仕事帰りに駅構内の本屋へ立ち寄ると、好きな作家の新刊が出ていた。文庫が出るまで待とうかと迷ったのは一瞬で、気が付くとカバーをかけられた単行本を
小脇にお釣りを受け取っていた。「ありがとう」と言うと、まだ少女のような店員さんがくしゃっと顔をほころばせた。可愛いね。
郊外へ延びる私鉄の各駅停車で十五分ほど揺られると僕の住んでいる町の駅に着く。駅前にはこじんまりとした商店街が広がるごく平凡な住宅地だ。大学卒業
と商社への就職を機にこの町へ引っ越してきて、僕は一人暮らしをしている。休日くらいしか出歩くことはないけれど、僕はこの町のことがなかなか気に入って
いる。
駅前の商店街でいつも利用するお惣菜屋さんに立ち寄り、夕飯におにぎりとおかずを買い求めた。まだ八時前なのでかなり早く帰れたほうだけど、さすがに
料理なんてする気力はない。高校生のころから一人暮らしをしているので料理が苦手というのではないけど、やっぱり面倒くさいもの。彼女が家に来てるならま
た話は別だけどさ。ちなみに彼女っていうのは、もちろん僕といわゆる恋人関係にある女の子なわけなんだけど、それについてはおいおい語ることにしよう。
ところで、どうして高校生のころから一人暮らしなのかといえば、僕が両親を亡くし親類もなく天涯孤独の身の上だからだ。母を亡くしたのは四歳、父を亡く
したのは十四歳だった。二人とも科学者で、特に父のほうはネルフといううさんくさい組織の長として世に知られた人物だった。息子である僕は四歳で他人に預
けられたためにほとんど父と接する機会もなかった。十四歳の時に一方的に呼びつけられて父と再会はしたものの、結局心を通じ合わせることはできず、彼
のことなどほとんど何も知らないといっていい。
それは悲しいことだけど、時間を取り戻すことはできない。機会は永遠に失われてしまったのだ。昔の僕はこのことを思い出して時折泣いた。いつも胸を貸し
てくれたのは彼女だった。頭を預けた彼女の胸は柔らかくて温かかった。
ネルフにいた当時の知り合いはほとんど亡くなっている。サードインパクトとその周辺で起こった事件のためだ。責任の大半は僕にあるのだけど、そう言うと
彼女が怒るので、彼らには心の中でそっと手を合わせて僕らが今も生きていることへの許しを請うことにしている。あるいは許されないのかもしれない。でも、
構
わないと彼女は言う。僕もそれに頷く。彼女との幸せを手放すつもりはないからだ。そのためならいくらでもわがままになれる。
さて、辛気臭い話はこれくらいにしよう。せっかく意地悪な上司から解放されて飲み会もなく早めに帰宅できるんだもの。しかも今日は金曜日。パラダイスは
目の前だ。ケー
ブルテレビで野球かサッカー中継でも見ながら、キンキンに冷えているビール片手にたった今お惣菜屋さんで買ったご飯を味わって、そのあとは今日買った
僕の好きな作家の新刊本でもゆっくり読もう。久し振りに湯船にも浸かって、目覚ましをかけずにベッドに入って。そして明日は思い切り朝寝坊をするんだ。あ
あ、自由っていいな!
「おかえりー」
一人暮らしの我が家の玄関を開けると電気がついていて、甲高い声が出迎えてくれた。反射的に「ただいま」を返して足元を見れば、今朝方には確かになかっ
たパ
ンプスがある。片っぽが横倒
しになったそれをきちんと揃
えてから自分の靴を脱
いでリビングに向かうと、フリルのついた白いブラウスにミニのタイトスカートを穿いた女の子がじゅうたん敷きの床に直接腰を下ろして僕のビールを飲んでい
た。
「いや、女の子って歳じゃないか」
「なんか言った?」
耳ざとい彼女はビールに口をつけながらじろりとこちらを睨み上げてきた。おお、怖い。
「いーえ、何も。久し振りだね、アスカ」
「おっす」
片手を上げてみせてから、ぐびぐび喉を鳴らして一気にビールを流し込む恋人のアスカの姿に少々夢が壊される気持ちがして、僕は思わずため息を吐き出し
た。遠慮するような間柄ではないし、鍵は渡してあるので勝手に上がりこんでいようが構わないというのは事実ではある。でも、せめてもう少しは僕の前で緊張
感を保っていて欲しいと思うのは、男の勝手なわがままなんだろうか。
飲み干したビール缶を握り潰すと、入っていない
ものなんて何もないというくらいにぱんぱんに膨れ上がったバッグを漁って化粧ポーチとコットンを取り出し、アスカは鼻歌交じりに化粧を落とし始めた。
「直接会うのって一ヶ月ぶりくらいだったっけ」
「ああ、そんなに経ってた? 忙しくてまいっちゃうわ」
アスカは大学の研究所で研究者として仕事をしている。頭の出来はいたって人並みな僕にはちんぷんかんぷんだけど、彼女にしかできない仕事なら口を出すつ
もりも
ない。やりが
いがあるなら忙しいのもいいだろう。まあ、あまり会えないのはちょっとあれだけど、うん、仕方がない。
「でも今日は早いじゃない。まだ八時だよ。修羅場はようやく終わり?」
「ううん。終わってないけど、ちょっと時間が作れそうだったから。でも、滅多に会わなくてあんたも浮気がしやすいでしょ?」
「はいはい。実に助かってますよ」
「ふふん。してたら死刑だけどね。健気な彼女を持ててあんたは幸せ者よ」
「健気で人を殺しますか」
「馬鹿ね、もう。会いに来てることを言ってるの」
こういうやりとりも楽しいけど帰ってきたままの状態でいつまでも続けていても仕方がないので、僕はカバンを下ろしてお惣菜屋さんの袋をテーブルの上に置
いた。彼女はちらっとそれを見て、ごく当たり前の声で言った。
「シンジ、お腹空いた」
「一人分しか買ってきてないんだけど」
そもそもうちに来るのなら一言でも連絡を寄越してくれればいいのに。大概が彼女は突然なのだ。まるでそうしなけりゃいけないと思い込んでいるように。
「ラーメンかなんかないの?」
「あると思うけど」
「んじゃシンジ、早くお湯沸かして作ってよ」
ここでかちんと来るような奴は彼女とは付き合えない。こんなものは彼女にとってはわがままにも入らないんだから。それを身をもって知っている僕はだか
ら、彼女の顔を拭いてまだら色に染まったコットンを覗き込んで「うわー」とわざとらしい声を出し、お姫さまの飯を作るべく回れ右した。すると、僕のちょっ
とした復讐に期待通り反応してくれた彼女から行きしなにお尻をパンチされた。彼女は僕のお尻が好きなのだ。
それにしても、やれやれ。帰宅前に胸躍らせていた僕の自由計画は全部ぱーだな。彼女がいてくれるならいいんだけどさ。いや、嘘じゃないって。
惣流・アスカ・ラングレーは十四歳の時からの腐れ縁だ。エヴァンゲリオンというでたらめな兵器のパイロットとして僕たちは出会った。ほとんど最悪の
出会いから始まって最悪の経過を辿った末に、二人の間に渡されていたか細い糸がぶつんと音を立てて切れる寸前のところで起死回生のウルトラCを決めた僕
らは今に至る長い付き合いを続けることになった。
何のことやらさっぱり分からないって? ま、それはまた別の機会にね。
