特に不思議でも何でもないのよ。
 碇シンジが女の子たちに好かれていたとしても。
 色々なことが起こって危機が回避され、あたしたちはそれまで取り組んでいたエヴァンゲリオンや使徒などから解放された。
 急に普通の子どもに戻れと言われても、あたしは戸惑うばかりだったが、シンジはこの二年ほどで憑き物が落ちたみたいに明るい顔をするようになった。
 もちろん、実際にはあたしたちの生活には見えない制約が多々課せられている。世界最高の秘密の当事者だったあたしたちがごく一般の生活をするなど、どだ い無理な話だ。しかし、年齢的にはまだ子どもに過ぎないあたしたちの権利を最大限守ると称した大人たちが不自由と不当な扱いを排除し、あたしたち は自らの自由意志を尊重されながら、結果的にきわめて普通に近い生活を送ることができている。
 シンジは同級生たちと同じように高校に進学した。故郷のドイツに帰らず日本に残ったあたしも特別することもなかったので彼と同じ高校に通うことにした。
 あたしが日本に残ったのは、少し疲れてしまっていたからだ。それまでのエヴァを中心とした生活であたしはあまりにも自分を酷使しすぎた。当時は疲労など 感じる暇もなかったが、唐突にエヴァから引き離されてみると、ほとんど耐えがたい重みが肩に乗ってあたしを押し潰そうとしていることに気付いた。
 今の日本での生活はいわば長い休暇なのだ。何かに追い立てられることもなく、悠々とした生活を送ることであたしは徐々に癒されていった。
 シンジとあたしはエヴァを介することなく、初めて純粋な友人としての関係を築いていた。憑き物の落ちたシンジがなかなか魅力的な人物であったことにあ たしが驚いたことは素直に認めよう。これまでの人生で友人などほとんど作ったことのないあたしだけど、間違いなく彼はあたしにとって最高の友人の一人とい える。
 しかし、シンジの魅力に気付いたのはあたしだけではなかった。
 それどころか、実のところ大勢いたのだ。大勢の善意ある男の子たちと、そして大勢の危険な女の子たちが。





矢も楯もたまらず


rinker





 シンジと同じクラスにいて困ることの一つに、他人が彼を呼ぶ声を一日に何度も聞かされるというのがある。
 どういうことか分かってもらえるかしら。
 呼び方はさまざまだ。名字を呼び捨てにする者、名前を呼び捨てにする者、くん付けする者、妙なあだ名で呼ぶ者。
 誠実で優しく、ユーモアがあり、そして少し謎めいているシンジは男の子にも女の子にも人気がある。もちろん、女の子たちの場合、彼がまれに見る美少年で ある事実にも大いに心動かされているに違いない。
 なによ。あたしだってそれくらいは認めるわよ。別に頬を染めた女の子たちが熱いまなざしをシンジに送るのを見るまでもなくね。
 つまり、あたしは嫉妬しているのだ。冷静に自己を省みて、あたしがかなり独占欲の強い人間だということは認めざるを得ない。シンジはあたしにとって大切 な友人だ。本当なら常に一緒に行動していたいとさえ思う心は友情というより所有に近いのかもしれないが、いずれにせ よあたしが彼を独り占めにしたいと考えていることは事実だ。それなのに、現実には他の人々が彼の周りに群がり、名を呼び、あちこちに連れ回すのを見て、あ たしは面白くない気分を味わわなくてはならない。
 打ち明けるけど、これは本当に、かなり面白くないの。
 といっても、勘違いしてもらっては困る。これは決して恋なんかではないのだ。
 あたしだって健全な十六歳の女の子だから、年頃の男の子と女の子との間に起 こる興味深い化学反応のことを知らないふりする気はない。それがきわめて自然なものだということも分かっている。
 それでも、あたしのシンジに対する感情は断じて恋などではない。

「意地っ張りもここまで来るといっそ清々しいよね」

「だから違うんだってば」

「はいはい」

 あたしの前の席に座るボブカットの女の子が処置なしという風にかぶりを振った。
 高校で親友になったサツキはもはや取り合う素振りさえみせようとしない。でも、あたしは主張を変えるつもりはない。この気持ちは恋ではない。ないったら ない。
 二年前、エヴァパイロットではなくなったあたしたちは、それまで続けていた同居生活を解消した。正確には解消させられたのだが、その理由はもちろんいう までもなく、年頃の男女が一つの空間に閉じ込められているときに起こりがちな問題を回避するためだ。
 実はあたしはその決定に反発した。向こう見ずな性衝動というものをまったく信用していない大人たちが、あたしとシンジに対してもそれを忠実に当てはめた という事実を個人的侮辱として受け取ったからだ。
 だって、そうじゃない。放っておいたら二人でみだらな行為に耽るに決まっていると名指しで言われたも同然なのよ。そんな勝手な想像でどうしてあたしが一 人暮らし を強制させられなくちゃいけないのよ。一人暮らしなんてつまらないわよ。
 が、あたしのためを思っての決定なのだと諭され、反論は引っ込めるほかなかった。あるいは、一人ずつ家を宛がっていたほうが管理しやすいという大人側の 都合もあったのだろう。いずれにせよ、そのときからあたしたちの一人暮らしは始まった。

