2004年 2月14日
1人の白髪の男が怒りに顔を紅潮させながら、スポーツ新聞に見入っていた。
「バービーがケンと破局」
バービー人形が公認の恋人であるケン人形と別れたという記事である。商業戦略上別れさせられたとの分析が一緒に掲載されていた。
「人形の製造元が商売のために人形の幸せを・・・」
手がブルブル震え出し、やがて新聞をまっぷたつに引き裂いた。
「戦わねば・・・今まで以上に仕事に打ち込み、人形に命があることを世に伝えねば・・・」
そこには己の天命を改めて心に刻み込んだ1人の男がいた。
2015年
ここ3週間ですっかりおなじみとなった登校風景が今日も繰り広げられていた。
「バカシンジ! なんで学習しないのよおっ!」
「別に夜更かししてるわけじゃないんだよ・・・」
レイを車椅子に乗せ、その前後を爆走しながら会話するアスカとシンジ。
「だったらなんで、いっつもアタシが行くまでに起きてないわけ!? こっちが朝御飯食べて、服着替えて、家を出て、迎えに行ってからあんたがようやく起き出すんじゃ、ぎりぎりになるの当たり前じゃないのっ!」
「起こす前に起きてたらもっと機嫌が悪くなる癖に・・・」
車椅子がバウンドし、レイの頭部が「そうだ、そうだ」と言うように前後に揺れる。
「何よ、レイ!」
「アアア、アスカ〜」
ここ3週間でアスカはずいぶんと変わってしまった。なんだかゲンドウにやたら似てきたような気がする。シンジはアスカの父がショックを受けるのではないかと心配したが、何日か前言葉を交わしたところ、アスカがレイを人間扱いしていることにそれほど違和感を覚えてないことが分かって、却って驚かされた。
(ひょっとしたら、おかしいのは僕のほうなの?)
そのような想念に襲われて、シンジは慌てて頭を振った。
(でも、毎朝のように綾波が夢に出て来るんだよなあ・・・)
今朝の夢では綾波が雑巾を絞っていた。
(なんか・・・似合ってたよな、あの絞り方・・・なつかしいような・・・)
「シンジ、そろそろ坂よ!」
「えっ? もう!? あ、あわわわわ、アスカ、今日は止めようよ〜」
「何言ってんの! ここで躊躇してたら遅刻よ! アタシまでアンタの巻き添えにする気!?」
「う・・・」
アスカがレイの膝の上に飛び乗った。レイの上体が前後に揺れ、その額がアスカの後頭部を一撃する。
「痛た! 断らなかったのは悪かったわよ・・・シンジ、飛ばして!」
「・・・分かったよ」
ここで断ったら後でどんな目に遭わされるか・・・シンジはいつもどおりスパートをかけることにした。近づいてくる坂道。この3週間でベストタイミングは身についている。その坂道に車椅子が突っ込む刹那、シンジは利き足で地面を蹴り、最後の運動量を加算しつつ、車椅子の背中に跳び乗った。
「ひゃあっほおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」
それを校庭で待ちかまえている男がひとり。
「来たか、『赤い彗星』・・・」
言わずとしれた、理想に燃える風紀の鬼、学内秩序の番人を自負する熱血青年教師、時田シロウその人である。彼の胸中に去来するのは、この3週間繰り返しなめさせられた辛酸。
「赤い彗星」の正面に立ちはだかり、はねとばされる自分。
「赤い彗星」をマットで受けとめようとし、そのまま轢き潰される自分。
ネットを張って待ちかまえ、ネットを突き破った「赤い彗星」に吹き飛ばされる自分。
エトセトラ、エトセトラ・・・
だが、屈辱の歴史も今日で終わる。彼は手首にはめた腕時計型のコントローラーをなで、ほくそ笑んだ。
「君の天下はもうすぐ終わりだ。今日こそ現行犯逮捕してやる」
「『赤い彗星』よおおおっ!! どきなさーーーーーーーーーーいっ!!」
慌てて左右に跳び退く生徒たちの真ん中を突っ切って、校庭に突入する「赤い彗星」。
その進路に真っ正面から立ちはだかる時田シロウ。
「ああっ、時田先生! アスカ! よけて!!」
シンジが風圧に耐え、なんとか眼を開けた時、時田の姿は後十数メートルに迫っていた。
「もう遅いわ! アタシの行く手を阻んだのが悪いのよ! 時田! 今日が命日になっても、化けて出るんじゃないわよ!!」
もはや、2人の目と鼻の先にまで迫った時田の姿。
「うわあああっ! アスカ! やめてええええっ!」
シンジの絶叫。しかし、それを貫く時田の、「腕時計」へのささやき。
「いでよ、JA」
その瞬間、時田の足元の地面が突き破られ、鉄の塊が飛び出してきて時田とアスカの間の壁となった。
「「もぐら!?」」
がきぃいいいいいいいいいいいいいいいん!!
