惑いの歳月を過ぎて

無名の人 さん


 「ちょっとシンジ、あれ取ってよ」
 台所から背中と後頭部を向けたまま碇アスカは夫に呼びかけた。振り返る夫の目に映る、頭の後ろから垂れたひっ詰め髪。結婚以来基本色は変わっていないが、ずいぶんと白いものが混じっていた。
 「んー? あれってどれのこと?」
 結婚以来重さが増えることはあっても、減ることのなかった体をテレビの前に横たえたまま碇シンジは応答した。ちなみにこっちも髪の基本色は変わっていないもののだいぶ薄くなっており、前頭部から頭頂部は完全にはげ上がっている。
 「あれは、あれよ。あれを、ほら、あれにいれるのよ」
 「あれを、あれにじゃ分かんないよ」
 よっこらしょっと両手をついて、いかにも大仕事のように立ち上がるシンジ。お腹がつかえるので、横向きかいったんうつぶせになってからでないとどうも起きにくい。ぼてぼて全身の脂肪を揺らしながら台所に入る。よいしょっと屈みこんで下の戸棚から梅酒をとり出した。三年前から作り始めた自家製のもの。
 「これかい?」
 「そう、それ。アリガト」
 ちらちら鍋に目をやりながら、さといもを剥くことをやめないアスカ。丸いさといもを見ていると、自分の体格だけではなくアスカもずいぶん丸くなったなと思う。体格だけでなく性格も。
 「おおさじ? こさじ? 味付けだろ? 僕が入れるよ」
 「コップに一杯」
 「へ?」
 「のどが渇いたと思ったら、今年のを急に味見したくなったのよ」
 「さっき入れるって……」
 「アタシの口の中よ」
 「ああ、はいはい」
 シンジは立ち上がった時になでつけるのを忘れた髪を右手で丁寧に頭のてっぺんと前の方に配分しながら(その後、指に抜け毛が絡まっていないかチェックするのも忘れなかった)、左手で水屋から緑色の薄いグラスを一つとり、右手の薬指にまとわりついていた一本の毛を忌々しげに自分の頭に戻してから梅酒を注いだ。
 「うん。おいしいよ」
 ぷはっ、と息をついてシンジが言うのに、ようやくアスカは振り返った。こちらもシンジに負けずおとらず福々しく肉のついた頬。太っている女性は小じわが少ないものだが、それでも目尻にはしっかりカラスの足跡。にんまりと唇の両端をひっぱって笑顔を作ったので、口元にえくぼが……いや、こっちもしわだ。
 「でしょう? 自信あったの。アタシにも飲ませて」
 「うん。ほーらとっとっと」
 シンジがさしだしたグラスに口をつけ、くっくっくと吸い取るようにして飲んでいくアスカ。 
 「んー、さすがに三年やってればそこそこのもんができるわ」
 満足そうに言いながらさといもを鍋に入れると、菜箸で鍋の中の具をならしつけた。
 「巨人、勝ってる?」
 「あ、いや、どうかな?」
 「野球見てたんじゃないの?」
 「野球じゃないよ。野球は……巨人対阪神か……四回裏で同点」
 「あ、そう」
 「点けっぱなしにしとこうか?」
 「いいわ。試合が終わるよりは料理ができるほうが早いだろうから……なに見てたの?」
 「ほら、この前取材に来てたじゃないか」
 「ああ、あれ! 今日だっけ?」
 「そうだよ」
 「たしか、過去のテレビ出演やインタビューの映像なんかも織り交ぜて放映するからそっちの許可もくれって言ってたヤツね」
 「そう、それ」
 「もうやってるの?」
 「いや。あの時期、使徒にかかわっていた人たちを包括的に取り上げているみたいだから……とにかくまだ僕らは出ていないよ」
 「ふ〜ん。出たら呼んでね」
 「うん」
 シンジはそういって再びテレビの前にトドのようにころがる。髪の毛がすだれ落ちないように、横になる向きはいつも体の右側が下だ。ひじをついて頭を支えるので、最近右腕が左腕よりも太くなった気がする。
 「……へえ、あの時期に、ネルフ以外にも使徒と戦うための人型兵器の開発を試みていた人たちっていたんだ……あ、思い出した。そうそう、確かこのロボット、初号機で止めたんだっけ」