「ねえ、碇。今日の放課後カラオケに行かない? サナとユカリとあたしと。何だったら浅田とか一緒に誘ってもいいよ」

「僕は別にいいけど」

 否応なしに耳に入ってくるこの腹立たしさをどうすれば分かってもらえるかしら。
 教室でクラスメイトに声をかけられたシンジは、相手の女の子の下心になんてまったく気付いてもいないような表情でお気楽な返事をした。
 こういうとき、声をかける女の子は絶対にあたしを誘うことをしない。まったく、腹が立つったら。
 でも、女の子の側に特別な思惑があるように、男の子にもまた独自の思惑がある。シンジの周りにいる数人の男の子たちが、あたしのほうをちらちら見ながら シンジに耳打ちをした。それを見ている女の子が一瞬苛立たしそうな表情を浮かべる。

「アスカ。今日の帰りにカラオケ行かない?」

 席を立って近づいてきたシンジの誘いにあたしは短く答えた。

「行かない」

 控えめにいってもあたしは不愉快でならなかった。シンジを好きな女の子たちはあたしの存在を邪魔に思うし、シンジの友人の男の子たちはあたしと仲良くな るチャンスを欲しがる。自分を取り巻くそういう思惑に、なぜシンジがこれほど鈍感でいられるのか、あたしには理解できないが、とにかく大切な友人であるは ずのあたしをさしおいて他の男の子や女の子たちとへらへら笑っていることに腹が立つのだ。
 理不尽な嫉妬のためにシンジを責めるのはお門違いかもしれない。でも、あたしにだってどうしようもない。この問題に関する限り、感情を上手くコントロー ルするのは不可能なのだ。あたしはこれまでそれを嫌というほど味わっていた。

「アスカって損な性格だよね」

「放っておいてよ、サツキ」

 むくれた顔でそっぽを向いたあたしに、優しい親友は辛抱強く言ってくれた。

「帰りに二人でケーキ食べに行こっか」

「そして一緒にぶくぶく太るの?」

 あたしの皮肉を聞いたサツキはおかしそうに声を上げて笑った。決まり悪くてあたしの顔は熱くなった。

「悪くないでしょ、アスカ」

「……うん」

 



「勉強を教えに来てやったわよ」

 玄関を開けたシンジに向かって、腰に手を当てたあたしは目一杯高飛車に言った。彼は微笑(それとも苦笑?)してあたしを中に入れてくれた。
 別にシンジに勉強を教えて欲しいと頼まれたわけではないし、彼の成績が目を覆うようなものだというわけでもない。勉強を教えてやるという口実であたしが 勝手に押しかけているだけだ。
 シンジからすればエリート風を吹かせるあたしのおせっかいと映るのかもしれないが、構うものか。学校では他の女の子や男の子に寛大に道を譲ってやる。で も、夜はあたしのものだ。誰にも邪魔されないシンジとあたしだけの時間だ。
 あたしたちの暮らすマンションは歩いて三分と離れていない。あたしたち二人を別々に住まわせたことでひとまず満足した大人たちが、実際の私生活に ついて口出ししてくることはまずない。よほど乱れた生活を送れば話は別だろうけど、あたしにもシンジにもそれくらいの自制心はある。
 このため、あたしは気がねなくシンジの家に遊びに行くことができるのだ。もともとあたしが来日して以来一緒に暮らしていたのだし、いわば兄妹みたいなも のなのだから、二人でいることは何らおかしいところはない。
 ところで、シンジを兄とし、あたしを妹としたのは、単に彼があたしより六ヶ月年上であるという事実に即したに過ぎない。日本人というのは年齢の上下にひ どくこだわるようだから。
 シンジと本物の兄妹だったらよかったのに、と思うことがたまにある。彼と一緒にいるのは楽しいし、退屈しない。もちろんいらいらさせられることだって多 いけど、それくらいならいくらでも我慢できる。
 ちょっと頼りないけど、ときどき男前で格好いいお兄ちゃんがそばにいてくれたなら、あたしはきっとママの不 在にだって耐えられた。
 現実には意味のない想像だけど、思うだけなら自由だ。
 あたしだけのお兄ちゃん。あたしだけのシンジ。何があろうと絶対に途切れることのない絆が彼との間にあればよかったのに。
 あたしが教えてあげるのは主に理系科目と英語。逆に見返りと称して日本語を教えてもらう。といっても、当然勉強の教えっこしかしないわけではなく、テレ ビを見たりゲームをしたりおしゃべりをしたり、ようは半分以上はただ遊びに来ているのだ。大体週の半分はこうして過ごす。シンジのほうがあたしの家 に来ることはほとんどない。あたしが住んでいるのが女性専用マンションなので、管理人に睨まれるのを嫌がっているのだ。

「今日のカラオケ楽しかった?」

「うん。すごく楽しかったよ。アスカも来ればよかったのに」

 シンジのバカ。アホ。ドンカン。
 いやよ、他の連中と楽しんでいるシンジをずっと見てなくちゃいけないなんて。
 どうしてあたしの相手だけをしてくれないの?
 ……なんてことは口に出しては言わないけれど。

「ねえ、じゃあさ、明日あたしの買い物に」

 付き合って、と言おうとしたのだが、言い終わらないうちにシンジが遮った。

「あ、ごめん。明日は佐藤たちと予定があるから」

「そうなんだ。……それじゃ明後日に」

「明後日も駄目」

「じゃあ明々後日ならいいわよね?」

「えーっと、明々後日も……」

 ここであたしはキレた。

「もうっ! どうして毎日毎日予定を入れてるのよ。誘われたからって全部にはいはい返事してたら駄目じゃないの。少しは断りなさいよ。大体遊びすぎで しょ。高校に入ってから、ちょっと不真面目になったんじゃないの? そんなことじゃ成績だって下がっちゃうわ。まったく、これだから日本人は。学生の本分 は学業よ、遊ぶことじゃないの。分かってんの? 周りが能天気だからってあんたまで流されちゃ駄目。それにお金だって、いくら補償金をたくさんもらったか らって、無 駄遣いしていいわけじゃないのよ。若いうちから金銭感覚を狂わせると大人になっても直らないんだからね。あたしの話、聞いてるの、シンジ!」

