ガラテア
深夜、冬月コウゾウの工房に電話がかかってきた。無骨な人形師は、無言で受話器を持ち上げる。
「・・・碇です、先生」
「・・・・・・・・・」
「レイが届きました。やはり期待していたとおりです」
「うむ・・・・・・」
「それでは、かねてお話ししてあったとおりにお願いします・・・」
「委細、承知しました」
冬月コウゾウは電話を切ると、弟子たちを全員たたき起こした。
その頃シンジは、今日の出来事を思い出しながら、寝床の中にいた。明日からのことを考えると気が重く、なかなか寝入ることができなかった。
「絶対、イヤだからね!」
夕食のあじの開きを、乱暴にほぐしながら、シンジは拒絶した。
「シンジ、まずは付き合ってみろ。そうしなければ、気が合わないかどうか分からんだろう」
ほうれん草のお浸しに醤油をまぶしながら、ゲンドウは諭す。
「付き合うも何も、マネキンじゃないか!」
「マネキンと人間にも相性というものがある。付き合って、やっぱり駄目だということなら、わたしも無理強いはしない」
「だーかーらっ! ここで付き合うって言ったら、綾波を学校に連れて行かなきゃならなくなるんだろうっ!?」
「当然だろう。一生一緒に暮らせるかどうか、見定めねばならんのだからな。それになんだ、綾波というのは。お前たちはいいなずけなんだぞ。そんな他人行儀な言い方をするな」
「い・や・だ!」
シンジは箸で、あじの頭を背骨からもぎ離した。ゲンドウは、レンコンを念入りに噛みしめ、のみ込むと、おもむろに告げた。
「とにかくだ。わたしは今のところ、お前たちを一緒にするつもりなんだからな。お前の考えがどうあれ、わたしの目の届くところでは、二人一緒にいてもらう。
ほらほら、自分の分を食べてばっかりおらんと、レイの食事を手伝ってやれ。特に、お前が彼女に出した、ブタの生姜焼きを何とかしろ。レイは肉が嫌いなのだ」
そう言われてシンジは、レイが食卓に着いていること、そして無意識のうちに自分が、レイに食事を出していたことに、初めて気づいた。ちなみにゲンドウの隣に腰掛け、ゲンドウが食事を手伝ってやっているのは、今日は、リツコであった。
(結局、慣らされちゃってるんだなあ・・・)
シンジは深くため息を付くと、あじの頭を口の中に放り込み、ばりばり噛み砕いた。
シンジの悩みはいつ果てるともなかったが、その一方で、眠気は確実に忍び寄ってきていた。心を圧迫していた考えは、いつしか途切れ途切れとなり、やがてシンジの上にも、眠りが訪れた。
「碇くん・・・」
「あ、綾波?」
シンジの目の前には、昼間マネキンとして現れた少女が立っていた。
「わたしと一つになりましょう。それはとてもとても・・・」
そう言って、なぜか裸で迫ってくる少女。明らかに夢である。これは考えようによっては、いい夢なのかもしれないが、あのような父の下で暮らしているシンジにとって、昼間のマネキンが、夢の中で誘惑してくるなど、悪夢以外の何ものでもない。
「気持ちのいいことなのよ」
「うわっ、わわっ、だ、誰か・・・助けてーっ!」
「起きろ、バカシンジィ!」
「はっ」
やはり夢だった。シンジは布団の中で目を覚まし、そして目をそばに立つ少女に向けた。
「ア・・・アスカ・・・・・・」
「やっと、気がついたあ? なんだか、うなされてたわよ」
そこには、赤毛で、青い目をした、明らかに白人の血が混じっている少女が立っており、シンジを見下ろしていた。幼なじみで隣に住んでいる、貿易商の令嬢、惣流アスカ・ラングレーである。
「まったく、こんな美少女が、幼なじみってだけで、毎朝起こしに来てやってるんだから、お礼ぐらい言いなさいよね」
「ああ・・・はあ・・・ひどい寝汗だ・・・」
「シャワー浴びたら?」
「なんで・・・あんな夢を・・・・・・」
「むぅ〜。人が親切で言ってやってんだから、聞きなさいよっ!」
アスカは、いきなり不機嫌になった。
「いつまでも布団の中に入ってないで、ほらっ」
そう言ってアスカは、シンジの掛け布団を引っ剥がした。
「え?・・・きゃあああああああああああああああっ!!」
しまった、シンジはほぞを噛んだ。アスカにこういう行動をとらせた場合、絶対下らない言い訳をしなければならないということは、とうに学習していたはずなのに・・・。
「仕方ないだろう、朝なんだからア」
バシィン。
(やっぱりこうなるのか・・・)
紅葉を頬に貼り付けながら、シンジは嘆息し、そして、膨張させてしまった原因がどんな夢だったかは、一生の秘密にしようと誓うのだった。
「父さん、ごめん、朝ご飯と弁当、作るの手伝えなくて」
台所に降りていったシンジを、エプロンを付けたゲンドウが出迎えた。
「まったく、朝が弱いのはわたしに似たんだな。ほれ」
そう言って、ゲンドウはシンジに弁当を渡した。
「朝を食べている暇はあるまい。早弁しろ。これは昼食代だ」
2千円札を差し出すゲンドウ。
「ありがと、父さん」
「お前と違って、レイはすぐに起きてくれたぞ。お前に悪いとは思ったが、いずれ娘になるんだし、わたしが手伝って、朝食ももう済ませた。さあ、これがレイの弁当だ。忘れずに食べさせろ」
