これでいいのだ

無名の人 さん



 「おじさま、おばさま、おはよーございます!」
 碇家にいつもの元気よい朝の挨拶が響いた。
 「あら、アスカちゃん、おはよう。いつも早起きでえらいわね」
 「はい!」
 「それに引き替え、シンジはしようのない子ね。アスカちゃん、悪いけど、いつもどおり起こしてきてあげてね」
 「はい! シンジお兄ちゃーん!」
 一家の主婦ユイ(38歳)に頼まれ、一家の一人息子に呼びかけながら、トテトテ階段を昇っていく、碇家の同居人惣流アスカ・ラングレー(5歳)。
 「ホントにいい子、特別でなかったら、あの子を完全に自分の子として育てたかったわ・・・」
 言っても詮無いことながらユイはいつものようにそう思った。別にアスカに特別なところがなくても、ユイの思いに変わりはなかったろうが。
 「それよりあなた、今日はちゃんと職安に行って下さいよ」
 台所仕事に戻りながら、ユイは自分の夫に語りかけた。これもまた毎朝の風景。
 「ああ」
 夫の生返事もいつものこと。
 「ホントにふらふらしているのは、シンジと同じなんだから」
 「ああ」
 夫は新聞を読みながら、生返事を繰り返す。
 「あなたがまともに働いてくれないと、冬月先生に『亭主の操縦』についてお説教されるの、私なんですからね」
 理不尽ここに極まる。
 「相変わらず、君はもてるからな・・・」
 妻の恩師の真意をよく知っている夫はそう答える。
 トントントン、と降りてくる音がして、碇家の跡取り息子、シンジ(14歳)が、起こしてくれた少女と手をつないで台所に顔を出した。
 「ふぁ〜っ、おはよう、父さん、母さん」
 「おはよう」
 「ああ」
 「もう、あなたったら、ほんとに行儀の悪い」
 いまだに新聞から目を離さない夫を見て、ユイはため息を付いた。
 (だいたい、逆さに持って読んでいて、内容が分かるのかしら)
 結婚以来15年疑問に思い続けていたことだが、やはり今朝も口にすることなく、ユイは夫と息子、そして娘のように可愛がっている女の子にご飯をよそう。ようやく夫、碇ゲンドウ(48歳)は新聞を下ろした。
 シンジはつくづく思う。小学生の頃はなんとも思わなかったが、自分の父親がきわめて異常な風体をしていると。顔面凶器を越え、顔面兵器といってもいい顔立ち。室内でも赤いサングラスを掛け、もみあげと繋がった濃い顎髭を伸ばすことでカバーしているつもりなのかもしれないが、はっきり言ってとてつもなく逆効果である。かなり長身な上に痩せ形であるためよけいに背が高く見え、黙って座っているだけで異様な威圧感を発揮している。あたまに「や」もしくは「ご」のつく商売だと言われても、疑問に思う人間はいないだろう。名前がゲンドウなどという厳めしいものなので余計である。だが、それは彼が普通の格好をしていればの話。先に述べた容貌体格の人物が、1年365日、頭に鉢巻きを締め、上はパッチ、下は一応ズボンだが腹巻きを巻いた格好でいるのだから、その印象は筆舌に尽くしがたい。なぜ母はこんな変人と結婚したのか、シンジは世界の七不思議の一つに加えてもいいのではないかと思っている。
 (僕は大人になってもこんな風にはならないぞ)
 口に出しては言えない決意を今日も新たにするシンジであった。

 その頃、隣家、赤木家では・・・
 「ほら、起きなさい。あなたが一番お姉ちゃんなんだから」
 そう言って面倒を見ている少女の布団をはぎ取る、赤木家の一人娘、リツコ(30歳)。髪を金に染め、泣きぼくろがある。朝御飯前なので化粧はまだしていない。普段着にしているのか白衣を着ている。
 「む〜、私じゃないわ。一番上はそっち〜」
 布団の下から現れた色白で、青い髪をした、赤い眼の少女は、薄く眼を開けながら隣の布団を指差した。
 「ほら起きて。一番お姉さんなんだから、起きて、一緒にみんなを起こしなさい」
 リツコが次の布団をはぎ取るが、そこに現れた、さっきと同じ姿の色白、青い髪の少女は目も開けず、
 「わからないわ・・・だって、私は3人目だから・・・」
 と言いつつ、人差し指で隣の布団をさす。
 「起きなさい」
 だんだん声がとげとげしくなってくるリツコ。
 「1人目はそっち〜」
 足で、足元の布団を指差す。
 「起きなさい!」
 「私じゃないわ・・・」
 寝返りで隣だと主張する。
 「起きなさい!!」
 「となり〜」
 「起きろ!!」
 「あしもと〜」
 ついに一巡して最初に戻り、リツコはとうとう爆発した。
 「1人目、2人目、3人目、4人目、5人目、6人目のレイ!! 起きろ〜!!!
 6人全員、敷き布団から跳び上がった。
 「着替えて、茶の間に集合!! 2分以内にこなかったら、朝御飯抜き!!」
 「「「「「「え〜っ!!?」」」」」」
 「え〜、じゃない! これは命令よ!」
 「「「「「「命令ならそうするわ・・・」」」」」」
 諦めた様子でてきぱき着替えを始める、レイと呼ばれた、まったく同じ姿の6人の少女(14歳)。1分以上時間を残して、みな制服姿になった。
 「まったく、やればできるのに、しないんだから・・・」
 ため息を付くとリツコは6人を連れ、茶の間に向かった。

 がつがつ、むしゃむしゃ、ぼりぼり、ごくごく、ばりばり、がぶがぶ
 気持ちよくなるくらい擬音をたて、むさぼり食うという表現がピッタリの健啖家ぶり。しかし、これが1人なら感心もしていられるが、6人ともなると稼ぎ手の悩みは並大抵でない。
 「「「「「「おかわり!」」」」」」
 「あ、朝から何杯食べるのよ〜」
 眉間にしわを寄せながら、一斉に突き出された6杯の茶碗を受け取る一家の主、リツコの母赤木ナオコ(?歳)。
 「私とリツコがいくら高給取りで、特許をいくつも持ってるからって、これじゃやってけないわよ〜」
 6人に茶碗を返しながら、ナオコは愚痴る。
 「なんとかならないの〜、リツコ〜」
 「しょうがないじゃない。私だって好きこのんで一度に6体もつく・・・」
 びしっ! 音を立ててその場の雰囲気が凍りついた。自分が禁句を口にしかけたことに気付き、リツコは真っ青になる。6人はみな、左手に茶碗を持ち、おかずに箸を伸ばした姿勢で固まっている。
 「・・・・・・・・・」
 救いを求める思いでリツコはナオコの顔を伺うが、ナオコはジト目でリツコをにらんでいる。
 (自分で責任をとりなさい)
 確かにその目はそう語っていた。
 (あ〜ん、やっぱり、言わなきゃ駄目なの〜)
 リツコは未婚である。だからこそ非常に抵抗があったが、あの日、この子たちの母になると決めた日以来、言わなければならない機会は幾度もあった。今回もリツコは覚悟を決めた。
 「わ、私だって、い、いっぺんに、6人も、う、生むつもりはなかったんだから・・・」
 一瞬間をおいて、6人のレイは、おかずを箸で摘み、口に放り込んだ。やかましい食事風景が戻ってきた。
 (この子たち一応14よ〜、私いくつで6人も生んだことになるの〜)
 天才の娘として自身も天才と呼ばれてきた彼女だったが、この小学校低学年の計算に頭脳を使ったことは一度もなかった。げに、自己防衛本能のありがたさよ。
 
 シンジは箸をおくと、両親がしつけた作法に従って手を合わせた。
 「ごちそうさま。さて、そろそろ行かなきゃ」
 「あ! シンジお兄ちゃん、アタシも行く、行くー」
 シンジと同じタイミングで食事を終えたアスカが椅子から飛び降りた。
 「駄目だよ。僕はこれから学校なんだから」
 「アタシもお兄ちゃんの学校に行くー!」
 「はいはい、小学校を出たらね」
 「小学校の勉強はもう終えたもん。中学校の教科書だって全部分かるもん」
 「そうだね。アスカちゃんだったら、僕よりもずっと成績もいいだろうね。でも、中学校は小学校を出ないと入れないんだよ」
 「ぶ〜」
 拗ねた様子でアスカは台所を出ていってしまった。
 「やれやれ」
 そう言ってシンジは自室に上がると、リュックを背負って下りてきた。
 「隣が食事を終える前に、家の前を通過しなきゃ・・・父さん、母さん、アスカちゃん、行ってきます!」
 「行ってらっしゃい」
 「行ってこい、シンジ」
 両親の声に送り出され、シンジは家を飛び出した。
 (アスカちゃん、行ってらっしゃいがなかったけど、怒ってるのかな・・・天才でもまだ子どもだな・・・)
 なぜか口元がゆるんでくるシンジであった。

