無能な人
無名の人 さん


 
  2008年秋 第三新東京市郊外
 
 とうとうわたしは石屋にまでなってしまった。

 石屋と言っても、墓石などを彫る職人のことではない。
川原に転がっている石を拾って売る商売である。
第二芦ノ湖に注ぐ川の川原に屋台を構えたが、
別段行政から、この川原の石を独占的に拾う権利を与えられているわけでもない。
拾えば只のものに誰が金を払うというのか。
 それでも彼は、毎日のように、ラベルを貼った石を台の上に並べ、
前に置いたみかん箱にひじをつき、両手の指を顔の前で組み合わせた姿勢で、
河川敷の道路を行き交う人々を、赤いサングラス越しに見上げていた。
このおよそ客商売には不向きな接客態度におそれをなし、
冷やかし客すら滅多に訪れない有様だった。
恐怖を抱いた通行人が、週に一度は警察に連絡を入れ、
その度に職務質問を受けていた。
 どの警官も、一時間は不審尋問を続けた後、
彼が一応ここで露天商をやっているということを、半信半疑ながら認めた。
 そして警官は、それは冷やかし客の場合でも同じだったが、
本人は親切心のつもりでこう言うのだ。
 「他の商売にしたほうがいいですよ。言っちゃなんですが、
 拾って手に入るものを買う人がいるとは思えません」
 そうなると、彼は決まってこう答えた。
 「そこに落ちている石と、わたしが売っている石とが同じに見えるのか」
 「う〜ん、どこか違うんですか」
 「気韻だ。気品や風格が違うだろう」
 「うう〜ん、風流の方にはとんと疎いものですから」
 そう言って警官であれ、冷やかし客であれ、困ったように、
タイトルを記した石のラベルを順繰りに見ていくのがいつものパターンである。
 「野心」「愛」「出世」「喪失」「裏切り」「逃避」「後悔」「地獄」・・・。
 な、何か、売り手の人生を投影しているのでは・・・。
この辺りで相当やばいものを感じ出す。
 「買うなら早くしろ。でなければ帰れ!」
 そしてイライラした彼がついに怒鳴りつけて、
警官も、たまに来た勇気ある冷やかし客も追い返してしまうのだった。

 今日も一つも売れなかった。
 一番安い石にも五千円の値を付けている。
 元手はかかっていないから、一つでも売れればそこそこのものが食えるのだが。
 売れないどころか、いつも置きっぱなしにして帰っているのだが、
 持って行かれた例すらない。

 家賃をどうにか月遅れでも納めているから、
 何とか追い出されないですんでいるアパートに帰った。
 あいつが「おかえり」と言わなくなってどれぐらいになるだろう。
 だからわたしも「ただいま」とは言わない。

 すっかり所帯やつれした妻は、23歳であるにもかかわらず、
 41歳のわたしよりずっとくたびれ、うつぶせのまま、
 顔も上げずにわたしを出迎えた。
 「足、もんでよ」
 わたしの石が一つも売れない以上、一家の生計を支えているのは、
 紛れもなく、妻のアルバイトである。
 「朝、夕の新聞配達。
  健康のためだって言ってるけど、知ってる人には笑われてるのよ
  『碇さんの奥さんも大変ね。旦那さんがああ甲斐性ないんじゃね』って」
 わたしは一言も言い返さず、空気だけがひたすら険悪になっていった。
 「ひゅーひゅー」
 場の緊張を察したシンジが息苦しそうにし始める。
 十分な栄養をとらせてないので、やせっぽちで実年齢より幼く見える。
 劣悪な環境のためか、緊張やストレスにはひどく敏感な子どもに育っていた。
 「シンジ?」
 なさぬ仲ゆえにかえって愛情がわくのか、
 わたしと血が繋がっているということに純粋に同情心がわくのか、
 それともわたしになんの期待もしていない分義理の息子に期待をかけているのか、
 妻はこの血の繋がらぬ息子をひどくかわいがっていた。
 「ちょっとあんた、苦しがってるわ」
 シンジを胸に抱きながら、妻が言ってきた。
 さっきはうつぶせになっていたから、顔を見るのは帰ってから初めてだ。
 泣きぼくろに目が止まる。髪もいつか染めてみたいと言ってたっけ。
 駆け落ちして以来、一度も散髪屋に行ったことがなく、
 わたしとシンジの髪は妻が、妻の髪はわたしが切っているような按配だが。
 「ねえあんた、病院に連れて行くわよ」
 一緒になった当初は、お互い、貧しくともやっていけると信じていた。
 妻はわたしを「あなた」と呼ぶだけの余裕もあった。
 しかし生活の中で二人ともすり減っていった。
 「いつもの発作だ。問題ない。だいたい金がない。
 つけで診てくれるところももうあるまい。すぐに治まるだろうものを、
 診療代をとられるだけだ」
 事実を言ったまでだ。
 「・・・あんたには失望したわ」
 そう言って妻はシンジを抱いたまま出ていってしまった。
 このまま戻ってこないかも知れないとも思ったが、
 そうだとしても自分には引き留める資格がないと考え、
 後は追わなかった。

