パポス
無名の人 さん



 「あれ? 臨時休業だって」
 「婦人服の碇」は、シャッターを降ろしており、そこには、ゲンドウの達筆で書かれた、勝手な休業の詫び状が貼り出されていた。
 「しょうがないわね。裏に回りましょ」
 いぶかるシンジを促して、アスカはレイの乗った車椅子を引っ張った。つられるようにして、シンジはレイの車椅子を押し、アスカの後についていった。
 
 裏口前に停まった見覚えのあるワゴン車を横目に見つつ、アスカとシンジは、車椅子ごとレイを担ぎ上げて碇家の裏庭に上がり、勝手口の扉を開けた。
 「ただいま」
 「やあ、シンジ君。俵屋吉富の雲龍、ごちそうになってるよ」
 勝手口から入ると、台所では、シゲルがお茶をすすっていた。
 「あ、青葉さん、こんにちわ。そこに停まってたバン、やっぱり親方の工房のだったんですね」
 「うん、今日はみんな来てるんだ」
 「みんな、って、工房の職人さんたちが?」
 「そう。今日は特別だからね」
 シンジの傍らにいた、アスカはいつの間にか姿を消していた。
 「今、お店の方にいるから、行ってみるといいよ」
 そうシゲルに勧められて、シンジはレイと一緒に、店の方に行こうとしたが、シゲルはレイの様子に目を留めると、シンジを制止して言った。
 「おっと、ちょっとレイを貸してもらえるかな。生みの親に報告したいことがあるらしいし」
 シンジの関心は今のところ、店に来ているという冬月の工房の面々と、多分店の方にいるだろうアスカに向かっていたので、さしてシゲルの言葉を気に留めもせず、レイをシゲルに託した。
 
 「ただいま、ママ〜。今朝はバタバタしてて、挨拶できなくてごめんなさい〜。元気だった〜?」
 店では、一足早く来ていたアスカが、日課を果たしていた。と言っても、アスカの母が「婦人服の碇」で働いているわけではない。彼女がママと呼びかけているのは、店のマネキンの一員であるキョウコであった。
 父の再婚相手は、いい人ではあったが、それでも、何かと気まずい思いもすることが多く、アスカは悩んでいた。そんな折りに、この店に、アスカが5歳の時に亡くなった母親そっくりのマネキンが来たのである。ちなみに、ゲンドウは単なる偶然だと言い張っている。それでも、アスカがこのマネキンをひどく慕っているのを見て、少々悪趣味と思わないではなかったが、ゲンドウは彼女を、アスカの母と同じく、キョウコと名づけた。以来アスカは、毎朝シンジを起こしに来る時に挨拶し、シンジを碇家に送ってきた時にその日あったことを話して帰るのが、日課になっている。
 もう見慣れたものとなったが、普段のアスカからは想像できない甘えかかるような態度に、シンジはいまだに苦笑を禁じ得ない。
 (僕が母さんの位牌に話しかけるのと、同じようなもんだとは、思うんだけどな〜)
 
 店内にいるのは、アスカだけではなかった。
 「帰ったのか、シンジ」
 「うん。ただいま、父さん」
 ゲンドウとシンジは挨拶を交わす。
 「学校はどうだった?」
 「うん、問題なかった・・・わけないよね」
 「アスカくんがキョウコくんに話しているのを聞いて、大体の事情は分かった。みなケガはなかったようだし、多少変則的だが、レイが学校に行くのも認められたようだしな」
 「まったく、悪運が強いよ、父さんは」
 「ふっ、運も実力のうちだ。それより弁当はどうだった」
 「ああ、ありがとう。いつもどおり美味しかったよ」
 ここでシンジはニヤリと笑った。
 「レイの弁当に肉を入れてただろう。あざとすぎて、罠なのが見え見えだよ」
 「ふむ。で、ビックリおむすびはどうした?」
 「中からクジラが出てきた時は、ホントにビックリしたけどね。あれも肉だから、僕が食べたよ」
 「とすると、他のも・・・」
 「うん、ほうれん草に巻いてたハムは取り外して食べたし、肉団子なんか論外だよ」
 「そして、肉を除いた弁当をレイに食べさせたのだな?」
 「うん」
 今度はゲンドウがニヤリと笑う。
 「シンジ、お前には失望した」
 「! なんでだよ !?」
 「同じ弁当箱の中で昼まで一緒においておけば、ほうれん草にはハムの油が染みるし、他のおかずにも肉団子の香りが移る。おむすびは、ご飯にクジラの味と独特のにおいがついてしまう。正解は、肉の味と香りが全体に広がった弁当を、そのまま食べさせないということだったのだ。お前が新しく野菜パンなどを買って、食べさせてやることを期待していたのだが・・・。何のために、一人分には多すぎる昼食代を渡したと思っているのだ」
 一部の隙もないゲンドウの説明に、シンジは反論できない。
 「まあ、14歳の気遣いとしては及第点だ。以後、もっとレイの声に耳を澄ませることだな」
 「は、はい」
 神妙な態度になってしまうシンジ。

