私雨


rinker






 父さんに捨てられたのは四歳の時だ。母さんを失った直後のことでもある。まだ幼かった僕は見も知らぬ土地の無人の駅のホームでそれを本能によって 悟った。悲しさや心細さや怖さに身体中 で泣いているところへ遅れてやって来た人物が言った、これから彼と一緒に暮らすよう父さんが僕を預けたのだという言葉を理解するだけの余力がその時の僕の 心にはなかった。
 一緒に暮らし始めた男のことを僕は先生と呼ぶようになった。彼が父さんと一体どういう関係だったのかはとうとう分からずじまいだったけれど、彼が決して 悪い人間ではないことだけは確かだった。先生はまだ幼くて自らの身の上を受け入れようとしない子どもの相手を根気よく続けた。それは本当に根気のいる作業 だっただろう。彼はとてもいい人だった。母さんを失い父さんに捨てられて傷ついた僕の心は、ようやく少しだけ彼に向けて開かれるようになった。植物が太陽 のほうを向くように。
 先生は外へ働きに出るということをしなかった。代わりに書斎の机に向かって書き物をしたり本を読んだりばかりしていたように思う。当時まだ五十そこそこ の年齢だったので年金生活者というわけでもなく、幼い頃にはそれを不思議に思ったりはしなかったものだが、よくよく考えてみると果たして彼自身と僕とを養 う だけの収入があったのだろうか。おそらくは僕の養育費という名目である程度の金銭が父さんから支払われていたのだろう。それで彼自身と僕とを養い、自宅に 篭もって仕事だか研究だかをしていたのだ。けれど先生が金のために僕を預かっているのだと考えることは嫌だった。そういう大人の事情へ目を向けることに何 か不吉な予感を感じていたし、実際に先生が僕に接する態度は不器用ではあったけれど誠実なものだったからだ。
 先生の不器用さは、今思い返してみると滑稽でさえあった。子どもに合わせて屈むということができず、いつも戸惑っている風だった。それでいて、僕のこと をどうしても見捨てられないのだ。もとより寡黙なたちの人で、僕は先生と何分も続く会話をしたという記憶がない。こちらの背丈に合わせて遊んでもらったと いう記憶もない。先生は僕に対していつも対等な大人を相手にするような丁寧な口振りで話しかけ、無闇と構うような真似はしなかった。僕はまだ幼い子ども で、できないことが沢山あったし知らないことはさらに多くあったけれど、先生はそのことで僕を侮ったりはしなかった。大人というものは(あるいは親という ものは)もっと子どもの世話をあれこれと焼いたり叱りつけたりするものだ。だから先生の態度は養育者としては風変わりなものだった。僕のほうもあまり感情 の起伏を表さない子どもらしくない子どもだったので、傍から見ればなんとももどかしい生活ぶりだったろうと思うが、不思議と僕にはそれが不快でなかった。
 子どもらしい遊びに先生が付き合ってくれることはなかったけれど、その代わりに僕は先生の遊びに色々とついて回った。それは近所の川への釣りであった り、裏山への山菜狩りだったり、また犬の散歩だったりした。そういう場所へついて行って、僕たちは会話を弾ませるでもなく肩を並べてただ一緒にいることを 楽しんだ。楽しんだのだろうと思う。先生がどう思っていたのかついに僕は確認することはなかったけれど、彼は僕を邪険にするようなことはなかった。初めて 釣りについて行った時のことは今でも覚えている。いつも書斎に篭もっている先生が珍しく朝から物置を漁っていたので、様子を見に庭へ出ると釣具を持って すっかり出かけ支度をした先生がそこにいた。釣りへ行ってきますと言い門扉を開いて出て行こうとする先生のあとを僕も追うと、先生は少しだけ面食らったよ うな表情をして一緒に行きますかと問いかけてきた。僕は頷いて、川原まで先生のあとを歩いた。川原へ到着すると先生は大きな岩へ腰を下ろしさっそく釣り糸 を垂れ始めたが、当然釣竿は一本しかない。それに関して先生が何か言うこともない。黙って釣り糸を垂れる先生の周りで僕は延々と独り遊びに興じた。昼には 先生のおにぎりを齧らせてもらい、茶を分けてもらって、その後は再び先生は釣りに、僕は独り遊びに戻った。遊ぶのに飽きれば平らな岩の上で眠った。朝方に 出かけて先生が釣りを終えたのが午後三時か四時か、その間に先生にかけられた言葉で覚えているものは、川の真ん中には近づいてはいけないというものだけ だ。流れに足を取られて溺れます、と先生は淡々と言った。もとより泳げない僕は水に対する恐怖があったので川の中に入っていこうとはしなかったけれど、そ の先生の言葉だけは後々まで妙に印象に残った。そうして僕たちは釣りを終えると家に帰り、夜には先生が釣った魚を捌いて食べた。この時の僕は釣りに付いて 行きながら結局 自分ではまったく釣りをしなかったことになる。その後どれくらい経ったかは覚えていないけど、再び釣りに行く機会があった。その時も支度を整えた先生を 見上げて僕はついて行くつもりでいた。先生のほうもそれを悟ったのだろう。今日も来ますか、と訊ねられて僕は頷いた。するとおもむろに物置から真新しい釣 竿を取り出 して、先生のものより短いそれを無言で僕に手渡し、彼は当たり前のように背を向けて歩き出した。いつの間に用意したのだろう。強請った覚えもない。先生も 買ったこと など一言も言わなかった。二度目にして初めて僕は先生の隣に座って釣りを経験し、以来たびたび一緒に出かけたものだが、先生から言葉で誘われたことは最後 までなかった。総じて先生はこういう人だった。