金属と金属がぶつかるような音がして、「赤い彗星」は減速するという過程を経ず、その場に停止させられた。車椅子を押さえつけているのは、不格好な一台のロボット。
「ふはははははは! どうだ『赤い彗星』! 校長が人形を目こぼししたついでで有耶無耶になってしまったが、わたしはごまかされんぞ! お前たちが校庭に突っ込んでくるなら、その度に力ずくにでも止めてみせる!」
勝利を確信し、高笑いする時田。彼の手には校則違反切符が握られていた。
ホームルーム前のわずかな一時、そして一時間目の授業後の休み時間、教室でアスカは荒れ狂った。
「まったくもうあの時田と来たら!」
「今日はどう考えても僕らが悪いよ、アスカ・・・」
違反切符を切られ猛烈に不機嫌なアスカとそれをなだめるシンジ。ちなみにレイは今、学校でのお仕事中である。
「素晴らしい・・・この3週間の間、毎日のように眺めているが全然飽きが来ない・・・」
高橋校長は校長室で、革製の椅子に深々と腰掛けため息を付いた。その視線の先には不世出の天才冬月コウゾウの弟子、青葉シゲル作のマネキン、綾波レイがいた。
「まだ若い弟子と聞いたが、実に才能豊かだ・・・ミステリアスビューティーというのか、幽玄の美というのか・・・この世ならぬ美しさを感じる・・・将来が楽しみだ・・・」
その頃教頭室では、
「えーい、校長はこのところいったいどうしたんだ! 仕事にならーーーーん!!」
教頭がたまった書類に代理でサインする作業に忙殺されていた。書類のにらみすぎで充血した目を強引に見開き、わめき散らしながら教頭はサインを続けている。
「このところ校長室に籠もりっきりだ。様子を見に行かせたところ、呆けたような表情で人形を眺めていたというが、もしや人形に魂でも吸い取られたのか!?」
「教頭!」
どこからともなく聞き覚えのある声が聞こえてきた。拡声器越しのようだが、確かにこの学校の教師の声だ。
「なんですか、時田先生!? はた迷惑な音響を立てて!?」
教頭はきょろきょろ周りを見回して、時田の姿を探す。
「私に一任して下されば、問題は全て処理してご覧に入れます! あの目障りな人形とともに!」
どうやら窓枠やら、壁の中の鉄筋やらを共鳴させて、声を作っているらしい。部屋全体が発声器になったような感じである。教頭は聞いているうちに音圧で頭がぼんやりしてきた。
「ほ、本当ですか? なら、お任せます。ぜひやって下さい!」
「お引き受けしました!」
ふははははははは、という高笑いが遠ざかっていく。だんだん圧迫が去っていくにつれ、冷静さが戻ってくる。つい委任してしまったものの果たしてこれでよかったのか、悩む教頭であった。
「あれ・・・地震かしら」
ヒカリは校舎が揺れるのを感じた。関東は地震の多いところなので、別に気にするほどの揺れではない。
「いいえ、違うわ」
押し殺したようなアスカの声が聞こえてきた。アスカのいる窓から見下ろすことのできる校舎の外壁が破壊されていた。校長室の壁である。
「今、レイがいるところね・・・あれだけの破壊力は発揮できるものがレイの居場所を襲う・・・考えられるケースはたった一つ! シンジ、行くわよ!」
「え? どこへ?」
バシッ!