 「ちょっと、いつまで食べてるのよ〜。母さん、お隣まだ〜」
 もう自分のひと月の給料分ぐらいは胃袋に消えたのではなかろうか。相変わらず食事を続けている6人に、リツコは半泣きである。
 「あ、来たわよ。シンジくんが家の前を通るわ」
 窓から表の様子を伺っていたナオコから答えが返ってきた。
 ぴた。6人のレイは一斉に動きを止める。すっく。どどどどどどどどどどどどっ! ナオコが覗いている窓に駆け寄る6人。窓の外には、こちらの気配に気付いたのか、走っている姿勢のまま、恐怖に顔を引きつらせて硬直している、隣家の少年がいた。
 「「「「「「シンちゃんだー!!」」」」」」
 ぎっくぅ! そのユニゾンが合図だったかのように、シンジはその場で跳び上がると、一目散に駆け出した。
 「みんな、シンちゃんと一緒に学校に行くのよ!」
 「「「「「おーっ!!」」」」」
 一応長女とされている一人目のレイの号令に、五重奏で応じるその他のレイ。
 どどどどどどどどどどどどどどどどどどどどど・・・・どどどどどどどどどどどどどどどっ!
階段を駆け上がり、それぞれ自分のカバンを取って、階段を駆け下り、
 がちゃっ!!
ドアを開けて飛び出していく6人。お茶の間では、なぜか上がっていた土煙がはれるとレイたちに踏みつけられ、畳と一体化する寸前のリツコが残されていた。白衣の背中は足跡だらけである。
 (ううう・・・この生活が私に与えられた罰なの?・・・贖罪なの〜?)
 リツコが畳に顔を押しつけ、さめざめと涙を流している横で、レイたちよりよっぽどいいものを食っていた飼い猫、メルキオール(2歳)が
 「ぺしゃんこだ、ニャロメ!」
と突っ込んでいた。
 「あの食欲は問題だけど、ほんと活発に育って・・・」
 娘の悲惨な状態はさておいて、6人のレイの現状に満足するナオコ。
 「幸せって、こういうことをいうのかしら・・・」
 ナオコは、幸せは自覚すると長続きしないということを忘れていた。
 「「「「「「行ってきまーす! リツコお母さん! ナオコおばあちゃん!」」」」」」
 表を駆けていく6人からの、悪気が全くないお出かけの挨拶。ナオコは凍りついた笑顔のまま、リツコに近づいた。一方、人智を越えた災厄が身近に迫っているのを本能で感じたリツコは慌てて顔を起こす。そこには夜叉のような顔で微笑みかけてくる母親がいた。
 「リツコ〜、レイたちのしつけが、ちょ〜っと、なってないようね〜」
 その手には注射器が握られ、注射針が輝いていた。
 「いっ、いやあああああああああああああっ!!」
 
 「「「「「「シンちゃーん!! 私たちと一緒に学校に行きましょー!!」」」」」」
 「うわああああっ、綾波ーっ! 勘弁してよーっ!!」
 シンジは同じ顔をした6人の少女に追われ、学校を目指し、全力疾走していた。
 「シンちゃーん! シンちゃんが一番好きなのは私よねー」
 「違うわよ、シンちゃんが一番好きなのは、私よー」
 「何言ってるの。シンちゃんは私が好きなんだからー」
 「シンちゃんが好きなのはあなたたちでも、愛しているのは私よ」
 「あなたたち鏡見たことあるの? この中で、一番美人で、シンちゃんに愛されているのは、この私よ」
 「違うわ。一番グラマーなこの私こそ、シンちゃんに一番愛されているのよ」
 「「「「みんな同じ外見やないかい!!」」」」
 「追っかけてこないでよ〜。話があるんだったら学校で聞くからさ〜」
 「じゃ、教室で」
 「校庭で」
 「おトイレで」
 「「「ちょっと〜、シンちゃんは1人しかいないのに、バラバラだったら、誰かが有利になるじゃない〜」」」
 「「「仕方ないわよ〜。誰だって本心では、シンちゃんを独り占めしたいんだも〜ん」」」
 「「「じゃ、ここはやっぱり」」」
 「「「少なくとも今のところは」」」
 「「「「「「みんなで共有しましょう! シンちゃ〜ん」」」」」」
 「うわあっ! そんなこと言って、小学校の遠足の時、僕をバラバラにしかけたんだあっ!!」

 『シンちゃんはわたしのよっ!』
 『わたしのよっ!』
 『わたしのよっ!』

 あの時の声が耳の底でかすかに響く。
 忘れもしない、小学校3年の遠足の時、転校したてのレイたちは、他の生徒のほとんどが気味悪がって近づかない中分け隔てなく接してくれたシンジに、淡い恋心を抱いた。それがまさかあんな結果になろうとは・・・
 「あの時、私は頭だった・・・」
 1人目のレイの言葉に触発され、首が抜けそうになる感覚とともにあの時の光景がシンジの意識にしみ出してきた。
 「私は右手・・・」
 「私は左手・・・」
 「私は右足・・・」
 「私は左足・・・」
 「余った私は・・・」
 「わああああっ! 6人めっ! 言うなっ! 言うなあっ!!
 なぜか内股になりつつシンジは頭を振り、必死になって脳裏に甦った光景を振り払った。
 あれからもう5年も経つのに、6人がかりで追いかけられると逃げ出してしまうのだから、よほど恐ろしい思いをしたのだろう。
 「あなたのせいよ」
 「一番最初に独り占めにしようとしたのはあなたじゃない」
 「私が最初に目を付けたの! それをそっちのあなたが尻馬に乗るから」
 「「「「そうよねえ。あなたが後に続いたから私たちも、って思ったのよねえ」」」」
 「だいたい、あなたが後からシンちゃんを引っ張らなかったら、シンちゃんはおとなしく私のものになっていたのよ」
 「「「「「そんな身勝手、誰が許すもんですか!!」」」」」
 「わあああっ! このままじゃ、ほんとに殺されちゃうよっ!! 誰か助けてーっ!!」
 「お出かけですか」
 「およびじゃないっ!!」
 いつも町を掃除している着物姿のおじいさんに、はなはだ失礼なことを言って駆け去るシンジ。おじいさんが掃きためたゴミが蹴散らされ、宙を舞い、散らばる。そのあとを同じ顔をした6人娘が蹂躙する。おじいさんが朝6時から勤しんでいた掃除は、振り出しに戻った。
 「れ・・・レレレのレ」
 定年前に大学を辞めてから、めっきり老け込んだ冬月コウゾウ(おそらく58歳)。今日もいつものように掃除をやり直すのであった。
 
 ちょうどその頃、物語の本筋とはあまり関係なく、シンジの父は町をぶらついていた。
 「ぎえええええええええええええええええっ!! か、母さん、それだけは止めてええええっ!!」
 塀の向こうからご近所の平和をかき乱す悲鳴が聞こえてきた。
 「なんだ。一回りして戻ってきてしまった。うちと赤木さん家の裏手ではないか」
 塀を見上げるゲンドウ。
 「気になるな・・・ちょっと失礼」
 誰に断っているのやら、つま先立ちになって塀の上に目を出し、ゲンドウは向こう側をのぞき込んだ。
 「ふむ・・・楽しそうな遊びをしているな。ナオコばあさんがレバーを引くと、リツコくんが悲鳴を上げるゲームか・・・む、今ナオコばあさんがフェイントをかけたな・・・悲鳴はなしか・・・あ、レバーを引いた。悲鳴が上がった。うまいぞリツコくん。ナオコばあさんに負けるな」
 ゲンドウが応援せずともリツコが負けることはないであろう。ちなみに聞こえているはずはないのだが、ゲンドウが「ばあさん」と口にする度に、ナオコは無意識のうちに何かの衝撃の強度を上げていた。
 その隣の碇家では、ユイが皿を洗いながら、とっくにお隣の悲鳴を耳にしていた。しかし何を考えているのか、彼女は唇の端をあげてほくそ笑みながら、完全無視を決め込んでいた。