 「まあまあ、碇さん。シンジくんだって、レイを無視したわけじゃなし」
 「あ、冬月の親方!」
 シンジは、ユラリと目の前に現れた老人を見て、驚いた。白髪、長身のこの人物こそ、「婦人服の碇」にあるマネキンたちの生みの親、冬月コウゾウである。
 「娘たちの顔を見ていたところだよ。うちの職人たちもつれてきた」
 「ええ、職人さんたちが見えているのは、青葉さんから聞いていましたが、わざわざ親方まで・・・」
 「わたしは、生涯一職人のつもりだよ」
 「す、すみません」
 「はっはっは、気を悪くしたわけじゃないよ」
 好々爺然として笑う冬月を前に、シンジはますます恐縮する。そんなシンジを面白がるような表情をして、ますます冬月は機嫌をよくする。見ると、ゲンドウも同じような表情をしていた。

 「シンジ、他の職人さんたちのことも、教えておこう」
 そう言って、ゲンドウは、マネキンの前でなにやらしゃべっているメガネの青年の方を示した。今日一日のことでずいぶん慣れたつもりだったが、シンジはやはり鳥肌が立ってしまう。
 「あれが冬月先生のお弟子の一人で、日向マコトくんだ。ミサトくんに片思いしている」
 確かに、マコトと呼ばれた青年が話しかけているのは、ミサトである。冬月がゲンドウの紹介を補足する。
 「アヤツはミサトを作る時、一番手伝ってくれた弟子なんだが、どうも図面を見た時から惚れていて、それで献身的に協力してくれたらしい。いわば、ミサトがこの世に生まれるのを助けた産婆役でもある。ところが肝心のミサトの心は、どうも別の弟子の方にあるようだ」
 「そして、シンジ、今先生がおっしゃった別の弟子というのが、壁際に立ってニヤつきながらミサトくんとマコトくんを見ている、あの加持リョウジくんだ」
 ゲンドウが目で示す先を見ると、長髪を後ろで束ね、無精ひげを生やした、マコトよりは歳上の男性が壁にもたれかかって、ミサトとマコトに目を向けていた。
 「アヤツは女好きでなあ。しょっちゅう他の娘を口説くんだが、それでもミサトはヤツのことを思い切れんらしい。それはリョウジの方も同じで、他の娘と浮気をしても、結局はミサトのところに戻ってきてしまう。ヤツがリツコまで口説いていたと知った時は、さすがにわたしも呆れたもんだが」
 (こ、この人たちの『女好き』って、やっぱりこういう意味なのか・・・)
 冬月がなぜこの歳まで独身なのか、シンジは改めて納得した。