 数年が平穏に過ぎていった。母さんの命日にだけ僕は父さんと会うことができたけれど、年を経るごとに父さんとの距離が開いていくようだった。それでもま だこの頃はいつか父さんのもとへ帰ることができるのだとわけもなく信じていた。
 そんな折だった。僕は七つか八つだったと思う。普段はあまり酒を過ごさない先生が珍しく深酒をした日があった。もともとあまり酒に強い人ではない のだ。日本酒だか焼酎だかを手酌で飲んでいた先生が独り言のように繰り返していた。不憫だ、可哀想だ、と先生はぶつぶつ繰り返していた。僕は先生が酒を飲 む脇でテレビを見ているところだったのだけど、しばらくしてからそれがどうやら僕のことを言っているらしいと気付いて、先生のほうへ顔を向けた。先生は赤 ら顔を歪めてテーブルに視線を落とし、うわ言のように繰り返していた。僕が母さんを亡くしたこと。父さんに捨てられたも同然の身であること。その幼子を先 生のような子育てには不向きな人間が預かっているということ。こんな先生 の姿を見るのが初めてだった僕がどうしていいか分からなくて一度テレビ画面に視線を戻すと、そこではアフリカの乾いた大地で雌ライオンがガゼルを噛み殺し て仔ラ イオンたちに分け与えている場面を映していた。もう一度先生を見た。すると先生も僕を見た。その時、唐突に僕は認識した。僕は、可哀想な子なのだ。そう だったのか、と思った。それは怒りや悲しみよりもま ず先に虚脱として僕を襲った。結局は僕は先生の家族にはなれないのだ。先生は僕を憐れんでいるだけで、僕のことが好きなわけじゃない。僕のことを見捨て ないのは僕に対する愛情のためではなく、彼自身の中にある良心のためなのだ。それが悪いことだと言いたいわけじゃない。ただ僕が必要としているものを持ち 合わせていなかっただけなのだから。先生は間違いなく素晴らしい人だった。しかしそれでも、その瞬間、確かに僕は行き場を失ったのだ。
 不安に駆られた僕は、自分の居場所を守ろうと必死になった。まかり間違っても先生から嫌われ疎まれるようなことがあってはならない。いい子であり続け、 先生の良心を刺激し続けるような子どもでなければならない。子どもとして実に真っ当な計算高さによって、僕は自分を守ろうとした。先生の言うことをよく聞 き、反抗はしなかった。先生は僕に対してあからさまな期待を示すような人ではなかったけれど、僕なりにそれを推し量っているつもりではあった。チェロの レッスンを断らなかったのもそのひとつだ。先生はきっと情緒に乏しい僕をどうにかしようと苦し紛れにチェロなど持ち出したに違いなかったが、当時の僕には そんな理由などどうでもよかった。興味があったらやってみたらどうですか、と訊かれた時にはすでに僕が頷くことは決まっていたのだ。幸いチェロのレッスン は途中で投げ出したくなるほどつらいものではなかったし、僕にとってはほとんど唯一の特技にもなった。チェロに触れている間は、目の上の様々な問題を忘れ ていることができた。それはおそらく僕 のような内向きの人間にとっては大事なことで、たとえ先生の苦し紛れの提案であってもチェロを習ったことはその点で一定の意義を生んだといえた。
 しかし、父さんに捨てられた上に先生まで心底から信じることができなくなってしまった僕は、やはり歪みながら成長していった。普段は押し殺していたそれ に耐え切れなくなると僕はしばしば先生の家を離れ、世界がどれほど広く冷たくて、そこに住む自分がどれほどちっぽけかということを確認するのだった。夕暮 れの最後の名残が空から消える頃、辺りに漂い始める手元さえ覚束ない薄暗闇にどうしようもない心細さを覚えながら、僕はうずくまって孤独を噛んだ。梢がざ わめく川原やひと気のない農道、しんと冷える神社の境内。一人になれる場所ならばどこでも構わなかった。けれど逆をいえば僕はどこにいても一人だったの だ。たとえ賑やかな商店街を歩いていたとしても同じことだった。ただそういう気分の時には商店街のざわめきなんてものはとてもたまらなかったので、僕はい つもひと気のない場所を探した。そして儀式が静かに終わると、完全に夜が来る前に先生の家へと僕は帰っていった。先生の家では庭にマチコという名前の雌の 柴犬を繋いで飼っていて、僕が門扉へ手をかけると決まってからからからと音を立ててマチコが走ってきた。中へ入ると必ずそいつは口を開けて舌を出し、尾を 振りながら、つぶらな瞳で僕を見上げた。撫でようと僕はいつも思い、そしていつも踏みとどまった。伸ばしかけた手を引っ込め、詮索するようなマチコの視線 をかわして玄関の戸を静かに開けると、先生が三和土を上がったところに立っていて僕に遅かったですねと言った。友達と遊んでいてと僕は嘘をついた。そうす ると、暗くなる前に帰るようにしなさいとだけ先生は言って僕を家へ入れた。いつもそうだった。先生が本当に僕の嘘を信じていたかどうかは分からないが、い つもは従順な僕が時折見せる不可解な行動に戸惑っている風ではあった。本当の親だったら言い訳を聞く前に叱り飛ばすのではないだろうか。そのように想像し ていつも僕は落胆していた。
 ところでそのマチコだけれど、彼女は僕が中学一年の時に死んでしまった。最後には年齢と病気のせいで、目も鼻も耳もあまり利かなくなっていたし身体も自 由には動かせなくなっていた。死んでいたのを見つけたのは先生だ。僕が中学校から帰ってきたら先生が庭でうずくまっていたので、何ごとだろうと恐る恐る近 づいてみると犬小屋の前にマチコが伏していて、先生はそれをじっと見つめているのだった。ああ、とうとう、と思った。少しマチコが縮んだようだった。先生 に声をかけようかと思ったけれど言葉が見つからず、マチコの年齢を意味もなく訊ねた。十三歳ですと先生は答えた。僕と同じ年齢だったのでそう言うと、そう ですねと先生は相槌を打ってため息を吐いた。マチコは先生の奥さんが亡くなってから飼い始めたのだそうだ。当時はまだセカンドインパクトの混乱真っ只中 で、とてもではないが子犬とはいえ余計な食い扶持を養う余裕はなかったけれど、マチコがいなければとても生きている気にはなれなかった、と先生は彼女の亡 骸を見下ろしながら語った。亡くなった奥さんとの間に子どもがいなかった先生にとってはマチコは最後の家族だった。それを今まさに失った。僕にはそれ以上 何も言えなかった。