 ガンガン。
 玄関のドアをノックする音が響いた。
 「いるんだろう、碇? 入るぞ」
 わたしを笑いに来たのか、裏切り者が。
 「久しぶりだな」
 「何の用だ、冬月」
 「そうつんけんするな。それに今日はわたしだけじゃない」
 「そうですよ。久しぶりね、碇さん」
 「赤木博士・・・」
 
 帰ってからとやかく言われたくない。わたしは一応二人に茶を出した。
 ガス代を払えるかどうか分からないので、できるだけ弱火で湯をわかした。
 「・・・ぬるいな」
 「ああ」
 さすがにわたしも同感だった。

 「今日来たのは、わたしたちが現在進めている計画のことです」
 「計画と言っても、わたしがいなければ完遂できないものは、もうないはずだ。
 それに、今さら実現させたい計画もない」
 「『人類補完計画』のことをおっしゃっているのでしたら、
 確かにあなたの本当の目論見が分かった時点で中止されました。
 そしてわたしは娘を失いました」
 わたしは博士から顔を背けた。
 「わたしをなじりに来たのか?」
 「いいえ、ただわれわれの計画は『人類補完計画』だけではないということを
 思い出していただきたいのです。『アダム計画』と『E計画』は現在も進行中ですし、 
 『使徒』を迎撃する準備も進めねばなりません」
 「それで?」
 「あなたの思いがどうあれ、シンジ君は間違いなくエヴァ初号機のパイロットとして、
 早晩ネルフに迎えられるだろうということです」
 「!」
 「初号機に眠るユイさんも、そう望んでいるでしょう」
 「黙れ! ユイを甦らせるために、ユイの望みを叶えるために、
 わたしが考え出した計画を潰しておいて・・・」
 「そのことで恨んでいるなら、それはわたしが引き受けよう」
 「裏切られたときのわたしの気持ちがおまえに分かってたまるか!」
 「だが、止めないわけにはいかなかった。
 おまえの計画が全人類に犠牲を強いると知ったかぎりはな」
 「そのために計画はついえ、わたしはすべてを失って、
 シンジとともに逃げる他なかったのだ」
 「おまえを止めるためだったとはいえ、
 他にもやり方があったのではないかと、つくづく思うよ。
 だがあの時のおまえの力は余りに強大だった」
 「わたしは・・・わたし自身はただの人間なんだ・・・」
 わたしは、シンジを抱え今の妻とともに、安心して住める場所もなく、
 さまよい歩いた日々を思い出した。
 「この男は妻を殺した疑いがある!」「妻を実験台にしたんだ!」「人殺し!」
 「あの日々、地獄を味わったのは、わたしだけではない。シンジもリツコも・・・」
 ユイを失った半年後、
 わたしがネルフを追われた日、預金通帳とカバン一つでわたしについてきたのは、 
 当時19歳だったリツコだった。
 彼女はわたしと彼女の母、赤木博士との関係を知った上で、わたしとの駆け落ちを選んだ。
 あの時の彼女の決断は若気の至りだったと言えよう。
 わたしのほうから「帰れ」と言うべきだったのかもしれない。
 自分のために一人の女を犠牲にしたと言われても一言もない。
 ただ、あの時のわたしには、彼女を帰し、
 シンジを守って孤独に生きていく勇気はなかったのだ。
 「碇さん、今さら娘を返せとはいいません。
 ただシンジ君のことは憶えておいて下さい」
 「娘を奪われた腹いせに、わたしの息子を奪う気か?」
 「・・・そうかもしれません。しかし、これは人類のためです」
 