 「そして、あちらでリツコくんに甘えかかっている、あぶない感じのお嬢さんが伊吹マヤくんだ」
 「え、マヤって・・・」
 ゲンドウが手の平で示す方を見て、シンジは心臓が止まるほど驚いた。店のマネキンのマヤと、そっくりの女性がいたからである。
 「あの子はもともと、うちの工房に取材に来た雑誌記者だったんだがな、その時たまたま作っていたのがリツコだったんだよ。その製作途中の姿を見た時に一目惚れした、と本人は言っておる。そして、リツコがその時碇さんから注文を受けていた、二体のマネキンのうちの一体であると知った彼女に、どうかもう一体は自分をモデルにして作ってくれと土下座までして頼まれてね・・・『そうすれば、わたしの分身はいつでもリツコさんと一緒にいられるから』と言っていたな」
 「それで、マヤさんそっくりのマネキンが、うちにあるんだね」
 「うむ。彼女をモデルにしたマネキンの図面を見せてもらった上で、わたしもオーケーしたんだ。それがマヤくんなんだが、実はその時にはなぜ図面を変更したのか、教えてもらえなくってな」
 「いや、あの時は失礼しました。職人風情が分際も弁えず、注文主様を試すようなまねを」
 「いやいや、人形を作られる方たちにしてみれば、人形を引き取るわたしがどの程度の人間か、見定めたかったというのも無理はありません」
 「シンジ君。君のお父さんはあの図面を見た時に、開口一番、リツコの部下にしよう、と言ったんだよ」
 冬月がそう教えてくれたが、シンジはそんな父を誇りに思うよりも、おおいに呆れた。
 「じゃ・・・名前もドンピシャ当てたの?」
 「いや、名前は違う」
 そのゲンドウの答えに、シンジは妙に安心してしまう。
 「わたしは、完成したマネキンを見てマヤと付けたんだが、それを聴いた彼女が、『ああっ、生まれてからずっと使っていた名前より、わたしの本質にマッチしているう』と言ったとか・・・」
 「うむ。そう言って彼女はそれまでの名前を捨てて、マヤに改名したのだ」
 冬月の補足にシンジは慄然とした。
 「ついでにそれまでの生活もすべて捨てて、わたしのところに弟子にしてくれと押し掛けてきてね・・・三日も門前に座り込まれて、とうとうこちらが根負けしてしまった。『本体の方も先輩と近いところにいたいんですう』と言うのが、弟子入りの志望動機だったよ」
 「マヤくんの中ではすでに、リツコくんは上司兼先輩だったらしい」
 シンジは硬直して言葉が出ない。
 「どうしたね、シンジくん? 女の弟子がそんなに意外かね?」
 シンジは、やっとの思いで首を横に振った。
 マヤはかなりハイテンションでしゃべっているので、シンジたちのところにも話が聞こえてくる。
 「せんぱ〜い。何度も言いますけど、今日もおきれいですね〜。わたし、先輩みたいな素晴らしい人形を作ろうって、毎日頭の中で図面を考えてるんですよ〜。いつか自分で図面を引かせてもらえるようになったら、先輩に見せに来ますね〜。せんぱ〜い、わたしの分身、わがまま言って、先輩のこと、困らせてませんか〜? もしそうだったら、本体に言いつけるって、言ってくださいね〜。それからもう一つ、構想してることがあるんです〜。わたしが生きたまま、人形になれないかって。もしそうなれたら、年をとることも、死ぬこともなく、いつまでも、先輩と一緒に・・・」

 「シンジ!」
 「わっ」
 いきなり、アスカに声をかけられて、シンジはようやく硬直が解けた。なぜか、異世界から生還を果たしたような気分になる。
 「もう、ボケボケッとして」
 そう言って、アスカはシンジの頭を脇に挟み込んだ。
 「わ、ちょ、ちょっと」
 父親とその知り合いの前で、女の子と体を密着させるのは、かなり恥ずかしい。
 (何すんだよ〜)
 シンジがそう思っていると、アスカがシンジの耳元で囁きかけてきた。
 「あんた、アタシとの『偽装恋人』の件、もう話した?」
 それを聞いて、ようやくシンジは今日の課題を思い出した。
 「ごめん、まだだった」
 それに対し、アスカは気を悪くした風もなく応じる。
 「いいわよ。二人一緒に話をした方がやり易いし」
 そう言って、アスカはシンジを解放した。そしてシンジを促して、二人一緒にゲンドウに向き合う。
 「と、父さん。話があるんだ。大事な話なんだよ」
 ゲンドウはシンジの目をまっすぐに見て、それに答えた。
 「そうか。わたしも大事な話がある。だが、その前にシンジ」
 そう言って、ゲンドウはなぜか、アスカの目を真正面から見つめて話し出した。
 「台所の雲龍を人数分用意してくれ。それから、仏壇にも上げるように。お義父さんとお義母さんの好物だったからな」
 「え・・・」
 シンジは戸惑ってアスカの方を見た。アスカは、ゲンドウがわざわざ自分を見てこう言った真意を察し、言われたとおり台所に行くよう、シンジに手で合図した。それを見てシンジは、不承不承台所に向かった。