「別に全部の予定が遊びってわけじゃないんだけど」

「いいわけしない!」

 あたしはさらにヒートアップしてまくし立てた。
 だって、シンジが他の誰かと予定を入れている限り、あたしは相手にしてもらえないのよ?
 確かに他の連中にとってもシンジは友達かもしれないけど、あた しにとってシンジへの友情はかけがえのないものなのよ。他の連中なんかよりよっぽど深い友情で結ばれた仲なのよ。
 なのに、一週間のうち一日たりとも二人で 友情を温めることができないなんて(もちろん夜のこの時間は別だけど)、どうかしてる。理不尽よ。みんな遠慮しなさいよ。シンジは一番にあたしの相手 をしなくちゃいけないって決まってるんだから。
 あたしがわめくのをずっと黙って聞いていたシンジは、息継ぎをしようとあたしが言葉を切った瞬間を見計らって、穏やかではっきりとした声で言った。

「分かったよ。それなら週末、土曜日に一緒に買い物に行こう。もしアスカがそれでよければ、ということだけど」

 あたしのわめき声はぴたりと止まった。

「土曜まで買い物は待てる?」

 あごが胸につくほど深く、こっくりとあたしは頷いた。

「よかった。じゃ、決まりだね」

 とんとんと話を決めて、シンジはぱっと明るい表情でこちらに笑いかけた。
 ときどき男前なシンジが発動したわ。ああもう、駄目なのよ。あたしはこれには逆らえない。こんな表情をされたら、あたしだって不平不満をすべ て引っ込めて笑顔になるしかないじゃない。
 さきほどまでのかんしゃくが嘘のようにけろりと機嫌を直したあたしは、さらに一時間ほどシンジとおしゃべりを楽しんでから、わずか三分ほどの夜道を彼に 送ってもらい、家に帰った。

「別に送ってくれなくたっていいのに。あたしなら平気よ」

 暴漢なんて蹴り殺してやるわ。

「僕が平気じゃないんだよ、僕が」

 シンジはきっぱりとした口調で言った。夜の時間帯に彼があたしを一人で帰したことはこの二年で一度もない。

「ふぅん。ま、好きにしたら」

 ねえ、彼ってすごく順調に成長していると思わない?
 ときどきうっとりしちゃうの。最高の友達よ。





 週が明けて月曜日、登校すると好奇心もあらわなクラスメイトたちの視線を一身に浴びて、教室のドアを開けたままあたしは目を白黒させた。

「なによ」

 ゆっくりと教室を見回すと、隅のほうでシンジが友達にヘッドロックされてもがいている。
 自分の席に着くと、すでに来ていたサツキだけがいつもと変わらない口調で言った。

「おはよう」

「うん。おはよ。で、あたしの顔に何がついてるっていうの?」

「……碇くんかな」

「はあっ?」

 聞けば、あたしとシンジが土曜日に繁華街で一緒に歩いているところを知り合いの誰かが見たということだった。

「それだけ?」

 あたしは甲高い声で言った。

「それだけのことでじろじろ見られなくちゃいけないの?」

「わたしに言われても困るよ。でも、みんなは碇くんとアスカが付き合ってるという前々からの噂が、やっぱり本当だったんだと――」

「勘違いしたわけね、また。何度否定したら分かるのよ、もう」

 答えの代わりにサツキがかぶりを振ると、ボブカットの綺麗な黒髪が揺れた。

「アスカ、土曜に何してた?」

「シンジと一緒に買い物した」

「そういうの、普通はデートっていうんだよ」

「どうしてそう短絡的なの。友達と二人で遊んじゃいけないの? みんなが想像してるようなことは何もないのよ」

「ま、誤解ならそのうち解けるでしょ。碇くん狙いの女子の風当たりはしばらく強いかもしれないけど」

「勘弁してよね」

 机に突っ伏したあたしの頭をサツキがぽんぽんと軽く叩いた。
 クラスのみんなはあたしとシンジの素性を知らない。あたしたちがエヴァに乗っていたことも、あたしたちの戦いによって世界の命運が左右されたということ も。そもそもエヴァとは何か、どんな危機があったのかすら知らないだろう。
 あたしたちがどのように出会い、戦い、笑いあい、憎みあい、そして許しあったのか、知らなければこの関係を理解することは到底できないに違いない。
 実際には、あたしがシンジを友達だと正面きって言えるようになるまで一年もかかった。その間のことをいまさら説明するつもりはないけど、彼に対する感情 を一年かけて昇華する過程であたしが知ったことは、この友情がとても大きく、深く、そしてかけがえのないものだということだ。
 男女なんて関係ない。あたしにとってシンジとはそれほどの存在だ。だから、クラスメイトたちが想像するような軽々しい間柄ではないのだ、あたしたちは。
 しかし、あたしがそれを周囲に納得してもらうには何日も必要だった。特にシンジを恋い慕っている女の子たちが抱く疑いは容易に晴れなかった。彼女たちは そもそも男女間の友情などありえないというのだ。そんな主張をする辺りが、すでにあたしとシンジの友情の深さを理解できていない証拠なのだけど、特殊な過 去のことを説明するわけにも行かず、あたしはただひたすらシンジと恋人同士ではないと繰り返すほかなかった。