 テレビには、かつて存在した原子力で動く決戦へ行きジェット・アローンの写真と日本重化学共同体と言われた組織の長だった時田シロウ氏が映っていた。
 <それでは、まったくの失敗の終わったのですね>
 <ええ、お恥ずかしい話ながら>
 「そうか、この人が作ったんだ…」
 時田シロウ氏の頭もまたみごとに頭頂部まではげあがっているが、年季の違いはやはりあり、たらせば肩は優に超すであろう長髪を頭の上にカバーし、できるだけ自然に見えるように、しかしガチガチにムースで固めてあった。体格はシンジと違い、赤木リツコと熱く議論を戦わせた時とそう変わっていない。
 <まあ〜、いっちゃなんですが、核アレルギーがある日本で、よくそんなものつくれましたね>
 <動力であって核兵器ではありませんからね>
 こころもち面持ちを緊張させる時田氏。
 <いざという時には原子炉を緊急停止するための安全装置もちゃんとついていました。つまり動くということ以外は原子力発電所と変わりません>
 「ミサトさんが手動で作動させたんだったな……思い出した。『見直した』なんて失礼なこと、言っちゃったんだっけ」
 ずっと思い出していなかった過去の非礼を思い出し、その時自分がいかに子供だったかと苦笑する。
 <正直に告白しますと、あの時、JAは…これはジェット・アローンの略称ですが、JAはわれわれからの信号を一切受け付けない状態になってましてね、招待客の一人に当時ネルフの作戦課長だった葛城ミサト氏がいまして、その人がネルフのエヴァンゲリオンを動員してJAを押さえてくれたんです>
 <でも信号を受け付けないってことは要は停止させられないんですよね。JAの稼働時間を考えたら、止まるまで待つという方法はとれないんじゃ……>
 <ええ。内部に誰かが入り込んで、手動で全プログラムを消去する必要がありました。そこで先の葛城ミサト氏が名乗りを上げ、自ら乗り込んで私とJAを救ってくれたんです>
 そう言った時、時田氏の目はかすかに潤んでいた。
 <一部の雑誌などではネルフを批判する特集などで、たとえば「葛城ミサトを断罪する」などの記事を載せたりして、私的な復讐にまだ14歳の子どもたちを利用したように論じることがありますが、そういう記事ではほとんどの場合、この事件を無視しています。私は技術者として、生み出したもの、言うなればわが子が多くの人を傷つけるのを防いでくれた恩人のために、それだけは言っておきます>
 その手の無責任な記事の見出しを、職場への満員電車の吊り広告などで見る度にシンジは不愉快になる。アスカも同様だが、アスカの場合はわざわざ買ってきて、どれだけひどい内容かさんざん文句を言いながら読んでいる。
 「いやなら読まなきゃいいのに……」
 「一冊買えば、事情を知らない人の手に渡る雑誌が一冊減るじゃないの」
 いつの間にか料理を終えたアスカが、盆で食事を運んできていた。
 「あらやだ、ちゃぶ台出して」
 ちゃぶ台だしといてって言うのを忘れてたわ、という言葉を省略して、感情を表す言葉と結論としての命令だけを口にする。不自然だが十分な表現。連れ添って5、6年なら、言葉を誤解して要らぬ喧嘩が始まるかもしれないところだが、今や結婚して24年。男の厄年まで一緒に生きてきた時間は伊達ではない。
 「ほいほい」
 あえてオッさん臭く返事をして、ぼてぼてと茶の間の押入れに赴き、ひょっとふすまを引いて、よっこいしょとちゃぶ台を取り上げて、よっと足をのばして、こらしょと茶の間の中央に据えた。
 「ありがとね」
 料理中は後ろで束ねてあった髪をほどく。相変わらずすごい毛量だ。
 「うらやましいね」
 心底そう思うシンジ。はげを隠す手間がなくて。
 「なに言ってんのよ」
 髪留めで少女時代から変わらない、頭の両側で束ねた髪型に戻しながら、男と女はホルモンの働きが違うから仕方ないでしょ、とアスカ。