で、そのアスカのことだけど、ゲルマン系の血が濃い彼女は目鼻立ちのくっきりした美人で、背中のほとんどを覆うストロベリーブロンドは幼い頃から一度も
短く
したことがない彼女の自慢。スタイルもまあ上々。ちょっと声は高すぎるけど、興奮しさえしなけりゃきんきん声で他人を不快にすることもない。
ほとんど唯
一にして重大な瑕疵はその左目にしている黒い眼帯だ。彼女には左目がない。十四歳まではちゃんとあったのだけど、エヴァンゲリオンに乗っている最中に潰し
てしまっ
た。一時は義眼を入れてい
た
こともあったのだけど、ある時期を境に義眼はやめて眼帯をするようになった。いわゆる海賊風の黒いアイパッチなので、研究所の仕事仲間から進呈されたあだ
名は海賊船長。
光を反射してきらきらと輝く長いまつげに縁取られた右の瞳はどこまでも青く透き通っていて、左目を覆う無骨な眼帯との対比はいっそ滑稽ですらある。その
気
性に反して本来優しげに目尻の垂れた甘い眼差しをしている彼女が必死になって目を吊り上げて周囲を睥睨しようとする様は、僕からすれば可愛らしいものだけ
ど、何も知らない人間からしてみればその眼帯と相まって海賊船長の名に不足なしといったところだ。
歳は若く、性格ははねっかえりなんてものじゃない。しかし能力はきわめて優秀、そのうえ女ときては妬みの対象となるのも頷ける。でも、海賊船長というあ
だ名に込められているのはどちらかといえばからかいを含んだ親愛の情というほどのもので、決して嫌われているのではないと僕は知っている。彼女の研究仲間
たち
はほとんどが年上だけどみんな気のいい連中で、優しくて、そして変人揃いだ。きわめてよく目立つ彼女の眼帯と片目がないという事実をあげつらうような心根
を持つ者は彼らの中にはいない。きっと、彼らは気が強くて可愛くて頭のいいアスカを正面から呼ぶのが照れ臭いんだろう。アスカは彼らにとって手のつけられ
ない問題児であり、可愛いアイドルでもある。みんなしてこの片目のじゃじゃ馬のことが気に入っているのだ。
だからアスカも気にしている様子はない。まったく、こっちは慰める気満々で両手を広げて待っていたっていうのにね? もちろん、初めにその話を聞いてか
ら
すぐに広げた手を引っ込めたのは言うまでもないけど、彼女はといえばいつも余所では吊り上げているまなじりを僕の前ではてれっと下げて、ごろごろと喉を鳴
らさんばかりに嬉々としてこの胸に飛び込んでくる。とんだ海賊もあったもんだと思わない?
スーツから部屋着に着替えてキッチンに戻ると、ちょうど湯が沸騰していた。あらかじめ蓋を開いて置いていたインス
タントラーメンの容器に熱湯を注ぎ込む。シンクの下を漁ってアスカの好きなとんこつ味をわざわざ選んであげた僕はけっこう優しい奴だと自分でも思うんだけ
ど、彼女相手じゃいまさらアピールにもなりゃしないってことは重々分かっているので、さだまさしの「関白宣言」を口ずさみながら彼女のお箸を探した。こ
れでも五十絡みの上司と肩組んでカラオケデュオとかするんだぜ。あ、お箸見っけ。
「はいアスカ、あと三分待ってね……、ってなんでもう食べてるんだよ。しかも僕のを」
蓋に箸を乗っけたラーメンの容器と缶ビールを手に戻ってくると、いつのまにか服を着替えてLサイズのTシャツ一枚になったアスカは僕が買ってきた夕飯を
全部袋からテーブルに出して勝手に晩餐を始めてしまっていた。ソファの上には彼女のスカートとブラウスとストッキングがセミの抜け殻みたいに無造作に脱ぎ
捨
てられている。化粧も落とし終
わったらしく、完全に寛ぐ体勢ができあがっていた。
僕の声にこちらを見上げた彼女は、僕の胃袋に収まるはずだった若鶏の南蛮漬けで一杯に膨らんだ口をもごもごさせながら「どうかしたの?」という表情で
ラーメンを受け取るべくこちらに両手を伸ばした。いや、まあいいんだけどね、別に食べても。すっぴんも可愛いよ。
彼女にラーメンを手渡して腰を下ろし、僕はビールのプルタブを引っ掻いて景気よくあおった。仕事のあとの一杯ってのはこたえられないよね。今になってか
つての保護者代わりのお
姉さんの気持ちが分かる。一緒にお酒を飲むことができたらよかったのに。
アスカの左目を覆う眼帯は服を着替えるのと一緒に取り替えられ、海賊船長とあだ名されるような無骨な黒いものではなくて、綺麗な刺繍が縫いこまれ
た布製の眼帯になっていた。彼女は仕事ではいつも海賊風の黒い眼帯しかつけないけど、僕と一緒に過ごすプライベートではそれをつけ替える。レースやら刺繍
入りのや、時にはどこから入手したのか下着とお揃いなんていうのもあって驚かされる。彼女なりにオンオフの切り替えをしているらしく、そういうい
じらしいところがあるだなんて僕は長い間知らなかった。
口に含んでいた鶏肉を飲み込んだアスカがひと口飲ませてくれという顔でこちらに手を伸ばしたので、ビールを渡してやりながら僕は言った。
「お腹空いてるなら自分で買ってくりゃよかったのに」
「だって足が痛かったんだもん」
僕が零した言葉にアスカはそう答えてから、ビールをひと口飲んだ。足が痛いと飯が買えなくなるのかい。
「筋肉痛?」
「ううん。なんかクツが合わなくって。履いてると痛くなってきちゃうの。だから新しいの買って?」
「却下」
どさくさ紛れで何を言っているんだ。びっくりするなぁ、もう。こういう時には注意しなくちゃならない。「んー」とかなんとか曖昧な返事でもしようものな
ら、次の瞬間には来週の予定が組まれている。時には来週どころか三十分後には出かけているいうこともあるけど。とにかく、気をつけよう。
「けちんぼ。シンジのけちんぼ」
「けちで結構」
本日の晩餐からお肉が激減したことに軽くショックを受けながらも、めげない僕はおにぎりの包みを破ってかぶりついた。海苔と梅干がほろりとさせてくれ
る。
僕自身についてはそれほど語るべきこともない。ごく一般的な普通の男だと思う。ちょっと特殊な過去を持ってはいるけど、そんなものは大人になってしまえ
ば関係ない。過去は過去。今じゃただの会社員だ。顔立ちもいたって普通。奇抜な髪型もしない。お腹がぼよぼよたるんだりはしてないし、かといってムキムキ
マッチョマンでもなく、体格もごく普通だ。他人からの評価は「あいつは真面目でいい奴」。こんなものさ。アスカと比べればなんと情報量の少ないこと。
さて、こういうわけで僕よりも圧倒的な修辞に彩られた我が恋人はといえば、お箸を持つでもなく両手はテーブルの下にまっすぐ下ろし、こちらに向かって
ぽっかり口を開けて待っていた。……待つなよなぁ、もう。
「あーん」
「何してんの」
「あたし、コロッケがいい」
「ふーん……」
「あぁぁーん」
あくまで待ちの体勢を崩さないアスカに対して、いい歳した大人が、という葛藤と戦いつつ、僕は自分のお箸でカニクリームコロッケをひと口サイズに切り分