「惚けたことぬかしてないで、ついてくりゃいいの!」
「な、な、な、何だ君は!」
「校長! たとえあなたが許しても、校則違反は天が許しません! 学校の秩序を守る風紀の鬼! 時田シロウ、ただいま見参!」
白衣を翻した時田が、壁にできた穴から校長室に入ってきた。その後ろには、今朝「赤い彗星」を停めたロボット、JAが付き従っている。
「き、君、学校の設備を破壊して、ただですむと・・・」
「ものはまた直せばいい! だが、失われた秩序と無駄にされた時間はとりもどせません! 強攻策を採らせていただきます! JA、あの人形を始末しろ!」
時田が命令を叫ぶと、それを待っていたかのように、何の躊躇もなくJAはレイに接近した。
「ま、待ちなさい、時田先生! こんな芸術品を始末するとは何ごとかね!」
高橋校長は必死になって、レイを背にし、JAに立ちはだかる。
「芸術品だろうがなんだろうが、学業に関係のないものを学校に持ってきては行けません! 美に溺れたあなたの怠慢のおかげで、教頭もこまっているんですよ!」
「う・・・それは・・・」
「身に覚えがあるでしょう」
「わ、分かった、真面目に仕事をするし、勤務時間中はここにはおかない。彼女は持ち主の手許に返すから」
「持ち主は生徒でしょう! 校長の手を離れるということは、生活指導主任である私が処理してもいいということですね! それでは私が預からせていただきます!」
「ま、待ちたまえ」
「どいてください!」
時田の声に応じてJAが校長の肩に手を掛けたのと同時に、校長室のドアが開いた。
「失礼します!」
アスカが、シンジを従えて校長室に飛び込んできた。そして室内の様子を見回し、因縁浅からぬロボットが校長に手を掛けているのを見て、激昂した。
「時田! 校長先生に何やってんのよ、アンタ!」
「先生に向かってその言葉遣いは何だ、惣流」
時田はアスカの激怒に冷淡に応じる。
「ここまでのことをしといて、まだ先生面する気!? そっちがそうくるなら、こっちも実力で阻止するわ」
アスカは身構えると、レイの体をさらうためにダッシュした。
「甘いわ!」
時田はJAに命じた。
「校長を武器にしろ!」
「え?」
と思う間もあらばこそ、JAは校長を両手で掴み上げ、アスカに投げ飛ばした。
「きゃっ」
「うおっ」
恰幅のいい中年男性が弾丸となってアスカを襲う。アスカはたまらず、その下敷きになった。
「そ、惣流、すまん。時田先生! 生徒に危害を加えるとは何という・・・」
だが、時田は聞いていなかった。
「さあ、今のうちに人形を始末するのだ、JA!」
時田の忠実な僕は再度レイに襲いかかる。アスカは叫ぶ。
「レイ!」
「止めて下さい、時田先生!」
シンジがレイとJAの間に飛び込んできた。
「誰が止めるか、校則違反者! 今日という今日は勘弁ならん!」
「いやあっ、シンジまで! やめてええええっ!」
アスカは叫び、目を覆った。
がきぃいいいいいいいいいいいいいいいん!!