見ると、レイが食卓に着いていた。その視線の先には、きれいに平らげられた食器が並んでいる。
「父さん! やめてよ! いいなずけなんて、父さんが勝手に・・・・」
「いいなずけですって!?」
シンジは背後から聞こえてきた大声にすくみ上がった。恐る恐る振り返ると、アスカが怒りで顔を真っ赤にして、テーブルの向こうに座っているレイを睨み付けていた。やがて、アスカはシンジに向き直ると、詰め寄った。
「シンジ! どういう事よ? 答えなさい!」
「い、え、あ、そ、その」
とっさに言葉が出てこない。アスカはそんなシンジの胸ぐらを掴んで、締め上げる。宙吊りになるシンジ。
「言いたいことがあるなら、はっきり言いなさい! べ、別にあんたがどうしようと、アタシには関係ないけど、幼なじみに黙って、勝手なことをするのは、義理が立たないってもんでしょ! いいなずけって、どういう事!?」
「ぐ、ぐるじい〜」
「わたしが決めた、シンジの婚約者だよ、アスカくん」
しれっとした調子で、ゲンドウが告げた。アスカの表情が凍りつき、手から力が抜ける。シンジは、重力にしたがって落ち、床に転がった。ゲンドウは、シンジには見向きもせず、レイの背後に回る。アスカは、無表情のまま、それを目で追った。ゲンドウは、レイの両肩に自分の両手を起き、両方の人差し指で、若干レイの顎を持ち上げて、レイの視線を皿から、まっすぐアスカの方に向け、宣言した。
「アスカくん、紹介しよう。シンジのいいなずけ、綾波レイだ。レイ、お前にも紹介しておくぞ。あの赤毛の美少女が、惣流アスカ・ラングレーくんだ」
一人の少年と一人の少女が、毎朝ほぼ同じ時刻に駆け抜けていく学校への一本道を、今日は一人の少年と二人の少女が駆け抜ける。もっとも、二人の少女のうち、一人、いな一体は人形で、しかも車椅子に乗って、後ろから押され、前から輪の小さな鎖で引っ張られていたのだが。
「なんで、ちゃんと断らないのよ!!」
「断ったさ! でも、あの父さんが、僕の言うことをまともに聞くと思う!?」
言葉の応酬を繰り広げながら、アスカとシンジは通学路を爆走していた。アスカが鎖を引きつつレイを乗せた車椅子を先導し、シンジが後ろから押してエンジンの役目を果たしている。
「どういうつもりかこの女に直接問い質そうとしたら、マネキンじゃない。あんたとうとう、おじさまの病気が感染ったのかと思ったわよっ!」
「父さんが、勝手に言ってるだけだよ〜」
「どーだかっ! それに、よりにもよって、学校に連れてけですって!? それも、運搬用に車椅子を用意して、その上、前からも引っ張って速度が出せるようにチェーンまでつけて! 最初からアタシに手伝わせるつもりだったんじゃないのっ!!」
「でも、こうしてくれてなきゃ、完全に遅刻だよ〜」
「それ以前に、こーんなお荷物抱えてなきゃ、もっと楽だったわよっ!! あーん、もう、朝っぱらからややこしいことが起こるから、今朝はママに挨拶できなかったじゃないのっ!」
(なんだかんだ言って、アスカも慣らされてるんだよなあ)
「なんか言ったっ!?」
「ううん、もうすぐ学校だなって。ほら、この先の坂を下りれば、校庭に滑り込めるよ」
「やっばーい! 校門のところに風紀の鬼が! 後・・・1分!? シンジ、時間を縮めるわよっ!!」
「えっ、これ以上どうやって?」
「この女にも、手伝ってもらうのよおっ!」
手伝うって、綾波がマネキンだってこと、忘れたの? そう思ったシンジは、アスカの次の行動を見て驚いた。
「シンジ、速度を上げてっ!」
わけも分からないまま、シンジが脚力を振り絞ると、
「便乗させてもらうわよ、人形女っ!」
一声叫んで、アスカがレイの膝の上に跳び乗った。若干速度は落ちたが、その分シンジが速度を上げていたため、これまでの速度を保っている。
「できるだけ初速度をつけるのよ! 坂を下り始めたら、車椅子のお尻に跳び乗りなさい!!」
「え、まさか・・・」
「おいてくわよっ!」
「う、うん、分かった」
覚悟を決めるとシンジは、後でアスカに怒られないよう、足をフル回転させ、坂道に突っ込むと同時に、車椅子の背中に跳びついた。
「ひゃあっほおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!!」
重力をエンジンに加速しつつ、車椅子は坂道を落下するように走り降りていく。途中、脇道から自転車が飛び出してきたが、アスカは、掴んだ鎖を手綱のように操ってかわす。
「うわあああああああああああああああああああああああああああ!!!」
登校中の生徒たちは、近づいてくる悲鳴に何ごとかと振り向き、その場に硬直する。
シンジとアスカとレイを乗せた車椅子は、そのままほぼ一直線に校庭に突っ込んだ。腕時計と生徒たちを交互に睨んでいた風紀の鬼も、止める間もあらばこそ、他の生徒たちとともに唖然としている。
「やったわ! 練習もなしにここまでうまくいくなんて! やっぱりアタシは天才ね!」
「アスカ・・・」
シンジからの呼びかけに、アスカは振り返る。