 またちょうど同じ頃、1人の男がアタッシュケースと共にこの町の電車駅前に降り立っていた。ドイツ製の服を着崩し、髪を後ろで束ね、無精ひげを生やしたその男は、どこから見てもドイツ帰りのワイルドマンだったろう。たったひとつ、正面衝突したら凶器になりかねないくらい飛び出した出っ歯さえなければ。
 「5年ぶりの日本・・・5年ぶりのこの町か・・・」
 5年ぶりにこの町に帰還した加持リョウジ(30歳)。そんなに歯が飛び出していてどうやって出しているのか、不思議になるくらい男臭くてダンディーな声であった。

 「わあああっ! このままじゃ、ほんとに殺されちゃうよっ!! 誰か助けてーっ!!」
 「む? 事件?」
 シンジの悲鳴を聞き、交番の中で朝寝をしていたその婦警は目を覚ました。ミニスカートにタンクトップの上からジャケットを羽織り、制服警官の身分を示すものは制帽と警棒と拳銃だけという、服務規程違反しまくりのこの婦警が、シンジの住む町を守る葛城ミサト巡査(29歳)である。慌ててミサトが交番から飛び出すと、土煙を上げて何かがこちらに猛スピードで接近してきていた。
 「ふふふ・・・ついにこの時が来たのね」
 寝ぼけ眼をぱっちり開いてはいるが、いきなり銃を抜いたあたり、まだ頭が寝ているのではないかと突っ込みたいところ。
 「そこのスピード違反者! 停まりなさい!! 停まらないと撃つわよ!!」
 スピード違反車ならともかく違反者って・・・。
 (え、うそ、お巡りさん? 助けてくれるの?)
 土煙の先頭をひた走っているのは、読者のご賢察通りシンジであった。
 「停まるなら早くしなさい! でなければ死ぬわよ!!」
 おい。
 (へ? まさか・・・綾波たちじゃなくて、僕に言ってるの?)
 彼女の目線の先が自分の後ろに行かず、自分で止まっているのにシンジは気付いた。
 (ええええっ! だだ、だって今、停まったら綾波たちに捕まるよっ!!)
 「「「「「「シーンちゃーーーーーーーーーん!!」」」」」」
 「停まる気はないみたいね・・・悪いわね、これも仕事よ」
 「わああああああああああああああああああああああっ!!
 平和な町、いや平和であるはずの町に、銃声が響いた。

 「な・・・何、あれ・・・」
 ミサトは自分の目が信じられず呆然としている。確かに弾丸は、シンジの眉間に狙いを定めて放たれた。しかし、それはシンジに命中する寸前に見えない壁に阻まれた。空中に赤く輝く8角形の波紋が生じ、金属音を立てた。その音に驚いて、シンジも追いかけていた6人もその場に立ちすくんでいる。
 「こらぁ、この年増ぁ! アタシのシンジお兄ちゃんに何かあったらどうすんのよおっ!」
 「え? あ、アスカちゃん?」
 家においてきたはずの同居人の声が、不意に耳元で聞こえたのでシンジは狼狽した。捉えていた波紋が消え、弾丸が地面にポタリと落ちた。
 「へへぇ、ついて来ちゃった、お兄ちゃん」
 背中のリュックからアスカが首だけ出していた。
 「い、今のアスカちゃんがやったの?」
 得意満面の顔つきになるアスカ。
 「えへん。お察しの通り、今のはアタシの発明品、絶対恐怖領域。シンジお兄ちゃんの感じた恐怖をバリアーに変えたの。このリュックに装置を積んであるのよ」
 「そ、そうなの・・・はは、助かったんだ・・・」
 腰が抜け、へなへなとその場に崩れるシンジ。6人のレイとミサトはいまだに呆気にとられていて固まっている。
 これが、ユイがアスカを特別と言ったその理由。生まれて1ヶ月で言葉を話し始め、1歳で大卒並の、それも専門に分かれた知識ではなく、全ての分野にわたる知識を吸収していた。5歳の今では、先の絶対恐怖領域を初めとした超科学を操る超天才発明家である。
 「ねえ、お兄ちゃ〜ん。いいでしょう? おとなしくしてるからさあ。学校に連れてってえ〜」
 命を助けられた直後だけになんとも断りづらい。
 「う〜ん。いいよ。でも、今日だけだよ。それからちゃんとおとなしくすること。特に発明品は絶対に使ったらダメだからね」
 「うん! わあい、やったあ。今日一日、シンジお兄ちゃんといっしょだあ」
 ぴく。シンジお兄ちゃんといっしょ。しんじおにいちゃんといっしょ。しんじちゃんといっしょ。しんちゃんといっしょ。
 「「「「「「シンちゃんといっしょ・・・・・・はっ!!」」」」」」
 キーワードで再起動する6人。
 「「「「「「シンちゃ〜ん!!」」」」」」
 「わあああああああああああっ!!」
 ふたたび始まる、愛の呼びかけと悲鳴のフーガ。
 「こらーっ! 年増っ! アタシのシンジお兄ちゃんを追っかけるんじゃなーいっ!」
 ドップラー効果で低く聞こえるアスカの怒声。
 「「「「「「誰が年増よ〜。ちっちゃい子どものくせに〜」」」」」」
 「14なんておばさんよ。女は一桁でなきゃ、ピチピチとは言えないのっ!」
 「あたしは29よ・・・でも、まだまだ、若い・・・つもり」
 遠くなっていく口論を聞きつつ、いやに風を冷たく感じながら、ミサトはポツリと呟いた。土煙が薄くなりかけた時、見覚えのあるシルエットが目に入った。
 「あれは・・・」
 土煙が晴れると、ミサトにとって今最も会いたくない人物がそこにいた。
 「ひゅ・・・日向署長・・・」
 眼鏡を掛けた、いかにもエリート警察官という風貌の男性、日向マコト(25歳)だった。ミサトより5年も若いが階級のはるかに高い彼は、ここだけの話、どういうわけかミサトにホの字であった。しかし、署長ともなれば個人的感情よりも、公的意志を優先させねばならない。
 日向の姿を見た途端ミサトは、急に自分が何をしでかしたか自覚した。
 「みみみ、見てらしたんですか、今の・・・」
 がたがた震えるミサト。
 (ぐぐぐぐ、見てないと言えればどんなにいいか・・・葛城さ〜ん、頼むから、私にあなたを処罰させないで下さ〜い)
 心の中で涙を流しながら、日向は苦渋に満ちた表情で決断を下した。
 「葛城巡査、減俸6ヶ月」
 がああああああん! ミサトは頭に金ダライが直撃したような衝撃を受けた。エビチュビールが羽を生やして飛んでいく幻覚を見た。
 「う・・・う・・・う・・・」
 うなだれてしおしおと交番に戻るミサト。日向は服装のことをとがめる機会を逃したことにむしろホッとしていた。

 「お出かけですか」
 目の端に人影が入ってきたので、条件反射でつい声をかけてしまった。
 「おはようございます、冬月先生・・・」
 「碇か・・・朝早くからぶらぶらと、いい身分だな」
 相変わらず道を掃き清めながら、冬月は毒づいた。いつものように職安にも行かずぶらぶらしていたゲンドウは、これまたいつものように妻の恩師、冬月コウゾウに出くわしたのである。
 「いやあ、いい身分だなんて・・・そんなに褒めないで下さい」
 「褒めとらん!」

 「う、う、う・・・」
 交番の中でミサトが半年間、エビチュを減らさなければならないことを嘆いていると、入り口に誰かが立った気配がした。
 「・・・遅くなったな・・・・・・」
 聞き覚えのある声。だが、誰だったろう。遠い昔に知っていたような気がする。もしそうでなかったら居留守を使っていただろうが、ミサトは好奇心にかられて出ていくことにした。
 「は〜い、どなた〜」
 交番内は暗く、外は明るい。逆光で顔かたちがわからない。
 「どなたはひどいな。忘れちまったのか?」
 「あ〜、ごめん。逆光で・・・」
 灯りをつけていない交番の暗がりから、ミサトは青天井の下に出る。まず目を奪われたのは訪問者にではなく、空の青さと太陽の眩しさだった。
 (こんなに世界は明るいのに、何くよくよしてたんだろう・・・)
 ちょっとは気にしたほうがいいことをしでかしたのだが、無意味な立ち直りの早さは彼女の欠点でもあり美点でもあった。しばらく創造主の恵みを享受した後、彼女は訪ねてきた者があることを思い出した。
 「あ、ごめん、ごめん」
 ミサトは男の方に振り返る。
 「5年ぶりだよ。大遅刻だな」
 「へえ〜、そこまでわたしを待たせた男は、初めて・・・」
 憶えていない男に軽口で応じようとして、最後まで言葉を続けられなくなった。この束ねた長髪。この無精ひげ。この人を食ったような表情。
 「・・・思い出した?」
 この声。
 「・・・思い出したくなかった」
 この出っ歯。
 「加持くん・・・あなた生きてたの・・・」
 この日、白昼、葛城ミサトは5年ぶりの幽霊にあった。