 十四歳、中学二年の時に父さんに呼び出されて僕は先生のもとを出た。父さんからの手紙で僕に当てられた言葉はたったひとつ、来い、というものだけで、け れど数年ぶりとなる父さんからの接触に僕は応えないわけにはいかなかった。期待なんてしていない、と僕は内心で自分に言い聞かせていた。期待などするほう が間違っている。それなのに、やはり僕は期待していたのだ。わけもわからず地下施設へ連れ込まれて巨大なロボットの顔とその上から睥睨する父さんと対面さ せられ、このロボットに乗って外の化け物と戦え、でなければ用はないと言われた時、僕の中に性懲りもなく秘められていた父さんへの期待が打ち壊されたのが 分かった。四歳の時にこの人に捨てられた僕は、やはり今もって捨てられたままなのだ。もう二度とこの人が僕を省みようとすることはないのだ。この数年母さ んの命日に父さんと会うことが途絶えていた間に、いずれ父さんと会うことがすっかり途絶えてしまうのだろうか、顔を思い出すこともなくなるのだろうか、と 考えたこともあった。そして実際にこうして顔を合わせて直接に現実を突きつけられてみると、僕の想像のほうがずっとましだったと思えてくるのだった。二度 と会うこともなく、顔も声も忘れ、その存在を忘れて、静かに生きていたかった。痛切にそう願った。けれどもう僕は後戻りできない場所に立たされていたの だ。
 第3新東京市と呼ばれる父さんの街での暮らしはつらいものだった。そこでの暮らしは何も起こらない先生のもとでの暮らしとは雲泥の差で僕を翻弄した。ス トレスやプレッシャーに苦しめられ、理解してくれる人間もおらず、いっそこのままあのロボットの中で討ち死にでもしてしまえばどんなにか楽だろうと、半ば 本気で考えていた。何もかもどうでもよかった。この街の人たち、クラスメイト、僕を戦わせようとする大人たち、父さん。僕自身の命でさえ例外ではない。そ ういう捨て鉢な気持ちがその頃の僕を支配していた。
 なぜ僕なのか? それが問題だった。そしてその問いに満足に答えてくれる者は一人としていなかった。可哀想な自分の境遇に拗ねていたかった僕は、なぜ僕 なんだと繰り返し ながら前へも進まず後ろへも逃れられず、じりじりと追い詰められていた。そんな僕からしてみれば彼女の超然とした態度はほとんど理解の範疇を超えたもの だった。
 彼女の名は綾波レイといった。僕と同じ年頃の少女だった。彼女を初めて見たのは、僕が最初に父さんの町を訪れて地下施設に連れ込まれた時だ。動こうとし ない僕の代わりを命ぜられて、ひどい怪我をした身にもかかわらず唯々諾々とそれに従おうとする姿は異常ですらあった。どうやら彼女は自らの死に対して恐怖 心を抱いていな い らしかった。死に対して恐怖を抱くということが理解できないらしかった。命令の一切を拒まず黙々と任務に当たろうとする様子を僕は恐れた。
 中学の同じクラスの生徒たちは彼女のことを何を考えているのか分からない、感情のない人形のような子だと言った。事実僕もそのように思っていた。けれど それは違う。彼女には確かに感情があり、僕の父さんのために激してみせることさえした。彼女は父さんを慕い、父さんも彼女を気にかけた。彼らはお互いに対 してだけ笑みを交わし合った。その光景を見て、諦め捨て去ったはずの何かが僕の腹の底で疼いた。嫉妬だった。僕は父さんに愛される子どもとしての綾波レイ に嫉妬した。本当ならばそれは僕であるはずだったのだ。けれど十年の別離の間にそ知らぬ顔で彼女はその地位に納まり、冷え冷えとした瞳で僕を睨んで、自ら の父親のことが信頼できないかと問うた。彼女は何も分かっちゃいない、と僕は思った。一体僕がどうやって父さんを信じることができたというのだろう。父さ んが僕の期待に応えてくれたことが一度でもあったか? たった一度でも僕の気持ちに報いてくれたことがあったのか? ありはしなかった。そんなことは一度 としてなかった。それどころか十年の間に数えるほどしか顔も合わせていないというのだ。信じられるほど僕は父さんのことを知らなかった。何も知らなかっ た。あの人が僕を捨てたという忌々しい事実を除いては。けれど綾波レイにとっては僕のその態度は充分に怒るに値するものだったらしく、したたかに頬を張っ て射殺すような視線をこちらに向けてきた。やはり僕はこう思った。彼女は何も分かってはいない。でも僕だって一体何を知っているというのだ? ひとつだけ 分かっ たのは、自らの死にさえ頓着しない綾波レイが執着するのが父さんだということだけだった。それは僕には理解しがたく、また少し僕と父さんとの距離は隔てら れたようだった。
 ある時、私があなたを守る、と彼女は言った。それはきっと、命がけの任務を前に尻込みする僕の態度如何にかかわらず、彼女は自らに課せられた任務を全う するというだけの意思表示に過ぎなかった。あなたが逃げようが失敗しようが私がやることには変わりはない、という。それが強固な意志から出た言葉なのか、 それとも 己の意思 がないために出てきた言葉なのか、僕には計りかねた。盾になれと命じられた以上、彼女はたとえ身を焼き尽くされても後ろへ退かなかっただろう。そのことの 単純な結果として僕は生き残る。彼女に守られて。彼女にとってそれは、どこにも疑問を差し挟む余地のない極めて明解な事実でしかなかった。
 しかし僕にとっては、そうではなかったのだ。理由や動機が問題なのではなかった。身を挺して僕を守ってくれる人間が確かに存在しているという揺るがしが たい事実。エン トリープラグと呼ばれる操縦区画のハッチを抉じ開けて彼女の生存をこの目で確認した時の気持ちを何と表現したらよいのだろうか。任務に就く前の別れ際に彼 女は自分には何もないと言った。それを聞いて何もないのは僕も一緒だ、と思った。でもそれは違った。何もない人間は泣いたりはしない。微笑んだりはしない のだ。





