新世紀ピグマリオン別伝

   ガラテア デビューする


無名の人 さん



 「送ってくださってありがとうございました」
 シンジはアスカの父に、車で「婦人服の碇」まで送ってくれたことに礼を述べた。送ると言っても、惣流家は「婦人服の碇」とは店の倉庫と反対側の隣だったが、親切は親切である。
 「あ、待って、パパ、アタシも降りるわ。先に帰ってて」
 「おい、アスカ、お前は病院から戻ったばかりなんだぞ」
 「大丈夫よ。お医者さんだって、なんにも異常はありません、て言ってたんだし」
 アスカは奇跡的に外傷も、内出血も、脳の異常も一切なかったため、そのまま帰宅を許されていた。だがそれでも心配なのが親というもの。
 「しかしだな・・・」
 「何かあってもお隣なんだし、すぐ対処してくれるわよ。家まではシンジに送ってもらうから。それならいいでしょ」
 「分かったよ。でもなるべく早く帰って来るんだぞ。シンジくん、アスカを頼むよ」
 そう言ってアスカの父は、車を自宅のガレージに走らせた。
 「まったく心配性なんだから」
 妻を亡くして以来、アスカの父は娘を目に入れても痛くないほど可愛がっていた。亡き妻にだんだん似てくる娘を見るのが何より楽しみだと漏らすこともある。その分、アスカに関することでは心配性だった。
 「あんなことの後じゃ無理ないよ」
 折り畳み車椅子を広げながら、シンジはアスカの言葉を聞きとがめて言った。
 「僕だって、級長達だって、みんな心配したんだから」
 「そうだったわね。さっきみたいなこと言っちゃいけないわよね」
 そう言いながら、アスカは店内に入った。

 「お邪魔します」
 「ただいま」
 「シンジ、店から帰ってくるなと、いつも言ってるだろう。アスカくんを連れてくる時もだ」
 新しく入荷したティーンズ向けのワンピースを箱から取り出しながら、ゲンドウはシンジを軽く叱った。
 「ごめんなさい、おじさま」
 「アスカくんに言っているのではないよ。シンジがあんまり気が利かんものだから」
 「ゴメン、父さん」
 「まあ、今ちょうどお客様もおいででないし、今日のところはこれで赦そう。さあシンジ、早く着替えてこい。店を手伝え」
 「うん、分かった」
 「それからレイにも着替えさせろ。レイにも、学校が終わったら店を手伝ってもらうからな」
 「手伝わせるって、レイがマネキンだってこと忘れたの?」
 「お前こそ何を言ってる。マネキンだからこそ服屋での仕事があるのではないか」
 そう言ってゲンドウは、手に持っていたワンピースをヒラヒラさせた。
 「あ」
 シンジはようやく納得した。
 「ダメよ、ダメよ、絶対ダメーッ!」
 「な、何かねアスカくん」
 予測していなかった声の直撃を食らい、ゲンドウは目を白黒させた。
 「何かねって、おじさま、女の子の着替えをシンジにさせる気ィ!?」
 「いいではないか。未来の妻なのだし、服屋の嫁としてそういうことにも慣れておかねば」
 そうか?
 「絶対ダメですーっ!!」
 今日の騒動の中で自分の気持ちを自覚したアスカとしては、シンジが恋敵の服を脱がせるなど、絶対に認められない。いっぽう今日の事件でようやくアスカの本心に気付いたシンジも、アスカがなぜ自分がレイを着替えさせるのに難色を示しているか、理解していた。
 「あ、あの、アスカ・・・」
 「ダメ、ダメ、ダメ! シンジがレイの裸を見るなんて絶対ダメ、ダメ、ダメ!」
 「別にそこまで焼き餅焼かなくてもいいじゃないか、マネキンなんだし」
 なだめようとしたシンジの言葉に、なぜかアスカは激昂した。
 「マネキンって、アンタ、マネキンだから、ただの人形だって思ってんの〜!? レイはねっ! レイはねっ! 女の子なのよおっ!!」
 「女の子って・・・」
 一瞬シンジはシゲルを思いだした。
 「はんっ! そーんなデリカシーのないヤツに着替えを手伝われちゃ、レイがかわいそうよ! いくらいいなずけでも、そんな役まわり、アンタには百年早いわっ!! もっと男を磨くまで、レイの着替えはアタシが手伝うわ! おじさま、よろしいですねっ!!」
 (男を磨くってどういうことだよ・・・)
 シンジは考え込んだが、ゲンドウは今のアスカの発言に心を打たれるものがあったらしく、うんうんと頷き、
 「ふむ・・・確かにシンジには早すぎたかも知れんな。では、アスカくんに頼もう」
 「ありがとうございます。あ、当然、朝の着替えも朝アタシがシンジを起こすついでに手伝いますから、異存はありませんね?」
 「な、な、なに!!」
 朝の弱いシンジに代わって自分がレイの着替えを手伝う。そんな手に入れたばかりの幸福は、今朝の一度きりで隣家の少女に奪われてしまった。
 「あーら、おじさま、いくらなんでも、息子のいいなずけには・・・ネ」
 アスカはシンジからは見えないように、意味ありげな視線をゲンドウに向ける。
 (この少女・・・見透かしているな・・・・・・)
 ゲンドウは改めてアスカに感心した。
 「・・・異存、ありませんね?」
 「フッ、問題ない」
 そう言った時ゲンドウの心の内にあったのは、喪失感や敗北感ではなく、奇妙なすがすがしさであった。