けて、そのぽっかりと開いたお口へと運んでやった。餌付けされて満足そうにコロッケを咀嚼するヒナドリの両腕に挟まれて強調された胸元では「極真魂」とい
う猛々しい文字がごっつい
曲線を描いている。もちろん僕のTシャツ(部屋着)だ。なお彼女はTシャツしか身に着けていないので、いくら僕と彼女とではサイズがかなり違うといっても
丈が短すぎて座ると股から水色のパンツが覗いていた。負けて悔いなし、といったところかな……。
「あっ、もう三分経った? 経ったわよね」
「ああ、もういいんじゃない」
アスカが蓋を開けると、とんこつの濃厚な匂いがぷーんと部屋中に広がった。基本的に濃い味が好きなんだよね、この人は。
「あーん」
いやいや、ラーメンは難しいと思う。
「火傷するよ」
「ふーふーしてくれればいいでしょ」
僕がするのかよ。
「あのさ、もう普通に食べようよ。遊んでたらラーメン伸びちゃうよ」
「嫌よ」
やけにきっぱりとした口調でアスカは僕の控えめだけどしごく真っ当な提案を取り下げた。そんなきりっとした右目で睨まれてもなぁ。やってることは「あー
ん」だしなぁ。「アーン、アチュカタン、オイチイデチュカ?」「ウン、オイチーノ、シンタン、チュキチュキー!」ってな。やべ、動揺してキュウリ落とし
た。
まあ、若い頃には若い頃なりの楽しみ方がね。過去の過ちとも言うけど。はっはっはっ、はあぁーあ……。
「だってあたし、超頑張って仕事してやっとお休みを作ったんだもん。だから今日はもう何もしないの。全部シンジに甘えることにしたの。そう決めたの」
無駄に自信たっぷりに宣言したアスカに僕は軽くため息を吐き出しながら言った。
「僕も頑張ってるんだけどな」
「知ってるわよ、そんなこと。でも今日はあたしの日なの。だから早く食べさせて。じゃないといつまで経っても食事が終わらないわよ」
結局いつものように薄っぺらいプライドをどこかへ放り出して観念した僕は、ちゃんとふーふーして猫舌のアスカが火傷をしないよう適度に冷ました麺を彼
女の口元へ親鳥よろしく運んでやった。それにしても、彼女もよくまあ他人のお箸から器用に啜るものだ。
「あちっ! バカシンジっ!」
と思ったけど、やっぱりそうそう上手くは行かないらしい。というか反射的に僕への悪態が出てくる彼女に脱帽だ。まさかどこかへ身体をぶつけたりするたび
に同じ台詞を吐
いているんじゃないだろうね。彼女ならやりかねないのが怖いところだ。
「もっとちゃんとふーふーして」
「したよ」
「うそ。熱かったもん。ちゃんと自分の唇に触れさせて冷めたかどうか確認してから食べさせて」
「注文が多いなぁ。僕もご飯食べたいんだけど?」
「あたしは食べさせてとは言ったけど、食べるなとは言ってないわよ」
皮肉に皮肉で返されて、ぐうの音も出なかった僕はもう一度麺をつまみ上げ、今度は唇で触れて直接温度を確かめた。というかこのまま食べてしまえって話だ
よ、もう。僕だってお腹が空いてるんだ。
「あっ! あーっ、ずるい!」
「けっこう美味しいねー、このラーメン」
「駄目っ、あたしが食べるんだってば! あーん! ほら、あーんーっ!」
馬鹿騒ぎみたいな食事がようやく終わって、お腹一杯になって満足したらしく大人しくなったアスカは、クッションを抱いて彼女の好きなドラマを見始めた。
小難しい研究をしているわりに俗っぽいことの好きなアスカは暇があればこうしてテレビドラマを楽しんだりする。もっとも、いつも忙しいので滅多に観られな
いらしいけど、話の展開はあまり分からなくても問題はないのだそうだ。大方好きな俳優でも出演しているんだろう。
一方、テレビのチャンネル権を奪われ、かといって真正面からテレビと向かい合ってわくわくと期待に顔を輝かせているアスカを見ていると文句を言う気も殺
がれて、僕は大人しく帰りに駅の本屋で買った新刊本をソファの足元にもたれて読むことにした。
僕は仕事中やパソコンを使う時、本を読む時だけ眼鏡をかける。大学に入った頃から軽い近視になり始めたのだ。あくまで軽いので日常生活ではほとんど必要
ないほどだけど、やはり細かい字を目で追う際には眼鏡がなければ心許ない。それまでまったく目など悪くなかったために、眼鏡をかけるのに随分と違和感を抱
いていたものだけど、眼鏡姿が思わぬ効果を生むことに気付いてから仕事中は常に身に着けるようになった。どうも僕は眼鏡がないといまだに大学生くらいに見
えるらしい。
商社勤めで父さんのようにひげを生やすわけにも行かないし、第一そんなことをしたらアスカに全部ひげをむしられてしまうだろう。一度大学生の
ころに無精ひげ程度のものをあごに蓄えてアスカとのデートの待ち合わせ場所に行ったら、彼女からものすごい剣幕で怒られた。結局すぐに剃刀を買って公衆
トイレでひげを剃らされたのだけど、とにかくそれ以来僕にはひげを生やす考えというものはない。その点眼鏡なら着脱可能だし、知的に見えるからと彼女も悪
くは思っていないようだ。
二年前の誕生日にアスカがプレゼントしてくれた銀縁眼鏡をかけると、僕は単行本の表紙を開いた。少なくともドラマを見ている間は彼女も静かにしていてく
れるだろう。お気に入りの作家ということもあってなかなかに面白く、すぐに僕は物語へ没頭していった。
だから、横から突然柔らかくてあったかいものにしがみつかれた時も、僕はまだ完全に物語の中から抜け出せないでいた。もちろんしがみついてきた犯人はア
スカ以外にいないということは分かっている。集中していたのでどれくらい時間が経ったのか知らないけれど、おおかたドラマを見終わって退屈してしまったの
だろう。きりのいいところまで読み進めてしまいたかったので、
僕はひとまず
されるがままになることにした。
僕の左側からくっついてきたアスカはしばらくの間、僕のお腹に腕を回してごそごそと寝心地のいい体勢を作ろうとしているようだった。でも僕がちっとも協
力的ではないので業を煮やしたのか、僕の左腕を強引に持ち上げて、わきの下に滑りこんでぴったりと密着してきた。こちらにしてみたら本が傾いて読みにくい
ことこの上ない。
左腕が持ち上がったままでは疲れるので力を抜いて下ろすと、自然にアスカの肩に腕を回すような格好になった。窮屈だろうに彼女は不平を漏
らすでもなく、しっかりと僕の胴体に腕を回
し
て密着し、狭苦しい僕の腕の下で顔をこすりつけたりしてくる。お父さんに甘えるちっちゃい子みたいで可愛い。それとも寂しがり屋の猫か……、いやライオン
だな。
しばらくあとになってから、第一章を読み終わった僕は本を閉じ、ずり下がった眼鏡を指で押し上げた。アスカは相変わらず僕に抱きついたままだった。それ
にしても女の子はどうしてこんなに
柔らかいのか不思議でたまらない。見下ろすと僕にしがみついたアスカは目を閉じていた。寝ているみたいだ。まあ男なんてものは動かなければおおむね枕と大
差ないのかもしれない。でも、僕
は枕ではないので、当然のことながらわき腹の辺りでもにっと押し潰されている彼女の大きな胸のことにちゃんと気付いていたし、それをどうすべきかというこ