「なあに、シンジ。もっと嬉しそうにしたら? 遅刻しないですんだんだし」
「どうやって停まる気?」
「・・・・・・・・・・」
「アスカッ! 前っ!」
アスカが前に目を戻すと、学校の正面玄関が迫ってきていた。その前には階段、玄関にあるのはガラス戸というデストラップである。
「きゃああああああっ」
「アスカッ! どっちでもいいから舵を切ってっ!」
ところが動転したアスカは、体をのけぞらせて、鎖を引き上げてしまった。車椅子の前面が持ち上がり、ウィリー走行の形になる。そしてそのまま、階段に乗り上げ、ガラス戸に突っ込むのは避けられたものの、ほぼ垂直に飛び上がってしまった。
「「ひぇえええええええええええええええええええええ!」」
どしゃっ! 運良くコンクリートでも固い地面でもなく、階段脇の茂みに落ちたシンジの上にレイが、そしてアスカが落ちてきた。彼らの脇すれすれのところに、車椅子がタイヤの方から着地した。
「ア、アスカ・・・大丈夫? どこも打ってない?」
「無事よ・・・レイのお陰かしらね・・・」
見るとアスカの下、シンジの体の上に挟まれるようにして、レイの体が横たわっていた。
「あ、綾波・・・どこも壊れてないかな・・・」
「クッションになってくれたみたい・・・衝撃を吸われたような感じがしたから、後で調べておかないとね・・・さ、行きましょ、カバンはアタシが持つから、車椅子とレイをお願い!」
「うん!」
予鈴には間に合わなかったが、二人と一体が教室に駆け込んだ時、担任はまだ来ていなかった。しかし、教室にいたほぼ全員の視線が二人と一体、いや、厳密には、シンジと、シンジが抱えている人形を突き刺した。そして、彼らを見つめる生徒たちの中心に、2-Aの級長、洞木ヒカリがいた。数少ない例外はシンジの一番仲がいい友人で、その二人、トウジとケンスケは心配そうに、ことの成り行きを見守っている。
その視線の不快さに、アスカは思わず声を上げそうになったが、シンジが手首を掴んで制した。シンジは折り畳んだ車椅子を教室の後ろに置くと、レイを自分の隣の空席、一番後ろの窓際に掛けさせ、自分も教室の一番後ろにある自分の席に着いた。それを見てアスカも、シンジの一つ前の自分の席に掛けた。
ヒカリがシンジに近寄ってきた。シンジの隣に立って、ヒカリはシンジを見下ろしながら、言葉を選んでいるような表情をしていたが、意を決したように口を開いた。
「碇くん・・・勉強に関係ないものは、学校に持って来ちゃいけないのよ・・・」
「わかってるよ・・・でも・・・」
シンジは次の言葉を口にするのをためらう。その時、視線を感じた。目を向けると、アスカがこちらを振り返って、瞳で語りかけてきていた。それを見て、ついにシンジは覚悟を決めた。
(やましいことはないんだし、ホントの事情は言っておこう)
「父さんが勝手に決めたことだけど、一応はいいなずけだし、連れてこなくちゃいけなくなったんだ」
なぜか、ガクッと姿勢を崩すアスカ。
(そうじゃないでしょ〜、バカシンジ! 美術で絵のモデルにするとか、いくらでも言いようがあるじゃない〜!)
アスカの、声に出されなかったつっこみとは、まったく関係なく、「いいなずけ」という言葉は、2-Aの教室に激震を起こした。
「「「「「「「「「「「「「「「いいなずけ〜!!?」」」」」」」」」」」」」」」
「お、おい、碇、早まるのはよせ。俺たち、まだ14じゃないか」
「そ、そうだぞ、今時、親が決めた結婚相手なんて・・・」
男子は、級長を中心とした女子の会話に加わることがないせいか、人間との婚約と誤解している者が多い。なおトウジとケンスケは、例外的にヒカリからことのあらましを聞かされている。女子は、変態でも見るような眼でシンジを見つつ、ひそひそ話を続けている。
「あ、これ人形じゃないか!?」
男子生徒の一人がレイの方に近づいていって、素っ頓狂な声を上げた。女子の多くは、やっぱりという顔をする。
「人形?」「人形だって・・・」「人形って・・・」「人形だろ」「人形かよ・・・」
男子は、今さらながらに、ざわつく。
一度は覚悟を決めたシンジだったが、反響のすさまじさに、内心及び腰になった。
(や、やっぱ、まずかったかな・・・)
ヒカリは腰に手を当てたポーズで、シンジを見下ろしていたが、大きく深呼吸すると、彼に告げた。
「そう・・・でも、これは校則違反よ。先生には報告します。するまでもないでしょうけどね・・・」
そして、ヒカリは自分の席に戻った。それを合図に、他の生徒たちも各自の席に着く。何も解決していないが、取りあえずシンジはホッとする。
ヒカリの席は、教卓のすぐ前で、シンジのすぐ前であるアスカからは、その顔は見ることができない。
(ヒカリ・・・・・・・・・)
アスカはヒカリの背中を、じっと見つめた。
この4月、転校してきたばかりで級長にさせられたヒカリを、一番最初から助け、味方してきたのは、他ならぬアスカだった。初めのうちは、何もかも押しつけてくる級友に対して何も言えず、てんてこ舞いして、うまく行かないことがあれば、非難されてもただ泣いていただけの気弱な女の子が、短期間で立派な級長になったのは、本人の努力以外にも、アスカの協力によるところが大きい。そしてその間に、ヒカリとアスカは親友になっていた。