金属音が響き、静寂が支配する。
「な、なんだ、これは・・・」
時田の呆然とした声が、その静寂をうち破った。アスカは恐る恐る、両手を目の前から下げる。
「・・・何、あれ」
シンジとレイに襲いかかるJA。だが、シンジとレイの周囲を赤く光る壁が覆い、1人と1体を守っていた。JAは何とかレイとシンジを掴もうとその壁に手を突き入れているが、そこに8角形の波紋が生じて阻んでいる。JAの出力が限界に近づいているのは、その背中の気筒から激しく蒸気が上がっていることから分かる。
「何、これ・・・」
シンジもその光る壁に守られながら、呆然としていた。
「アンタ、いつの間にそんな技を身につけたの?」
「僕じゃないよ・・・多分・・・」
シンジは後ろを振り返る。
「・・・まさか・・・・・・あの子?」
アスカとシンジの視線の先にはレイがいた。その目はまっすぐJAに向いている。
「入魂の作には、不思議な力が宿るというが・・・」
高橋校長だけが感慨深げだった。
時田は目の前の現象の正体を必死に考察していた。
(そう言えば、あの金属音は今朝も鳴った。あの時は見過ごしていたが、車椅子を力ずくで止めたからってそんな音が鳴るはずがないんだ。そしてまったく減速なしに止まったにもかかわらず、乗っていた惣流と碇にはダメージ0・・・そんな物理法則を無視した代物なんて・・・) 「ジェ、JA、近づくな。一旦、はなれ・・・」
時田がそう命じた瞬間、光る壁が大きく膨らみ、JAを包み込んだ。
「な!? JA!?」
「うわっ」
「きゃっ」
「な、なんだ」
一際明るい光が部屋一杯に広がった。
「・・・何が起こったの?」
ようやく視力が戻ったアスカはレイとシンジの安否を確かめた。レイは先ほどのまま、そしてシンジはすぐ前で光の爆発を目にしたせいか、いまだに呆けていた。もっとも、アスカ以外の人間全員が、呆けたままだったが。JAは静止して直立しているが、それまで呆けているように見える。
「・・・もう、壁はないみたいね」
おずおずとシンジに近づくアスカ。なんなくその隣に立つことができた。
「よかった、無事ね・・・こら!」
「うわぁ、ごめん!」
条件反射で頭を覆い、首をすくめるシンジ。
「あ、あれ・・・」
「さ、面倒なのが目を覚ます前に行きましょ」
「う、うん」
シンジはレイを抱え、アスカに従って校長室を出ようとする。その時、JAの気筒からプシューと蒸気が上がった。
「「え?」」
シンジとアスカが振り返ると、JAが再度起動し、2人に突進してきた。
「わ」「きゃ」
そしてJAは、レイを抱えたシンジを抱え上げると、そのままUターンし、壁に開けた大穴から校庭に駆け出していった。
「ひえええええーっ! アスカーッ! 助けてーっ!」
「あああーっ! シンジがーっ! 時田! どうなってんのよーっ!」
「え?」
「寝ぼけるな、このっ!」
アスカは時田の胸ぐらを掴んで揺さぶる。
「ぼさっとしてんじゃないわよ! あのロボットを止めなさい!」
「・・・どうなっているのか、私にも分からん。勝手に動くようには作ってないんだ」
「現にああやって動いてるじゃないの!」
JAはどんどん遠ざかっていく。
「時田先生。議論は後にして追いましょう」
校長が机から車のキーを取り出した。
自動車並のスピードで疾走するJA、そしてその後を負う校長の車。運転しているのは高橋校長。助手席に時田。後ろから身を乗り出しているのがアスカ。
「停止信号は何度も送っているんですが、反応がありません」
「そういうことが起きた場合、考えられる原因は何なの?」
「・・・分からない。何も考えつかない」
「アンタが作ったんでしょ! 最後まで責任持ちなさいよ!」
「あの光の壁のせいかもしれん・・・あんなもの、今の科学では解明できまい・・・」
時田は科学の無力さを噛みしめていた。
「どこまで行くんだ」
校長がぼやいた。
「あら、ここは・・・」
アスカは町並みに見覚えがあった。