 「女の子」の着替えを手伝っているアスカよりも、カバンを置き、エプロンをかけるだけのシンジのほうが、早く店に戻ってきた。
 「シンジ、弁当はどうしたのだ?」
 「あ、あれね」
 シンジはニヤリと笑った。
 「見え透いた罠だったね」
 「そう言うところを見ると、回避できた自信があるようだな」
 「目に見える肉は全部排除したよ。肉団子に、ほうれん草に巻いてあったハムだ」 
 「ふむ・・・」
 「あとおむすびに入れてあった肉、あれ二重の罠だったね。豆肉だったろう」
 「見抜いたか」
 「獣肉じゃあないからね。でもレイは嫌がるかもしれない」
 「それで?」
 「だから残したよ。食べられるようだったら晩に出せばいいし。父さん、レイは豆肉は大丈夫なの?」
 「問題ない」
 「なら晩に出すね」
 「うむ。で他の野菜は・・・」
 「え? それはレイに食べさせたけど・・・」
 ゲンドウはニヤリと笑った。
 「シンジ、お前には失望した」
 「!? な、なんで・・・」
 「ハムを巻いていて、肉の油が染みたほうれん草をそのまま食べさせたのか?」
 「あ・・・・」
 「大体、昼まで同じ弁当箱に肉団子を入れていたら、他のものにも多少なりとも肉のにおいが移る。お前がそこに気付き、渡した昼飯代で野菜パンでもレイに買ってやるのを期待していたのだが・・・何のために2千円も渡したと思っているのだ」
 「・・・・・・・・・」
 「まあ、大甘に見て、14歳の者の気遣いとしては上出来だ。豆肉で点を稼いだな。以後もっとレイの声に耳を傾けろ」
 (そんなこと言ったって、人形じゃないか。声なんて・・・)
 そこまで考えてシンジは今朝の夢を思い出した。
 (・・・・・・あれは、昨日のことがショックで見ただけだよ。レイはよく出来てるけど、話しかけてきたりするもんか)
 「分かったよ、父さん」
 口ではそう言っておこう。
 「で、何すりゃいいの?」
 「そうだな」
 ゲンドウは奥に目をやると、シンジの耳元に口をよせ、ささやいた。ヒゲがくすぐったかった。
 「惣流さんの車が見えたので倉庫にキョウコ君を避難させたのだが、慌てていたせいで、彼女に着せてあるカーディガンをリツコ君に着せかけるつもりだったのを忘れていた。取ってきてくれ」
 「うん、分かった」
 シンジが倉庫に入っていくのと入れ違いに、アスカがレイを連れて店に戻ってきた。
 「おじさま。レイって横抱きにすると目を閉じるのね」
 「うむ、ちゃんと眠れるようにな」
 「で、どう? この着せ方で問題ない?」