ともちゃんと分かっていた。胴体に回された彼女の腕の陰か
ら横へはみ出し気味に存在を主張している丸く膨らんだかたまりへ僕は手を伸ばして感触を確かめた。うむ、ほよほよとしていて揉み飽きなくて実によろしい。
「……こら」
「起きてたの?」
「最初から寝てないってば。なんで胸触るのよ」
「……そこに胸があるから?」
これ以上ないというくらいに簡潔な僕の答えに、アスカは心底呆れたという表情をした。そんな顔されてもなぁ、と僕は思いながらも彼女の胸を撫で撫でする
のをやめ
ないでいると、彼女は身をよじって言った。
「くすぐったいからよして。大体おっぱいなんてただの発達した乳腺よ。脂肪で膨らんでるだけなのに何をそんなにありがたがるのか理解できないわ」
「馬鹿だなぁ、アスカは。ほんとに馬鹿だなぁ」
二回言って強調すると、彼女はいつも外でしているみたいなきつい眼差しになった。
あらら、怒っちゃった。
「喧嘩売ってんの?」
「ここに詰まってるのはね」
と僕は眉を吊り上げて睨みつけてくる彼女の柔らかい胸を人差し指で押さえて言った。
「脂肪じゃない。夢と希望なんだ。ちなみに右が夢ね」
左が希望。
「……あんたバカぁ?」
「そして谷間はロマンですあいたっ!」
ロマン渓谷探検隊の言葉を聞き終わる前にアスカが開けた口を僕の身体に密着させて、がぶーっと噛み付いた。それがあまりに痛くて思わず大声を上げ
て飛びあがってしまっ
た。まったくもう、彼女の悪戯好きなことといったら。ぐわっ、シャツにアスカのよだれががっちりついた。
「アスカ、それ反則」
心持ちアスカから身を引いて僕が抗議すると、彼女は口元を手で拭いながらちょっと見られたものじゃないようないやらしい笑みを浮かべてにじり寄り、今度
は僕の脚を開いてその間に滑り込み、正面から抱きついてきた。僕の両脇の下から腕を通してぴったりとくっついた彼女は、鼻先が触れ合うくらいの距離からく
すくす笑いをしながら訊
いた。
「痛かった?」
「ケダモノアスカ。噛むのはやめろよ、痛いんだから」
この百獣の女王め。
「あんたこそ、あたしのおっぱいで遊ばないで。触りたいなら『お願いします、美しいアスカ様。あなたの素晴らしいおっぱいをわたくしめに堪能させてくださ
い』と言いなさい。そうすれば触らせてあげるわよ」
「やだよ。好きな時に触るもんね」
僕がアスカの高飛車な要求を撥ねつけたので、彼女は僕の肩にまた口を押し当てた。でも、彼女から攻撃される前に、僕はもう一言付け加えた。
「だってアスカは全部僕のものなんだから」
そうすると、急に彼女は攻撃する気をなくしたみたいだった。顔を上げて僕の頬にちゅっとキスをすると、笑って彼女は言った。
「しょうがないわね。そういうことなら全部許してあげなくちゃ」
出会った十四歳の頃から、アスカの攻撃的な気性の荒さは僕にとってほとんど恐怖だった。それが紆余曲折を経て恋人同士になり、いざ蓋を開いてみれば、こ
んなに
もストレートな愛情表現をしてくる女の子だなんて想像もしていなかった。
もちろん、いつもいつもこんなことばかりしているわけではないし、何といっても彼
女は自身の専門分野では世界でも名の知られた研究者の一人なのだ。阿呆なことをしていても知性のひらめきは失っていない。
「ちょっとシンジ。もっとぎゅっとしてくれなきゃ駄目よ」
……はずだと思いたい。
まったく二十四にもなって、いまだに不意に十代の女の子みたいな真似をしたがったりするんだから。やれやれ、本当にしょうがないな、と思いながらも、
困ったこと
に僕のほうでも一向に彼女の行為に対して嫌な気がしないのだから、案外飼い馴らされてしまっているのかもしれない。現に今も彼女の言葉に従って、しっかり
と彼女の身体を抱え直している。
それにしても、出会った頃にはむしろ彼女のほうが身体が大きいくらいだったのに、今ではこうして僕の腕の中にすっぽりと納まってしまって、力を込めれば
ぽきんと折れてしまいそうだ。十年という月日は様々なものを変化させるのに充分な期間だ。その初めと終わりとを切り出して比べてみれば、あまりの劇的な変
わりように驚かされることもしばしばある。
だから、この先の十年で僕らが今と同じことをやっている保証なんてどこにもないということは、よく分かっていた。僕たちにはいつだって今しかないのだ。
アスカの折れそうに細い腰にきつく腕を回して、僕は言った。
「アスカって、抱っこ好きだよね」
「誤解しないでよね。キスも好きよ」
「はいはい」
くすくす笑いをしながら僕のあごにキスをしてから胸元に顔を埋めて深呼吸し、アスカは言った。
「んふ。一ヶ月ぶりのシンジの匂い」
「なんか動物っぽいなぁ……」
「いいの。目一杯吸い込んで元気を蓄えないといけないんだから」
「僕は栄養剤代わりですか」
「違うわよ。栄養剤代わりじゃなくて、栄養そのもの。あたしの元気の素なの。だから大人しく摂取されなさい。ちょっと汗臭いけど」
元気の素っていうのは褒め言葉なんですかね。それにしても何も密着して顔をこすりつけなくたって汗臭いならやめればいいのに。何しろ日本は年がら年中暑
いのだ。一日過ごしたあとには多少臭ってしま
うのも仕方がない。僕は彼女の頭のてっぺんに唇を押し当ててから、そこにあごを置いて言った。
「アスカもちょっと臭うよ」
「言っとくけど忙しいからってお風呂をさぼったりはしてないからね」
「あ、いや、そんな気になるほどじゃないから」
「ただ、昨日は大学に泊り込みで髪を洗えなかったの。だからあんまり顔くっつけないで」
道理で少し臭うと思った。顔をくっつけるなって言うけど遅いよ。もうキスしちゃったよ。別に気にしないけどね。そもそも至近距離から意識して嗅がなけれ
ば分からない程度だから、他の人間はほとんど気付きもしなかっただろう。もしも気付いた野郎
がいたとしたらこの僕が鼻をちょん切ってやる。
「それじゃ、あとで一緒に入ろうか」
「すけべ」
まったくもって仰るとおりで。
「ああ、シンジ。会いたくてたまらなかった」
彼女は急にため息を吐き出して僕の胸に顔を埋めた。
「僕もだよ」
忙しくて頻繁に会えないのはお互いに納得済みだ。でも、だからといってまったく平気なわけではない。
「あたしはいつもあんたが思うより百倍は寂しい思いをしてるのよ。だから、今日はもう絶対に離れない」
僕に体重を預けたアスカは芝居がかって言うと、彼女いわく「栄養」を再び目一杯に吸い込んだ。それがどこか美味しそうにしている表情に見えるのは、僕の
頭が湧い
ちゃってるのか、それとも彼女が変態なのか。まあどちらでもいいけどね。
「いいとも。それでアスカの気が済むのなら。でも、できれば僕のためにこの先も太らないでいてね」
冗談めかした僕の言葉にアスカは顔を上げた。彼女は少しショックを受けた表情でまじまじと僕を見つめてから言った。
「あたし、太った?」
「まさか。ただ僕としてはこの先肝心な時にぎっくり腰になるようなことはできれば避けたいと思っただけだよ」