しかし、級長に就いた当初、ヒカリの弱点であると同時に、美点にもなっていた生真面目さは、今では融通の利かなさとして、最大の欠点になっていた。
(こんなつもりじゃなかったんだけどな・・・)
アスカは、級長を押しつけられて、右往左往しているヒカリを助けたかっただけなのだ。それが、彼女をいい意味で変えたのは確かだが、同時に人間としての魅力を大きく損なったのではないかとの懸念が、最近アスカを捉えて離さないのだった。
足音が近づいてきて、教室前の出入り口が開いた。定年間近と一目で分かる、目の細い、生徒が見えているのかどうかも分からない、老教師が入ってきた。
級長の号令で、生徒たちは一斉に起立し、礼し、着席する。老教師も、答礼した。
「皆さん、お早うございます。 今日休んでいる人は・・・」
そう言って、彼は教室全体を見回した。ヒカリは、シンジの校則違反を報告するタイミングを逃さないために、彼の視線を追う。彼の視線が、昨日まで空席だったところ、すなわち今、綾波レイが着いている席に到達した。
「せ・・・・」
言いかけて、ヒカリは絶句した。老教師の視線は、そこに留まることなく、次の席へと滑っていったからである。
「いないようですね・・・欠席者なし、と・・・」
(違うだろー!!)×約40
教室中の生徒たちが、心の中で突っ込む中、老教師は、まさに何ごともなかったかのように、ホームルームに入り、伝達事項を生徒たちに知らせ始める。
当てが外れたヒカリは、じりじりしながら、学校から生徒への意思伝達や口頭での通知が、終わるのを待った。とにかく、皆の前で、先生に校則違反を指摘してもらうのよ。
「それでは、伝達事項は以上です」
老教師がそう告げると、待ってましたとばかりに、ヒカリは、立ち上がる前の前運動として、両手を机についた。と、その時・・・。
だだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだ!
ガラッ!!
音高く、廊下を走る音が近づいてきたかと思うと、勢いよく教室の扉が開かれ、白衣を着た女性が飛び込んできた。学校医である。
「遅刻寸前に、車椅子で学校に飛び込んできて、階段に乗り上げて、茂みに落っこちたっていう男子一人と、女子二人はどこっ!? このクラスのはずよ!!」
あまりの剣幕に、生徒たちは、今しも立ち上がらんとしていたヒカリも含めて、硬直する。
「あ、あの・・・」
シンジが、おずおずと挙手した。
「それ、多分、僕と、アスカです。そしてもう一人というか・・・あとはこの、綾波だと思います」
「バカッ! 駄目じゃない! そういうときは何をおいても、まず保健室に来なくちゃ! どこか、気がつかないうちに折ってるかもしれないし、頭だってぶつけてるかもしれないでしょ! 脳内出血でもしてたらどうするの! すぐ支度をなさい! 今から病院に行くから」
そして、ようやく、彼女は老教師の方に向き直った。
「失礼いたしました、先生。お聞きの通りの事情ですので、当該の生徒たちを病院に連れていきます。よろしくお含み下さい」
「ええ、どうぞ」
さすがは、年の功というのか、外界の出来事に反応するだけの感受性が失われているのか、老教師は動じた風もなく、淡々と承認した。
蛙のように机に手をついた姿勢のまま、ヒカリは硬直していた。
「あなたと、惣流ね・・・それで、綾波ってのは?」
学校医の発言に、希望を見いだし、ヒカリは再起動する。首をひねり、窓際を視界に入れた。学校医はちょうど、シンジの席と、レイが着いている席の間に立っている。
「・・・・・・はい・・・先生の後ろに・・・・・・・・・」
「あ、そう。この子ね。あなたもいらっしゃい。確か、このクラスに綾波って子はいなかったはずだけど、あなた、今日から来た転校生?」
当然、返事が返ってくるはずもない。しかし、彼女も落下事故にあったという情報を得ていた学校医は、それを別の意味に取った。
「・・・失礼」
そう言って、学校医は目をのぞき込む。眼球は、見えているはずの保険医の動きに、まったく反応しない。それどころか、レイの肩においた手が、彼女の脳に伝えてきた冷たい感触。
「・・・・まさか!」
学校医は、急いで鼻と口に手を当てる。息をしていない。首筋に指を当てる。脈がない。
「スペースを空けて!!」
そう叫ぶと、学校医は周囲の生徒を立たせて、机を押しのけ、レイをそこに横たえ、心臓マッサージを開始、しようとして、胸を押しても、まったく肋骨がたわまないことに気づいた。そして、まじまじとレイの顔や手を見つめ、ようやくレイが何であるかを悟った。
「人形?・・・碇! 何でこんないたずらをするの!」
相当に腹を立てて、立ち上がり、学校医はシンジを見下ろした。
急なことに、シンジは言葉が出てこない。
チャンス! 先ほどから同じ姿勢だったヒカリは、腕に力を込め、それをバネにして、跳ねるように立ち上がった。
「先生、それは・・・・・・」