「この何日か妙なことになってたね」

 シンジがあたしに言ったのは、高台にある神社の境内でのことだ。
 時間はすでに午後九時を過ぎている。生い茂る木々に囲まれた境内は真っ暗闇に包まれている。こんな時間、こんな場所にどうしてあたしたち二人がいるのか といえば、天体観測をするためだ。シンジの趣味で、あたしはそれに付き合っている。この神社の境内は街で一番の星見スポットなのだ。

「まったくだわ。みんな疑り深いんだから」

「半分以上は面白がってるだけな気もするけどね」

「だからってさぁ。これで一体何度目だと思ってるのよ。あたしたちはそんな安っぽい間柄じゃないっていうのに」

「あはは、まあいいじゃない」

 シンジはまるで気にしていないという顔で笑った。
 寛大というか、のん気というか。まあ、シンジがそう言うならあたしもいいけどさ。
 手元をランプで照らしながら、三脚に立てた望遠鏡の調整をしているシンジの背中を折り畳みチェアに座ったあたしは眺めている。ぼんやりとした明かりの中 で浮かび上がったシンジの姿は、少しでも目を離すと暗闇の中へと溶け込んでしまいそうで、いつも不安を掻き立てられる。現実にはそんなことが起こるわけな いと分かっている。でも、あたしが彼の天体観測にできる限り付き合うようにしているのは、やはりそれが怖いからかもしれない。
 シンジが星空を見上げ始めたのは、エヴァに乗らなくなってからだ。もともと彼にはチェロという特技があるのに、どうしてまた新たに天体観測などに興味を 持ったのかと二年前のあたしには不思議だった。それまで星に興味があるような兆候はまったくなかったからだ。
 でも、まだそのころは、彼にその理由を問い質す勇気があたしにはなかった。なぜなら、その質問は彼の心の内面を知るという行為だったからだ。あたしはま だ彼との距離感を測りかねていて、ひとたび彼の心に触れるようなことをすれば、こちらも同じように皮膚の裏側に隠したものをすべてさらけ出し、二人で溶け 合って一つにならなければいけないような、そんな気がしていた。あたしはそれが恐ろしかった。
 あたしという人間がシンジと正面から堂々と向き合えるようになるには、さらに一年ほどかかったのだけど、とにかく、このときは彼が突然新しい趣味に目覚 めたわけを 気になっても訊ねられなかった。
 結局、その理由を知ることができたのは、彼本人の口から自発的に語られたのを聞いたからだった。それは確か三度目の観測でのことだった。まだ望遠鏡の扱 いに試行錯誤 し、夜空に描かれた星座をいくらも見分けられなかったころだ。

「最初はね、初号機が見えるんじゃないかと思ったんだ」

 望遠鏡を覗いていたシンジが唐突に話し始めたとき、あたしは彼の隣から肉眼で星空のまたたきを見上げているところだった。

「シンジ?」

「もちろん、初号機はすごく小さいし、自分で光っているわけでもないから、見えるわけはなかったんだ。すぐにそれが分かったけど、でも、ひょっとしたら見 つけられるんじゃないかって。それが最初のきっかけ」

 シンジが望遠鏡を覗いたままで話していたのは、彼自身まだ完全には準備ができていなかったからなのだろう。彼もまた怖いのだ。あたしに顔を向け、あたし の目を見 て、自らの心情を吐露することが。
 そう察することができたのは、まぎれもなくあたしも同じ葛藤を抱えていたからにほかならない。星空からシンジの横顔に視線を転じたあたしは、ある事実に 気付いてひどく心を揺さぶられた。彼はあたしに向かって一歩踏み出そうとしていたのだ。あたしがまだ振り絞ることのできない勇気をもって。

「見つけて……どうしたかったの?」

 暗闇ににじむシンジの白い頬に向かって、あたしは震える声で訊いた。

「たぶん確認がしたかったのかな。初号機と別れたあの日のことは、夢の中の出来事みたいに不確かで、本当に起こったこ となのか自分でもときどき分からなくなるんだ。だから、宇宙に浮かぶ初号機の姿を見つけられれば、ああ確かにあれは現実で、今はもう僕と初号機は別々の道 を歩んでいるんだ、って納得できるような気がした。もっとも、今はもう探してるわけじゃないけどね。でも、たまに思うよ。今初号機はこの広い宇宙のどの辺 りにいるんだろうって」

 エヴァンゲリオン初号機にはシンジのお母さんの魂が宿っている。すべての人が溶け合って一つになるサードインパクトという現象の中心で、シンジはその生 ぬるいユートピア を拒絶し、初号機の中のお母さんに別れを告げた。その結果、溶け合っていたすべての人は再び元のあるべき姿に戻ることができた。当然、あたしもその一人 だ。

「きっと今ごろは太陽系の外かしら。あ、でもそんなに加速してるわけないか。まだ地球と火星の間くらい? そもそも慣性で進むんだし……、いや、でもエネ ルギー自体はほぼ無限に発生させられるんだから……」