抱っこ大好きなアスカと付き合って行く上では重要なことだ。
もちろん、どれだけ彼女が重くたって絶対に支える自信はあるけどね。
「ふぅぅーん」
僕の説明を聞いて彼女は含みのある眼差しでじろじろとこちらを見た。
「ま、いいでしょ。こほん。ところでね、シンジ、さっきから気になってるんだけど」
咳払いした彼女は僕の腕の中でもぞもぞ動いて至近距離からこちらを見上げ、そして少し身体を引いて密着していた僕との間に空けた隙間に視線を落として
言った。
「すごく当たってる」
「……僕は木石ではなくて人間なので、そこのところはご勘弁願いたい」
「木や石なら何も感じないって言うの? 分からないわよ。木には木の恋が、石には石の愛があるかもしれないじゃない」
無邪気に輝いている彼女の右目の青さを不思議な思いで見つめながら、僕は訊いた。
「じゃあ人間の愛は?」
僕の質問に垂れ目を柔らかく細めた彼女はいっそ誇らしげに宣言した。
「あたしよ。あたしがあんたの愛」
「そして、僕がきみの愛?」
「正解よ、ハニー」
にっと嬉しそうに笑うと、アスカは着ていた極真魂Tシャツをおもむろに脱ぎ捨てた。真っ白な肌とそれに映えるブラジャーのピンクが眩しい。でもパンツは
水色で上下が揃っていないところを見ると、本当は今日うちに来る予定ではなかったのだろう。案外そのために無理をしてきたのかもしれない。
「あ、ヒモパンだ」
少し身体を離してしげしげと彼女の下着姿を眺めて僕が言うと、アスカは自慢げに胸を張った。
「好きでしょ?」
「よくご存知で」
「ふっふっふ。さて、シンジ?」
アスカは変な笑い方をすると僕の首に両腕を回して、かけ声とともに勢いよく身体を仰向けに倒した。
「よいしょっ」
「わっ」
僕も一緒になって引き倒され、慌てて両手を床について身体を支えた。じゅうたんに仰向けに寝転んで僕の首に腕を回したまま、アスカは頬を上気させて
待ちかねたように言った。
「もう準備はできてるわよね」
もちろん準備ができていることに関しては否定できなかった。何といっても一ヶ月の不在は長い。
「今夜はあたしたち、うんと仲良しになりましょ」
下唇を甘く噛み、細めた右目でこちらを見つめるアスカは、僕の眼鏡を取り去ってテーブルの上に置くと、首に回した腕をゆっくりと自らに引き寄せた。
ここでするのかとか先に風呂に入ったほうがとか、色々と言いたいことはあったのだけど、文字通りに口を塞がれた僕は早々に開き直ることにし、仰け反らせ
た彼女の背に腕を回してブラ
ジャーを外しにかかった。
まあ、いいさ。これもひとつの愛の形だ。
なんてね。
これはひとつの途方もないたとえ話だと思ってもらっていい。あるいは出来の悪い作り話の類だとでも捉えてくれたって構わない。
たとえば思い描く世界を好きに選択する自由が一人の人間に与えられたとしても、正気ならばそんな自由に耐えることはとてもできない。僕たちに知覚できる
世界とはごく限られた狭い範囲のことで、せいぜいが手を伸ばせば触れられる程度の広がりしか持ち得ない。そして、それさえも持て余すのは僕たちにとってま
まあることなのだ。
ならば一体、三十億もの人間の人生を決定することなど、どうしてできるだろうか。それは一人の人間にとって、ほとんどこの星一個の重みに等しい。その重
みは確実に選択者の身体を押し潰すだろう。悲鳴でさえ押し潰してしまうだろう。
まったく新
たな世界を作り出すことなどできるはずもない。それを成すのが一人の人間の力だろうと、あるいは三十億の人間の力だろうと同じことだ。そんなものは人間の
手に余る。もしも僕の目の前にアスカがいなかったとしたら、あの出来事はすべて悪い夢だったのだと思い込んでしまっていたとしても不思議はなかった。その
ほう
が僕にとっ
てはるかに楽だから。正直なところ、僕自身いまだにすべてを信じることができないでいる。すべてを把握している唯一の人間であるはずの僕でさえそうなのだ
から、まして他の人々には到底信じがたい話に違いない。だから、これはたとえ話だと思ってもらってもいいのだ。
結局のところ、十年前のあの日、僕は選択できなかった。僕もまたこのような途方もない自由に耐えることのできない凡庸な人間に過ぎなかったからだ。
唯一
僕が選択したのは、自らの生死だけだった。ただそれだけだった。
ただ自らが生きることだけを望んだ僕は、他の人間のことなど誰一人として気にかけることはしなかった。結果的にそれは、彼ら三十億
の命運を彼
ら自身の意思に委ねたことになった。
その中でいち早く決断したのがアスカだった。ほとんど僕の選択の反射のようにして、都市の残骸を飲み込んだ広大な湖の岸辺に彼女は姿を現した。左目をな
くし、右腕にも傷を負った姿で、表情もうつろに彼女は横たわっていた。しかし、表情はうつろながら、彼女の確固とした意思を僕は感じないわけにはいかな
かった。彼女は何もかもを拒んだのだ。曖昧な集合の中に溶けていくことも、僕の――すなわちたった一人の他人の勝手な意思によって運命を左右されること
も。それら一切を撥ねつけて、彼女は彼女として厳然と存在していた。
そして、それこそが人間のあるべき姿なのだと言わんばかりに、残りの人々も徐々に復活を遂げていった。残念ながら一人の漏れもなくというわけにはいかな
かったけれど、形を取り戻さなかった人々の数は驚くほど少なかった。もちろん、あらかじめ死んでしまっていた者までを生き返らせる術などあろうはずもな
かったけれど。
こうして世界は一時的な空白を置いて、再び歩み始めた。まったくの新たな世界などではなく、これまでと地続きの場所を太陽は昇り照らした。今日と明日の
境目を繋ぐようにまっさらな光が僕たちの世界を照らしていた。そして、今もそれは続いている。
でも、こうも考えてしまうことがある。すべてを信じるとするならば、あの時僕は確かに、一切を帳消しにすることができたはずなのだ。何もかもをなかった
ことにしてこれまでの世界を消し去ってしまうことが。
そして新たに作り出される世界がどのようなものだろうと(あるいはそこには何も作り出されないのだと
しても)、いずれにせよそこに旧い世界の住人の居場所などない。どこにもないのだ。
むごたらしい苦痛と恐怖を味わい、左目を失って右腕にも無残な傷を負っ
たア
スカも、これ以上苦しみを長引かせることなく安らかに消えてしまうことができた。けれど、僕の選択のせいで、それがきっかけとなって、彼女は再びこの苦痛
に満ちた世界で生き続けなければならなくなった。あれほどまでに彼女を否定した世界で存在し続けなければならなくなった。
恨むだろう。恨んで当然だ。
ベッドから上半身を少し起こして僕は横たわるアスカを見つめた。情事の火照りも冷めやらぬまま眠りに落ちた片目の恋人は安らかな表情をしていた。
でも、この安らかさが実は見せかけだけのものだったとしたら? そうでないと一体誰に断言できる?
