなアスカの顔があった。

「やめなさいよ、汚いわ」

「何が?」

 とぼけたつもりはなかったのだけど、アスカはぼくの反応に少しショックを受けたようだった。

「はーい。レイちゃん、お手てを拭き拭きしますよー」

 そこへミサトさんが戻ってきて、ぼくたちの緊迫した空気をまるで感じていないかのように間に割って入り、レイの小さな手を布巾で丁寧に拭き始めた。それ が終わると、畳んだ布巾をテーブルの上に置き、ミサトさんは両手を赤ん坊の身体に伸ばして言った。

「レイをこっちにもらうわ。誰かさんが怖い顔してるし」

「だっ!  べ、別にあたしは……」

「はいはい。ちゃんとシンジくんは返してあげるから。レイちゃん。ママのところに帰っておいで。よいしょっと」

 ミサトさんは顔を赤くした誰かさんことアスカの抗議を無視して、むちむちと太った娘をぼくの膝から持ち上げた。すると、ぼくの膝から離れていくレイの、 微笑みに象ら れた口元から透明なよだれがてれー、と糸を引いた。

「わっ、よだれ!」

 これはアスカの声。潔癖症ぎみのアスカは、この種のことにいちいち大騒ぎする。
 レイのよだれは、ぼくの膝に落ちても切れずに伸びて、レイの口とぼくの膝を架け橋のように繋ぎ、きらきらと光を反射した。

「おー、すごい。よだれ大橋」

 さすがに母親のミサトさんはまったく動じず、むしろ面白がっている。それはそうだ。出産からずっと、いや妊娠期間も含めて、この子のすべてを引き受けて きたのだから。いまさらよだれの一つや二つ、どうってことないのだ。
 そして、普通ぼくは他人であるレイのよだれを汚く感じるはずなのだけど、何しろ彼女のことが可愛くて仕方がないので、これまたまったく気にしない。ズボ ンの膝は拭けばいいし、よだれなんて、ちゅっちゅやっていたらたくさん口に入ってくる。大体アスカだってぼくのよだれは平気な……っとと、これはやめてお こう。

「すごいねー、レイ」

「んばー」

 てろーん。

「いいから早く拭きなさいよ」

 横からアスカが口を挟んで、テーブルからひったくった布巾をぼくの膝に投げた。でも、ぼくのおざなりな拭き方が気に入らなかったと見えて、アスカはぼく の手から布巾を奪うと、膝からじゅうたんまで丁寧に拭いてくれた。実は意外に世話焼きなのだ。
 テーブルの向かいに座ったミサトさんは、膝の 上に乗せた赤ん坊の手をひょこひょこと動かしながら、微笑ましそうな調子で言った。

「赤んぼに本気で嫉妬するほど愛されちゃっててうらやましいわねぇ」

「そういうんじゃないと思いますけどね」

 ぼくは正直な感想を答えたのだけど、どうやらミサトさんは照れ隠しと受け取ったらしい。大体赤ん坊に本気で嫉妬する人間なんて……。

「……何?」

 隣に座り直したアスカが、何だかお尻でぶりぶり押してくる。スペースはゆったり余っているのだから、そんなに詰める必要はないのに。
 ぼくが視線を向けて問うと、アスカはむくれたような顔でくちびるを尖らせて答えた。

「ふんっ」

 いや、これは答えてないか。

「ほほほ、まあケーキを頂きましょ。せっかく二人が買ってきてくれたんだもの。シンちゃんはチョコレートケーキをどうぞ」

 もはやぼくたちのやり取りに慣れっこになっているミサトさんは、年長者らしい寛容な微笑みを浮かべて、チョコレートケーキの載ったお皿をぼくのほうへ差 し出した。

「わたしはモンブランね。あ、でももしかして、今のシンちゃんはチョコレートはしばらくいいやって感じ?」

「いや、そんなことは。ははは……」

 実はミサトさん正解。昨日はバレンタインデーだったので、アスカからもらったチョコレートをたくさん食べたのだ。
 アスカがくれた綺麗に包装された箱には、一口サイズのハートをかたどったチョコが二十個入っていた。六個を普通に食べ、二つはアスカも味見し て、今まだ九個ほど残っている。残りの三個はえーっと、白状すると、エッチなことに使いました。すいません。朝起きると身体中がチョコレートくさかったで す。あとシーツを汚してアスカに怒られました。自分だって途中からはノリノリだったくせに。