 思わずあたしが考え込むと、シンジは望遠鏡から顔を上げておかしそうに笑った。暗闇の中で彼とまっすぐに視線がぶつかったのが分かった。

「アスカの言うとおり、今ごろはもう太陽系を飛び出しちゃったかもね。ぐんぐんスピードを上げて、新しい世界を目指して」

「そ、そう?」

「ありがとう、アスカ」

 シンジのどこか晴れ晴れとした感謝の言葉を聞いて、あたしも決心していた。今度こそシンジと心から向かい合うことを。
 その決意が達成されるまで一年近くかかったわけだけど、こうしてあたしたちが真実の友となれたことを考えれば、星空にそこまで関心があるわけではなかっ たあたしもまた、シンジとの天体観測には格別の思い入れを抱いている。

「ねえ、今どこを見てるの?」

 折り畳みチェアをシンジが座るすぐ隣にくっつけて並べ、あたしは訊ねた。

「オリオン大星雲。色も少し分かるよ」

「あたしにも覗かせて」

 シンジと場所を入れ替わり、あたしは望遠鏡を覗いた。オリオン座の三つ子の星の少し下に、淡くピンクがかった白に輝くもやが見られる。それがオリオン大 星雲だ。

「綺麗ね」

「うん」

「ちょっと動かすわよ。三ツ星を見たいの」

 オリオン座の中心に並ぶミンタカ、アルニラム、アルニタクはシンジが一番好きだと言う星だ。あたしにもその理由は分かる。仲良く三つ並んだ星がシンジと あたし、そして今は亡き綾波レイを思わせるからだ。同じエヴァのパイロットだったかつてのあたしたちは、必ずしも仲が良かったわけではないけれど。
 たぶん、西のミンタカがあたし。真ん中のアルニラムがシンジ、東のアルニタクがレイね。昔のあたしならシリウスが自分だと言うところでしょうけど、考え てみれば、あたしたち三人は最初からシンジを真ん中に挟んだ関係だった。それは男の子一人と女の子二人の恋模様という単純なものではなく、いわば世界と自 分との位置づけに係わってくるような種類のものだったといっていい。
 二年前にそれは崩れてしまったけど、あたしは今でもそれを忘れてはいないし、シンジもまた忘れていないことは間違いない。
 レイは死んだと言ったけれど、正確には死んだかどうか分からない。あたしたちの前からいなくなったことは確かだし、その肉体がすでに失われたのも事実 だ。でも、あの不思議なレイにとってそれが本当に死であったのか、あたしにもシンジにも分からないのだ。
 もしかすると、いつかひょっこり帰ってくるかもしれない。あたしたちは、なかば以上そう信じている。
 もし本当にレイが帰ってきたら、そのときこそあたしは彼女を友達と呼ぶことに決めている。シンジと同じように特別な絆で結ばれた友達だ。
 兄妹に例え ることをまた許してもらえるなら、レイはあたしたちの妹だろうか、それともお姉ちゃんだろうか。お兄ちゃんのシンジを両側から挟んで引っ張る二人の可愛い 妹、なんてどうかしら。三つ並んで輝くオリオンの帯を見上げるとき、あたしはいつもそんなことを思う。

「アスカ、人が死んだら星になるって話、知ってる?」

 望遠鏡を覗くあたしのすぐ隣でシンジが言った。

「うん」

「あれね、本当なんだよ」

「どういうこと?」

 顔を上げると、すぐ近くにシンジの顔が白く浮かび上がっていた。彼は少し微笑んでいるようだった。

「自分の身体が何でできているか知ってる?」

「もちろんよ。水素、酸素、炭素、窒素、リン、イオウ。それからナトリウムでしょ。カルシウム、マグネシウムにカリウム、塩素。あとは鉄や亜鉛、銅とか、 フッ素、ヨウ素なんかの微量元素ね」

「詳しいね。それなら、それらの元素はどこから来たのかっていうと」

 とシンジはあたしに見えるよう顔の前で足下を指差した。

「地面? 地球?」

「そう。地球上に存在する元素が循環し形を変えていく中で、今この瞬間はたまたま僕やアスカの身体を構成している。じゃあ、地球はどうやって生まれ た?」

 ここまで来るとあたしにも彼が何を言いたいのかが分かった。

「地球は宇宙を漂うチリや岩石から」

「そのチリや岩石は他の古い星々の残骸だ。その古い星々もまた、さらに古い星々から生まれた」

「星から星へ、星から人へ、そしてまた人から星へ?」

「僕らが死んだら土へ還る。亡骸が腐って微生物に分解されるって意味だけじゃないよ。僕らはどこまで行ってもこの星の一部なんだ。この星を出て行かない限 り。もちろん、たとえ出て行ったとしても、この宇宙の一部であることには変わりはない」

「あんたが言いたいのはこういうことでしょ。いつか地球も寿命を終え、星としての形を失うときが来る。今この瞬間あたしたちを形作っている物質は、あたし たちの死後も地球上で循環し、留まり続け、やがては地球の死とともにチリとなり、岩石となり、あるいはガスとなって宇宙を漂うことになる。そして、気が遠 くなるほどの未来、あたしたちはまた新しい星の一部になる」

「うん。さすがアスカ」

 シンジは嬉しそうにあたしを褒めた。
 死んだら星になる、なんてセンチメンタルな御伽噺だと思っていたけれど、シンジの考えは物質としての真理だ。もちろん、相当に大雑把な話ではあるけど。