「さっき光の壁のせいかも、って言ったわよね・・・で、あの壁はレイが作った・・・だとしたら、まだ確かなことは言えないけど、JAの行きたいところは、この近くかもしれないわ・・・」
(あの人形、まさか・・・) イヤな予感を覚える時田。 「惣流、それは・・・」
校長が聞いてきた。
「シンジと一緒にシンジのお父さんに連れられて、先週一度来たんです。ほら、そこ・・・レイの生まれたところ、冬月コウゾウさんの工房に・・・」
JAは大型ガレージを改装した、工房の作業場前で停止した。
(やはりか・・・)
「ここが冬月コウゾウ氏の・・・」
校長は感動している。
「仕事場を人に知られるのを嫌っているから、知る人ぞ知ると言われているが・・・」
「ふん・・・」
時田が不機嫌そうに鼻を鳴らした。
彼らが自動車から降りた時、ガレージが開いて、中から青葉シゲルが顔を出した。
「あれ、シンジくんにレイ。どうしたんだ、そんなのに抱きかかえられて」
「そんなの」という言葉を聞き、時田の眉が跳ね上がる。
「・・・色々事情がありまして・・・・・・」
シンジはそう答えたが、シゲルはレイの目をのぞき込んだ。表情がかすかに険しくなる。
「・・・レイのことを気に入らない人がいるみたいだな」
そう言ってシゲルは時田を睨み付けた。
「・・・僕がはっきりしなかったから悪いんです」
人形は学校に持っていかないと父に言っていれば、こんなことにはならなかったはずだ。
「碇くんは悪くないって、言ってるよ」
「・・・誰が?」
「レイに決まってるじゃないか」
そう言いながらシゲルは、JAの腕の中からシンジを助け下ろした。
「ちょっとレイを貸してもらえるかな」
シゲルはシンジからレイを受け取り、全身に目を走らせた。安心したような顔になるが、それは一瞬。再び厳しい顔になると、時田のほうに向き直った。
「どういうことか、説明していただけますか」
ガレージの中で、時田とシゲルは椅子に掛けて向かい合っていた。来客用のテーブルにおかれたお茶は、手をつけられないまま冷めていた。同じテーブルに着いているアスカ、シンジ、校長は2人の言葉による対決にまったく介入できなかった。
「というわけで、学校としては人形の登校など、認めるわけにはいきません」
文句あるか、と言わんばかりの時田。校長はもの言いたげだが、時田に迫力負けしてしまっている。
「なるほど・・・あなたの言い分は分かりました」 シゲルは宙を見つめていた目を時田に戻した。 「しかし、彼女も生きているし、心だってあるんですよ」
「そんなのは単なる感情移入です」
「作った人間や接する人間の思いが人形にも宿る」
そう言ってシゲルはいまだガレージ前にたたずむJAに目をやった。
「あなただって、あのロボットを『そんなの』呼ばわりされた時、不愉快そうだったではありませんか」
「・・・あれは作ったものをくさされたように感じたからであって、別に私の思いが宿っているわけではないでしょう」
「しかし、それだけの思い入れがあるから、くさされたように感じると腹が立ったのでは?」
「そりゃそうですけど、思い入れが単なる物品をそれ以上のものにするなんて考えられません」
時田はこれ以上の対話は無意味だというように立ち上がった。
「あなたがどう人形に入れ込もうと勝手ですが、それに付き合わされた方は・・・」
「おいどうしたんだ、青葉くん。お客さんかい?」
ガレージ奥のドアが開き、1人の男性が顔を出した。後ろで束ねた長髪に無精ひげ。青葉シゲルの兄弟子にあたる職人、加持リョウジである。
「あ、加持さん。いえ、こちら、シンジくんの学校の先生ですが、レイが学校に来るのに反対してらっしゃるので・・・」
シゲルが手の平で時田を紹介する。時田に目を向けた加持の表情が驚きに固まった。この男には珍しいことである。
「若!・・・」
時田は苦々しげな顔になっていた。
「加持・・・戻ってきていたのか・・・」
そこにドアから3人目の男が姿を顕わした。
「リョウジが『若』などと言っているから誰かと思ったら・・・」
長身に白髪。理知的な面もち。彼が顔を出した瞬間、高橋校長は跳ね上がるようにして椅子から立ち上がっていた。ごく稀にだが美術雑誌の特集に現れる顔がそこにあった。