「シンジが、介助に関心を持っているからです!」
ヒカリの言葉を途中で断ち切って、自分の言葉を接ぎ木したのは、誰あろうアスカであった。親友の意外な邪魔立てに、言葉をなくし、ヒカリは呆然と立ちすくんだ。そんなヒカリに背中を向けたまま、アスカは、言葉を続ける。
「シンジの家が、婦人服のお店をやっているのは、先生もご存じでしょう? シンジは、最近介助に関心を持つようになって、それで、お店のマネキンと車椅子を使って、学校に来るまでの坂道が、車椅子にとって安全かどうか、介助しながら、登校するにはどうしたらいいか、実地に検分してみたんです。アタシも手伝ったんだけど、遅刻しそうになったんで速度を出したら、先生がおっしゃったような事故を起こしちゃって・・・ご心配をお掛けして申し訳ありません」
入学の際、学校はおろか、教育委員会まで驚嘆させた知能指数の持ち主は、その全能力を、この場をどう言いつくろうかに注いでいた。後で考えたら、とんでもないことを言っているかもしれないが、今はこの場を乗り切らねば・・・。
一時は顔を真っ赤にしていた保険医は、ずいぶん機嫌を直すと、シンジに言った。
「そう・・・そういうことに関心を持つのは、いいことだわ。でも、事故に遭わないように気を付けなきゃね・・・それと、事前に学校には相談するように。わたし、ビックリしたじゃないの」
アスカの大嘘に頭がついていかず、フリーズしていたシンジも、保険医が態度を軟化させたのに気づくや、とにかく危機は去ったということだけは理解して、何はともあれ、話を合わせて
「はい、すみません」
とわけも分からないまま、殊勝な態度をとった。
「さ、それじゃ、碇と惣流は病院に行きましょう。で、その人形はどうするの?」
「あ・・・・(いいなずけだから・・・違う違う、これはやっぱり、父さんが勝手に決めたことじゃないか・・・でも、一応義理はあるし・・・そうだ、放っておくと、作ってくれた青葉さんに悪いから)連れていきます」
かくして、校則違反者と共犯者と、校則違反の品物とは、保険医に連れられて、堂々と教室から出ていった。それをヒカリは敗北感を噛みしめながら見送っていた。
(タイミングを、完全に失ったわ・・・アスカ・・・どうして〜!? 碇くんのこと、好きだからって、大目に見ていいことじゃないでしょう!?)
もし、アスカが聞いていたら、絶対に肯定しそうにないことを考えつつ、ヒカリは心の奥底に、黒々とした塊を醸成するのだった。
(ゆるせないわ・・・いくら、アスカでも、ゆるせないわ・・・)
検査の結果、異常はまったく見あたらず、丁度昼休みが始まるタイミングで、シンジたちは、学校に戻ってこられた。
「トウジ、ケンスケ、昼飯一緒に食おう」
そう言って、シンジは、カバンから弁当を二つ取り出した。自分のためにゲンドウが作ってくれた弁当は、結局早弁する暇がなかった。トウジとケンスケは、内心戸惑いつつも、昼休みまでの間に二人で話し合った結果、いつも通り振る舞うことに決めていた。
「ヒカリ、いつものように、お昼一緒に食べましょう」
そう言って、アスカも、自分の弁当をカバンから取り出す。ヒカリは、内心思うところがあったものの、それでも頷いて、弁当を持つと、いつも昼食を食べている屋上に向かった。
彼らの学校の屋上には、ベンチがある。いつものようにヒカリがベンチの右端に、アスカがベンチの真ん中に腰掛けると、これまたいつものように、アスカが言うところの2-Aの三バカ、シンジとトウジとケンスケが姿を現し、シンジがベンチの左端に、トウジがその横の屋上そのものにあぐらをかいて、購買部のおむすびを広げ、ケンスケは、ベンチと手すりの間に入って、手すりにもたれて立ったまま、購買部で買ってきたパンの包みを開けた。
ただいつもと違っていたのは、シンジがレイを抱きかかえて、連れてきたことであり、スペースがなかったこともあって、シンジはレイを自分の隣に密着させるように座らせると、自分とレイの前に弁当箱を一つずつ開いて置き、食べ始めた。
「ねえ、アスカ」
「な、な、なに・・・」
「ありがとう」
「え?」
「ああ言ってくれて、助かったよ。ホントは、僕がもっとしっかりしてなきゃいけなかったんだよね」
「そ、そうよ。あんたはいっつも、ボケボケッとしてるんだから、こういう時は言い訳ぐらい考えておきなさい!」
「そうだよね。ごめん。それと級長にも」
「わ、わたしにも?」
「うん・・・どう考えても、級長の言ってることのほうが正しいってのは、僕も分かってるんだ・・・でも、僕にも、このレイをないがしろにはできない理由があるんだよ・・・父さんが勝手に決めたことだけど、いいなずけにするんだって、あんなに張り切ってるんだし・・・それにレイを作ってくれた人にも悪いし」
そう言いながら、シンジはレイの食事も手伝いつつ、弁当を平らげていく。
ここで、解説しておくと、碇家の食事において、人形が陪席する場合、人形と、その同伴者である人間一組に対し、一人前の食事が出る。つまり、人間と人形の前に、それぞれ半人前の料理が出されるのであり、人間は自分の分と人形の分を交互に自分の口に運ぶ。シンジとレイの場合、それぞれの小さな弁当箱に、一人前の半分の弁当が入っていた。