 その頃シンジは倉庫の中でキョウコと向き合っていた。
 「父さんも、アスカやアスカの父さんと悶着を起こしたくなかったら、こんなもの店に置かなきゃいいのに」
 そう言いながらシンジは、キョウコのカーディガンを脱がせた。念のために申し添えておくと、キョウコはカーディガンの下にもちゃんと服を着ている。
 「失礼します。アスカのお母さん」
 なんとなく気になって、シンジはキョウコに断った。
 なぜゲンドウがキョウコをアスカや惣流氏の目に触れさせないのか。なぜシンジがキョウコをアスカの母と呼ぶのか。それは、キョウコが亡くなったアスカの母、キョウコに生き写しだったからである。
 「父さん、偶然だ、って言い張ってるけど、ホントだろうか。だったら何で同じ名前を付けるんだろう」
 そう言いながらシンジはカーディガンを腕に掛けて、店に戻った。

 「このカーディガンでしょ、父さん」
 「うむ、ご苦労。ところでどうだ、シンジ、アスカくんが手伝ってくれたレイの格好は?」
 「え・・・」
 シンジが目を向けると、なぜか得意げな顔のアスカのとなりに、制服じゃないレイが立っていた。白い肌に映えるレモン色のワンピース。さっきまでゲンドウが持っていたものだ。
 「最近売り出し中のメーカー『ネルフ』の新商品だ。いずれメジャーになると踏んでいる。今のうちに関係を作っておくのも悪くあるまい。またそれぐらいでなければ、レイに着せようとも思わんしな」
 「あ、この前、ミサトさんに着せてあるジャケットを持ってきてくれた、あのメーカー」
 「うむ、あのジャケットも結構評判いいしな」
 「うん。でもああいう機能美だけじゃないんだ、このメーカー」
 「むぅ〜、バカシンジ、女の子がおめかしして出てきてんだから、服だけじゃなく中身も一緒に褒めなさいよ」
 「あ、うん、よく似合ってるよ。商品の良さを引き出してくれてるから、売れ行きがアップしそうだ」
 「他に言うことあんでしょうが!!」
 「他にって・・・」
 「言われなきゃ分かんないわけぇ? アンタバカァ?」
 「シンジ、お前にはまたも失望した」
 「そうよねえ、おじさま。アタシだって失望したわよ」
 「え? え? え?」
 「自力で分かるようになるまで、反省してなさい!」
 そう言うとアスカは、怒ったまま帰っていった。その時、ゲンドウに挨拶した後、
 「レイ、また明日ね」
 と言っていくのを忘れなかった。
 「なに? なんだ? なんなの? なんだったの?」
 「シンジ・・・レイの心の声に耳を傾けるのだ」
 「そんなこと言われても分かんないよっ」

 一人わけが分からないままのシンジを置き去りにして、レイはこの日、店頭デビューを果たした。

 その頃、惣流家では
 「でね、パパ、シンジったら肝心のレイのことはなんにも言わないで服のことばっかり。それでアタシが『中身も一緒に褒めたら』って言ったら、『似合ってるね』って言ったはいいけど、その後、『服の良さを引き出してるから売れ行きアップ間違いなし』ですって。そりゃ、褒めてることにはなるんだろうけどさ、別にレイはシンジにとって職場のファッションモデルでしかないってわけじゃないでしょう。たとえ自分の意志じゃなくても、いいなずけだったら、それなりにレディーに対する礼儀ってもんがあるじゃない? だから『かわいい』とか『きれいだ』もっと相手そのものを讃える褒め言葉っていうのを言うべきでしょ。ね? パパもそう思わない?」
 「あ、ああ、パパもそう・・・思うよ」
 (相手がマネキンじゃなきゃ、なおさらね)
 「でしょ? だからアタシも腹が立っちゃって。このアタシが恋敵と認めた女なんだから、もっとシンジにも良さを分かってほしいのよ。分かった上でアタシを選んでほしいの。それなのに、あのバカシンジ、鈍感なのはいつものことだけど、女の子の気持ちなんて全然分かってないんだから。その前だって、レイの裸に全く意味がないみたいなこと言って・・・」
 (それはごく普通の意見なのではないか、アスカ?・・・)
 「シンジだってホントは分かってると思うのよ。お弁当だって、レイの嫌いなものをよけてるみたいにして、選んで食べさせてあげてたしね・・・それなのに・・・やっぱ、ニブチンなのよね」
 (シンジくん・・・どうか、どうか、おかしな世界に目覚めないで、ニブチンのままでいて、アスカをこっちの世界に生還させてくれ〜)
 心の中でシンジに懇願しつつ、やはりどこか打ち所が悪かったのではないかと悩む惣流氏だった。
 (それとも、このぐらいの年の娘はみなこうなのか・・・・妻が生きていてくれたら・・・・・・・・・)
 