 シンジが消えたのを確認してから、ゲンドウが対話の口火を切った。
 「レイが起爆剤となってシンジとの関係が進展したと見えるな、アスカくん」
 「すべてお見通しのようですね」
 「ふっ、ある程度予測していたことだよ。断っておくが、君をなめてかかったわけではない。君の知性をわたしは高く評価している。君が妻になってくれれば、シンジの将来も安泰だ」
 「な・・・まさか、当て馬にするためにレイを!?」
 「違う」
 ゲンドウはきっぱりと否定した。
 「レイはわたしにとって、娘同然の存在だよ、アスカくん」
 「じゃあ、なぜ・・・」
 「人間の場合と同じに考えてみたまえ。わたしは、実の子のように思っている娘を実の息子と結婚させたいだけだよ。だが、もちろんシンジ自身の決断を無視するつもりもない。意に染まない場合でもシンジを祝福するし、レイが別の幸せを得るのに協力は惜しまん」
 「人間の場合と同じ・・・レイは今日一日で、わたしたちにとってもかけがえのない存在になりました。でも、レイとわたしたちとは違います」
 「もちろん、違うとも」
 「その違いは決定的なものではありませんか? シンジが成長して大人になっても、レイはいつまでも今のままなんですよ」
 「ふっ、問題ない」
 「問題ないって、どうして・・・・」
 そんなことが言えるんですか、そう言おうとしたアスカの口は、こちらに走ってくる足音によって動きを止められた。これも予測していたのか、ゲンドウはニヤリと笑うと、奥へと向き直って厳しめの声を出した。
 「うるさいぞ、シンジ。お客様が見えているのに、みっともない真似をするな」
 奥から血相を変えたシンジが飛び出してきた。
 「それどころじゃないよ、父さん! 母さんが消えてる。いや、母さんの位牌がないんだよ、仏壇に!!」
 「うむ、問題ない」
 「問題ないってどういう事だよ! 僕にとっては、あれだけが母さんとの絆なんだよ!!」
 ゲンドウはそれには答えず、奥にさらに呼びかけた。
 「青葉くん、頼む」
 「はいっ」
 そう声が聞こえると、奥からシゲルが、体の前に、白い布をかぶせられたケースを担いで現れた。