さらに、レイは、肉が嫌いという設定が加わっているので、肉でできたものは直接自分の口に入れず、一旦自分の弁当箱に移した上でシンジが食べてあげるという、高級かつ複雑なルールがある。ゲンドウはあえてトラップとして、レイの弁当にも、肉団子、ほうれん草をハムで巻いたもの、中に何がくるんであるか分からないビックリおむすびなどを入れていたが、シンジは、ほうれん草はハムを外し、おむすびはバラバラにほぐして、肉が入っていないか確かめるといったように、巧みに罠を回避していった。
特筆すべきは、シンジにとって、碇家流人形同伴の食事が、生涯でまだ2度目だったということだろう。門前の小僧、習わぬ経を誦むというが、環境が子どもに与える影響というのは、馬鹿にできないことを痛感させられる。
「・・・僕自身、本当に結婚するつもりはないけれど、その人たちの気持ちを無視するわけにもいかないんだ。だから・・・大目に見てくれない?」
(大目に見る?・・・)
その言葉に、ヒカリは眉毛をピクリと動かした。だんだん顔が紅潮してくる。
「ヒカリ?」
ヒカリの様子を見た、アスカが怪訝に思って声をかける。
「ダメよ・・・・・・」
ヒカリはうめくようにして、声を絞り出し、拒絶した。
「級長・・・・・・」
シンジは途方に暮れたような顔で、ヒカリを見た。
「大目に見るなんてできないわ! 校則は校則よ! 鈴原!!」
「は、はい!」
ヒカリに、名字を怒鳴られたトウジが、条件反射で飛び上がった。
「碇くんのマネキンを没収しなさい!」
「え、そんな」
シンジが抗議の声を上げる。
「級長、やり過ぎじゃないか?」
ケンスケが、止めようとする。
「あかんのやったら、明日から持って来ささへんかったら、ええやんか。何も、いきなり没収やなんて、20世紀やあるまいし・・・」
トウジも、できるかぎり逆らう。
「ダメ!! とにかく、生徒会室の方でマネキンは預かってもらいます」
ヒカリがこうなったら、止められないのはみな知っていた。そして、没収されたものは、預かっている側の胸先三寸で処置されるため、いつ返ってくるか、分からないことも。
やむなく、トウジは、レイの肩に手をかけた。
「トウジ・・・どうしても、レイを連れていくの・・・」
すがるような目で、シンジはトウジを見つめる。
「しゃあない。今は逆らっても無駄や。安心せえ。ワイが何とかしとくから」
トウジは、シンジの耳元にささやきながら、レイを抱き取った。
「レイ・・・」
シンジは、どうしたらいいか分からない顔で、それでも手を離しかねて、レイの垂れた右手に自分の右手を添えた。
「何やってるの? 離しなさい!」
そう言って、ヒカリがシンジの手を、レイの手からもぎ離そうとしたが、その肘を引いて、アスカが制止した。
「アスカ! また邪魔をするの!?」
「ヒカリ・・・黙っておきたかったけど、本気みたいね・・・ならアタシも言うわ。今のあなたは、学校の意志に逆らってる」
「!? どういう事よ!」
「シンジが、レイを学校に連れてきて、世話するのは、介助の勉強のためと、学校医の先生に認められたのよ。病院に行っている間に、先生と詳しく話を進めたから、今頃職員室に話が行っているはずよ」
「・・・・・・なんで、そんなことを」
ヒカリの声が震えている。
「・・・シンジに、校則違反でペナルティーがつくのを、幼なじみとしちゃあ、黙って見ているわけにはいかないし・・・それに、今回はヒカリを止めたかったのよ。・・・ヒカリ、級長は校則を遵守するけれど、それはみんなのためにそうするのよ。今のあなたは、シンジのことを考えてないわ」
「わたしはっ! みんなのためにやってるのよっ! それを、一番味方してきてくれたあなたが、そう言って裏切るのっ! もう、いやあああああっ!!」
いきなりヒカリの様子が変わり、そして彼女が叫んだのに、一同は呆気にとられた。
みなが呆然とする中、ヒカリはトウジの耳を、掴んで、屋上のはじまで、走った。
「いでででででででででででででででででででででででででででで!」
痛がりながらも、引っ張られて、レイを抱えたまま、ヒカリについていくトウジ。
「やばい!」
ケンスケが機敏に反応して追いかけ、我にかえったアスカとシンジも、それに続く。
屋上のはじに来たヒカリは、トウジに向き直った。
「鈴原! そのマネキンをここから落としなさい!」
「え!? 無茶な!? 下に誰ぞおるやしれんし、それにこんな高そうなもん壊したら・・・」
「言い訳は聞きたくないわようっ! あんたがやらないなら、わたしが・・・」
そう言って、ヒカリはトウジの腕の中のレイを奪い取ろうと、掴みかかる。今のヒカリは正気じゃないと判断したトウジは、奪われまいとする。そうして、二人がもみ合ううちに、二人の体が、脇腹を支点に、屋上を取り巻く鉄柵を乗り越えてしまった。
「うあっ」
「きゃああああああああああああっ!」
「級長っ! トウジッ!」
ケンスケが鉄柵に駆け寄る。