 「あれからもう5年になる」
 「教えてもらわなくても憶えてるわよ」
 2人は交番の中で、腰掛けて向かい合っていた。加持の足下にはアタッシュケースが置かれている。灯りはまだつけていない。今度はミサトの顔が窓からの逆光で、表情を伺えなくなっている。
 「最後の仕事の後、俺は命を狙われ、逃亡生活に入った」
 「わたしへの連絡は途絶えた」
 「君にはすまないことをしたと思っている」
 「すまない? 死んだと思わされていたのよ」
 「殺されたように見せかけたんだ。そのほうが俺も動きやすかったし、君や他の友人たちも安全だった。君も俺のことを忘れて幸せになっていたんなら、それでもよかった」
 「あなたのことを忘れて? わたしの気持ちは知っていたくせに。こんな置きみやげをされて、どうやって忘れろってのよ!」
 ミサトはいつも机の中にしまってある、爪を折った留守録テープを取り出し、留守番電話にかけ、再生した。
 「葛城・・・俺だ・・・この電話をしている頃には、多分、君にひどい迷惑をかけた後だと思う。どうか許してほしい。リッちゃんにも謝っておいてくれ。あと、俺が世話をしていた花があるから、水をやっておいてくれると嬉しい。葛城・・・もしまた会えるなら・・・3年前に言えなかった言葉を言うよ・・・それじゃ」
 ミサトは再生をストップした。沈黙が落ちる。
 「迷惑・・・確かに迷惑だったわよ。あなたが何も言わないで、1人で全部背負い込んで消えたからね。そして、わたしは死者の思い出にすがって、5年も棒に振らされた」
 加持は机の上の切り花に目を走らせた。
 「その花・・・」
 「あなたが世話してた花の、曾孫か、曾曾孫よ。家の庭で毎年花を咲かせてくれるの」
 「・・・ありがとう。すまない」
 「すまないですんだらね・・・警察要らないのよ!!
 出し抜けにミサトは立ち上がり、腰のホルスターから拳銃を抜いた。加持は反射的に両手を挙げる。
 「お、おい、警官がそんなことを・・・」
 「そうよ! わたしは警官よ! わたしが法律よ! わたしが検事で、裁判官で、死刑執行人よ!!」
 すちゃっ。ミサトは拳銃に両手を添えた。
 「殺されたように見せかけたですって・・・ほんとに殺してやるわ!!」
 撃鉄を起こした。
 「判決、死刑!
 慌てて加持は椅子から転げ落ち、アタッシュケースを掴むと交番から飛び出す。一瞬遅く、銃弾が椅子の背に穴を開ける。
 「犯人逃走! 捕縛! 再逮捕!
 ミサトも右手で拳銃を振り回しながら、外に駆け出す。
 「か〜つらぎ〜、落ち着け〜!」
 加持の必死の呼びかけも功を奏さず、ミサトは明後日の方向に連射しながら、加持を追いかける。
 「逮捕だ、逮捕だー!!

 「「「「「「シンちゃーーーーーーーーーーーーーん!!」」」」」」
 「ひえええええっ、も、もうすぐ学校だ! た、助かった」
 そこを曲がれば真正面に校門がある。シンジはスピードを落とさず、一気にカーブした。だが、その目に飛び込んできたのは、信じがたい光景だった。
 閉ざされた校門。そして、そこにはなぜか貼り紙。
 「創立記念日につき休み」
 「があああああああああああっ! そ、そうだったああああっ!!」
 「何や、センセも来たんか」
 「おおっ、やっぱ俺たちゃ3バカだな。記念撮影と行こう」
 校門の前には、同じく今日が創立記念日だと言うことを忘れ、学校に出てきた、一本抜けた少年たち。シンジの親友、万年ジャージ男こと鈴原トウジと眼鏡がトレードマークのカメラマニア、相田ケンスケだった。
 「と、トウジ、ケンスケ、た、助けて」
 「え、何や」
 「まさか、いつもの」
 「「「「「「いたー! シンちゃーーん!!」」」」」」
 角を曲がって、6人のレイが飛び出してきた。
 「「「に、逃げろーーーーーーーーっ!!」」」
 
 「逮捕だ、逮捕だー!!」
 ばきゅーん ばきゅーん
 「落ち着け、葛城!! 話せば分かる!!」
 逃げながら説得を試みる加持、ちなみにアタッシュケースは後生大事に持っている。
 「問答無用!!」
 ばきゅーん

 「「「「「「シンちゃーーーーん! 学校もないみたいだし、今日はみんなでいっしょに遊びましょーーーーっ!!」」」」」」
 「いやだああああっ!! 一日いっしょにいたら、明日の朝日は拝めないーーーーっ!!」
 「シンジお兄ちゃん、いつも日が昇ってから起きるじゃない」
 「ア、アスカちゃん、危ないから頭引っ込めとくように言ったろう」
 「ぶー。お外の様子が分からなきゃ、退屈だもん」
 「お、何やセンセ、いんこいのん連れてきて」
 「シンジ、アスカがかわいいからって、ロリコンはいかんぞ」
 2人はアスカのことを知っている。
 「な、何言ってんだよ、ケンスケ! こんな小さい子の前で!!」
 「シンジお兄ちゃん、ひどい! アタシ、レディーよ!」
 子ども扱いに涙目で抗議するアスカ。
 「ご、ごめん、そんなつもりじゃないんだ。アスカちゃんは立派なレディーだよ」
 走りながら子どものお守りをするシンジ。
 「そう? それだったら、さっきもう今日は発明品を使っちゃダメって言ってたけど、使っていい?」
 「え!? そ、それは・・・」
 「シンジお兄ちゃん、追っかけられて困ってるじゃない! それなのに、何で使っちゃいけないの!?」
 いっしょに走っているトウジとケンスケは、過去にアスカがその発明品で起こした騒動を思い出していた。
 「センセ・・・天才のお守りも大変やなあ」
 「いつだったかも似たようなことがあったっけ・・・」
 「と、とにかく、それとこれとは別で、発明は使っちゃダメだからね。顔は出しててもいいけど、引っ込めるようにいったら、すぐに引っ込めるんだよ」
 「ぶー」
 「「「「「「シンちゃーーーーん! そんな小さいお子さまより、私たちと一日過ごしましょーーー」」」」」」
 「なによ、小さい、小さいって。体がでかくなっただけで、脳味噌は6人で一人前しかないくせに!」
 「「「「「「ふふーん。悔しかったら、出るとこ出た体になってご覧なさい」」」」」」
 脳味噌のことは怒らなくていいのか?
 「きーっ、言ったわね! 見てなさい、この成長促進薬があれば・・・」
 アスカは薬瓶を取り出す。
 「ア、アスカちゃん、ダメだよっ」
 シンジは薬瓶を取りあげたが、後ろ手に指先だけで摘んだもので、手が滑ってしまった。
 「あっ」
 宙を舞う薬瓶。
 「わ、来るんやない!」
 トウジが自分の方に飛んできた薬瓶を手で跳ね上げる。
 「こっちに飛ばすな!」
 跳ね上がった薬瓶がケンスケの目の前に落ちてきた時、、ケンスケはカメラをバットの要領で振り回して、
 かきーん
 打った。そしてその先には
 「何で、そんなに連発できるんだー!!」
 「この拳銃、リツコに改造してもらったのよー!!」
 がしゃん。薬瓶が加持の出っ歯に直撃し、割れた。
 「ん? なんだこれは? しぇ? しぇえええええええええええええっ!?
 いきなり出っ歯が1メートルほどの長さに伸びる。
 「永久歯まで成長させるなんて・・・強力すぎたかしら・・・」
 アスカも思わぬ効果に目を丸くしている。
 「な、な、なんだこれは〜。葛城〜、俺、いったいどうなったんだ〜?」
 逃げつつも、後ろを振り返ってミサトに自分の姿を確認してもらおうとする加持。ところが
 「変装してごまかそうったって、そうはいかないわよーっ!!」
 ミサトは完全に頭に血が上っていた。
 「だめだこりゃ」
 目を進行方向に戻すと、加持の視界に、完全に回避するには接近しすぎている子供達の姿が入ってきた。
 「わっ」
 先頭を走るケンスケが加持の脇をすり抜ける時、肩にぶつかっていく。普段なら何ということはない衝撃も、顔に約1メートルの出っ歯がついている加持にとっては、出っ歯が慣性で引っ張られるため、結構重たい。
 「ひょえっ」
 トウジがふたたび肩にぶつかり、加持の体は半回転する。
 「ぶっ。ごめんなさい!」
 シンジがぶつかり、加持の体は1、2回回転する。
 「シンちゃーーーーーーーーーーーーーーーん」
 どん くるくるくる
 「シンちゃーーーーーーーーーーーーーーーん」
 どん くるくるくるくるくるくる
 「シンちゃーーーーーーーーーーーーーーーん」
 どん くるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくる
 「シンちゃーーーーーーーーーーーーーーーん」
 どん くるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくる
 「シンちゃーーーーーーーーーーーーーーーん」
 どん くるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくる
 「シンちゃーーーーーーーーーーーーーーーん」
 どん くるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくる ぐおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ
 ついに出っ歯がプロペラの役目を果たし、加持の体が宙に浮いた。
 「あああーーーーーっ!? 高飛びする気かーーーーーーーーーっ!!」
 ミサトがようやく追いついたが、加持の体はもう手の届かない高さに揚がっていた。
 「葛城ーーーーーーー! 助けてくれーーーーーーーーーーーー!!」
 「バカ加持ーーーーーーー! 逃げるなーーーーーーーーーーーー!!」
 天に向かってミサトは銃撃する。しかしそれは、本人の意志とはまったく関係なく遠くに飛んでいく加持に命中することはなかった。
 「犯人は必ず現場に戻って来るんだからねーーーー! 手ぐすね引いて待ってるわよーーーーーーー!!」
 ミサトの叫びが青空に響きわたった。