 みなが見守る中、シゲルはその隠されたケースを店の中央においた。マネキンに話しかけていた弟子たちも、みな沈黙して、これから起こることを待っている。
 「シゲル。お披露目だ」
 冬月の合図で、ケースを覆っていた白い布が、一気に取り去られた。
 そこには、ガラスケースに護られた、一体の生き人形があった。まだ若いが、芯のしっかりした印象を与える女性の人形で、菩薩のように慈悲深い笑みを浮かべたそれに、アスカは確かに見覚えがあった。
 「どこかで見たような。・・・・・・・・・・・・あ・・・ああっ!!」
 ここには、今いない少女の姿が、目の前の人形と重なった。
 「レイ!? おじさま、これ、大人になったレイでしょ!」
 そ、そこまでするか・・・あきれ果てながらアスカは叫んだ。しかし、ゲンドウは薄く微笑みながら、アスカに対して首を横に振って見せた。
 「とぼけないでよ。どっからどう見てもそうじゃない! ねえ、シンジ、しっかりしなさいよ。このままだと、本当にマネキンと結婚させられちゃうわよ」
 アスカは、隣で固まったままの少年の方を揺さぶる。だが、少年はそれにはまったく反応しない。
 「シンジ! シンジってば!」
 「黙って!!」
 今まで、アスカが聞いたことのない厳しい声をシンジは出した。びくっとして、シンジの肩からアスカは手を離した。誰も口を利けないままの静寂が店を覆い、
 「・・・・・・・・・・・・・・・母さん?」
 そして、シンジのささやきがその静寂を破った。
 「・・・・・・・・・母さん。母さんだ。この人、僕の母さんだ。そうだよね、父さん!」
 ゲンドウは、いかにも底意地が悪そうな笑顔を作った。
 「今度は、失望させられなかったな、シンジ」
 「でも、でも、どうして分かったんだろう。顔、知らないはずなのに」
 「それはな、シンジ君」
 冬月がシンジに答えた。
 「ここに、ユイさんが生きているからだよ」
 その時、シンジは確かにその生き人形、碇ユイが自分に向けて微笑みかけていると感じた。
 「そうだ・・・母さんは、ここにいる。ここに生きているんだ。・・・母さんの心を感じるよ」
 周囲を取り巻いているゲンドウ、冬月、そして人形師たちが、拍手でもって祝福した。

 「おめでとう」(ゲンドウ)
 「おめでとう」(冬月)
 「おめでとう」(シゲル)
 「おめでとう」(マコト)
 「おめでとう」(マヤ)

 壁際から、一部始終を見守っていた加持リョウジは、一人呟いた。
 「ついに、シンジ君は開眼・・・彼女が黙っちゃいませんぜ。これもシナリオのうちですか・・・って、あなたのシナリオどおりの展開ですね、碇さん」

 (め・・・めでたくなんかないわよ!)
 わなわなと震えながら、アスカは、シンジの変わりぶりに愕然としていた。その時、シンジは、この店の中にある、マネキンたちがユイと同じように、生きていると感じ、それを言葉にしていたのである。
 「ミサトさんはマコトさんの相手をしながら、心は加持さんに向かっている。リツコさんはマヤさんを、迷惑がりながらもかわいがっている。キョウコさんはアスカをいつも見守り、愛している。ナオコさんは・・・父さんに惚れてる!? だ、ダメだよ、父さんには母さんがいるんだから!! げ、リツコさんも! ああっ、分身のマヤさんが、父さんと本体のマヤさんに焼き餅を焼いてる! け、結構複雑な関係だったんだ・・・あ、あれは・・・」
 シンジは、台所の方で一人誰かが取り残されて、寂しがっている感じを受けた。
 「あ、そうだ、青葉さん。ここにもう一人いなきゃいけないんですよね」
 「ああ、そうだよ」
 にっこり笑うとシゲルは台所に引っ込み、その「もう一人」を連れてきた。