 「それでもお互い体格は変わらないわね。あーあ、年はとりたくないわー」
 本心では全く思っていないのが丸わかりの慣用句的な嘆き。もはやおばさん化おじさん化が人生の楽しみになっている熟年夫婦。
「あらま」
 テレビを見つめるアスカの目がかすかに大きくなった。
 「ミサトったら、まだ頑張ってるのねえ」
 テレビに映るはスイカ畑と一人の農婦。豊かな毛量はそのままだが雪のように真っ白になっており、若き日の巨乳は体積はそのまま衣服の下で重く垂れさがりそうなのをブラジャーがかろうじて支えているのがうかがわれた。
 <こちらは葛城ミサトさんが、休みの日には趣味で耕してらっしゃる畑です。葛城さん、本日はよろしくお願いします>
 <はい、ごくろうさん>
 まだ56歳のはずだが、シンジとアスカがかつて同居した経験から知っている若き日の不摂生がたたったのか、ネルフの幹部の重責のせいか、さらに10歳は年老いて感じられる容姿と口調。屈みこんでいたのが立ち上がると、下腹がぼってりと膨らんでいるのが目立つ。
 <見事なスイカ畑ですねえ>
 <ありがとう。昔の男からもらったものなの>
 「加地さん……」
 シンジとアスカは同時に呟く。
 <JA事件について、時田シロウ氏に伺いました。英雄的な働きをなさったとのことですが>
 <あの頃は若かったわ〜。今じゃもう無理ね>
 腰をとんとんと叩いて伸びをしながら答えるミサト。天に向いた眼がかすかに曇る。事件の裏側を知るゆえに。
 <突っ込んだ話をしますが、葛城さんは2015年の戦役に関して批判されることがおありです。また執拗な批判者も多いということですが、どうしてJA事件などをアピールして、名誉の回復に努められないんです?>
 「そうよ、ミサト」
 そう言ってアスカは梅酒をすする。
 <いろいろ事情があるのよ。ネルフの機密ってやつが>
 (あなたがいうJA事件ってのもそうなのよ)
 <しかし、努力で奇跡を呼び込んだわけでしょう。だったらもっとアピールしても>
 <機密じゃなかったらね>
 (奇跡は用意されていたわけだし)
 言葉の裏に真実の一部を隠して回答する。そして、自分が罪をかぶり続ける本当の理由も。
 (私だけが批判されるならいいわよ。批判されて当然のこともしてるし、あの子たちから目をそらせられるんだったら。司令と副司令よりはましだし)
 <でも、私のはたらきを認めてくれる人も一部にはいるのよ。その点はうれしいわ>
 <ありがとうございます。葛城ミサトさんでした。ではCMです>
 画面がCMに切り替わる。
 「何よう。ちょっとだけじゃないの」
 「しかたないよ。ミサトさん、肝腎な話になると機密だって言い続けて今までやってきたんだから」
 「そういうもんとして、もうマスコミも承知しているのね」
 アスカは、CMの間にさといもをかきまぜるべく台所に立った。シンジも梅酒をコップに注いですする。一杯のコップ酒をちびちび長く楽しむすすり方に、サラリーマン生活の長さがうかがい知れる。さらに片方の手で、先ほど髪の毛を戻したあたりをちょいちょい触っている。
 「だんだん貴重になってくるなあ」
 「すでに貴重品じゃない」
 戻ってきたアスカが、鰹節を振った数の子を盛った皿をちゃぶ台に置いた。
 「冷蔵庫の中にあったの思い出したから、これで飲んだら?」
 「うん。ありがとう」
 高血圧が気になるので醤油をかけずにつまむシンジ。辛くないから酒の進みも早くならないから経済的だなどと考える。
 <いつもご覧頂いている『あの人たちは今』、本日はネルフ特集です>
 「次かしらね」
 <次は赤木リツコ博士です>
 「リツコさんか」
 <赤木博士はJA事件の折、葛城ミサトさんと一緒に日本重化学共同体のお披露目会に出席されていたと伺っていますが>
 レポーターを眺めやる眼は老眼鏡ごし、かつての金髪は57歳の現在では紫色に染まり、傘を開いたようだった髪型は上方に巻き上げられていた。そしてあの頃と一番変わったのは福々しい頬。