 そのころ「婦人服の碇」の倉庫では、リツコに着せていた上着(なぜか白衣だった)を今度はキョウコに羽織らせに来たシンジが、キョウコの目が光ったような気がして首を傾げていた。

 今日もいつもどおりそれなりにお客が来た。そしてみな、新しいマネキンに目を留め、口々にそのマネキンを褒め、そして親子連れの客は娘に服を試着させた。ワンピースの下に水着を着せておくというアスカの深謀遠慮に、ゲンドウは心から感心した。
 (ふふふ・・・スクール水着か・・・・・・)
 訂正、よこしまな喜びも混じっていた。
 結局、マネキンがスクール水着を着ていることに引く客は若干いたものの、ワンピースは全部で5着売れた。ワンピースの在庫がもう少しでなくなるところである。ついでにネルフがサービスで値段を抑えてくれていたために、思ったより財布にお金が残ったので自分の服を買っていく母親までいた。シンジはホクホク顔だ。

 「さあ、店じまいだ。シンジ、シャッターを下ろせ。ドアに鍵をかけろ。みなの着替えはわたしがやるから、おまえはいい。レイの着替えは、今からアスカくんに来てもらうから席を外していろ。そうだな。飯でも炊いといてくれ。そうそう、ネルフにも明日朝一番に追加を頼まなければな」
 「うん、レイもお疲れさま。今日はごちそうにしなきゃ」
 シンジは上機嫌で台所に向かった。ゲンドウからの電話で碇家に来たアスカが、勝手知ったる他人の家で入ってきた時、シンジは鼻歌を歌いながら米を研いでいた。
 「いいことあったの?」
 「うん、レイがね・・・」
 「レイが?」
 期待に目を輝かせるアスカ。
 「ワンピースを5着も売ってくれたんだ」
 がくっ。
 「だから今日はごちそうだよ。レイも残さないですむよう、弁当の残りの豆肉を使って、なにかこしらえようと思ってるんだ」
 (ま、今はこれでいいか・・・・・・)
 アスカはレイを連れに、店に向かった。
 
 「おじさま。寝る前はもう遅いから、今のうちにパジャマを着せておきましたよ」
 (わたしは男物のワイシャツ一枚という姿が好きなのだが・・・)
 「うむ、問題ない」
 内心の不平を一切表に出さず返答するくらい、ゲンドウにとっては容易いこと。
 「それじゃ、シンジ、また明日ね」
 「食べていかないの?」
 「あんなことがあった後でしょ。今日一日ぐらいはできるだけ心配させないようにしないとね」
 そう言ってアスカは帰っていった。
 「レイが着てるの、僕のパジャマじゃないか」
 シンジは2年生になってから、シャツとトランクスだけで寝るようになっていた。アスカはタンスの肥やしになっていたパジャマを見つけ、レイに着せていたのである。
 「ふむ、鶏冠の生えたペンギンの模様か・・・」
 「ガキっぽいから、だんだん着なくなったけど、綾波には似合ってるよね」
 「ガキっぽいかもしれんが、お前の今着てるTシャツよりはセンスがいいぞ。服屋の息子がそれか? 情けない」
 エプロンの下にシンジが着ているTシャツは、胸に「平常心」との墨書がプリントされていた。
 「・・・こういうのが好きなんだよ」
 
 ともあれシンジは上機嫌で食事を作り、食事し、食事を終えた。ゲンドウはいつも同じテンションなので、今日の夕食の雰囲気が良かったのは、シンジの機嫌に依るところが大きい。ちなみに今日ゲンドウは、倉庫に緊急待避させたキョウコの機嫌を取りながら、食事をしていた。
 