 「綾波・・・」
 そこに現れた少女、レイは、シンジには少しすねているように見えた。
 「ご、ごめん、ちょっと色々あってさ・・・改めて紹介するね」
 そう言って、シンジはアスカの手を取った。
 「この子、惣流アスカ・ラングレー。僕の一番の友達で・・・僕が一番好きな人・・・」
 誰の声も上がらなかったが、店内がどよめいたような感じがした。
 加持が言うところの「彼女」であるアスカは、どんどん異世界の住人と化していくシンジを見て、何とか引き留めなきゃ、とても黙っていられない、などと考えていたのだが、このシンジの言葉で何もかもがどうでもよくなった。
 (ああ・・・バカシンジ、こんなみんなの前で・・・でも、嬉しい!!)
 「それでこの人たちがうちのマネキンで、リツコさん、ナオコさん、マヤさん、キョウコさん、ミサトさん。みんないい人たちだよ。君の友達になってくれるよ。ほら、よろしくって言ってる」
 (ああ〜っ、シンジ! やっぱりそんな声聞こえないわよぅ。お願い、こっちの世界に戻ってきてえ)
 アスカの願いも空しく、シンジは語り続ける。そして、アスカ以外の全員、シンジと同じものを感じているらしく、うんうんと頷きつつ聞いている。
 (ど、どういうこと。こんな、こんな異常なことって・・・気持ち悪い・・・)
 「そして、綾波・・・君は僕にとって、父さんが決めたいいなずけで・・・」
 (え?)
 「君も今、僕の一番好きな人だ」
 (な)「なんですって〜!!!」
 アスカは叫び、ゲンドウはニヤリと邪悪そのものの笑みを浮かべ、冬月は唇をすぼめ、シゲルは複雑な顔になり、マコトはきょとんとし、加持はやれやれと言った調子で苦笑し、マヤは小さく「不潔」とささやいた。
 「アスカも綾波もごめん。でも、両方のすばらしさを知っているから、今はまだ決められないよ」
 「そ、そんなこと・・・あんたは分かっても、アタシには分からないわよ! アタシはあんたみたいに人形としゃべったりしないんだからね!」
 「そんなことないよ・・・アスカだって、アスカのママとしゃべっているじゃないか」
 「あ、あれは、しゃべってるんじゃなくて、一方的にアタシが話しかけているだけよ。一種の儀式よ。あ、あ、あんなの、た、ただの、ににに、人形じゃない」
 シンジは厳しい顔になり、アスカの目を見据えた。
 「そんなことを言うんじゃないよ、アスカ・・・キョウコさんが、悲しんでる」
 「え!?」
 ハッとして、アスカはキョウコに振り向いた。そして、確かにキョウコが悲しんでいると感じた。
 「あ・・・ま、ママ・・・」
 「ほら、感じるだろう」
 アスカは、無言で頷く。
 「アスカが、ママのことを感じて、受け入れたから、ほら、キョウコさん、喜んでるよ」
 「ま、ママ・・・ママッ!!」
 アスカはキョウコに抱きついた。
 「ママ、ママ、ずっとここにいてくれてたのね・・・ずっと、アタシのこと見守ってくれてたのね・・・ずっとアタシのこと、愛してくれてたのね・・・ママ」
 アスカは涙を流している。
 「うん、寂しかったの。でも、錯覚だったのね。ママはどこにも行ったんじゃない。感じようと思えばいつでも感じられたのよ」
 (形のある依代を必要とするのが、人間の弱いとこだけどな)
 心の中で、加持はそう呟いた。
 「気づいてなくても、感じていたから、今まで、ママとしゃべってこられたのよ・・・ママ、ありがとう・・・分かってるわ・・・・・・もう、わがまま言って、今アタシを愛してくれている人を無視するなんて、バカなことしない。パパともちゃんと話すわ。新しいママとも仲良くする。でも、ここにも遊びに来るわよ、ママ・・・」

 シンジはアスカを見守りながら、レイに話しかけた。
 「綾波・・・分かるだろう、アスカがどんないい子か・・・僕のせいで、君とアスカは、ちょっとおかしな関係になっちゃうけど、それでも仲良くできると思う。そして、いつか僕がどちらか一人に決めても、その後もずっと二人には友達でいてほしい・・・いいかい?」
 シンジがレイに顔を向けると、レイは、少し不満げながらも認めているように思えた。
 「ありがとう・・・なんだって?」
 シンジは、レイに問いかけた。しばらく、まったく言葉のない会話がなされているようだった。
 そしてシンジは一言。
 「笑えば、いいと思うよ」