「いつか僕たちは果てしない宇宙に浮かぶ星々の一部だった。そこできっと、僕たちは区別もなく一つの存在だった。僕たちはすべてだった。僕もアスカも、綾 波も、 父さんやミサトさん、この世界のすべての人たち。あの使徒たちだって同じだったんだ。今はこうして別々の身体を持って、引き離されたように感じるけれど、 本当は一度だって僕たちは引き離され てなんかないんだ。僕たちはいつでもこの宇宙の一部であり続けてきたんだから。僕たちが死んだあともそれは変わらない。綾波も、父さんやミサトさんたちも 一足先に行ってしまったけれど、でも、実は僕たちとみんなはいつでも一緒にいるんだよ」

「それがあんたのサードインパクト?」

 あたしが訊くと、シンジは星空を見上げて恥ずかしそうに言った。

「ちょっと大袈裟だったかな」

「まあね。でも安心して。ほんのちょっとだから」

 シンジの腕を取り、あたしも星空を見上げた。

「アスカ?」

 腕を絡めたことにシンジは少し戸惑った声を上げたが、あたしの好きにさせてくれた。
 別にいいムードだからとか、そんなのは関係ないのよ。ただ亡くなった人たちのことを思い出してしんみりしちゃったから、シンジに触れていたかっただけ よ。

「あたしたちはかつてあの光の一部だったのね。そして、いつか新しい光の一部に生まれ変わるのね」

「新しい海や大地にもね」

「見たことも聞いたこともない星に暮らす魚やトカゲや、生まれもつかない奇妙な生き物にも、でしょ。あーあ、せっかく今はこんなに美少女なのに」

 ふざけてシンジの肩に頭を預けると、思いがけない言葉が降ってきた。

「そうだね。ちょっともったいないかも」

 暗闇の中にいたのは幸運だった。あたしの顔はきっと真っ赤になっていたからだ。
 あたしだって女の子だから、褒められたら嬉しいに決まっている。相手が親友のシンジであってもそれは変わらない。
 だから、しばらく胸のどきどきが止まらなかったのは、全然不思議なことじゃないはずよ。





「いや、それは好きなんでしょ、碇くんのことが」

「はあっ? 何言ってるのよ、サツキまで」

 あたしとサツキは昼休憩に中庭のベンチでお弁当を食べていた。
 何とあたしは毎日自分でお弁当を作っている。昔からしたら考えられないけど、一人暮らしを するには多少は料理もできないと困るだろうと考え、シンジと一緒に練習した成果だ。今では結構楽しんで料理をするようになった。
 先日の天体観測でのことをサツキに話したのはほんの気紛れだった。もちろん、詳しい会話内容まで明かしたりはしていないけど、シンジがあたしを可愛いと 言ってくれて、いい気分になったことを打ち明けてしまったのは、あるいは浮かれていたためかもしれない。サツキ相手ならば、という気持ちもあった。
 ところが、サツキはあたしにとって予想外の言葉を返してきた。あたしのシンジへの気持ちは恋ではないと前々から分かってくれているはずだったのに。

「そりゃもちろん好きよ。友達だもの」

「あのさ、アスカ。それは例えばわたしに対する好きと同じものなの?」

 いつになくサツキは厳しい調子で問いかけてきた。あたしは歯切れ悪く答えた。

「まったく同じじゃないかもしれないけど……でも、恋愛とは全然関係ないわ」

「どうだかね」

「なによ、いつもはこんなこと言わないじゃない」

 あたしがなじると、サツキは肩を竦めた。

「まあ、そうだけどさ。それじゃ例えばアスカの好みのタイプってどんなの?」

 訊かれてあたしは首をひねった。

「マグ……」

「マグ?」

「ううん、何でも」

 言いかけてやめたあたしをサツキが怪訝そうな顔で見たけど、驚いたのはあたし自身だ。
 とっさに思い浮かんだのは『あたしを助けるためならマグマの中にでも飛び込んでくれる人』だ。サツキはこれを聞かされても何のことか分からないだろう。 で も、あたしは現実にマグマに飛び込んだ人間を一人知っている。他ならぬシンジだ。
 もちろん、生身ではなくエヴァで飛び込んだのだし、火傷を防ぐためシンクロ率を強制的に下げられていたのだけど、当のシンジはそれと知ってマグマにダイ ヴしたわけではない。文字どおりあたしの生命を救うために自己の危険を顧みず行動してくれたのだ。そのことに対する強烈な感動は、確実にあたしの心の中に 深く根付いている。
 しかし、それを恋と結びつけて考えたことはこれまでなかった。シンジは尊敬すべき素晴らしい男の子で、かけがえのない無二の親友だ。この好きはそういう 好きなのだ、とあたしはこれまでずっとそう思い込んできたのだ。
 ところが、どんな男の子に心惹かれるかと問われたとき、あたしにはシンジ以外にまったく思い浮かばなかった。
 サツキによって知らされたこの予想外の感情にあたしはひどく動揺していた。

「アスカと碇くんがお互い納得済みなら、別にいいんだよ。ただ碇くんってすごくもてるし、わたしも彼氏がいるから分かるけど、もし彼氏に始終くっ付いてる 女 の子の友達がいたとしたら、絶対に納得できない。嫌だよ、そんなの。だって、嫉妬で気が狂いそうになるもの」

 どこかで聞いたような話だ。あたしはぼんやり思った。

「男と女の友情がまったく成立しないとは言わないけどさ。そんな感じになったらもう友情の度を越してるよ。アスカもそう。碇くんといつも一緒にいたいんで しょ。他の女の子や男の子に邪魔されるのが許せないんでしょ。それって、碇くんのことが欲しいってことだよ。女として求めてるんだよ。好きってことだよ」