 「アスカちゃんやシンジくんのことも考えたらどうだ」
 冬月は箒で地面を掃きながら、ゲンドウを諄々と諭していた。
 「大切な家族ですからね。いつも考えていますよ」
 「そういう意味ではなくてだな・・・お前はぶらぶら遊んで暮らしているが、それで仰いで天に恥じずといった生き方ができると思うのか?」
 冬月老は天を指差した。
 「お前みたいな生活をしていると、今に天罰が下って・・・」
 「しぇええええええええええええええええええええっ!!
 ぐしゃっ
 冬月老人の頭上に出っ歯の男が落ちてきた。老人はうつぶせに倒れ、その後頭部に出っ歯の男が突き刺さり、足を4の字にして空に向けていた。
 「話している途中にお眠りとは、先生もお年を召されたものだ。それにこの出っ歯の男、いきなり空から落ちてきて挨拶もしないとは失礼な人だ」
 ゲンドウは腹巻きに両手を突っ込んだまま、気絶している二人を見下ろす。落ちてきた出っ歯の男とは、お察しの通り出っ歯が元に戻り、失速して落下してきた加持である。完全に気を失っているが、それでもアタッシュケースはその手に握られていた。しかし、まずいことにアタッシュケースを持った手はゲンドウの方に伸びていた。
 「お詫びにくれるというのなら頂戴しよう」
 そう言ってゲンドウは、加持の手からアタッシュケースをもぎ取ると、それを持って行ってしまった。散歩の途中、それを目撃した赤木家の飼い猫バルタザール(2歳)が
 「泥棒だ、ニャロメ!」
と突っ込んだ。薄れゆく意識の中、冬月老人は彼が存在する理由を全うすべく渾身の力を振り絞った。
 「レ・・・レ・・・レの・・・・・・レ」
 がくっ

 「「「「「「シンちゃーーーーーん。どこーーーーーー?」」」」」」
 袋小路でシンジを見失ったレイたちは、電柱の影やらポリバケツの中やらをのぞき込んでいる。
 「いないわ」
 「こっちにも」
 「ちょっと溝の中になんているわけないでしょう?」
 「そんなことないわよ。この中にいるのを見つけたことがあるんだから」
 「私知らないわよ」
 「私も」
 「「「私たちも」」」
 「「あなた・・・」」
 「「「「「抜け駆けしたわね!」」」」」
 「えへへ・・・」
 「「「「「『えへへ』じゃない!!」」」」」
 「と、とにかく、ここにいないってことは、シンちゃんだって学習するってことで・・・」
 抜け駆けがばれたレイは話を逸らそうとする。
 「それはそうね。つまりあなたが見ていた溝の中はないわけか・・・」
 「マンホールもそうだわ」
 「それ知らないわよ。・・・電柱の上に昇って隠れてたこともあったって、みなに言ってたっけ?」
 「「「「「知らなーい」」」」」
 「この分だとみんな何かしら自分だけの思い出を持ってるわね」
 「いいじゃない、それぐらい各自のものがあったって」
 「それはそうだけど、当面シンちゃんを共有するためには情報も共有していたほうがみなにとって有益なのよ」
 「みなで相談して決めたことだったわね」
 「そ、みんなシンちゃんの恋人として一人の人間になりたいわけだし」
 「今の時点ではみな同じなんだから、恋人になる資格も同じなわけで」
 「シンちゃんが誰かを選んだら」
 「他の5人は諦めて別の道を歩むこと」
 「でもそれまでは6人で1人の」
 「「「「「「綾波レイ」」」」」」
 6人は円陣を組んだ。
 「「「「「「さあ、みなで1つになりましょう。それが私たちの絆なのだから」」」」」」

 シンジは目の前の節穴からレイたちが円陣を組むのを見つめていた。
 「押すなよ、トウジ」
 「しゃーないやんけ、ケンスケ。センセ、ここ狭すぎるがな。もーちょっと何とかならんかったんかい」
 「狭っくるしーよー、お兄ちゃーん」
 「1人なら十分だったんだけど・・・」
 いざというときのため、この袋小路に隠れ場所を作っておいたシンジであったが、4人で逃げ込むことになるとは思っていなかった。
 「2人ともあまり動かないでよ。ここ狭いし、素人工事だから壊れるかもしれないし・・・アスカちゃんも我慢してね」
 2人のほうに向いてそう言い、背中のアスカにも頼むと、シンジは節穴に目を戻した。
 レイたちはふたたび思い思いの場所を探している。
 「センセも大変やな・・・誰か1人に決めたらどうや」
 茂みを棒でつついているレイ。
 「誰か1人って、レイたちはみんな同じなんだよ」
 ゴミの山をほっくりかえしているレイ。
 「悪い意味で優しすぎるぜ、シンジ。先延ばしにすればするほど、選ばれなかったレイを振り回すことになるんだぜ」
 地面におかしなところはないかあちこち踏みしめて調べているレイ。
 「それはそうだけど、第一、レイのことを彼女にしたいって思ったことないんだよ」
 立て看板を重ねておいてあるのを一枚一枚取り除いているレイ。
 「そーよねー。シンジお兄ちゃんのお嫁さんになるのはアタシだもん」
 止めてある自動車の下やら、中やらをのぞき込んでいるレイ。
 「センセ・・・」
 「シンジ・・・」
 「なによー。愛さえあれば年の差なんてカンケーないんだからねー」
 シンジは苦笑いしつつ、そのやりとりを聴いていた。
 (あれ・・・1人いない・・・・・・)
 こんこん
 目の前でノックの音が響き、シンジは心臓が跳ね上がった。トウジとケンスケも同じである。
 「みーつけたーーーーーー!
 上から声が降ってきた。4人が見上げると、そこにレイの顔があった。そしてその両側に、ひょい、ひょい、ひょい、ひょい、ひょいと、同じ顔が5つ、モグラたたきのモグラのように、順繰りに飛び出してきた。
 「「「「「いたーーーーーーー!!」」」」」
 レイが首から下を隠し、シンジと自分たちを隔てているものに手をかけ、体重をかけた。
 めりめりめりめり
 シンジが作った二重底の板塀が破壊されていった。
 「「「あわわわわわわわわわわわわ」」」
 「お兄ちゃんのアイデアはよかったけど、3人よれば文殊の知恵・・・天然ボケぞろいでも人海戦術に負けたわね・・・」
 6人の同じ笑顔がシンジに向けられている。純粋混じりっけなしの好意だけに、よけいたちが悪く、恐ろしい。
 「「「ひ、ひ、ひ」」」
 シンジの恐怖が感染したのか、トウジとケンスケもお互いに抱き合って震えている。
 「「「「「「シーンちゃーん、みーーーーっけ!!」」」」」」
 満面の笑顔でレイがそう言い、シンジに襲いかかる寸前のその時、アスカの声が響いた。
 「見つかっちゃったーーーー、今度はシンジお兄ちゃんが鬼ねーーーーー」
 「「「「「「わーーーーーーい」」」」」」
 レイたちは蜘蛛の子を散らすようにして消えてしまった。
 呆然と佇むシンジ、トウジ、ケンスケ。
 ひゅるるるるる と風が吹いた。
 「単純バカ・・・」
 アスカの独り言に、他人事ながら心の中で涙する3人であった。