 その日の夕食は晩餐会になった。碇親子とレイ、アスカ、そして、冬月とその弟子たちだけではなく「婦人服の碇」のマネキンたちも陪席し、ホステス席には11年ぶりの帰宅を果たしたユイが着いていた。
 「帰宅っていっても、ユイはずっとこの家とわたしたちの心の中にいたのだがな」
 そうは言いつつも、ゲンドウは実に幸せそうに、ユイの食事を手伝ってやっていた。
 「シンジ、お前が仏壇の位牌と話していたのも、この姿のユイと心を交わすのと本質的に違いはないんだぞ」
 「そうだね・・・でも、あの位牌、どうしたの? まさか捨てちゃったんじゃあ」
 「それこそまさかだ。あれもユイの一部だからな。このユイの心臓に埋め込んである」
 「そうか、じゃ、昨日まで話しかけていた母さんと、同じ母さんなんだね」
 「当たり前だ」
 「シンジくん、苦労話を聞いてくれよ〜」
 シゲルが、シンジに話しかけてきた。
 「昨日の真夜中に碇さんから電話があって親方にたたき起こされ、それから14時間ぶっ通しでユイさんの仕上げをやってたんだよ」
 「シゲル、やめろよ。仕事場での苦労を外で話すのはみっともないぞ」
 マコトが、シゲルを止めようとする。
 「いいじゃないか、今日ぐらい。で、お位牌の埋め込みを行い、最後に表面を整えて完成。その後仮眠を取って、すぐまたここに運んできて・・・も、眠たくて、眠たくて」
 「人使いの荒い親方で悪かったな、シゲル」
 冬月が割り込む。
 「わ、そ、そんなつもりじゃ」
 だから言ったろう、という顔をするマコト。

 「ねえ、シンジ、さっきおじさまと話したんだけど、レイが成長できないってこと、やっぱりネックよ。シンジだって大人になったら、大人の女性と結婚したいでしょう。レイだって同じだと思うわよ」
 「うん・・・綾波もそう思ってる」
 シンジは、自分が食事を手伝ってやっているレイをチラリと見て、そう言った。
 「問題ない」
 ゲンドウが口を挟んだ。
 「成長させる時期が来たら、それまでのレイをベースに、より大人に近づけて改良すればいい。成長に合わせて、レイを何体も作るような真似はしない」
 レイはこの世にたった一人のレイで、代わりなどいないのだからな。そうゲンドウは付け足した。
 「そうか。お位牌のユイおばさまと、今のユイおばさまが同体なのと、同じ要領ね」
 「その通りだ」
 「よかった」
 そう言いながら、アスカはキョウコが、薫製肉を食べるのを手伝ってやった。そこに加持が話しかけてきた。
 「あれ、アスカくん。ミサトが君に『有利な点が一つ減ったのに、何喜んでるのん?』って訊いてるぜ」
 「あ! 加持さん! ミサトさんの手伝いは僕の仕事ですよ!」
 マコトが抗議の声を上げる。加持とマコトは、両側からミサトを挟んで取り合うように、ミサトの食事を手伝っている。
 「アタシは卑怯な真似がイヤなの。やるなら対等の立場で戦って勝ちたいのよ」 マネキンたちの何体かが「若いわね〜」と言ったかのように男性陣は感じたが、口にはしなかった。

 「先輩、やっぱりフェアプレーっていいですよね。不潔じゃないから」
 マヤはアスカの発言に素直に感動しているらしい。
 「あれ、マヤさん、本当に潔癖性なんですか」
 とてつもなく無神経な質問を発するシンジ。
 「あ、そのことね。実は昨日の夕方から急にこうなったのよ。こっちに来て碇さんと話してた時、碇さんが言うには、わたしの分身に、潔癖性って設定を加えたんですってね。分身との相関が強くなってるみたい」
 「本当なんだよ。手洗いから出てくる時手を洗わなかったら、モップで押し返されてね。昨日の夕方から急にそうなったんだよ」
 シゲルが補足する。
 「そ、そうなんですか。分かりました。ありがとうございます」
 オカルトが苦手なアスカに気を使って、シンジは、ここで話を打ち切ろうとする。しかし、人形と通じ合っている時点で立派にオカルトだという意見もある。
 「これってわたしがこの分身に近づいてるってことなのかしら。だとしたら、人形になって、先輩と永遠に一緒に生きるって夢も実現できるかも・・・」
 そんな怖いことを言いながら、マヤはリツコとマネキンのマヤの食事を手伝ってやっていた。要領が分からないもので、全部で一人前半は食べることになりそうである。
 「ダイエットしなきゃね。やっぱ、分身をうらやましく思います。太らないもの」
 マネキンのマヤの隣に腰掛けていた冬月は、マネキンのマヤが得意げになっていると感じ、苦い顔をした。
 (マヤ・・・お前だ、マネキンのほうだ・・・あまり人間のマヤを取り込むな。・・・アスカくんはレイが人形としての限界を持つことを心配し、人間に近づけることを喜ぶ。マヤは人形をうらやみ、人形に近づいていることを喜ぶか・・・人それぞれだな。)
 冬月は目を閉じ、人形師として、彼がこの世に送り出してきた娘たちに心で問うた。
 (お前たちは、今、幸せか・・・)
 やがて冬月の口元が綻んだ。
 (そうか・・・)
 そして、彼の心は彼の初孫に向かった。
 (レイ・・・お前は今幸せか・・・)