「それが好き? それが恋なの?」

「よく考えてみなよ。碇くんを他の女の子に取られる前に。控えめに言っても、碇くんは誘われると断れない人なんだから」

 教室に戻ると、シンジの周りに数人の女の子と男の子が群がって楽しそうに会話していた。女の子は全員シンジに気があると噂される子たちで、みんなそれな りに可愛い顔立ちをしている。
 たとえばあの中の誰かに付き合って欲しいと打ち明けられたら、果たしてシンジは断ることができるのだろうか。あたしはひどく不安な気持ちに駆られた。
 いや、そもそもシンジに断る理由はあるの? あたしがその理由になるなんて保証はどこにもないじゃない。だって、あたしはただの『友達』なのだから。
 そして、ひとたびシンジが他の女の子を恋人として受け入れたら、もう彼の隣にあたしの居場所はなくなる。彼にとって一番重要なのはその女の子であって、 あたしではない。あの声や笑顔、彼の身体、彼の心、その何もかもがあたし以外の女の子に捧げられるのだ。
 それを想像しただけで身を引き裂かれるような痛みを覚えた。そんなことには絶対に耐えられない。あたしは胸を押さえて痛みをこらえた。
 シンジといたい。たとえこの世界が滅ぼうと、すべての人々がいなくなろうと構わない。シンジさえ隣にいてくれたらいい。
 突然、すとんと腑に落ちた。
 そうだ。あたしはシンジを好きなのだ。
 これまでの前言はすべて撤回する。一つを除いて。
 あたしのシンジへの気持ちは、まぎれもなく大きく、深く、そしてかけがえのないものだ。ただし、それはあたしたちが女と男であることと密接に結びついて いる。別ちがたく結びついているものを切り離して考えようとしたのがそもそもの間違いだった。
 あたしは人間としてシンジを好きなのと同時に、女として彼を愛しているのだ。
 シンジのすべてを手に入れ、独占し、彼と二人で生きたい――あるいは、三人か四人で。
 少し頬が上気するのが分かった。もちろん、あたしだって親密な男女の間に何が起こるのかは理解している。シンジの赤ちゃんを産むという考えは、すごく素 敵なものに思え、あたしはとりこになった。当然すぐの話ではないけれど、想像も付かないほど遠い未来のことでもない。必要な機能はすでに成熟しかかってい るのだから。それを考え たあたしの顔はますます熱くなった。
 しかし、そのためにはまず現実を何とかしなくてはならない。
 あたしの目の前ではシンジが女の子たちに囲まれて楽しそうに笑っている。どの女の子もシンジへの思慕を隠そうともしていない。彼がどこまで察しているの かは定かではないけど、いずれにせよ残された時間はない。これはものすごくまずい状況だ。
 何とかしなくちゃ。早く何とかしなくちゃ!





「やあ、アスカ。どうか――」

「お邪魔するわよ」

 玄関を開けたシンジが言い終わらないうちに彼の腕の下を潜り抜けて、あたしは勝手に家に上がりこんだ。

「したのかって訊こうとしたんだけどな」

 背後からシンジの呟きとともに玄関が閉じられる音がする。
 時刻は午後六時にもなっていない。部活動から帰ったばかりなのか、シンジはまだ制服のままだった。

「ごはんでも食べに来たの?」

「え? ああ、そうね。一緒に食べましょ」

 リビングまで追って来たシンジの言葉にあたしはうわの空で答えた。彼は怪訝そうな表情をしたけど、「とりあえず着替えてくるよ」と言って寝室へ向かっ た。
 学校でも家に帰ってからもあたしはずっと考えていた。でも、確実にシンジを手に入れられる上手い作戦が思い浮かばなかった。
 結局、あたしが決めたのは素直になることだけだ。素直な気持ちをシンジにぶつける。今できるのはそれしかない。それであたしの望む返事を彼がしてくれる かどうかは分からないけど、とにかくあたしには時間がないのだから。
 シンジはまだ着替えから戻らない。あたしは彼の寝室の前に立つと、大きな深呼吸を一つして、ひと思いにドアを開けた。

「シンジ!」

「うわっ?」

「きゃあっ!」

 あたしがドアを押したのと、着替え終わったシンジがドアを引いたのは同時だった。そのせいで、あたしは勢いあまって前につんのめり、真正面からシンジに ぶつかっていっ た。シンジはとっさにあたしを支えてくれたけど、急だったので勢いに負けてあたしごと後ろにひっくり返った。
 ごちん! というすごい音がした。シンジが床に頭をぶつけた音だ。

「ごめんなさい! 大丈夫、シンジ?」

「いったたたた……。大丈夫だよ、たぶん」

 仰向けに倒れたシンジはぶつけた後頭部を手でさすり、血が出ていないことを確認してから力なく笑った。

「本当に平気?」

「こぶができただけ。それよりもさ、アスカ」

 シンジはもぞもぞと居心地悪そうに身じろぎした。あたしの下で。

「どいてくれるとありがたいんだけど」

「そうだわ! そんなことよりシンジ!」

 仰向けのシンジの上からぴったりうつ伏せに覆い被さっているあたしは、鼻の頭が触れ合うほどの近さで大声を上げた。シンジはたまらず片目をぎゅっと閉じ た。

「明日あたしとデートしましょう、シンジ!」

「明日デート? アスカが僕とデート?」

「そうよ。デートよ。いつもの買い物とは違うの」

 あたしはシンジのTシャツの肩辺りをぎゅっと握り、必死になって彼の顔を覗きこんだ。彼はあたしの全体重を身体に載せたまま動けなくなったらしく、もぞ もぞするのをやめていた。