蛍光灯の明かりを反射してきらめく彼女の長い髪がシーツに広がって、まるであの日の湖のようだった。僕は彼女の髪をそっと撫で、優しく頭を抱き寄せた。
彼女は少し寝言を漏らし、僕の身体に腕を回した。
「アスカ、アスカ、アスカ。ごめんよ。こんな世界にきみを引き止めてしまってごめんよ」
聞かせるともなしに僕は彼女の耳元で懺悔を囁いた。すると、眠っているものと思えたアスカの手のひらが探るように頬に伸びてきて、そっと撫でた。僕に抱
き寄せられたまま、彼女は静かに言った。
「馬鹿ね。いいのよ。もう、いいの」
閉じられた右目の睫毛がかすかに震え、彼女は一度大きく深呼吸した。
「いつのまにか寝ちゃってたのね。もう一度お風呂入らなくちゃ」
動き出そうとする彼女の身体を抱きとめて仰向けにさせると、僕はその上から覆い被さって言った。
「明日でいいよ」
額の上でほつれた彼女の髪を簡単に整えてから口付けをすると、彼女は気だるそうな様子でそれに応えた。
「ん、でも……」
逡巡する素振りを見せる彼女を無視し、唇からあごへ、首筋からさらに下へと移動して、僕は彼女の柔らかな胸へ頭を預けた。彼女の白い肌はひんやりと少し
汗ばんで、そのくせ内側では何かが燃えているように温かだった。ぴったりと頬をつけた彼女の乳房は呼吸のたびに緩やかに上下し、とくとくという心臓の鼓動
が運命的に僕の鼓膜を打った。僕はしばらくそのままの姿勢で目を閉じていた。
ずいぶんあとになってから、彼女は僕の髪へ指を通しながら言った。
「もういい、というのは本当よ。でも、お願いがあるの」
「いいよ」
彼女が何を言い出すか分からないうちに僕は請け合って答えた。僕の髪の毛を指先でもてあそびながら、彼女は言った。
「もう二度とあたしを待たせないで。どこへもあたしを置いていかないで」
彼女の指先が不器用に髪にもつれて少し痛かった。でも、それを振り払うでもなく僕は頭をもたげると彼女の顔を見た。その右目が青よりも深く澄んで僕を捉
えていた。
眼帯で塞がれた今はもうない彼女の左目は、僕が彼女を待たせ見捨てた罪の証拠だ。でも彼女の右目には、なお湖の底のように静かな愛が宿るのを僕は知って
いた。そこへ潜っていくたび、僕はすべきことを充分に分かっていた。約束なんてするまでもなく、僕たち二人には分かっていた。
言葉を返す代わりに僕は力強い鼓動を打つ彼女の心臓の上に口づけをし、頂にある小さな乳首をそっと噛んだ。こらえかねた静かなため息が彼女の唇の隙間か
ら漏れ、小波のよう
に夜の
静けさへ漂い出た。僕たちはきつく手を繋ぎ合い、その揺らめきの中へ再び身を投げ出した。
僕は朝まで冷房をつけっぱなしにしない主義なので、タイマーで夜中に冷房が切れた室内は目覚めた時にはすでに汗ばむくらいに暑かった。時計を確認すれば
午前
十時
を回ろうとしており、窓の外では太陽がすでにかなり高い位置まで昇っていた。でも、疲労度合いから考えると早くに目覚めたほうだ。
空気を入れ替えるために窓を開け、トイレに行ってから僕はコーヒーを入れるためにやかんを火にかけた。仕事の日でも休みの日でも朝の一杯は欠かせない。
これがなければ目が覚めたという気がしないのだ。お湯が沸くまでの間に顔を洗って歯磨きをし、汗を吸ったシャツを脱ぎ捨てて新しいものに着替える。コー
ヒーメーカーにたっぷり三杯分作り、ソファに腰掛けてマグカップからコーヒーを飲みながら、今日の予定を僕は考えた。
コーヒーを飲み終わって一息ついてから寝室に戻るとアスカはいまだに惰眠を貪っていた。ベッドのふちに腰掛けて肩を揺すると、彼女は意味不明の寝言をも
にゃもにゃ呟いて蚊を振り払うように手を動かした。僕と比べてアスカは随分と寝起きが悪い。本人曰くは低血圧だということだけど、動いている時にはあれだ
け活発な彼女がそれはないだろうと僕はまったく信じていない。単に彼女は起こされるまで起きたくないだけなのだ。その証拠に流しにはまだ使って間もないと
思われる表面に水滴の張った空のグラスが置いてあった。グラスの足元には水溜りができ始めている。もちろん彼女が僕より先に目を覚まし、冷たいものを一杯
飲んでからいそいそと寝床に戻ったのだ。
名探偵の目は誤魔化せない。
「ほら、アスカ。もう起きてよ」
「んー……」
「コーヒー淹れてあるよ。パン焼いてあげるから。それにお風呂も入らなきゃ」
「……それじゃあ、ちゅうして」
「はあ?」
「おはようのちゅうしてくれなきゃ起きない」
そう言ってアスカは右目を閉じたままちょっとテカっている顔をこちらに向けて唇を突き出してきた。どうもまだ昨日のわがままの続きをしているつもりらし
い。それに付き合うつもりはもうなかったのだけど、僕は一応形ばかりにキスをして、それからパンツ一丁の彼女のお尻をぺちぺち平手で叩いた。
「やん。エッチ」
「ほらほら、もう十時過ぎてるよ。いい加減に目を覚まして」
「シンジ、コーヒーの味がした」
いっひっひ、と変な笑い方をすると、アスカはシーツを身体に絡ませながらベッドの上を這い、僕の腰に腕を回してしがみついてきた。
「えへへ、つーかまえた」
相当甘ったれになっているなぁ、と僕がわりあい冷静に観察していると、アスカはごろごろ喉を鳴らさんばかりに言った。
「ああ、しあわせ」
「そう?」
僕が訊くと、彼女はとろけるような笑顔になって答えた。
「うん。朝起きてシンジが隣にいるのがすごく好きなの」
「ふぅん。僕も好きだよ」
その「好き」は色々なものに対する「好き」だったのだけど、僕はあえて説明しなかった。でも、アスカは寝ぼけているくせに何もかもお見通しとでも言いた
げな表情になって、得意そうに言った。
「知ってるわ。それはあたし、よぉく知ってるわ」
そして、大きなあくびをひとつしたアスカは枕にした僕の脚に顔をこすりつけながら眠たそうに言った。
「うーん、眠いよぉ。シンジもあたしと一緒にもっと寝ようよぉ。ね? そうしよ?」
「そんなこと言って、ぐずぐずしてるとすぐにお昼だよ。せっかくの休みなのに」
「いいじゃん、そんなの。お休みだからのんびりできるのに。あっ、でも」
脚の上に乗ったアスカの頭をぐりぐりと掻き回していると、彼女はうつ伏せていた身体を仰向けにして、こちらを見上げて言った。
「ねえ、お腹空いちゃった」
「だからパン焼いてあげるってば。コーヒーもあるよ」
「おしっこしたい」
「行っておいで」
「抱っこして起こして」
ん、と言って当然のように両手を僕のほうへ差し出すアスカに、僕は昨夜と同じくいい歳をした大人がみっともない、という葛藤と戦いつつ、彼女の要求に
従った。抱き上げて膝に乗せたら、彼女は少しずれた眼帯を直してから猫のように一杯に伸びをした。その胸元では「風来坊」という文字がぷるぷる揺れてい
る。もちろん僕の部屋着Tシャ
ツだ。ところで、アスカが着たあとの僕の服って洗濯してもしばらく彼女のいい匂いが染み付いているんだけど、あれはなんなんだろうね。すご
いよね。
「起きる気になった?」
「シンジが一人じゃつまんなくて寂しいーって言うから、しょうがなく起きてあげるわ。でも、ま、抱っこしてくれたからお礼にキスくらいはしてあげる」
よく分からない理屈を展開して、にやにや笑いながらアスカは僕の唇に自分のそれを目一杯押しつけた。もう少しで窒息死を迎えるという頃になってようやく
それが離れると、僕はゆっくりと深呼吸し、むき出しになった彼女の滑らかな脚を何となく撫でながら言った。
「トイレに行ったらお風呂に入っておいで」
「シンジも一緒に入るのよ。べたべたしてるわ、身体」
彼女は僕の二の腕や首筋をぺたぺたと触って、顔の中心にぎゅっとしわを寄せると言った。
「汗臭い?」
「ううん。でもあたし、あんたの汗のにおいって好きよ」
「それはどうも」
「さてと、それじゃおしっこ行って、そのあとシンジと一緒にシャワー浴びよっと」
どうも昨日に引き続いて甘える気満々のアスカがまるで決定事項を読み上げるように言ったのに対して、僕はしごく冷静に彼女の鼻を摘まむと答えた。
「シーツはがして洗濯機に突っ込んで、布団も干してからね」
「ふがっ。離せ、バカ」
腕を叩かれたので、仕方がなく僕は彼女の鼻を摘まむのをやめて、肩を竦めた。
「アスカは先に入っといで」
「あたしが一緒と言ったら一緒なの。絶対よ」
「じゃあ洗濯手伝ってくれるの?」
「それもやだ」
これくらいでへこたれていては彼女とは付き合えない、ということはもう言うまでもないだろう。
僕は彼女の頬を指でつっつきながら言った。
「いい子だから言うことを聞いてよ」
「子ども扱いしないで」
「洗濯機回して布団干したら僕もお風呂入るよ。そのあとで朝ごはん食べよう」
僕だって子ども扱いしたいわけではない。もっと落ち着いた大人の関係を望んでいるんだ。朝っぱらからちゅうだの抱っこだのと言わない爽やかな
モーニングがたまにはあったってバチは当たらないだろ?