 「また太ったんじゃない?」
 「うーん」
 泣きぼくろがなければ同一人物と認めるのも難しいくらいに変わり果てた老嬢。口元から見える歯がやたら綺麗なのは総入れ歯だからである。
 <赤木博士は、JA事件の際、葛城ミサトさんとJAの披露式典に出席していらっしゃったということですが>
 <ああ、なつかしいわねえ>
 皮肉な表情が多くなっていた使徒戦役時とはまったく変わり、よく笑うようになっていたリツコは、懐かしい話題が出たというだけで唇を横に引く。自慢の入れ歯がますます白く輝く。かけっぱなしの老眼鏡ごしの目がますます笑いの表情になる。
 <そうなのよ。あの時は私もJAのことを敵視していたわねえ。向こうも、ネルフからの出席者のテーブルはビールを手の届かないところに置いたりしてたから、あいこだけど>
 「そうだったんだ」
 サラリーマン生活でいろんな経験をしたシンジだったが、そこまでの子どもじみた嫌がらせは、したことはもちろん、されたこともない。年輪のように膨らんだメタボ腹を掻きながら、少年時代の記憶にコメントを書き加える。
 「ミサト、つらかったでしょうねえ」
 「ははは」
 <葛城司令、当時は作戦部長だったかしらね、今でも変わらないけれど酒豪だったから、つらかったんじゃないかしらね。式典後、なぜかネルフの人間の控室のロッカーが一台破壊されているのが発見されたらしいけど、理由は分からないわ>
 ニヤリと笑いながら言い放つリツコ。
 「あら、ホントにつらかったんだわ」
 「うーん。これこそ冗談なんじゃないかなあ」
 <だけど、あの時、葛城司令がいなかったらメルトダウンが起きていたんだから、ロッカー一台くらい安いものね。日重共からは請求はこなかったわ>
 ホッホッホと笑うリツコ。口元に手の甲を当ててまでいるが、その眼は笑っていなかった。
 (本当はミサトがいなくてもメルトダウンなんて起きなかったんだけどね。でも、この嘘もつき続けていると、自分でもだんだん本当だったような気がしてくるわ。良心のうずきは残るけれど、ここまできたら真実を明かすことのほうが、いろんな人たちの気持ちを踏みにじることになるのは分かり切っているし……)
 <時に赤木博士は科学者でいらっしゃいますが、奇跡はお信じになりますか?>
 リツコは一瞬真顔になった。
 <公開されている情報によると、葛城司令はその後も第十使徒との戦闘で、奇跡としか言いようのない勝利を収めているとのことですが>
 「くじ引きもあてたことのない人間の、女の勘だけが支えだった……わけだけど、あの時、シンジもレイとアタシが行くまでたった一人であのメダマオバケを支えていたもんね。奇跡と言うならネルフのみんなで起こした奇跡よ」
 シンジにも目線をやりながら、自分がインタビュアーに答えているかのように言うアスカ。
 <都合のいい偶然が、人間の意志に応えて理由もなしに起きることを奇跡と言うなら、信じないわ。あてにならないもの。極めて小さな可能性しかない勝利を努力でつかみ取ることを奇跡と言うなら、人の力、人の努力を私は信じています>
 「そうよね。やっぱりリツコは分かってるわ」
 うんうんとアスカは頷き、シンジも無言で同意する。
 <どうもありがとうございました>
 場面がスタジオのコメンテイター達に切り替わった。
 「ああん、もう〜、最近の民放のドキュメンタリーってコメンテイター抜きのものがないのかしら。プロデューサーかディレクターの指示で、シナリオ通りの最大公約数的な発言しかしないに決まっているんだから」
 「仕方ないよ。みんな、テレビに出てくる人が自分と同意見なのを確認したいんだから。ありふれた常識的な意見も、有名人が言っているのを聞いたら卓抜な意見に聞こえるわけで、自分の意見のレベルが高いように錯覚できるんだろうし」
 「意見が違っていても、テレビの前で文句をつけていたら、自分が社会的な議論に参加している気分になれるわけだしね」