「何でまた急に?」

 シンジはすぐにうんとは言ってくれなかった。デートの意味が分からないほど馬鹿じゃないはずだ。あたしは唇を噛んで泣きたくなるのをこらえた。でも、こ こでくじけたりしてられないわ。

「シンジのことが好きだからよ!」

 彼は目を丸くしてあたしを見た。

「好きなの! 恋してるの! 誰にも渡したくないの!」

 一世一代の告白をしたあたしは息をつめてシンジの返事を待った。一秒が一時間にも感じられ、心臓の鼓動のせいで自分の身体がシンジの上で跳ね回っている ような気がした。
 シンジはあのうっとりするような優しい笑顔になって、彼の上にうつ伏せに覆い被さるあたしの身体に手を添えた。

「いつ気付くのかと思ってたよ」

 彼はあたしの細い腰を抱き、面白がっているような口調で言った。

「僕はもうずっと前から待ってたんだ。アスカが自分で気付いてないみたいだから、黙ってたけど」

 まったく予想外の言葉を聞いて、あたしは唖然として彼の顔を見つめ、それから叫んだ。

「ずるい!」

「ずるいって何が?」

「知ってたならどうして教えてくれなかったのよ。あたし、一年以上も無駄にしたわ」

「覚えてると思うけどね、アスカ。アスカが自分で友情という言葉を繰り返し使ってたんだよ。僕がそれは違うと言ったって、そう簡単に納得したと思う?」

「そんなの、分からないじゃない。勘違いしてるあたしを見て面白がってたのね。ひどいわ!」

「いいじゃないか、結局気付いたんだから。それに、どっちにしてもそろそろ待つのはやめるつもりだったんだ。アスカに先を越されたけど」

 シンジはあたしに微笑みかけて言った。

「それで、明日はどこへ行こうか」

「え?」

「デートだよ」

「デート?」

 どうやら事態の急展開にあたしの頭はまるでついていけなかったらしい。混乱したあたしの耳元に口を寄せ、シンジはそっとささやいた。

「僕もアスカが好きってこと」

 ぱっと顔を上げて、あたしはシンジを見た。それから、感情を爆発させた。

「シンジ!」

「ん?」

「大好き!」

 両腕でシンジの頭をきつく抱き締めたあと、思い余って口づけをした。身体中が電流で痺れ、濡れた唇以外のことが考えられなくなった。ようやく唇を離した ときには、あたしは力が抜けて息も絶え絶えになっていた。
 シンジはまだあたしの腰を抱いていた。ふと我に返り、自分がとんでもない体勢になっていることに気付いた。寝室の床にシンジを押し倒し、彼の身体の上に うつ伏せに覆いかぶさってぴったりと密着しているのだ。自分の柔らかい身体が彼の身体に合わせて形を変えているのが分かった。それと同時に、彼の身体の形 もよく分かった。とてもよく分かった。
 あたしは急に恥ずかしくなり、起き上がろうとした。でも、力が抜けて動けなかったし、何よりシンジはあたしを離すつもりがないみたいだった。

「あの……シンジ?」

「アスカ?」

 よく見るとシンジも頬を上気させていた。それを見たあたしは満たされた気持ちになった。これでもうシンジはあたしのものだ。数え切れない夜と昼をあたし たちは二度と離ればなれにならず過ごすのだ。

「……もう一回、キスしてもいい?」

 内緒話みたいに小さな声でおずおず提案すると、シンジはくすりと笑った。悔しかったので、あたしは返事を待たず、彼の唇を捕まえた。










fin.

ベリー・ショート・ストーリーズW










あとがき

 最後までお付き合い下さり、ありがとうございました。

 忙しいはずなのに、ついうっかり昔書いていたお話をちょこちょこ直していたら、何となくできあがってしまいました。最初に想像していたのと少し異なる展 開になってしまいましたけど。
 そんなわけで、勘違いしたアスカがじたばたするお話でした。

 「矢も楯もたまらず」という言葉が好きです。
 語源は知りませんが、おそらく戦に関係する言葉でしょう。あるいは能楽、歌舞伎あたりから生まれたのでしょうか。元はあまりいい意味ではないのでは と想像しています。でも、好きです。
 本当はもっと「矢も楯もたまらずアスカがシンジを求めちゃうお話」みたいになるはずだったのですが、いまいち失敗致しました。成功していたらもう少しア ダルティなお話になっていたかもしれないので、失敗してよかったとも考えています。
 はために明らかな恋心をアスカがいかに友情と勘違いし言い張るのか、もう少し上手く表せたらよかったのですが、できませんでした。あんまり熟考してませ んし。
 こんなモテモテ野郎はシンジじゃないと仰る方には申し訳ありません。
 もしこれがバレンタインのお話だったら、血でチョコを洗う阿鼻叫喚の修羅場になっていたに違いありません。なんて恐ろしいんでしょう。
 星がどうこうというのは他のお話のために温めていたものだったのですが、使ってしまいました。でも、そのお話もいずれ書きます。二番煎じでも有無を言わ さずやります。
 オリオン座も好きです。いつでもどこでも見分けられるサービス心と、あの幾何学的礼儀正しさがたまりません。いずれ天体観測をしてみたいなと思って います。

 それでは、お読み下さった皆様。掲載して下さった霧島愛様、こめどころ様。
 ありがとうございました。


 リンカ/rinker

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