と、考えつつも、結局は僕の手は止まらない。鬱陶しがる反応を面白がっている僕もまた、子どもっぽいのかもしれない。でも、ぐにぐにとしつこくアスカの
頬を押したりあごを引っ張ったりしていたら、「カアー!」と猫みたいに牙を剥いた彼女に手を噛まれた。構いすぎにはご用心。あ、歯型が。
「じゃあ、あたし待ってる。シンジがそういうの全部終わらせるの待ってる」
復讐を果たして機嫌が直ったのか、彼女は僕の首に両腕を回して宣言した。
「ふぅん」
「……なによ」
「アスカがそうするって言うなら、待っててもいいけどね」
どの道彼女は自分の思ったように行動するだろう。でも、彼女も馬鹿ではないので、きちんと甘えられる時と場合を選んでいる。だから、これくらいのことで
目くじらを立てることもない。ええ、今朝は洗濯も朝食の用意も僕が全部しますとも。関白宣言? なんだそれ、食べられるの?
「ところでさ、シンジ」
「うん?」
「もれそう」
「……よし、まずは僕の膝から降りるんだ。それから走れ」
シーツと枕カバーを洗濯機に放り込み、布団をベランダに引っ張り出して干し終えたら、僕はアスカと一緒にシャワーを浴びた。決して広いとはいえない浴室
内を二人同
時に利用するのはあまり効率的だと僕には思えないんだけど、ようは彼女はお風呂の間もおしゃべりがしたいだけなのだ。
お互いに洗いっこしてお風呂から上がったら、トーストと温め直したコーヒーで遅い朝食にした。かりかりに焼けたトーストの表面に薄くバターを延ばしてか
じる僕の隣で、アス
カがマグカップを両手で支えてふーふーと息を吹きかけている。
「シンジ、これ、あっためすぎじゃない?」
「コーヒーは熱いほうが美味しいの」
「にぎゃ」
マグのふちにそっと口をつけ、彼女は泣き出しそうに顔を歪めた。
「苦すぎるわ……」
「コーヒーは苦いほうが美味しいの」
しかし僕の意見にはあいにくと賛同が得られないらしく、彼女は冷蔵庫からミルクを取ってきて大量に注ぎ込んでいた。さらにはトーストにたっぷりとイチゴ
ジャムを乗せ、ようやく人心地つくと言わんばかりに彼女はそれに齧りついた。
「はー、今日もいい天気ねぇ」
窓の外に広がる空はどこまでも青く澄んでいて、ところどころに浮かぶ雲がゆっくりと流れていた。眩しそうに晴れた空を見上げるアスカの口の周りはパンく
ずや
ジャムで汚れていて、それを指摘すると、彼女はこちらを向いて「ん」とあごを上げた。仕方がないので彼女の口元をティッシュで拭いてやり、僕は言った。
「晴れてよかった。出かけるのに雨が降ってたら嫌だもんね」
僕が言うと、アスカは何を言ってるんだこいつは、という風に右目をぐりぐりさせてこちらを見た。きっと彼女は今日一日ごろごろして過ごすつもりだったの
だ
ろう。でも、彼女を起こす前に僕はもう予定を立てていた。せっかく拭いて綺麗にしてあげたのにまた口の周りを汚しながらトーストを頬張るアスカへ僕は言っ
た。
「昼までには家を出るよ。クツ買うんだろ」
それを聞いたアスカの反応といったら見もので、まるでプレゼントで膨らんだ袋を担いだサンタクロースの白いひげを掴まえた四歳の少女みたいに瞳を輝かせ
て歓声を上げ、イチゴジャムでべったべたの唇を思い切り僕の頬に衝突させた。まったく甘いったらないぜよ。
「ああ、何着て行こう。ここに黒のワンピース置いてたっけ」
頬を両手で挟んで彼女は悩ましげにため息を吐いた。
「確かあったよ。アスカの持ち物の半分はうちにあるじゃないか」
べたつくキスマークをティッシュで拭いながら僕は答えた。何しろ休みのたびに僕の家に泊まりに来るのだ。半同棲とまでいえるかどうかは分からないけど、
お互い相手の家に手ぶらで押しかけても困らないようにはなっている。
「ミュールとバッグはあれで……えーっとあとは」
指折りしながらぶつぶつ考えているアスカは、トースト一枚も食べ終わらないのに今にも身支度を始めそうで、僕はその様子を微苦笑しながら眺めていた。こ
こで何
を着ても可愛い、などと浮ついた言葉を吐けば喜ばれるのかもしれないけど、残念ながら僕はそういうのがさらっとできるような情緒は持ち合わせていない。だ
から、微苦笑するしかないわけだ。
「髪はシニヨンにしようかしら。どう思う?」
「いいんじゃない」
そう言ってアスカは頭に巻いていたタオルを取り、まだ濡れているストロベリーブロンドを纏め上げて手で押さえると色っぽい眼差しでこちらを流し見た。
もっと大胆な姿だっ
て見慣れているはずなのに、僕は彼女のその仕草にどきどきして、耳が熱くなるのを自覚した。
こういう時、僕は彼女に会うたび恋をしていると実感する。そのたび
に僕の恋は更新される。
昔からは到底考えられないことだけど、こういうのも生きているからこそなのだと考えると、あながち十四歳の僕の選択も誤りばかりではなかったのかもしれ
ない。明日笑うために今日生きる。そんな小さな理由だって希望にはなり得るのだ。
もちろん、そんな話は今はまったく関係ないけれど。
お出かけしてクツを買ってもらえると分かって上機嫌になったアスカはぱくぱくごくごくとトーストとコーヒーを平らげた。そしてそのまま乙女の身支度へと
突進していったので、遠ざかる背中に掃除や洗濯を済ませたら正午までに出かける旨を改めて伝え、僕は二人分のマグと皿を流しに下げて洗い始めた。
帰りに立ち寄った駅構内の本屋のレジに女性もののファッション誌を差し出すと、店員さんの詮索するような眼差しとぶつかった。それは昨日の少女のような
彼女だった。男のくせにどうしてこんなもの、と思われているのかと多少いたたまれない気持ちがしたのでさっさとお金を払おうと財布を取り出したら、僕の左
腕に突然ア
スカががっしりとぶら下がってきて、店員さんはアスカの出現に面食らったような表情を一瞬見せた。多分、この派手な金髪の眼帯女は何なんだろうと思ってい
るのだろう。その眼帯女はといえば、お金を払いにくくて仕方がないっていうのにそんなこと知ったこっちゃないとばかりに僕の腕に絡みついてにやにやと笑っ
ているようだった。
本屋を出て帰るのに利用する私鉄の改札に向かって歩き出すと、僕にぶら下がったアスカは言った。
「あたしのいないところでほいほい愛想よくしないでよね」
「はあ? 何のこと?」
一体何を言い出したのかと腕にしがみつくアスカの顔を覗きこむと、彼女は意地が悪そうに唇を左右に引き伸ばして笑うと、とんでもない言いがかりをつけ始