 ひとつ、忘れられないエピソードがある。それが正確にはいつのことだったのかを僕は思い出せない。ただとても暑い日だったことはよく覚えている。焼ける ような粘つく大気が身体中に纏わりついて 毛穴からとめどもなく汗を噴き出させながら、僕は綾波レイの家へ向かっていた。中学校の帰りだった。彼女が学校を休んでいる間のプリント類などを届けるた めだった。彼女はしばしば学校を休み、それは僕やもう一人のパイロットよりもずっと頻繁だった。彼女にだけ独自の実験や訓練があるのだろう。その程度に考 えるに留めて詮索をしたことはなかった。おそらく僕は、詮索の結果綾波レイを辿った先に父さんが出てくるのが怖かったのだろうと思う。僕にとって父さんと 彼女との関わりはできるだけ目を逸らしておきたい事柄だった。
 綾波レイの家は古い団地の中にあった。たぶんこの街の建設初期に利用されていたのだろう。ほとんど人は住んでいなくて、なかば放棄、取り壊されているよ うな場所だ。団地全体の敷地は恐ろしく広くて、まったく同じ姿の建物が無限に複製されて並んでいる光景は遠目から見ても眩暈を引き起こしそうになる。そん なところに綾波レイはたった一人で隠れるようにして住んでいた。いや、父さんによって隠されたと言ったほうが真実に近いのかもしれない。廃墟に浮かび上が る幽鬼のような姿の彼女に注視する人間はそこには誰もいなかったのだから。
 団地に入ってから僕は少し急いでいた。空気の匂いが変わったからだ。少し埃っぽくて湿った甘い匂い。空を見れば濃い灰色に練り上げられた雲が風に乗って 頭上を覆い始めている。雨が来る。この街は気まぐれな女の子の機嫌と同じくらいにころころとよく天気が変わる。けれど僕は雨の備えをしておらず、しかもこ の鏡像の悪夢のようなビル群の中でまずいことに道に迷いかけていた。一体綾波レイはこの中でどうして正気で暮らせるのだろう。この迷宮じみた団地の中で一 度として自らの居場所を見失ったりはしなかったのだろうか。そんなことを考えて彷徨っているうちにとうとう雨は降り出した。粒が大きく勢いのある雨で、僕 は頭のてっぺんからあっという間にずぶ濡れになっていった。自分自身の間の悪さにうんざりしながら僕はかばんを頭の上にかざし、綾波レイの住みかを探して 走 り出した。
 幸い綾波レイの家はさして時間を経ることなく見つけ出すことができたけれど、もう充分に濡れ鼠になっていた僕はひどく惨めな気分でインターホンを押し た。けれど何の音もせず、何度か試してようやく彼女の家のインターホンは電池が切れていると思い出した僕は、ドアをこぶしで叩いて何度か呼びかけた。
 ドアを開けて顔を覗かせた綾波レイは、まず僕の濡れそぼった姿を見て眉をひそめた。学校のプリントを届けに来たと伝えると、彼女はそう、と気のない返事 をかえして僕の足元に批判的な視線を向けた。そこには僕自身からしたたり落ちる水滴によって水溜りができていた。この場でとっとと用事を済ませて帰ってし まおう。そう考えてかばんの口を開けて中身を漁ろうとしたのだけど、僕は彼女から家に上がるよう促された。しかしそうは言われてもずぶ濡れの人間など家に 上げ てもいいことなどひとつもない。急いで僕は断ろうと口を開きかけた。でもその時にはもう彼女は玄関を開け放ったまま踵を返して部屋の奥へ向かってい た。そして彼女の意思を無視して帰ることができるほど僕は気の強い人間ではなく、ぼたぼたと水滴を垂らす自分の身体を申し訳なく思いながらも玄関の中に足 を踏み入れ、そっとドアを閉めたのだった。
 前に一度訪れたことがあるので知ってはいたけれど、綾波レイの部屋は相変わらずがらんどうで、とてもではないが十四歳の少女が実際に生活しているとは思 えないものだった。外の廃墟といい勝負だった。どうして父さん は彼女をこんなところに押し込めているのか、彼女が大事なのではないのかと僕は不思議だったけど、問いを発することはできなかった。僕が部屋の中ほどまで 湿った足跡を残しながら入ると、綾波レイが振り返って再び批判的な目でこちらを見た。睨まれて怯んだ僕に向かって彼女は手に持ったタオルを差し出し、身体 を拭くよう言った。礼を返してタオルを受け取ったものの、服まで濡 れてい るし結局は帰りにまた濡れると僕は考えたが、彼女がいまだにこちらをじっと見つめていたので、大人しく頭から順に濡れた身体を拭いていった。その日はひど く暑い日で彼女の部屋は冷房もついていなかったにもかかわらず、僕は鳥肌を立てて身体を震わせた。やはりとても惨めな気分だった。綾波レイは依然と して何を考えているのか判然としない表情のままこちらを注視し続けていたが、その視線から逃れるためにも一刻も早くこの場から立ち去ろうと僕は考え、湿っ たタオルを彼女に返して今度こそ自分の用件を果たそうと口を開きかけた。ところがまたしても僕の行動は彼女の寒いの、という問いかけによって遮られた。 寒いなら温かい飲み物を用意する、濡れた服も脱ぐといい、と言われて僕は呆気に取られて彼女を見た。一体何を言い出したんだろう、彼女は。間の抜けた顔を する僕の前で問いかけの答えをじっと待っていた彼女にかろうじて頷きを返すと、そう、と彼女は呟いた。濡れたカッターシャツを脱ぐと彼女にそれを奪われ、 代わりに大きなバスタオルを押し付けられた。さすがに下まで脱ぐ気にはなれなかったので濡れたズボンは膝まで裾を捲り上げた。その間に彼女は部屋の隅に転 がっていたハンガーを僕のシャツに通してキャビネットに引っ掛け、その足で玄関から出て行ってしまった。
 唐突に彼女の部屋に一人で残され、僕は困ってしまっ た。まさか彼女のベッドに濡れたズボンで腰を下ろすわけにもいかず、かといって椅子の一つもないので座ることもできない。バスタオルを被って僕は足元に視 線を落とした。彼女の部屋は掃除されている形跡がなかった。濡れていたせいもあって真っ黒に汚れていた靴下を脱ぎ、置き場に迷ったがキャビネットにかけら れ た僕のシャツの下に丸めて置いた。そうしてキャビネットの上を何となしに見ると、そこに置かれていた二冊の本にふと目が留まった。綾波レイがよく本を読ん でいることは知っていた。彼女が読書する姿は本が好きだからというよりはむしろ他人を遠ざけておくための手段のように僕には映ったものだけれど、学校の教 室などでは大抵彼女は一人本を読んでいるか、頬杖をついて窓の外を眺めているかしていた。一体どんなものを読んでいるのかと若干の興味を引かれた僕がキャ ビネットの上から手にとって確かめてみれば、一冊は分子生物学がどうとかいう僕には難 しすぎてまったく理解できない本で、もう一冊はギリシア神話を集めたものであるらしかった。あの綾波レイがこんなものも読むのかと僕は感心して、ギリシア 神話のほうのページを ぱらぱらと捲った。それ は随分と文字の細かい文庫本で所々に挿絵があった。ギリシア彫刻みたいにシリアスな挿絵だ。小さな頃に児童向けのギリシア神話は読んだことがあったけど、 あの本は今でも先生の家にあるのだろうかと僕はしばし回想に浸った。僕はおおぐま座とこぐま座の話が好きだった。しばらく捲っていると、しおりの挟まれて いるページが開かれた。そこにも一枚の挿絵があって、美しくたくましい青年が牛頭の怪物に剣を突き立てている光景が描かれていた。ミノタウロスだ。この ページに特別な興味でもあるのだろうか、それとも単にここまで読み進んだということだろうか。そんなことを考えていると背後でがちゃりとドアの開く音がし た。振り返ると綾波レイが缶コーヒーを手にこちらへ向かってくるところだった。わざわざ僕のために買いに出たらしい。確かに温かい飲み物を用意すると彼女 は言っていたが、普段自分のために温かい飲み物をいれるなどということはついぞしたことがないのだろう。そういった備えなど考えたこともないに違いない。 勝手に彼女の本を見ていたことを咎められるかと思ったけれど、彼女はなにも言わず剣先を向けるように缶をこちらへ差し出し、僕は戸惑いながらそれを 受け取った。ありがとうと言ってキャビネットの前から退くと、入れ替わりに彼女がそこへ立った。僕の礼が聞こえたのかどうかは分からなかった。プルタブを 引っ掻いて抉じ開け、中の熱く苦い液体を啜ると、冷えた身体に染み入るような安堵感があった。いつもはコーヒーをブラックで飲まない僕はあごが痺れるよう な苦さに少々閉口したものだけど、彼女がそんなことを知るはずもない。ただありがたかった。だから、彼女のそれを飲んだら玄関の傘を持って出て行け という言葉にも素直に頷いた。
 しばらくの間僕たちは無言だった。綾波レイはキャビネットの前に立ったきり僕に背を向けている。相変わらず座るところはないので、僕は裸足のまま手持ち 無沙汰な熊のようにうろうろと室内で足踏みを続けた。僕が熱いコーヒーを啜る音と激しく降る雨の音だけが聞こえていた。
 彼女に話しかけようと思い立った理由は僕自身よくは分からない。彼女が寡黙ならこちらだって話し上手というわけではない。話題もない。唇を舐めて僕は最 初の言葉を考えた。「あ」から「ん」までの列の中でどの音から始めればよいかを。