「ま、これはわたしからのバレンタインってことで。構わないわよね、アスカ?」

 話を振られたアスカの身体がぴくっと動くのが、密着して座っているせいで分かる。どうでもいいけど狭苦しいな。

「何であたしに訊くのよ」

「あら、あたし以外のチョコは食べちゃ駄目ーって考えてるんじゃないの?」

「そ、そんなこと考えるわけないでしょ。こいつが誰からチョコをもらおうと、あたしには関係ないわ」

「ふんふん。本妻の余裕ってわけですな?」

「そんなんじゃない!」

 アスカは、女性としてはかなり高圧的なほうなんだけども、ミサトさんが相手になると暖簾に腕押しとすべて受け流されてしまうので、言い合いに勝利した試 しがない。そもそもこのチョコレートケーキを選んだのはアスカなので、広義にはこれもアスカからのチョコということになるんだけど。
 それはともかく、このまま続けさせるのもあれなので、ぼくは口を挟むことにした。

「まあまあ、二人とも。ケーキを食べましょうよ。ミサトさん、レイがモンブランを狙ってます」

 頭上で繰り広げられる大人たちの会話に退屈したのか、身を乗り出したレイは、モンブランのてっぺんに乗っかった栗を強奪しようと、目をキラキラ、口元を テラテラ輝かせて 手を伸ばしていた。しかし、間一髪のところでもくろみを阻止され、レイは抗議の声をあげた。

「ばーう! だゃー!」

「これはだーめ。ママの。レイのはこっちよ。ほら、お口あーんして」

 ミサトさんが赤ちゃん用の先が丸いプラスチックフォークでストロベリーショートケーキを少量すくい取り、口元に持っていくと、レイはモンブランのことは もう忘れたかのように素直に口を開けた。

「おいちい?」

 もむもむとクリームとスポンジのかけらを味わっている娘のほっぺたをぷにぷにとつつくミサトさんの愛おしげな表情に心温まりながら、ぼくは隣のアスカに 話しかけた。

「ぼくたちも食べよう。美味しそうだ」

「うん」

「それから、少し離れて。狭い」

 ぼくの要求は、しごく真っ当なものだったと思う。なのに、彼女は離れるどころか、ますますぼくのほうへ体重を預けてきた。ぼくはクッションじゃないんだ けどなぁ。

「あの……アスカさん?」

「あたし、チーズケーキ大好き」

 そのこととぼくの足を踏んでいることは関係あるんですかね。





「それにしてもさ」

 ケーキを食べながら談笑しているうちに眠ってしまったレイをベビーベッドに運んだミサトさんは、改めてぼくたちの向かいに腰を下ろすと、五年前には見ら れなかったような優しい表情になって切り出した。子どもができて以来、彼女は本当に変わった。それは例えば髪の毛を短くしたような外見上の変化に留まら ず、内面からの変化だ。もちろん、ぼくはそれをとても好ましいものだと思っている。年下のくせに生意気なようだけど、でも本心だ。アスカも、戸惑っている ようだし、口では色々と言っているけど、内心ではそれほど否定的ではないはずだ。

「あなたたち、ほんっとに仲良いわよね。昔一緒に暮らしてた頃は子猿みたいにきゃんきゃん喧嘩してたのに」

「子猿とは何よ、子猿とは」

 アスカが噛みつくが、ミサトさんは平気な顔だ。

「仲が良いところは否定しないんだ」

「別にそこまでじゃないと思いますけどね。今でも喧嘩はよくします」

 赤くなって固まってしまったアスカに代わって、ぼくが答えた。

「そうなの?」

「ええ、そうなんです」

 ふぅん、という表情で、ミサトさんはぼくとアスカの顔を順番に見たあと、レイが残したショートケーキをフォークで口に運んだ。

「まあでも、昔と比べたらね。やっぱりね」

「あんたこそ変わったわ。昔とは全然違う。はっきり言って、昔のあんたは少し嫌な女だった」

 アスカ、はっきり言い過ぎ。大体、他人のこと言えないくせに。ぼくたちは皆お互い様なのだから。
 でも、失礼なアスカの言葉を受けてミサトさんが見せたのは、かすかな苦笑だけだった。

「まあね。自覚はあるわ、恥ずかしながら。でも、レイを産んでからは、本当に何もかもが変わった。こう……細胞の一つ一つから造り替えられるのが分かるの よね。母親ってこんなものなのかって。レイがいつでも天使のようだなんて、正直口が裂けても言えないわ。赤ん坊の世話って、もう本当にソーゼツ!  泣きたくなることもしょっちゅうよ。でも、どんな時でも、本当に心の底から、あの子のことが愛おしいの。比喩でもなんでもなく、この身を分け与えてでも生 かしたいと思う。……レイのおかげで、初めて両親の気持ちが分かったような気がする」