間一髪、トウジが鉄柵に足を絡めて、逆さ吊りになり、そしてトウジの伸ばした両手が、レイの両手を握り、レイの両足をヒカリが両手で掴んでいるため、二人と一体は、何とか地面に叩きつけられずにすんだが、危機的状況は変わっていなかった。
「級長・・・離したらあかんで・・・・・・」
「きゃあああああっ! きゃあああああああっ!」
ヒカリはパニックを起こしている。
「ヒカリッ! 落ちついて! 今助けるから!」
アスカも呼びかけるが、ヒカリを冷静にすることはできない。
「トウジ! 待ってろ! シンジ、少しでいい。頼む!」
そう言ってケンスケは、屋上の出入り口に駆け戻ると、階段を駆け下りていく。
「トウジ・・・しっかり」
そう言いながら、シンジはロープのようなものがないか、必死で屋上を見回す。屋上清掃用のホースがあった。
(せめて、これを命綱に・・・)
そう思い、シンジは、鉄柵越しに、ホースをトウジの腰に巻き付け、もやい結びで縛り上げる。
(後は、引っ張り上げなきゃ・・・でも、ホースだから、結び目が滑ってほどけないだろうか)
「アスカ・・・僕一人じゃ無理だ。ケンスケが先に行ったけど、君も誰か男子を呼んできて」
「ええ」
アスカが駆け出そうとしたその時、ヒカリの悲鳴が上がった。
「もうダメ! 落ちるうううう!!」
「ヒカリ!」
屋上の出入り口から、男子生徒数人と男性教員たちが駆け込んでくるのが見えた。
(間に合って!)
アスカは心の中で、祈りを叫ぶが、さらにヒカリの悲鳴が重なった。
「イヤアアアアアアア! もうダメエエエエエエ!」
その時、ヒカリの耳に、ケンスケの声が届いた。
「級長!!」
そして、ヒカリは二本の腕に抱き取られるのを感じた。
ヒカリの目の前にあった窓が開き、そこからケンスケが手を伸ばして、引き入れてくれたのである。
トウジは、ケンスケがヒカリを助けたのを見届けると、まずは一安心した。ほぼ同時に、トウジの体が上へと引き上げられ始めた。レイとともに、男性教員たちに引っ張り上げられたトウジは、顔を真っ赤にしている先生たちへのお礼とお詫びもそこそこに、屋上への出入り口に駆け込むと、一階下まで、階段を駆け下り、見当を付けて、目当ての部屋に向かった。
ドアが蹴り破られた、今は使われていない準備室に入ると、ヒカリが座り込んで、泣きじゃくっており、その頭に手をおいて、ケンスケが慰めていた。
「級長・・・・・・」
トウジは呟くように、安心したように、彼にとっての彼女の名前を呼んだ。ヒカリは、ビクンと体をふるわせると、目を押さえていた手を顔から外して、声がした方に向いた。
「すずはら〜! こわかったよおおおおお〜!!」
ヒカリは鈴原にとびつくと、おんおん声を上げて本格的に泣きだした。やっと、手放しで泣けるほど、安心したのである。
準備室の外では、教師たちがぶつくさ言っていたが、彼らも人間だったので、今割って入るような野暮はしなかった。もっともその分、後の小言はしつこくなったが。
下校時間が来て、クラブに入っていない生徒たちは帰り始めた。帰宅部のシンジとアスカも、レイを車椅子に乗せて、登校時には下ってきた坂道を上って、帰宅の途についた。
「今日は結局、レイのお手柄っていうことかな」
「偶然に決まってるけどね」
屋上での騒ぎの後、ヒカリが落ちつくのを待って、彼ら5人は職員室で、事情聴取を受けた。一番心配されていた、ヒカリの説明は、シンジが介助の勉強のために、人形を持ってきたので、自分とトウジが使わせてもらい、人形に屋上からの眺めを見せようとしたところ、バランスを崩したというものだった。シンジが人形を持ってきたことについて、批判がましいことは何一つ言わなかった。
「あの人形の足を掴んでて、助かったんだしね」
聴取がすんだ後、ヒカリは照れくさそうに笑って、他の四人にそう言い、さらに言葉を続けた。
「みんな・・・助けてくれてありがとう」
心の底にあった黒い塊は、涙で流し去ったらしく、すっきりした、いい顔をしていた。
「何言ってるの。友達じゃない」
そうアスカが言うと、ヒカリは首を振った。
「ううん。あの時、わたしはあなたたちが自分の友達だってこと、忘れてたわ。あなたたちがそれを思い出させてくれたのよ。・・・碇くん」
シンジは、自分に向き直ったヒカリに、改めて目を向けた。
「人形・・・レイにもお礼を言ってるって伝えておいて」
「そう言や、あたしも、今朝、レイに受けとめてもらったお礼言ってなかったっけねえ」
「そうかな・・・でも、アスカ、あの時から、レイのこと、名前で呼ぶようになったよ」
アスカは顔を赤らめた。
「つまらないことに気づくのね、あんたは」
「それよりも、アスカが保健の先生と話してくれたお陰で、レイを学校に連れてきても、いいことになったわけだよね。つまり、アスカが、レイを助けてくれたっていうことじゃないかな」
「そういうことよ。つまり、行動で借りは返したわけ・・・ああっ!!」
「ど、どうしたの?」
(て、ことは・・・シンジとレイがいいなずけとして、一緒に学校生活をおくる手助けをした、ってこと〜!?)