めた。
「本当にあたしと会ってない間に浮気してないでしょうね」
「してるわけないだろ。どうしたの、急に」
「さっきの本屋の子。あんたに気があるみたいだったわ」
「あのレジの?」
「あたしを見て顔引きつらせたわよ。かわいそうに、あんたに彼女がいるって初めて知ったのね」
単にアスカの存在にびびっただけじゃないの、と喉元まで出かかったけど、賢明にも僕はそれを口にしなかった。彼女の想像力の豊かさと自由奔放さに付き
合って余計な放言をすると、あとあと後悔することになるのは目に見えている。さすがに僕だって学習するのだ。
それにしてもアスカはかわいそうとうそぶくわりに、にやにやと意地の悪い笑みを絶やさなかった。今日の彼女はお出かけ用の表側がレース地になった白い眼
帯をつけているのだけど、もしもいつもの黒いアイパッチだったらまさしく海賊船長の名にふさわしい極悪な表情になったことだろう。あの可愛らしい書店員さ
んが見たら泣き出すかもしれない。
「楽しそうだね」
「ああいう瞬間、たまらないわ。すごい優越感。楽しくてぞくぞくする」
「意地が悪いなぁ」
我が恋人ながら恐ろしい。
「仕方ないじゃない。あたしは他の誰が不幸になろうが自分だけは幸せになるって決めたんだもの」
「自分だけ?」
とんでもない論理だ。こういう人間に権力を持たせてはいけないという見本になる。が、当の本人は自身の論理に一点の後ろめたさも抱いていない表情でとう
とうと続けた。
「そ。自分だけ。ちなみにあたしの幸せはあんたがいなけりゃ始まらないんだから、あたしが幸せになるってことは、イコールあんたも幸せになるってことなの
よ。お分かり?」
「それはまた随分と……わがままだ」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
アスカは得意げに笑うと、一層僕の腕に体重をかけてしがみついた。もちろん、僕は微苦笑するしかなかった。なぜって、本当に褒めたつもりだったのだか
ら。
「まあ、それはそれとしてね。浮気したら本当に許さないからね」
「はいはい」
「泣くから」
「はいはい」
「相手ともどもぶっ殺すから」
「しないってば」
「あたしも悲しくて死んじゃうわ」
「アスカ、僕ってそんなに信用ないの?」
あまりといえばあまりに物騒なアスカの発言に思わず問い質すような言葉を投げかけると、彼女はあごを人差し指で押さえ、「うーん」と悩んでから言った。
「今日のところは信じてあげる。クツ買ってくれたから」
「そりゃありがたい」
「でも、レストランであーんしてくれなかったから、減点」
ふふふっ、と笑ってアスカはこちらを見上げた。長い髪を綺麗に結い上げた頭が僕の肩にことんと当たり、湖のように青い右目がもの言いたげに細められ
た。
「冗談よ」
「知ってる」
どこまでが冗談で、どこまでが本気なのか、僕には充分に分かっているつもりだった。軽いやり取りの中に隠された、もう裏切られたくないという彼女
の不安を見逃すつもりもない。眼帯の下に隠された彼女の傷を忘れるつもりはない。
僕も彼女と同じなのだ。自らが幸せとなるために他の人間がどうなろうと知ったことじゃない。このエゴイスティックな幸せにアスカの存在が必要不可欠だと
いうなら、何をおいても僕は彼女の手を離さないだろう。守るだろう。今度こそ。
その事実を長い時間をかけて根気よく彼女に分からせる準備は、実のところできていた。一生分の長い時間だ。家に帰りついたらそのことを切り出してみるの
も悪くない。
でも、さしあたって僕には彼女に言わなければならないことがあった。腕にしが
みついている、左目を眼帯で覆ったストロベリーブロンドの恋人に向かって、僕は言った。
「きっぷ買えないから手を離して」
「い・や!」
LOOOVE!
あとがき
最後までお付き合いくださってありがとうございました。
当初このお話は、アスカがシンジに抱きついて「んふー」とか言っているだけのものだったのですが、いくらなんでもそれではあまりに内容がなさ過ぎるとい
うことで、別のお話のために考えていたシリアス分をミックスしてみました。結果としてよく分からんちんになってしまったような気も致しますが、お許しくだ
さい。黒いコーヒーと白いミルクが混じり合うようにはいかないものです。
シンジがナチュラルにヘンタイですみません。
やたらとおっぱいタッチに励んでいますが、これはかつて一次的接触を恐れていた少年の成長を描いているとかそういうのではなくて、単に彼がおっぱい星人
だからです。所詮みんなおっぱいが好きなのです。
あと谷間はロマンです。ロマン渓谷です。
アスカの髪の色って結局何色なんでしょうね。綾波レイの逆転としては赤でいいんでしょうけど。
あまりお話中での意味はありませんでしたが、今回のシンジは本を読むとき眼鏡をかけています。案外似合いそうですが、賛同してくださる方いらっしゃった
ら、眼鏡シンジ(24歳)描いてください。ついでにシニヨンにした眼帯アスカも。
以上、あとがきは終わります。
こめどころ様、誠様、お読みくださった皆様。ありがとうございました。
rinker
追記 2009.08
このお話は2008年8月初旬に「アスカの旗の下に1」様へ投稿させて頂いていたのですが、その後掲載はされず諸般の事情により霧島愛様が管理する「ア
スカの旗の下に2」様へ改めて投稿させて頂くことになりました。
一年も前に書いたものですので色々とアレなところはあるのですが、大目に見て頂けると幸いです。ところどころ細かい表現を直したり文章をいくつか付け足
したりはしましたが、ほぼ元のままです。
本来は結婚した二人や遡って付き合い始める前の二人などいくつか続きのお話を書くつもりでいたのですが、現在その予定はありません。
この度は私のわがままにより誠様、こめどころ様にはご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした。またお二方が「アスカの旗の下に2」様へ投稿し直すこと
を承諾して下さったこと、そして掲載して下さった霧島愛様に感謝致します。
それから、もちろんこのお話をお読み下さった皆様にお礼申し上げます。
ありがとうございました。
リンカ/rinker
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