 ミサトさんの両親はすでに他界している。父親は南極のセカンドインパクトの現場から身を挺して十四歳のミサトさんを逃がし、母親は父親の死後失語症にな り心に傷を抱えた娘を守り続け、彼女が自立して間もなく亡くなったそうだ。

「あなたたちも、いずれ分かるようになるかもね。といっても、今はまだ早すぎるけど。アスカ、いつも避妊はちゃんとしてるの? うっかり妊娠したりしない よう気を 付 けなくちゃ駄目よ?」

 すごく真面目な話をしていたはずなのに、ミサトさんはやたら即物的な話題に急激な舵を切った。
 この手の話題を不意打ちされると弱いアスカは、レイが口を付け、今はミサトさんが食べている、ストロベリーショートケーキに載っていたイチゴもかくやと ばかりに真っ赤になり、取り乱して叫んだ。

「そ、そんなことしないわよ!」

「避妊してないの? 駄目じゃない」

 もちろん、ミサトさんは分かった上でわざと言っている。が、アスカはまんまと乗せられて、あわあわしながら言い返した。

「そうじゃなくて、あたしが言ってるのはつまり、あたしはそんなへましないってことで……」

「でも、こういうことは二人がきちんとしなくちゃ駄目なのよ。アスカが気を付けてても、相手がいい加減だと」

「シンジはいい加減じゃないわ!」

 一応、バレバレではあるのだけど、ぼくたちが肉体的な関係を持っているのは秘密ということになっている。特にアスカが隠したがっている、ということだ けど。性行為についてきわめて現実的な考え方をする国から来たわりに、アスカの純情ぶりはなかなか面白いというか、可愛らしい。育ちのためか、あるいはも ともとの性格なのか。とはいえ、実際ぼくも恥ずかしいし、その手の話題は落ち着かないので、彼女に同調することにしている。
 従って今回の場合は、アスカは見事なまでに口を滑らせたことになる。

「そうなの、シンちゃん?」

 こちらに振らないで欲しいなぁ、と思いつつ、ぼくは頬を掻いて答えた。

「はあ、まあ」

「えらいわね。さすがシンちゃん。ちゃんとアスカのこと大事に思ってあげてるのね」

 レイを産んでからのミサトさんの唯一困ったところは、物言いが恐ろしくストレートになったことだ。自分でもふわふわして掴みどころがないようなものを他 人からこう明け透けに指摘されると、さすがにどう答えていいか分からなくなる。隣でさっきからもじもじ動いているアスカもショート寸前だ。

「あのシンちゃんとアスカがねぇ。でも、考えてみれば付き合い始めたのは二年くらい前からでしょ? てことは初めてもそのあとってことよね。ずっと一緒に いたのに、よくそれまで手を出さずに我慢したわよね、シン ちゃん」

「う、う、う……」

 アスカが唸っている。ミサトさんを止めたいけど、何と言えばいいのか言葉が出てこないらしい。
 人にもよるだろうけど、子どもを産むところまで行くと、遠慮や羞恥心というのはかなり薄れてしまうものらしい。出産という、恥ずかしいだの何だの言って いられ ない、命がけの一 大事を乗り越えたのだから、ある意味それも当然かもしれない。でも、困るのはぼくたちのような周囲だ。ぼくたちはまだ昔の保護者に対して自分の性生活を臆 面もな く語れるほど大人じゃない。

「一緒に住んでた頃だって、実は大変だったんじゃないのかしら? 十四歳っていったら四六時中そのことを考えててもおかしくないし。同じ屋根の下にこんな 美少女 と美女がいたんだもの」

 さりげなく自分を美女と言い切ったミサトさんは、大きなおっぱいを腕で寄せ上げして、うっふんとウインクした。
 まあ、否定はしません。色々な意味で。
 当時はブラ紐が見えただけでも勃起していた年頃だ。
 でも、さすがに十五歳も年上のおばさん(ごめん、ミサトさん。あくまで中学生視点だから)をそんな目では見られなかった。それに正直、当時のミサトさん は男の夢を壊す天才だった よ。こんなこ とは口に出さないけど。
 アスカのほうは、まあ、その、かなり大きな試練だった。耐えたのは自制心のおかげでなく、怖かったからだ。色々と。