「ふ、冬月コウゾウ・・・生きる伝説がここに・・・」
だが、不世出の天才といわれる男の関心は今、自分の礼賛者にではなく、むしろ自分を敵でも見るような眼で睨み付けてきている男に向かっていた。
「久しぶりだな、シロウ」
「・・・あんたにシロウなどと、呼び捨てにされる筋合いはない」
吐き捨てるように時田は言った。
「あんたとはとっくに縁を切ったんだ。今さら息子呼ばわりされたくないね」
そう言って時田は出ていこうとした。
「行くぞ、JA」
だが、彼はそれ以上進むことができなかった。JAが時田の白衣の裾を引っ張っていたからである。
「・・・なぜだ? なぜ私に逆らう!?」
愕然としてJAを見つめる時田。
「あなたのロボットは、あなたに先生と和解してもらいたいようです」
レイを横目で見ながらシゲルが言った。見上げたものといおうか、相手が師匠の息子と分かっても、まったく態度を変えない。
「バカな。こいつには命令を理解して、動くための人工知能しか与えてないんだぞ」
錯乱気味になる時田。
「だが、ここまで来たのも、いまそうしているのも、あなたのロボットに自分の意志がある証明ではありませんか」
シゲルはJAに歩み寄る。
「あなただって、自分の行動が脳髄の電気的な反応によるもので、心なんて存在する必要がないなんていわれたら、イヤだし、悲しいでしょう」
そう言ってシゲルはJAに手を添えた。
「彼だって生きてるんですよ」
時田はシゲルと加持に付き添われ、冬月と一緒に工房の奥に入っていった。JAも後についていった。その後親子が何を話し合ったのか、アスカもシンジもだいぶ後になるまで知らなかった。この時聞かされていても、理解しきることはできなかったろう。それはアスカがいくら頭が良くても同じことである。だがこの時子供たちにも分かったことは、少なくとも3つあった。それは再び出てきた時田が
「要するに、自分の企図してた以上のものを作り上げたわけで、やっぱり私は天才だ」
と言いながら、JAを見る眼がそれまで変わっていたこと、そして父親を見る眼も少しだけ違ったものになっていたこと、そしてコウゾウと時田の頬に同じように赤いあざが出来ていたことであった。
「若、できましたら、冬月家に・・・」
加持は真剣な顔で時田に迫る。
「・・・母方の姓を名乗るようになって長い。それなりの義理もあるし、この名前でずっと通してきた。今さら無理だ」
答えの内容は拒絶だが、その目は冬月に向かっていた。
「急でなくてもいい。少しずつ分かり合っていけば・・・」
冬月が独り言のように呟いた。目と目を見交わす親子。そしてお互い照れたように目をそらした。
「ああ、シンジくん。お父さんがちょうどこちらに見える頃だ。ついでに家なり学校なり乗せていってもらったらいいんじゃないかな」
思い出したようにシゲルがシンジに言った。
「え? 父さんが・・・」
「そう。今日はミサトさんのメンテナンスだな」
ちょうどその時、ガレージ前に車が一台停車した。噂をすれば影。ゲンドウの車である。
「おう、葛城か。久しぶりだな・・・」
そう言いながらゲンドウの車に向かう加持。その時、奥のドアが乱暴に開かれ、4人目の男が飛び出してきた。
「加持さん! 抜け駆けは卑怯ですよ!」
眼鏡にオールバックの若い男性。加持の弟弟子でシゲルの同輩、日向マコトであった。
「あいつのフォルムを担当したのは俺だぜ。女らしい曲線に仕上げるのにどれだけ苦労したか」
「でもその後のメンテナンスは、加持さんが工房を離れて放浪している間、僕がやってたんですよ!」
「新しい男ができたら昔の男はきれいさっぱり忘れて、って女じゃないさ、葛城は」
「たとえ葛城さんがそういう人でなくても、浮気まで許容しますかね・・・」
「おいおい、根も葉もないこといわないでくれよ」
「加持さんがドイツに行った時に、現地で見つけたアンティークドールにどれだけ入れあげたか、教えてくれる知り合いがいましてね・・・」