「ア、アスカ?」
(なんてこと・・・大失態よ・・・向こうは人形とはいえ、親が認めたいいなずけという強みを持っている・・・それなのに、それに加えて、学校にレイが侵入するのを許してしまった・・・)
「アスカったら、アスカ」
(本来、人形は学校に来られないはずで、だからアタシがシンジを独占できる唯一の場所だったはずなのに〜・・・・・・この不利な状況を何とかしなきゃ!)
「アスカ!」
「シンジ!!」
アスカが急に、シンジの目を見据えて返事したので、シンジは驚いた。
「シンジ! ホントにレイと結婚するつもり!?」
「え・・・」
改めて問われたシンジは、即答できなかった。しかし、やがて常識的な考えが、シンジの頭の中を支配した。
「そんなこと・・・できるわけないじゃないか・・・・・・マネキンなんだし」
いかにも、レイが人形であることが、不満だと言わんばかりの返事に、アスカは内心ひどく腹を立てたが、そこをぐっと押さえて、会話の誘導を試みた。
「そうよ・・・レイは確かによくできてるし、今日一日の体験で、アタシたちにとっては、単なる物品以上の存在になったわ。たとえ、レイが目の前から消えるようなことがあっても、アタシたちがレイのことを忘れることはないでしょうね・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
「だけど、どんなに大事な存在でも、ものはものよ。人間とは違う。例えば、あんたは成長するけど、レイはずっとこのまま。・・・結婚相手にはならないわ。でも、あのおじさまだったら、強引にでも結婚させかねないわね。だから・・・」
「・・・・・・そこまでひどくないよ。父さん、『取りあえず付き合ってみろ。それでダメと分かったら、無理強いはしない』って言ってた」
「! そこよ!」
ゲンドウが思いの外、自分の目論見に有利なことを言ってくれていたことに、アスカは感謝した。
「他に好きな子がいるとか言えば、おじさまも納得してくれるんじゃないかしら。おじさまが言っているのは、レイを人形だからって、最初っから相手にしないまま結論を出すのは許さないってことでしょう。だったら、人間のいいなずけを押しつけられた場合のように考えるのよ。その場合、押しつけてきた親を納得させる理由としては、いいなずけに欠点があるか、欠点はないけど相性が悪いか、他に好きな人がいるか、ね。おじさまを諦めさせるために、偽装でも、恋人を作ったら?」
「え? え? 欠点や相性じゃダメなの?」
「う・・・・・・じ、時間がかかるのよ、それだと!」
「で、でも、都合よく、偽装の恋人になってくれる女の子なんて・・・」
(あ〜っ、このニブチンが〜っ!!)
「・・・・・・・・・・・・い、いいい、いるじゃな、ななな、ない、こここ、ここに」
「え?」
「い、いるじゃない、ここに。・・・目の前に」
「・・・アスカが?」
「かっ、勘違いすんじゃないわよ! アタシは幼なじみのよしみで、あんたがマネキンと結婚させられるのがかわいそうで、言ってるんだからね! だから、犠牲的精神で、あんたの仮の、仮面の、偽装の恋人になってやろうってのよっ! こんな美少女が、世を忍ぶ仮の姿ででも、あんたの恋人になってやろうってんだから、泣くほど感謝しなさいっ!!」
顔を真っ赤にして、説得力ゼロの態度でまくし立てるアスカ。たとえ、恋愛に関してはブロントザウルス並に鈍感なシンジであっても、ここまであからさまに表面化していると、さすがにアスカの気持ちに気づいた。。
「ア、アスカ・・・・・・」
「な、なによ、シンジ・・・」
「あ、あのっ、間違ってたら、ごめん。アスカ、まさか、僕のことを・・・」
「だあ〜っ、バカシンジッ!!」
「あっ、ご、ごめん。やっぱりそうだよね。君みたいな美人が、僕のことなんて・・・」
「そっちのことじゃないわよっ!!」
「え、じゃ、じゃあ・・・」
「・・・バカ」
「ご、ごめん」
しばらく無言で、二人は車椅子の前と、後ろを歩いていた。
「・・・・・・・・・・・・ふふふ」
「・・・・・・・あは・・・ははは」
「うふふふふ」
「あはは・・はは」
「ふふふ・・・」
(結局、これもレイのお陰かしらね)
笑いながらアスカは、振り返ってレイの顔を見た。レイは伏し目がちな表情で、アスカの足元を見つめていた。それがアスカには、車椅子に揺られてウトウトしているように見えて、ひどくかわいらしく感じられた。
西日が照らす中、どこまでも影法師を伸ばしながら、子どもたちは、あるいは助け、あるいは助けられて、坂を上っていった。