「ねえ、初めての時ってさ……」

「あのー……もうやめません? こういう生臭い話。レイだっているのに」

「レイなら寝てるわよ」

「でも、やっぱり情操教育上問題あるじゃない。寝てるとはいえ」

 硬直状態から復活したアスカも口を挟む。それにしても、まさかアスカの口から『情操教育』なんていう言葉を聞くなんて。難しい日本語知ってるね。

「言葉だってまだ分からないのに?」

「いやいや。よくないですよ。今は言葉が分からなくても、将来ふとした拍子に記憶が甦らないとも」

「そうそう、それがトラウマになったり」

 アスカ、それは言い過ぎ。
 でも、ここぞとばかりに息を合わせてこの話題をやめさせようとするぼくとアスカの姿に、さすがのミサトさんも興を殺がれたのか、今日はこの辺にしておい てやるか、という風に肩を竦めた。

「せっかく熱々のあなたたちに潤いを分けてもらおうと思ったのに」

「潤いって、あんた」

 怒ったような、呆れたような、複雑な調子でアスカがこぼす。

「だって親としては充実してるけど、女としてはパサパサよ、わたし。だから、シンちゃんとアスカのしたたるような……」

「あ〜っ! もうやめやめ!」

 また危ない方向へ話を持っていこうとするミサトさんに、そういう空気を追い払おうとするかのごとく手を振り回し、足をバタバタさせて、アスカは叫んだ。

「そういう話はもう禁止!」

「ひどい。お姉さんに内緒で口では言えないようなことしてるのね」

 よよよ、と泣き崩れる真似をするミサトさん。本当にこの人は他人をからかうのが生きがいなんだな。毎度乗せられるアスカもアスカだけど。
 でも、確かに昨 夜のことはちょっと口では言えないよなぁ。
 ぴったり隣に 座って、身体をわなわなと震わせているアスカの火を噴きそうな顔をちらりと見、ぼくはため息交じりに言った。

「二人ともその辺で。あまり大きな声を出してると、レイが起きちゃいますよ」

 この一言で、二人ともぴたりと大人しくなった。レイ様々だ。
 最初はケーキを美味しそうに食べていたレイだけど、やはり眠かったのか、今はベビーベッドですやすやと眠っている。もっとたくさん彼女を構いたかったぼ くとしては、とてもとても残念だ。

「レイといえばさ」

 しばらくして、落ち着きを取り戻したアスカが珍しくレイの名を口にした。普段彼女は、可能な限りレイの話題を避けている。

「ずっと思ってたのよ。どうしてミサトが自分の娘にこの名前を付けたのかって」

 かつて綾波レイというもう一人のエヴァパイロットがいた。しかし、彼女は戦いの最後にいなくなってしまった。
 綾波レイは、ほとんど感情を表に出さず、他人と交わらない少女だった。ミサトさんにしても、名前を あやかるほどの何かを彼女に対して感じていたとは思えない。

「あんたはこの手の感情にもっと冷淡だと思ってたわ」

 遠慮のない物言いにミサトさんは困ったような表情を浮かべた。

「そうね。わたしも自分でそう思ってた」

「じゃ、なぜ?」

「もともと名前は他に色々考えてたのよ。でも、いざその時になってみると、自分でも不思議なんだけど、この名前しかないという気がしたの。今でもそう。考 えたらおかしいわよね。あのレイとわたしのレイは全然似てないのに」

 そう、赤ちゃんのレイは、綾波レイとはまったく似ていない。もちろん、血の繋がりもまったくない。
 ミサトさんの娘はよく笑う明るい子だ。きっとお母さん譲りの美人になるだろう。

「何というか……うまく言えないけど、あの子は大人にもなれず少女のまま死んだけど、この世に何も残せなかったなんて思いたくなかった。あの子だって次代 に残したものがあるんだって、わたしが証明してあげたかった」

 ミサトさんはしんみりした口調で打ち明けると、どこか遠い目をし、ぼくとアスカが並んで座るさらに背後をぼんやり眺めていた。ぼくたちが十四歳だった頃 を思い出しているのだろう。そして、その頃ぼくたちと少し距離を置いて立っていた少女のことを。
 しばらくして、大きく息をつき、ミサトさんは明るく調子を変えて付け加えた。

「それに、レイは綺麗な名前を持つ、綺麗な女の子だったわ。わたしは自分の娘に、わたしが知る一番綺麗な女の子と同じ名前をあげたかったの。ごめんなさ い、ア スカ。あなたもレイと同じくらい素敵よ。でも、あなたと同じ名前だとややこしいでしょ?」

 言い返したアスカの皮肉はどこか力がなかった。

「あたしは生きてるものね。分かってるわよ」





 台所では今、アスカが食べ終わったケーキのお皿とグラスを洗っている。自分から洗い物を引き受けたのだ。
 ミサトさんは、居間の隅に置かれたベビーベッドのかたわらに立ち、その中で眠るレイを覗き込んでいた。ふわふわした柔らかな髪の毛や、ぷくぷくのほっぺ を触っていたミサトさんの指は、今は眠るレイの小さな手によって握り込まれている。愛娘を見つめるミサトさんの姿は、とても優しく、美しい。実の母の記 憶がないぼくは、母親とはこんな表情をするものか、と彼女から初めて教わった。