 食器を洗い、宿題を済ませ、風呂に入り、そしてレイを寝室に連れていった。一週間に一度、シゲルが工房に連れ帰って洗浄してくれるとのことなので、普通に過ごしているかぎりは汚れに神経質になる必要はない。
 「今日は、大変だったね。屋上から落ちるは、店に出るはで・・・でも、屋上から落ちたのにどこも汚れてないなんてどういう事だろう? ま、運が良かったんだよね」
 そう言いながらシンジはレイを敷き布団に寝かせ、掛け布団をかけた。もう目は閉じている。
 「おやすみ」
 そう言ってシンジはそっとふすまを閉め、寝室を後にした。働き者の妹を寝かしつけた後のようないい気分だった。

 同じ頃惣流家では、アスカの父がなかなか寝付けないで悩んでいた。
 (うう〜ん、ア、アスカ・・・シンジくんと恋仲なのは認める・・・認めるから、その人形を生きた人間のように扱うのだけは・・・アスカ、隣にいるのは誰だ?・・・レイ・・・アタシの恋敵? バカな、それは人形じゃないか・・・え、なに? そ、そんな・・・アスカ、どうしてお前までそんなカクカクした動きを・・・なんだ、お前の両手と両足に付いているその糸は?・・・わたし? わたしは違うぞ! わ、わたしは・・・・・・こ、こんな、こんな、こんな・・・指が、手が、腕が、顔、顔はどうなってる!? なぜこんなに頬が固いんだ!? な、なんで、手足に糸が・・・みんな・・・どうしたんだ・・・シンジくんも、ゲンドウ君も、今日会ったアスカの友人たちも、操り人形になって・・・誰が操っているんだ? こ、このわたしについている糸も・・・見上げるのが怖い・・・だが、見上げねば・・・・・・う・・・う、うわあああああああああああああっ!!)
 「うう〜ん、うう〜ん」
 悩みは途中から悪夢に移行したらしい。

 レイの寝室のふすまが音も立てず開いた。その必要も無かろうが、侵入者は完全に気配を消している。明かりをつける。ゲンドウである。なぜか、夜中であり、しかも室内なのにサングラスはかけたままである。
 「ふ、明日の朝、アスカくんが来るまでにパジャマに戻しておけばよいのだ」
 ゲンドウの腕には、彼のワイシャツが掛けられていた。
 「レイ、少しだけ起きてくれ」
 そう言うとゲンドウはレイに掛けられた布団を折り、レイを抱き起こした。そしてそのまま、パジャマの第1ボタンに手を掛ける。が、しかし
 「こ、これは・・・」
 第1ボタンと第2ボタンが糸で結ばれていた。おまけにその結び目は、複雑極まりないものだった。
 「迷結び・・・」
 よい結び目には、三つの条件がある。結びやすく、ほどけにくく、解きやすいことである。迷結びはほどけにくい、もしくはほどかれにくいということに特化した結び目で、昔、夫が長旅に出る際、妻は褌の後ろを迷結びにして浮気を防いだという。この結び目にアスカがこめた意味を理解できないゲンドウではない。今まさに、レイの胸元の迷い結びは、ゲンドウに対する貞操帯であった。
 「すると・・・」
 もはやレイを着替えさせる意図の無くなったゲンドウは、純粋な好奇心でパジャマのズボンを探る。
 「やはりな。抜かりはないか・・・」
 レイの腰骨のあたりで、パジャマの上とズボンが糸で結ばれていた。同じく迷結びである。
 「何とか解いたとしても、同じように結び直すのは無理だな・・・ふ・・・レイをいいなずけに選んでなかったら、間違いなく君を選んでいたよ、アスカくん・・・」
 ゲンドウはレイに布団を掛けると
 「せめてこれだけはさせてもらおう。お休み、レイ」
 額にキスをして、電気を消し、出ていった。