 するとシゲルが、レイに呼ばれたかのように、彼女のほうに顔を向けた。そして頷くと、シンジに目を移して、語りかけた。
 「シンジくん、レイがお礼を言っている。今日、車椅子から放り出された時、受けとめてくれてありがとうって」
 「え、いや、あれは偶然で」
 「偶然も実力のうちさ。才能なんだよ、君の」
 脇から、加持が口を挟む。
 「レイが言ってる。憶えてないかも知れないけれど、手を広げて受けとめられるようにしてくれてたって」
 「そ、そうだったのかな」
 「そうよ、あんたがそうしてくれなかったら、いくら下にレイがいたからって、アタシも、ケガしないでいられたかどうか分かんないわ」
 アスカが、レイに同意した。
 「アスカが重かったとも言ってるよ」
 苦笑しながらシゲルが付け足した。
 「な!? レイ!」
 「でも、その後、わたしのこと心配してくれてありがとうって、アスカくんにお礼を言ってる。おっと、どこも壊れてなかったってことも伝えろ、だって」
 「む・・・礼なんかいいわよ。こっちはあんたに助けてもらったんだしね・・・壊れてなくて、よかったわね」
 「それから学校にいられるようにしてくれた、そのことについても感謝してるってさ・・・でも」
 「でも?」
 「碇くんは譲らないわよ、だって」
 「・・・・・・望むところよ」
 アスカは真剣な表情で、しかし、決してレイを敵視していない表情で受けて立った。

 そのやり取りを見て、冬月は満足そうに微笑んだ。
 (そうか・・・・・・お前たちを生み出して、本当によかった)
 そこで彼は、ふと、もう一体、娘とは位置づけていないが、自分がこの世に送り出したものがいることに気がついた。
 (ユイさん・・・・・・あなたはこれでよかったのですか。静かに眠っているのではなく、死後も家族と生きる苦しみをともにする・・・それでよかったのですか)
 「一緒にいれば、どこでも天国にできる・・・そうだな、ユイ」
 ゲンドウがユイに代わって答えた。冬月は何も言わず、ただ、ユイの慈悲深い笑みにその答えを見いだしていた。
 ゲンドウは、冬月の心を察しながら思った。
 (思えばキョウコくんにアスカくんの母親役を任せた時から、すべては始まっていたのかもしれない。そしてレイ・・・すべての写真を処分し、思い出の中にしかいなかったユイに生き写しの少女・・・その成長した姿は、まさにユイそのものになるだろうと見たわたしは、レイを作っているうちから、冬月先生にレイの成長後の姿を生き人形として彫ってくれるよう頼んだ。それはわたしの妻の姿になるはずだということも、うち明けて・・・見込みは当たった。それにわたしとユイだけが知っている人生が加味され、ユイはここに生まれ変わった・・・これはわたしの独りよがりだったのか?・・・いや、そうではない)
 ゲンドウも、ユイの微笑みを見つめた。
 (お前がこの姿になる前から、わたしとお前の心は一つだった。そうだろう)
 心で問いかけるゲンドウ。やがて、その表情が安らかな微笑で満たされる。
 (うむ・・・・・・問題ない)

 大人たちがしみじみと幸せを噛みしめ、あるいはそれぞれの想い人を助ける幸せを感じている横で、子どもたちはやかましく、しかし楽しげにじゃれ合っていた。


      



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