「・・・何を引き替えにしたら黙っててくれる?」
「今日のメンテ」
「手を打とう。だが、あいつを脱がせるのは俺の仕事だ」
「あーっ! それじゃ、意味なーい!」
シンジはこのやり取りに大いに呆れ、アスカは一言「スケベ」と呟いた。
「シンジ、乗るなら早くしろ。でなければ帰れ」
ゲンドウが自分に自動車に乗るよう言っているのにシンジは気付いた。
「あ、ゴメン、父さん。アスカ、行こう」
シゲルからレイを受け取りながら、シンジはアスカに声をかけた。
「そうね。じゃ、失礼します。校長先生、時田・・・先生」
「あ、ああ・・・もう、なにがなんやら」
校長の髪はすでにボサボサになっている。
「なんだ、シンジ。お前の学校の先生も見えているのか。そういうことはちゃんと言え」
そう言ってゲンドウは校長と時田の方に向かった。
「愚息がいつもお世話になっております。碇シンジの父のゲンドウです」
「い、いえ、よくできた息子さんで・・・」
突然ヒゲにグラサンの男に挨拶され、迫力負けしないよう頑張る校長。
「・・・ええ」
さきほどまで自分がシンジにしようとしていたことを考え、言葉少なにそう言っておく時田。
挨拶をすませるとゲンドウは冬月のところに行った。
「それでは先生。葛城くんを頼みます。ところで、今日はまた変わった人形がありますな」
ゲンドウはJAに目を向けた。
「先生ご自身の作ではありますまい。センスの根底に何かのつながりは感じますが、方向は全然違いますね」
冬月が感心したような声になった。
「つながりと仰るか・・・息子の作です」
「息子さん・・・すると・・・」
ゲンドウも事情を知らないではない。
「これがかつて、私のいたらなさのために失った息子です」
冬月は時田をゲンドウに紹介した。
「・・・姓は違いますが、冬月コウゾウの息子、時田シロウです。そしてこれが私の作ったJAです。JA、ご挨拶しなさい」
JAがゲンドウに向かってお辞儀した。
「ほう・・・からくり人形ですか」
「似たようなもんですね。ロボットです」
「ロボット・・・ははあ、気筒が付いてますな。動力は何で・・・」
「原子力! と言いたいところですが、安全面で問題がありますので、人間の食べ物を・・・」
「え?」
ゲンドウの顔色がわずかに変わった。
「人間が食べるものからエネルギーを取り出して動くようにしました。わざわざ燃料を買う必要がなくなりました」
その分「食費」がかかることは時田にとって問題ではないらしい。
「すると、このJAというロボットには消化器が・・・」
「ええ。厳密にいえば違いますが、そういう役割を果たすものが付いています」
「時田先生!」
ゲンドウは時田の両肩を掴んだ。
「痛たた! なんですか、碇さん!」
「お願いです! どうか、うちのマネキンにも胃と腸を作っていただきたい!」
「ちょ、ちょっと、父さん、うちのどこにそんなこと頼めるお金が・・・」
シンジが慌てて駆け寄る。腕の中のレイは横抱きに近い姿勢のため、目を閉じている。
「私の店だ。お前は黙ってろ」
「いずれ僕が継ぐんだよ!」
そしてアスカと一緒に店をやるんだ、という言葉は胸に秘めておく。だが、若干腕が動いて、レイが幾分上体を起こした姿勢になった。半目を開いた表情になる。その視線はシンジの横顔にあっており、シンジを睨み付けているように見えた。
「今から親の遺産を当てにしていてどうする。そんなことより」
再びゲンドウは時田に向き直った。
「何卒やってもらいたい! うちのマネキンたちにも自分でものを食べる喜びを味わってほしいのだ!」
揺さぶられながら時田は
(これだけ強い思いがあるのなら、それに応えて人の作った物に心が宿るってことも、あるかもな・・・)
時田は、理由不明ながらJAが自分を思う心を宿していることに、今さらながら喜びを感じた。 「分かりました、碇さん。どんなものになるかはまだ分かりませんが、きっとご期待にはお応えしましょう!」
「違う道を歩んでいても、息子はいつの間にか父親の前を歩いているものだな」
冬月は満足げに微笑んでいた。