 「葛城巡査」
 交番前で立っているミサトに、アタッシュケースを持ったゲンドウが声をかけた。
 「・・・碇さんか。何の用?」
 「暇なのだ。遊んでくれ」
 この言葉を聴いた時点でミサトが腰の銃に手をかけたとしても、決して彼女を短気と責めるなかれ。抜かずにもう片方の手で、銃のグリップを掴んだ手を押さえたあたり、超人的な自制心の持ち主と賞賛してもよかろう。
 「本官は暇じゃありません。どうぞ、よそでお遊びになって下さい」
 嫌みを言っていると一目で分かるよう微笑みながらゲンドウに勧める。
 「そうなのか・・・せっかく面白い話をしてやろうと思ったのだが・・・・・・」
 「はい、はい、また今度聴かせて下さいね。今忙しくて聴けないから」
 「残念だが仕方ないな。それではまたな」
 そう言ってゲンドウは交番に背を向けた。
 「当分忙しいから、しばらく来ないで下さいね」
 珍しくすんなり引き下がったことで調子づいたのか、かなりひどいことを言うミサト。それに答えず呟きながら歩いていくゲンドウ。
 「空から落ちてきた出っ歯の男の話など、やっぱり人に聴かせるものでも・・・」
 「ぜひ聴かせて下さい!!
 ミサトはゲンドウの腰にすがりついた。ゲンドウは振り向きもせず、横目でミサトの顔を見下ろしながら
 「だが、今忙しくて聴く暇がないのではないか?」
 「いいえ! もー暇で、暇で、しょーがなかったんですよ!!」
 ミサトは必死で暇さ加減をアッピールする。
 「ほう。どのくらい暇なのだ?」
 「もー、エビチュビールを1時間に3本空けても勤まるくらい暇!」
 「ほほう。3本だったら、飲んでる合間に仕事をやる時間が残っているだろう」
 「いやいや、空いてる時間はおつまみかじったり、作ったり、かじったり、作ったり」
 「ふむ。だが腹一杯になったらどうするんだ」
 「そうなったら寝ちゃうの! だからもー暇で暇で。お願い! その話聴かせて!!」
 「後ろを見ろ」
 「へ?」
 ミサトが後ろを見ると、そこに立っていたのは警察の制服を着た1人の男性。
 「青葉警視総監・・・」
 ミサトの顔が真っ青になる。ミサトより年下だがエリートコースをひた走り、もはや上司とすら呼べないくらい上の階級の青葉シゲル警視総監(26歳)は、日向マコトの親しい友人でもあった。
 (日向くんがまた色々かばい立てするんだろうがな〜。組織の秩序は守らにゃならんが、日向くんを傷つけたくないし・・・ここは穏便に・・・)
 「一年間、給料現物支給。必要最低限のもののみで他はカット」
 があああああああああああん! ひびの入った岩石のテロップが頭に直撃し、ミサトは硬直した。エビチュが冷蔵庫ごと羽を生やして飛んでいき、ローンが終わっていない車がどこか遠い国に運ばれていく幻覚を見た。そのそばを赤木家の飼い猫カスパール(2歳)が
 「悲惨だ、ニャロメ!」
と突っ込んで通り過ぎていった。

 警視総監がいなくなったことも気付かずミサトは石になったままだったが、ゲンドウが立ち去ろうとしたのに反応して、急に再起動した。
 「待ちなさい・・・」
 すごみのある声にさしものゲンドウも足が止まり、振り返る。
 「・・・もう失うものは何もないわ」
 じりじりゲンドウに近づくミサト。ゲンドウは少しずつ後ずさる。
 「け、警官が市民に恐怖心を与えてもいいのか?」
 「いいのよ・・・
 「そんなこと国会でいつ決め・・・」
 「わたしが法律よ!! たった今、わたしが決めたの!!
 ミサトはゲンドウの胸ぐらを掴んだ。
 「さあ!! 出っ歯の男の話を聴かせなさい!!

 この時、ミサトもゲンドウも物陰から1人の少女が見ていたことに気付かなかった。
 「ああ、お巡りさんがアスカちゃんとこのおじさんをいじめてる。よーし」
 そこにいたのは碇家の近所に住む、アスカと顔なじみの小学6年生、洞木ヒカリ(12歳)である。この時代小学校は週休3日であるため、この日彼女は休みだった。レイのような天然ボケもこのように極端な「ゆとり」教育の産物と言えるのだが・・・
 彼女はウエストポーチから手鏡を出すと
 「キーワードは希望。お願い、わたしを警察の偉い人にして・・・」
 すると鏡に映っているヒカリの姿が、新聞に時々出てくる或るキャリアウーマンの姿に変わっていった。

 「さあ!! 吐くのよ!! ネタは上がってるの!! ゲロしなさい!!
 胸ぐらを掴んでゲンドウを揺さぶるミサト。
 「ぐ・ぐ・ぐ・ぐるじい〜〜〜」
 ゲンドウ、かつてないピンチ!
 「吐かなかったら、赦さないからね!! わたし一生あなたを赦さない!!
 「ユ、ユイ〜だずげでぐで〜〜〜」
 「中途半端に気を持たせるような話し方して!! こんな時だけ女に頼って!! 中途半端が一番悪いのよ!! 最後まで話しなさい!!
 「ご、ごれじゃ、はなぜん〜〜〜」
 「ごまかすんじゃ・・・
 「何をやってるんです、葛城巡査」
 どさ
 背筋を駆け抜ける絶対零度の冷気。こわばる全身。急に解放され地べたに落っこちるゲンドウ。
 ぎ・ぎ・ぎ
 油が切れたような感じで首を後ろに振り向かせるミサト。徐々に視界に入ってくるのは、ここにいるのが信じられない人物。禁欲的な雰囲気漂う、ダークスーツの若い女性。普通なら幼く見えるだろう顔立ちは内から溢れる知性と厳しさのため、独得の冒しがたい威厳を備えている。
 (こ・・・この人の声を直接聴いたことがあるのはたった一度、第3新東京市の市警に見えて、朝礼で訓辞をいただいた時だけ・・・他はテレビで2、3度、聴いたきり・・・警察で働く全女性のあこがれの的・・・エリートという言葉すら追いつかない、完全に雲の上の人と言えるスーパーレディ)
 「い・・・伊吹警察庁長官・・・・・・」
 能力がある人間は試験をパスすればいくら高い階級からスタートできるとはいえ、飛び級と特進と特例を重ねて、ミサトはおろか、青葉総監や日向署長よりも年下ながら、全警察機構の頂点に立つ女王。在職2年目にして全国の警察および中央の警察機構から不正、汚職、腐敗を一掃しつつある二つ名「潔癖性のマヤ」こと伊吹マヤ警察庁長官(24歳)であった。
 「あわわわわわわわわ」
 頼もしい存在であると同時に畏怖の対象である彼女にまさかこんな形で声をかけられるとは・・・ミサトは完全にすくみ上がっていた。
 (思ったより効き目があったわね・・・ちょっとやり過ぎたかしら)
 賢明な読者ならお察しの通り、彼女は本物ではなく、ヒカリが魔法の鏡の魔力で変身した姿である。なぜヒカリがそんなものを持っているかは、女の子の秘密である。
 ゲンドウが這いながらででもどこかに逃げてしまったのを確認したヒカリは、
 「以後気をつけるように」
 そう言ってその場を後にした。
 (しゃべりすぎるとぼろが出るからね・・・)
 「は、はひっ」
 コチコチになって敬礼するミサト。頭の中からゲンドウのことは完全に消えていた。少なくともこの時点では。