 「なぜだ、なぜなんだ。なぜアスカはあのレイという人形を生きた人間のように扱うんだ?」
 悪夢を脱して別の夢に移った惣流氏だったが、そこでも同じように悩んでいた。
 「わたしには分からない。アスカはなぜああなってしまったんだ」
 「サルのぬいぐるみ・・・憶えてらっしゃいますか?」
 聞き覚えのある声がした。惣流氏は誰だろうと思うこともなく、反応する。
 「サルのぬいぐるみ?・・・・・・ああ、そうだ、わたしが小さい頃アスカに与えた・・・」
 「わたしが入院して、あなたが『あのひと』と暮らしてた時でしたわね」
 惣流氏の目の前に、声の主である女性が姿を顕わした。
 「・・・アスカが反抗して大変だった。わたしはどうかしていていたんだ」
 「アスカの機嫌を取ろうと思ってあなたがプレゼントしたぬいぐるみだった・・・」
 「アスカはわたしの意図を見抜いていたのか、ふくれっ面をしていたが、それでも肌身離さず持っていたっけ」
 「だけど、あなたはある日、アスカがそのぬいぐるみになんて呼びかけているか知ってしまった・・・」
 「ああ・・・『ママ』だった」
 「激昂したあなたは、ぬいぐるみを取りあげ、『捨ててしまう』と言ったわね」
 「アスカは『もうそう呼ばないから、捨てないで』ってすがりついたっけ」
 「それで、あなた返したわよね」
 「ああ。我に返ったんだ」
 「アスカはぬいぐるみを抱きしめて泣いた」
 しばらく二人の間に沈黙が流れた。
 「あれはちょうど、わたしが死んだ日だったわね」
 「急なことだった。ぬいぐるみの一件の直後に電話がかかってきて、アスカを車に乗せ駆けつけた」
 「間に合ったわね」
 「最後の瞬間だけな・・・言葉はなかった」
 「もう力が残ってなかった。でも、最後にわたしがこの世で最も愛する二人の姿を見られたの。幸せだったわ」
 「・・・お前の言う『あのひと』には、お前が逝った後、別れ話を切り出された。そんな女のために、と思うかい」
 「いいえ、あなたが一時でも愛したんですもの。素晴らしい女性だったに違いないわ。呼び戻して一緒になりたければ、そうしてもいいのよ」
 「いや・・・」
 そう言いながら惣流氏は、彼女の生前の嫉妬深さを思い出し、死後の変化に少なからず驚いていた。
 (仕事で海外に行くときは、トランクスとシャツに糸を通して、迷結びをするような女性だったのに・・・正直息苦しく、そのあまりつい・・・言い訳にはならんが・・・)
 ちなみに惣流氏は、彼女がまだ幼かった娘に「奥義」を伝授していたことを知らない。
 「でも、今はアスカの話。あの時からアスカは泣かなくなった」
 「そうなのか? そう言えば・・・」
 「泣かないと決めたのよ。いくら『泣いてもいい』と言われても、あの子、わたしの葬式では涙一つこぼさなかった。わたしが安心して天国にいけるように」
 「あれから、ずいぶんアスカは気が強くなったっけ」
 「ええ。男の子顔負けね」
 「負けず嫌いで」
 「喧嘩っ早いせいで、友達が少なくて」
 「遊ぶと必ず誰かを泣かして帰って来るんだから、ひどく気をもんだものさ」
 「いつも泣かされてばっかりだったのは」
 「シンジくんだ」
 「でも、アスカと一番付き合いが長い友達も」
 「シンジくんだ。今じゃ恋人だがね」
 惣流氏は寂しそうに笑った。
 「そんなあの子が、全身でぶつかって、そして認めた恋のライバル・・・わたしにとっての『あのひと』と同じね。きっと素晴らしい子に違いないわ」
 女性はうっとりした顔になる。
 「おいおい」
 「認めてあげましょう。そのお人形が、あの子の恋敵に相応しいと。だって、あの子がそう言ってるんですもの。わたしは信じるわ」
 「やれやれ、さすが母親だな」
 「あなたも立派な父親よ。・・・一緒に生きられなくてごめんなさい。アスカにも謝っておいて」
 女性の顔が曇る。
 「わたしとお前はいつも一緒だよ。もちろん、アスカも・・・」
 「ありがとう・・・」
 女性は惣流氏に口づけし、消えていった。

 「キョウコ・・・」
 惣流氏は目を開きながら妻の名を呟いた。目尻から涙が一粒こぼれた。

 顔を洗って洗面所からキッチンに移った惣流氏を、朝餉のにおいが出迎えた。
 「おはよう、パパ。今日は早いじゃない」
 「ああ・・・いい夢を見たから、気持ちよく目が覚めてね」
 惣流氏は、照れくさそうに言った。
 二人で朝の食事を終えると、アスカはカバンを持ち、「いってきます」と言い残して、隣家の恋人と恋敵を起こしに行った。後ろから父の声が追いかけてきた。
 「シンジくんに・・・それとレイにもよろしくな」
 その後、惣流氏は誰にも聞こえない声で呟いた。
 「これでいいのだな、キョウコ・・・」