 「そういうこと。それに、僕らが番組構成そのものに文句をつけているのも、社会参加しているという錯覚なんじゃないかと思うよ。アスカなんかけっこうそういうの楽しんでいるみたいだし」
 シンジの発言にアスカはちょっとムスッとする
 「シンジもでしょ」
 「僕はアスカと話してるってことが楽しいんだよ」
 「あら…ア、アタシも、あんたと話すのが楽しいのよ、話題は何でも」
 少し頬を赤らめながらにやけるアスカ。
 <さあ、次は皆様お待ちかねのあの人たちです>
 TV画面はシンジたちには近所と分かる街並みに切り替わった。
 「あ、いよいよアタシたちだわ」
 「うん」
 カメラは先を行くレポーターの背中を追いかけている。
 <あの使徒たちとの戦い。その際の日本国民の耐乏生活を憶えていらっしゃる方も多いと思います。そしてそのために自分たちの命を危険にさらして戦ってきた人たち……カメラは今日、その人たちの今を公開します>
 場面がシンジたちのアパートに飛び、さらにシンジたちの部屋の前に飛び、そしてドアが開くという流れになり、ナレーションがかぶさる。
 <使徒戦役の功労者たる二人の戦士。ネルフとエヴァについて語ること最も少なかったあの二人がついにカメラの前に。スタジオ騒然>
 画面が、スタジオに集まるタレントたちの悲鳴と驚きの表情に切り替わる。
 <衝撃の事実が>
 そしてCMに切り替わった。
 「あー、もー、なによー」
 ちゃぶ台につっぷしながらブー垂れるアスカ。
 「だいたいバカでかいテロップもワンパターンだっての」
 極めて婆臭い突っ込みとそれに同感する自分にお互いの年齢を実感するシンジ。
 「そうだ、CMの間にレイに電話しよっと」
 アスカは携帯を取り出した。
 「アスカ、もったいないよ。置き電話はテレホーダイにしてあるのに」
 「立って電話のとこまでいくのが面倒なのよ。あ、もしもし、レイ? アタシよ、アタシ、アタシ。誰って? だからアタシ。何? 振り込め詐欺? 違う違う。碇アスカよ。今、第三テレビでやってる番組、CMが終わったらアタシたちが出るから見なさいよ。興味ない? シンジも出るわよ。興味出た? 見る? そう? じゃ、見なさい。後で感想を聞かせるのよ」
 そう言って電話を切ってアスカはシンジに向き直る。
 「レイ、アンタが出るんなら、見るって」
 シンジは、そういうことがあればすぐ修羅場になった若いころを思い出した。思えばそのころに比べるとお互い落ち着いたものだ。愛情が冷めたというのではない。家族としてむしろ愛情は強固になっている。失う不安が無くなった、それだけの信頼に支えられたタフな愛情に進化した、と言っていい。
 「あの子、アンタがハゲようが、メタボろうが関係ないのねえ」
 「アスカも、そうじゃないの?」
 「アタシは見慣れてるのよ」
 「じゃ、僕もアスカに見慣れてるんだ」
 「失礼ね。アタシはハゲてないわよ」
 「う〜ん。冗談抜きでそこだけは羨ましいなあ。アスカ、毛量が全然減ってないもんなあ」
 無意識のうちに自分の頭を、毛が落ちないようにソフトにちょいちょいとなでるシンジ。なでたあと手に毛がついていないか確認する。今度は大丈夫。しかし、まったく偶然にもテレビで養毛剤入りシャンプーのCMが始まり、自分の頭じゃないにせよ、頭の皮膚の脂分による抜け毛のメカニズムを、アニメーションで見させられ、不愉快になった。
 「でも、アタシの好みだけど、ハゲってセクシーに見えるのよ」
 毛量でほめられたのに気を良くして、シンジにリップサービスをするアスカだが、CMから例の番組に画面が切り替わるや、一気にテレビに意識を集中させる。
 「また、スタジオから?」
 <続いては、元エヴァパイロットの方々へのインタビューです>
 「もう、長いわね」
 場面がスタジオから町中に切り替わった。
 「あれ?……ここ、どこ?」