 二人は立ち上がるとそのまま出ていった。
 わたしは流しに茶碗を持っていった。
 水道のメーターが上がらないように、一滴ずつ水を落として、たらいに溜める。
 冬月の使った茶碗は手早く洗ってすませた。
 赤木博士、いやナオコの使った茶碗には、口紅がついている。
 口紅というのはおかしいかもしれない。
 紫色だからだ。
 ばあさんはしつこいとか思っていたが、
 それでも結構いい女だったな。
 あの唇だけでなく、あの体すべてがかつてはわたしの・・・

 夜になってから、妻がシンジを抱いて帰ってきた。
 シンジはもう落ち着いたらしく、妻の胸の中で寝息を立てている。
 「治まっただろう。予定通りだ」
 「何言ってるのよ。病院で診てもらったのよ、
 もう終わりだってとこ、引っぱり出して。
 月末までにどうしても、18,000円要るようになったわ」
 「い、いちまんはっせんえん!?」
 「シンジの命には替えられないでしょう。だいたい、あんたが・・・あんた!」
 「な、なんだ」
 「今日、母さんがここに来たのね!」
 ぎくっ! 
 「な、何を言っているのだ?」
 何の話をしたか知られてはならん。
 「隠しても無駄よ!」
 「かかか隠してなどどど」
 「とぼけないで!」
 「なぜ、なぜ、なぜ赤木博士がこっ、こんなところに・・・」
 「しらを切るつもり?・・・・・・・母さんが来てなかったら・・・
 何であんたの唇に母さんの口紅がついてるのよっ!」
 「うぐぇっ!?」
 「無様ね・・・・・・・
  あんた・・・・・・・
  母さんと寝たのね!?」
 「ち、違う、誤解だ・・・」
 こ、これは、ナオコが使った茶碗の口紅跡を見ているうちについ・・・。
 「誤解も、六階もあるかいっ!!」
 
 翌日、彼はいつものポーズで川原に腰掛け、客を待っていた。
しかし、サングラスはひび割れ、顔中青あざと、ひっかき傷だらけのその姿は、
いつにもまして、通行人の恐怖の的となったという。

 夕方、わたしは、そろそろ帰ろうか、しかし帰り辛いな、
 いっそ野宿しようか、などと考えていた。
 「父さん」
 「ん? シンジか。どうした?」
 「迎えに来たよ」
 昨晩、わたしの悲鳴で目を覚ましたシンジは、
 リツコがわたしを殴り、引っ掻いているのを見て、再び発作を起こした。
 リツコはシンジを抱えて医者に飛んでいき、
 結局月末までに36,000円用意しなければならなくなった。
 シンジにしてみれば、あんな目にあったわたしが帰ってくるか不安になったのだろう。
 「母さんが迎えに行けって」
 「そうか」
 それが本当か、嘘かはどうでもいい。
 わたしは、この子に安らかな生活を与えられない自分を、ひたすら恥じた。
 「いい子だ」
 わたしたちは連れだって、河川敷の道を歩く。
 「父さん」
 「ん?」
 「ゲドウってどういう意味?」
 「外道とはな・・・なぜそんなことを訊く?」
 「母さんが言ってたんだ。父さんは外道だって」
 「・・・そうだよ。外道というのはな、わたしのような人間のことだ」
 夕焼け空を飛んでいく親子ガラスの鳴き声が、
 わたしの悪口を言っているように聞こえて仕方がなかった。

      



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