畜生道


無名の人 さん



 「ほら、おいでおいで、ご飯だよ、アスカ」
 シンジは、バケツを抱えて檻に入っていきながら、奥にいる赤毛の小猿に呼びかけた。アスカと呼ばれたその小猿はキーキー言いながら、シンジのところに駆け寄ってくる。
 「さあ、お食べ」
 シンジは、動物を刺激しないくすんだ灰色の飼育服を着ていた。その格好が物語るとおり、この動物園の職員であり、この赤毛猿をはじめとした複数の動物担当の飼育員である。
 赤毛の小猿はシンジの持ってきたバケツから餌を手ですくって口に押し込んでいる。不意にアスカの動きが止まった。だんだん顔が青ざめてくる。
 「また喉を詰まらせたんだね? しょうがないなあ」
 そう言いながらシンジは、アスカを抱きかかえ、水飲み場に運んでやる。がぶがぶ水を飲んだアスカは、シンジの腕から抜け出ると、再びバケツの方に駆けていった。
 「あんまり急ぐんじゃないよ。また、喉に詰まるから」
 
 アスカは食事を終えると、シンジの方に向く。そばで座って、アスカが餌を食べるのを見ていたシンジは、いつものように微笑みかける。アスカも微笑み返して、シンジの膝の上に乗ってきた。胸にすがり、そこに顔を埋める姿勢になる。シンジは何も言わずアスカの背中を毛並みに沿ってなでてやる。
 (人間だったら美少女なんだけどな・・・)
 アスカの頭部の毛は長く伸び、体に絡みつくぐらいなので、左右で留めている。その下の顔は、人間の白人種と同じ顔をしていた。青い眼をした美しい少女の顔。
 (人面猿か・・・20世紀にはオリバー君っていうのがいたらしいけど・・・)
 シンジは同僚のレイと前に話したことを思い出した。レイはどうもアスカが嫌いらしく、あまり好意的でないことを言っていた。

 「昔だったら、見せ物になってたわ・・・」
 「ここが、公開じゃなくて保護を目的としている動物園でよかったよ・・・」
 「猿には分からないわよ」
 「分かるさ・・・自分が幸せか、そうでないかぐらい」
 「・・・ここで幸せだと思ってるの?」
 「・・・そうなってほしい、幸せにしたい、そう願っている」
 「考え方は人それぞれね。碇くんはそれでいい。でも、アスカが同じように感じていたら、私はアスカを軽蔑するわ」
 「軽蔑って・・・相手は動物じゃないか」
 「碇くんはここに就職する前のこと覚えてる?」
 この唐突な問いを怪訝に思いつつ、シンジはこの動物園に来る前のことを思い出そうとした。思い出せなかった。そしてそのまま会話は途切れた。

 「アスカ、寝ちゃったね」
 こうなると胸から下ろすわけにはいかない。目を覚ましたときシンジがいないと、アスカが何をするか分からないからだ。それくらいアスカにとってシンジの存在は大きかった。
 「しょうがない。抱えていくか」
 シンジはアスカを胸に抱えたまま、次の檻に向かった。

 「シゲルにマコト。今日も元気かい?」
 二つ並んだ檻の一方には眼鏡猿が、一方には頭部の毛の長いタマリンがいた。彼らも人面猿だ。この二頭は隙があると脱走しようとするので、シンジは檻の中に入らないことにしている。
 「ほら、ご飯だよ」
 檻の鉄格子を掴んで自分を見つめる二頭の悲しげな眼をあえて無視して、シンジはそれぞれの檻に餌を入れた。
 「じゃ、後でね」
 正直言って、この二頭と顔をあわせるのは、シンジにとっても疲れる。「後」というのをできるだけ後回しにするつもりで、シンジは檻の前を後にした。
 「同じ人面猿でも種類も違えば、性格が違うからな・・・レイにはああ言ったけど、あの二頭は多分幸せじゃない・・・僕にできることはないだろうか・・・」