 てっきり家の近所が映ると思っていたシンジは見覚えのない街に切り替わったのをいぶかる。
 <えー、続いてはスケジュールの都合上、ご出張中、休憩時間を割いていただいてのインタビューとなります、綾波レイさんです>
 再びちゃぶ台に突っ伏すアスカ。今度は額がちゃぶ台にコツンとぶつかる音がした。
 「CM前の……釣り?」
 自分たちが見事に釣られたことに気付き、怒るよりも感心してしまうシンジ。
 <お忙しいところ恐縮です。綾波さん>
 <いいえ。お仕事ご苦労様です>
 <ネルフきってのクールビューティーともっぱらのうわさですが>
 <誰が言ってるのかしら>
 <いや、しかし、あの戦役から20年以上経っているとは思えない若々しさですね>
 レイの外見はアスカ、シンジと対照的に、二十歳を過ぎたあたりからほとんど変わっていない。
 「あれで同い年なんでしょ。いやになるわねえ」
 「…………」
 「こら、シンジ。鼻の下が伸びてるわよ」
 「え?」
 思わず鼻の下に手をやるシンジ。
 「お義父さんに似てロリコンだから心配だわ」
 「父さんと一緒にしないでよ」
 「一緒よ、一緒。ロリコンで、マザコン」
 「自分だって」
 「あらあ。娘のマザコンと息子のマザコンは違うのよ」
 「ロリコンの方は?」
 「ショタコンは昔済ませたわ。卒業してないのはあんただけよ」
 「じゃ、今は老け専?」
 「そうよ、それもメタボでハゲでトドのおっさんが大好き」
 真っ赤になるシンジ。
 「ぼ、僕も、赤毛のぽっちゃりした美熟女が好きだなあ」
 「いやね。この人ったら」
 シンジにそっぽを向きながらも、首まで真っ赤になって照れるアスカ。ちなみに、デブとかおばさんとかいう言葉は使わないシンジであった。
 <あまりに若々しいので人間ではないのでは、という噂もありますが>
 <あら、そんな噂が?>
 そこから唐突に元エヴァ零号機パイロット綾波レイのプロフィールの紹介が始まる。 
 <綾波レイ、ネルフ在籍以前の履歴白紙、すべて抹消済み
  これが彼女のもっとも古いプロフィールである。
  14歳時、エヴァンゲリオン零号機パイロットとしてネルフに正式登録された彼女は、
  使徒と戦う任務に就いた。
  初号機を守るための盾、特攻、自爆などの犠牲的な戦いぶりが多く記録されている>
 <過去が消された人間であることで、パイロットとしての職務から解放された後、人権問題として市民団体に取り上げられていましたね>
 <ええ> 
 <ご自身の過去についてお知りになりたいと思われることは?>
 <よく誤解されることだけど、私はSFなんかにあるみたいに記憶を消されているわけではありません。私は自分の過去について知っていますし、またネルフの関係者でネルフの機密に関わりうる立場にあった人たち、赤木博士や、当時の司令、副司令は皆私の14歳以前の経歴について知っています。経歴の一部が抹消されているのは、機密にかかわることで、同時に私と関係者の安全を守るためのものです。さっきの市民団体にしたところで、私を自分たちの運動のシンボルと勝手に考えただけで、迷惑だったわ>
 <しかし、その過去についてなぜ隠さなければならないのでしょうか>
 <機密にする理由もまた機密の一部です>
 <ではあなたの口から過去について教えていただくわけにはまいりませんか>
 <そのつもりはないわ>
 <そうですか。残念です>
 <話はそれだけ?>
 <いえ、もう一つだけ>
 <何?>
 <14歳の時、言わば兵役につかれたわけで、かなり厳しい青春を送られたわけですよね。今、若者が軟弱になったと言われています。自分だけの価値観に閉じこもって狭い範囲での絆に終始するような人間関係に汲々とし、それに疲れたら自殺を選んだりしています。同じ年代でありながら世界のために実際に死地に赴かれた経験から今の若者に一言どうぞ>