「実はね、今日はミサトさんに話すことがあって来たんです」

 ぼくは一心にレイを見つめるミサトさんに背中に話しかけた。

「なあに、改まって」

 ミサトさんは娘から視線を離さず答えた。

「びっくりするような話? アスカのこと?」

「いいえ。違います」

「じゃ、何?」

「昨日、日向さんからメールをもらったんです」

 ここでようやくミサトさんはこちらを振り返った。

「ふぅん、そう」

 ところが、ミサトさんはそっけない返事とともに、すぐにまた娘へと視線を戻してしまった。

「ミサトさんの近況を訊ねられました。でも、まだ返事はしてないんです」

 日向さんというのは、かつてミサトさんの部下だった人だ。そして、ミサトさんの娘レイの父親。
 彼はしばらく前から仕事でオーストラリアに行っている。
 ミサトさんと日向さんがいわゆる男女の関係だったのはごく短い間だったので、周囲でもこのことを知っているのはわずかしかいない。
 二人の間に何があったのかは知る由もないけれど、日向さんがオーストラリアに発つ直前、この短い関係は突然終わりを迎えた。
 話がここまでなら、よくある男女の別れに過ぎない。残念ではあるけど、二人が合わなかったのなら仕方がない、恋愛とはこういうものだ、で済ませられただ ろう。
 ところが、日向さんが日本を発ってしばらくし、何とミサトさんが赤ちゃんを産んだ。別れる時にはすでに身ごもっていたのだ。
 ミサトさんは周囲に一切の説明も言い訳もしなかった。日向さんとのことを知る一部の親しい人たちにさえだ。その態度はまた、事情を知るぼくやアスカのよ うな人間が真実を他人に明かすことも拒絶していた。
 このため、無知な周囲から相当に心ないことを言われたようだ。つまり、赤ちゃんの父親が誰かも分からない、あるいはどこの誰とは明かせないような類の男 である、またミサトさん自身もそのような男と(もしくは男たちと)乱交するふしだらな女である、などと、陰に隠れて、または面と向かって、非難と中傷は浴 びせられた。
 しかし、それでも、ミサトさんは胸を張ってレイとともに生きている。それは確かに立派なことだ。彼女の母親としての愛情の強さには尊敬の念さえ覚える。
 が、一方の日向さんは、ミサトさんが自分の子どもを産んだことを知らない。
 明らかに彼女は、自らの妊娠を知った上でその事実を隠して日向さんと別れたのだ。
 アスカが言うには、過去に恋人だった加持さんとのことがおそらく原因だという。
 加持さんはミサトさんが大学時代に付き合っていた男性で、卒業前に気持ちを偽ってわざと別れたのだけど、五年前ぼくとアスカが出会った時に同時にミサト さんと加持さんも再会し、その後しばらくして再び気持ちを通じ合わせるようになった。でも、それも長くは続かず、加持さんの死という形によって、再び繋 がったかに思われた二人の関係は突然の終わりを迎えてしまった。
 加持さんがどこまでミサトさんのことを想っていたのか、今となっては分からない。でも、ミサトさんは本気だったろう。まるで遺言のように残された留守番 電話のメッセージを聞き、恥も外聞もなく号泣するミサトさんのあの声は、今でもぼくの耳の奥に木霊のように焼き付いている。
 結局、ミサトさんはこの先どんな男性に出会っても、加持さんに抱いていた以上の愛情を抱くことはできないのだ、とアスカはぼくに言った。加持さんは常に 圧倒的に大きな存在としてミサトさんの胸の中に居座り、また一方で現実に目の前にいる男性をも愛さなくてはならない。そうした過去と現在という相反する方 向へ(内側と外側といってもいい)向けられた二つの愛情を抱えることの軋轢に耐えきれなくなるのだと。だから、日向さんとも別れざるを得なかったのだと。
 死んだ人を想って一生を過ごすこともできる、ともアスカは言った。それが幸せなことかそうでないか、本人以外の誰にも分からない、と。
 けれど、ぼくは少し違う意見だ。

「これから失礼なことを言いますけど、どうか大きな声を出してレイを驚かせないでくださいね」

「……そのためにアスカは気を利かせたってわけ?」

 そのとおり。
 アスカは優しい。本人が自覚しているよりずっと。
 ミサトさんはこちらに視線を送ると、心の準備はできたという風に小さく頷いてから、眠るレイに視線を戻した。