 「「「「「「シーンちゃーーーーーーーーーーーーん!!」」」」」」
 「さすがに1時間しかごまかせなかったわね」
 アスカが独りごちる。それだってすごいことだと思うが・・・ちなみに、ゴミための中に隠れていたものもいるらしく、ゴミまみれで追いかけてきているレイもいる。
 「わああああああああっ! もういい加減にしてよーーーー!!」
 「センセ、センセもいい加減誰かに捕まれや」
 「お前の選択だったら、誰を選んでも他の5人は納得するぞ」
 (そんな簡単に言って・・・恋人なんて選んで決めるものなのか〜〜〜? 第一恋人と意識したことなんてな〜〜〜い)
 「ちょっと〜、トウジお兄ちゃんにケンスケお兄ちゃん、シンジお兄ちゃんに変なこと勧めないでよ〜〜〜。アタシというフィアンセがいるのに・・・」
 「アスカちゃ〜〜〜ん(大汗)」
 「もてる男もつらいの〜、センセ」
 「もててるって言えるの、これ〜〜〜?」
 半泣きになるシンジ。

 「逮捕だーーーーーーーー!!」
 こちらもわずかな時間しか効き目がなかった。
 「か、葛城巡査、落ち着きたまえーーーーーー!!」
 アタッシュケースを抱えながら逃げまどうゲンドウ。
 「今のところあのバカの手がかりはあんただけなんだからねーーーーー! 証人は逃がさないわよーーーーーー!!」
 証人を逮捕とは言わないのでは・・・
 「逮捕だ、逮捕だーーーーーーーー!!」
 発砲しつつ追いかけるミサト。もう何も言うまい。
 「で、出っ歯の男は空から落ちてきて、冬月先生に直撃するとこのアタッシュケースをくれたのだーーーーーーーー! それ以上のことは知らーーーーーーん!」
 「だったらそのアタッシュケース、よこしなさーーーーーーい!!」
 落ちた場所は訊かなくていいのか?
 「警察が人のものを盗っていいのかーーーーーーーー!?」
 「証拠物件として押収するのよーーーーーーーーーー!!」
 「何の証拠だーーーーーーーーーーーーー!!」
 「わたしの心を盗んだ、窃盗罪よーーーーーーーーーーー!!」

 「わあああああああああっ、誰か助けてーーーーーー!」
 「お兄ちゃん、アタシならお兄ちゃんを逃がしてあげられるよ」
 「アスカちゃん、でも、発明品は・・・」
 「大丈夫よ。約束したもんね」
 「そ、そうかそれなら・・・」
 「アタシのナビに従って。そこ左ね・・・」
 「お、おいシンジ、そっちは袋小路の空き地で・・・」
 「こっちにいいものがあるの!」
 「いんこいの、何でもええからはよ頼むわ。そろそろ息切れてきた・・・」
 「もうすぐよ」
 「いんこい」の意味を知らないアスカは、トウジの言葉に腹を立てることなく応じている。

 「む、あれは隣のレイくんたち・・・その先にいるのはシンジたちか・・・アスカくんの指示で角を曲がったが、あの角を曲がっても袋小路だぞ。天才らしくもない・・・ははあ・・・そうか、そういうことか、アスカくん!」
 ゲンドウもトップスピードでその角を曲がる。猛烈な追い上げ、レイたちを追い越さんばかりの勢い。
 「逃がすかーーーーーーー!!」
 後に続いてミサトもカーブする。

 「見えてきたわね・・・」
 「そうだよ、空き地だ。で、これからどうするのアスカちゃん」
 「ポチッとな」
 「ポチッとな、って・・・・・・ええええええええええっ!?」
 空き地が二つに割れ、中からロケットが出てきた。
 「アアアアア、アスカちゃ〜〜〜ん(滝の涙)」
 「ロケットはアタシの発明じゃないも〜ん。いいでしょう、役に立つんだからさあ」
 「・・・・・・・・・」
 もはや言葉がないシンジだが、後ろに迫る恐怖から逃れるためには前に進むしかない。そのことがアスカの言葉に対する無言の肯定になっていた。少なくともアスカはそう受け取った。
 「さあ、アスカ作ロケット試作機零号、『Fly Me to The Moon』開扉および発射スタンバイ」
 アスカの声に反応してドアが開きタラップが降りてきた。無言で駆け上がるシンジと後に続くトウジにケンスケ。ケンスケが足をかけた後、タラップがロケットの中に回収されていく。
 「「「「「「あああああーーーーーーっ! シンちゃーーーーーーーーん!!」」」」」」
 「ゴメン、綾波! また、今度!」
 ロケットのドアから手を合わせてシンジはレイたちに謝る。今度っていつだ。そういうことを言ってるから話がややこしくなるのだ。
 「盗られてたまるか。シンジ、受け取れ!」
 空き地に駆け込んできたゲンドウが、アタッシュケースをまだ開いたままのドア目がけて投げつけた。反射的に受け取ってしまうシンジ。
 「・・・これ何? 受け取れって言って父さんがくれた・・・ということは、結構やばいんじゃ・・・」
 シンジは捨てようとするが
 「秒読み開始ィ!」
 アスカの声がスピーカーごしに響いた瞬間、ドアが自動的にぱたんと閉まった。
 『60』
 「ちょっと待って、アスカちゃん、捨てたいものが・・・と言うより、これどこに行くの?」
 『55』
 自分がロケットに乗ってしまったことに気付き、冷や汗が出てくるシンジ。これどこに行くの? 日本の外? 地球の裏側? 地球を一周してここ?
 『50』
 「『私を月まで連れてって』。月までよ」
 『45』
 「えええええええええええーーーーーーっ!!?」
 「落ち着け、シンジ。アスカ、このロケット、月まで行ったら戻って来るんだろう」
 『40』
 「そのつもりで造ってるわ」
 「な。見ろ、シンジ。大丈夫だって」
 『35』
 「今、アスカちゃん、つもりって、言ったよね」
 「未完成の部分があるから・・・」
 アスカは言葉を濁す。
 『30』
 「み、未完成ってどこが・・・」
 シンジの声が震えてくる。
 『25』
 「これ発射して・・・大気圏脱出して・・・月軌道に達して、自動的に方向修正して、月に到達したら月を周回するまでは完成してるんだけど・・・」
 『20』
 「完成してるんだけど?」
 沈黙がその場を支配した。
 『15』
 コンピューター音声がそれをうち破る。
 「月の引力圏から脱出できないの」
 『10』
 「へ?」
 『9』
 「・・・行きっぱなしなの」
 『8』
 「ええ!?」
 『7』
 「地球に帰って『6』来られないの」
 『5』
 「・・・・・・・・・」
 『4』
 「「「ええええええ『3』ええええええっ!!?」」」
 『2』
 「逃げよう!」
 『1』
 「もう遅いわ」
 『0』
 きゅいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいん
 「お兄ちゃんたち、シートベルトしめて! でないと怪我するわよ!」
 「うわああああああああっ! いやだああああっ! 誰か! 誰か、助けてーーーーーーっ!!」
 「センセ、しっかりせえ! 子どもの前やぞ!」
 「よせよ、トウジ。無理もない・・・」
 ケンスケは諦めきった様子でシートベルトを締めた。
 「センセ、ええからベルトだけ締めえ。後はどないかなるわい」
 言ってて自分で白々しくなるトウジだった。
 「シンジお兄ちゃん、愛さえあれば何も要らないわ。邪魔の入らないところでいっしょに暮らしましょう
 結局それかい。トウジは口に出さず突っ込んだ。

 ごおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお
 「行け、シンジ・・・」
 ゲンドウは天へと放たれた銀色のロケットに見入りながらポツリと呟いた。その胸に去来するのは、幼き日に抱いた宇宙への夢だったのか。
 「「「「「「ああああああ、行っちゃうよお」」」」」」
 レイたちは為す術もないまま、空を見上げる。レイとゲンドウの背後では、ミサトが呆気にとられたまま、ロケットを見送っていた。
 「ふ、レイくんたち・・・君たちが本当にシンジを愛しているなら後を追えるはずだ」
 「「「「「「!!」」」」」」
 「さあ、レイくんたち。宇宙を目指すのだ。シンジの待つあの宇宙を」
 「「「「「「そうよ。私たちは6人で1人、6倍の力が出せるはずだもの。ありがとう、シンちゃんのお父さん。私たち、負けないわ!」」」」」」
 「その意気だ」
 「あなた・・・そういうところは相変わらずうまいわね」
 背後からの声にゲンドウは振り返った。買い物袋を提げたユイが立っていた。
 「でも、シンジも困った子ね。何の準備もしないで行ってしまうなんて」
 「餞別は渡した。かわいい子には旅をさせろだ」
 「そうねえ」