 <いつの時代も、子どもはものを知らないし、人生を知らない。今から思えば、私はただ偶々エヴァに乗れる体質に生まれたから、エヴァに乗ることになっただけ。あなたの言う「軟弱な今の若者」と私は何の違いもない。子どもが狭い範囲の絆を全てと感じているなら、私はむしろそう感じさせている大人たちに一言言いたいわ>
 <えー……ありがとうございました。元エヴァ零号機パイロット、現在はチャーシュー抜きにんにくラーメンで有名な「綾波ラーメン」社長、綾波レイさんでした>
 そして、またCM前に見た引きの映像が再び流され、<使徒戦役の功労者たる二人の戦士。ネルフとエヴァについて語ること最も少なかったあの二人がついにカメラの前に。スタジオ騒然>とのナレーションの後、スタジオに集まるタレントたちの悲鳴と驚きの表情に切り替わってCMに入った。
 「ずいぶん突っ込んだインタビューだったわね」
 「綾波、怒ってたね」
 「そうね。あの子がああなるってことは相当怒ってたわね」
 「でもさ、正直ホッとしたよ。ホントはホッとするってのも間違ってるけどね」
 「ホントね。もう何十年も経ってて、14歳の時のあの子でもアタシたちでもないのにね……あ、電話」
 携帯を手にするアスカ。
 「碇です。は? どちらさま? 私? どちらの私さん? 振り込め詐欺じゃなくって? 分かってるわよ、レイ。アンタがどう見えたか? 相変わらず若くて美しかっただろう? そうねえ、日本で二番目くらいにはね。一番は誰? 当然ア・タ・シ。それより、この次はいよいよアタシとシンジが出てくるから絶対見るのよ。じゃ、後でね」
 アスカは電話を切った。
 「ねえ、聞いた? あの子ったら、わざわざ自分が若づくりなのを電話掛けて自慢してきたのよ。変われば変わるもんよねえ」
 「本当だね」
 そう言っている二人は笑顔だった。
 「あ、始まるよ」
 <さあ、次は皆様お待ちかねのあのお二人です>
 TV画面が、これで3度目になる近所の街並みに切り替わった。
 <使徒戦役に関わった方たちの、現在とあの戦役に対する思いをお伝えしてまいりましたが、いよいよ、功労者でありながらネルフとエヴァについて語ることもっとも少なかったあのお二人に、今日、独占取材いたします>
 場面がシンジたちのアパートに飛び、さらにシンジたちの部屋の前に飛び、そしてドアが開き、ナレーションがかぶさる。
 <使徒戦役の功労者たる二人の戦士。ネルフとエヴァについて語ること最も少なかったあの二人がついにカメラの前に>
 そこに現れたのは、一応カジュアルな外出着には着替えているものの二人揃ってトド化したアスカとシンジ。シンジに至っては脂ぎったはにかみ笑顔が当人の肥満の理由が油ぶとりであることを雄弁に語り、丹念になでつけた髪の隙間からカ垣間見えるはげ頭が脂分でテカテカ輝いている。
 画面が、スタジオに集まるタレントたちの悲鳴と驚きの表情に切り替わる。
 その後も画面右下に、タレントたちの茫然自失の顔が映し出されながら、主婦業にいそしむアスカに、接待ゴルフや接待麻雀に励むシンジ、ママさんバレーに精を出すアスカに、パチンコに行って全額負けて帰り<自分がアニメ化されて出演してるパチンコですってくるなんてどういうことよ!>とアスカにバカにされるシンジ、ご近所の仲の良い夫妻何家族かと一緒に夫婦でカラオケに行って、「私がオバさんになっても」を奥さん全員で歌いシンジを含む旦那連に「もうすでにオバさん、オバさん」とやじられて、他の奥さんたちと一緒にシンジにお仕置きをするアスカという、次々に繰り出されるアスカとシンジの現在。 
 <ただのおっさん、おばはんやん!?>
 <もうテレビ出てこんといて下さい!>
 <夢を壊さないで〜!>
 そのような悲鳴もなんのその。アスカは年期の違う顔でにやりと笑った。
 「勝手なキャラ作ってんじゃないわよ。アタシたちは14歳のときも年相応に自意識過剰なただのガキだったし、今だってただのおっさん、おばさんなんだからね」
 
 了



<INDEX>