 ――雨、止まないね。

 彼女は僕の言葉にゆっくりと振り返ってなにを考えているのかまったく読めないその表情をこちらに向けた。一体綾波レイが雨なんてものに興味を持つのかど うかなんて知ったことじゃなかった。強いて言えば興味がなさそうな表情だったけど、それはエヴァンゲリオンの起動実験で自分の番が回ってきた時の表情とほ とん ど大差ないように思えた。けれどとにかく彼女の注意をこちらに向けることには成功したわけだ。僕はじとりと汗ばんだ手のひらを握ったり開いたりした。僕は 緊張していた。心臓のすぐそばの辺りをとても意識していた。ただの会話だろうと他人は思うだろう。でもそれは違う。彼女はただの会話なんてしないのだか ら。僕はそれをよく知っていた。
 この挑戦で彼女のことを理解しようと考えていたわけじゃない。別にそういうことではない。ただ少しは彼女のことを知ってもいいんじゃないかと思ってい た。彼女と僕はいわば同じ境遇の仲間で、父さんとのことが釈然としないのは否定できなかったけれど、僕は彼女のことが嫌いでなかった。それどころか僕たち の間にはもっと特別な何かがあった。うぬぼれるつもりはない。綾波レイと僕とは恋人同士ではなかったし、そういう気持ちをお互いに伝え合ったこともない。 そういう気持ちを持ったこともないだろう。それでもあの頃、僕たちは特別な関係だった。僕たちはあとほんの少しでも今より多く、何かを伝え合えるはずだと 僕は信じていた。
 けれど返答はしばらく返ってこなかった。自分の発言がどこかいけなかったのだろうか、やはり勝手に本を見たことで彼女は機嫌を損ねているのだろうか、と 気を揉んでいると、彼女は長い長い沈黙のあとでやや仕方なさそうな感じで口を開いた。

 ――そうね。

 か細くて硬質な感じの声が簡潔に言った。まるで繊細なガラス細工をそっと指で弾いたみたいな声だ。やはり彼女は雨に特別な興味はないようだった。何を当 た り前のことを言っているのだこいつは、という表情を表に出したりはしないが、似たようなことを考えているに違いなかった。彼女だって相当だろうけど、僕に しても生まれてこのかた人を楽しませる会話なんてできたためしがない。少なくともあまりない。どちらかといえば僕は聞き手に回るほうだし、ユーモアに優れ てもいなければ頭の回転も鈍い。けれどこんな風に自分を貶めていたところで状況がどうにかなるわけでもない。僕は手の中のコーヒー缶にプリントされた中年 男の顔を眺めながら次の言葉を捜した。そうしていると缶の表面に沿って弧を描くニヒルな口元が雨、とか細く言った。

 ――雨、多いんですって。

 実際に喋ったのはもちろん綾波レイだ。僕は驚いて顔を上げた。まさか彼女のほうから喋りかけてくるとは思いもしなかったから。それどころかこちらから話 しか けたとしても、どだい彼女を相手にまともな会話を成立させるほうが無理なのだと僕はなかば投げ遣りなことを考えていたので、彼女の言葉にとっさに対応する ことができなかった。

 ――多い?

 ――この時期はいつも。山ではもっと降るらしいわ。

 馬鹿みたいに彼女の言葉を繰り返した僕にそう答えて、彼女は一度窓の外に視線を投げかけた。窓にはカーテンなのかビニールの切れ端なのかよく分からない ものが垂れ下がっていて、その隙間から灰色の外の景色と絶え間ない雨音が覗いていた。きっとさらにその向こうには山肌が霞んでいるのだろう。

 ――綾波はここにずっと住んでいたの?

 どう見ても人が継続的な生活を営む場所には思えない部屋をぐるりと見回して、僕は訊ねた。

 ――いいえ。

 窓の外を見るのをやめた彼女は一度言葉を切って少し考える素振りを見せた。喋ってもいいかどうかを考えたのだろう。彼女には僕よりずっと秘密が多かっ た。

 ――私がここに住み始めたのは一年前から。

 ――その前は?