「ミサトさん。ミサトさんは、自分が昔加持さんから逃げた時と同じ間違いを犯していると思いませんか?」

 束の間静寂が落ちた。
 ぼくの呼吸の音。ほんのかすかなレイの寝息。台所でアスカが洗い物をする水音。けれど、こちらに背を向けているミサトさんは息をしているかさえ分からな い。

「一つだけ、違うわ」

 十分にも一時間にも感じられた沈黙のあと、ミサトさんの背中が静かな声で答えた。

「加持くんの時は、自分の愛情が偽物かもしれないと恐れて逃げた。でも、今回は、本当に愛していたことを知って逃げたの」

「どうして?」

「だって、怖いじゃない。いつまた加持くんのように失ってしまうか分からない。どれほど強く想っていても、運命はそんなことお構いなしだわ。だから……二 度目はもう耐えられないと……そう思ったのよ」

 ぼくにも大切な人間を失った経験はある。だから、ミサトさんの言うことがまったく分からないと言うつもりはない。逃げることが常に罪だと言うつもりもな い。
 でも、ぼくはミサトさんに逃げないでほしかった。それが単なるぼくのわがままだとしても。

「いつどんな不幸が起こるかなんて、誰にも分かりません。確かに日向さんを遠ざければ、加持さんの時のような悲しみを味わわずに済むかもしれません。で も、ミサトさん、もう分かってるんじゃないんですか。今ここにいるレイだってそれは同じでしょう? いつ失ってしまうかもしれない、そのためにレイを手放 せますか? 遠ざければ愛さずにいられるんですか?」

 かつて僕を捨てた父の墓石に何度も投げかけたのと同じ質問。
 ぼくの問いかけに、ミサトさんは殴られたように首を横に振った。

「いいえ……いいえ、無理よ」

 かたくなに背を向けていたミサトさんは、ようやくこちらへ身体を向けると、ぼくの顔を見て悲しそうに言った。

「シンジくん。人間ってなかなか変われないものね」

「ミサトさんは変わりましたよ。今のミサトさん、ぼくは好きですよ」

 本心からそう打ち明けると、彼女は悲しげな顔をゆっくりとほころばせ、それからこらえきれないという風に短い笑い声をこぼした。

「あーあ、もう。アスカに聞かれたら殴られるわよ?」

「愛情にいっさい手加減がないのがアスカのいいところなんです」

 台所の水音はいつの間にか途絶えていた。





 ミサトさんが自分で話すというので、日向さんの連絡先をあとで教えるということになって、ぼくとアスカは彼女の家を失礼した。
 いつもレイが別れる時に泣いてぐずるので、今日は彼女が眠っている間に帰ってしまおうと思っていたのだけど、その前にレイの顔を一目とベビーベッドを覗 き込み、さらに我慢できなくなって、ぷにぷにと膨らんだ頬にキスをしたら、突然ぽっかりとレイがまぶたを開け、真上にいるぼくとミサトさんと、さらには視 界の端のほうにちょっとだけ入っていたであろうアスカを順繰りに見たあと、それまでの静けさが嘘のように激しく泣き出してしまった。
 そして、泣きじゃくる娘をだっこしてあやすミサトさんに促され、アスカからはかなり白い目で見られつつ、後ろ髪を惹かれる思いでその場をあとに した のだ。

「あの子、あんたを父親だと思ってるんじゃないの?」

 若干痛いくらいの力でぼくと手を繋ぎながら、アスカはいまいましげに言った。

「え。それはちょっと嬉しいなぁ」

 これがぼくの答え。のん気だったのは認める。でも、指を万力のように締め付けるのはやめてくれると助かるんだけど。

「ふーん」

 真ん中の「ー」の部分がかなり長い「ふーん」のあとで、アスカは不機嫌に吐き捨てた。

「じゃあ、あんた、ミサトの家で暮らせば? そうすれば毎日あの子と遊べるし、ミサトのでかいおっぱいを好きなだけ拝めるでしょ」

 アスカは身長とウエストの細さとお尻はミサトさんに勝っているけど、バストサイズでは負けを喫している。それを結構気にしているのだ。まだ十九歳なんだ からこれからも育つだろうし、気にすることないと思うんだけど。それにむしろぼくはお尻……いや、何でもない。
 そんなことよりも、ぼくは彼女の言葉にきちんと返事をすることにした。腹立ちまぎれに心にもない悪態を吐いてしまうのは彼女の悪い癖だけども、発言した 本人も結構傷ついていることをぼくは知っている。だから、そんなことないよ、とちゃんと言ってあげなくては、見かけよりもずっとナイーヴな彼女はどんどん 自分を傷つけてしまう。