 「ちょっと、碇さん!!」
 ミサトがゲンドウの耳を引っ張った。
 「いてててて」
 「葛城さん、うちの人に何するの!?」
 「奥さんは黙ってて下さい! 碇さん! あのアタッシュをまんまと消しおおせたわね! 証拠隠滅で逮捕します!」
 「待てよ、葛城」
 「あんたは黙ってなさい、加持!・・・って、加持ィ!?」
 そこには頭に巨大なたんこぶを作った出っ歯の男が立っていた。
 「俺が出てくりゃ文句はないだろう。その人を放すんだ」
 「そりゃないけど・・・」
 ブツブツ言いながらミサトはゲンドウを解放する。すかさずゲンドウに寄り添うユイ。
 「私が逃げたせいでご迷惑をかけました。お許し下さい。・・・・・・葛城・・・5年前、そしてさっきも逃げてすまなかった。覚悟を決めてお前に会いに戻ってきたつもりだったが、腹が座ってなかったらしい。今度は逃げない。お前が俺を赦せないっていうなら、その気持ちも全部受け取るよ・・・」
 「・・・・・・・・・」
 「・・・・・・・・・」
 「・・・・・・バカ」
 「・・・・・・ああ、バカだ」
 「・・・バカ・・・バカ・・・バカ、バカ、バカ」
 ミサトは加持の胸に顔を押しつけ、手で胸を叩く。
 「バカよ・・・大バカよ・・・わたし、一生誰も愛さないで、思い出だけを抱いて生きてくんだって思ってたんだから・・・・・・」
 「すまない・・・」
 「でも、戻ってきたら、最後には赦してしまうわたしも大バカね・・・・・・」
 「それじゃ・・・」
 「あんたが消えて戻ってくるなんて、これが最初じゃないじゃない。前からしょっちゅう浮気してたんだから」
 「ははは・・・きついな・・・」
 乾いた笑い声をあげる加持。
 「これだけ待たせたんだから今度が最後よ。忍耐の限界ってヤツ。次浮気したら赦さないから」
 早まったか、と思ってしまう加持。
 「自分のことはさておいて人のことばかり・・・本当にあなたって人は」
 困ったような顔をしながらも誇らしげな様子のユイ。ゲンドウは照れたように、かすかに頬を赤らめる。
 「ふ・・・そうではない。私は手助けをしただけ。これは彼ら自身の力によるものだ」
 惚れた欲目と超勘違い男。幸せな夫婦である。

 「ところでどうしてここが分かったの?」
 ミサトが尋ねる。
 「いや、お前に会えたのは偶然なんだ。このリストウオッチが、あのアタッシュを追尾するレーダーにもなってて・・・碇さんとおっしゃいましたね。アタッシュを隠されたようですが、返していただけますか」
 「あれは息子への餞別にした」
 「息子さんはどちらに?」
 「今頃、虹の彼方だろう」
 「は?」
 「ロケットに乗って飛んでいったのでな」
 「冗談は止めて下さい」
 「本当なのよ、加持・・・」
 加持の表情が凍りついた。
 「ど、どうしたの?」
 ミサトが不安になって聞く。
 「あれは、ドイツから日本に帰るについでに日本に運ぶよう頼まれたものだ。なんでもロケットを月から地球に戻すのに必要な装置と物質だが、日本では機材がないのでドイツの研究所に発注していたらしい」
 「ないと困るわね」
 「それがロケットに積まれたってのがなお悪い。あの中には加速がかかると一定時間をおいて反対方向に力が発生する物質が入ってたんだ。その制御装置もいっしょだが、使ってないときは制御装置に入れてないし、そもそも制御装置が働いていない。あのアタッシュケースも特殊なもので、飛行機程度の加速なら抑えられるが、第一宇宙速度に達するだけの加速がかかったらどうなるか・・・」
 ひゅるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるる
 「に、逃げろーーーーーーーっ!!」
 「バカ加持ーーーー!! なんてものなくすのよーーーーっ!!」
 「なくしたからって、ロケットに積まれると思うかーーーーっ!!」
 「「「「「「シンちゃーーーん、おかえりーーーーーーー!!」」」」」」
 「餞別を使って呼び戻すなんて・・・ずいぶん親ばかね」
 ユイが横目で軽くにらみ、ゲンドウは少々うろたえる。
 「私も我が子がかわいいからな・・・」
 ずずずずずずずずずずずずずずずずずずずずずず〜〜〜ん

 よほど頑丈にできているのか、ロケットは空き地にめり込んだだけで大破することもなかった。シンジを迎えようと至近にいたレイたちは吹き飛ばされて気絶しているが、怪我はない。他の4人はまったく無事である。ドアがちょうど地面のところまで来ていた。そのドアが開いた。
 「けほっ、けほっ・・・」
 シンジが這い出てくる。胸にはアスカを抱えている。
 「ア、アスカちゃん、怪我はない?」
 「無事よ・・・プライド以外は・・・」
 珍しくうちしおれた様子。
 「た、助かった・・・奇蹟の生還だ」
 ケンスケも後から出てきた。メガネにひびが入っている。
 「うおおおおお! 地球は青かったでえええ!!」
 妙な興奮をしているトウジ。幻じゃなく、ほんとに見たのか?
 「計算は正しかったはずよ・・・地球からの脱出もできなかったなんて・・・」
 アスカは涙目になっている。シンジがどう慰めていいか分からずおろおろしているとゲンドウが近寄ってきた。
 「アスカくん、君は今日貴重なことを学んだ。どんな人間でも、天才と言われる人間でも失敗するということを」
 「天才の・・・失敗・・・」
 「そうだ。誰でも失敗する。そして後はその失敗を次にどう活かすかだ」
 誰が原因だ、誰が。
 「分かったら涙を拭いて、元気を出したまえ。しょげ返った姿は惣流アスカ・ラングレーには相応しくない」
 「惣流アスカ・ラングレー・・・さんですって?」
 加持がその名前に反応した。
 (この人、さっきの出っ歯の・・・)
 アスカは当然ながら見覚えがあるのに気付いた。
 「申し遅れました。加持リョウジと言います。ドイツのゲヒルン研究所から、例の装置と物質を預かってきたものです」
 天才少女とは聞いていたがこんなに小さかったとは・・・そう思いながら加持は一応の敬意を言葉に表していた。
 「あ、そう・・・ありがとう・・・でも、いいの。一からやり直しだから・・・」
 「・・・その・・・手違いがありまして・・・」
 「・・・どうしたの?」
 「あの物質がこのロケットに積み込まれていたそうで」
 「はあ?」
 「ですから墜落の原因はそれではないかと・・・」
 アスカの頭脳をもってしても、その言葉の要点を理解するのには時間がかかった。だが
 「ふっふっふっふ・・・」
 「そ、惣流さん?」
 「墜落の・・・原因は・・・」
 「そう、そうです。その物質・・・」
 「アンタか〜!!!
 何でそうなる?
 「ゆるさないわ。やっておしまい!!」
 アスカはスイッチを取り出すとボタンを押した。
 ぐいいいいいいいいいいいいん
 ロケットが高速変形して、巨大ロボットになる。ロケットの面影を残した胴体に手足の付いた姿。
 「行けい、自衛A号!! アタシの計画を邪魔した敵を、正当防衛的に殲滅するのよ!!」
 がおーっ!!
 「ひえっ! か、葛城、傷害予備罪かなんかを頼む!」
 「ば、バカいわないでよ。警官1人じゃ手に余るわ。応援を呼ぶから持ちこたえて」
 「そんなバカな〜!!」
 「よくも、シンジお兄ちゃんとの月上空パラダイス生活計画を頓挫させてくれたわね〜。9割殺しですませてあげるから感謝しなさ〜い!!」
 「ひぇ〜!!」
 携帯で応援を呼ぶミサトを引っ張って逃げる加持とそれを追う巨大ロボット。その頭上には、いつどうやって昇ったのかアスカが掴まっていた。
 「わたしまで巻き込まないでよ!」
 「俺を拒絶しないでくれ〜!」
 「アスカ、行くわよ!」
 がしょん がしょん がしょん がしょん

 遠ざかっていく足音。呆然とそれを見送る埃まみれのシンジ。周りを見回せば、いまだ呆けているケンスケに、空を見上げ独り盛り上がっているトウジ。いずれも幸せそうな顔で「シンちゃん、こんなところで・・・」などとブツブツ寝言を言っている、気絶したままの6人のレイ。
 「これでいいんだろうか」
 「フッ」
 ゲンドウは後ろからシンジに近づくと、シンジの両肩に力強く両手を乗せた。

 「問題ないこれでいいのだ

 しょうがないわねえという顔をしながら、ユイは夫と息子を見守っていた。


おわり





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