 ――セントラルドグマ。

 ジオフロントにあるネルフ本部のさらに深みにある施設の名を彼女は言った。僕には彼女の言葉がよく理解できなかった。あんなところは人間の住む場所じゃ ない。でも彼女は平然とした顔で立っていた。事実は事実でしかないという揺るぎなさが彼女を支配していた。

 ――雨を見たのも一年前が初めてよ。

 彼女はもう一度窓の外に顔を向けた。僕はなんと言っていいのか分からなかった。
 話すべきことは他にたくさんあるような気がしていた。父さんのことやエヴァンゲリオンのことやこの街のこと、もちろん彼女自身のこと。あるいは僕のこ と。けれど言葉はなか なか出てこなかった。代わりに手の中のコーヒーは徐々に残り少なくなっていった。これをすべて飲み終えたら僕は出て行かなくてはならない。一人雨の中を歩 いて自分自身の居場所に戻らなくてはならない。時間はあまり残されていなかった。

 ――父さんに、

 切り出した言葉はこちらを見据えた綾波レイの赤い瞳の前に尻すぼみになって消えそうになった。僕はざらざらする喉を叱咤して、上擦った掠れ声で続きを外 へひねり出した。

 ――世話されてたの。ここに来る前、あそこでは。

 ――そういうことになるわね。

 どこか含みのあるような口調だったけど、その意味するところは僕には分からなかった。あの父さんがまともに子育てしたとは思えない。しかもあんな場所で だ。僕の頭蓋骨の中の冷静な部分ではちゃんとそれを承知していた。けれど一方で、彼女の言葉は僕をひどく傷つけた。肌を貫き、その下に隠された柔らかい部 分を傷つける言葉だった。いつもの僕だったらヒステリックに叫びだしていたかもしれない。僕の代わりに父さんに愛される彼女に対して恥も外聞もなく当り散 らしていたかもしれない。お前がいるから僕は父さんから見向きもされないんだ。お前が悪いんだ。僕は悪くないんだ、というように。
 でも、この日の僕はとてもそんな気分にはなれなかった。冷たい雨に降られてずぶ濡れになっただけでもすでに充分惨 めな気分だったのだ。さらには、濡れ鼠の僕を屋根の下に招き入れ乾いたタオルと温かいコーヒーを恵んでくれた相手が、僕がどうしても手に入れたいと切望 しているものを易々と手にしている人間だと再確認させられたことに、僕は打ちのめされていた。とどめを刺された気分だった。彼女はなにも悪くない。悪くな いのだ。だからこそ彼女を妬まずにはいられない自らのさもしさに心底嫌気が差していた。
 僕は立っていた場所から後ずさり、先ほどまでは持ち合わせていた気遣いも忘れて綾波レイのベッドのへりに腰を落とした。身体がとても重たくて、立って支 えていられなくなったのだ。僕は自分でも分かる情けない表情で キャビネットの前に立っている彼女の白い顔を見て、それから両手の肘を膝の上について手のひらで顔を覆った。
 分かっていたのだ。父さんが実の息子の僕より も綾波レイのほうを気にかけているなどということは。二人揃って滅多なことでは眉一筋動かさない鉄面皮がお互いに対してだけは柔らかく微笑み合う場面を僕 は見てきた。諦めろ。お前に勝算なんてない。警告は充分に耳に届いていた。それもこの街に来てからではなく、もう十年も前からだ。耳元で囁かれる言葉には いつだって気付いていたのだ。この僕に望みなんてないのだと。

 ――泣いているの。

 綾波レイの冷淡な声が訊ねた。僕はそれにかぶりを振ることで答えた。泣いたりなんてしてない。手のひらで乱暴に顔面をこすって頭をもたげる と、綾波レイの身体は思ったよりも近い場所に立っていた。そうして打ちのめされた惨めな僕を見下ろしていた。薄暗い部屋にぼんやりと光を孕んで浮かび上が る 亡霊のような姿だった。父さんはこの少女になにを見ているのだろう。彼女は注意深く僕を観察しているようだった。まるで化学実験の経過を見守る生徒のよう な視線だった。
 以前に彼女は僕に対して、父さんのことが信じられないのかと質問した。僕にとってその質問に答えるのは簡単なことだった。父さんが僕を見ていないから。 僕は父さんのことを何も知らないから。たった一人の血縁であるはずの僕が誰より父さんのことを理解できない。理解できないものをどうやって信じられるとい うのだろう。彼女は父さんを批判した僕を責めた。でも僕にはそんな単純なことさえできないのだ。

 ――なぜ君なんだ。

 これが彼女に問いかけても仕方のない言葉であることは承知していた。それでも僕は問わずにはいられなかった。自分がどんな答えを彼女に求めているのかも 知らず、ただそれまでずっと胸の奥に仕舞い込んできたものが首をもたげるのを抑えることができなかった。

 ――なぜ君なんだ。

 僕は繰り返して言った。実の息子である僕ではなく。なぜ?
 彼女は静かな瞳でじっと僕のことを見ていた。まるで答えが彼女の中にではなく僕の中にあるとでもいうかのように。

 ――私はあなたの代わりなど務めてはいないわ。

 ――そう思ってるのは綾波だけだとしたら? 周りの誰が見たってこう思ってる。父さんは綾波に特別な関心を払っているってね。実の息子の僕にじゃなく。 綾波だけに!