「ぼくはミサトさんの家では暮らさないし、レイの父親になることもできないよ」

「でも、あの子が好きでしょ」

 拗ねた声でアスカは言った。

「うん」

「自分の子でもないくせに。おかしいわ」

「そうだね。でも、ぼくはレイのことを歳の離れた妹のように思ってるよ。ぼくはずっと家族というものに縁がなかったから、家族の愛情が本当はどんなものな のか知らない。でも、たぶん、こんな気持ちなんじゃないかな、とあの子の小さな身体をだっこしてると思うんだ」

 納得している風ではなかったけれど、アスカはそれ以上何も言わなかった。
 二月の汗ばむような陽気の中を二人で手を繋いで歩く。今は一年で一番涼しい時期といっても、それでもたいていは半袖一枚だけで事足りる。この時期雪に閉 ざ されるドイツから来たアスカにはさぞ日本は過ごしにくかろうと思うのだけど、寒いより暑いほうがずっといい、というのが彼女の意見だ。
 正確には彼女の言葉はこう。

「本当にね、真っ白になるのよ。空も街も、何もかも。明け方にふと目を覚まして、まだ薄明るい朝日を部屋に入れるためにカーテンを開けるの。何が目に入る か分かる?  何も、よ。何も見えない。音も聞こえない。あの分厚い雪の下では時間さえ凍てついてしまうかのよう。
 あたし、あの国が嫌いだった。もちろん、あたしの故郷 はあそこしかない。それは分かってる。郷愁はいつでもこの胸の中にあるわ。でも、あそこで暮らしている頃は、やっぱり嫌いだった。
 それに比べると、日本はい いわね。次から次へと汗があふれるくらいに暑いのがあたしにはちょうどいい。眩しくて大きな太陽も好き。この胸の中に降り積もった雪を溶かして、あたしの 本 当の心、思いもよらなかった感情に気付かせてくれるから。だから、あたしはあんたのいるこの場所が 好きよ」

 ぼくたちが今のような関係になる少し前、真夏の暑い日、眩しい太陽の下で彼女は言った。日に焼けて少し赤くなった顔と、ドイツではついぞしない薄 着のせいで露わになった胸の膨らみの間を流れ落ちる汗のしずくが、とても印象的だった。
 ぼくはアスカに恋をした。ほとんど事件と言ってもいい、それは劇的な恋だった。
 十四歳の頃、船の上で初めて出会った時、彼女は痩せっぽちで、高慢で、性格が悪い女の子だった。ぼくは彼女を苦手にしていた。
 けれど、時が経つにつれ二人とも変わり、お互いをよりよく知り、ぼくは彼女の虜になっていった。
 考えてみれば不思議だ。ぼくたちがこんな風に結ばれるなんて、当の本人でさえ想像もしなかったというのに。
 彼女は降り積もった雪の下に凍りついた炎の芯を抱いていた。そして、それはこの腕の中で溶け、奔放に躍り、恋をいっそう燃え上 がらせた。炎は今もぼくたちを包み込んでいる。

「ねえ、アスカ。今日も泊まっていくよね」

「うん」

「デートして帰ろうか。どこか行きたいところはある?」

「ううん。こうやって一緒に歩いてるだけでいい」

「そっか。じゃあ、晩ごはんの買い物して、うちに帰ろう」

「そうね。今日は一緒にごはん作りましょ」

 この先、日本がぼくの生まれる以前のような四季を取り戻すことはないという。
 二十年前南極の氷が消え、大陸自体も大きく損なわれたことによって、海の温 度が変わり、世界中をめぐる海流が変化し、地球を包む大気の流れが変わった。これらによって形成される気候は、二十年前とはまったく異なる。決定的で、取 り返しのつかない変化だ。
 壊れたものは、二度と元には戻らない。
 それでもぼくたちは、壊れた世界から形作られる新しい環境に適応し、そこで生きていく。
 かつてイグアナの王国だったガラパゴス諸島。
 今、王国は滅びに瀕している。ガラパゴスにはもうイグアナはほとんどいない。大きなゾウガメも、小さなペンギンも、可愛らしいフィンチもいない。
 でも、やがて新しい環境、新しい生態系がこの世界を覆い尽くし、ガラパゴス諸島を脱出したイグアナたちは、世界中に散らばり、住みよい環境を見つけて、 そこに新たな王国を築くだろう。いつの日にか世界中の海と陸に繁栄する日も来るだろう。
 そして、新王国の岩礁や、あるいは砂浜から海を臨むイグアナたちの姿はやっぱり、腹ばいの姿勢からむちむちした短い両手でぐっと頭をもたげる赤ん坊に そっくりに違いない。
 まるでこの世界の希望そのもののように、寄せては返す波音を揺りかごにしながら海を臨む……。