 「やあ、レイ。カヲルくんは元気?」
 「元気すぎるくらいよ」
 レイは感情を感じさせない声で言った。シンジは、自分と同じ、灰色の飼育服に身を包んだレイを眺める。そして動物にまったく愛情を持っていない彼女が、なぜここの飼育係をしているのか、不思議に思う。
 「やあ、シンジくん。今日も来てくれたんだね」
 ガラスの壁の向こうから、スピーカーを通してカヲルが呼びかけてきた。シンジは目の焦点をガラスの壁の奥に合わせる。壁の奥で木の枝に腰掛けて、「それ」が足をぶらぶらさせていた。すらりと伸びた手足。色素を欠いているために輝いて見える全身の白い皮膚。おまけに頭部の毛は白を通り越して美術品のような銀髪。シンジとレイを見返してくる赤い瞳。カヲルの外見はほとんど人間と変わりがない。人間離れした美しさと、体の所々でその正体を証している鱗を除いて。
 (おまけに知性があって、言葉まで操れるんだから、遺伝子検査なんてものがなかったら人間で通っていただろうなあ・・・)
 シンジは服を着ていれば、まったく健康な人間と変わりのないカヲルを見て、つくづくそう思った。だが、遺伝子が示すとおり、彼は蛇なのである。
 カヲルは微笑みながら、木から飛び降り、ガラスに近寄ってきて、透明の壁越しにシンジと向き合った。
 「どうだい? レイにも勧めてみたんだけど、食べてくれないんだ」
 そう言ってカヲルは、手に持っていた木の実を、シンジに差し出して見せた。
 「これを食べれば、脳が活性化されて、失った感情や知的能力、記憶なんかをとりもどせるんだ」
 「カヲルくん、その話はここに来る度に聞いているよ。でも、その木の実に、そんなすごい力があるなんて信じられないし、レイに食べさせる気もない。もちろん僕だって御免だ」
 シンジは冷たく言い放つ。カヲルはやれやれといった顔をした。
 「僕が他の檻のヒトたちと違ってまだ言葉を話せるのは、この木の実のおかげなんだよ。シンジくんだって、ここに来る前の記憶が甦るかもしれないのに・・・」
 それを聞いてシンジは顔をしかめた。カヲルが言ったことは事実で、おまけにこの動物園からどうやれば出られるのか、その記憶もない。ここから出たいという気持ちすら、不思議となかったが、ここはまったく外に出なくても、飢え死にの心配はないところだった。外界と繋がっているらしいパイプから、週に一度食料が送られてきて、シンジはレイと共に、それを食べて暮らしている。動物達の餌は、同じパイプから毎日送られてくる。しかし、記憶も関心もないが、おそらく外の世界と関係があるだろう自分の過去に触れられると、シンジはなぜか猛烈に不愉快になるのだった。
 「変なことばかり言っていると、その木を切り倒さなきゃならなくなるよ」
 カヲルを睨み付けながら、シンジが呟く。それを聞いたレイは、レイをよく知っている人だけが分かる程度に笑みを浮かべ、チェーンソーの用意にかかった。
 「変わったねえ、シンジくん。以前の君はガラスのように繊細な心の持ち主だったのに・・・いいよ、いいよ。もう勧めないから」
 そう言ってカヲルは、その手の中の木の実を自分でかじった。
 「じゃ、どうだい? せめて、アスカに食べさせてあげるのは」
 アスカ、という言葉に反応して、シンジの腕の中のアスカが目を覚ました。可愛らしくあくびをすると、カヲルの方に目を向け、眉をひそめる。アスカはカヲルが嫌いである。
 「ほおら、アスカ。美味しい木の実だよ」
 アスカはカヲルからはプイと顔を背け、シンジの胸にすがりつく。しかし、未練もあるらしく、ちらちらと木の実には視線を向けてもいる。
 「アスカはいい子だから、変なものは食べないよね」
 シンジがアスカの頭をなでながら言うと、アスカは頷いて、完全に木の実を無視した。アスカにとっては目先の快楽よりも、シンジがどう思うかの方が大事である。
 「カヲルくんも、アスカにはそれを薦めないこと。今度やったら、本当にその樹を切り倒すよ・・・それに、もし食べさせたら、それだけじゃすまさない。レイに頼んで、蛇らしい姿になってもらうことになるからね」
 レイは再びチェーンソーを取り出す。その顔には、はっきりと喜色を浮かべていた。
 「やれやれ、僕は君にとって、まったく好意に値しない存在なのかねえ? 分かったよ」
 カヲルは樹の下に戻ると、全身を幹に、そして枝にからみつけるようにして登っていき、葉の陰に潜り込んでしまった。一瞬、カヲルの全身が、その赤い瞳までもが緑色に染まって見えたが、それがその日シンジの見た、カヲルの最後の姿だった。

 「さてと、最後の檻にいかなきゃ・・・」
 シンジは生野菜やら生肉やらをごちゃごちゃ詰めた、平たいアルマイトの容器を抱え、シンジだけが通る通路を進み、シンジだけが、1日にたった一度その前に立つ、鉄の扉に近づいた。ここに一歩近づくごとに、シンジのうちに、原因の知れぬ気持ちが生まれる。多くの感情が絡み合ったものなので、シンジ自身にも、自分が何を感じているのか、分かったことはない。ただ、扉の前に立つ時には、その気持ちは衝動といってもいいぐらい、シンジのうちで荒れ狂う。誰にも見せたことのない表情で、シンジは容器のふたを取り、開かれたことのない扉の下部、餌の容器を押し込むための差し入れ口の鍵を開け、そこに容器をあてがうと、足で蹴り入れた。
 「ゲンドウ! ユイ! コウゾウ! リツコ! マヤ! ミサト! リョウジ! 餌だ!! 食え!!」
 シンジが、愛情の欠片もない声で怒鳴りつけるのと、鉄扉の向こうで、表現不能のうめきと叫びが上がったのとは、同時であった。
 狂喜、怒号、歓喜、失望、哀訴、嗚咽、嬌声、苦悶・・・シンジは自分の脳髄の奥底にも潜んでいる、暗い冥い闇い何かと同じものを感じ、いつものように扉に背を向け、そこを後にした。
 
 
 
 



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