 ヒステリックな僕の声はがらんとした部屋の壁にぶつかって、すぐさま被さった雨の音と混ざって地面に落ちた。彼女はまったく動揺することもなく、僕に向 かって言った。

 ――あなたの考えているようなことはないわ。私には分かるの。

 ――僕には分からないよ。分からないよ。

 頭を抱えて僕はかぶりを振った。彼女が言い逃れをしているのではとも疑ったけれど、そういうことをする人間ではないことも知っていた。語る言葉は少なく とも、彼女は嘘はつかない。
 説明をして欲しいと僕は思った。それを聞く権利が僕にはあるはずじゃないか? けれど彼女にはそれ以上説明する気はないようだった。代わりに硬い光を宿 した赤い瞳で僕のことを見下ろし続けていた。そうする他に彼女には取るべき行動が見つからないようだった。再び俯いた僕は、もう二度と顔を上げる気分には なれなかったけど、髪の毛からでも彼女の赤い視線をひりひりと感じることができた。僕が彼女を困らせているのは明らかだった。ひどく気詰まりな沈黙の脇を ざらざらと豆をばら撒くような雨音が上滑りしていった。
 精神状態をニュートラルに戻すのにはしばらくの時間が必要だった。雨は勢いを緩めた様子もなくいまだに降り続け、手の中のコーヒーはもう冷め切って いた。僕は鼻を啜り、誤魔化すように続けて冷めたコーヒーを啜った。ひどい味だった。
 立ち去るべき時が訪れていた。もう充分に醜態を晒していたけれど、この上さらに自らの矜持を傷つけるようなことをすべきではなかった。伏せた僕の視界の 中に生 えてずっと動かなかった二本の細く骨ばった白い足をゆっくりと確認してから、近くに放り出していたかばんから彼女に渡さなければならないプリント類を取り 出した。これを渡し、立ち上がって濡れたシャツを羽織り、まっすぐに玄関から出て行く。とてもシンプルで簡単なことだ。
 深呼吸して顔を上げると、いまだにこちらを見つめ続けていた彼女の赤い瞳が僕の瞳にぴったりと焦点を合わせるのが分かった。きっと彼女は、彼女自身が想 像もつかないほど生真面目で優しい人なのだと僕は思った。それは勝手な思い込みや期待ではなく、僕にとってのひとつの真実だった。その赤い瞳が何を語って いるのか読み取ることはできなかったけれど、僕はこれ以上彼女を困らせるべきではないのだ。たとえ彼女が僕にとってもっとも大切だったものを奪い取った張 本人であったとしても。
 何枚かのプリントを差し出すと、彼女は無言でそれを受け取った。一瞬だけ視線を向けたきり学校の連絡事項や課題には興味を失ったみたいだったけど、とも かくこれで僕はこの場所を訪れた本来の目的を果たしたのだ。あまりにもひどくあっさりとしたやり取りだったせいで、なぜ今の今までぐずぐずしていた のだろうと混乱してしまうくらいだった。しかしいずれにせよ、これ以上僕をここに留めているものは手の中の缶コーヒーの冷めた残りくらいのものだった。も ちろん僕はそれを一息で胃の中に流し込んだ。
 空になった缶を足元の床に置き、僕はもう一度綾波レイの物静かな表情を眺めた。彼女は僕がずぶ濡れになってここを訪れてからの一連のやり取りで少し戸 惑ってい る風だった。わずかでも彼女を安心させるために僕は微笑もうとしたけれど、顔面は曖昧に引きつるだけだった。ちくしょう、と僕は心の中で罵った。まったく 思いがけなく、目蓋の内側に涙が盛り上がって妙な形に引きつった頬の上を滑り落ちたのだ。本当に何ひとつだって思い通りになりはしない。僕は膝の上で固く こぶしを握った。

 ――なぜ泣くの。

 ほとんど囁いて彼女は訊いた。

 ――なんでもない。なんでもないんだ。

 かぶりを振って僕は繰り返した。こんな答えで彼女が納得するはずもなかったけれど、これが精一杯だった。やるせなさに胸が詰まって一層涙は止まらなかっ た。それでもどうにか込み上げてくる涙を抑え込もうと必死になっていると、これまでずっとぴくりとも動かなかった彼女の白くて細い足が一歩前へ踏み出し た。もともとあまり離れていなかったので、俯いた僕の頭のてっぺんが彼女の腹にほとんど触れそうになっていた。
 彼女は僕の肩に指先を触れさせた。まるで僕の肩の温度を確かめるみたいな、指を置いても傷つかないか確かめているような、そっとした触り方だった。僕は 彼女の好きにさせていた。彼女の意図がどうであれ自分のことで手一杯だったからだ。しばらく僕の肩の上で迷っていた遠慮がちな指先は、やがて首の後 ろに回され、もう一方の手が背中に押し当てられた。僕が被っているバスタオルの下に潜り込み、彼女の手のひらは直接僕の背中を押さえた。背骨のくぼみを彼 女の指の腹がそっと撫でるのが分かった。彼女の手のとてもひんやりとした感触に僕は息を飲んだ。そうして意外に強い力で彼女のほうへ引き寄せられ、僕の頭 のてっぺんは彼女の平らな腹にぴったりと押しつけられた。
 彼女の腹の下で目蓋を持ち上げたら、抑え込んでいた涙が堰を切られた川のように溢れ出して、彼女の足元にぽとぽと染みを作った。少し首をひねると色の透 けた細い腕が見えた。青白い静脈が透けて見えてまるで少しでも乱暴にすると溶けて消えてしまいそうな腕だった。それが僕の動きを止め、僕を繋ぎ止めてい た。
 僕の動きに反応して彼女は腕の力を強めた。それに逆らわずにひねっていた首を元に戻し、彼女の肋骨の合わせ目にあるくぼみに額を落ち着けて、頷くように 目蓋を下ろした。耳を澄ますと彼女の柔らかい心臓の音 が聞こえてきそうだった。とろとろとした腹の音が聞こえてきそうだった。けれど実際に僕の耳に入ってくるのはざらざらという雨の音だけだった。彼女の心も 分からなかった。

 ――僕はただ、

 唇の隙間から零れた言葉が彼女のつま先へ落ちていった。彼女の見えない手が音もなくそれを拾い上げるのが分かった。

 ――家の中の子どもになりたかったんだ。

 両親が揃っていようが父さんだけだろうが構わない。血が繋がっているとかいないとか、そういうことじゃない。
 僕は彼の大切なものになりたかった。そうなることを許されたかったのだ。

 ――いかりくん。

 彼女の平らな腹から振動となって伝わってきた声は、やはりガラス細工を指でそっと弾いたような響きだった。

 ――それでもあなたはいつか自分で家族を作るでしょう。あなたの家族を。その時あなたの家の中には子どもがいるわ。許された子どもがいるわ。

 ――どうやってそんなことが?