「アスカ」

 名前を呼ぶと、アスカがこちらを見た。

「いつかぼくの赤ちゃんを産んでくれる?」

 アスカはすぐには答えなかった。彼女の落ち着いた表情は、ぼくがこの言葉を口にするのをもうずっと以前から予期していたことを窺わせた。彼女はしばらく ぼくをじっと見つめたあと、一途な青い瞳を再び前へ向けて、口を開いた。

「……あたし、子どもが嫌いなの」

「それは知ってる」

 子どもが嫌いなアスカ。生理も、自らが女性であることさえ嫌いだとかつて言ったアスカ。
 ぼくが頷くと、アスカは繋いだ手をぎゅっと握り直し、真剣な表情でまたこちらを向いた。

「でも、あんたとの子なら産んでもいいと、少し思う」

「それはぼくが好きだから?」

「言葉が簡単すぎるけど、まあそうね。シンジのことが好きだからよ」

 ぼくが本気で言っているのが分かっているのだろう、この時ばかりは照れもなく、この上なく真剣に彼女は言い切った。

「あたしの気持ちを本当に説明しようと思ったら、一時間かけても、一日かけても、それどころか一生かけたって足りないと思うけど、もしも一生分の時間を あ たしにくれるなら、ちゃんと説明するわ」

 その言葉を聞いたぼくはにっこりと微笑むと、彼女の手を引いて立ち止らせ、おもむろにキスをした。くちびるを離すと、少し赤くなった頬の上で、青い瞳が 炎を宿して輝いてい た。

「あげるよ。ぼくの一生」

「返さないわよ」

 アスカは先ほど口づけたくちびるの端を持ち上げて答えた。プロポーズの返事としては悪くない。上々だ。

「その代わり、あたしの一生をあげる。この身も心もシンジのものよ。シンジと一緒に生きて、一緒に死ぬわ」

 愛情にいっさい手加減がないのがアスカのいいところだ。
 ぼくはゆっくりと深呼吸をした。
 新しい世界。新しい人生。新しい家族。壊れてしまったものをまったく元どおりにすることはできない。しかし、それでもぼ くたちにはまだ未来がある。壊れてしまったものに新たな形を与える力がある。

「日差しが気持ちいいわね」

 まぶたを閉じ、深呼吸して、一身に日差しを浴びるアスカの姿にぼくは目を細めた。

「遠回りして帰ろうか」

「うん」

 いつかぼくたちの子どもは、新たに築かれたイグアナの王国を見ることができるだろうか。
 答えまでの道のりはこの先をずっと続いている。










fin.









あとがき

 リンカと申します。はじめましての方もそうでない方もこんにちは。
 最後までお付き合い下さり、感謝致します。

 腹ばいの赤ちゃんが両手で身体を支えて顔を上げる姿と、ガラパゴスの岩礁から海を臨むイグアナの姿が何だか似ている、というふとした思いつきからこのお 話 は始まりました。
 まったく似ていない、と仰られるかもしれませんが、とにかく私はそう思ったのです。
 「ハロー、イグアナ」という題名は実は書き始める時に適当につけられたのですが、偶然「こんにちは赤ちゃん」という有名なフレーズに読み替えが できることを発見したため、そのまま正式な題名になってしまいました。
 また萩尾望都の作品に「イグアナの娘」という傑作短編があり、内容的にはまったく関連はありませんが、人間とイグアナのイメージを重ね合わせる発想の種 子を 私 の中に植えつけたのはこの作品だと思います。

 バレンタインデーが近かったので、一応絡めてはいますが、バレンタインそのものをメインとしたお話ではありません。
 その辺りを期待されていた方がもしもいらっしゃったら、申し訳なく思います。
 二人が過ごした熱々のバレンタインデーの模様は、各々方想像力の翼を自由に羽ばたかせてください。

 予定していたよりお話が長くなった(いつものこと)わりに、全体に描写不足の感が否めませんが、少しでも楽しんで頂けたら嬉しく思います。

 去年書いている途中でPC故障により中断を余儀なくされた誕生日のお話を今書いているところです。
 今年は他にも、ずっと以前から書いている幼なじみのお話や、ぬいぐるみのお話、昔書いたお話の続編などを書けたらいいなと考えています。

 では、お読み下さった皆様。そして霧島愛様、こめどころ様。
 ありがとうございました。


 rinker/リンカ
 

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