 「碇くん」
 「あ、綾波・・・また・・・」
 「お祝いしてくれてありがとう」
 「ど、どういたしまして」
 「嬉しい時にはどんな顔をしたらいいか、あの人が教えてくれたわ。でもあの人のお母さんを見ていて分かったけど、嬉しい時には涙を流すこともあるのね」
 「あの人って誰?」
 「いつもあなたの隣にいる人」
 そう言ってレイは微笑んだ。
 (笑顔・・・・・・・・・すてきだけど・・・なんだかなつかしいような)
 シンジは目を奪われた。レイの唇が再び小さく開く。
 「今も・・・」

 「こおら、バカシンジ! 起きなさいっ!!」
 「・・・アスカ?」
 「そおよ。この超絶美少女の顔を見忘れたとでも言うのっ!?」
 「じゃ、夢で綾波が言っていたのは・・・」
 「何よ。レイ、夢に出てきたの? 夢でなんて言ってたの?」
 「・・・意味ないか、夢だし」
 「気になるわね」
 「だって夢じゃないか。アスカだって、夢で綾波と話したとしても、まともに取り合ったりしないだろう?」
 「・・・・・・あの子、話すと結構、助けになること言ってくれるし、笑うと素敵なのよ。現実のほうでは表情は変えられないけど、夢の中だったら・・・」
 「・・・・・・・・・まさか・・・」
 (ホントに夢に現れたのは、あの綾波なのか?)
 シンジの漏らした呟きをアスカは誤解した。
 「まさかって何よ! アタシが言ってるのよ! あの子がきれいなのは認めるでしょう! 笑顔もきれいだって、信じられないわけえ!!?」
 「うひゃっ、ゴメン」
 真っ赤になって怒るアスカから身を守るべく、条件反射で布団を頭からかぶるシンジ。
 「隠れるな! 起きなさいっ!」
 アスカは布団をはぎ取った。
 後はお定まりのコース。

 台所で火にかけたみそ汁をかき混ぜながら、ゲンドウはアスカの怒鳴り声と、シンジの「仕方ないだろう朝なんだからー」という男性なら痛いほど理解できる弁明と、そのシンジの頬に弁明空しく紅葉が散る音を聞いた。
 「ふ、今日も問題ない・・・」
 そう言いながらゲンドウは、着替えはアスカに譲るが、朝起こすぐらいはしてもよかろうと考え、コンロの火を消し、レイの寝室に足を伸ばした。
 「起きなさい。ご飯だ、レイ」

 「おはよう、父さん」
 「うむ。まったく寝起きのいいのは一部分だけだな、お前は。アスカくん、いつもありがとう」
 「おはようございます」
 台所ではゲンドウの他に、パジャマ姿のレイが腰掛けて、アスカ達を待っていた。
 「おじさま。レイを着替えさせてきます」
 「頼む・・・行ったな・・・シンジ」
 ゲンドウはシンジに向き直り、シンジにイヤリングを見せた。
 「昨日キョウコ君と食事した時に、彼女が落としていったらしい。倉庫に行ってつけて来てやってくれ」
 「え〜っ? 分かったよ、もう」
 そう言うとシンジはイヤリングを受け取り、倉庫に向かった。
 
 「まったく人使いが荒いんだから。おはよう、アスカのお母さん。イヤリング落としていったろう。つけてあげるね」
 キョウコの耳に手を伸ばすが、その時シンジの手に冷たいものが落ちた。
 見ると水滴がついている。
 「なんだろう」
 シンジはキョウコの目が心持ち濡れていることに気付かなかった。
 
 「ねえ、レイ。あんなニブチンが相手だと、お互い苦労するわよねえ」
 レイに学生服を上下とも着せ、胸にリボンを結んでやりながら、アスカはレイに愚痴をこぼしていた。
 「今のところ、アンタが不利ね。あいつアンタのこと、意識の上ではマネキンとしか思ってないみたいだから。アンタの魅力を徹底的にシンジに分からせなきゃね。そうなってからが本当の戦いよ! 絶対譲らないからね!」
 アスカはシンジの顔を思い浮かべる。リボンの結び目が、無意識のうちに迷結びになっていた。


      おわり



<INDEX>