 彼女の語る未来は、僕にはとても遠い光景のことのように思えた。行き方もどこにあるかさえ分からない見知らぬ街のように、ひたすらに遠かった。

 ――いつか私が、

 下ろした目蓋の裏側に僕は糸の道を探していた。彼女の声に耳を澄ませながら。細い糸の道を。

 ――あなたの子どもを産んであげるわ。

 雨はまだ降りやまなかった。





 引き綱を持つ僕の腕を二匹の犬が力強く引っ張るので、それに合わせて時々僕の身体は歩幅よりも大きく飛び出したりしていた。そうしながら隣を歩く妻に ずっと語りかけていたので、少し息が切れていた。話し終わった僕にそれでお終いかと彼女が訊ねたので肯定すると、彼女はちょっとつまらなそうな表情をし て、ふーんと気のない相槌を打った。僕に昔話をせがんだのは彼女なのに、どうも内容があまり気に召さなかったらしい。妻は物足りなさそうな顔でそれだけか と もう一度訊いてきた。けれどいくら訊ねられても本当にこれで終わりなのだ。
 綾波レイの言葉がどれだけ不可能なことか、当時の僕は知りもしなかった。知る暇もまたなかった。数ヵ月後、最愛の親友とともに彼女は僕を救ってこの世か ら姿を消した。死んだ、と言い換えてもいい。
 妻は少し歩きにくそうにしていて、そのために僕は気を逸らせる二匹の犬を落ち着かせなければならなかった。彼女は片手に昼食の入ったバスケットを持ち、 もう片方で時折強く吹く風に頭の上のつば広の帽子を押さえたりして、そうでない時にはへその下に何となくあてがっていた。彼女の膝の下までたっぷりあるワ ン ピースの裾が風で膨らんだりするのがとても可愛らしいと僕は思った。
 やがて目の前に太陽の光に輝く一面の緑の芝生が開けると、腕の先の二匹は一刻も早く飛び出して行きたいとばかりに興奮してその場で飛び跳ねたりし始め た。二匹とも優秀 な牧羊犬の血を引いていてとても力が強い。そろそろ繋ぎ止めておくのも難しくなってきたので、ちょうどよさそうな場所まで来ると二匹を放してやった。喜び 勇んで一目散に駆けて行く彼らを見て、妻は楽しそうに笑いながら腰を下ろしてバスケットを脇に置いた。芝生の上をはしゃぎ回る二匹に注がれる彼女の眼差し はとても優しいものだった。もともとこの二匹の犬は結婚する前から僕が飼っているのだけど、一番最初に勝手に名前をつけたのは彼女だった。悪戯好きのお兄 ちゃんがゴットフリート。甘えたな弟がエドアルト。何度訂正しようとしても彼女が呼び方を改めないので、根負けして僕も命名権を譲ることを認めてしまっ た。活発な彼らと遊ぶのも本来の飼い主である僕を差し置いて彼女のほうが得意だ。でも今の彼女にはそれがで きない理由があるので、大人しく芝生に腰を下ろしている。妻は前身ごろのゆったりとしたワンピースの下に大きく膨らんだお腹を抱えていた。あとひと月くら いで産 まれるだろう僕たちの子どもがその中で育っている。綾波レイの言葉のうちひとつは、もうすぐ実現しようとしていた。あの日どうしようもなく遠いと感じてい た場所へ、僕は到達しようとしていた。妻は日に日に美しくなっていき、不思議と優しくなっていくようだった。犬たちは彼女の変化に対しておっかなびっくり の好奇心とともに気遣いをするような素振りを見せた。いずれここに僕たちの子どもが加われば、なかなか素敵な家族になれるんじゃないかと僕は思っていた。
 遊び相手の僕を待っている二匹のために、そろそろ行かなくてはならなかった。振り返って僕が妻を見ると、妻も眩しそうにこちらを見上げた。帽子のつばが 作る影の中で細めら れた彼女の瞳の奥底に、眠るみどり児の姿が見えた。家の中の子どもの姿がそこにはあった。いい親でありたいとか、あるいはいい子どもでなければとかいう願 いとは また別に、僕たち家族は家族であるというだけの理由で許されるのだ。温かなぬくもりの中で守られることを許されるのだ。それを求めることを許されるのだ。 かつて先生や父さんや、また僕自身 も分からなかったことが、今の僕には知ることができた。親になるという人生を失ったことに苦しんでいた先生や、たくさんの罪を犯すために親であることを捨 てた父さんや、彼らの期待に応えることができない悪い子どもだった僕が分からなかったことを、知ることができた。妻の瞳の中に僕はそれを見出していた。 きっと産まれてくる子どもの瞳にもまた、僕は同じものを見出 すだろう。綾波レイがどうしてそれを知ることができたのか、僕は今とても訊ねてみたい。
 ゴットフリートとエドアルトが待ち切れないように僕を呼んでいた。盛んに尾を振ってこちらを見ている彼らに合図を送ってから、駆け出して行く前に妻 の正面に跪いた。顔を近づけると彼女はくすぐったそうにしてくすくす笑った。僕は初めに妻の柔らかな唇へ、次に膨らんだお腹へ口づけを落とした。僕の耳の 後ろを彼女の細い 指先がそっと撫でた。こちらを呼ぶ犬たちの吠え声が青く澄み渡る空にどこまでも高く吸い込まれていった。










you are not alone.


















あとがき

まず初めにここまでお読み下さった読者の方と、掲載下さったこめどころ様・霧島愛様へ感謝申し上げます。

きっとこのお話を読んでくださった方の中には、LASではないじゃないかとお怒りの方もいらっしゃるかもしれません。ごめんなさい。でもたまには恋愛とか カップリングとかなくてもいいのではないでしょうか。と主張してみたり。
なぜミノタウロスなのか分からなかった方は調べてみるといいかもしれません。
タイトルにはそれなりに意味があるはずだったのですが充分活かしきれませんでした。「わたくしあめ」と読みます。
シンジが預けられていたのが「先生」なのか「おじさん」なのか、記憶が不確かです。そもそも本編で言及されたことがありましたっけ。どちらでもいいといえ ばいいのですが、間違っていたらすみません。
犬の名前はケストナー『飛ぶ教室』に出てくる蝶と子牛の名前です。
最近エヴァの二十話か二十一話かそこらへんを何となく観ました。もうどうしようもないな、と改めて思いました。あとすごく目がちかちかして大変でした。あ れは表現としては現在でも大丈夫なんでしょうか。
あとはそうですね、萩尾望都はすごい、とか。作家の森博嗣は熱烈な萩尾望都ファンらしいですが、その熱意を奥様に主張すると「じゃあなんで萩尾望都と結婚 しなかったの」と返されたそうです。身も蓋もなさがハンパないですね。ちなみに出典は萩尾望都の作品に付けられた解説だったような気がします。

さて。
このお話は「アスカの旗の下に2nd Flag」が開設されてから、投稿としては初のものとなっている可能性があります。違うかもしれませんけど。こめどころ様のほうからは快諾を頂いていたの ですが、なんだかこんな内容でお茶を濁した結果になったとしたら大変に申し訳なく思います。アスカの旗の下ってアスカいないじゃん、とか。けれど投稿規程 ではジャンル問わずとなっているので、これでいいのだと開き直ることにします。ノーカップリングです。
それはさておき、このように新しいサイトも開設されたことですし、私も多くの方々同様こめどころ様の新たな作品を期待してお待ち申し上げることに致しま す。管理人の霧島愛様ともども大変だとはお察ししますが、頑張って下さいませ。

では取りとめもないあとがきはこのあたりに。
改めてお読み下さった方へ。ありがとうございました。

rinker/リンカ


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